駆けて、駆けて、

コマチ

第1話

 駆けて、駆けて、ただ目の前のテープラインを一歩でも早く、コンマ一秒でも早く。

 景色が飛び去って行く。

 自分の心臓だけがダクダクとフル回転して、ギウと瞳孔が開く。

 横を駆ける音は聞こえない。

 ただただ、あのラインを。


 ゼェゼェと肩を、体を大きく上下させる後輩を関係者席から見ていた。彼は僕の二個下の選手。僕よりもずっと走るのが早くて、将来有望だと先生やコーチにも言われている。

 でも、今の姿は。


「竹下」


 夏の大会は、彼は不動の一位だった。全国大会にも進んだ。そこでは入賞止まりだったが、それでも凄いことだ。僕の学校で唯一の全国クラスの選手。

 けれど彼、竹下は慢心なんてこれっぽっちもせず、練習に打ち込んでいた。


「俺は、絶対にオリンピックに出るんです」


 竹下の口癖だった。この地区じゃ負け知らずのエース。陸上部は沸き立って、彼をサポートした。

 僕もそうだ。専門種目は同じ、だけど竹下の方が有望なのは当たり前で、僕もそれに不満を覚えたことは無い。だから僕は先輩なりに竹下を応援したし、出来る限りのアドバイスもした。彼は人柄も良く、格下の僕相手でも真摯に話を聞いていた。


 なのに、なのにだ。みんな夢の中の出来事じゃないのか、と。

 あの竹下が予選落ちしたのだ。そんな姿見たことがなかった。中学時代からも決勝に必ず立っていた。それほど優秀で、天才的な走りをする選手なのだ。

 竹下はトラックをとぼとぼと、絶望したような歩き方で、去っていく。

 ほかのメンバーの元へ戻っていく。みんな、どんな顔をして彼を迎えるのだろう。僕はそれが心配だった。僕は先の大会で引退したから、ベンチには入れない。関係者席で声援を送るのが精一杯だった。

 だけど、そんな竹下を見て、一つだけ気になったことがあった。


 大会が終わり、選手たちはバス乗り場に集合していた。みんながバスに乗り込む時まで、僕は外で待っていた。

 そろそろ秋風が強く、冷えてくるけれど、待っていた。


「っ竹下!」

「……小森先輩」

「先生! ちょっとだけ竹下借ります!」

「出発時間には遅れるなよ」

「はい! あざっす!」


 悲しい顔の竹下の手を掴んで、バスから離れたベンチに座らせた。


「先輩」

「お前、」

「俺もうダメっすかね。今日、全然」

「なぁ、調子悪いだろ。コンディション! いつものフォームじゃ無かった。どっか故障してんだろ。言えよ、僕にだって見たら分かるんだ。コーチに何で言ってないんだ」


 責める気はなかった。ただ、故障しているのなら言えばいいのに。無理をしたらこの先の選手生命すら、危うくなることだってあるのに、と。


「え、あ、いや、故障って程じゃ」

「うそつけよ。足首だろ?」

「いや、あの、違うんです。あの、関節とかそういう奴じゃなくて」


 竹下はバツが悪そうな顔をしてから、左足の靴を脱いだ。


「情けない、ンすけど」


 靴下を脱いだら、大きな大きな絆創膏が足の甲に貼られていた。


「……筋か?」

「いや、じゃなくて! 単純に、その、昨日家のにぼしが……」

「煮干し?」

「あ、や、猫っす、猫。名前がにぼし。あいつが机の上の置き物落として、それが」

「……足の甲に落ちた、と」

「そう、なんすよ。ただの打ち身?打撲、まではいかないし、ちょっと切っちゃって」


 竹下はしどろもどろ、そう言った。


「お前なぁ……」

「いや、だからその、自分の体の管理も出来なかったから、情けなくて」

「そういうのは! 事故っていうんだ!」


 僕は竹下の頭をスパンと叩いた。


「いっっ、つ」

「っあー、もう、怪我とか、故障とかじゃなくて良かった……。それ、切ったって言ってたけど、縫ったのか」

「いや、縫うほどじゃないんです。ただ、試合用のシューズの締め付けで、上手く力入らなかったっていうか、その、痛かったっていうか」

「お前さぁ。そういうのコーチとかに言っとけよ。みんなどんだけ心配したと思ってんだよ。僕も、はぁ、ほんっとに」


 パシパシ竹下の頭を叩きながら、オレはため息をついた。安堵のため息だ。


「なぁ、そういうのって事故だし、仕方の無い怪我だし、僕だって親指の巻き爪が化膿したとかあるしさ。そういうのが痛くて試合運び上手く出来なかったって仕方ないからさ。でもみんな心配してると思うからさ。昨日自分の家の猫が、って言ったら、どつかれるとは思うけど、こんな心配しないって。

 まじでどっか故障とか隠してんじゃないかって、心配すんだろ」

「……すんません」

「ほんとだよ!」


 竹下は何度も頭をぺこぺこさせて、まぁそれも仕方ないか、と笑った。飼い猫の名前がにぼしってのも、なんだか面白いし。


「じゃあバス戻るぞ」

「うっす」

「戻ったら言えよ、みんなに叱られてこい」

「……うっす」

「じゃあ僕帰るわ。またな」

「っ、小森先輩、ありがとうございました」

「おう」


 僕は竹下に手を振って、会場を後にした。


 彼はどこまでも走るのだろう。にぼしに置き物落とされて痣を作ってたって、憎めない。

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駆けて、駆けて、 コマチ @machimachi

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