1999年8の月
@kumehara
第1話
私には三分以内にやらなければならないことがあった。
これまでの人生で積み重ねてきた、黒歴史の抹消だ。
どうして三分以内なのかと言えば、三分後に人類が滅亡するからである。
一九九九年七月三十一日、二十三時五十七分。あと三分で、七月が終わる。そう、かの有名なフランスの占星術師、ミシェル・ノストラダムスが「空から恐怖の大王が降ってくる」と予言した「1999年7の月」が、終わろうとしているのだ。
恐怖の大王の正体も、具体的に七月何日に起こる出来事なのかも、定かではない。けれど、占星術から医学、詩、料理まで幅広い知識を持ち、その時代の人類の発展と存続に多大な貢献をした彼が言うのだから、きっと間違いはないはず。世間でも信じている人は結構多い。
具体的な期日は不明のまま、今日まで人類は呑気に生存し続けている。つまり
予言にある「恐怖の大王襲来」は、これから起こる出来事なのだ。七月が終わる前、あと三分以内に。
どうせ死ぬのに、どうして私が自分の黒歴史を抹消しようと焚火を見詰めているのか。それは
私はこれまで、太宰治も「マ?」と目を点にするのではないかというほど、恥の多い生涯を送ってきた。綺麗な思い出なんてひとつも浮かばないのに、嫌なことばかりを鮮明に覚えている。脳裏に焼き付いたそれらが、時折、なんの突拍子もなく眼前に現れては、私の思考を「死にたい」という極地へ誘おうとするのだ。
このまま死んだら、私は
だから全部、燃やす。
悪魔を召喚する為の術式や魔法陣を書き殴った小学生時代の自由帳も、燃やす。
無口でミステリアスな美少女キャラに憧れて、誰に話しかけられても「別に」「興味ない」しか返さなかった結果、ぼっちな三年間を過ごすハメになった中学時代の制服と鞄も、燃やす。
心機一転、友達を作ろうという気持ちはあったが、持ち前のコミュ障を発揮して挙動不審な態度を取りまくり、いじめの標的にされた高校時代の卒アルも、燃やす。
大好きなアイドルの握手会に当選したものの、緊張し過ぎて発狂し、警備の人に取り押さえられたあの日のチケットも、燃やす。
生まれて初めて男性から食事に誘われ、何を着て行けば良いのか全く分からず、居酒屋に着込んでいったフリル付きのドレスも、燃やす。
何度か転職し、その度に人間関係の構築に失敗して陰口を叩かれた、歴代の職場関係者の連絡先が詰まった携帯電話も、燃やす。
仕事の資料を同じ部署の面々へメールで送ろうとしたのに、間違えて二次創作の十八禁イラストの画像ファイルを添付してしまったPCも、燃やす。
あれもこれも、思いつく限りの全てを炎の肥やしへと変えていく。ひとつひとつに恥じ入る歴史が詰まった、醜い「私」を証明する物体を、どんどん投げ入れる。いつの間にか涙が流れていたけれど、気付かないフリをした。
最後に、喧嘩別れしたまま二度と会えなくなってしまった祖母の形見の腕時計を燃やそうとして、ふとその針の位置が目に入る。現在時刻、零時。
私は愕然とした。日付が、変わっている。ノストラダムスの予言した「1999年7の月」が、終わってしまったのだ。
地球に生きる数多の人類は、滅亡などしていない。恐怖の大王が出現する兆しもない。皆、これまでと何ら変わりない今日を、性懲りもなく生きている。
目の前で、炎が揺れる。実際に揺れているのは炎なのか、自分の視界なのか、もう分からないけれど。私の、決して白くはない歴史を炭に変えながら、バチバチと音を鳴らしている。
多くの人類からすれば、あの大予言は外れたことになるのだろう。しかし、私にとっては違うと気付いた。
自分の証明を跡形もなく消し去った。手元にはもう、何も残っていない。私は死んだのだ。「1999年7の月」に、私という一人の人類は滅亡を迎えたのである。
もちろん、当事者全員の記憶を消すことは不可能なので、無かったことになったわけじゃない。それは分かっている。でも、少なくとも、私を今この地へ縛り付ける物は何も無くなった。三分前より少しだけ、体が軽くなった気がする。
これから私は、どこへだって行ける。なんだってできる。一度死んだのだから、それこそ、高潔で美しい純白の心を持つ人間になるべく、新たな場所で人生をやり直すことを選んだって良いのだ。
命をかけなくとも、時間をかけなくとも、自分をリセットすることはできる。そう考えると、心もほんの少し軽くなった気がした。
軽くなった心身を抱えた私は、新しく訪れた「1999年8の月」を、新しい人間として生きていく。
1999年8の月 @kumehara
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