探検家ロカテリアの受難【KAC20241と+】

竹部 月子

探検家ロカテリアの受難

 探検家ロカテリアには三分以内にやらなければならないことがあった。

 水底に沈みつつある愛用のトランクを回収し、海面に顔を出すことだ。


 泳ぎは得意だが、船の甲板から海に落とされたせいで、準備が十分とはいえない。

 贅沢を言えば、一度息継ぎをさせてほしいところだが、すでにトランクの影はおぼろげになりつつある。目を離したら永遠に失われることは確実だ。

 しかたがないね、と彼女は潜水を開始した。


 昨日からの雨で水は濁り、魚の姿も見当たらない。

 ほどなくしてトランクの取っ手をつかんだ彼女は、大事そうにそれを抱いて、遙かに遠ざかってしまった海面を見上げた。


 空気がなければ人は三分で死亡する。そんなことが分からない探検家ロカテリアではない。

 しかし、先ほどまでの醜悪しゅうあくな騒がしさと比べて、水底はあまりに静かだった。

 彼女は目を閉じて、自分の胸に問いかける。この人生に、あと何の未練があるというのか。

 

「……ガァボ」

 貴重な酸素が、つぶやきと共に口の端から漏れて水面へのぼっていった。

 カッと目を見開いたロカテリアは、重いトランクを抱えて猛烈な勢いで水を蹴り、急浮上していく。


「ぶはっ!」

 海面に顔を出した彼女は、数分ぶりの酸素を存分に吸い込むと、すぐに天を見上げ、月の方角と真逆へ進路を取る。

 船に乗っている間、岸の方角を常に把握しておくのは、探検家のたしなみのようなものだ。


 痩せた体つきからは想像もつかないような力強い泳ぎで、ロカテリアは砂浜にたどり着いた。

 さすがに水から上がってしばらくは、前かがみになって荒い呼吸を整える。

「トシだね」

 しゃがれた声が砂に落ちた。


 一束に編んだ白髪しらがのおさげから海水を絞って、ピッと背中の方へ流す。

 張り付く前髪をかきあげた額にも、手の甲にも、七十歳という彼女の年齢にふさわしいシワが刻まれていた。

 

 ウキウキとした手つきでバックルを外したトランクは、完全に水没したというのに中には水が入っていない。ロカテリアの宝物であり、大切な仕事道具入れなのだ。

 油紙で包まれていた金属の缶から、ロカテリアは慣れた手つきでタバコを一本取り出し、一緒に入っていたマッチで火をつけて、実にうまそうに煙を吸い込む。


「あぁ、やっぱり一服してからじゃなきゃ、死んでも死にきれなかったねぇ」

 そう、海中でつぶやいたのは「タバコ」だ。

 

「おぼえておいでよ、クソ野郎ガキども……」

 今までの探検家人生において、資金のため、好奇心のため、悪いことをしてこなかったとは言わない。

 しかしこのたびの話のきっかけは、珍しくロカテリアが被害者だった。


 何があったか知らないが、街はずれの牧場から、全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れが解き放たれた。

 しかも群れが向かう先は市街中心部、最悪な未来しか想像できない進路だ。


 真っ青になって追いかける牧場主に、ちょうど居合わせたロカテリアが「手伝おうか」と声をかけてやった。

「助けてくれ、捕まえてくれたらバッファロー一頭につき、金貨一枚払ってもいい!」

 ロカテリアをどこかの農家の婆ちゃんだとでも思ったのか、牧場主は破格の条件を掲げる。

 彼女は颯爽と馬を駆って、バッファローの群れを荒地に導き、半数以上の三十頭を牧場へ連れ帰ったのだ。


 事態が収まると、牧場主は「金を少し待ってくれ」と言い、次には「隣の島に住む親せきから借りるから、船で同行してくれ」と言ってきた。

 そして実際に船に乗り込むと、ギャング崩れのような男たちに囲まれたのだ。


「老い先短いんだから、もう少し負けてくれよ。金貨三十枚は、がめついぜババア」

 銃をちらつかせながらニヤニヤと言う男たちを、ロカテリアは「クソガキどもが、黙って払いな」と鼻でわらった。

 まぁ、そうなると牧場主だって返せるセリフは、そう多くない。

「ごうつくババアめ、金貨じゃなくてなまり玉をくれてやるぜ」と、なったわけだ。


 ひい、ふう、みい。指折り数えたのは、甲板で大立ち回りをした彼女がのした・・・男の数。

 多勢に無勢で、最後は海に叩き落とされることにはなったが、むこうが老婆ひとりにやられた事実に比べれば、些細なアクシデントのうちだろう。

 探検家としての彼女の、ごく通常営業だったとも言える。

 

「ああ、半端に死に損なったもんだから、血が騒ぎはじめちまったよ」 

 ロカテリアは、新しく火をつけたタバコを口の端にくわえ、その受難に苦笑いした。

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探検家ロカテリアの受難【KAC20241と+】 竹部 月子 @tukiko-t

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