【KAC20241】バッファロー・ブラッドをきみに

鍔木小春

バッファロー・ブラッドをきみに

 俺には、3分以内にやらなければいけないことがあった。


 身を潜めた浴室の壁越しに、轟音が響いた。

 破壊が行われている。あまりにも荒唐無稽で、悪夢じみた現象によって。

 バッファローが。暴力の群れが、街を蹂躙している。

「……俺に、できるのだろうか」

 包丁を握る手の震えが止まらない。


 バッファロー・パニック。

 インドから始まったその災害は、瞬く間に世界中に広がった。

 南アジアが壊滅するまで半日。破壊の奔流がユーラシア大陸全土に到達するまで僅か1日。

 いがみ合うあの国もこの国も、仲良く平等にバッファローの餌食だ。ラブアンドピース。

 そして溢れたバッファローが海を渡って日本へ辿り着いたのが、昨日の夜のことだった。


 その場の全てを蹂躙するまで、バッファローの群れは止まらない。

 港町を壊滅させたバッファローは山を越え、高速道路を駆け抜け、そうして俺の住むこの街までも呑み込んだ。

 きっと俺が、この街の最後の生き残りなのだろう。

 あと3分。せめてこの3分で、俺は俺にできることをやらなければ。

 咄嗟に逃げ込んだ家屋のキッチンから出刃包丁を拝借。

 後は勇気を振り絞るだけでいい。そのはずだ。

 だが……肝心のところで勇気が出ない。


 ふと、幼なじみのアイツと最後に交わした会話を思い出す。

 重要なプロジェクトのリーダーを任されたのだと、誇らしげに語っていたっけ。

 対して俺はどうだ。いい年して何者にもなれず、中途半端に日雇いバイトで食いつなぐ日々だ。

 忙しそうに世界を飛び回るアイツが妬ましくて眩しくて、最後のLINEに既読だけ付けたのが……あぁ、もう半年も前のことだったか。


 壁がミシミシと軋む。限界が近付いている。

 やらなければ。勇気を出さなければ。

 リミットまであと10・9・8……

「……よし」

 覚悟を決めた。

 俺は包丁を握り締め――


 全力で、自らの頸動脈を刺した。


 バッファロー・パニック。

 インドで発生した新種のウイルスは、瞬く間に感染を広げ世界を蹂躙した。

 高熱と頭痛、ゆるやかに進行する意識障害。

 急性の多毛症を伴う筋肉の変質。

 頭にツノ状の組織が形成されたらもう手遅れ。ウイルスを撒き散らしながら暴れるバッファローの仲間入りってわけだ。

 その悪夢みたいなウイルスが日本を呑み込んだのが昨晩。この街をバッファロー・タウンに変えたのが今日の昼頃。そして俺の頭に冗談みたいなツノを生やしたのが――ちょうど3分前。

 理性を失ってしまう前に、俺は自らを生贄に捧げることにしたのだ。


 幼なじみのアイツは、感染症の研究をする学者だった。

 病人の血からワクチンを開発するスピードを今よりさらに早めたいのだと、正義感溢れる夢を語っていた。

 未知のウイルスに奪われる命を、少しでも減らしたいのだと。

 俺には科学やら医学のことはよくわからない。だが、俺の血がバッファロー・ウイルスを殺す素材になるのなら。

 変異する身体とぼんやりする意識で、できる限りの策を巡らせて今に至るというわけだ。


 恐怖ごと切り裂くように、バッファローの膂力で刃をねじ込んだ。 

 血を無駄にしないよう、バスタブを死に場所に選んだ。

 アイツは最後のLINEに気付くだろうか?

 そもそもアイツは、このバッファロー禍を生き延びているのだろうか?

 薄れていく意識の端で、最後の着信音が響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【KAC20241】バッファロー・ブラッドをきみに 鍔木小春 @uithon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ