私につながる全てのものたちよ
こんぎつね
私につながる全てのものたちよ
合衆国大統領オリヴィア・マリー・チリベッロには三分以内にやらなければならないことがあった。
ビーストの愛称で呼ばれる大統領専用車の中で開かれた黒色の革製ブリーフケースは、往診する医師が提げるような安っぽさだが、およそ二十キログラムと見た目より重い。
大統領が外出する際は必ず携行することが義務付けられているそれには、この世界に存在するあらゆる手荷物の中で最も重要で、フェータルな機能がある。
隣には軍の高官が控えている。開かれたケースの中には、二つの鍵穴とキーボードがついた小型のコンピュータがあった。
オリヴィアは一度深呼吸をし、手元の“ビスケット”を見る。名刺サイズのカードだ。攻撃権限認証をするための暗号コードが記されていた。
就任式で宣誓したあの日、聖書に左手を置いた時から、歴史に名を残す覚悟はできている。それが、我が国を混沌に陥れた悪名になろうとも。
オリヴィアはコンピュータの通信先である国家軍事指揮センターへ言葉を投げかけた。
「国防長官、報復投射を行うことを大統領権限で命令するわ」
二〇一六年、バラク・オバマ大統領がバイソン遺産法(National Bison Legacy Act)を成立させバイソン(バッファロー)を米国の国定哺乳類として指定したことは、アメリカ各地の野生動物保護活動家や牧場の所有者がよく称えたところであるが、その真の目的に世界が気付いたのは、それからおよそ半世紀が経過したころだった。
米空軍訓練地域にて十マイル四方の地形を大きなクレーターに変える大爆発が起こり、それが遥か天空から墜落した何がしかによる現象であり、さらにその何がしかの正体が遺伝子操作された一頭のバッファローであることがニュースとして国民に知れ渡った頃には、イエローストーン国立公園の傍に電磁力戦術バッファロー投射機が敷設され、一連のテストを終えた報告がペンタゴンの長官のデスクに纏められていた。
その四半世紀後には、かつての核保有国の戦術兵器のほとんどがバッファローを投射するそれへと入れ替わっている。
核兵器が忌避される大きな理由の一つには、核分裂生成物を含んだ塵が飛散し生活環境を汚染することが挙げられる。これを軽減することは、相互確証破壊により世界の均衡を保ってきた核保有国にとって大変な難題であった。
そして、バッファローはこれに対する福音であった。彼らの強靭な肉体は、成層圏に達する加速度と、落下時の断熱圧縮、着地時のすさまじい衝撃に難なく耐えた。最も重要な攻撃能力については、遺伝子操作により角を肥大させることで強化を図り、それは数年で成功した。
バッファローの飼育管理については、古来彼らと共に過ごしてきたインディアンの系譜を汲む、ノースダコタ、サウスダコタ両州のスー族が名乗りを上げ、完璧にこなしてみせた。
彼らバッファローが生活環境にもたらす汚染といえば、ささやかなよだれと糞尿、げっぷした際のガスくらいのものだった。
なお、バッファローを衛星軌道上から投下する計画もあったが、無重力下でのバッファロー飼育は体躯の発達とその維持に難があり、当時敵国が発表していた迎撃用バッファローに七十五パーセントの確率で当たり負けするとの予想が示されたため断念された。
イエローストーン国立公園付近の電磁力バッファロー投射機は、人工衛星が敵国からのバッファロー投射を観測すると同時に起動し、まず迎撃バッファローの投射を行う。人工衛星が発したエマージェンシーは四十五秒以内に大統領に伝達され、それを受けた大統領は国家軍事指揮センターとコンタクトを取り、戦術AIと軍高官が示した助言を基に五分以内に対処方法を決定する。
人工衛星が敵国からの六十八頭のバッファロー発射を観測したとの報告を受けてオリヴィアが大統領権限で決定したのは、報復バッファロー投射。相互確証破壊の何たるかが、いま初めて世界に示されようとしている。
軍高官とオリヴィアがそれぞれのキーを鍵穴に差し込み、手元のビスケットに記された暗号コードをオリヴィアが入力した。エンターキーを押せば、まもなく全ての戦術バッファローが電磁投射機にセットされる。軍のマニュアル通りに事が運ぶなら、その後順次投射が開始され、敵国の全てを破壊するだろう。オリヴィアは震える手で、しかし迷わずキーを押した。
二〇七〇年に打ち上げられた人工衛星タタンカの名の由来は、アメリカ大陸の先住民族インディアンにある。ラコタ族の言葉でアメリカバイソンを意味するその名は、国家安全保障においてバッファローが特別な位置づけを得たことのこの上ない証左となった。
バッファロー観測技術の発展に大きく貢献し、人工衛星タタンカの開発に深く携わったハロナ・ウィリアムズ女史は、ノースダコタ州の特殊基地の一室で、天に向かって伸びていく迎撃バッファローの軌跡をモニター越しに見ていた。我が子タタンカが正しく機能した証である。
ハロナの母はインディアンだった。近代化を頑なに拒否し、伝統的なインディアンの生活様式を厳格に守る女性だった。インディアンの研究者である父と知り合い、愛を育み、ハロナが生まれてからも、インディアンのスピリットを手放すことはしなかった。インディアンの友、バッファローが白人によって駆逐され、イエローストーン国立公園に押し込められた記憶を、ハロナは母親から寝物語で聞き、父にねだってそこに連れて行ってもらった。
彼らの解放はすなわちインディアンのスピリットの解放なのだ。盟友を果ての無い平原へ放ち、白人のくびきから逃したい。毎夜母の夢を聞いて眠りについていた小さなハロナは、いつかそれを叶えてあげたいと思うようになった。
数十年経った今まさに、我が子タタンカがそれを達成したのである。
見よ、まもなくオリヴィア・チリベッロにより戦術バッファローに自由が与えられる。
全てのバッファローが、放たれるのだ。誇り高きインディアンのスピリットと共に。
「オリヴィア、学生のとき以来ね、私たちが一緒に何かを成し遂げるのは」
バスケットボールでポイントガードを務めていたオリヴィアを思い出しながら呟き、ハロナ・ウィリアムズは手元のキーボードを叩き始める。ハロナにはあと三分以内にやらなければならないことがあった。
国家軍事指揮センターのある技術士官が、衛星画像とモニターに表示されているパラメータの矛盾に気付いたのは、既に大統領のバッファロー投射命令が出された後だった。仮に報告が間に合ったとしても、国防長官に大統領命令の拒否権は無い。全てはシビリアンコントロールのもとにつつがなく進み、戦術バッファローの発射シークエンスが不可逆的に処理されていく。
「衛星のハックだ! タタンカがハックされてる!」
その技術士官は叫んだ。
「敵国のバッファローの投射なんて嘘っぱちだ。神様……」
イエローストーン国立公園付近の基地から放たれた迎撃バッファロー達は、体内に埋め込まれたチップから発される命令を受け、四肢と尾を器用に使い空中制動を行っていたが、迎撃すべき敵性バッファローを最後まで捕捉できず、やがて地に落ちていく。発射から三分十二秒の後、大きな振動が基地に届き、迎撃バッファローの着地を知らせた。
同時に、バッファロー達の体内チップが、どこからか新たな命令を受信した。バッファロー達はその命令に迷いなく従い、ある地点へ向けて走り出す。
「ハロナ・ウィリアムズ! キーボードから手を離すんだ!」
ノースダコタ基地の一室。扉が破られ、女の手で積み上げられた弱々しいバリケードは屈強な男たちの一撫でで吹き飛ばされた。
四つのカービン銃がハロナに向けられている。
全てを終えていたハロナは、晴れやかな笑顔でその兵士たちに向き直った。
「抵抗するな。まず手を見せろ!」
ハロナは言われた通り、白衣の袖をまくり、両手を上げた。
「衛星をハックしたのは私です。開発段階でバックドアを作っておいたの。逃げないし、抵抗もしないわ」
「何が目的だったんだ」
カービン銃を構えている部隊長らしき兵士の問いに、女史は悪びれもせず答える。
「バッファローの解放。ひいてはインディアンの魂の解放よ。そしてもうすぐ完了するわ」
「戦術バッファローで無辜の人々を殺して、何が解放だ」
「いいえ、戦術バッファローは発射されません」
「……何を言っている?」
律儀にイエローストーン国立公園発射基地の映像を中継しているモニターを、ハロナは顎で指した。モニターに映っているのは土煙。スピーカーが出力しているのは地鳴りのような音。カメラが振動で少しずつ定点からズレていくのがわかる。
推量の余地はない。バッファローだ。
着地した迎撃バッファローの群が、投射基地を攻撃しようとしている。
正確には、そこに設けられている、発射秒読み段階の、数多の電磁力バッファロー投射機群を。
「何をした!」
「言った通りのことを」
「やめさせるんだハロナ。今なら間に合う」
「既に彼らは私の手を離れたわ。
「……どちらにせよ、お前は終わりだ。ハロナ・ウィリアムズ」
言葉とは裏腹に、諦めたような顔をしていたのは部隊長であり、大業を成し遂げた誇りに満ちているのはハロナの方だった。
電磁力バッファロー投射機が、遺伝子操作により肥大したバッファローの角によって次々と破壊されていく。一号機から順に、満遍なく確実に。発射を待つばかりだった戦術バッファロー達は、自らを縛る投射機が破壊されるたび、自由の雄たけびを上げて駆け出し、あるいは同胞を助け出すために投射機を破壊する群に加わっていく。
そうして地に広がった金属の残骸の中で、一つだけ破壊を免れた投射機があった。
否、免れたのではない。バッファロー達は、それを残すよう命じられたのだ。一頭だけ、ある目標に向け射出されるバッファローがいた。
ハロナは両手を縛られ、部隊と共に階下に向かう途中だった。通路に設置された電波時計の時刻を一瞥した彼女は、くすりと笑い、呟く。
「
その言葉がインディアンの祝詞であることを、兵士たちは知らない。イエローストーン国立公園発射基地から飛び立った一頭のバッファローは、ノースダコタ基地に向かい四肢を躍らせる。
彼は、イエローストーンで共に育った同胞の中で、目的地に向かって飛翔する初めての個体だった。原初の昂揚感から出た彼の叫びに、果たしてその誇りは混じっていただろうか。ノースダコタ基地に角を向けたそのバッファローは、廊下を歩くハロナと兵士たちのちょうど頭上に華々しく降り立ち、彼らの最期を彩った。
ワシントン、オレゴン、アイダホ、モンタナ、ワイオミング北部、ノースダコタ、サウスダコタ、ミネソタは、戦術バッファローの勢力下に置かれ、それを御することができるインディアン達が、各州の実権を握ることとなった。ハロナの母の夢は、アメリカ合衆国を南北に二分することで叶った。
オリヴィア・マリー・チリベッロは、彼女の覚悟どおり、歴史に大きく名を残す大統領となった。北米大陸をバッファローが蹂躙した第二次南北戦争は、彼女の号令から始まったからだ。
私につながる全てのものたちよ こんぎつね @kitsune_abrage
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