行こう
外清内ダク
行こう
帰ろう。と決心するのが遅すぎた。私は暗い地下鉄駅から這い出ていく。地上の街でうごめくものは嫌味なくらいに熱い太陽がつくる陽炎ばかりで、もう、生きた人間の姿はどこにもない。あれから何日が過ぎたっけ? おそらく30日か、もう少し。1/2の、1/2の、1/2。
地球人口、残り10億。
昔っからそうだった。私はいつも間が悪いんだ。親父が会社クビになったとたんに私立大学うかっちゃうし。歌いながら居間に踊りこんだらお祖母ちゃんが危篤だし。ささいなことでケンカして、仲裁に入ってくれたベスをも押しのけ、泣いて走って飛び出して、衝動的に飛び乗った新幹線で東京に来ちゃったその日に人類滅亡。ほんとツイてない。
どうしてるかな、ベス。
元保護犬だから血統はよく分からないけど、たぶんシバと何かのミックスで、ひどくプライドの高いやつ。ちゃんとゴハン食べてるかな。食べてないかもな……もう1/8だもん。確率的には、20日目の時点で実家には誰もいなくなってる。
「半減期を持つのは、確率的減少をするものなら当然です」
あの日。そう、私が東京に来てから4日目……つまりは人類の滅亡が始まってから4日目。まだかろうじて続いていたNHKの放送で、東大かどこかの偉い先生がそう言ってた。
「放射性物質が有名ですがね。数学的には、一定期間ごとに一定の確率で減少する物の個数は、必ず一定の時間ごとに半減します。指数関数です。1日あたりの減少割合が分かれば、半減期も当然計算できるわけです」
「その半減期は……?」
「えー、まあ各国の政府もほとんど機能停止していて、正確で包括的なデータとは言いがたいですから、あくまで推定ですが……初日には、およそ5億4千万人が《骨灰》になりました。2日目は約4億9千万。昨日が4億6千万……おおむね1日あたり6.7%の人口が失われておるわけです。
ここから計算いたしますと、半減期はおよそ10日……」
そこまで言ったところで、東大の先生は身震いし、次の瞬間、《骨灰》になった。
悲鳴。物音。真っ黒な画面。
その時はまだ東京にも生きた人がたくさんいて、みんながそれぞれの手段でテレビにかじりついてた。でも、流れてきた情報に満足した人は誰もいなかっただろう。私たちが知りたかったのはこの唐突な人類滅亡の原因とか、メカニズムとか、そういうもので、どのくらいのペースで世界が終わるか、なんて数字じゃない。
結局、どんなお偉い先生でもお手上げだったんだろう。ヒトがいきなり《骨灰》になる、この全世界的破滅現象には。だったらもう誰にも分からない。どうすることもできない。
1/2の33乗。およそ80億分の1。それで人類は絶滅する。
半減期が3回過ぎただけで、東京はすっかり死の街になってしまった。計算上は、まだ100万人以上が残ってるはずだけど……どうだろうな。初日の段階で交通機関は全部ストップしていたし、2日目にはコンビニの棚から物がなくなってた。4日目にテレビが何も言わなくなり、5日目に電気が止まった。こんな調子じゃあ、《骨灰》になるのを待つまでもなく飢え死にする人も多いだろう。
お腹すかしてないかな、ベス。
もう死んだだろうな。母さん。親父。クソ兄貴。
帰ろう。
私は無人の道路を歩きだした。電気とか電話とかネットとか、そういう繊細なインフラが全部死んでも、アスファルトの道路はすぐには死なない。昔聞いたことがある。国道1号線は東京の日本橋からスタートして、ずーっとまっすぐ進めば、大阪で2号線に繋がってるんだって。2号線。それなら分かる。実家は2号線から歩いて5分。
歩く? そんなに遠くまで歩けるの? 食べ物はどうする? 水は? もっと根本的な問題として、明日にも……いや、今この瞬間にも私は《骨灰》になるかもしれないんだぞ。
でも、だから何だと言うんだ。
私はもう歩きだしてしまった。誰もいない、救いもない、生きる意義すらないこの世界で、それでも私は道を進み始めてしまった。
他のことなんて、どうでもいい。
ベス。会いたいな。ベス。
*
本当はエリザベスというのだけど、本名で呼ぶ人は誰もいなかった。ちょっと大仰すぎるもんな。ベスは食いしん坊で、頑固で、そのわりに私のそばにピッタリついて離れないやつだった。
学校から帰る時間には、もう玄関が見える廊下の奥に座って私を待ってた。私が鍵をガチャガチャさせるのを聞けば、フローリングをカチャカチャ蹴って駆けてきて、私の顔をジッと見上げた。耳の下あたりを撫でてやると、手のひらに、ものすごい力でグリグリ頭を押し付けてきた。腕がだるくなるくらい。重みで私が転んじゃうくらい。
ことあるごとに私の前に座って、右の前足で手招きしてたのは、いったいなんの仕草だったんだろう。よく分からないから撫でてやる。あるいはオヤツのガムをやる。ベスは恐ろしく早食いで、あっというまにガムを噛み砕いてしまい、食べ尽くすなり振り返って、ジロッ、と私を見たものだった。
「知らねえよ。いま食べただろ」
そう言われて、不満そうに私に尻を向けて伏せていたっけ。
散歩はいつも私の仕事。家を出て、田んぼの周りをグルっと回るいつものコースを、一体何度歩いただろう。あいつはいつも私の数歩前を行き、何も言わなくたっていつものコースを勝手に進んでた。私はただ、ついていくだけ。私がベスを散歩させてるのか、ベスが私を散歩させてるのか。私は早く帰ってブレワイやりたいなって思っていた。
そんなふうにボーッとしてたから、時にはベスが急に走り出し、うっかりリードを手放してしまうこともあった。ベスは田んぼのあぜ道を猛然とダッシュし、あっというまにとんでもなく遠くまで行ってしまう。
「コラァー! もどってこーい!!」
ベスが振り向く。でも、動こうともしない。私はイラ立つ。
「もう知らん! 勝手にしろ!!」
ひとりで帰路につく私。そうすると必ず、ベスは私を追いかけてきて、いつのまにか私の横に並んでるのだ。
いい飼い主じゃなかったな、私。
なんでもっとしっかり撫でてやらなかったんだろ。
なんでガムのもう一本くらい気前よく食べさせてやらなかったんだろ。
なんで私はゲームなんかに気を取られて、あいつとの散歩をちゃんと楽しまなかったんだろ。
ルーティンワークと化していく暮らしの中で、いつしか愛は色あせていた。次から次へと後悔ばかりが頭に浮かぶ。できたはずなのに、しなかったこと。いつでもできるとタカをくくってたこと。人類が滅亡に向かってる今では、もう、どれひとつできない。
*
私は歩いた。ジリつく日差しの下、焦げたアスファルトの道を、ひたすらに。
3日で足の裏に血豆ができ、潰れ、大惨事になった。痛みがやわらぐまで1週間も足止めされた。
その痛みを乗り越えたころ、私の足は、鉄板みたいに固くなってた。
1ヶ月。2ヶ月。私は歩く。不慣れな徒歩の旅は遅々として進まず、愛知県の看板を見た時にはもう4ヶ月が過ぎていた。私は泥だらけで、全身から動物園の臭いを放っていた。女子大生の格好じゃねえなー。
でも、私はまだ生きてる。
日数で言えば、謎の死滅が始まってから150日は経過していたはずだ。2の10乗が1024、5乗が32だから、3万2千分の1。えーと、80億わる3万2千は……10億わる4千の……100万わる4だから……世界人口は、あと25万人くらい? 日本国内には4千人ほどしか残ってない計算になる。
4千! ひぇー。日本中でたった4千。その1人が私。運がいいんだか悪いんだか。
東京を出てしばらくは、変な男どもにからまれることもあったけど、最近はそういう事件もすっかりご無沙汰だ。まあ、不快な思いをしなくなったのは助かる。棒きれを振り回したり、ちんこを蹴り上げたり、なんて余計な体力使わなくて済むしね。こんな状況になってまで性欲に踊らされてるんじゃねーよバーカ! って言いたいし、実際言った。あれ? よく考えたら、言葉を喋ったのってあの時が最後じゃない? このまま死んだら私の最期の言葉がアレになるわけ? やだなあ。
なので、
「世界平和ー!!」
私は空に向かって思いっきり叫んだ。これでよし。byカント。
不思議だ。なんだか歩くのが楽しくなってきた。他人と一切合わない世界も、むしろ快適に思えてくる。この開放感。私は自由だ!
私は泣いてなんかいない。
*
ねえ、ベス。
もし天国か何かがあって、お前もそこにいるとしたら、死んだらまた会えるかな? フローリングに爪をチャカチャカさせてたあの時みたいに、私を待っててくれるかな。だからね、ベス、もし会えたなら、散歩に行こうね。いっぱい行こうね。もう私はゲームなんかしない。ニンテンドーSwitchはもう卒業だ。かわりにお前と一緒に歩くよ。足、鍛えたもん。朝から晩までだって歩けるよ。お前の行きたいところ、全部行こう。私の行きたいところ、ついてきてね。そんで道ばたに生えてる変な雑草の匂いを嗅いで、一緒に笑おう。もう誰も気にしないから、ウンコもシッコも出し放題!
ねえ、ベス。どこまででも……
お前と一緒なら、行ける気がする……
*
名古屋を越え、三重を過ぎ、橋から琵琶湖を眺め見て、私は歩く。ひたすら歩く。あ、清水寺だあ! このへん知ってる! 修学旅行で来たことある! 家路について、はや6ヶ月。初めて見覚えのある土地にさしかかって、私の胸はときめき始める。もののついでに清水にお参りした。あれほど人でごった返していた参道にも、崩れた《骨灰》の欠片以外、何もない。梅田だ! ここも見たことある。たちならぶカッコいいビルの群れ。まるでそれは、死んでしまった人たちを弔う巨大な墓標みたいで、私は胸を詰まらせる。
そうだ。1号線はここで終わり。私は2号線に突入する。
あと少しだ。大阪を歩け。兵庫を駆けろ。この頃にはもう、私の体は弱りきり、体力も限界に達し、どこもかしこも全般的にグチャグチャになっていたけど、心だけは弾けていた。徐々にペースが早くなるのが分かる。疲れなんか忘れた。痛みも気にならない。帰るんだ。なんのために? 分からない。でも帰らなきゃ。私はずっと後悔してた。怪我や病気や飢えの苦しみで遅々として進まなかったこの旅の間、毎日のように考えていた。どうしてよりにもよってあの日、家族とケンカしちゃったんだろう。なんであのとき、ベスの仲裁を受け入れようとしなかったんだろう。私と家族とベスの時間は、こじれてもつれて衝突した、あの時のまま止まってる。たぶんもう誰も生きていない。私だってそのうちに死ぬ。だけど……だけどあんなのが私たちの最期だなんて、そんなの、私は嫌だ!
2号線に入ってからは、早かった。それまでの10倍近いペースで西へと歩き、いくつもの山と川とを越えて、ついに私は、たどりついた。
夢に見るほど知り尽くした場所。
あの店で食べたことある。あのTSUTAYAでマンガも買った。そうだよ。あの山を越えて、いつも渋滞してたこの信号を過ぎて、もうひとつ山を登れば……
見えた。
故郷だ。
「ぁ……ぁっ……ぉ……!」
何ヶ月ぶりだろう。声を出すのは。私はもう、日本語を忘れてしまっていた。自分の脳みそが自分のものじゃないみたいだ。でもそんなこと、どうでもいい。走る足があればいい! 私は膝の関節と足裏のできものが悲鳴をあげるのを感じながら、動物的な警報の全てを無視してひた走った。知ってる。どこもかしこも知ってる。子供の頃から20年あまり暮らした街に私はいる。あの交差点を曲がり、ゆるやかな坂を登り、息を切らして走り続けて……
実家の玄関先に、たどりついた。
私はしばらく、呆然としていた。
何日くらい経ったっけ。
もう半減期が何周したんだっけ。
計算する力も私にはない。ひょっとしたら、私は地球最後の人類かもしれない。誰もいなくなってしまったこの世界に、私は1人、生き延びている。気が遠くなるくらい小さな確率の網をくぐり抜けて。
なのに実家には、誰もいない。
玄関は閉まっていた。
リビングの大窓は開けっぱなしだ。
中を覗いても、人が暮らしている様子はない。雨も風も砂ぼこりも、舞い込むに任せている。
私は……へたりこんだ。
見つけてしまったんだ。
リビングの奥……ソファの影から、こっちをじっと見つめている……母の《骨灰》を。
母があのまま、放置されているということは……オヤジも……兄貴も……
「ぅ」
声が漏れた。
「ぅっ……ぅヴァッ……ぁああアぁっ……!」
帰ってきたのに、こんなに汚れてまで戻ってきたのに、何もかも遅かった。バカだよ。こんなこと覚悟してたじゃないか。だいたい想像してたじゃないか。こんな状況になってまで情に流されるんじゃねーよバーカ!
でもそんな理屈とか覚悟とかが、一体なんになるっていうんだ!!
私は泣いた。泣いて、泣いて、泣いた。そうだったんだ。やっと分かった。私は泣くためにここに来た。私は家族に向き合って、声を
カチャ。
と、私は、物音を聞いた。
フローリングを爪で叩く音を。
私は泣き濡れた顔を上げる。
私を見て、舌を垂らした……
……ベス!!
猛然と来る。突っ込んでくる。ベスが私に体ごと飛び込んでくる。私は押し倒されて、庭の土に頭をぶつけた。ベスはグルグルうなりながら、私の顔をメチャクチャに舐め回し、私の周りを狂ったように走り回り、また私に体当りして、鳴き、わめき、ヨダレを散らした。私は、私は、何が起きたか分からなくて、もう何もかもシッチャカメッチャカで、でも涙が溢れ出て、飛び起きるなりベスを抱いた。体をグリングリンよじり続けるベスの頭を、背中を、その他ありとあらゆる部分を、無限に撫でて撫で回した。私の脳が動き出す。言葉が急速に蘇る。
「べす……ベスっ! ベスぅーッ!!」
「ぐるぅわんわんわんわんわんギャワんキャンワッ、ぐぅぅあんあキャンヤぁわ!!」
ここにいたんだ。ずっといたんだ。私がグダグダ旅してる間、ベスはずっと家にいて、家族の《骨灰》を守っていたんだ。たった1人で生き抜いて、私の帰りを待っていたんだ。そうに違いない。また会えた。夢の中でじゃない……また会えた!
「ベス……」
「ばふん」
「おすわり」
ちょん、と座って首をかしげるベス。私はその頭を撫でてやり、
「散歩、行く?」
「へぁっ」
ベスが笑って舌を出すのを、見て笑う。
そうだよ。何も変わらない。
人類が滅びたって、世界が終わったって、私はここから、どこへでも行ける。
だって私は生きている。
私は立ち上がり、ベスを手招きした。
「行こう!」
THE END.
行こう 外清内ダク @darkcrowshin
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