総評と感想、終わりに

 さて、ここまで書いたがあまりにも長過ぎると判断したため、ここで終わりにしようと思う。

 というのも、ここから先の展開には個人の信仰としての解釈が深く関わってくるのだ。


 例えば、アモルト神父が地下にて聖母マリアから少女に変貌したのはアモルト神父が過去に告解をしたにもかかわらず自身の罪を許せていない=ゆるしの秘跡を信じていない=信仰しきれていないという表現とも取れるし、単に悪魔がアモルト神父が一番絶望する方法を取ったとも言える。

 また、アモルト神父が我が身を犠牲にして悪魔に乗り移らせ自死を選ぼうとしたが、神がそれを望んでいないが故にトマース神父が間に合った、アモルト神父自身が祈り続けることが大事と言っていたにもかかわらず祈りをやめたことが少女の出現に繋がった、など意見感想は多岐に渡るのだ。

 

 最後になるが、ローマ・カトリック教会は98年からスペイン異端審問に関する歴史的な調査を開始した。

 このプロジェクトは、教皇ヨハネ・パウロ二世の指示のもと、教会の歴史、特に異端審問を含む過去の行動についての理解と反省を深めることを目的として行われ、2000年3月、世俗的権力と結びついたときカトリック教会が犯した数々の過ち、キリスト教会の分裂、十字軍、異端審問、魔女裁判、反ユダヤ主義、先住民族への侮辱などに関する教会や信者の責任を認め、謝罪している。

 

 この映画の結末について、歴史に詳しい人からは「悪魔のせいにして言い逃れをしようとしている」と思う人もいるだろう。

 私は、この物語が本物だとして、悪魔に取り憑かれることとは、それは信仰を誤った、もしくは薄れた、あるいは疑ったからであり、それは人の弱さのなんたるか、つまり、何かを「信じることができない」ということが人の営みの中で容易にどこでも、いつでも起こり得るものだ、といっているのだと思う。

 友人を、家族を、恋人を、親を、子を、隣人を。そして自分を疑ってしまうことは人生で多々あることだ。

 その時こそ、信心を。信じるものを信じる心を忘れてはならない。それは宗教でなくてもよいと私は思う。

 悪魔のせいではない、悪魔に取り憑かれ利用されるような信仰では教会は、あるいは私たち人間は過ちを起こす、そうならないために悔い改め回心する、いわば告解がこの映画の本質であると感じる。


 長くなってしまったが、これを読んでくださったあなたに最大の感謝と祈りをここに捧げる。

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カトリック知識でおもしろくなる「ヴァチカンのエクソシスト」 曇戸晴維 @donot_harry

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