エロスの一生
吉永結希人
三分以内にやるべきこと
走るエロスには三分以内にやらなければならないことがあった。そして、十分以内にある場所へ向かわないといけなかった。
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本日、ランチタイムのチャイムが鳴るとき、
国立魔法大学で大事件が起こる。
魔法大学教授より
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その手紙が届いたのはつい今し方。自宅で公務を執行中だったエロスに家政婦が届けに来た。手紙を読むとエロスは家を飛び出して、その足でけもの道を有するこの森に踏み込んだ。
ランチタイムのチャイムとは、昼の十二時になると鳴る鐘のことだ。どこかの有名な音楽家が作曲したというチャイムは毎日必ず鳴るようセットされており、例外はない。エロスがその手紙を受け取ったとき、チャイムが鳴るまで残り十分を切っていた。
自宅のある町から国立魔法大学までは二通りの道があり、一つは安全だが遠回りの道、もう一つは危険だが最短距離の道である。エロスは迷わず後者を選んだ。
安全な道は馬をどんなに飛ばしても三十分はかかる。危険な道では馬を飛ばせないが、走れば四分で着くだろう。選択肢は一つだった。
森に入ると、どこからか咆哮が聞こえてきた。空気を裂くほどの雄叫びは距離感を狂わせ、近くにいるのか遠くにいるのか判断がつかない。この道が危険と言われる所以だ。森のど真ん中を突っ切るこの道は短くはあるが、魔獣の森と呼ばれるにふさわしい恐怖が待ち構えている。
ガサッ。
待っていたと言わんばかりに犬の身なりをした魔獣が木陰から顔を出す。エロスはすかさず杖を構え、詠唱した。エロスの言葉に呼応して杖の先端の水晶が赤く染まり、細い光を放つ。光に当たった魔獣から炎が上がり、魔獣は咆哮しながらのたうち回ると、やがて灰となり風に吹かれて消えた。
間髪入れずに新たな魔獣が出現する。今度は二足歩行の猿みたいな魔獣だ。エロスは同じように魔獣を攻撃し、風のエサにしてやった。しかし、息を吐いている暇はない。そうこうしているうちに、周りを多種多様な魔獣に取り囲まれていた。
この森に棲む魔獣は、一体一体は大した力じゃない。魔力が中の下レベルであるエロスでも一発魔法を放つだけで楽に倒せるほどの弱さだ。しかし、数が尋常じゃない。虫のようにうじゃうじゃと群れを成している。
この道を通りたければ範囲魔法を使える魔導師を引き連れることだ、とはよく言ったものだ。そのセリフはエロス自身も数え切れないほど吐いてきた。
だが、魔導師を探している暇はなかった。十分以内に魔法大学に向かわなければならない。四分で辿り着く予想はあくまでこの森を難なく通り抜けられたらの計算で、魔獣を考慮すると──三分。この森を三分で抜けなければ、タイムオーバーだ。
(──しまった!)
一瞬、気を抜いた隙をついて、魔獣が飛びついてきた。ブニョブニョした長い手足が体にまとわりつく。エロスは杖の水晶を黄色に光らせ、それを魔獣に押しつけた。瞬間、電撃が魔獣の体を駆け巡り灰と化す。
エロスは森の出口に向かって走るが、その行き先に魔獣が立ちはだかる。今度は一斉に飛びかかってきて、エロスの体の自由を奪おうとする。
……くそう。くそう、くそ、くそくそ、くそくそくそ!
「退いてくれーッ! 娘が危険なんだッ!」
エロスは心の奥底から湧いて出る苛立ちをぶつけるように叫んだ。
代々騎士を輩出してきた名家の生まれであるエロスは、元来、慎重で用心深い性格であったために根気と集中力を必要とする魔導師の道を進み、冒険者や教師の職に就きながらその力を国民のために費やしてきた。
貢献度を買われ、
順調なのは何も仕事だけではない。プライベートも非常に充実していた。十八のときに出会った冒険者仲間の妻と二十三で結婚。長い間、子どもに恵まれなかったが、二人なら二人で楽しくやっていこうと仲睦まじい生活を送っており、皆からは「理想の夫婦」と羨まれている。
また、知人も多いので、毎日誰かしらの誘いを受けている。仕事が忙しく断ることもあるが、昨日も二十五のときに出会った元教師仲間と飲み明かしたばかりだ。
そのときの酒がまだ体内に残っているらしい。魔獣に向かうエロスの動きはいつもより鈍かった。しかし、それを理由に弱音を吐いてはいられない。三分はとうに過ぎているが、力の限り魔法を放った。
すべては、唯一無二の娘のために。
国立魔法大学フォースター研究室。
アリアネはテーブルに肘をつき、思い耽っていた。フォースター教授の研究室では日夜、遺伝子と魔力の関係について研究が行われており、アリアネもその研究の一員であるが、彼女が悩んでいるのはそのことではなかった。
(まずいよね。バレたらタダじゃ済まないよ)
二十五にもなってあんなことをしでかした自分の幼稚さに呆れてため息が洩れる。他の研究員は早めの昼食に出ていて部屋にはアリアネ一人であるため、そのため息は誰に聞かれることもないが、だからこそ気を抜けば勝手に口から出ていく。
エロスに手紙を送った魔法大学教授の正体は、アリアネであった。どうしてあのような手紙を送ったのか。すべては、エロスが自分を愛してくれているのかを確かめるためだった。
エロスは手紙が届いた瞬間、あの森を通るのも厭わず自分のいる魔法大学に駆けつけてくれるのか。大事な公務中でも自分を優先してくれるのか。それだけのためにあの嘘の手紙を送ったのだ。
しかし、今になって考え直すとすごく幼稚な行為をしたように思う。エロスの愛情を信じられなくて試してしまったが、こんな犯罪まがいの方法がバレたら愛想を尽かされてしまわないか。唐突に不安になってきた。
「アリアネ!」
研究室のドアが勢いよく開いた。テーブルに伏せたばかりの体を起こし、入り口を見ると、剣幕な顔のエロスが立っていた。
アリアネは胸がじーんと熱くなった。エロスの服装はボロボロで、髪もボサボサ、肌には傷も掘られていて、ここに来るまでの森で死闘を繰り広げたのが明らかだったからだ。
(そこまでして、私のために……)
先ほどまでの不安が嬉しさに変わり、嬉しさがだんだん心苦しさに変わっていった。
「アリアネ、はやく逃げろ」
そばにやってきて自分の手を引こうとするエロスに、アリアネは抱きついた。
「ごめんなさい」
アメジストの色をした瞳からは涙が溢れ出ていた。
(やっぱり私は、バカなことをした)
アリアネはエロスに事の真相を打ち明けて、何度も謝った。許しを請い、そして、エロスが無事でよかったと安堵の言葉を繰り返し零した。
エロスはそんな彼女の背中に優しく腕を回して応えた。
「いいんだ、アリアネ。君が無事で何よりだ」
「本当にごめんなさい。大好きよ」
「ああ。僕もだ」
アリアネはもう二度とこんなバカな真似はしないと、心の中で誓った。
抱き合う二人の後ろで、ランチタイムのチャイムが鳴り響く。
ああ、本当によかった。あの手紙が嘘で、本当によかった……。
もし仮にこの魔法大学で大きな事件が起これば、発生時に学内にいた人間は取り調べを受ける。そして、徹底的に身分を調べ上げられる。大学の研究室に入り、たまに教壇に立つこともあるアリアネも例外ではない。そうなればバレてしまう。
アリアネが僕の娘であることが──。
アリアネは、僕が二十五のときに教師仲間のフローラと不倫して生まれた子だ。妻との間には子どもがいないから、僕にとって唯一の子である。
フローラは世間体を気にする僕の考えに理解があり、アリアネの存在を世間から隠し一人で育ててくれた。だから、僕に娘がいることは誰一人として知らないし、知られてはならないのだ。
知られてしまえば、品行方正で愛妻家な僕の評判が地に落ちてしまう。絶対に隠し通さなければならない。
だから僕は走った。危険を顧みず、アリアネを学外へ連れ出すために。
事件発生の瞬間に学外にいたら調べられずに済むはずだ。もちろんイタズラの可能性は思慮したし、空騒ぎで終わる可能性もあったが、用心するに越したことはないからとにかく大学に向かった。
三分と一生、どちらを選ぶか。考えるまでもなく後者だ。
こんなことはもうするなとアリアネに言い聞かせるのは後でいいだろう。危険な三分と引き換えに得た一生の安全。今は、なんとか繋ぎ止めた平穏を噛みしめよう。
僕がアリアネの父親だと、絶対に知られてはならない。妻にも世間にも、そして、アリアネ自身にも──。
僕とアリアネが親子であるのは、フローラとの秘密。
僕とアリアネが恋人であるのは、僕とアリアネの秘密だ。
エロスの一生 吉永結希人 @yukito_y1120
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