ちょっと地獄まで彼女に会いに
@Jamnutta_P_Verca
第1話
胸にかかる重みで目が覚めた。愛猫のアポロが毎朝乗ってくるいつも通りの感覚。全身が茶色で鼻の先のピンクが目立ったので付けた名前。
左手でアポロを撫でながら、右手で枕元のスマホを指紋認証で開く。起き上がりながら、ふと違和感に気づく。セミの声がしない。夏真っ盛りに?
起き抜けで思考を放棄しながらも右手は習慣通りにニュースアプリを開き終えていた。雑然と並ぶ見出し。見慣れない、物騒な単語が並んでいて違和感が徐々に膨らむ。「通信不能」「破壊」「すべて」「東京壊滅」・・・・・・
記事を適当にピックアップしながら、徐々に覚醒する頭が内容をまとめていく。
曰く、『どこかからやって来たバッファローの大群が、猛烈な速度で東京を壊滅させながら、数と範囲を広げている』らしい
二度寝を検討した。これが夢なら、セミの声がしないのも頷ける。アポロを撫で続けながら
だが、意識を手放せなかった。頭はこれが現実だと理解していたし、それ以上に『この現実は自分のせいだ』と直感していた。
ちょうど一年前、婚約していたバッファローを殺したからだ。彼女が僕を殺すために、魔法の力で地獄から舞い戻ってきたのだろう。
・・・・・・・・・・
その頃の僕は、女性に愛を与え、その見返りに金銭を受け取り生活している人間だった。
なかなか関係が長続きしないのは悲劇の一つだった。
悲劇のもう一つに、いつも相手の女性の家族や友人なんかに、結婚詐欺だなんだと罵られることがあった。それは事実とは全く異なっている。お互いにいつだって真剣に愛し合っていたからだ。
僕が資産の無い女性がタイプじゃなくなってしまうってだけで、愛する人の友人とはいえ、そこまで非難される覚えは無い。
その時は、今まで付き合っていた女性と別れ傷ついて、深夜のギラギラと眩しい繁華街を歩いる時だった。付き合い始めた頃はいつだって、いつまでも愛せると信じているのに、しばらくすると、どうしても愛せなくなる。恋愛対象から外れてしまう。この悲劇的性質にうんざりしていた。
しばらく歩いていると、大柄でたくましい人影にぶつかった。いつも通り、相手に殴りかかり、ぶつかりあい、体の痛みで心の痛みをごまかすつもりだった。
視線を上げる。
バッファローが、立っていた。
意味がわからなかった。幻覚を見るほど傷ついているとは思えないし、そうだとしてもあまりに脈絡というものが欠けすぎている。
バッファロー?たまに自然ドキュメンタリーなんかで見たことはある。群れをなし、四足歩行で草原を悠々と移動する、特徴的な角を持つ巨大な牛。だが、目の前のバッファローは異常なことに、(繁華街にバッファローがいることを抜きにしても)二本の後ろ足で仁王立ちしていた。身長およそ3メートル程だが、2メートルを越える長身にあったことが無いから自信がもてなかった。
「あら、アタシがアタシに見えるのね」
その口から、巨体に似合わず、草原を吹きわたる軽やかな風のような声がした。普通のバッファローの鳴き声ともかけ離れていた。サバンナでもこんな爽やかな風が吹くのだろうか。
自分のどうでもいい連想で軽く吹き出してしまった。
「アタシがアタシに見えても笑う人を見たのなんていつぶりかしら?」
頭上からは相変わらず涼やかな声がする。
「キミみたいな美女を前にしたら、確かに普通の男なら我を忘れて見とれるかもね」
「アナタ、悪そうな人ね」
今さら気づいて辺りを見渡す。二足歩行するバッファローの存在を気に止める人は僕しかいないようだ。
「アタシね、魔法が使えるのよ」
不思議がる様子に気づいたのか彼女が言う。
「例えば、魅了の魔法とか?」
僕はいつも以上に軽口で答えていた。心の痛みは嘘のように消えていた。
「自分が使ってる、の間違いじゃなくて?」
彼女はコロコロと鈴のように笑いながら言う。
この人なら死ぬまで愛せると、既に信じることができていた。
こうして僕たちは生活を共にすることにした。始めからそうなることが決められていたみたいに自然にことは進んだ。
僕は自宅というものがなかったのでもっぱら彼女の家にお邪魔していたが、これがすごかった。広い上に、入り組みすぎているのだ。外から見たときは何の変哲もない一軒家だが、いざ入ってみるとウィンチェスターハウスか迷宮のように広く、入り組んでいる。
ある日「まるで迷宮みたいだ」と素直に伝えると、彼女は寂しそうにうっすらと微笑みを浮かべた。
次の朝、彼女のベッドで目を覚ますと、足枷がはめられていた。それに付いた鎖の先は、床の金具に固定されていた。
「これ、趣味?」
ベッド脇の彼女の気配に、いつも通りスマホのロックを解除しながら聞く。こうも落ち着いているのは、彼女が突然特殊なプレイに及ぶことも珍しくなかったからだ。そういうときの彼女は、なにかを試すような、探すような様子だった。
彼女からの返事が無い。この段階になってようやく気配の違和感に気づいた。彼女の方に目をやる。
「アタシね、魔法が使えるの」
彼女はいつも通りの軽やかな声で言った。見た目はいつも通りのバッファローだが、存在の密度が数度上がったような気がした。
「そして、ここは実際に迷宮なの」
「『あなたを捕らえて離さない』なんて言われるのは久しぶりだな」
言いながら、熱を持った口の中が乾いていくのを感じた。
「アタシは初めてよ」
そう言って彼女は部屋から出ていった。一瞬の恐れを跡形もなく引き連れて。
何日かは意外なほど穏やかに過ぎていった。鎖はとても長く、そして軽く、移動するには特に不自由しなかったし、そもそも家の中で迷子になって何日か外に出られないことも元々珍しくなかったからだ。迷子になってもどこかしらの扉を開ければなにかしらベッドやソファや台所にたどり着くし、中々そうならないとどこからともなく彼女が現れ、手を引いてくれた。
「キャンプに行きましょ」
だから彼女が急にそう言い始めてもそんなに驚かなかった。というか、もう何が起きても驚かないと思っていた。
「いつ?」
「今から」
僕は改めてスマホを確認した。
「時期が悪いんじゃないかな」
「天気のことなら心配しないで、雨の方が都合がいいし」
最初に比べると交わす言葉は減っていたが、その暖かさの密度が上がっただけの話だった。愛というものが衰えることを忘れたみたいだった。
「アタシね、魔法が使えるのよ」
名前もわからない山のどこだかわからない獣道を登りながら、息一つ切らさないまま彼女は言った。明らかに整備されたルートではなかったが、彼女は歩き慣れているようだった。
「それを、聞くのも、これ、これまでで、30回目、だね」
対する僕は虫の息だった。元々歩き慣れていない上、獣道の登山は人生初だった。彼女の手を借りながら少しずつ上っていた。
家を出てからの彼女と目が合わないことが気になり始めた。
「そう、そして、なにかを得るには、なにかを捧げないといけないの」
ふっと
真ん中には石造りの、人一人が乗るような大きさの台がぽつねんと鎮座していた。
「つまり、なにを、?」
必死に呼吸を整えながら聞く。地面からは、微かに血と絶望の匂いがした気がした。
「愛する人の命とか」
パァン、とテレビなんかでは聞き慣れた、実際には聞き慣れない音がした。それは彼女が僕を撃ったものだ、と思った。そうされることにも異存はなかった。彼女をまだ愛していたから。
だが違った。撃たれたのは彼女の方だった。
彼女は胸元から流れる血をしばらく見つめていた。たまにする、なにかを確かめるような視線だった。
もう何発か銃声が聞こえ、彼女の体は大きな音を立て、僕のすぐ隣に倒れ込んできた。鼻に濃い血と土埃の匂いが届いた。
身長差の影響で、こんなに近く、明るいところで彼女の顔を見るは始めてだった。
「アタシ以外を愛したら、許さないからね・・・・・・」
こんなにも熱を込めて僕を見てくれていたということを始めて知った。
回りからがさがさと人の気配がした。目を向ける。猟友会の方々が出てきた。だから時期が悪いと言ったのに。
彼女の死体がどうなったのかは知らない。どうやって帰ったのかも覚えてない。ただ、彼女の家だったところが、自分の家だったということを突然思い出した。そこに建っていたのは、何の変哲もない、広すぎも狭すぎもしない、全く普通の二階建ての一軒家だった。今もそこに暮らしている。
・・・・・・・・・・
壁に掛かった時計を見て、ノスタルジーに耽っていた時間を測る。約30秒。
僕はアポロのために部屋に転がしてある毛糸玉を拾って部屋を出た。胸からするりと降りた彼女は音もなく着地した。
糸を何重にも束ねて固くしてから、階段の手すりと首とを結びつける。このまま一階に向けて飛んで彼女に会いに行くつもりだ。そうして彼女を説き伏せれば、あの法外なバッファローの群れも消してくれるだろう。ただそれだけだが、やはり緊張した。
彼女は僕の前に、僕と同じように何人も人を殺しただろうから地獄に行っただろう。僕も自殺をすれば、地獄に行ける筈だ。人類愛なんて
にゃあと聞こえて視線を向けた。アポロがいた。
それで気づいた。女はやっぱり嫉妬深いな。
猫でも浮気になるのか。
僕は飛んだ。
ちょっと地獄まで彼女に会いに @Jamnutta_P_Verca
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