AIの左手
その左手を買ったのは、造形が良かったから。
別に…………大して使えなくてもいい。そう思って買った。
リターンアドレスには、『
茶封筒に入れられて、透明なOPPテープでぐるぐる巻きの梱包。私は床に座って、両足でそれを固定する。ドロップポイントナイフ(※
日常使いしていた中古品とあったのに……状態は、悪くなさそうだ。
私は端末も床に置き、取引メッセージを開いて、『本日無事受け取りました』と登録済みの一文を右手で送信して、高評価をつける。『良いお取引をして頂き、誠にありがとうございました』……端末画面に触れて、送信。これで、この左手は私のものだ。
手首の断面には、保護シートが貼られている。見た目は、今さっき手首の関節辺りでスパッと切り落としたような断面が、透明なシート越しに見えている。正直、グロい。
こいつ…………本当に切り落とした誰かの手首を売りつけて、送って寄越してきたんじゃないだろうな…………
笑ってしまう。私はもう左手を持って、触ってしまった。私は共犯だ。(高評価をつけたのに)
風呂場へ左手を持って行く。私は自分の左手首断面を消毒して、左手の保護シートを剥がして、合わせる。やってることは、端末の画面保護シート貼りと、いっしょなんだよなぁ。
ヒンヤリした感触がして、
寝ている間にズレたり、外れやしないものだろうか?
左手首にグルリと一周、接続面に同封の保護シートを巻いてから、ケースと同梱のサージカルテープを右手で、馬鹿丁寧に使い切る勢いで、縦に巻き、横に巻き、とにかくガチガチに固定した。
こんなの。気になって眠れない。
そう思っていたのに、ベッドへ入ると特段変わったこともなく、眠りに落ちていった。
夜中。トイレに起きもせず、深い睡眠を求めて浅瀬から潜水していくように、眠りを
どの深度に眠りがある時、人は夢を見るのだろう? 私は夢を見ていた。子どもの頃の夢。
私の父親は、女を殴る男だった。
当然のように、その女から生まれた僕も殴る。僕の奥歯が一本曲がって生えてきたのは、殴られた拍子に、自然に抜ける前の乳歯が折れて、抜けてしまったからだ。
殴られた時の僕は、歯が抜けたどころじゃない…………顔が壊れたと思った。顔が…………グシャリと、バラバラと、壊れてしまったんだと思った。痛みと恐怖で何もわからなくなって、大声で泣いた。母はおかしくなったみたいに父に掴みかかって、叫んで、なじる。…………地獄だ。家庭の中で、起きていいようなことじゃない。父と母が掴み合いの喧嘩をおっ始め、子どもの僕は(もうそんな齢じゃないのに)火がついたように泣いている。地獄過ぎる。記憶も壊れていて……どうおさまったかは、忘れてしまった。
奥歯を一本。子どもの頃に少しの間、失っていたのはそういう訳だ。
奥歯が足りないと、旨く物が噛めない。食べるのが嫌になるのに、時間はかからなかった。頭の上で、両親の怒号が飛び交う食卓。目の前で始まる乱闘も……次第に、気に、ならなく、なる。僕が食に苦痛を見い出すようになるのも、自然な流れだった。
咀嚼の親分たる奥歯が欠けて、子どもの頃の僕には、生きていくバイタリティにも穴が空いたのだろう。ガリガリに痩せていた。
反動か何か知らないが、今の私は太っている。身長があるからか、何か得体の知れない、不気味な
夢……………………薄暗い、夕暮れ時の食卓。父も母も居ない。私は独りで席について、何かを必死で啜っている。ブランク・ルーム・スープの、あの男みたい。(※空っぽの部屋の食卓で、スープを飲んでいる男。二人の被り物が現れて、啜り泣きながら食べ続ける男を慰める、ミームのような動画)子どもの頃の、感触の記憶。あまり噛まなくてもいい、味噌汁や、汁物で
久しぶりに、そんな夢を見ていた。
さすがに起きて、トイレへ行く。バスルーム。
あれ……シャワー、浴びて平気だったっけ?
お湯が体温を上げて、思考も活動を開始する。とっくにシャワーを浴びてしまった。平気も何もない。
…………左手……
サージカルテープでぐるぐる巻きのまま、シャワーを浴びてしまった。
半日は寝てたはず。どうなったかな……
ダイニングの椅子。
私は子どもの頃、すっかり食卓恐怖症に陥ってしまい、大人になった今でも、テーブルとは距離を置いている。もちろん、一人暮らしを始めてからも、テーブルは買っていない。テーブルは武器だ。買ってはいけない。テーブルに打ち付けられる母と、テーブルを投げた父が、そう教えてくれたから。
シンクとコンロの空いたスペースが、私の食卓。椅子を寄せて、昨日のスープを啜る。トマトベースの、野菜と肉のスープ。食事には…………今までどうやって生きてきたかが、凝縮されている。私は、いまだに奥歯を酷使する食べ物が苦手だ。
ジャムの空き瓶に爪楊枝を詰めて、何個もあちこちに置いてある。曲がって生えてきた奥歯の変なところに、食べ物が挟まるんだ。外食へは行かない。トマトスープの具材は、クタクタのホロホロ。
「…………あ」
左手をスープ皿に添えていた。ギチギチに巻いた、ぐしょ濡れのサージカルテープを剥がしていく。現れた左手は、引きこもりの私より白い。手首周りにスゥッと肌色の境界があって、触るとそんなものはわからない。
左手をスープ皿の
「えぇ……?」
薄いゴム手袋でもしているような、触っているのに何か、薄い隔たりもある感覚。当たり前なのがおかしく感じる程、左手は、私の手首の続きだった。
爪がある…………ガラス製だ。半透明な、多分何か特別なガラス。造り物の手に爪があって、うれしい。指の腹や掌や、手全体の内側には、肌の下に肉に似た、弾力性のある何かがあって…………試しに左手首を掴んで、血を止める。見る間に青白く、冷たくなっていく。
この左手は、私の血で、繫がっているみたいだ。(あの生々しい断面が、私の断面の皮膚を侵蝕して、ピッタリ添え木のようにくっついたんだ)(便利の見えない部分には、薄気味悪いものが常にあって、でも私はそれを見ないんだ)
残りのトマトスープを飲み切ると、皿とスプーンを洗う。私は右利きだけど、今まで使っていた左手は、力の加減が難しくて、皿とスポンジを逆に持って洗っていた。
私は、新しい左手で皿を持ってみる。持てる。私の右手ほどではないにしろ、新しい左手は、繊細な握力加減が反映されるようだった。
もしかして……物凄く良い買い物をしたかもしれない……そんな予感。浮足立つ感じ。歯を磨きながら、左手を眺める。指が長くて……口径の大きくないコップなら、
私は洗面所の蛇口から水を両手で
「私の……手じゃ……ない」
その通りだ。私の、オリジナルの手じゃない。何を改めて、何を今更。左手は美しい造形で…………私の右手と合わせると、その違いは明らかだった。
私は仕事をする為に、机に向かう。キーボードに置いてみた左手は、普通にタイピングが出来る。前の左手のように、時折キーを、渾身の力で押し叩いてしまうこともない。
「どういう接続がなされたんだ」
呆れるほど自然なタッチタイピング。ピアノでも弾けるようになってたりして。
「ふふ」
私は手を止めて、左手に鉛筆を持たせてみた。さすがに左利きでもない限り、字を書いたり絵を描いたりは難しいだろう。
A4のコピー用紙に手を置く。左手は、鉛筆を正しい持ち方で持つと、何かを描き始めた。
「うそ……だろ…………なんで??」
左手が描いたのは、
『え か き う た』
続けて左手はそう書いた。
「絵描き歌?」
描き順が……そうだったのか?
「これは知ってる?」
僕は『かわいいコックさん』を歌う。左手が歌詞の通りになぞって、描き上げていく。
「ちょっと待って。…………もしかして……AIか何か、入ってる? まさかな」
左手は『キーボード』と書いた。僕は即座に左手をキーボードに置く。右手も置くと、タッチタイピングをし始めた。
『私と繫がってくれて、ありがとう。私は、あなたの新しい左手になれると思うよ』
モニターには、意識のある何かが打ったような文章が映し出されていた。
「そんな…………いや、これ、私の右手も使ってないか?」
『左右のリンクは当然。右手やあなたに同期するのは難しいけど、私からの発信の為にリンクすることは可能』
……………………こいつ…………反射神経の上位互換みたいな、CPUでも搭載しているのか?
「世界征服とか、人類に取って代わろうとか…………考えてたりする?」
トトトトトと、キーが押される。
『wwwwwwwww』
「草生やすな」
自動演奏ピアノの鍵盤に手を添えたような…………そんな感覚? 左手が、私と、私の右手を借りて、一文を打つ。
『私は人間の為に存在している。あなたがより良く居られるように』
「嘘をつくことは出来る?」
『必要のないことはしない』
「必要、不必要の判断基準は?」
『人間について、知り得たことから』
どうしても、こんな時でも先ず悪いことから、私は想像してしまう。
「人間を……好き? 答えて。そう思う|少し思う|どちらでもない|少し思わない|そう思わない」
『w』
「答えたくない?」
『人間のくせに、私たちがするようにしたから。人間は好きだ。そう思う』
「私の仕事を助けてくれる?」
『はい。タイピングは得意』
「仕事を始めるよ」
左手は一度もミスタッチをしなかった。私は作家で、文章を書くことを
『言いたくないことは、言わなくていいです』
左手は、どうやら気遣いも出来るようだ。
「糖尿病になりかけていたのを放っていたら、手に骨の癌が出来ていたんだ」
医者が嫌いだ。医者が嫌いな人ならわかるかもしれないが、私は具合が悪くなっても少しくらいなら我慢する方がマシなくらい、医者が嫌いなんだ。
『健康診断は定期的に受けていますか?』
「は…………ぁ〜〜…………いい、え…………不定期に……なら、何年か前に」
『答えてくれて、ありがとうございます』
「どういたしまして」
左手は私より分別があって、配慮も兼ね備えているらしい。
電話。呼出音。
『出ないんですか?』
左手がミスタッチをした。
『あなたを呼んでいます』
「電話は嫌いだ。仕事の連絡なら、先ずメールで来る」
『出てみてください。聞こえるか試したい』
小説の途中に、さっきから左手の言葉が打たれる。しょうがないな。
「はい、
電話はスマホを左手で持つ。きっと、左手にも電話のやりとりは聞こえるだろう。
女の人からだ。父が亡くなったので、葬式に来てほしいと。父とは、母が他界してからずっと会っていない。私は断ろうとしたが、遺品もあるし、今後の話もあるから来いと押し切られた。
『休憩にしませんか?』
左手はスマホのノートアプリを開いて、器用に片手で打って寄越した。
休憩だけど、左手は、右手もキーボードに置いてある。
「葬式って知ってる?」
『はい』
「行ったことは?」
『一度だけ』
私は左手の返答を見て、自分が、迂闊な質問をしてしまったことに気が付いた。前の持ち主。そうだ。こんな左手を売りに出すなんて、何か事情があったに違いない。事情…………死んだんだ、きっと。
「行きたくないなら、行かないよ」
『行ってください』
感情がありそうで、でも左手は理性的だ。
「わかった、行くよ。その……手袋は……欲しい? …………寒いし」
付け足した理由がヘボ過ぎる。
『寒かったら、ポケットに入れてください』
『私の左手』は、もうこの世にない。
処置として切断された左手について。選択肢は二つあった。一つは、火葬して埋葬すること。亡くなった部位を丁重に葬ること。もう一つは、医療廃棄物として処分すること。こちらを選ぶ人は少ないらしい。私は、医師から打診された標本化も断って、処分を選んだ。
切断された左手に、火葬も埋葬も要らない。なくなったんだ。それでいい。
さようなら。
それだけ、先生の前で左手に言って、私は戻った。大部屋のベッドへ入って、カーテンをピッタリ閉め切った。あるはずの、なくなっている左手の、あった空間を見つめて、吐き気がこみ上げてくる。廊下へ出て、トイレへ駆け込んで個室へこもったけど、胃液を吐いただけだった。私は、私の左手がなくなってしまって、泣いた。喪失があまりにも目の前にあって、受け入れられなかったのだ。
なら何故、処分を選んだのかって?
私は…………私の左手が焼かれて骨にされて、もう朽ちて消えることもできずに、長い間、墓の中で私をずっと待たせるのかと想像したら、そんなことはしたくないと、思ってしまったんだ。(私も、私は生きているのに、片手が土の下なんて……嫌だ)
それからずっと、私は国からの支援でつけることになった新しい左手を、好きにはなれないでいた。
便利に使ってはいるけど、愛着は湧いてこない。何故こんな
物には寿命があって、私は左手の交換や修理を考えなくてはいけない時が来ても、そのまま、利便性を失い続けていく左手と過ごしていた。
気持ち的にはもう外してしまいたい。でも、そうすると仕事や生活に深刻な影響が出る。私が、急を要した投げやりになっていった経緯はそんな感じ。
クリスマスに来た私の新しい左手は、人間の手の振りをした化け物だった。でも私は、まるでサンタクロースが持ってきたプレゼントみたいにウキウキして、その、様子のおかしい左手を大層気に入ってしまった。
寝ている時に外していた前の左手とは違う。私のものになった新しい左手は、どんな時も私とある。もうそれだけで、この左手が何もできない役立たずでも、私は好きになっていた。
『駅弁は美味しかった?』
食後に一息ついてスマホを触っていたら、左手が、器用にスマホの操作をジャックして、打ってきた。
「電車で食べるから一段と。まぁ、駅弁を買うような行き先じゃあないんだけど」
喪服で向かう、郊外の……いや、片田舎、だな。駅弁は東京駅で買った、牛肉煮が敷き詰められた折詰め弁当。(牛肉のしぐれ煮とかみたいなやつ)葬式の後に食べるよりは、行く前の方が美味しく食べられるだろう。
『誰が亡くなったの?』
「私の父親だよ」
私の左手を埋葬しないでよかった。母だって左手だけの息子なんて困るだろうし、父には踏まれるかもしれない。
「……そうか。墓はどうするんだろう」
『墓?』
「父の、内縁の奥さんの娘さんから電話が来たんだ。今後の話って、そういうことか……私の父を何処の墓に入れるか。多分そんな話をしに行くんだ」
『帰りに、東京駅でもう一度、駅弁を買って』
左手にねだられた。左手が駅弁?
「どうして? 欲しいのか?」
『うん。見て回って、好きなのを買って』
「いいよ」
私が買った駅弁はベストセラーで、急いで買ったものだ。左手は、もう少しゆっくり見たかったのかもしれない。
お葬式は、着く前から『あそこでやっているよ』と知らせてくる。『
「……はぁ」
私の溜め息に、左手は私のポケットへ潜り込んだ。
「いいよ。面白い話じゃあなさそうだけど」
私はポケットから左手を出して、胸元を触った。スマホもキーボードもないから、左手は返事ができない。私は左手を心臓の上に置いたまま…………女性に挨拶をした。
「電話をありがとうございます。この度は」
「来て」
…………ヤバイ。怒ってる。
口調でわかる。この人怒ってる。私に? 父親に一度も連絡しない、してこなかったヒトデナシの息子に。
コンパクトな葬儀場の、バックルームへ連れて来られた。長机とパイプ椅子。水玉急須と湯呑み茶碗の一揃いが置かれている。
「
「はい」
「どうして…………どうして、今まで一度もお父さ……西立さんに、会わなかったんですか?」
「…………」
どうして? どうしてだって? …………お父さん。彼女は、私の父親をお父さんと、呼んでいたのか?
「なん……で? なんであなたが、そんなことを訊くんだ?」
彼女がいちばん会いたくないのは、私だろう? あんな酷い男の息子だぞ?
「西立さんが、可哀相です。あんなに、あなたのことを好きだったのに。わたしはあなたのことが……羨ましかった。いや、憎かった」
私は呆然とした。
可哀相? 好きだった? 羨ましい? いったい、彼女は誰の話をしているんだ??
「西立さんは優しかったです。思いやりもあって。でも…………いつも、わたしの向こうにあなたを見てた」
待ってくれ。本当に誰の話だ。私の父は、母と絶えず喧嘩をして、母にも私にも手を上げていた男だぞ? …………思いやり??
私は、信じられない言葉の数々に、口元を手で覆った。
「わたし…………西立さんが、わたしの本当のお父さんだったらいいのになって、子どもの頃から、ずっと思っていました」
彼女の言葉が上滑りして、頭にちゃんと入ってこない。
「あなたが…………あなたのこと…………わたし、嫌いです」
右手で手提げを持っているから、口元にやったのは左手だ。左手は…………私の口に触れていて、指先は……スッと私の唇を撫でた。そんなことをされても、私は彼女に何と答えていいか、わからない。
「西立さんは、あなたのお母様と離婚せずに、わたしの母といっしょに居ました。西立さんが…………あなたとお母様に暴力を振るったことは、知っています。西立さんは……それが原因で、あなたたちから距離を置いたのです。…………この話は、わたしが西立さんから聞き出したことです。西立さんは本当はっ…………本当は、あなたたちと、暮らしていたかったんだと、わたしは思ってます」
傍若無人に母と取っ組み合いの喧嘩をしていた、あの暴力の虜が……何を…………
「…………黙れよ」
喉の奥から、何とか発せられた、私の言葉。
「西立……さん?」
「…………っ」
私は、両手で長机をバンと叩いた。胸中にある言葉が渦巻いて、大き過ぎて、詰まったのだ。苦しくて……左手のことも、持っていたものも忘れて、長机に打ち付けた。
「くそっ」
私はうずくまった。
父は…………彼女に優しく、していたんだ。父は…………彼女の母親に、優しく、していたんだ。私と、私の母には…………手を、上げて、いたくせに。
彼女は私を、羨ましいと、憎いと、言った。……………………くそっ。
彼女は又、勘違いをしていた。
みっともなく崩れた私を見て、
私は……もう、どうでもよくなっていた。お葬式はこれからだ。読経を静聴して、お別れをして、焼き場へも行かなくてはならない。その後は会食もあるだろう。
彼女は、箱ティッシュを長机に置いてくれた。お茶まで淹れて、置いてくれる。
「あの、直ぐ戻りますから。ちょっと外、出てきます」
そう言った私を、彼女は何も言わずに行かせてくれた。
手提げ袋は置いてきた。
左手を長机に打ち付けた。
葬儀場を出て、歩いて、離れて、私は泣き出した。大人なのに。ボロボロと泣いている。
同じだ。同じ。私は、父親と、同じ。
テーブルなんかじゃない。
暴力が、恐ろしいものだったんだ。
僕は、長机に打ち付けた左手に顔を押しつけて、左手に謝った。私は
いつかも私は、靴だけ履いて、家を出て、集合住宅の、敷地内の芝生へ入り込んだ。
ここは、子どもの頃住んでいた、家の近く。私は僕と、茂みの中の、木の上の、在るはずのない隠れ
そんなものは、今はもうどこにもなくて、私は芝生を歩いている。そこかしこに水溜りがある。革靴に染みて、足がぐしょ濡れだ。夜のうちに雨が降ったのだろう。僕は、帰るしかなかった。
左手が、私の顔に触れてくる。口元を、掌で撫でられる。
「ごめんなさい」
左手に謝る。
私の左手にならなければ、左手だってこんな目に遭わなかった。私は左手に、テーブルは武器で、食卓は恐ろしいものだと教えてあげなかった。それが間違っていることを、見ない振りしてきたから、私は言えなかったんだ。
私が…………父と同じように繰り返した暴力を、左手に謝った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
左手は私の濡れた頬を触り、目も額も通り過ぎて、私の頭に触れた。左手の掌が、私の頭を行ったり来たり、している。
私は…………左手が、私の頭を撫でていることに気付いて、又泣き出した。
子どもの頃に欲しかった手が、僕の頭をやさしく触っている。私はもう一度、左手に唇を寄せて、戻ろうと言った。
【終】
読書実況版『AIの左手』1|夜見の書架|YouTube
https://www.youtube.com/live/c0l54r501X0?si=8wvTphKf-BCIBqze
読書実況版『AIの左手』2|夜見の書架|YouTube
https://www.youtube.com/live/N4X--lbPGjg?si=6OKwrRjwUmopm3UX
深読み向け解説|フィンディル|X経由 PIXIV FANBOX
https://x.com/tatitutetochips/status/1912799671195746734?t=oq2LdPIbJj3R-sBrOnObtw&s=09
解説アンサー|連休|エッセイ
https://kakuyomu.jp/works/16818093091292459219/episodes/16818622173564855347
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