真夜中のバッファロー

南沼

🐂🐂🐂🐂🐂🐂

 私には3分以内にやらなければならないことがあった。

 3分。それが私に許された残り時間だった。それを過ぎれば、大叔父をはじめとした大人たちが牛舎にやってくるだろう。目の前の子牛の、ハナ子の喉を掻き切る為に。


 夥しい数のバッファローの群れが、市内のあらゆる牛舎を壊して回っているのだという。

 親戚一同が集う寄り合いで、大叔父が重々しく吐き出した。

「バッファローってない?」

「水牛んこっだ」

 水牛がこの辺りにいたなんていう話は、聞いたことがない。その点を質そうとしても、誰もが口を濁すばかりで確たる答えを持っている人はいないようだった。

「そげんこっは、どげんでんよか!」

「小山田も、下田もやられてしもた」

「次は入佐に違いなか」

 平時は、さも自分たちは分別や道理を弁えているかのように振舞い、お前たちは従っておけばいいのだという態度を隠そうともしない大人の男の人たちが、今はただひたすらに混乱し、口角泡を飛ばしていた。

「……じゃっどん水牛やったら、ハナ子は関係なかじゃなかと?」

 当然の疑問だったが、それもまた怒鳴るようにいなされ、私は委縮するばかりだった。

 何でも、襲われた牛舎にいた牛たちも、まるで野生を取り戻したかのようにバッファローの群れに合流するのだそうだ。

 そんな馬鹿な話があるものか。ハナ子はまだ乳離れしたばかりの、ほんの子どもだ。身体は随分大きくなったが、それでもまだまだ甘えたい盛りの女の子だ。そう思ったが、口には出せなかった。

 そしてやおら立ち込めた沈黙の後、ついに大叔父が言ったのだ。

「ハナ子を、殺さんなならん」


 今、うちの牛舎にいるのはハナ子だけ。ほかの牛は昼間のうちに市外の業者に無理を言って一時的に預かってもらっていたが、ハナ子だけは輸送が間に合わなかった。バッファローの群れはすぐそこまで迫っている。牛舎が襲われて打ち壊されるのは勿論の事、ハナ子が群れに合流して他の牛舎を襲うことがあれば外聞に関わる。大人たちの暗黙の了解を、ただ言葉にするだけの寄り合いだった。

 勿論、私は拙い言葉で精一杯の抗議をしたが、聞き入れられることはなかった。

「辛かとは分かっちょい」

 猫なで声で私の肩を叩く親戚たちの腕を振り払うことは、出来なかった。私が手に入れられたのは、ハナ子との別れを惜しむ為の、たったの10分間だった。

 

 懐中電灯の光の輪の中で、ハナ子が、尾を振りながら鼻面を袖口のあたりに寄せてくる。私に甘えるときの、いつもの仕草だった。

 私はハナ子の鼻面や喉を撫でてやりながら、泣き出しそうになった。大きく立派に育って、出荷されるならそれは耐えられる。でも、こんなのはあんまりだ。

「ないごておめが、殺されんなならんの……?」

 あと3分で、この子の命は無残にも奪われてしまう。それまでせめて、この最後の時間に集中しなければならなかった。

 それとも逃がしてしまおうか。ふと、魔がさしてそう思う。バッファローの群れが迫っているなら、どさくさに紛れて逃げられたとかなんとか言って、誤魔化せるんじゃないか。

 牛舎のひさしから、月が覗いていた。私は懐中電灯を消してみる。

 良く晴れた夜空だったからすぐに目も慣れて、牛舎の中にいる私とハナ子の姿が、薄く青く浮かび上がる。

 こんな幽かな光のもとで、ハナ子のくりくりと大きな瞳の、何と愛らしく輝くことか。

 大体、バッファローだか何だか知らないが、こんな瞳をした生き物が、そんな悪魔のような所業を出来る訳がない。

 少し考えれば、いや、自分の胸に訊いてみれば分かるはずだ。

 分からない筈はない。

 分からないのは何故?

 どうして分からない?

 ああ。

 ああ。

 理解してしまった。私は、唐突に。

 それはあいつらが、大人たちこそが、にんげんの心を失ったけだものだからだ。

 そうとも。見るが良い、ハナ子の瞳を。

 そこにあるのは、まぎれもない知性と、愛情の光。

 これこそが心だ。

 あいつらにがあるか。

 今、私の中ですべてが繋がった。

 隅々まで透き通った、晴れやかな全能感が私の中に満ち溢れる。

 夜の闇は、水牛の毛色。それは死の色で、神の遣いの色だ。

 にんげんの皮を被ったけだものを、この地上から一掃するために、水牛たちはいる。そしてそれは、今や私たちがいる側だ。

 彼らに合流しろ。

 躍動する筋肉の塊となって、ぶつかり蹴散らせ。

 艶なす双角で、命を穿て。

 硬く巨大な蹄で、踏みつぶせ。

 全てを。

 全てをだ。


 私はハナ子の背に跨り、牛舎を飛び出す。

 ハナ子の頭にはいつの間にか鋭く湾曲した一対の角がたくましく生えそろっていて、後肢の付け根、のあたりの筋肉は硬く大きく隆起していた。

 野太い咆哮と力強い蹄の音は、天をも轟かさんばかりに。

 轟天。

 そう、おまえはもうハナ子ではない。轟天号だ。

 おや、我が愛槍やりもこんなところに(スチャ)


 私たちの姿を見た大叔父たちが、腰を抜かさんばかりに慌てふためいている。

 あの奴ばら、目に見えるものしか見ようとしない。

 だから気付いていないのだ。自分たちに背後に迫る大地の鳴動に、神々の息吹に。

 そんなことだから、おまえたちはけだものなのだ。

 愚かなり!

 恥じ入れ!

 しかる後に滅びよ!


 私の喉からほとばしる渾身の猿叫えんきょうそして轟天号の咆哮が、入佐の月夜に満ちた。


「キエ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛!!!!!!!!!」

「ンモ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!!!!!!!!」

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真夜中のバッファロー 南沼 @Numa_ebi

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