KAC20241 三分間の協奏曲

霧野

第1話 鹿沼友希の誤算

 鹿沼友希には三分以内にやらなければならないことがあった。


 それは殺人の隠蔽工作である。今朝方うっかり殺してしまった女を、彼女がさも自分の足で出て行ったかのように見せかけるのだ。


 上司である開発部支部長 市川宗介は、いつも始業時間ぴったりに到着する。彼が奥の個室に籠って毎朝行う謎のルーティン。これがきっかり三分間。

 この時間だけは、来客はもとより内線電話さえも繋がないよう言われている。

 以前、何をしているのか尋ねたことがあったが、彼はただ「音楽を聴きながら瞑想している」とだけ答えた。普段は仕事に関すること以外は一切話さない彼の、少しはにかんだような表情が印象的で、友希はよく覚えていた。


 支部長室のドアが開き、エレベーターホールの向こうから開発部の朝のざわめきが聞こえて、ドアが閉まると消えた。友希はいつものように受付カウンターのこちらで立ち上がり、背筋を伸ばし一礼する。


「おはようございます、市川支部長」

「おはようございます」


 いつものように、彼が脱いだコートをカウンター越しに受け取る。


「お預かりします。本日は予定通り、9時15分から役員会議。七星製薬との会食には車で、十一時に…」

「予定通りだね。ありがとう、鹿沼くん」


 市川支部長は素っ気なく点頭すると、その巨体に似合わぬ機敏な動きで個室のドアの鍵を解除し足早に入室した。オートロックの締まるカチッという硬い音を最後に、支部長室は静寂に満たされた。



 ……よし、ここから三分が勝負。


 念の為十秒ほど耳を澄まし、支部長が出てこないことを確認する。社員達も彼のルーティンを知っているから、この三分は誰も来ないはず。


 友希は預かったコートをハンガーにかけ、ラックに吊るした。いつものブラシかけは後回しだ。

 受付カウンターの奥に続く給湯室に向かう。単身者用の小さなシンクと給湯設備に、湯沸かしポットと来客用の茶器が入った収納棚だけの、狭い空間。その収納棚の中に、折り畳まれた女の死体が収まっている。

 先ほど死体から脱がせたスカートを履き、香水臭い真っ赤なロングコートを羽織った。ハンドバッグに入っていたティントで唇を染めてウィッグを被り、サングラスをかける。最後に彼女のヒールに履き替えた。艶やかな黒に鮮烈な赤いソールのコントラストはエレガントで、けばけばしいだけの女には似合わない。


 彼女の持っていたブランドショップの紙袋に自分の靴を入れ、そっとドアを開けてエレベーターホールに出る。室内も廊下もカーペット張りで良かった。ヒールの足音でバレる事もない。

 俯いたままエレベーターのボタンを押すと、すぐに開いた。支部長が来た時のまま止まっているのもいつも通り。

 始業直後だからエレベーターを使う社員は少ないだろうし、来客があったとしても使うのは上りのエレベーター。人に会う可能性は低いとはいえ、緊張する。


 操作パネルの表示が3、2、1と降っていくにつれ、心臓の鼓動が大きくなる。


 ドアが開くと、有希はさらに俯いて正面玄関へ向かった。

 営業部の活気ある喧騒に背をむけ、人目を避ける様に、且つ、がしっかりと防犯カメラに映り込む様に。

 靴が少しきついし、スカートのホックは閉まっていないけれど、問題ない。ぱっと見にはわからないはず。

 玄関の自動ドアを通る時に馴染みの宅配業者とすれ違いヒヤリとしたが、彼は友希に気づくことなく真っ直ぐに営業部の受付へと歩き去った。



 駐車場の植え込みと社用車の隙間にかがみ込み、脱いだコートを手早く丸める。膝上まで捲っておいたスラックスの裾を下ろしてスカートを脱ぎ、靴も履き替える。外したウイッグと脱いだものをショッパーに突っ込み、植え込みに隠した。

 さっと髪を整えて車のドアミラーで確認。おっと危ない。どぎつい紅をハンカチで拭いながら、何食わぬ顔で駐車場から非常口へまわり中へ入ってドアを閉める。

 友希はダッシュで階段を駆け上がった。ブランクがあるとはいえ、元陸上部。今でも週末には走っているから、脚力には自信がある。


 三分後、友希は元通り、開発部の受付カウンターに座っていた。


 個室から出てきた市川支部長に「行ってらっしゃいませ」と声をかけ、一礼する。彼はやけにあたふたとした様子で、「あ、あぁ…」と曖昧に呟きながら会議室へ向かった。なんだか顔色が悪かった気がするけれど……


 まあ、いい。運よく本日、支部長は会議の後で外出し、直帰の予定。

 あとは終業間際、死体を荷物に紛れさせて外へ運び出しておき、植え込みに隠した彼女の荷物を回収して、夜になったらレンタカーで山へでも捨てに行けばいい。ハンドバッグの中にはいかにも水商売っぽい名刺が入っていた。そんな女が一人消えたところで、すぐに大きな騒ぎになることもないだろう。


 友希は給湯室の奥へ行き、収納棚の扉に手をかけた。


 勝負の三分を乗り切った今、隠蔽工作は楽勝────の、筈だった。


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