これは発車3分前に到着する話
@ihcikuYoK
これは発車3分前に到着する話
***
彼女には三分以内にやらなければならないことがあった。
――2分46秒。ギリギリセーフ。
なにも人に急かされたわけでも、時間に余裕がないわけでもなんでもない。
“朝、目覚ましが鳴ってから布団を出るまでの時間を3分以内にする”と、自分で勝手に決めているのである。掛け布団と共に、心地よいぬくもりに戻りたくなる気持ちをはねのけ、前夜に用意しておいてた着替えに手を伸ばした。
要は、ただのマイルールだ。
「おはよ」
「はよぅ」
階段を下り洗面所の引き戸を開くと、弟が寝ぼけ眼で歯を磨いていた。元野球部なのでどちらかというと朝には強いはずだが、これはきっと、いつもの夜更かしが効いているのだろう。
どうも、最近また彼女ができたらしい。夕飯後は早々に自室に籠り、風呂とトイレに入るとき以外は携帯電話片手にいつまでもSNSでやり取りをしているか、テレビ電話をしているかのどっちかだ。仲のいいことである。
体を入れ替え場所を譲られ、軽く礼を述べありがたく洗面所の前に立つ。手早く顔を洗い、ざっと拭う。掌に500円玉大の化粧水を垂らし、いつもどおり適当にパッティングしていると、弟に肩を掴まれた。
「、ほほへふ」
「はぁい」
強引に割り込まれてしまったが、まぁ仕方ない。もともとあっちが先にいたんだし。気を取り直し、後ろから乳液の瓶に手を伸ばす。弟は軽く口をゆすぎ終えると、口元を拭いながら鏡越しに手刀を切った。
「あぶなかったー、ありがと」
「いいさぁ、後から来たの私の方だし」
弟は私のことを、わりといい姉ちゃんだという。
どうも世の弟たちは、姉なる存在にパシリにされたり八つ当たりをされたり、色々と虐たげられているらしい。友達連中からそういった話を数々聞かされた弟は、まぁまぁびっくりしたらしかった。
「話聞いてたら、うちの姉ちゃんは結構いい姉ちゃんなのかもって思った。オヤツもいつもちゃんと半分くれたし」
母からの『はんぶんこにして食べてね!』の書き置きをいつも私は忠実に守り、子供のころからきっかり半分にわけて食べていた。弟が友人たちから聞いた話によると、世の兄姉は親の目がないのをいいことに下の子より自分の取り分を多めにしたり、なんなら全部食べられてしまうこともあるのだそうだ。
「ふぅん。変なの」
と言うと弟は頷き、
「だよね。そんな姉ちゃんがほんとにいるんだね、漫画の中だけかと思ってた」
それともかわいい弟って世の中に俺だけなの? と、こちらを見もせずおめでたいことを嘯いた。高校生にもなって、それも180センチを越えてお前はまだかわいいつもりでいるのか。
鳥の雛よろしく当たり前のような顔をして後ろをついてくる、5つ下の弟のことを幼い頃はそれなりにかわいがっていたものだが、ここ数年は図体ばかりデカくなって何ひとつかわいくなくなった。
身長を越されたのは、弟がまだ中学生のときだ。学校の友達が誘ってくれたんだ、とはしゃいで野球を始めたときから、なんだか嫌な予感はしていた。
もう本当に、あっという間に抜かされた。
なにせ毎朝顔を合わせるたびに、やつの身長が伸びているのだ。角度を上げて仰ぎ見るような形になっていく弟を、いつまでもかわいいと思えるほどこちらの感性は甘くできていない。
息子とキャッチボールをするのが夢だった父は、彼の放つ球に早々に対応できなくなりちょっと落ち込んでいた。恵まれた体格もあってか弟はエースピッチャーにまで成り上がり、そのつもりがなくとも放つそれは重めの剛速球となり、素人が思うキャッチボールにはとても似つかわしくない球になってしまっていたのだ。
デカい弟は野球を辞めてから、周りの心配をよそに「いっぺんやってみたかったんだよ」と、髪を伸ばして明るく染めてみたり夜更かしをしてみたり彼女と買い食いをしてみたり、それなりに楽しそうに暮らしている。
「優しい姉ちゃんなんか絶滅危惧種だぞって、なんか皆に散々言われたんだけどさ。
でも姉ちゃんが真面目すぎて、昔から俺がサボってるみたいに言われるのがさー。これはこれで、ちょっと損してる気もするんだよね」
姉ちゃんが悪いわけじゃないんだけどさ、と述べた。
子供のころから四角四面な性格の私は、弟にとってちょっと窮屈な存在のようだ。
歩道のない場所は雑草がぼうぼうでもなんとかして白線の内側を歩き、中学の頃は『靴下にはワンポイントの刺繍もついていない、真っ白な学生らしいものを』などという、教師や先輩さえ気にしていない詰まらない校則すら守っていた。
それらをいちいち守っていたのは、別に生真面目さなどではないと思う。
人からはそう言われがちだが、そんなつもりはないのだ。
義務教育を受けていた頃だって、自宅ではイワシの姿がデカデカと縫われた変な靴下を愛用していたし、校則で既定のないハンカチに至っては、どこか鳥獣戯画を思わせる、猫の刺繍が楽しげに踊るふざけたシリーズものを愛用していた。
なのに、真面目の一言で片づけられることに違和感があった。
――決められたことは守らないと気持ちが悪いから。
それだけなんだけどな、と思う。決まりを破ると背中がモゾモゾして、誰に何を言われるでもないのにものすごく居心地が悪くなる。だからしないだけ。そういう性分なだけであった。
もし『金髪にすること』と校則で決まっていたら、(えぇ……、嫌だなぁ……)と思いながらも私はブリーチ剤を手に取っただろうし、もしくはそういう校則のない学校への転校を考えたと思う。
私を律するのは、『どこかであらかじめ決められていること』、もしくは『なんとなく自分がそうすると決めてしまったこと』の2点だけである。
弟は、あっ、そうだ! と声を漏らし、振り返って戸口にもたれた。頬に乳液をハンドプレスしていると、鏡越しに弟と目が合った。
「姉ちゃん、休みに遊び行くってなったらどこがいいと思う? できれば市内で、そんでできれば駅近で」
「新しい彼女と?」
そう、とホクホク顔で頷いた。
「適当に電車乗ればいいんじゃない? ……あんまりこういうこと言いたくないけど、前の彼女と同じとこ行ったって言わなきゃバレないんだし」
「それだけは絶対やめてねって、やんわり先に言われちゃった」
まぁそれもそうか。気分のいいものではないだろう。
自分が高校生の頃に遊んでいたような、ボウリングだとかゲームセンターだとか、ショッピングセンターに入っていたドーナツ屋だとかは、都市開発の波に押し流され、すでに建物ごと無くなってしまっていた。寂しくも懐かしい思い出だった。
「んー……、映画行って帰りに海見るとか?」
この辺りでは、定番中の定番のデートコースである。というより、この田舎で2~3駅以内で帰ってこようと思うとそれくらいしかできることがない。
「それはもうしたんだよなぁ」
「そっか。いまの彼女と? 楽しかった?」
「前の彼女と。楽しかった」
「じゃ、ダメだね」
と口から漏らすと、そうだよね、と遠い目をした。
学生の時に男の子と行って楽しかったとこなんかあったっけ……、と遠い記憶をさらった。学生の頃の外出なんて、どこに行くかより、誰と行くかの方がよっぽど大事だろうと思う。
毎日しゃべりまくっているくらい仲がいいのだから、よほど嫌な思いをしなければ楽しんでくれるだろうに。弟なりに、彼女に喜んでほしいのだろう。
「そうだ、展望台は? 駅近じゃないけど景色いいよ。上にカフェあるからアイスとかケーキとか食べられるし、天気が良ければどこ撮っても写真映えするし」
「へぇ、よさそう! 山の方は行ったことないや」
「前の彼女とも?」
「どっちとも行ってない。ていうかその確認いる?」
んーん、全然いらない、と述べながら髪を巻いた。
――うん、いい感じに左右対称。
うまくいかなかったときは、そこから適当に結うことにしている。最近ようやくまともにできるようになり、結わずに外に出られるようになってきた。
化粧ポーチを引っ張り出し、下地だコンシーラーだとあれこれする私の後ろで、弟は寝巻のまま欠伸をした。
「展望台って4駅向こうだっけ。そこから遠い?」
「3駅だよ、けどそこからバス。で、上までロープウェー」
「ロープウェーあんの!?」
ぜったい乗りたい、と目を輝かせた。
乗り物が好きなのは結構だが、彼女が高所恐怖症じゃないか聞いとくんだよ、と述べると慌てて頷いた。次いで思い出す。
「登ったとこそんなに道舗装されてないから、彼女にヒールは履かない方がいいかもって言っておいた方が……」
「? なに?」
悩んだ。
「……いや、あんまりあれこれ言うのもどうなのと思って。『前に誰かと行ったの?』とか『じゃあ誰に聞いたの?』とか、『……えっ、お姉ちゃんに言われたの? キモ……』ってならない?」
「?? そう? 足痛い云々、普通にありがたい助言なんだけど」
気にしすぎと暗に言われたが、そうはいってもこういう性分なのである。
せっかく仲がよさそうなのに、私があれこれ言ったせいでシスコン扱いされてフラれたら目も当てられない。かといって黙っておいて、張り切ってオシャレをして行くであろう女の子の足を痛めさせるのも可哀想だ。
「でも3駅かぁ……。俺にも免許があればなー」
私が運転免許を取ってから、ことあるごとに弟はそう言う。「いいなぁ。どこにでも行けるじゃん」と言う。
だが、実際私が乗るのはせいぜいコンビニやスーパーくらいのもので、ほとんどペーパードライバーのようなものである。遠出なんかしたことがなかった。
「高校生のうちは無理でしょ」
ゴリゴリの校則違反だ。
このあたりの高校では、就職予定の人間以外は基本的に教習所に通うことも禁止されている。免許取得にテンションが上がり、友達と楽しくドライブからの自損事故&カーブミラーが真ん中からポッキリ! みたいなケースもままあるのだ。
学校としては、卒業するまでは大人しくしておいてほしいのだろう。
「車はまだわかるけど、バイクもダメってひどくない? ……黙って取って黙って乗ろかな」
「こら」
冗談ーと笑っていたが、この子は本当にやりそうで怖い。
子供の頃も、なにか大人しいなと思ったら、興味津々な顔で危ないことをする直前だったりして慌てたものだ。
「……運転なんてそんないいものでもないよ」
「そ? めちゃくちゃいいじゃん」
どこにでも行けるし、好きな音楽も聞き放題だし、と力強く頷いた。
どこかに行きたくて取ったわけではなかった。
もう数年で就活が始まり、卒論だなんだとどうせ忙しくなるのだから、その前に取っておこうと思っただけだった。両親から「どうせボロボロだし、練習に乗っていいよ」と言われた軽自動車に、たまにおそるおそる乗って駐車場が広めのスーパーに行って、車の少ない遠くの方で駐車の練習をしてみるくらいだ。
実際、運転はあまり得意じゃなかった。
運転が、というより言外のルールが多すぎて苦手なのだ。あれこれと交通ルールとして決まっているのに、みんな当たり前のように制限速度を超えてその辺を走り、ローカルルールが蔓延る初見殺しの道まである。
向いていない。明らかに。頭の固い私には。
極力運転したくないし、知っている道を知っているルートでしか走りたくない、というのが正直な感想である。
数日のち、それは嬉しそうな顔をして「ロープウェー乗ることになった!」と報告された。
そこは、「展望台へ行くことになった!」じゃないの、弟よ。
***
――2分8秒。
いつも通り布団をはねのけ、前夜に用意しておいた着替えに手を伸ばしたが、そこにはなにもなかった。そうだそうだ、今日は休日だった。
のんびりとその場で伸びをする。
カーテンの隙間から、晴れやかな陽光が差し込んでいた。大学生活とて楽しいが、それでもやっぱり、なにもない休日の多幸感といったらない。
いつも通り階段を下り洗面所の扉を開くと、そこに弟はいなかった。
顔を洗いながら、(そういえば今日はデートの日なんだっけ)と思い出した。リビングの方角から、まだ私が2階にいると勘違いしている母の張った声がした。
「ヒカリちゃーん、ついでにユウくんも起こしてー!」
――え。
「、ちょっと。ちょっとちょっとちょっと、ウソでしょ」
「あれ、一階にいたの?」
おはよう~とののどかな声に、おはよ! と返しながら階段を駆け上がる。なかば殴るように三回ノックし、返事も待たず開け放った。
机に突っ伏し、しっかりと寝落ちていた。
思わず首根っこを引っ掴んでいた。
「~~起きてほら! なにしてるの!?」
「は? え、えっなに……?」
瞼がほとんど開いていない。デカい図体を必死で揺さぶった。
「彼女と遊ぶの今日って言ってなかった?? なんでまだ寝てるの早いんじゃなかったの? 何時に会うって??」
一瞬で真顔になり、そして真っ青になった。
「、やばいやばいやばい、ウソだろアラーム止まってた!」
「約束は何時なの、電車は何時のに乗るの」
「7時45分発に乗って」
2駅先が彼女の最寄り駅だからそこ集合で、と言いながら固まった。
現在7時10分を過ぎたところ。
そしてうちから駅まではどんな健脚でも自転車で30分はかかり(なにせかなり急な上り坂だ)、田舎なので休日の電車の本数はグッと減る。
嬉しそうに予定を聞かされたときに思ったし、思わず零してしまったのだ。
『なんでそんな早い集合時間にしたの?』
と。せっかくの休日だしのんびり会えばいいものを。その問いに弟は照れ倒し、
『早く行ったらそのぶん長くいられるよねーって話になってさぁ』
と、盛大な惚気をかましていた。
そして当日になってのこの寝坊。本当にもう、なんなんだ……。
真っ青のまま完全に固まった弟を見て、沸点を超えた。
「~~っもういい! 駅まで送ってあげるから早く用意して!」
「! 神様仏様姉ちゃん様!!」
「そういうのいいから早くして」
「ハイ仰る通りで」
肩を怒らせながら自室に戻り、鞄に財布と免許証を突っ込みリビングへ行き車の鍵を掴むと、母は静かに怒り狂う私を見て目を丸くした。
「どうしたの、おっきな声出して。喧嘩でもした? 朝ごはんは食べるでしょ?」
「喧嘩はしてない。私は食べるけどユウは多分そんな時間ないと思う。
……~~大事な約束した日に寝坊なんてする? 考えられないよね??」
母は穏やかなもので、ん~と首を傾げた。
「楽しみで寝られなかったとかじゃない? ユウくん小さい頃からそうだったし」
大きくなってもかわいいとこあるよねぇ、と母はほのぼのと言うが、それは生みの親の贔屓目でしかない。このままでは弟は、せっかくできた性格良しの彼女に、図体がデカいだけの時間にルーズなダメ男と思われてしまう。
「? ふたりでなにか約束してたの?」
「そんなわけないでしょ、姉弟で約束するようなことないもの」
と、漏れた言葉を反芻した
そうだ、別に自分にはなにも関係がない。
そもそもなんで私が慌てないといけないんだろう。せっかくの休日なんだし朝ごはんくらいゆっくり食べたいのに。もう高校生なんだしちょっとはちゃんとしたらいいのに。これは自己責任でしょ、自己責任。
ジャムを乗せ、食パンをバリバリ齧りながらあれこれと念じたが、悔しいことに咀嚼は明らかに普段より急いていた。(あぁでも毎日あんなに楽しそうにしていたのにフラれたら落ち込むだろうな)とか(待ちぼうけにされたら彼女はどれだけ悲しい思いをするだろう)とか、そんなことばかりが脳内を駆け巡っていた。
だいたい、約束なんてしたらきちんと守らないと気持ちが悪いじゃないの。
そういうのは我慢ならないのだ。
もぞもぞと背中が落ち着かなくなるのだから。
弟が靴下で滑りながら、半分スライディングのようにリビングに駆け込んできた。
「姉ちゃん様ほんとすいません準備できました! 自分いつでも行けます、やる気だけはあります!」
「あ、ユウくんおはよー。朝ごはんいらないのね?」
「おはよう、お母さんごめんもう時間ないからこのまま行ってきます」
「置いといていいよ。帰ったら私が食べる、もったいないし。それじゃちょっと行ってきます」
なにからなにまでごめんー、と述べる弟と小走りで玄関へ向かう。
車に乗りこむなり、脳味噌がフル回転した。
免許証も持ったし送るだけだからスニーカーでいいし、信号もあんまりない道だから普通に行けば充分間に合うし、大丈夫だし別にぜんぜん平気だし。ちょっと運転していくだけだし。
助手席に乗りこんだ弟は、狭そうに身を縮こませていた。180センチの体に軽自動車の座席は狭いのだろう。
「――シートベルトは?」
「しましたー!」
「じゃ、行くよ」
「ン願いしゃぁッす!!」
もはや運動部の発声である。
ふと、どうにもならない弱点を思い出した。右足にじわりと体重をかけると、車はのそりと車庫から這い出でた。40の数字が目に焼き付いた。
「おぉ……おぉぉ……、すごい、すごい安全運転だ……」
私の運転する車に初めて乗った弟は、どこか怯えた声を出した。
「――言っておくけど、姉ちゃんは法定速度で走るから。それで間に合わないとかは知らないからね」
Fin.
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