でんわ

香久山 ゆみ

でんわ

 俺には三分以内にやらなければならないことがあった。

 まるでウルトラマンだ、なんて馬鹿なことを考えている暇もない。三分で彼女との通信は途絶えてしまう。それまでに、助けを求める彼女の現在地を確認せねばならない。


 うららかな平日の昼下がり、事務所にはのんびりした空気が流れていた。

 先程までテレビの情報番組を流しっぱなしにしていたが、今日は特段の事件もなさそうなので、電源を切り、FMラジオを掛けている。昼食のカップ麺だけでは口寂しくて、淹れたてのコーヒーとともに貰い物の菓子を摘まみながら、本日発売されたばかりの漫画週刊誌を読んでいた。窓辺では、最近うちに来たばかりの黒猫が体を丸めて眠っている。

 なんとも平和だ。というと聞こえはいいが、要は仕事の依頼がないのである。

 プルルルル!

 優雅な時間は、一本の電話によって切り裂かれた。

「はい、こちら霊能力事務所で……」

「……さん! わた……おりで……!」

 のんびり電話口に出た俺が話し終えないうちに、相手が話し出した。

 まったく何を言っているのか分からないが、何やら切迫した感じは伝わってくる。

「ちょっと待ってください。通話状況が悪いのか、何を仰っているのか聞き取れません。もしもし、聞こえていますか。こちら、聞こえません」

 一方的に喋り続けている相手を制するように、ゆっくりはっきりと言葉を伝える。

「……さん! わた……、詩織で……」

 こちらの言葉はちゃんと相手に届いているのか、相手も改めて名乗り直した。やはり音声状態は悪いが、今度はなんとか聞き取れた。その名前にも、声にも覚えがある。

「詩織さんですね」

「はい、そう……す」

 知り合いの書店主の詩織だ。特に電話を受けるような約束もしていないし、断片的に聞こえてくる声のトーンから、緊急事態であろうことが察せられる。

 改めて、ゆっくり喋るよう指示して、続きを促す。

「……ま、こうしゅ……、じゅ……、たすけて……、ここ……」

 全然分からない。

 けれど、「たすけて」と聞こえた。受話器を握る手に力が入るが、聞き取れないことにはどうしようもない。

 もう一度繰り返すよう伝える。もどかしそうな詩織の口調が通話口から伝わってくる。

「……ま、こうしゅうでん……、じゅうえんだまいち……しか……ら、さんぷ……しか……」

「今、公衆電話から掛けている? 十円玉が一枚しかないから、三分間で通話が切れてしまうっていうことですね?」

「そ……!」

 返事は聞こえなかったが、声のトーンでその通りだということが知れた。

 電話機のディスプレイを確認する。通話時間が表示されていて、すでに一分以上経過している。

 そうだ、発信者番号を検索すれば、どこの公衆電話から掛けてきているのか分かるのではないか。一瞬そう思ったが、すぐに頭を振る。だめだ、初期投資をケチったせいで、うちの電話機には番号通知機能が付いていない。「客商売なんだから付けておいた方がいい」という友のアドバイスに素直に従っておけばよかった。よし、あとでちゃんと契約しよう。とか考えている場合じゃない。

 一体何が起きているのかは分からないが、詩織が警察でも消防でもなく俺の事務所に電話してきたということは、幽霊絡みのネタだろう。

 僅かな時間に現在起きている状況を聞き出して、その解決策を提示するのは難しい。

 ひとまず、詩織の現在の居場所の特定に集中することにした。

 近場なら駆けつければいい。万一遠方であっても、場所がはっきりすればこちらから連絡し直す手立てもあるだろう。

「詩織さん、今どこにいる? 場所を教えてください。向かいますから」

「……ま、……いれ……」

「え、……トイレ?」

「ちが……!」

 違うらしい。

「……てを……かい……しな……すすむばっ……の……れ」

「え、なに? 全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ?」

「……がう!」

 違うっていうか、もう何言ってんだか分かんない。先程までより雑音が強くなっている気がする。

「……ちょ……の……んちょうめ……で……」

「え、待って。今住所言ってます?」

 そんな長文とても三分で聞き取れない。いや、もうすぐ残り一分だ。

「詩織さん、今外にいますか? それとも建物の中?」

「……なか……」

 俺が「建物の中」と言った時の反応からも、どこかの建物にいることは間違いない。公衆電話を使用していることから、知人宅などではないと考えられる。なんらかの施設にいるのだろう。それがショッピングモールなのか学校なのか遊園地なのかは分からないが。

「その場所の名称を教えてください。簡潔に、ゆっくり、はっきりと」

 電話の向こうで詩織が頷く様子が見えるようだ。深呼吸する感じが伝わる。

「……ま……え……」

「もう一度!」

「ひ……ま……え……」

「いいと言うまで、何度も繰り返してください!」

 くそっ、どうなってんだ。音声は途切れ途切れだし、ザーザー雑音は酷い。かろうじて聞き取った文字をメモ用紙に記していく。

「ひ……ま……、……ま……りえ……、ひ……ま……り……、……ま……えん、……がが……」

 まりえ? いや、何とか園? ヒマワリ園? 手元で検索すると、幼稚園からペットショップまで何百件とヒットがあるが、近場には一軒もない。毎月第三火曜日の夕方には詩織の気に入りのハードボイルドのレーベルの新刊が入る日で、この日の荷受けと品出しは必ず詩織自身がするのだと以前聞いたことがあるから、夕方には店に戻れる距離にいるはずだ。

 詩織は懸命に繰り返すも、ノイズがどんどん酷くなり、肝心の声すら届かないようになってきた。あと三十秒。

 トンッ。

 ディスプレイに向けた視線の先に、黒い毛玉が落ちてきた。

 騒動に目を覚ましたのか、窓辺で寝ていたはずの黒猫がジャンプしてテーブルの上に飛び乗ってきたのだ。

「ニャー」

 何か言っているが、何を言っているか分からんし、今はそれどころではない。うるさいだろうが、今しばらく我慢してくれ。

 と、猫が前脚を上げて、それをためらいなく電話機に向かって下ろした。

「え、ちょ、まっ……」

 電話を切られる! 咄嗟に受話器を持った手を電話機の上に差し出す。その手の甲に、猫の肉球がぷにっと乗っかる。と、通話口からもくもくと薄い煙のようなものが出てきた。その黒い煙からザーザー雑音がする。お察しだ。

 通話の不具合の原因は、電波障害でも混線でも機器故障でもなかった。霊が、通話の邪魔をしていたのだ。本体は向こうにいるのだろう、こちらからは黒い煙としか見えないが。ザーザー何か言っているが、俺には幽霊の言葉は分からない。ただ視えるだけだ。

 肉球に押されて飛び出してきた黒い煙が、また受話器の中に戻ろうとする。それをたしっと猫が前脚で押さえつける。黒い煙はじたばたするも取り押さえられて動けない。

「ニャー」

 呆気に取られている俺に、猫が視線を向ける。はっ。これは何を言っているか分かった。電話! 残り十秒!

「もしもし、詩織さん?!」

「ひだまりえん!」

 雑音が切り離された通話は、はっきりとこちらへ届いた。

「ひだまり園ですね! すぐ向かいます!」

 そう伝えると同時に、三分経過して通話は切れた。切電とともに、黒い煙もすうっと消えてしまった。

 ひだまり園なら隣町だ。詩織の書店からも自転車で十分程の距離。念のため検索もしてみたが、まずあそこで間違いない。

「サンキューな。ちょっと出てくるから、留守番よろしく」

 猫の頭を撫でると、ゴロゴロと気持ち良さそうに目を細めた。

 もしかしたらついてくるかと思ったが、あくびを一つすると、また元の窓際の特等席へ戻って行った。いくら霊力が高いとはいえ、猫を頼りにするなんて、俺もヤキが回ったもんだ。

 気合いを入れ直し、事務所を出発して現場へ向かう。

 あいつがついてこないってことは大した幽霊ではないに違いない、なんて考えながら。

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