くろぐろ爪のイバリグソ汁の呪い

DITinoue(上楽竜文)

くろぐろ爪のイバリグソ汁の呪い

 俺には三分以内にやらなければならないことがあった。あるらしい。

 三秒前に届いた、「manakohate」というアカウントからのメール。

 どこかの企業からのオファーかと思ったが、それにしては、アイコン画像があまりに不気味すぎる。

 それもそのはず、十数個の白い小さな球――ところどころ、黒い円が覗いてる――が、辺の長さも角の大きさもバラバラの四角形に並んでいるアイコン画像。

 明らかに、その白い小さな球は、眼球以外の何でも無かった。


 ――目玉を十数個並べて作られたストーンサークル。


 何の意味があるのか、どのようなメッセージがあるのかはまるで見当も付かないが、メッセージがとんでもなく突飛な内容であることは容易に理解することが出来る。


『今から全ての爪を切り、それを墨につけよく混ぜろ。混ざれば、今度は砕いた黒鉛を揉み込め。その次に、それを足で良く踏み、爪をすり潰すのだ。最後に、自分の糞尿をたっぷりと混ぜろ。それを三分以内にしなければ、貴様は命を絶たれることとなる。決してウソではない。

 そして三分以内にそれを作り上げたとして、次の三分でそれをからすの羽と一緒に、血の繋がり、あるいは身体の関係を持っている人間に飲ませなければ、強力なウイルスにより、二十四時間を掛けて人類が滅亡することになる。条件に当てはまらない人間に飲ませると、相手の家と自分の家が消し去る。条件に当てはまる人間に飲ませさえすれば、自分は助かる。

 さあ、時間は無い。タイマーは既に刻々と時を消化している』


 何の前置きも無い。

 いきなり命令が飛んでくる。その内容が、ぶっ飛んでいる。

「人類が滅亡? 笑わせるな」

 俺は吐き出すように言った。

 ハハハハ、とわざとらしく笑った。その声も、張り詰めた糸みたいにビンビン震えていた。

 実際のところ、この馬鹿みたいなメールに戦慄している自分がいた。身体の震えを隠せなかった。滝のように噴き出す汗を抑えられなかった。

 ――一体、何のいたずらなんだよ。

 慄くだけの要素を、俺は持っていた。



 ⚠⚠⚠



 大学四年も最終盤、俺も必死に就職先を探していた。数々の企業の面接を受け、受けた回数分落選通知が届くというエンドレスゲーム。

 今日も、電車に乗って降りて歩いて座って話しただけなのに、心身共にクタクタに疲れてマンションのワンルームに帰ってきた、その矢先だった。

 ――あれ?

 靴を脱ぎ、手洗い場へ向かおうとした時だった。靴箱の上に、妙な透明感のある白い物体を見止めた。

 ――死んでる?

 細長い水槽の一番端の方に、一匹のメダカが驚愕するかのように目を見開いて、逆さになってぷかぷか浮いていた。それは倒れた幽霊花嫁のようにも見えた。

 が、そんなことを考えていると、水槽全体に異様なものが充満していることに気づく。

 一度目を瞑り、もう一度開けて水槽を見回す。


 案の定、十数匹いたはずのメダカが、水面に落ちた桜みたいに、みんなぷかぷか水面に浮いていた。


 ――なぜだ?

 何か、毒物でも入っていたか? カルキが抜けていなかったのか? それとも、ウイルスにでも罹患したのか?

 脳内で、様々な可能性がグルグル回っては消えていく。水を換えたのは二日前で、家を出る前、九時くらいにはみんな元気だった。

 エアーポンプも正常に動いているし、水草は元気に水流にはためいている。

 ――なぜだ?

 ぎょろりと目を見開いたメダカたちが、そう問いただしてきているような気がした。


 ひとまず、全部を網で掬って、下の公園に埋葬して、再びドアを開ける。

 と……すぐに耳につく音がする。心を逆撫でする、アブが飛行する時のような音。

 思わず俺は耳を塞いだ。

 靴を脱ぎ、手も洗わずにリビングへ入る。

 正体は、止まることなく、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる回り続ける時計の針だった。


 ガチン!


 これまで見たことのない、異様な光景に言葉を失っている時に響いた、窓の何かがぶつかった音。

 グアァーッ、グアァーッ!

 枯れた悲鳴。

 時計に注いでいた目を、ベランダへ出る窓へ向けた。ベランダでは、からすが暴れもがいていた。悲痛なほどに潤んだ目で、必死に飛び上がろうと、仰向けになって羽をバタつかせていた。

 ビュゥゥと強い風が吹く。それに乗って、バラバラバラと雨が地面に突き刺さってゆく。

 これ以上見ていられなくなって、俺はトイレへ駆け込んだ。その矢先に、スマホが振動した。

 ――採用通知か?

 浮かんだ希望は、額を一度殴って揉み消した。



 ⚠⚠⚠



 作ったものは、近しい人にしか飲ませてはいけないという。

 ――俺には、彼女がいる。家族がいる。

 家族は、言うまでもなく特別だった。これまでどれだけ金を借り、それ以上の温情を注いでもらったことか分からない。とことん甘やかされたと思う。放任主義で、いくら跳ね返っても、丁寧な語り草でこちらの心を丸く収めてもらっていた。

 彼女は、建築学科の仲間だった。好きなアニメ、漫画、音楽、全てが一致していた。彼女が作るスフレチーズケーキは格別で、しゅわしゅわした青春の感触が忘れられない。

 ――嫌だ、そんなことするわけがない。

 だが、そうしなければ世界が滅亡するのだという。未知のウイルスによって。

「そんな馬鹿なことが、あるかよ!」

 改めて俺は、叫んだ。ほぼ絶叫に近かった。聞こえるのか聞こえないのか分からないくらいに小さく反響した。

 刹那。


 ガンガンガン!


 ――え?

 現実から必死に逃げようとする思考に、急ブレーキがかかった。

 ガンガンガンガンガンガンガンガン!

 誰かが、ものすごい強さでドアを叩いている。

「だ、だれ……だ?」

 声にならない声で、ドアの向こうには聞こえるべくもない。

 ドアを殴打する音は俺の心を重苦しく叩いている。ぐらぐらぐらぐら、ぐらぐらぐらぐらぐらぐら。柱が揺れている。

 カタン!

 突如鳴った、ドアを叩く音とは違う軽量の音に、俺は思わずそちらを覗きに行った。

 正体は、ポストに投げ込まれた斧のような形をしたナイフと、一枚の紙だった。

 ひらりと舞い降りた紙が、勝手に文面を俺に見せてくれた。


 滲みの酷い赤黒い文字で、『時間はもう無い』と書かれていた。




 ――ヤバい。

 大慌てで爪を切ったおかげで、足からは血がダクダクと出て、足跡代わりに血の跡がナメクジの這った後みたいに残っている。

 ポストに一緒に投げ込まれていた墨汁を必死に爪にしみ込ませ、シャープペンシルの芯を砕いて馴染ませ、それらを入れたビニール袋に糞尿を出した。

 その間、世界は完全に俺一人だけの空間で、テレビの声も、ドアの音も、ドアを叩く相手の声も聞こえなかった。

 何度も吐き気に襲われ、ダラダラと口から黄土色のぶつぶつが垂れてきている。


「残リ一分」


 と、言う声が聞こえたところでやっと、意識がはっきりした気がした。これまで起こったことの記憶が四散する。

 ――あとは足で踏むだけ。

 ばり、ばり、ばり、ばり

 袋を足で踏む。爪が割れる感覚と、自分の便のぎゅにゅ、ぎゅにゅ、という感覚のミックスが、トイレの臭いと一緒に喉を乾かす。再び脳に砂嵐が起こり始めた。

 ――大体、砕けたか?

 息を止めて、俺は袋を開いた。中から、一匹のアブがプーン、と思わず鼻をつまみたくなる臭いを媒介して飛び出してくる。

 ひとまず、便と混ざって尖った爪はほぼ見えなくなってきている。


「終わったの、カ?」


 どこからか、カタコトした声がする。ドアから聞こえているはずなのに、なぜか背後にいるような気がする。カタコトしているのだけども、日本人らしく、どこか刺々しく……感覚としては、宇宙人に近い。

「終わり、ました」


「なラ、これから三分間デ、条件ニ合う人間を呼ビ出し、それヲ飲ませロ」




 ズドーン、ズドーン

 小さなテレビから、大音響の爆撃音がする。

 ギャーッ、イヤァーッ、ウゥーウゥーウゥー、グスッグスッ、ママー! パパー!


「残リ時間、二分」


 額に汗がぐっしょり染み付いている。

 今、俺はスマホを震え、汗ばむ手で握りしめている。

『今から、来れる?』

 彼女へ向けて打ち込んだ、八文字のメッセージ。送信ボタンを、押そうとしては、止めて、腹筋に力を入れて脳にも力を入れて踏ん切りをつけて、またボタンの一ミリ手前まで手を近づけて、躊躇する。その繰り返し。

 プゥン、プゥン

 小ハエが、ビニール袋の口に集まっている。

 ――ヤバい。

 ダンダンダンダンダンダンダンダン

 ドアを叩く音がますます大きくなっている。

 ――押さないとダメだ。

 汗をぬぐって目を瞑り、声を出しながら親指を下ろそうとした。

 その時、瞼裏に彼女の屈託のない、本物の笑顔がよぎった。

 コツン

 床に、スマホの角がぶつかる。

 ――ダメだ。

 彼女にこんな酷いものを飲ませて殺すなんて、俺には……。

 夜の闇が、また一段と深くなった。


「残リ、一分」


 もう、人をここに呼ぶことはこの時間ではまず不可能だ。

 なら、残された選択肢は一つ。

 ――世界を、滅ぼす。

「っ」

 刹那、くるぶしを巨人に握り潰されたかのような激痛が神経を走った。

「っがぁっ」

 その激痛が柔らかい脳に突き刺さる。

 足の先がじんじんと弱い電流が走るような感覚に襲われた。指先が象のように太くなったような気もした。

 ――これが、ウイルスか?

 ズドーン、ズドーン

 また聞こえてくる爆撃音。

 ギャーッ、イヤァーッ、ウゥーウゥーウゥー、グスッグスッ、ママー! パパー!

 数々の悲鳴、人々の叫び。悲鳴の数だけの悲劇。

 アイムウィナー! ウェーイヒュー!

 そして、重大な罪を犯したことのない人々に、身体的なもの、そしてそれ以上のものを与える指導者と、それに賛同する声。

 ――この世界は、滅ぼした方がいいのかもしれない。


「残リ、三十秒」


 刻々と過ぎていく時間に置いて行かれているみたいに、俺はボーっと、身一つで瓦礫の積もる街を泣きながら歩くちびっ子を見つめていた。


「残リ、二十秒」


 俺の手には、ベランダで羽を大の字に開けて横たわる黒い鳥から千切ってきた一枚の黒羽があった。

 だが、それももう遠くへ投げ捨ててしまおうと、フリスビーを投げるように振りかぶった。

 その時。

 ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデートゥーユ、ハッピーバースデーディア……

 テレビから、何の邪気も含まない人々の声が聞こえた。

 自然と視線はテレビへ向く。

 そこでは、防空壕の中で誕生日を迎えた子供を祝う人々がいた。ケーキを持った子供の周りには、家族以外にもたくさんの人々がいる。ろうそくに照らされた人々の顔は、土埃まみれだけども、にっこりと笑っていた。

 ――今日も、知らない誰かの誕生日なんだ。

 誰かが、無邪気に笑って生きているんだ。


「残リ十秒」


 ふと俺は閃いた。

 条件に合う他人に飲ませればそいつだけが死ぬ、条件に合わない他人に飲ませればその一家と俺の一家が滅ぶ、誰も飲まなければ世界が滅ぶ。

 ――第三の選択をすれば、どうなるのだろう?

 

「残リ五秒」


 俺は手に持った烏の羽を口に放った。

 いくら凄惨な涙を流して行く当てもなく彷徨う子供がいるのだとしても、その子供がそのまま道端で倒れてしまう未来はどれだけの確率であるのだ?


「四、三、二」

 袋の中に入ったものも全て口の中に入れた。

 溢れそうになるのをこらえて、涙もこらえて、喉へそれらを送り込む。

 ――俺一人の命で、全世界の人間を救うことが出来るのなら、安いものだ。


「一」


 味は、無かった。ただ、こらえた涙の塩辛い味だけが余韻として口内に残っていた。


「零」


 身体の中心が爆発して、皮膚が剥がれ、肉が爛れていく感覚だけ、俺は感じた。脳内の色彩がゆっくりとモノクロになりながらフェーズアウトしてゆく。

 実際のところ、これでどうなるのかは分からなかったが、どうやら世界は滅びず、俺だけで済んだらしい。

 ――床が、温かい。


 最後に視界に入ったのは、春の陽気に照らされ、母親の胸の中で純粋な笑みを浮かべるちびっ子と、その笑い声だった。

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