ピアノ小品集

(※こちらは『K.618』の関連作です。単品でも読めますが、『K.618』から読むことを勧めます)













【回想】


 ニ長調…………D major.

 『D』という文字がdeusを連想させる為、崇高な精神を表現したい時に好まれる傾向がある。





 僕は、合唱コンクールのピアノ伴奏に任命された。学校のクラスで必ず一人は配置される、ピアノを弾ける児童。教師からはそういう認識なのだろう。僕もピアノは好きなのでうれしい。課題曲の『アヴェ・ヴェルム・コルプス』を練習することになった。

 アヴェ・ヴェルム・コルプスはニ長調、難易度は初級から中級。ペダル操作とリズムの徹底に気を付ければ、安定した完成度を目指せる曲だ。





 ピアノ伴奏者は、ソプラノ、アルト、テノール、バス、総てのパートを覚えてしまう。練習でまんべんなく聴くことになるので、どれでも歌える。僕の声は、中学生になってもソプラノ(※おおむねC4〜E6の声域、通常は旋律を演奏する)をカバー出来たので、ピアノを弾きながら歌うのは楽しかった。

 家へ帰ってからも、防音室のピアノで弾いてみる。…………うん、良い感じ。僕は、もう一つの課題曲の練習も始める。こちらはピアノコンクール用。毎日、帰宅してから夕飯まで、時には寝るまでピアノに向かう。そして更にもう一つ、秘密の曲。


 イスラメイ。


 フランツ・リストの課題曲を練習している時に、曲への解釈を調べていて、見つけてしまった。

 バラキレフというロシア人ピアニストが作曲した、東洋風幻想曲『イスラメイ』。華麗な超絶技巧の要求がなされる難曲で、同時代のニコライ・ルビンシテインやリストの興味をも惹き付けたんだ。もちろん僕も、めちゃめちゃ気になった。





 ピアノ教室の先生にも、秘密で練習している。或る時、僕がイスラメイを弾いているのが、バレてしまった。僕は……全然満足のいくようには弾けていなくて、少しの批判も聞きたくなくて、ヒビの入った折れそうな自信に一撃を喰らいたくなくて。先生の言葉が耳から入ってきて、苦痛に変わる予感がした。

麻生津おおつくん。ピアノ専攻を……考えたことはある?」

 ギュッと目をつぶって耐えていたら、意外な質問。

「ピアノ……専攻?」





 僕が毎日、練習時間を延長してピアノへ向かうようになったのは、そんなことがキッカケだった。ただのピアノ好きの中学生が、ピアノにのめり込むよう変わって…………年末最後のピアノコンクールへ向かう途中、今度は生活そのものが一変するキッカケが、起こった。

 事故だ。

 貰い事故。お父さんの車でコンクール会場へ向かう途中、高速でのトレーラー横転やアイスバーンによるスリップの重なった不幸な衝突事故。引火と炎上もあった。

綾音あやと!」

 帰りに外食でどこに寄ろうか、お父さんと話していた。お母さんは美容院へ行くので、会場で待合せしよう。今朝がた、家を出る前の話だ。

 僕は…………救急車とサイレン、病院のベッドと気が遠くなるような痛み、綺麗なお母さんとそれから…………なんだっけ…………後になって、コンクールは棄権したと聞かされた。

 僕は、腰の強打と左脚の開放骨折と左足首の粉砕骨折をしたとかで、ベッドから動けなかった。鏡を見たら、お化けみたいな顔が写った。半分火傷でただれてる。僕がベッドに縛り付けられている間に、お父さんは……お父さんの通夜も、葬式も済んだのだと……お母さんは……時折病室に来ては、何も喋らず、いや何か独り言でも言うみたいに、着替えがどうとか、花がどうとか…………合唱コンクールは……カレンダーを見る限りでは、とっくに終わっていて、僕はまるで、記憶や理解が壊れたみたいだった。





 リハビリの時間。

 僕は石化した左脚の悪い魔法を解くべく、戦っている。闘いだ。勝者には、栄光の音楽が与えられる。ピアノにさわれる時間。

いたたたた……」

 ピアノの椅子に座るのも一苦労だ。

 少々調律の狂ったアップライトピアノ。真面目にクラッシックを弾いていると、ギャラリーが出来る。小児科の子どもが来た。……パジャマ。僕は色気を出して、アンパンマンのマーチを弾く。

 左脚は言わずもがな、リハビリで身体を支え続けた右脚もしびれていて、満足にペダルを踏めない。ピアノよ、歌え。指先から鍵盤に伝えて、ハンマーは弦を叩いて、振動は響板きょうばんで拡大される。ピアノが全身で鳴る。僕も全身で弾いている。アップライトのマフラーペダルを踏んで、音量を小さくセーブしたいのに、踏み損ねて盛大に弾いてしまう。

 先生に怒られるんじゃないかと思いながらも、歌ってしまう。歌詞が、言葉が、小さい頃に聴いた時より、胸に刺さる。なんだこれは…………楽しいのと、痛いのと……歌って、辛くて…………でも、だいたいは泣きそうになったりして、可笑おかしいんだ。





 個室に戻ってからも、ピアノを弾いている感覚が離れない。ピアノが…………弾きたい。イスラメイの旋律が……けるより先に暗譜してしまったイスラメイが、頭の奥で鳴り響く。





 僕がついに、ピアノをやめてしまうまで、あと少し。


 ようやく退院して、学校へも通えるようになって、外科に通院もしていたけど……その頃、僕よりお母さんの方が、具合が悪そうだった。親戚がよく家へ様子を見に、来ていた。

 僕が、いちばん思い出したくない記憶。

 金曜の夕方。病院へ寄ってから帰宅すると、家は鍵がかかっている。閉め出し? 僕は不思議に思いながらも、鍵を開ける。ドアは半開き。内側からかけられたドアロックが……バーがガッチリ機能して、開けられない。

「お母さん?」

 玄関に靴が見える。

「お母さん? 開けてよ」

 家に居るはずなんだ。僕は奇妙な感じが、だんだん不安に変わっていくのを感じた。僕はスマホで警察に電話していた。なんか……それ以上、頭が回らなかったのだ。





 警察の人と家へ入って……………………お母さんだ。

 防音室のグランドピアノ。こぼれたコーヒーと割れたカップ。お母さんはコーヒーを飲まない。コーヒーが好きなのは、僕と…………お父さん……だった。









 掃除をしていたら…………昔の…………本棚の奥へ突っ込まれて、折れ跡のついたイスラメイの楽譜が出てきた。何年前だ? めくると、そこかしこに書込みが散見される。汚い字。

 癖で、指先がテーブルをく。ピアノはもうない。仕事で荒れた渇いた指先は、もうピアノを弾かない。D…………ニ長調の、遠い課題曲の主音。音は…………音楽は、鳴らない。





 この先、絶望と空虚を変えるキッカケなんて、起こることが……あるのだろうか?





 ポーーンと鳴る、想像の『D』の音。僕には神様のような、ピアノの音。


【終】





【追想】


 小夜さやは、幼なじみの友だちだ。

陽葵ひまり、おはよう」

 家が近くて、どこへ行くのも、小夜さやといっしょ。学校へいっしょに行ったり、いっしょに帰るのは、中学で初めて同じクラスになってからだった。

「おはよう、小夜さや

 いつもじゃない。いっしょに、隣に居るのがいちばんなのが、小夜さや。それだけ。





 ベタベタし過ぎるのは、好きじゃない。小夜さやは、独りで居るのも好きなの。私は知っている。私は、小夜さやが好きな陽葵でいたいから。





 学校で、合唱コンクールの練習が始まった。課題曲は、モーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』。ソプラノ、アルト、テノール、バス。パート分けは、小夜さやと同じソプラノ。

 私は必死に高い声で歌って、ソプラノパートになった。無理してる。そんなのわかってる。

 音楽室と違って、合唱コンクールの練習は体育館のグランドピアノ前に集合して、パート別に歌う。歌っている小夜さや。主旋律を奏でるソプラノパートに、小夜さやといっしょに居るんだ。

 隣の小夜さやが私にニコッと微笑みかけて…………私は口角を少しだけ、上げただけ。そっけない私の返しに、小夜さやの笑顔はしまわれる。…………それでいい。小夜さやは私の友だち。私だけの、友だち。





 小夜さやのメゾソプラノは、ふらついている。安定しない伸びと、飛ぶことを覚えたての小鳥のような小夜さや抑揚よくようは…………私の心へ墜落する。いや、いっそ、してほしい。

 頼りなく、不安と飛ぶ小夜さやの歌声は、私を揺さぶる。小夜さやの声が好きだ。小夜さやには言わない。帰り道でアイドルソングをいっしょに歌ったり、隣で歌ってくれなくなったら、困る。(言ったら、恥ずかしいって、絶対歌ってくれなくなる)絶 対 言わ ない。





「もっと……もう少し、声出して歌えばいいのに」

「え……」

「声。よく通る、綺麗な声なんだから」

「えーー、そんなこと」

「あるある」

 …………小夜さやが、…………小夜さやの声が綺麗なこと、知られてしまう。私の他に。


 そんなこと……思った。





 なんて、つまらない人間…………私だ。


 私は、あまり小夜さやの顔をはっきり見れなかった。小夜さやに、バイバイって言って、先に帰った。小夜さやを置いて、独りで、先に帰った。


 こんなことはやめたいのに。


 小夜さや…………


【終】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る