第2話 市川宗介の混乱

 市川宗介には三分以内にやらなければならないことがあった。


 それは殺人の隠蔽工作である。昨夜うっかり殺してしまった女の死体を、とりあえず隠すのだ。


 いつも始業時間ぴったりに到着し、支部長室の奥に籠って毎朝行うルーティン。これがきっかり三分間。

 この時間だけは、来客はもとより内線電話さえも取り継がないよう言ってある。

 フィギュアスケートのショートプログラム曲用に編集されたお気に入りの協奏曲を聴きながら、三階の窓から外を眺め、しばし寛いで心を整えるのだ。三階とはいえここは郊外の街、緑が多く高い建物が少ないので、なかなかに眺めがいい。


 とはいえ、今日ばかりは寛いでいる場合ではなかった。


 多少の下心があってこっそり部屋に連れ込んだことは認める。だが遅い時間だったし、念のため非常階段を使ったので、誰にも見られてはいない。

 気が動転するあまり、彼女の死体をそのままにして逃げ帰ってしまったわけだが、私の個室はオートロック。終業後の見回り警備でさえ、私の持つカードキーが無ければ部屋に入れない。死体を薬用保冷庫で凍らせてしまえば、後は時間をかけて始末すればいい。解体の道具は目立たぬように少しずつ持ち込めるし、流血の痕跡を消す薬品なら職場で簡単に調達できる。場末のキャバ嬢が姿をくらますことなんて、珍しくもないだろう。


 ……あんなくだらない女のために人生終わるなんて、真っ平ごめんだ。なんとしても、やり遂げてみせる!


 宗介は決意も新たにエレベーターへ乗り込み、三階のボタンを押した。一晩かけて組み立てた作戦を思い起こし、確認する。

 夜中に社に戻って死体を運び出すことも考えたし、運び出さずとも夜の間に死体を隠すことも考えた。だが、深夜帯は警備員の見回りが頻繁になる。見つかれば残業申請の提出が必要になるため、それは取りやめた。目立つ行動をして、ほんの僅かでも疑念を持たれるわけにはいかないのだ。

 あくまでも、通常どおりに。いつもと同じ勤務時間。いつもと同じ勤務態度で……と念じる。


 操作パネルの表示が1、2、3と上がっていくにつれ、心拍数も上がっていく。

 ついにエレベーターの扉が開き、宗介は狭いエレベーターホールに進み出た。左手から聞こえてくる開発部の連中の朝のざわめきに見向きもせず、支部長室のドアを開ける。


 ……さあ、ここからの三分が勝負だ。


「おはようございます、市川支部長」

「おはようございます」


 受付カウンターの向こうから、秘書の鹿沼くんがいつもの様にクールな挨拶をくれる。私もいつも通り、コートを脱いでカウンター越しに渡した。鹿沼くんの背後のラックには、昨日忘れて帰ってしまった別のコートがかけてある。おそらくいつも通り、丁寧にブラシがかけられているのだろう。


「お預かりします。本日は予定通り、9時15分から役員会議。七星製薬との会食には車で、十一時に…」

「予定通りだね。ありがとう、鹿沼くん」


 秘書が今日の予定を読み上げるのを遮り、ドアの隙間に巨体を滑り込ませる。部屋の中を覗かれでもしたらアウトだ。オートロックの締まるカチッという硬い音を背中で確認し、ひとまず安堵の息をつく。

 目の前には応接セット、その向こうに私のデスク。衝立で区切られたさらに奥には薬用保冷庫がある。廃棄の料金が勿体ないからと押し付けられ、戸棚代わりに使っていた物が、こんな風に役立つ日が来るとは。


 宗介は慎重に目を伏せ、ソレが視界に入らぬように恐る恐る腕を伸ばして鞄をデスクに置き、いつもの音楽を再生した。バイオリンとピアノによる優美な協奏曲が流れ出し、推しスケーターの完璧なショートプログラムの演技が脳裏に浮かぶ。

 普段なら窓の外に目を向けるのだが、今日の宗介は目を閉じて脳裏の映像を追い出し、意識を集中した。


 ────まずは、保冷庫のプラグを挿し込む。そして中に放り込んであった雑貨やら古い資料の束やらを取り出し、棚板も全て外して片付ける。彼女に奪われた大切な秘密のファイルを回収し、空いた保冷庫の中に彼女の死体を隠す────


 長いブランクがあるとはいえ、元ボート部。まだまだ腕力には自信がある。その腕力のせいで、彼女を死に至らしめてしまったわけだが。

 細身の女性の身体だ。死後硬直のことを考えても……と考え、宗介は怖気を振るった。力尽くで関節をいくつか折る事になるが、やるしかないのだ。この曲が終わるまでに。


 覚悟を決めた宗介はデスクの向こうへと回り込み、息を呑んだ。


 女の死体が、デスクと衝立の間に転がっている────筈だった。


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