世界の終わりとペンギンたち
筒井透子
世界の終わりとペンギンたち
朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。
「能天気に言うなあ」エアコンのリモコンを押しながら、リコがつぶやく。「笑顔が怖い」
「このキャスター、一ヶ月前からカウントダウン始めて、ずっと笑顔です」
「病んでるんちゃう?暑いし。えー、温度、これ以上下がらへんの?」
リモコンを押しまくっている。忙しい人だ。畳みかけるような関西弁にも、やっと慣れてきた。
「まあ、空ももう真っ赤ですしね」
二人で窓の外を見る。暑さに空気が澱んでいるのか、向かいのビルが歪んで見える。
「ほんまや、赤いなあ。隕石きたらこんな色になるんやなあ」
僕の家はマンションの九階だ。リコは窓の外を、身を乗り出すようにみている。「写真撮っとこ」小さいカメラをポケットから取り出す。カメラ、久しぶりに見たな、と思う。
「スマホで撮りましょうか?」
「スマホでなんでもやるねんなあ、こっちは。写真は普通カメラやろ。うわ、禍々しいなあ、空の色」写真を撮りながらリコは話し続ける。
「なあ、もう、あと七日やん。そろそろあっち行こうよ。暑くって耐えられへん」
地球に隕石が落ちると発表があって、ほぼ一年。地球の温度は隕石の接近に比例して急上昇を続けている。
ふと思いついてつぶやく。
「もう、寒さって経験できないのかな。炬燵入りたいとか二度と思わないのかな」
「だからさあ」リコは声をいらつかせる。
「あっちでも四季はおんなじようにあるから。また冬もあるし、炬燵もあるし。っていうか、今日はどっか行くん?こんな暑いのに?」
リコは部屋着だが、僕は既にTシャツを着て久しぶりにジーンズを履いていた。
「会いたい人がいるって話、しましたよね。その人、夜勤明けで、今日なら会えるから」
「ああ」窓を見ていたリコは振り向いてまっすぐ僕を見た。
「そうなん、やっと会えるん?」
「はい。多分。あの、ちなみに、あなたは、今日予定あります?」
「あなたって。相変わらず他人行儀やなあ、ずっと敬語やし。私の方が年下やし、そもそも標準語もめっちゃ違和感あるわ」
「会ってまだ十日くらいです。僕は東京育ちですし」
この会話は何度目だろうか。リコもそれはわかっている。話を戻した。
「暇やで、この世界に友達おらんし。なんで?」
「調べて欲しいことがあるんです」
僕は半年前までシステムエンジニアだった。
会社に入って八年目くらい、ちょうど今から一年と少し前、酔った勢いで階段から転がり落ちて、左腕を骨折した。生まれて初めて入院した。同僚に「おまえ、いいなあ、ナースにずっと面倒見てもらえて、いいなあ」と何度も言われ辟易したが、その後切実にその言葉を思い出すことになる。
彼女はとても不器用な看護師だった。包帯を巻くのにすごく時間がかかる。気まずさに耐えきれず、話しかけてしまった。
「それ、冬用ですか?」
「え」
「いや、なんか分厚いなあって」
「え、いや、その、うまくいかなくて」
「寒いからちょうどいいです」
しまった、気分を害するかなと思って彼女の目を見たら、彼女はちょっと悲しげに笑っていた。
「そうですね、夏には薄くなるといいな。練習させてもらえます?」
ぐっときた。
そこから、いろいろ話すようになった。
退院の日の前の日にはこんな話をした。
「私、包帯はだめですけど、注射はうまいって言われるんですよ、点滴とか。血管探すのには自信あるんですけど。建部さんの血管は丈夫そう」
「そっか、そういえば、注射してもらう機会はなかったですね。それに、血管褒められるのは初めてです」
「そうでしょうね」彼女はまた、ぐっとくる顔で笑った。
「また入院したら打ってあげます」
その笑顔に勢いをつけられ、僕は人生で一番といっていい、なにかを振り絞って言った。
「入院はもうしないですけど、注射も嫌ですけど、また会ってもらえます?」
彼女は一瞬笑みを止めてじっと僕を見た。そのあとの笑みは仕事モードではなかった。と思う。
「いいんですか?会っても」
最高にぐっときた。連絡先を交換した。
しばらくスマホでやりとりをした。退院してから僕は溜まった仕事をこなしてなかなか休日も休めず、彼女も夜勤があったりでなかなか予定が合わない。会えないなか、スマホでのやりとりだけが僕のモノクロの多忙を鮮やかに彩っていた。返事が来るのが楽しみで仕方なかった。
やっと予定が合った。その日曜日のことは今でも忘れない。昼に集合の予定だった。サイトで調べまくり、彼女の勤務する病院の近くに、オシャレな雰囲気のカフェを見つけていた。そこでランチして、彼女が行きたいと言っている水族館に行く。夜は、老舗の三つ星の和食にしよう。そういう店を選んでかっこいいとか思われるといいな。そんなことを思っている自分に、「中学生か」と内心つっこみながら準備した。出かける直前に、時間を見ようと、テレビをつけた。
一年後に隕石が落ちると発表があったのはその時だった。
なんだこれ、映画?テレビ画面を呆然と見ていたら、彼女からスマホに連絡が入った。
「ごめんなさい、病院にパニックになった人たちが押し寄せてるらしくて、急遽出勤になりました。本当にごめんなさい」
そこから彼女はずっと出勤して、看護師をしている。僕は彼女とはずっと会えていない。スマホでの連絡もいつしか途絶えてしまった。
今日、久しぶりに会う。
そこは、その日曜日に行くはずだったカフェだった。まだ営業していた。しかも朝から開いていて、夜勤明けの彼女がやってくるのにちょうどいい。木目調の落ち着いたカフェだった。席に座って彼女を待ちながら、一年前に来てもいい感じだっただろうな、と思うと、逆に悲しかった。
「建部さん」
僕の苗字を呼ぶ声に顔をあげると彼女がいた。
「ごめんなさい、朝からきていただいて」
一年ぶりの彼女は痩せていた。私服を初めて見た。水色の半袖シャツ。しゃりっとした涼しげな素材は、化粧気の薄い彼女によく似合っていた。
「すみません、夜勤明け、眠くないですか」
「仮眠とったから大丈夫です」
彼女はまた悲しそうに笑った。
「1年ぶりですね、どうしてたんですか?」
「仕事してました、半年は」
アイスコーヒーが二人分運ばれてきた。二人で黙って飲む。
隕石が落ちる、もうどうしても避けられない、とわかった時、たくさんの会社が消滅した。僕の会社の仕事も当然なくなった。システムエンジニアだ。あと数ヶ月しか使わないシステムを開発してどうなる?
でも社長は、全員を集めてこう言った。
「今あるプロジェクトは仕上げてしまおうと思うんだけど、どうだろう。すぐ辞めてあと一年好きに生きると言う人は止めないけど、どうせ、あと一年じゃ何もできないし、きっと暇になると思うんだよね」
僕達のチームである会社に納品予定だったシステムは七割がたできていて、僕は途中で投げ出すのは確かに嫌だった。でも。「完成しても納品先がないです」と誰かが言った。社長は言った。「ここで動かしてみて、できた!ってなったら、それで解散するっていうのは?」
僕たちは何ヶ月かをかけて、システムを完成させた。納期も気にせず、変な追加依頼に頭を抱えることもなく、好きなようにこだわれた。びっくりするくらい楽しかった。仕事って楽しかったのか。そう思えたのは幸せだった。完成したシステムは自分たちで使ってみた。稼働するたびに「いい感じっすね」「スムーズっすね!」などとみんなで言い合った。最後は職場で酒を呑み、打ち上げた。
「いい余生を!」
社長が最後に挨拶し、会社は解散した。「どうせ隕石くるから」と、今もそのまま残る会社に、同期は時々集まって呑んでいるらしい。
「いい社長さん!」彼女がしみじみと言った。
「いい余生を、って名言ですね」
「本当に。いい会社でした」
「建部さんも同期の人と呑んだりしてるんですか?」
「最近は行ってないですね」
行かなくなった理由は言わなかった。
ある日、同期からメッセージがきた。「先に逝くわ」ってさらっと書いてあった。誤変換?と思ったし、そう願った。そこから何度連絡しても既読にならなかった。あとで、本当に先に逝ったらしいと聞いた。どうせあと一年もないのに、どうして急ぐ必要があるんだろう。
「仕事辞めてからはどうしてるんですか?」
彼女はまた僕の話を促す。僕は自分の話ばかりしている。
「ハローワークで失業保険もらってました。退職金弾んでくれたから大丈夫だったんですけど、なんとなく」
「あ、そっか、今仕事してるのってハローワークと病院くらいかも」
ハローワークの人は飄々としていた。
「仕事辞めてる人に言うことじゃないけど、仕事、あった方が楽ですわ。なんにも考えなくていいしね」
「わかります」会社の解散の話をしたら、面白そうに聞いてくれた。
最後の日にお礼を言ったら、こうも言っていた。
「最期は有給休暇取って家族で温泉行こうと思ってるんです、あ、有給じゃないかもな、給与の支払日には隕石落ちてるかな」
そういう冗談が普通に出てくる日常になってしまっていた。
「温泉ですか。なんか最期の方は隕石のせいで暑くなるらしいですよ」
「ですよねえ。でもゆったりするところって温泉しか思い浮かばなくて。発想の貧困さですよねえ。青森県とかまだ涼しいかなって」
「隕石に北半球関係なくないですか」
「そうですねえ」彼は朗らかに笑っていた。もう会うこともない。
「あ、私も最期は温泉に行こうと思っていたんです」
突然彼女が言った。
「温泉ですか。暑いですよ」
「暑いですねえ。発想も貧困だし」
「誰と?」聞くときに緊張した。
「両親と。最後の親孝行です。あと二日働いたら仕事辞めて、実家に帰ろうと思っています」
彼女に話したいことは、これからだったのに。もう結論を聞いてしまった気がして、躊躇した。でも話す。これを彼女に話さないと、僕はどこにも行けない。
「あの、実はここからが本題で。話があるんです」
リコと名乗る女が突然家におしかけてきたのは、十日前だった。
朝からやたらとピンポンが鳴った。昼夜問わず寝ていた僕はその時も寝ていた。不機嫌にドアを開けたら見知らぬ女がいた。赤くて長い髪で、縫い目がどこかわからない、見たことのない形の服を着ていた。
「わ!ほんまにおった!暁人やん、ほんまやん」
女はいきなりそう言って僕の顔を両手で挟んだ。
確かに僕の名前は暁人だが、女のことは知らなかった。「え、誰ですか」
女は涙目で僕を見ていたが、僕が言葉を発すると、ふっと笑って手を離した。何かを諦めた顔だった。
「そうよなあ、あんたは私のこと知らんもんなあ、そりゃそうやなあ」
あっさりと不可解なことを当然のように言い、女は止める間も無く家に入ってきた。
そこからのリコの話は奇妙すぎて説明が難しい。
「私の方の世界では、暁人は死んじゃったんよ」リコはそう切り出した。「交通事故でね、あっさりとね」
「僕が?」
「うん、暁人が。私、暁人とつきあってたんよね」
この人が僕と。なんの話だ。「私の方の世界」とはなんだ。僕が死んだとはなんだ。
「うーん、説明が難しくてなあ。暁人に会う前に、こっちの世界のことを知ろうと思って、ネットカフェ?ってところで漫画を読み漁ってみたんやけど、そこでぴったりの言葉があって。パラレルワールドってわかる?」
「まあ、なんとなく」
「平行宇宙ってこっちでは言ってるんやけどね、私の方の世界では、二十八年前くらいに、平行宇宙を発見した人がおってん」
「平行宇宙を発見」あまりに突飛な言葉だったので棒読みで復唱してしまった。リコは真顔で続ける。
「宇宙って次々に枝分かれしてるねん。あの時あれが起こったら一の世界、起こらなかったら二の世界って。無数にあるねん。それを、私たちの世界のなんとかさんって人、うーん、名前ど忘れしたけど、がね、発見してん。で、いろいろ研究されて、よくわからんけど、行けるようになってん。他の平行宇宙に、気軽に」
「平行宇宙に行ける?」
「うん。私、別に科学者でもなんでもないけど、お金貯めて、業者に頼んだら、普通に行ける」
「業者に」
非現実極まりない話から突然「業者」とか言われるとびっくりしてしまう。どんな業者かきこうとしたら、リコが話を継いだ。
「お金めっちゃかかったけど、私はさあ、本人を前に言うのも照れるけど、いや、本人?まあええか、とにかくね、暁人が死んじゃったのを認めたくなかってん。どこか別の世界におるはずやから、捕まえて連れて帰ろうと思って、探してん。するとこの世界が見つかった」
合点がいった。
「もうすぐ隕石が落ちる別の平行宇宙が、ですか」
「うん。そしてそこにも暁人がいた」
この世界にもういられない、これから死のうとしている僕、自分の彼氏にそっくりな、いや、彼氏と「同じ」僕を、リコは自分の世界に連れて帰ろうとしている。
「それはなかなか奇跡かも」
「やろ?じゃあ帰ろうよ」
「いやいや、ちょっと待って。考えさせてください」
「まあ、そりゃそうよね、こっちの暁人にはこっちの人生があるもんね」
リコはノリは軽いがわかりは早い。
「そもそも、私の暁人はそんな言葉遣いせえへんしね。関西弁やし」
「そうなんですか。まあ、別人、なんでしょうね」
その時のリコはとても寂しそうな顔をした。
「そうやね。わかってたけどね」
そして、リコは家に居座っている。
「実を言うと、あんまり信じてないんです」
彼女にそこまで話してから、僕は気づくとそう言っていた。今までそう思ったことは何度もあったが、口にしたことはなかった。
「リコさんの、ことですか」
「はい。きっと現実に耐えられなくて、妄想にとりつかれてるんじゃないかなって、思ったりします」
「まあ、そういう人も病院には来ますね、たくさん」
「でも、変に信憑性あるところもあって」
リコはこうも説明した。
「暁人は三十歳やろ。私は暁人が生まれた後に分岐した世界を探してん。そこではどの世界でも暁人は生まれてるし存在してるから。どこかの別の世界ではもう死んでたり、普通に結婚して子ども三人いたりしてた」
「へえ。子ども三人。でもここでは僕は一人で、そして世界が終わろうとしてる」
「そう。だから連れて帰ってもいいかなって」
「じゃあ、あなたも、こっちにもいるんですか」
知らない人にいきなり「僕の彼女」だと言われても、なんて呼んでいいかわからず、他人行儀になる。
「私、二十六歳なんやけど、暁人が生まれてから私が生まれるまでに、世界が分岐したみたいで。こっちの世界では生まれてないみたい」
「へえ」普通に生きてたらリコとは絶対に出会えてないのか、と思うと不思議だった。
「なんかね、その人が「いる」世界には行けない、ってルールがあるみたいで。同じ人が二人になったらあかんのか、そこは「世界」がね、跳ねるんやって。その人が入るのを拒絶するみたい。仕組みはようわからんのやけど」
彼女が難しそうに聞いていたので、僕はさらに付け足す。
「もう一つリコにきいてみたんですよ、過去に行って警告とかしてくれないのかって」
「ああ、隕石のことですか」「はい」
「過去には行かれへんねん。「同じ時間帯の別の世界」にしか行かれへんの」リコはそこも説明してくれた。
「他の平行宇宙では、もう隕石落ちてるとこもあったよ」
「そちらの世界ではどうして回避できたんですか?三十年って、隕石の時間ではすぐですよね」
「うーん。平行宇宙見つけちゃうって、無数の平行宇宙の中でも珍しいみたいやから、発展してたんちゃう?こっちより、科学が。知らんけど」
彼女が頷いて話を継いだ。
「なんか、そのリコさんって人、わかんないことがわかんないまんまってのが、リアルですよね。妄想の人は全部説明しようとする気がします」
「なるほど」変に納得がいった。
「よかった」
その「よかった」は唐突に彼女の口から出た。言ってから彼女は、はっとしたような顔をした。よかった?じっと彼女を見てしまったら目が合った。彼女は目を伏せた。
「建部さん、生き残れるってことですよね。よかった。嬉しいです、めちゃくちゃ嬉しい」
言いながら彼女はずっと目を伏せていた。なにかを、噛み締めているように見えた。僕はすぐには言葉が出なかった。
「建部さんはこれからも生きるんだ、と思ったら、私は幸せな余生を過ごせます。こんなに、夢のあることって、ないです」
こんな世界になっても今まで一度も思わなかったけど、僕は初めて、死んでもいいと思った。
「あの」僕は言わずにはいられなかった。
「僕と一緒に行きませんか、あっちの世界へ」
「南極はかなり溶けちゃってるみたいですね、ニュースで見ました」
青い世界で、ペンギン達が元気に歩いている。ガラスの中は暑くないみたいだ。見ているこちらまで涼しくなる。
「でしょうね、暑いし」
「南極のペンギンもいなくなってるみたいです。こういう場所でしか、もう生きられないのかな」
彼女のリクエストで、一年前に行くはずだった水族館に来ていた。ここもまだ営業していた。客は僕と彼女だけだったので、飼育員が話しかけてきたりした。
「さっきの飼育員さんも言ってましたね。魚やペンギンは、隕石のことなんか何も知らずに生きてるから、僕たちも最期までお世話しますって」
彼女はずっとペンギンをみている。さっきの問いかけには、返事はないままだ。
「何も知らないって、幸せなんですかね」
彼女の呟きは、この一年僕が考えてきたことでもあった。何か答えようとしたが、彼女はペンギンを見たままで、語り続けた。
「私はね。こんなこと言うと変かもしれないけど。なんか、あと一年ってわかってから、私、楽になったんですよね。もういいじゃないですか。将来設計、とか、幸せにならなきゃ、とか、考えなくていいっていうか。結婚とか、子育てとか、老後とか、何にも考えなくていい、ただ、今を生きていればいいんだなって」
僕は大きく息を吐いた。同じことを思っている人がここにいた。
「わかります、とても。重荷がとけたような、気がしました。何も知らずにこの一年を過ごしてたら、きっと後悔してた」
「うん、だから私、ただ、仕事をしてました。とても忙しかったし」
だから会えなかった。僕は今更その事実を、後悔として噛み締めていた。
「でもね、私思ってたんです。建部さんには会えなかったけど、もし、あの日曜日に会ってたら、そのあとどんな感じだったかなって。次は違うところに行ったり、スマホでいっぱい会話したりして、二人の将来が、はじまったのかなって。そんなことをいろいろ想像しながら、仕事してました。現実にならない想像だから、ただひたすら楽しくて、それだけで、私、しあわせで」
急に彼女は黙った。
「私何言ってるんだろう、何、すごく恥ずかしい、ごめんなさい」
「あと七日でもいいじゃないですか。一緒に、現実を過ごしませんか。そして行けるんならそのあとも、一緒に」
僕はたたみかけた。僕も同じだった。会えなくなり、返事が来なくなり、臆病になった。あまりにも出会ってすぐだった。いい思い出のまま終わった方がいいと思った。
本当はこの一年、一緒に生きたかった。
会おうと思ったらこんなに簡単だったのに。
後悔が、隕石より早く僕を押しつぶしていた。
しばらく音が消えた。ペンギンの居場所もただ無音だった。
「私、やっぱり、両親と温泉に行きます」
彼女がやっと答えた。僕は彼女を見ることができない。
「ごめんなさい。私もこの子たちと一緒で、もう、外に出ると生きられない」
彼女もペンギンを見ていた。
「誰かと、現実を一緒に過ごす勇気が、もう、出ないんです。楽しい想像のなかで、終わりにしたいんです。隕石来る直前に喧嘩しちゃったりとか、嫌じゃないですか?」
「僕らは違う世界に行けるかもしれない。信じてないかもしれないけど」
「うん、そうだったとしても、その世界に私の居場所はない気がします」
僕は黙ってしまった。彼女は微笑んだ。
「もう、新しいところに行けないの。この一年で、私、そういう意味では死んじゃったんでしょうね」
もう何も言えなかった。僕もきっと同じだ。死んでしまっていたんだ。
二人で黙ってペンギンを見た。
今死んでもいいな、彼女と、ペンギンたちと一緒に。もう一度、そんなことを思った。
死んでもいいと思う僕は今とても生きている、そうも思った。
でもまだ隕石はこなかった。
彼女は最後に、ぐっとくる顔で笑ってくれた。
「一緒にいたいって言ってもらえて、本当に嬉しかった。それを思い出したら、七日間ずっと幸せな余生です。ありがとうございます」
お別れだった。
家に戻ると、リコが僕の顔を見て何かを察したらしく、冷蔵庫からカルピスを出して、黙って差し出してきた。顛末を話すと、一言言った。
「暁人、ここで死ぬつもりやったんやね」
どうしてわかった、って顔を僕がしたんだろう、彼女はふっと笑う。
「調べてって言われたから慌ててあっちに戻って調べてきた。業者にぼったくられたわ。彼女、あっちの世界にも、おったよ」
冷たいカルピスが沁みた。
「だからここにいる彼女は連れていかれへん。あっちの世界から跳ねられる。私からそれを聞く前に、彼女に一緒に行こうって言うってことはさあ。彼女がうんって言っても、行かれへんかったら、一緒に死のうとか思ってたやろ」
「わかるんですね、なんでも」
「暁人にはそういうかっこつけのところがあったから」
リコの言う暁人は、もういない暁人だ。でも僕だ。
「なあ、この世界で生き残れるのは、たぶん、暁人だけ。暁人はずっと覚えていられる。彼女のこと。人は二回死ぬって言うやろ?実際に死ぬ時と、みんなに忘れられる時。彼女はただ一人、暁人が覚えている間、生きていられる」
リコは話している間ずっと僕を見なかった。そして急に大声を出した。
「あーなんかええこと言うてもうたわ。ガラでもないわ」
リコはカルピスを自分のコップにも注いで、すごい勢いで飲み切る。僕を説得しようとしている自分に、落ち着かないらしい。
「私は死んだ暁人を、あなたを見て思い出しながら、生きていくつもり。それでお互い様やろ?」
リコは寂しそうに笑った。「そろそろ、あっちに帰ろう?」
隕石が落ちる二日前に「業者」に頼むと、カプセルみたいなものに入れられ、意識が途切れた。気付いたら、リコ側の世界だった。世界は別の進化を遂げていて、スマホは存在しなかった。でも僕のスマホは持ち込めた。泣くほどありがたかった。もう二度とあちらの世界とは繋がらないスマホの画面を、それから僕は何度も何度も読み返すことになる。
隕石が落ちる三日前に彼女から来たメッセージ。
「いい余生を!」
「人と人が出会う確率ってどのくらいやと思う?」
リコから聞いた話を思い出す。
「調べた人がおってんけど。無限の平行宇宙で、どの宇宙でもAさんとBさんが出会う確率ってのは、分岐点が過去であればあるほど確率はめちゃくちゃ減るねん。たった二十年くらい遡っただけで、何百万分の一とかになるらしいよ」
「この出会いは運命だった、みたいなこと、よく言うけど」
「そんなん、運命なんて嘘やで。ただの奇跡やで」
「ただの奇跡」
棒読みで復唱してみたら、なんだろう、泣きたくなった。
ただの奇跡だったんだ。僕と彼女との出会いも。暁人とリコとの出会いも。
リコとは結局、遺伝子レベルで気が合うのか、同志のような関係になった。僕は「密入国」扱いで、別の「業者」が僕の戸籍とかを用意してくれていて、リコは裏取引をしたおかげで全財産をはたいてすっからかんになっていたから、僕とリコは新しい世界でひたすら働いた。働く楽しさを前の世界で知ったから、苦ではなかったし、遮二無二働いてると、生きてる意味を考えなくていいのは、楽だった。こんな平凡な僕が「前の世界の唯一の生き残り」とか、そんな重荷は背負えない。
僕はただ一人の人を覚えていられれば、それでいいのだから。
その日はリコの誕生日だった。「ガラでもないわ」と怒られそうだが、花を買うことにした。二駅先の花屋に向かった。
花束を作るのがとても不器用なその人は、左手の薬指に繊細な指輪をはめていた。
「冬用ですか?アルミが分厚いですね」僕は言った。
その人は悲しげな、ぐっとくる顔で笑った。
世界の終わりとペンギンたち 筒井透子 @tutuitoko
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