まだ名も無き人

 引継商談、廣綱さんには毎週アポを取って商談の時間を頂くようにしている。宮﨑さんからも彼はキーマンだからとそのようにすることを勧められていたし、それに疑念はなかった。

 引き継ぎ商談で希望された商品のサンプルをいくつか持参し、廣綱さんに持って行ってはお茶を濁される。

「ちょっと違うんですよね〜うーん、もっとこう、形にもこだわりたくて」

「味にパンチがないですね。もっと塩味を強めてほしいというか」

 こんなやり取りを繰り返し、開発に改良サンプルを依頼しては持参してを繰り返す。

 今日も同じ流れで時間を過ごしてしまった。果たしてこんなことで商品を導入できるのかと不安になる。

 帰社してデスクに向かうところで宮﨑さんに声をかけられた。事務所では会社支給のジャンパーを着る人が多いのに、宮﨑さんは決まってスーツを纏っている。スタイルの良さも相まって、これが本当に男前なんだ。男の俺ですら見惚れてしまいそうなほどに。

「お帰り。廣綱さんのところ?」

「はい、やっぱりちょっと厳しいです」

「話は聞いてくれるんだけどねー。でも、あの人が納得するサンプル出せたら後藤さんに上げてくれるから。まずは後藤さんに見てもらえるサンプルを出せるように頑張って」

「ありがとうございます」

 宮﨑さんにお礼を告げて、改めて自分の机に戻った。バッグを机の下に置いたところで、寺前課長から呼びかけられる。

「黒沢さん、商談どうだった?」

 役定間近だった前任の課長とは違い、寺前課長はまだ30代後半と若く、課長級に昇進したのもこの春の異動だった。

 前所属部署が営二だったこともあり、前年度からちょくちょく俺のことも気にかけてくれていたから何となくのイメージは持っていたが、そのイメージ通りに優しすぎるくらいに優しかった。

 課長席に近づいて、今日の商談要点をまとめて伝える。

「はい、結論から言うと、串カツもアメリカンドッグも改良サンプルを希望されました」

 それぞれどんな内容で改良を希望されたかを伝えて、今後の提案予定を自分なりに整理して伝える。

「うん、了解了解。黒沢さんの担当、決まるとめちゃくちゃ数字が大きいからね。この半年で一品は絶対決めようね」

 人柄の良さが現れるような笑顔を見せつけられた。この半年、どころかうちの部署でエリア商品を導入した実績はまるでないのに、そんな風に言われるとプレッシャーに感じてしまう。とはいえ、出来ませんと言う事ももちろんできなかった。

「頑張ります」

 そう返したところで、デスクに座ったまま知可子さんも会話に入ってきた。

「ほんま頼むで、黒沢くん。私も調理パンに商品導入してもらったから、チェーン担当として私に負けたらあかんで。フレッシュなんやからさ」

 2ヶ月後に発売する新商品のサンドイッチで、知可子さんが提案したチーズを使用することになったらしい。

 それ自体は素晴らしいことだと思う一方で、こうやって自分の功績を自慢するような絡み方が宮﨑さんに引かれていた一因だったという自覚はないらしい。

「はい、負けずに頑張ります」

 無難な返答をして、作り笑顔を貼り付けた。

 スリープモードになっていたパソコンを立ち上げると、時間は17時をもう迎えるかというところだった。廣綱さんは世間話も割と好きなタイプなので、一回の商談で一時間を切ることは今までになかった。

 思ったより遅くなったなと思いメールをチェックするが、急ぎの要件は特になさそうだった。

 新規メール作成のボタンをクリックしたところで定時を告げるチャイムが鳴った。

「お疲れさまでした〜」

 本田係長が早々にパソコンを閉じて退社の挨拶を残した。俺はというと、液晶に視線を送ったままその挨拶にぬるい返答をする。

 いつもサンプルをお願いしている開発部の坂本さんにメールを打つ。今回の商談の整理と、改良の依頼を寺前課長に伝えたのと同様にまとめる。

「……送信、と」

 送信完了を見届けると一息ついた。もう急いでやるべきことはないし、今から帰れば小説を書く時間もいくらか確保できそうだ。

 時間外労働に割と厳しいうちの会社は、やることがないなら早めに帰ることを推奨している。そのため、定時から10分も経つと職場に半数も人がいなくなることもザラだった。

 ノートパソコンをシャットダウンして席から立ち上がった。

「お先に失礼します。お疲れさまでした」

 先程俺が係長に返したのと同じように、ぬるい返事を背に受けながらタイムカードを切った。


 入浴を終えてからの時間が平日の執筆時間と自分の中では決めている。

 学生時代に書いていた頃は社会経験の無さから学生の恋愛モノくらいしかテーマにできなかったのに、今はその幅も広がったように感じられる。

 また、短編小説を書こうと思ったのも、あの頃からの変化かもしれない。

 昔は「小説家になるためには長編を書けなければならない」という固定観念によってそれを義務と感じていたが、今はそれもなくなってしまった。

 書きたいシーンが先に頭に浮かび、そこに至る経緯を書いているうちにその作品に飽きてしまうということもあった俺にとっては、それも良い変化だったように思われる。

 こんな話を書きたいという熱をもったまま消化できるのは、単純に書くことがより楽しく感じられる要因でもあった。

 再開してから一作を完結させ、次作についてのプロットをノートにまとめる。文章を打ち込むのはパソコンでも、プロットだけは紙に書き込んだほうが考えがまとまる気がして癖になっていた。

 いくつかの案を書き込みながらも、書きたいという気持ちが強くなるのは鞠ちゃんのことだった。

 彼女のように好きなこと、夢や目標に向かって頑張るということをテーマにしたいなと思い、それについて包含される書きたいことをいくつかまとめる。

 例えば彼女がまだ名も無き人であるということだったり、それが自分の胸を打ったということだったり。既に成功した誰かの言う「夢は叶う」よりもまだ挑戦者である人の頑張る姿がより刺さる人もいるということだったり、そんなことだ。

 いくつかの要素を整理して、最後に回していた「恋愛」という要素に目を向けた。

 ボーイミーツガールの作品を書くなら避けては通れないテーマではありつつ、それがこの話に必要なのかどうかは俺には分からなかった。

 鞠ちゃん自身のことは良い子だと思うし、俺自身少なからず好意は抱いているけれど、それが恋愛感情とは思っていない。どちらかといえば宮﨑さんに抱いているのと同じ、尊敬の念に近いものだ。

 それを作品に置き換えるなら、恋愛要素なんて無くて良い。そもそも、短編で書くなら要素を詰め込みすぎるのは避けるべきだ。

 そう判断して、ノートにあった「恋愛」の文字を二重線で取り消した。

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