愛犬

藍田レプン

愛犬

 都内の大学に通う女性、Sさんから伺った話である。

「私犬を飼っていたんです。いえ、飼っています。名前はサクラ、メスで、まだ子犬だったころその足跡が桜の花みたいでかわいいねって、それで名前をサクラにしました。私、実家暮らしなんですけど、家族全員もうすごくかわいがってて、家の中で一番かわいがられてたのは私よりサクラだったくらいで、でもそれは私も全然厭じゃなくて、だって私もサクラが大好きだったから、でも、それなのに」

 彼女はひと息にそこまで話すと、泣きそうな声で続けた。

「ある日家に帰ったら、サクラがいないんです。お母さんにサクラどうしたの、トリミング? って聞いたら変な顔されて」

 母親を呼び捨てにするんじゃありません、と難しそうな顔で言われたという。

「え? ってなっちゃって、いやだからサクラだよ、って言っても全く話が通じなくて。まさかボケちゃったのかなとも思ったんですけど、家の中をよく見ると変なんです」

 サクラがキッチンに入ってこられないようにつけていたはずの柵がない。

 サクラがお気に入りだった犬用のベッドと毛布が無い。

 子犬の頃齧ってボロボロにしたはずの、ダイニングテーブルの脚に……傷が無い。

「ものすごい違和感でした。もし、もしですよ、母が嘘をついていて、サクラを……サクラを保健所かどこかよそに送ったとして、柵とベッドは説明がつきますけど、テーブルの脚の傷が無いのはおかしいんです。全く同じテーブルを買ってきたとしても、サクラがつけた脚の傷以外は完全に前の物と同じなんです。コーヒーの輪染みも、ニスの剥げ方なんかも、全部同じで、それに、それに」

 犬や猫を室内で飼ってる人ならわかると思うんですけど、毛が一本も床に落ちてないんです。

「そんなこと有り得ないんですよ、本当に、本当にサクラが……家に最初からいなかったみたいになってて、私もうわけわかんなくなっちゃって」

 そう言って、彼女はスマートフォンを取り出すとアルバムを開き、一枚の家族写真を私に見せてくれた。

 Sさんを中心に、白い犬と父親らしき人物、祖母と祖父らしき人物、弟らしき人物がみんな笑顔で写っている。だとすれば撮影者は母親なのだろうか。

「この写真をお母さんに見せて、サクラだよ! って叫んだら、お母さん凄く厭そうな顔をして」

 何この写真、こんなの知らない、気持ち悪い、って。

「それで全身からサーッと血の気が引いちゃって、私、自分の部屋に戻って夜まで泣いてました。夜になってお父さんと弟が帰ってから聞いても、二人ともやっぱり知らないって」

 祖父と祖母にも聞いてみたが同様の答えだったという。

「もう本当にわけがわからなくて、これの他にもたくさんサクラの写真があるのに、動画も撮ったのに、みんなで遊んだのに、みんなあんなに可愛がってたのに、なんなんですか、これは私がおかしいんですか、私、それからもう何も手につかなくなっちゃって、藍田さん、助けてください、私、もう限界なんです。何より、お母さんがあんなに嫌そうな顔をしたのが、私、許せない……」

 突然助けを求められ、私は戸惑ったが、彼女を興奮させないようにゆっくりと言葉を選んで考えを話した。

「私の尊敬する作家で、京極夏彦という方なんですが、彼が著作でこう書かれています」

 徳川家康は実在の人物である。しかし存命中の家康を知っている人物は存在しない。対象と接触していなくても、記録を見ることでその実在を信じているのだ、と。

 しかしダイダラボウシのような怪異も同様に、対象と接触していなくても記録は残っている。しかし前者の実在を信じ、後者の実在を否定するのは、後者の場合記録を見て『内容はわかるが意味は読み取ることができない』からだと。

「言葉による情報も、体験した情報も、記録になってしまえば同じだと彼は書いていました。ですから」

 あなたがサクラと過ごした『体験』は、確かにあなたにとって真実なのです。しかし、あなたの周りの人間にはその『体験』が欠落していて、写真という『記録』しか残っていない。その齟齬が……あなたを苦しめている原因ではないでしょうか。

 私が借り物の言葉でそう説明すると、彼女は涙をぬぐった。

「サクラは、もう戻ってこないんですか。私の『体験』の中にしか、存在しないんですか」

「それは私にもわかりません。私はあなたのお話をすべて信じますし、嘘を言っているとも思っていない。写真という『記録』も見せてもらいました。でも、私はサクラちゃんを一度も見ていない、あなたの家族よりも遠い存在なので」

 お役に立てず申し訳ありません、と私が頭を下げると、彼女ははっと気がついたように顔を上気させた。

「……思い出した。どうして今まで気がつかなかったんだろう。体験として、実体として、当たり前のような顔をして、そこにいたから……? でも、そうだ、そうなんだ。それなら、私サクラを取り戻せるかもしれない!」

 彼女は突然立ち上がると、その可愛らしい頭をぺこりと下げた。

「話を聞いてくださってありがとうございます。私、家に帰ります。すぐにやらないといけないことがあるので」

 そう言って、急ぎ足で彼女は喫茶店を後にした。


 その夜、彼女からメールが届いた。PCのブラウザでそれを開くと、満面の笑みを浮かべたSさんと、白い犬が写った写真が添付されていた。

 その異常さに私は絶句した。スマートフォンで自撮りをしたであろうその写真の彼女は血にまみれており、後方に包丁を突き立てられた女性らしき人物がうつぶせに倒れこんでいる。その女性の体だけがピントが合っていないように曖昧で、関節の無い軟体動物のようにどろりとしていて、つかみどころのない……まるで、オーロラのような光を発していた。

 メールには次の文章が書かれていた。


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 全部思い出しました。私には母なんていませんでした。私が幼い頃に死んでいるんです。だからこの母親を名乗るサクラって女を殺せばよかったんです。ありがとうございます、おかげでサクラは戻ってきました。私、とても幸せです。

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 私は、取り返しのつかないことをしてしまったのではないだろうか。



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愛犬 藍田レプン @aida_repun

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