壁向こうの天使
緋色ザキ
第1話
街頭に照らされた夜の道を一人の男が歩いていた。
その足取りは重々しく、顔からは悲壮感が漂っている。
男は一度足を止め、それからゆっくりと右腕につけた安っぽい腕時計に目をやり、大きくため息をついた。針は十時を指していた。
今朝、彼が家を出たのは八時。そこから実に十四時間が経過していた。
「もう、こんな会社いやだ」
心の声が漏れる。
それにこだまするかのように猫が鳴いた。男はそちらに視線をやる。泥にまみれた小汚い猫が塀の上に立っていた。
「お前も俺と同類か」
男は少しだけ頬を緩めた。
猫はそんな男の態度がうっとうしいとでもいうように、小走りで駆けていった。
男はふっと小さく息を吐いて歩き出した。
その足取りは先ほどよりは軽やかである。
五分ほど歩いて男の住むアパートにたどり着いたところで、足を止めた。その視線の先、アパートの敷地の中に猫がいた。先ほどの小汚い猫である。そわそわした様子で男の腰ほどまで生い茂った草原を眺めている。
男は気になって猫を見つめていたが、猫はそちらに目もくれずただ一心に茂みを見つめていた。
しばらくすると、にゃーと可愛らしい声が聞こえた。小汚い猫もそれになーごと返す。そして一歩前に足を踏み出した。すると、茂みの中から猫が出てきた。
雌猫だ。男はそう確信した。とくに根拠はないが、そうであるとしか思えなかった。そして、それと同時に薄汚い猫にさえパートナーがいるのにいまの自分にはそんな人はいないという事実に男は苦しさを覚えた。
呆然と立ち尽くす男に目をくれることなく、二匹の猫は体を寄せ合わせてどこかへと行ってしまった。
不意に冷たい風が吹き、アパートの敷地に生える草木を揺らした。
「寒いな」
そう呟いて男は自身の住処である六畳間へと入っていく。
部屋は暗く、当然ながら誰もいない。
男はお湯を沸かすと壁にゆっくりともたれかかった。
「俺は一体何のために生きてるんだろう」
日々、遅くまで働き、家に帰り寝て、また仕事に向かう。休日は家でその週の疲れを癒やす。彩りの欠片も感じられない生活。
男はひどくやるせない気持ちになった。その頬を涙がつたってくる。ティッシュを乱暴に取ると涙を拭い鼻をかんだ。
そのティッシュを下手投げで少し離れたゴミ箱へ投げた。しかしゴミ箱の縁に当たって跳ね返り床にポトリと落ちた。普段であればなんてことない一幕にひどく心が揺さぶられた。
「ほんと、ダメダメだなあ」
自分のふがいなさに打ちひしがれる。子どもの頃は大人になれば、いいなと思える女性と付き合って、結婚して、子どもが生まれて、とそんな人生を歩むんだと思っていた。
でも現実はそんなに甘くなかった。もっととげとげしていて、心に突き刺さるものだ。
男は女々しく悲しい気持ちをぶつぶつと吐露していた。
しばらくして、そんなことをするのにも疲れ、寝なければと立ち上がろうとしたとき、壁向こうから声が聞こえた。それはぼそぼそとしていて上手く聞き取れなかった。
この部屋の隣には、若い女性が住んでいたはずだ。一度引っ越しのときに挨拶に来てくれたのを覚えている。くりっとした瞳と柔らかい笑顔が印象的な女性で、丁寧にお菓子の包みを渡してくれた。そのときたしか一年目の新入社員と言っていたから、同い年くらいだろう。
話したのはそのとき限りで、それからはとくに会うこともなかった。
そんな彼女の部屋から声が聞こえてきた。男の声がうるさくて、それに文句を言っているのだろうか。それとも、彼氏と部屋にいてよろしくやっているのだろうか。
男はへんな緊張感を覚えながらも、耳を壁に寄せた。
気持ち悪いことをしている自覚はあったが、好奇心には勝てなかった。
依然として、聞き取りがたい小さなささやき声が男の耳に流れてくる。ただ、どうにも恨み言には聞こえなかった。そしてその声は女性のものであった。
もしかしたら電話をしているのかもしれない。そう思った矢先のことだった。
「頑張れ」
そんな甲高い声が耳を震わした。先ほどまでとは打って変わった凜とした声。
「頑張れ」
それは続いていく。
「頑張れ」
男の心に突き刺さる。
「頑張れ」
活力が湧いてくる。
しばらくすると、その声はやんだ。
一体なんだったのだろうか。もしかして、隣に住む彼女が愚痴を聞いて励ましてくれたのだろうか。
それだったら嬉しいなと男は思った。それから布団に入った。その日はいつもより、よく寝付けたのだった。
翌日の早朝。
男はいつもより少し早く目覚めた。なんだかいつもよりもすっきりした寝覚めだった。心なしか、身体も軽い感じする。
そういえば今日はごみを出す日だったと思い、手早くまとめると玄関へ向かう。
男が扉を開けるのと同時に右側からぎいと扉が開く音が聞こえた。
音の鳴った方に視線を向けると、そこにはお隣さんが立っていた。
Tシャツに短パンと非常にラフな格好である。
「お、おはようございます」
挨拶をした。すると彼女もはにかみ挨拶を返してくれた。
男の頭の中には昨夜の出来事が思い起こされた。
「あ、あの」
「はい?」
不思議そうな顔をする女性。その声は昨夜ほど甲高くはなかった。
昨日、励ましてくれてありがとうございます。そんな言葉が喉元から出ていきそうになる。しかし喉から出かかったところで止めた。
なんとなく、それは言うべきではないと思ったからだ。そもそも昨日の言葉を自分に向けて言ってくれていた補償などないのだ。ここでお礼なんて言って勘違いだったら気味悪がられて終わってしまうのが落ちだ。
「す、すごいいい天気ですよね」
それでそんな場違いな言葉が出てきてしまう。
「そうですね。爽やかな気分で頑張れます」
しかし、女性はぎゅっと胸の前で拳を握り、笑顔でそう返してくれた。
たしかに頑張れる気がした。その気持ちにさせてくれたのはお隣さんだけど。
「ですね」
だから僕は感謝の意を込めて、笑顔を向けた。
今日の仕事は頑張れる気がした。
その日の夜。
再びへとへとになった男は壁に寄りかかった。
時刻は十時半。いくらお隣さんの励ましの言葉があっても、疲れるものは疲れるのだ。また、昨日のようにぐだぐだと胸に溜まった思いを吐露したのち、そのまま寝そうになっていたそんな矢先、また隣から小さな声が聞こえてきた。
男は昨日と同じように耳に壁をつけた。
すると、しばらくしてから「頑張れ」の雨が降り注いできた。
男はそれをまるで子守歌のように聞きながら眠りについた。
そして朝。再びいつもより早く起きることができた。
パンを買いに行こうと外を出ると、お隣さんに会った。
そして何気ない会話を楽しんだ。もちろん、夜の一件については全く触れていない。お隣さんの方も一切話題にはしない。
けれどもその日も夜になると、再び「頑張れ」と鼓舞する声が聞こえてきた。
そんな日が何日も何日も続いた。
「頑張れ」の声は休日は聞こえてこなくて、平日、男の仕事終わりにだけ決まってかけられた。そして、それに呼応するように男は早く起きるようになり、お隣さんと会う日が増えていった。
呼び方もお隣さんから塩浜さんに変わった。ただ、男は心の中で密かに壁向こうの天使と呼んでいた。彼女の存在が男の日常に彩りと活力を与えていた。
男は着実にお隣さんとの親交を深めていたものの、あと一歩が踏み出せないでいた。
そんなある日のこと。
その日、男は新規の取引先に赴いていた。
その会社は業界の中ではかなり有な大企業であり、その商談は男の勤める会社の命運を左右するといっても過言ではないものだった。
緊張で心臓が口から飛び出しそうになりながらも、男はその本社ビルへと足を運んだ。そして、受付へ向かい用件を伝えた。
「黒井さん?」
と、横から声がかかる。
声のした方を向くと塩浜さんが座っていた。いつもとは違い、オフィスカジュアルできちっとした服を着ている。そのギャップに少しドキドキする。
「なんでここに?」
「商談がありまして。塩浜さんこそなぜ?」
「実は私、この会社で受付として働いているんです。ちょうどこれから昼食休憩の時間でして」
「そうだったんですね」
受付の仕事をしているという話は聞いたことがあったが、この会社で働いているとは知らなかった。
「頑張ってください」
そう微笑むと、塩浜さんはビルの自動ドアの方へ歩いて行った。男の中の緊張は少しだけ収まり、やる気がほとばしる。なんとしても頑張ろう。そんな気持ちになった。
二時間ほどで商談は終わりを迎えた。
「とりあえず、なんとかなりそうだな」
男はそこそこの手応えを感じてほっとした。商談中は堂々と話すことができたが、それもこれも塩浜さんのおかげだ。きっと受付で働いているだろうから、帰りがけにお礼だけ伝えよう。
そう考えて、エレベーターを降りて受付の方を見ると、見知らぬスーツ姿の男が塩浜さんと談笑していた。遠目からではあったが、高身長でスマートな感じの男性であった。
「そっか。そりゃああれだけ可愛ければ引く手あまただよな」
男はがっくりと肩を落とし、声をかけることなくビルをあとにした。
家に帰っても、男はもんもんと考え込んでいた。
あの男性は塩浜さんとどういう関係なのだろうか。塩浜さんはあの男性のことをどう思っているのだろうか。
それで男ははたと気づく。塩浜さんに好意を抱いているということに。あの笑顔を奪われたくないということに。
しかし男は自分に自信がなかった。きっと、塩浜さんに話しかけていた男性はあの会社の社員で年収は倍以上ある。見た目だってすごいいけていた。かたや男の方はかなり忙しめな会社に働いている普通の人である。とても叶いそうにない。でも、このままじゃ嫌だ。
「僕は嫌なんだ。でも、どうすればいいのか分からない。どうすれば……」
男はまたいつものように、壁により掛かりその気持ちを吐露した。いつもとは違い、隣人への気持ちを。
男はそんな自分が情けなく感じた。六畳間で一人女々しく隣人への思いを呟いている。そんなことをしたって、男と塩浜さんの距離が縮まることはないのだ。
涙が出てきそうになって、男は上を向いた。なんてざまだろうか。このまま消えてしまいたいくらいだ。
「頑張れ」
それはいつものように突然やって来た。
叱咤激励。
でもいまの男にはそれに答える力なんて持ち合わせてなかった。
「いまの僕には無理だ。とてもこの気持ちを伝えることなんてできない」
「頑張れ」
それをものともせず、再びの叱咤激励。
「でも自信がないんだ」
「頑張れ」
有無を言わさぬ言葉。
「相手はあのイケメンだ。それに他にもライバルはいるかもしれない」
「頑張れ」
ただ、そう続ける。その甲高い声は、男が逃げるのを許さない。
その後も似たようなやりとりが続き、最後には男は折れた。それでも「頑張れ」という声はしばらくやむことはなかった。男は笑った。好きな相手に恋愛相談をして、励まされた。男は塩浜さんが好きとは言っていないため、別の相手と勘違いしたのかもしれない。だけど、その激励は男の中で大きな原動力になった。
諦めないでこの思いを伝えよう。男はそう決意して布団に入った。
次の日の朝。
ゴミ袋を持って部屋を出たところで塩浜さんと会った。塩浜さんもまた、ゴミ袋を持っていた。男は挨拶して、それから一緒にゴミ捨て場へと向かう。
「昨日の商談、どうでしたか?」
塩浜さんが尋ねる。男は少しだけ戸惑った。塩浜さんはいつも通りで、昨日のことなんて全く気にしていないみたいであった。
「ぼちぼちでしたね」
だから男もいつも通り接することにした。
それから二人は他愛のない話を続け、部屋の前まで戻ってきた。
男は自問自答した。これではいつも通りである。本当にこれでいいのか。
「それでは」
「ま、待ってください」
塩浜さんがドアノブに手をかけたところで、男の口からそんな言葉が飛び出した。
塩浜さんは振り返り、不思議そうな顔でどうしましたと問う。
男の心臓が突如として爆音を響かせる。でも、逃げるわけにはいかない。昨日の夜に決めたのだ。諦めないで思いを伝えると。
「あ、あの。昨日僕が帰るときに受付で男性と話されてましたよね?」
「あー、そうですね。会社の営業の人です。見てらしたんですね」
「はい。ちょうど帰りがけだったので」
「もしかして、挨拶しようしてくれてたんですか?すいませんでした」
男はいえいえめっそうもないと手のひらを胸の前に持ってくる。
「塩浜さんが謝られることじゃないですよ。ところで、あの男性はもしかして、彼氏だったりします?」
男は踏み込んだ。少しどもりながらではあったが。
「えっ、あー、違いますよ。そういうのじゃないです」
塩浜さんはそれに手を振って否定する。どうやら本当に違うみたいだ。男はほっと安心する。
「黒井さんこそ、どうなんですか。会社での出会いとか?」
「うちの会社はそもそも、若い人がほとんどいませんから」
「そ、そうなんですね……」
その言葉を皮切りに二人の間に沈黙が訪れる。
男はあまりの緊張感でおかしくなりそうだった。けれどもまた、ここが勝負所だとも思っていた。
「あ、あにょ」
そして盛大に噛んだ。
「……ぷっ、あははは」
塩浜さんはそんな男の姿に思わずといった様子で笑う。男は恥ずかしそうに頬を赤く染めた。そんな様子に刺激されてか、塩浜さんは笑い続けた。
しばらく笑ったところで、塩浜さんは目を軽く拭い男を見た。
「それで、なにを言おうとしたんですか?」
「あ、そ、そうですね。えっと、今度お茶でもどうですか」
「はい、ぜひ」
即答だった。男はそんな女性の反応に驚きと、それ以上の嬉しさを感じていた。ふと、アパートの敷地内の茂みに目をやると、そこにはあのときの二匹の猫がいた。男はその二匹の姿が微笑ましく思えた。
その後、男は塩浜さんとのデートを重ねていき、無事付き合うことになった。
その日を境に、あの「頑張れ」という声は聞こえなくなった。
そして、男は塩浜さんにその話をすることもなく、いつの間にか毎夜の不思議で温かな時間を忘れてしまっていた。
それから数年が経った。
塩浜さんが男を両親に紹介したいとのことで、男は塩浜さんの実家へ足を運ぶことになった。
顔合わせの当日。男は過去一番の緊張にさらされていた。胃がキリキリとして、トイレにこもりたい気持ちだった。そんな男に塩浜さんは大丈夫だよ、と優しく声をかけた。この笑顔に、いままで何度も救われてきたのだなと男はこれまでの日々を思い返す。
そこで不意に男は思い出す。以前「頑張れ」と壁越しに励まされる不思議な時間があったことを。そしていまでは隣で励ましてくれる。彼女は励まし上手なのだ。そのおかげで男はまた立ち上がれる。
実家の門をくぐり、家に入る。和風な造りの家だ。塩浜さんのお母さんが迎え入れてくれた。塩浜さんに似て、優しそうな女性である。挨拶して手土産を渡す。
「それじゃあリビングの方に行きましょうか」
お母さんがそう言って歩き出した。男と塩浜さんはその後ろに続く。
廊下を歩きながら、塩浜さんがこちらを向く。
「古い家でしょ」
「うん。素敵な家だね」
「ありがと」
そんなやりとりをしていると、不意に「頑張れ」という声が聞こえた。
ものすごく聞き覚えがある声だ。
「いまのは?」
「あー、それはね」
お母さんが立ち止まり、右側の襖を開けた。そこにはケージが置かれており、中にはインコがいた。
「ぴーちゃん。元気そうでよかった」
塩浜さんが嬉しそうに微笑む。
「が、頑張れって鳴くなんて珍しいね」
その言葉に塩浜さんは恥ずかしそうな顔をする。
「泉はね、一時期ぴーちゃんをあのアパートで飼ってたのよ。それで、夜な夜な「頑張れ」って言わせての」
「や、やめてよお母さん。恥ずかしい」
照れる塩浜さんを横目に男は心の中で叫ぶ。
励ましてくれてたのってお前かよ、と。
壁向こうの天使 緋色ザキ @tennensui241
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