神の救済――このようなタイトルの小説を書いたのは、昨年のことだ。新刊の私小説集に書き下ろしで収録した掌篇小説で、わたしが大学院生のときに熱中し心の支えとなった、ある漫画との想い出を書いた一作である。この新刊にはほかに、一篇の中篇小説と短篇小説が収録されている。前者は再録の作品で、後者は書き下ろしである。


 わたしはその出来映えに、一時は満足していた。しかしいま思うと、恥ずかしい出来の作に思える。少なくとも、この「神の救済」という物々しいタイトルの作だけは。物語の筋もなく、加えて、筋がないことに意味も効果もない一作である。


 お金を頂戴する同人誌として成り立っているのは、その中短篇があるからといってもいい。だが、短篇の方もいま読み返すと、いくらか粗い箇所が散見される。無論、「いまになって思えば」という、当時の自分の心境を等閑視とうかんしした批評ではあるのだが。


《ごめん、打ち合わせが長引く。3時を超過するかも。また後で連絡する》


 正午、鹿野からテキストメッセージが届き、もしかしたら今日はダメだろうと思っていたのだが、それはご名答であり、打ち合わせは夜まで続いた。仕事が理由とあれば、なんの不平不満もないし、怒る理由などひとつもない。だから、わたしはいまの心境と――昨日から抱き続けている懊悩おうのうと、自分ひとりで向き合うしかなかった。


 とりあえず、現在、投稿サイトで連載中の長篇小説に手をつけることにした。週2回の更新ということもあり、ストックはいつもぎりぎりだった。1カ月分を書き切っておけば、どれだけ心に余裕が生まれるか分からない。読者様のためにも、絶対に、更新日・時刻を変更しないということを決めているため、休んでいるわけにはいかない。しかし水曜日をのぞいて、連載がある以上、必然的に「毎日」多忙を極めていた。


 だけどそれは、わたし自身が進んで取り組んでいることだ。である以上、それを他責にするつもりなど毛頭もないが、自責する方向へ進むのは自然である。物書きとしてステップアップするために必要なのは、なにより時間なのだ。どっしりと心身を構えて、新しいことに挑戦することのできる「余裕」を作るべきなのだ。


 と、なれば――わたしは、これから数日間、連載中の小説のストックを作り続けることにした。一カ月間、新しいことに挑戦する余裕を確保するためにも、一カ月分のストックを貯めておく。そうと決めると、ノートに記してあるアイデアやプロットを頼りに、次々に「お話」を作っていった。


     *     *     *


 いつ、寝落ちしたのかは分からない。床の上で転がっていたということは、寝ようという意志を持っていなかったのだろう。毛布を畳んでベッドの上に置くと、眠気覚ましのインスタントコーヒーを作り、原稿が映っているディスプレイと向き合った。そして、いままで書いていたところを、読み直す。


 すると、ある一文が目に飛び込んで来た。


《本当の芸術作品は、多くのひとに「あるべき」ものだと歓迎され、諸行無常に「抗う」ように、未来へと保存されることを望まれる》


 これは、あるイベントの前日に、二条城を訪れたときに感じたことであり、あの「観光」は、わたしのいままでの「創作観」を揺るがすほどの出来事だった。


 わたしは、あの感動に基づいた哲学を、小説において展開できるだろうか……なんて考えていると、ふと、その前に訪れた「東寺とうじ」での「ある出来事」を題材にして、一作を書いてみたいと思いついた。


 どうやらそれは、わたしの創作人生の新しい出発を告げる上で、格好の題材ともいえないこともなさそうだった。



 〈了〉

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苦痛と孤独を選び取りながら 紫鳥コウ @Smilitary

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