セリヌンティウスの石

朝飯抜太郎

セリヌンティウスの石

 セリヌンティウスには三分以内にやらなければならないことがあった。

 これまでに作った、いやらしい石像群の破壊である。


 セリヌンティウスはシラクスの市の石エであった。自身のエ房を持ち、弟子もいる。それが今日、突然、暴君ディオニス王から城に来るように呼ばれたのだった。それは今のシラクスでは死を意味していた。

「早くするのだ!」

 エ房の外で、ディオニス王からの使者は居丈高に怒鳴った。

 この男から三分を勝ち取るために、セリヌンティウスは十三分の時を費やした。

 作者には古代ギリシャにおける時刻がわからぬ。一分単位で計測できる気もしない。しかし、お題に三分とある以上、開き直って書かねばならぬ。

「もう少しお待ちください。」

 まだ一分と経っていないのに使者は催促する。

 セリヌンティウスは知っていた。この横柄で高圧的な使者も、ディオニス王を恐れている。恐怖から逃れるために権力に寄り添い、それでも恐ろしさは消えずに、別の人間を恐れさせることで無化しようとしているのだ。

 セリヌンティウスもまた同じである。

 理由はわからぬが、暴君ディオニス王に呼ばれたということは自分は死ぬということであろう。人を信じられず、家族でさえも処刑する暴君は、ここシラクスの市で、疫病よりも災害よりも人を殺す。とうとう来たというあきらめの気持ちが最初にあった。しかし、その次には自身でも驚くほどの死への恐怖がセリヌンティウスを襲った。しかし、使者の男と異なっていたのは、セリヌンティウスは恐怖が大きくなるほど、冷静になったことだ。

 死を受け入れたセリヌンティウスは、自宅のエ房に隠した、いやらしい石像たちのことを思った。それらはどれも見ようによっては芸術的であるとか、幼子の眼で見れば美しいというようなものではなく、ただただ単純にいやらしかった。淫猥で猥雑で実用的なそれは、セリヌンティウスの一見爽やかで朴訥な雰囲気からは想像もつかぬ、いやその風貌だからこそ逆にしっくりきてしまう、ねじくれた性癖を想起させるものだった。そして何より数が多かった。大小合わせて四百十二個もあった。

 いやらしい石像のことは弟子の誰も知らぬ。セリヌンティウスの死後、それを見つけた弟子が、何を思うだろうか。ディオニス王のように人を信じられなくなるのではないかと、セリヌンティウスは思った。


「もう待てぬぞ。直に日も暮れよう。」

「待ってください。まだ二分あります。」

「逃げようなどとは考えぬことだ。」

「そんなことは考えておりませぬ。」

 セリヌンティウスは、槌を降り、石を砕きながら思った。やはり、三分では足りぬ。

 また自分で自分の作品を壊すことは、思った以上に苦痛であった。

 ひとつひとつに思い出があった。生みの苦労があった。喜びがあった。さらば、さらば。そう言いながら槌を振るうセリヌンティウスの目から涙がこぼれた。

 そのとき、外が騒がしくなり、いくつもの悲鳴のような声が響いた。

「バッファローだ! 全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れがやってきたぞ!」

 バッファロー。北アメリカ大陸に生息するウシ科の動物、アメリカバイソンの別称。作者には古代ギリシャにバッファローがいるのかはわからぬ。しかし、ギリシャ神話にはミノタウロスとか出てくるのだし、バッファローがいたっておかしくない。そして今は一刻をあらそうのだ!

 セリヌンティウスは覚悟を決めた。セリヌンティウスは我が子同然の作品たちを、切り出した石を運ぶ荷車に放り込むと、エ房の扉を蹴破るように躍り出た。

 驚愕し、何も言えぬディオニス王の使者の横を通りぬけると、都の大路の、入口の方から土煙があがるのが見えたそちらから何人かが走って逃げてくるのが見えた。皆、家の中に隠れたのか、人の数は少ない。

「あと一分で戻ります。」

 セリヌンティウスはそう言うと荷車を引っ張り、土煙の方に走った。

 そこはシラクスの市の広場だった。昨日、ディオニス王により処刑された人間が磔になっていた十字架だけが残っていた。

 セリヌンティウスは十字架の前で、荷車を倒し、石像をばらまいた。

 安堵の息をつく間もなく、凄まじい地鳴りに、セリヌンティウスは思わず耳をふさいだ。全身がビリビリと震える。

 目前には、土色の洪水のような、全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れが迫っていた。

 もはや逃げる時間はない。

 セリヌンティウスは、両手を広げ、バッファローに向かって叫んだ。

「走れ、バッファロー! 全てを破壊しながら突き進むバッファローよ! 我が歓喜と後悔の忌み子を破壊するがいい! 私と共に!」

 雷鳴のような音がした。そのあと、一切の音が消えた。


 訪れた静寂に、家の中や屋根の上に登り、息を潜めていた人々が恐る恐る顔を出した。そして、めいめいが広場の方を見て、息を呑んだ。

 全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れが広場を埋めつくし、屋台や看板、ディオニス王の十字架を破壊して、止まっていた。

 その中心には両手を広げた一人の男がおり、その足元に大小さまざまな石像が転がっていた。

 バッファローたちは、その石像に頭を垂れるようにして止まっていた。バッファローの攻撃色である土色は、薄いサーモンピンクになっていた。

「止まった……止まったぞ……。」

「大気から怒りが消えた!」

 人々の安堵と興奮の声が伝播した。ここしばらく消えていたシラクスの喧騒が戻ったようだった。

「あの石像は何だ?」

「何と、神々しい……。」

「あそこにいるのはセリヌンティウスではないか?」

 誰かの声がしたとき、広場にセリヌンティウスはいなくなっていた。

 呆然としていた使者の元にセリヌンティウスが戻った。

「さあ、遅くなりました。行きましょう。」

「おい、お前! すごいじゃないか。」

「行きましょう。三分は過ぎました。」

「おれは奇跡を見た! 涙が止まらない……お、おれは生まれ変わるぞ!」

「行きましょう。」

 使者とセリヌンティウスは城に向かったが、全てを破壊しながら突き進むバッファローにより、建物が破壊され、道は所々埋まっており、なかなか進めなかった。そして、人々は英雄セリヌンティウスを見つけると、必ず声をかけた。

「ありがとう。あの石像はいったい何なんだ?」

 セリヌンティウスは、にやついた中年の男に声をかけられるのはマシで、女性に汚物を見るような目で見られるのもまだ嬉しくて、小さい石像を掲げて追いかけてくる子供を見るのが辛いと思った。

 城についたのは深夜だった。

 そこで、暴君ディオニスの前に引き出され、セリヌンティウスは竹馬の友、メロスと二年ぶりに会った。

 そしてメロスから、ディオニス王の暗殺に失敗し、これから処刑されるということ、その前に三日間の猶予をもらい妹の結婚式に行くこと、その人質としてセリヌンティウスを指名したことを聞いた。それらは驚くべきことだったが、この友ならあり得ることだと思った。そして、いやらしい石像を、全てを破壊するバッファローの群れにより破壊しようとして失敗し、その挙句に救世主的な目立ち方をして、石像も完全にバレたことに比べれば、全然いいように思えた。メロスの方のは小説とかにしたらいいんじゃないかと思った。

 セリヌンティウスは無言でうなずき、メロスをひしと抱きしめた。そして耳元でそっと呟いた。

「じつはこれまで出てきた工と言う字を、エロのエに替えてみたんだ。誰か気づいたかな。」

「さすがセリヌンティウスだ。私には意味がわからん。」

「ギャヒ!」「ギャヒヒ!」

 セリヌンティウスは、縄打たれ、メロスは出発した。

 初夏、満天の星である。

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