あの日もし寝なかったなら

うめもも さくら

あの日も……

 私には三分以内にやらなければならないことがあった。

 部屋の机に突っ伏して眠る女はこの部屋の主。

 疲れて眠ってしまうほど、この女が必死な思いで用意した物が部屋の至る所に見える。

 私は、眠る女を横目に、それらをことごとく壊し、引きちぎり、投げ捨てて、使い物にならないようにしていく。

 メールか何かの着信を知らせる小さなバイブ音がして、私はそちらに目をやった。

 その待ち受け画面には、この女と優しげに微笑む男が並んでいた。

 それは私の世界が一変した時の写真だった。

 私は鏡などなくても、自身の顔がひどくいびつゆがめられていることがわかる。


 この女には役不足、ふさわしくない……。


 いっその事、この画面を叩き割ってしまいたかったけど、私には時間がない。

 そんな無駄なことをしている暇もない。

 私は淡々と、物事を進めていく。


 この女が必死に結んだもの。

 全部全部、引き千切ってグズグズのズタズタにして捨てていく。


――嘘つきっ……愛してるって、言ってたのに……


 この女が大事にしている靴。

 全部全部、ヒールを折ってボロボロのメチャクチャにして窓の外に放り投げた。


――似合うねって、贈ってくれた……


 この女が用意したグラス。

 全部全部、ひび割れてグシャグシャのバラバラにして壊していく。

 最後のグラスを持った時、どうやら時間切れのようね。

 私はこの部屋から、姿を消した。

 グラスの割れる音だけをこの部屋に残して。


 遠くで何かが割れた音がした。

 この部屋の主は、音に驚いて目を覚まし、そして目の前に広がった惨状さんじょうに驚き、肩を落として項垂れるだろう。


――今日も死ねなかった……


 私は謝らない。

 私は伝えたい。

 大丈夫。

 明日にさえなってしまえば私の世界はまた一変するのだから……。

 だから……


「生きて」


 自分の声にならない呟きと、遠くで何かが割れた音。

 そして天使のラッパみたいによく通る大きく高い声に目を覚ます。


「ほら、ママ寝てるんだからパパと静かに遊ぼ……あ、ごめん。やっぱり起こしちゃったか」


 よく寝てたから起こさないようにしようと思ったんだけど……と困ったように微笑む夫の笑顔になぜかひどく安堵した。

 私は首を横に振って、微笑む。


「ううん。今ちょうど起きたの。……なんか不思議な夢を見たんだけど……」

「どんな夢?いい夢?怖い夢だったなら、早く起こせばよかったね」


 夫は私達の子供を抱きかかえながら、心配そうに尋ねる。

 そんな本当の、本当に優しい夫に、私は駆け寄り微笑った。


「忘れちゃった!……それより、今、すっごく幸せだなぁって思った」

「ふふ。うん、そうだね。俺も幸せ。でも、急にどうしたの?」

「ままぁ!ぁ……んもねぇ!しゃぁーせ……」


 最愛の夫が微笑ってくれている。

 最愛の子供が私を呼んで、話してくれる。

 私は、今幸せだ。


 あの日、もし寝なかったなら。

 きっと、今の私はなかったんだよね。


――あの日も、死ねなかったなら……


 生きようと決めて、今の私がいるんだよね。


 今日の私は、いつか未来の私の思い出になる。

 未来の私に、よく頑張ったねって褒めてもらえるように。

 未来の私に、ありがとうって感謝してもらえるように。

 未来の私に、今幸せだよって微笑って言ってもらえるように。


「生きて」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの日もし寝なかったなら うめもも さくら @716sakura87

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ