思いの瞬間

鋼音 鉄

姫や男や

公には3分以内にやらなければならないことがあった。


己が好きと感じている少女、姫が引っ越してしまうからだ。引っ越しまでの期間は少ない。引っ越しする日は今日であり、時間はもう無い。分で数えても十もない。3分、其れが限界である。予定時刻の中での最大時間は3分。


公は中学、高校では陸上をしていた事で鍛えた足で走る。全身で風を感じる。陸上をしている時はこの風が邪魔だった。こんな風が存在しているから自分は速く走れないのだ、と疎ましく思っていた。


しかし、今の公にとっては別だった。今の公は風が自身を邪魔している、とは感じていなかったのだ。疎ましく思っていなかった。疎ましく思っているとは逆。今は風が公を応援してくれているような気がした。走っている自分の背中を押してくれているようだった。事実としてそんな事はない。


けれども、心が暖かくなる。間に合わないかもしれない。無理だ、という諦めそうな冷たい心が溶けていく。


走っている足が強く地面を蹴り飛ばす。大会の時よりも、練習の時よりも速く、鋭く走っていく。


「あ゛あああ゛あああ゛!!走れ、もっと速く!遅くなっちゃダメなんだ。遅くなってしまったら思いを言えないかもしれないんだ!だからもっと!」


公は叫びながら走り続ける。力強く拳を握りしめて走る。周りからどんなに変なものを見る目で見られようとも、自身の思いのために、願いのために走り続ける。


走る時は邪な考えを抱いてしまってはいけない。其れが公が自身に課したルールだった。


(だけど、今は、今だけは解放させてくれ。思いを、思いを言いたいんだ。だから全力で、思いっきり走りたいんだ。頼むよ、俺。陸上に対しての熱意も矜持も分かるよ。だから!)


公の速度が上昇する。身に、顔に付いている汗を振り払いながら前を見る。走っている車があった。公には見たことがあった、姫の家族の車だった。窓が開いており、車の中から姫が外を覗いている。


今なら声が通る。息を思いっきり吸い込み、叫ぶ。自分の思い全てをぶつけるかのように。


「姫、好きだ!好きだーーー!」

「公!?なんで……私も、私も好きだよ!」

「五年後のこの日、また此処で会いたい!」

「……!うん!」


車が遠く離れる。言いたかったこと全てを伝えられた事実に、安堵感に包まれる。五年後のこの日、と心の中で反復する。






公の甘酸っぱい青春話はこれで終わった。五年後の三月三日に姫と公が再開するのは、別の物語である。

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