それから

僕と彼女の小さな世界

「あずさ?」

 ふと顔を上げると、彼女はいつものようにソファに丸くなって眠っていた。

 窓際の、よく日差しが届くその場所は、いつも彼女のお気に入りの場所だった。そこに丸くなって眠って、僕が横に腰掛けたり寝転んだりするとちょっと嫌そうな顔でこちらを見て、けれど諦めたようにまた眠る。

 そんな、彼女が一番好きな場所だ。

 いつもと変わらないはずのその姿にどうしてか違和感が胸をざわざわと侵食して、僕は朝食の片付けもそこそこにキッチンから抜け出した。


「あずさ?」

 同じように呼び掛ける。

 朝と昼の間のキラキラした光が彼女の、ちょっと廃れた毛に反射している。

 ソファに手をついて彼女の顔を覗き込む。僕の体重でソファが僅かに沈み込む。

 あずさは目を瞑ったまま、こちらを見ない。

 丸まって薄くなった腹が、ほんの僅かしか空気を吸っていない。

 呼吸が浅い。

「あずさ!」

 自分でも思った以上に大きな声が出たが、それでも彼女は顔を上げなかった。

 前から不安だったものが、遠からず迎えるだろうと覚悟していたものが目の前に現実となって、僕こそ呼吸が止まりそうだ。

 彼女はもう、おばあちゃんなのだから。

 動いているか動いていないのか分からないほど、ほんの僅かしか上下していないその背に手を添える。まだ温かいが、あの日一緒に眠っていた体温とは随分と低く感じられた。

「あずさ、ねぇ起きてよ。まだ今日は始まったばかりだよ。一緒に本読んだり、日向ぼっこしたり。晩ご飯だって今日はマグロにしようって、あずさ好きだろ?」

 なぁって、呼び掛けても顔を上げない。

 彼女の体が小刻みに揺れている。

 いや、違う。彼女の背に添えた僕の手が震えているんだ。

 途端に彼女の姿がじわりと滲んで見えた。

 嗚咽と涙が止まらない。


 その時、彼女が僅かに顔を上げて、その目が僕を捉えた。

 そのアンバー色が窓から差し込む日差しで星のように煌めき、彼女がゆっくりと瞬きをして、そして

「にゃぁ……」

 小さく答えて、全身の力を抜くように、静かに目を閉じた。


 彼女の首に巻いたチョーカーの星だけが、いつまでも日差しを受けて輝いていた。

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きっと泡沫。 えんがわなすび @engawanasubi

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