それは=ではない

サトウ・レン

嫌いだったはずの暴力。

「人間には二種類のタイプがいる。それは人を殴れる奴と人を殴れない奴だ」


 そう言ったのは、いまは亡き友人だ。

 彼は盗んだバイクで海沿いの街を走りに走った挙句、その辺りを縄張りとする暴走族のグループを挑発し、捕まり、リンチされ、そして殺された。顔はもう原型をとどめていなかったそうだ。彼は人を殴れるタイプだったが、一度も抵抗できないまま、死んでしまったらしい。


 僕は人生において、すくなくとも記憶にある限り、一度も人を殴ったことがない。殴りたいと思ったこともない。殴りたいけど殴れないだけで、それは嘘だよ、と反論してきたのも、あの若くして死んだ友人だ。殴りたくないのならば、きみはロボットなのかもしれないな、と続けて。友人だったが、改めて考えれば、大変失礼な奴だ。


 だけど僕は本当に暴力が嫌いだ。怖い。あと血も嫌いだから見たくない。そういう生理的な嫌悪感もある。そもそも暴力を振って、なんになる、と言うのか。人間の本質が暴力なんて言葉は唾棄すべきものだ。


 物語でさえ駄目だ。馳星周の小説は読めないし、北野武の映画は観れない。そもそも、『読もう』『観よう』と思ったことがない。徹底的に遠ざけている。あんな下品なものを近付けてはいけない。


「確かにあなたに暴力は似合わない。でも、あなたは、ある線を一歩踏み越えた瞬間、私を笑いながら殺せそうな気もする」

「何、言ってるんだよ」

「冗談だよ」


 僕の隣に寄り添いながら、かつての恋人はそう言った。

 彼女は別れ話の時、僕をぼこぼこに殴って、去っていった。「なんで殴り返さないの。女の私に、ここまでされて悔しくないの」と喚いていたのを覚えている。女だから、とか、男だから、とか、そんな言葉が嫌いだった女の醜くヒステリックな声は、僕の耳に虚しい響きとなって届いた。


 ところで、もうすぐ世界は終わるらしい。

 マンションの窓から見る光景は、狂騒に満ちている。


 宇宙からの飛来物が世界の終わりを告げ、最初は陰謀論などを語る人間たちがSNS上で騒いでいるくらいのもの、と思っていたが、急激な勢いで海水は消失していき、電気は徐々に使えなくなりはじめている。食料は誰かが買い占めたわけでもないのになくなり、あらゆる場所で災害が起こっているらしいが、それを伝達してくれるマスメディアも、もうない。世界が終わる、ということを、みんなが実感している。


 人を殴れる奴は、地上で暴力に狂っている。

 人を殴れない奴は、自ら命を絶った。


 僕は後者のはずだから、もうすでに絶望とともに命を絶っていなければならない。だけど僕はまだ生きている。なんでだろう。


 僕はどちらもせずに、頭を抱えているだけだ。もう生にしがみつく必要もないのに。


 その時、玄関のドアが叩き壊される音が聞こえた。

 太った中年男だ。チェーンソーを持っている。

 運動不足のもたついた足で、僕にむかってきた。


 簡単に避けて、僕はチェーンソーを奪い取る。その瞬間、生まれてはじめての暴力衝動が生まれた。あぁ、こいつを殺したい。苦しめて苦しめて、殺したい。


 まず足からだ。


「あぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃ」

 切断の邪魔になる声が聞こえる。うるさい。僕はおっさんの口にタオルを突っ込む。死んでしまえ。死んでしまえ。慌てたようにタオルを取ろうとするその手も邪魔だ。次は腕を切り落とす。


「あびゃびゃびゅ、ぎゃぎゃぎゃら」

 滑稽だな。ちゃんと人間の言葉を話せ。このデブ。ムカついたから、次はその腹だ。


 どんどん解体していき、もう何も言わなくなった。

 僕はそいつの生首をマンションの窓から地上に向かって、放り捨てる。


 あぁ楽しいなぁ。楽しい。

 なんでこんな楽しいこと、いままでやってなかったんだろう。


 世界が終わる最後の日は、僕が人生で最初の暴力を振るう日になった。


 あひゃひゃひゃひゃ、嫌いな奴は全員、皆殺しだ!

 と僕はマンションの階段を駆け下りる。


 んっ、でも。


 走りながら、僕は考えていた。『最初の日』ではない。僕は何かを忘れている。だけど暴力衝動の解放とともに、すべてを思い出せそうな気がする。


 ……あぁそうだ。


 イコールで繋いではいけない。

『最初の日』は、今日ではない。


『最初の日』は、僕のバイクを盗んだあいつを殺した日だ。暴走族にぼこぼこにされても、死なず、僕のバイクも壊されて。「いやぁ、不運だったよ」で済ませて笑いやがったあいつを、ひとのいないところで殴り、何度も殴り、殺したあの日だ。いや殺すつもりなんてなかった。縛り上げて放置してたら、死んでいたのだ。


 次の暴力は恋人を殺した時だ。別れ話がもつれにもつれて、喚きはじめた彼女が、醜悪な化け物に見えて仕方なかったのだ。ヒステリーを起こして、いままでの人生の汚点になる。あぁこんな女と付き合ってたこと自体が、人生の汚点になる。あぁ殺してやる。殺してやる。

 そして僕は、また殺した。


 殺した事実をなかったことにするため、心の中で自分自身の過去を書き換え、人生のすべての暴力をなかったことにしていたのだ。暴力衝動とともに封じ込めて。封じ込める前にどれだけ暴力を振るったのかなんて、僕はもう覚えていない。


 今日が世界の終わる日でさえなかったら、僕はこれからも暴力とは無縁のままの人生と信じて疑わず、未来を歩んでいたのだろう。


 だけど思い出しちゃったんだから、仕方ない。

 よし、またひとり殺した。みんな弱いなぁ。

 あぁ、楽しい。楽しい楽しい楽しい。

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