凍える息
@ninomaehajime
凍える息
あれらはどこにでもいた。
家の庇の上、押し入れの中、
この奇妙な隣人たちは、人の目には見えない。僕は生来より五感以外の感覚が秀でているのか、あれらの気配を感じ取れた。そのために、しばしば危険を招いた。
厠で用を足しているときだった。暗い天井の片隅に何かがいるのに気づいた。とっさに口を押さえると、自分のものではない物音が聞こえた。不明瞭な呟き声が首を伸ばしてきて、耳で何かを囁いてきた。人の言葉ではない。
しばらく息を止めていた。堪え切れなくなり、口から手を離した。肺が新鮮な空気を求めて、陸に揚げられた魚のように荒い呼吸を繰り返す。見えない気配が消えていることに、心底安堵した。
この方法は旅の僧に教えられた。村に立ち寄った僧侶に思い切って悩みを打ち明けると、彼は笑うでもなく言った。
「息を止めてごらん。呼吸は生者だけがするものだから、彼らを欺ける」
笠の下から覗く薄い瞳に、少しだけあれらに近しい気配を嗅ぎ取った。
僧の言った通り、息を止めると彼らは僕を見失った。臭いの痕跡を辿る犬のように、しばらく辺りをうろついてはいなくなる。疑似的に死人を装うことで、あれらに近い存在になるのだ。
思うに、彼らは孤独なのではないかと思う。その暗闇の中に松明を放りこまれれば、遠くからでも引き寄せられるのだろう。
あれらは、自らに気づいた者に気づく。
このことは親兄弟にも話さなかった。頭がおかしくなったと思われるだけだろうし、狭い村の中で広まれば村八分にされかねない。だから、行きずりの僧にしか打ち明けられなかった。
冬の季節だった。弟の一人がいなくなった。野兎を追って山に入り、姿が見えなくなったのだという。村の大人たちが弟を捜した。僕も居ても立ってもいられず、捜索に加わった。
重みで枝から雪が落ちた。白く息が凍る。冬の山中で弟の名前を呼んだ。あまり深く立ち入れば、自分も遭難しかねない。そう思いながら気が逸り、奥へと足を踏み入れた。いつの間にか大人たちとはぐれていた。
何かがおかしかった。村人の呼び声が聞こえない。白く降り積もった山中は
そこにあるのは足跡だけで、見えない何かが雪を踏むしだくように、こちらへ向かって続々と刻まれていく。僕はすぐに口を押さえて、木の幹に隠れた。
「兄ちゃん」
声が聞こえた。間違いなく弟の声だった。
「兄ちゃん、どこ」
平坦な声音で僕を呼ぶ。木の根元にしゃがみこむと、その周りに小さな足跡が円を描く。息を殺しながら、目尻から涙が溢れた。
そうか、お前はそちら側に行ってしまったのか。
漏れ出そうになる
ごめん、僕はそちらへは行けない。
やがて弟の声が聞こえなくなるまで、僕は泣きながら息を止め続けた。
凍える息 @ninomaehajime
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます