疾風の勇者は立ち止まらない

鍵崎佐吉

はじまりの村

 勇者アイリスには三分以内にやらなければならないことがあった。魔王最速討伐記録を更新するためには、このはじまりの村での準備に三分以上かけられない。これまでの傾向からいってとにかくこのスタートダッシュが大事であるとアイリスは感じていた。


 何度でも復活する魔王を討伐するのが年末の恒例行事となって百年は経つだろうか。勇者として選ばれた者たちはやがてその討伐までの速さを競い合うようになり、いつしか彼ら彼女らは疾風はやての勇者と呼ばれるようになっていた。

 そして今日、はじまりの村で生まれ育ち十八歳の誕生日を迎えたアイリスが今年の疾風の勇者に選ばれたのだ。彼女にとってそれは長年待ちわびた夢の叶う瞬間だった。この日のためにアイリスは何度もシミュレーションを重ね、最速最適の動きをずっと研究してきた。そして彼女が出した結論こそが「三分以内にスタート地点であるこの村を出る」ということだった。とはいえ彼女にだって旅立ちの郷愁はある。それでも自分の夢を叶えるために、アイリスは親友のマリーンからの花束の贈呈だとか初恋の相手であるロバートさんへのお別れの挨拶だとかを諦めなければならなかった。


 村の教会にはすでに大勢の見物客が押し寄せ、RTAの始まりを待っている。RTAとは開会宣言のようなもので「スボスをおせるのはんただけ」の略であり、初代勇者アレックスが最終決戦の前夜、彼の相棒であり後の妻である魔女フロウから受け取った言葉だとされている。国王がこれを宣言し終わった時、勇者アイリスの冒険が始まるのだ。

 アイリスは緊張していたが、その体には若い活気と確かな意志が満ちていた。自分ならできる、この日のために何度も練習したじゃないか、とアイリスは己に言い聞かせ静かにその時が来るのを待った。壇上に立った国王が一つ大きな咳ばらいをすると教会がしんと静まり返る。その様子を満足げに眺めて、国王は高らかに声をあげた。


「ラスボスを倒せるのはあんただけ! 勇者アイリスよ、今こそ魔王を打ち倒しこの世に安寧をもたらし給え!」


 刹那、竜巻と見紛うほどの勢いで踵を返したアイリスは全速力で教会の外へ駆け出していく。やるべきことはすでに決まっている。後はそれを正確に実行するだけだ。

 まず最初にアイリスが向かったのは武器屋だった。そして入店するなり支給品の初期装備を全部外してまとめて売却した。こういうものはあまり品質が良くないため、多少の防御力はあってもかえって動きづらいのである。そして代わりにこの店の代表的な商品であるブロードソードを購入した。ごくありふれた量産品で特筆すべきものはないが、このあたりにいる魔物ならだいたい一撃で屠ることができる。これさえあればこれから向かう東の港町まで労せず進むことができるだろう。

 新品の剣を一本だけぶら下げたアイリスは身軽になった足取りで今度はクエストカウンターへ向かった。そしてろくに内容も確認しないまま二枚の依頼書をもぎ取ってそれを受け付けのお姉さんに押し付ける。どちらのクエストも近隣の魔物の討伐依頼であり、アイリスは事前にそれを把握していたのだ。こういったクエストカウンターはどこも情報を共有しており、この村で受けた依頼も他の場所で達成報告をして報酬を受け取ることができる。つまり港町への道中で魔物を倒し向こうで報告をすればほとんどタイムロスすることなく報酬を受け取れる。

 手続きが完了すると同時にアイリスは外へ飛び出し最後の目的地へ向かう。余ったお金で回復薬をできるだけ買っておきたいのだ。こういった消耗品はすぐに必要なわけではないがいつか必ず使うときが来る。そしてこの村は物価も低く危険な魔物もいないので、この国で一番安く回復薬を買える。ここで買いだめしておくのが一番効率的だということだ。しかしここに来て予期せぬ事態に見舞われる。薬屋の店主が近所のおばさんとだらだらと雑談をしているのだ。店主はアイリスを幼いころから知る人であるし、うかつに声をかければ終わりの見えない世間話に巻き込まれてしまうかもしれない。

 アイリスは逡巡する。薬を買うのを諦めるべきか否か。リスクとリターンを天秤にかけ、あらゆる可能性を考慮し、そしてその間も決して足を止めない。その結果アイリスが導き出した答えは、早さを最優先した大胆過ぎる手段だった。


「あ、あんなところにドラゴンが!」


 突然の叫び声に雑談をしていた二人は思わず空を見上げる。しかしそこにはただ晴れ渡る青空が広がるばかりで、ドラゴンどころかカラスすら飛んでいない。そこに生み出された一瞬の虚をアイリスは見逃さなかった。


「おばちゃん、ポーション買ってくね! おつりはいらない!」


 ベテランシーフにも勝るとも劣らない手さばきでアイリスは回復薬をひったくり、その代わりに有り金すべてを店主に投げ渡して突風のように走り去っていく。アイリスは賭けに勝ったのだった。

 こうなればもはやこの村には用はない。一瞬一刻を争いその魂を燃やし尽くして全力で駆けるだけだ。人ごみを縫って激流を遡上する産卵期の鮭のように走りながらアイリスはちらりと時計に目をやる。RTAが行われたのは午前十時ちょうど、今は十時二分四十秒を指している。その時アイリスの視界に村の出口が映り込む。あと二十秒、それまでにここを出られれば最高のスタートを切ることができる。

 今まではずっと見送ることしかできなかった。希望と活力に満ちた彼らの背を、別れ際に手を振ってくれたロバートさんを、そして十年前ここから旅立ってついに帰ってこなかった父を。そのすべてを追いかけて、疾風の勇者は走り続ける。憧れも痛みも置き去りにして、まだ見ぬ明日に追いつくために。


「ママぁ、どこ……?」


 勇者アイリスは立ち止まった。神経が研ぎ澄まされ極限まで集中していた彼女の耳には確かに幼子の泣き声が聞こえたのだ。そして人ごみを避けるように細い路地で立ち尽くしている五歳ほどの少女を見つけた。周りの人々は誰もあの子には気づいていない。

 アイリスは再び逡巡する。思考が重く全身にのしかかり足は動かない。こうしている間にも必死の思いで積み上げた貴重な時間が過ぎ去っていく。決断しろ。アイリスは自らの理性と良心に選択を突き付ける。夢を叶えるためなら多少のことは犠牲にすると誓ったはずだ。この一瞬の躊躇いが一生の後悔になるかもしれない。走れ、立ち止まるな、あんたは最速最強の勇者になる女でしょうが。


 目を閉じ、一歩踏み出した。そして瞼の裏に、父を見送ったあの日の自分が見えた。もう会えないとわかっていたなら絶対に行かせはしなかった。夢も憧れもどうだっていい。ただ側にいて欲しかった。


「……ねえ、どうしたの?」


「ママぁ……ママが……いないの」


「泣かないで。私が一緒に探してあげる」


「……ほんと?」


「うん。……だからもう、大丈夫だよ」


「ありがとう、おねえちゃん」


 勇者アイリスは半日かけて女の子の母親を探し出した。

 実はこの母親はメリッサ・ドコイクネンという元疾風の勇者で、歴代勇者の中でも屈指の実力を持ちながら極度の方向音痴だったために迷いの森でリタイアしたという経歴の持ち主であり、はぐれた我が子を見つけてくれたお礼にとアイリスに奥義ラビリンスブレイカーを伝授し、その結果アイリスは難所とされていた迷いの森の最速攻略記録を更新することになるのだが、それはまた別のお話。

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疾風の勇者は立ち止まらない 鍵崎佐吉 @gizagiza

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