欲と評価とカップ麺

かさごさか

人には欲張らなければいけない時がある

 雨原うはらには三分以内にやらなければならないことがあった。


 ここは雨原総合調査室うはらそうごうちょうさしつ。主に素行調査やペット捜索を請け負っており、いわゆる探偵業を営んでいる小さな事務所だ。中にはやんごとなき事情を抱えた方々の仲介役や情報の売買なども非公式で請け負っている。


 事務所の奥にある給湯室で、雨原は電気ケトルと向き合っていた。そして、電気ケトルの隣には「激辛」と書かれたカップ麺が置かれていた。


 彼は今、激辛カップ麺を食べようと準備をしていたところであった。しかし、その顔は空腹で気が抜けたものとは程遠く、勝負に挑む選手のように一点を見つめていた。時折、スマートフォンをポケットから取り出し新着メッセージの有無を確認しつつお湯が沸くのを待っていた。


 雨原が気にしているのは事務所唯一の従業員かつ助手である高野嶺たかの りょうからの通知である。彼女が事務所に向かっているとメッセージが送られてきた数分前、雨原は電気ケトルのスイッチを入れたばかりであった。


 事務所の秩序は高野のおかげで成り立っているところが大きい。

 きちんとファイリングされた書類や整頓された棚。清潔な水回りに清浄な空気。

 様々な依頼者が不快な思いをせずに、事務所で過ごせているのは彼女による努力の賜物である。


 いつかの初冬、閉め切った事務所でカレーを食べていたところ、高野から少しばかり注意を受けた。それに対し、雨原は反論するどころか妙に納得したのであった。


 ここは、やんごとなき事情を抱えた来客が多い。特徴があるニオイを身につけたまま、外に出ると都合が悪い人も中にはいるだろう。


 身に纏うものが煙草であれ、カレーであれ、ニオイには変わりない。後々の会話に矛盾が生じることの無いよう、事務所はなるべく無難なニオイにしておくことで、


「まぁ、無駄に何かと巻き込まれることは少なくなるんじゃあないですかね」


と高野は床を見ながら言った。どちらかと言えば口下手なほうである彼女が自分の意見を言ったことに成長を感じつつ、雨原は謝罪をした。


 それはそれとして、今は無性に辛いものが食べたい雨原であった。激辛の文字の横に期間限定ニンニク増量と書かれているが、気のせいだろう。


 食べ頃までの三分間で事務所内の窓を開け放ち、換気扇のスイッチを入れ、少しでも痕跡を消さなければいけない。


 あと、高野に落胆されることも避けたい。今までの言動から手遅れ気味であることは自覚しているが、これ以上、彼女の中で雨原の評価が下がることは極力避けたい上司心である。若い子からあんな目で見られるのはわりとキツい。


 お湯が沸き、高野が到着する前に激辛カップ麺を完食するのが先か、彼女に刺激物を食べているところを目撃されるのが先か。

 若い頃に終電が発車する間際、駅構内を走った時のような妙な高揚感と動悸を抑えるため、雨原は深呼吸を繰り返す。


 カチ、とケトルが合図を出す。カップ麺に素早く規定値までお湯を注ぎいれ、蓋を閉じる。

 そこから雨原の行動は早かった。途中、キャスター付き椅子の背もたれに肘を強打してしまったが、それでも彼は止まらない。


 給湯室の換気扇を回し、窓を全開放し、事務所内を一周する形で給湯室へ戻る。事前にセットしたスマホのタイマーを見ると、まだ時間に余裕がある。

 買い置きしてある割り箸を割っておき、ゴミ箱の蓋も開けておこう。これで動線を含め完璧な布陣が完成した。


 アラームが鳴る。

 雨原は素早くカップ麺の蓋を外し、付属の調理油を回しかけたら麺を勢いよく啜り始めた。一瞬、命の危機を感じたが噎せている暇など彼には無い。麺を咀嚼しつつ、辛味の奥で見え隠れする旨味を感じ取る。鼻に抜けるニンニクの香りが脳を刺激し、雨原を更なる高みへと導いた。

 証拠隠滅も兼ねて、鮮やかな赤黒さを魅せるスープも喉に流し込む。塩分とか色々と気をつけなければいけない年齢だが、たまにはこういうこともしたいお年頃でもあるのだ。


 こめかみを一筋の汗が流れていく。給湯室には達成感に満たされた男がひとり、安堵の息を吐き出していた。


 おじさんと自称しているこの頃であったが、やれば出来るじゃないか。まだまだお兄さんを自称としても良いのでは?


 腫れぼったくなったような気がする唇を痺れが残る下で舐める。事務所に自分以外、誰もいないため終始真顔であった雨原の心中では勝利のファンファーレが鳴り響き、彼自身も渾身のドヤ顔であった。


 空になった器を軽く洗い流し、ゴミ箱へ入れる。換気扇を止め、窓を閉めに給湯室を出たところで事務所のドアが開いた。


「…戻りました」


 ドアを開けたまま高野が動こうとしないのも無理は無い。


 達成感に気が緩んでしまったのだろう。雨原は先程ぶつかったまま移動を続けたキャスター付き椅子に行く手を阻まれ、妙な体勢で彼女を出迎えてしまったからである。口から出てきたものが呻き声で良かった。


「おかえりなさい、高野くん」


 椅子を所定の位置に戻した雨原は、照れ隠し代わりにさっと身なりを整えるフリをして、窓を閉め始めた。それに続いて高野も手伝おうと窓に手をかけた時、雨原を見て口を開いた。


「先生、昼、何食べました?」

「ゑッ」


 今度は雨原が固まる番であった。カップ麺を食べた時とは種類が違う汗が吹き出て、背中を伝い流れていく。

 二の句が継げない雨原の様子をどう思ったのか、高野は自身の鎖骨辺りを指さした。それを見てもピンと来ていない雨原は口を半開きにしたまま、軽く首を傾けた。

 そんな上司へ、高野は内カメラを起動したスマートフォンの画面を雨原へと向けた。画面の中に写っているのはワイシャツの襟元。本来、真っ白であるはずの襟元には今、朱色の斑点模様が描かれていた。


 雨原はスマートフォンから自身が身につけているワイシャツへとそっと視線を移し、顔を両手で覆った。


「鏡、買いませんか」


 窓を閉めながら提案してきた高野の優しさに合わせる顔がない雨原は、


「…………ぅん」


と小さく頷いた。

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欲と評価とカップ麺 かさごさか @kasago210

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