今日の選択、あなたの笑顔


「あなた、今日は雨が降るそうよ。傘持って行く?」


 よく晴れた金曜日の朝、とんちんかんなことを言いながら、妻の恵理子が玄関で俺に透明の傘を差し出す。コンビニに売ってある五百円のビニール傘だ。私は「うーん」と少し考える。こんなに晴れているのに傘? 傘は持って行けば荷物になる。さらに、電車や職場に忘れてしまうリスクまで生まれる。小さい傘はカバンの中を圧迫するし、濡れた後がややこしい。でも、目の前で傘を差し出してくる恵理子の好意を無駄にしてもいいのだろうか……。


 持って行く時と行かない時のメリット・デメリットを散々考えた挙句、俺は傘を恵理子から受け取った。にんまりと笑う彼女。


「あ、あとこれも。アイロンかけておいたから。いる?」


 首肯すると、俺の手にブルーのハンカチを握らせて、「いってらっしゃい」と見送

ってくれた。



 職場に着くと、早速デスクの上に「新商品企画書」と書かれた書類と、「どちらか良いと思った方を選んでください」というメモ書きが添えられていた。


「あ、池田課長、その企画書部署内で回してるんです。どっちか選んでください。課長の意見は二票分ですよ」


 部下の女性が軽くウインクをして俺に用件を伝える。どうやらこの企画書は彼女が作ったらしい。俺は一通り企画書に目を通して、あまり票が集まっていない方にハンコを押した。


 昼休み、会社近くのお弁当屋さんで焼き魚弁当かハンバーグ弁当が迷って、結局ハンバーグ弁当にした。事務所に戻って弁当を開けると、副菜のにんじんが硬くて、生臭い味がする。マイナス十点。焼き魚の方の副菜は美味しそうな茄子の煮付けだったが、ハンバーグ食べたさにやられてしまった。


 夕方ごろ、そろそろ定時退社に向けてソワソワし出す部下たちを尻目に、俺はいそいそと明日の会議の資料をつくる。今日は何時まで粘ろうか。課長という立場ゆえ、あまり早く退社するのも気が引ける。定時は午後六時なので、七時には出よう。

 朝、企画書を回していた部下が、「課長の選んだ案になりました」と嬉々として報告をしてきた。


「私、こっちの方が良いと思ってたんですけど、みんな逆を選ぶから困っちゃってて。課長が推してる方を選んでくれて助かりましたー!」


 定時も近づいたこの時間に、まだこれほど元気良く話せるのは良い心意気だ。部下の笑顔が見られたので、プラス二十点。

 無事に納得のいく企画書を課の意見として提出することに成功した彼女は、その後も定時まで意気揚々と仕事をして退社していった。

 俺は溜まっていた資料作りの仕事を片付けるも、途中で肩こりがひどくなってしまった。マイナス五点。でも予定通り定時から一時間で帰路につけたのでプラス五点のプラマイゼロ。


 会社からの最寄駅に行くまでの道で、カラスから糞を落とされた。マイナス三十点。カバンにこびりついたそれを、駅のトイレで流す。

 自宅までの電車はちょうど帰宅ラッシュで、鮨詰め状態になり息が苦しい。マイナス十点。ようやくたどり着いた自宅の最寄駅で降りると、冷たい何かが頬をかすめた。


「え、雨?」 


 同じ電車に乗ってきた連中が、みな戸惑いの表情を浮かべる。雨足はどんどん強まり、三分後にはザーザーとバケツをひっくり返したような雨に変わった。


「うわー最悪!」


 みな、絶望しながらタクシーに乗ったり、カバンを頭に乗せて走ったり、コンビニに傘を買いに行ったり。俺も一瞬どうしようかと焦ったが、自分の右手に透明な傘が握られていることに気がつく。


「あっ」


 傘を持っていることを忘れていたなんて、バカだ。

 これは恵理子が今朝俺に渡してくれたものだ。迷ったけれど、彼女の言う通りにしたがってよかった。

 俺は余裕の表情で駅で傘を広げ、自宅まで胸を張って歩いて帰った。自宅のマンションにたどり着くと、濡れていたカバンをこれまた恵理子から受け取ったハンカチで拭いた。プラス五十点。今日の選択は、合計でプラス二十点。今日も勝ったな。

 鼻歌混じりに自宅の玄関を開けると、恵理子が「おかえり」と柔らかい声で俺を迎えてくれた。


「聞いてくれ。今日本当に雨が降ってきたから、傘持って行ってよかったよ。おかげで今日はプラス二十点。俺の選択にミスはないな」


 恵理子は上機嫌な俺の顔を見て、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

 なんだ、どうしたんだ? 俺の顔に何かついてるのか。まさか、またカラスの糞じゃないだろうな!?

 色々と勘ぐり始めた俺をよそに、恵理子の表情は可愛らしい笑顔に変わっていた。


「あら、傘を渡したのは私じゃない。あなたの笑顔が見られたから、私の今日の選択は百点だわ」


 澄んだ声で堂々と胸を張って俺に主張をする恵理子。


「お見それいたしやした……」


 俺はたぶん、二度と今日の選択で恵理子には勝てないだろう。でも、心は晴々としていた。 

 きみの笑顔が見られるなら。          


【終わり】

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寝る前に読める二千字小説 葉方萌生 @moeri_185515

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