煙草一本、余命少々
目々
舌先三分デスサイズ
俺には三分以内にやらなければならないことがあった。
今火を点けたばかりの煙草を灰皿に放り込んで身一つでこの部屋から逃げ出すか、それともこのままいつものようにただ暗いだけの夜をやり過ごすために吸い続けるか。そんな二択からどうにか一つを選ぶ必要があった。
低い唸りを響かせる換気扇の真下に立ったまま、のろのろと横を向く。
単身者向けのマンション、狭くて短い廊下を辿って、視線はすぐに玄関へと行き止まる。
爪先を室内に向けたまま脱ぎ捨てられた靴。倒れ損ねたとでもいうべき中途半端さで立てかけられた傘。畳んでまとめたはいいが捨てるタイミングを見逃し続けている段ボール。見慣れた薄っぺらいドア。習慣で倒されたであろうドアガード。
何もかも見慣れて見飽きたものしか存在しない玄関で、ドアノブだけが見たこともないような勢いでがたがたと音を立てて回り続けている。
薄暗い玄関の中で、銀色の取っ手が右に左にと忙しなく回る。明らかにドアを開けようとするものが手をかけている、そういう動きに見える。
ドアノブの軋る悲鳴じみた金属音の合間に鈍い打撃音が混ざっている。ノックというよりは体当たりでもしているようだと想像してしまい、恐らくはそれが正解なのだろうと音の重さから気づいてしまう。よく見れば一定の間隔でドアも微かに撓んでいるようだ。
何者かが部屋に侵入してこようとしている。そうとしか考えられない状況だろう。
明らかに真っ当な相手ではない。深夜に鍵も持たず呼び鈴も押さずにただドアに体当たりをしながらドアノブを回し続けているのだから、例え身内や友人であったとしてもまともな状態にないだろうことは予想できる。ドアを開けても放っておいてもろくなことにならないということも、分かる。
物騒な軋み方を続けるドアを眺めているのも何だか嫌で、とりあえず換気扇へと向き直り、そのまま視線を下ろす。ろくに料理をしないせいで汚れてさえいないコンロ、その傍に置かれたスマホの画面には01:07の数字が浮かんでいる。
侵入者あるいは不審者がいるなら警察を呼ぶべきだ。この状況なら通報しても文句は言われないだろう。
真夜中に人の部屋のドアに対して大暴れをかましているのだから、住人の俺が身の危険を感じたとしても当然だ。
ただ、この状況が起きたのは俺のせいでもある。何が起きているかは分からないが、どうしてこうなったのかは知っている。
夜中に、深夜の一時を過ぎてから換気扇を回したからだ。
特定の階に行くときはエレベーターを使用してはならないとか、指定の日には浴室の扉を開けてはいけないとか、とにかく深夜の十二時以降はベランダを見てはいけないとか──何かしらの禁忌があり、その禁忌に触れないようにする努力が求められる。そうして注意深く生活してさえいれば、とりあえず致命的な危険は回避することができる。そういった類の物件がある。
訳あり物件、と言えば分かりやすいだろう。物理的な問題や障害は存在しないが、理解しがたい現象が起こる場所。大抵は何らかの忌まわしい事件や事故などが起こり、そこを『訳』として禁忌が発生するのだ。
この部屋も訳あり物件だ。住人である俺も、禁忌の内容については把握している。
特定の時間に換気扇を回してはいけない、それがこの部屋についての禁忌だった。
***
「学生がね、死んだんですよ。ひどい感じで──そのせいでね、夜中の一時から朝の三時四十分ぐらいまでね、回しちゃいけないんですよ換気扇」
不動産屋の担当者はそう言って、こちらの様子を伺うように一瞬だけ視線を向けた。やや黒目が小さいのとそれなりの濃さの隈が目元に染みついているせいで剣呑な印象があるが、そんなものは物件の説明には何ら影響を及ぼさない事象だ。
細かいとことかお聞きになりたいですかという問いには首を振った。
ひどい感じ、ということだけで十分だった。わざわざそんな表現をするのだから、どうせまともなものではないのだろう。そもそも内見で複数の物件を見て回るのも面倒なので、提出されたもので即決するつもりだったのもある。
家賃や立地が俺の出した条件に合っているのならば、それ以上に望むものもない。生活に不便がないなら問題はない。事故物件だろうが訳ありだろうが、興味がなかった。
それにしても、やってはいけないことがあらかじめ明示されているだけ親切だ。少なくともペナルティの回避方法が判明しているというのは心強い。いざ入居してから気難しい隣人やよく分からない自治会の独特なルールを後出しされるよりマシだろう。
ふと気になって、もしやらかした場合はどうなんです、と尋ねた。
積極的に破る気はないが、不注意による事故はいつだって起こり得る。最悪の場合の被害がどのくらいか程度は把握しておきたかった──七割ほどはただの好奇心だったが、さほど悪いことでもないだろう。
担当者は何度か瞬きをしてから、先程と変わらない静かな声で続けた。
「何かが来ます。なので、多分駄目ですし無駄ですけど、すぐに逃げてください。三分とかそのくらいで。……あんまり意味ないでしょうけど」
担当者の眉間に微かに皺が寄った。何かを堪えたまま、笑顔で覆っているのだと分かった。
何が来るのか、という問いを返したが、どうしても答えてはくれなかった。
「今のところ五人くらいは病院送りで済みましたよ」
退院したかどうかはちょっと存じ上げないですね、そう笑った担当者の目元の隈は明るい室内灯の下でも黒々としていて、この人も何か手遅れだったりするんだろうなと引き延ばした唇の左端から覗くやけに大きい八重歯を見つめながらそんなことを思った。
***
訳ありの訳を聞いたのはその一回だけで、今の今まですっかり忘れていた。
入居してからも何事もなく平穏に過ごしていたせいもある。生活が快適だったので、更新手続きは案内が来てから迷わず済ませた。職場からも近く、二十四時間スーパーもコンビニもある。人が凄い死に方をしていようが病院送りになったやつがいようが、便利さの前には霞んでしまう。
あまりに何事も起こらなかったせいもあるだろう。煙を吐きながら、そんなことを考える。
フィクションのホラー作品にあるように、決まりを守っていてもなお日常に些細な違和感や恐怖を感じさせるような何かしらがあったのなら、俺のような呑気で雑な人間でもここがそういう場所だということを忘れずにいられただろう。風呂場のシャワーが勝手に出ているとか、洗面所の電球だけやけに早く切れるとか、時折カーテンの端から爪先が覗くとか。そういった小さめのイベントがあったのなら、この部屋の危険性というものを実感し続けられたはずだ。
ある意味ではこの部屋の因縁というのも真面目なやつなのかもしれない。灰皿に灰を落としながら、そんなことを考える。住人に対してちょっかいを出すような真似もせず、ただ一つ提示した条件だけを守ることで一切の干渉をしてこないというのは誠実な挙動だろう。下手な人間よりも信頼できるかもしれない。
そうして律義な怪異により平穏な日常を過ごした俺は何もかもを忘れ、その結果が現在の大騒ぎなのだからどうしようもない。
寝る前に一本だけ煙草を吸うのも、社会人になってからなんとなく始めて習慣じみたものになっただけの行動だ。特に思い入れがあるようなものでもない。今日だけここまで遅くなった理由も特にない。無理にこじつけるならば、帰宅した途端に何もかもが億劫だったことぐらいか。風呂から上がってからぼうっと面白くもないバラエティーを眺めていたのは確かだが、どうしてそんなことをしたのかと問われても答えようがない。ただ何となくいつもより意味もなく夜更かしをして、習慣的に一服を決めようとし、咥え煙草のまま当たり前のように換気扇を回したというだけのことだ。
その結果として午前一時過ぎに換気扇は回り、この部屋の決め事は破られ、俺は危機的状況に陥った。
全部俺のせいでしかない。少なくとも他に責任をなすりつけられそうな対象が見当たらない。
玄関の大騒ぎをしばらく聞いてから、そういえばこの部屋は訳ありの事故物件だったと思い出したのだから、どうにもならない。本当に来たんだな、と先に驚きがあったくらいなのだから尚更だ。
特定の時間に換気扇を回してはいけない。
やってはいけないことは明示されていた。物件を斡旋した不動産屋も隠すことなく告知してくれた。俺もその旨を理解した上で承諾して契約した。
それでいて綺麗にその禁忌の存在を忘れたのだからどうしようもない。
自業自得と言うほかない。しいていうならそもそもこの部屋を訳ありにしたやつが諸々の発端なのかもしれないが、相場の六割で住めるようにしてくれたのもそいつの所業のおかげではある。すると怖がるだけならまだしも恨むのは行儀が悪いだろう。
どがん、と一際重い音が玄関から響く。どうするかな、と俺は煙を吐く。
逃げたほうがいいのだろう。そんなことは馬鹿でも分かる。玄関は明らかにお取込み中であるから、残る経路の候補としてはベランダぐらいだろうか。できれば自室から離れたいが、仕切りを蹴破るのはやったことがない。
逃げるのなら煙草を消さないといけない。
咥え煙草で逃げてもいいが、カーテンだの障害物だのでもたついているうちに追いつかれそうだ。そもそも火種を口元に置いたまま障害物競走をする馬鹿はいないだろう。
そうするとまだほとんど吸えていないこの一本を灰皿に押しつけて吸い殻にしてしまう必要がある。勿体ない、と思ってしまう。何しろ火を点けたばかりだ。だが命には代えられない。不動産屋もすぐに逃げろと言っていた。
でも、そうやって逃げたところでどうなるっていうんだ?
気が狂ったわけではない。諦めたわけでも悟ったわけでもない。
ただそう思ってしまっただけなのだ。
煙草一本のために死ねる、というわけでは勿論ない。その表現では不正確だ。
煙草一本以上に大事なものが見当たらない、というべきだろう。
死に物狂いで逃げてまで大事にしたいものが特に思いつかない──それこそ、今火を点けたばかりの煙草よりも価値があるものが、俺にはないのだ。
生活に不満は何もない。仕事も好きでも辛くもない。両親や付き合いのある人間との関係も特に問題は見当たらない。人並みに本も読むし音楽も聞くけれども、それのために生きられるかと言われたら難しい。あの雑誌の新連載は結局打ち切られるのかなとかバンドの新譜出たんだっけとかぐらいのことは思うけれども、その行く末を見届けられなかったからといって落胆もしない。
未練が残るほど執着できるものがないということに、この状況で気づいてしまった。好きなものも嫌いなひともなく、愛することも憎むものもない。焦りと幾ばくかの恐怖で、思考が余計なことまで考えてしまったといえばそうなのだろう。ただ、気づいてしまったからにはどうにもできない。正しいかどうかは意味がない。そうだと思い当たってしまった時点で、すべて行き止まってしまった。
どうにかして生き延びるべき熱量もすべてをぶん投げてくたばる理由も、自分の中にはどちらもない。ただそれだけの事実だった。
どうするべきかと考える俺を急かすように、ドアノブの軋る音が聞こえる。
あれだけ派手に回しても壊れないのだから、結構な耐久性があるのだなとどうでもいいことを思う。どの道ドアノブが無事でも外にいるやつは体当たりらしい動作も併用してきているようだから、時間の問題ではあるのだろう。そもそも相手がこの世のものではないとしたら、ドアが防壁として機能するかどうかも怪しくなってしまう。ちょっとその気になったらすり抜けたりぶち抜いたり燃やしたり、どうとでもできるのかもしれない。
『多分駄目ですし無駄ですけど、すぐに逃げてください。三分とかそのくらいで。あんまり意味ないでしょうけど』
細められた目と、染み付いた隈の暗さを思い出す。あの担当者も破ったらおしまいみたいな感じだったしな、と物言いを思い出して少しだけ笑う。逃げても助からなかったら本当に煙草一本無駄にしただけになってしまうのか、とどうしようもないことを思った。
玄関のドアはいよいよどうにもならないくらいに叩かれ軋んでいる。
ドアの向こうにいる相手がどれくらい焦れているのかは分からないが、音量と勢いからして相当な状態にありそうだ。意外とあのドア頑丈だったんだなとも思う。つくづく家賃の割にいい物件だった。
一本、吸い終わるまでは待ってくれないだろうか。
そう思いながら吐いた煙は、真っ直ぐに昇って換気扇に吸い込まれていった。
煙草一本、余命少々 目々 @meme2mason
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