朧が残る夜の底

鹿ノ杜

第1話

 甘いかおりがして、雨上がりを知った。どうやら、薄く開いた部屋の窓からかすかに漂ってくるようだった。

 いつの間にか寝入ってしまった彼の腕の中から抜け出した。離れがたく、去りがたく、まだ大丈夫、まだ大丈夫と繰り返しているうちに夜は底を打っていた。脱ぎ散らかした服を一つひとつ拾い上げ、音も立てずに身に着けた。わたしは、こういった行為ばかりがうまくなっていくのかもしれない、とかすかな予感がした。

 あれほど離れがたいと思っていたのに、確かに宿っていた感情は、今やきれいさっぱりなくなっていた。彼の部屋を出た。

 家路を急ぐ理由もなく、わたしは夜道を楽しんだ。夜のすべてがかすんで見えた。

 子どものいない公園、消えた信号、遠くに見える市街地のあかり、家のあかり、月だってかすみ、夜空はほのかに明るいだけだ。

 人通りの途絶えた駅前を浮ついた気分で過ぎ行く。あかりのおちた雑貨屋を街灯が照らしている。

 小さな坂と、その先に少しの石段があって、わたしはつま先立ちでかけ上がる。並木道がはじまっていた。

 枝に顔を寄せる。

 飴細工のような白い花がとまっている。

 また別の木には、梅のつぼみが紅をさし、ふくらんでいる。

 つぼみから、また甘いかおりが。

 わたしはそこでようやく、自らの少女でないことを知った。

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朧が残る夜の底 鹿ノ杜 @shikanomori

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