第3話 荻原橙子の失態
荻原橙子には三分以内にやらなければならないことがあった。
それは窃盗と逃亡である。彼女を殺してしまったと勘違いしている二人の男に見つかる前に、とっとと逃げ仰るのだ。
市川宗介に出会ったのは勤め先のキャバクラだった。いかにも女慣れしていなさそうな市川を騙すのなんて、簡単だと思った。
案の定、酔わせてしまえば何でも喋る。話の大半はとんでもなくつまらなかったが、『開発アイデアの源泉となるファイル』の話には興味を持った。なんの会社か忘れたけど、開発者が持つアイデアファイルなんて、すごいネタがたくさん書き込んであるに違いない。欲しがる人はたくさんいそうだ。
学校の勉強は滅法苦手だったが、客を見定める目には少々自信がある。こいつは会社の金でなら飲むけど自腹は切らない。よって、常連にはならない。
橙子はファイルを盗もうと決めた。
見せてと
(ブツさえ手に入れれば、金に換える手段はいくらでもある。ちょうどホストに借金もあることだし、金が手に入ったら飛んじゃお)
そして昨夜、仕事を休んだ橙子は偶然を装って帰宅中の市川を捕まえ、誘いをかけた。飲みながらファイルの在処にそれとなく探りを入れると、会社に置いてあると言う。橙子は市川の職場に乗り込むことにした。
「前にお話しされてた、朝の瞑想の曲ぅ? 聴かせてくださいよぉ♡ それにぃ、市川サンの職場、見てみたいナ♡ 」
腕を組んで体を密着させ、甘えた声で上目遣い。それだけで市川の目の色が変わった。酔っているとはいえ、この程度でコロッと落ちるなんて。このオジサン、チョロすぎ。
目を覚ました橙子は、こめかみにズキンと痛みを感じた。
ファイルを奪おうとして市川と揉み合い、突き倒されて頭を打ち、失神したのだ。幸い、ウィッグのおかげで怪我は軽く、流れた血はすでに乾いている。
件のファイルは橙子の身体の下敷きになっていた。きっと殺してしまったと思い込んで、逃げ出したんだろう。デカい図体のわりに小心者で助かった。アイツが出社してくる前に出て行かなきゃ。
頬にこびりついた血をこすり落として部屋を出たところで、小柄で細身の男に出くわした。男は何故か、昨日市川が着ていたコートを抱きしめ、頬擦りをしている。
「えっ、キモ」
思わず言葉がこぼれてしまい、振り向いた男と目が合った。男はコートを抱きしめたまま固まった。
「な…なん……えっと、どちら様でしょう」
動揺した様子の男は、コートをそっと受付カウンターに置いた。
……はーん、そーゆうこと。市川サン、慌てすぎてコート忘れて帰っちゃったのね。で、出社してきたこの人は市川サンらぶのヒトで、思わず彼のコートを……
「あ〜、あたしぃ、ついさっきまで市川サンと一緒だったんですけどぉ」と、意味深な目線で個室のドアをチラリと見る。案の定、男の目つきが険しくなり、橙子は確信した。
「コーヒー買ってくるから部屋で待っててって言われてぇ、でもあたしぃ、もう帰ろうかなって。えへ」
そう言いながら、男を避けて支部長室のドアの方へにじり寄る。が、男は壁に手をついて進路を阻んだ。
「嘘だ。市川支部長はコーヒーを飲まない」
……やば。ごまかさなきゃ。
「あのー、もしかしてお兄さん、ソッチの人? ここ通してくれたら、市川サンに黙ってあげててもいいケド?」
半笑いでそう言ったら、さっと青ざめた男に掴み掛かられて投げ飛ばされた。馬乗りになって鼻と口を塞がれ、気が遠くなって……
意識が戻ったのは、ぶるぶる震える手で服を脱がされている最中だった。一瞬乱暴されるのかと焦ったが、彼はどうやらソッチの人。その心配はないと判断し、あたしは死んだふりを続けた。
さっき時計を見た時は8時すぎくらいだった。もうすぐ誰か出社するはずで、一旦あたしをどこかに隠そうとしているのだと読んだから。
やはり男はあたしを棚に詰め込み、給湯室を出て行った。
────で、今に至る。
元々身体が柔らかいのが自慢だったし、なんとか耐えた。でも、立て続けに二度も失神させられるとか、勘弁してほしい。
外の様子に耳を澄ませながら考える。男はあたしのコートとスカート、靴を持ち去った。ってことは、あたしが自力で会社を出ていったと見せかけて、後でシタイを始末するつもりなんだろう。
「おはようございます。市川支部長」
「おはようございます」
二人の声が聞こえた。
よし、ここから三分間の瞑想タイム。たしかこの時間だけは誰も来ないと言ってたから、あの男にとっても今がチャンス。絶対に動く。
案の定、市川サンが個室に入るとバサバサと衣擦れの音がして、すぐに静かになった。
そぉっと扉を開け、棚から這い出る。靴は持って行かれちゃったけど、実は昨日買った新しい靴があるんだよね。えっと…あ、あった。この箱。あとは市川サンのコートを拝借して……ウエ、おじさん臭い。けど、スカート履いてないのはバレないな。さて、エレベーターは……っと、一階か。じゃあ昨日通ってきた階段で降りよう。
鉄製のドアを細く開けて駐車場を見渡すと、車の陰にしゃがみ込んで慌ただしくコートを丸める男が見えた。着替えに必死でこちらには気づいていない。
(え、ヤバ。女装ウケる……ってか、そんな雑に扱わないでよね。ソレ高かったんだから)
ドアをすり抜けて、死角になる車の陰に身を潜める。スーツ姿に戻った男に見つからないように、車を盾に回り込んでやり過ごした。男は鉄のドアを開け、建物の中へと消えた。
(瞑想終了まで1分ちょっとか。階段ダッシュ、間に合うといいね。知らんけど)
男が着替えていた車まで行ってみると、植え込みの隙間にお気に入りの靴屋のショッパーが隠されていた。雑に突っ込まれていたスカートを履き、おっさん臭いコートを脱ぐ。と、ポケットからファイルが落ちて開いた。
(なにこれ。フギュアスケート選手の写真ばっかじゃん! ……そういえばアイツ、スケオタっぽい話してたな。つまんなくてあんま憶えてないけど)
「あ!」と、思わず声が出た。
「アイデアの源泉って、そういうこと?! 推しの写真眺めてアゲ〜☆ ……じゃねえわ!」
橙子は腹立ち紛れに市川のコートをファイルもろとも丸め、車の屋根の上に放り投げた。サングラスをかけ赤いコートをはためかせ、憤然とした足取りで駅へ向かって歩き出す。
(時間の無駄じゃん。あー、ムカつく。でも……あの二人、あたしがいなくなってびっくりするだろうなぁ。死体も荷物も消えて、残ったのは空っぽの靴の箱だけとか。ウケる)
脅威の切り替えの速さでスマホからタクシーを呼び、さらにサロンに予約を入れ始めた強心臓の橙子は、気づいていなかった。
あのファイルの中に、重要機密のSDカードが入っていたことに。
あるはずの死体と秘密のファイルが消えた動揺を抑えて役員会議に出席している市川宗介は、気づいていなかった。
陰で笑われることを恐れてひた隠しているつもりだが、周囲にはフィギュアスケートファンであることがうっすらバレていることに。
死体と所持品が消え、実は女が生きていた事を知り、報復を恐れ震えながらコートにブラシをかけている鹿沼友希は、気づいていなかった。
憧れの市川支部長に、「推しの衣装、鹿沼くんに似合いそうだな…」と密かに妄想されていることに。
三分間の狂騒を引き起こした件のファイルは、鹿沼の手により、市川支部長のコートの胸ポケットに無事収まった。
おわり
KAC20241 三分間の協奏曲 霧野 @kirino
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