第36話 最終回

 水辺の岩の上に上り、健介は虎太郎がいたほうへ目をやった。

 虎太郎はいない。


「虎太郎はどこへ行ったんだああ」

 対岸に向けて叫ぶと、秋生が返してきた。

「森に入ったああ」

 踵を返し、健介は森へ入った。


 沢を渡る前よりも、森は深かった。シダに覆われた地面の斜面もきつい。

 人間が植えたとおぼしきケヤキやスギは見当たらなかった。ケヤキやスギの大木はあるのだ。だが、どの大木も、曲がりうねり、縦横無尽に枝を伸ばし、天を目指している。交差した枝は濃い闇を作り、しんと冷えた空気に包まれている。

 右手に水の音を聞きながら、健介は森を進んでいった。枯れ草を踏みしめる音だけが、森の中に響く。

「虎太郎うう」

 立ち止まって、耳を澄ます。

 返事はない。

 

 一匹の野ねずみが、忙しなく目の前を通り過ぎていった。潜り込んだ枯れ草が、舞い上がってそっと地面に落ちる。

 バサリと背後から、鳥が健介の肩越しに前方へ抜けた。頭上の枝から、雫が撒かれた。

 続いて、甲高い鳴き声。

 鳴き声は、ふいに途絶える。

 

 シュシュシュッと、奇妙な音が聞こえてきた。木と木を擦り合わせるような音だ。

 足元の斜面が緩くなった。耳を澄まして、水の音を確かめる。沢を離れては迷子になってしまう。

 木の間隔がまだらになってきた。明るさも増してきた。

 平らな地面に出た。クマザサの密集する、円形の平地だ。

 眩しさに目が眩んだ。見上げると、青い空が広がっている。


 依然、シュシュシュと、奇妙な音は続いている。風はそよとも吹いていない。鳥の声も聞こえてこない。

 周りは真っ直ぐに伸びたケヤキが囲んでいた。まだ成長途中の、三メートルほどのケヤキの群生だ。

 その中に、一本だけ、巨木があった。根が地面から浮き出て、裾野の広がった山のように見える。

 

 右手の盛り上がった根の向こうに、青いスニーカーが見えた。見覚えのあるスニーカーだ。

「虎太郎!」

 駆け寄ると、虎太郎は地面にうつ伏せで倒れていた。

「だいじょうぶか!」

 虎太郎はううっと呻いてから、薄目を開けた。


「――西尾さん?」


「どうした、何があった」

 怪我はしていないようだ。ただ、全身が、水を浴びたかのようにびしょ濡れだ。

「おじいが」

「じいさんがどうした」

 虎太郎の指先が動き、人差し指が上を指した。

 梢が揺れている。風はないはずなのに、右へ左へ、梢がゆっくりと揺れている。


「あっ」


 枝と枝の間に、人の姿があった。

「隠じい!」

 健介の叫び声にも、隠じいは気づかなかった。太い枝にしがみついて、ただ上を見ている。

「おじいが、山拐と対決すると言って」

「――山拐と対決?」

 虎太郎が頷いた。

「どういうことなんだ?」

「わからないよ。なんだか何かに取り憑かれたみたいに、おじいはおかしかった」

 隠じいは、山拐の姿を見たのだろうか。

「おじいを追いかけてきたら、おじいが沢に飛び込んだんだ。それで、助けようと俺も飛び込んだ。流れが早くて、溺れそうになって。おじいが渦に巻き込まれて、俺も巻き込まれた。そして気づいたら、この木の下にいたんだ」

 虎太郎と隠じいは、あのくぐりの穴に入り込んだというのか。


「目を覚ましたら、おじいがいなかった。探そうとしたら、木の上のほうで、おじいが叫んでるのが聞こえたんだ」

 許してくれ、許してくれと、隠じいは叫んでいたという。


「おじいはこの木に登ってたんだ。どうやって登ったのかわからない。俺も登ろうとしたんだけど、無理だった。ほら、あの音」

 さっきからずっと聞こえている奇妙な音だ。

「あの音が、梢のほうでするんだ。その音に向かって、おじいが叫んでる。俺には何も見えないのに、おじいには何かが見えるみたいなんだ。そうするうち、すごい風が吹いて、俺は倒れてしまって」

 

 健介は梢を見上げた。

 隠じいが見ているのは何だ?

「ここで待っててくれ」

 虎太郎を地面に横たえ、健介は立ち上がった。

 幹の洞を探した。見つからなかった。一旦木から離れ、勢いをつけけてから、駆け上ってみた。鱗状の木肌はとっかかりがなく、登ることができない。


 一度、二度。やっぱり無理だ。

 

 六度目に、挑戦しようとしたとき、上から叫び声が聞こえた。

「待ってくれえぇ」

 見上げると、隠じいが枝の上に立ち上がっていた。

「危ない!」

 そのとき、梢で何かが動くのが見えた。灰色に近い白の、何者かの影。

 影は見る間に、増えていった。シュシュシュという音が大きくなる。

 

 バキッと枝の折れる音がして、目の前に隠じいが落ちてきた。

「おじい!」

 虎太郎が駆け寄って、隠じいを抱き抱える。

 

 奇妙な音は、大木の梢から、周りの木へと移っていった。まるで濃い雲のように、影はぐるぐると木々を廻る。


「許してくれ! 許してくれ!」

 廻り続ける影は速度を速め、徐々に高度を下げてきた。影が近づいてくる。

「虎太郎を連れて行かんでくれえぇ」

 隠じいが金切り声を上げる。

 この高齢の老人のどこに、こんな力が残っていたのだろう。隠じいは起き上がって、虎太郎を自分の体で覆った。


「連れて行かんでくれええ」

 

 影はますます近づいてくる。


「……山拐やまかい?」

 健介は呆然と影を見つめた。

「あれが、山拐なのか?」

「西尾さん、しっかりしてください!」

 虎太郎の声に健介は我に返る。

「突風だよ!、西尾さん、山拐なんかじゃない!」

 虎太郎の腕の中で、隠じいが叫んだ。


「儂のせいや。儂のせいで、山拐がおまえを連れに来たんや。おまえの代わりに猪鹿毛を差し出したばっかりに、猪鹿毛が怒っておまえを連れに来たんや」

「俺の代わりに、猪鹿毛を?」

 ビュンと音を立てて、突風が虎太郎を襲った。

「わっ」

「虎太郎!」

 太い根に捕まって、虎太郎が耐える。


「隠じい、どういう意味ですか! 虎太郎の身代わりって、何のことです!」

 健介は隠じいの肩を揺すった。

「虎太郎は隠使いの面を見てしまった。二年前の祭りの日、隠使いの面を神社に奉納しようとした儂は、最後に一度だけ面をつけた。面をつけて、先祖に祈るつもりじゃったんじゃ。ところが、そこに、虎太郎が現れた。隠使いの面を見た者は、山拐に差し出さねばならん。だが、儂には、虎太郎を差し出せなんだ。だから儂は、――儂は虎太郎の代わりに猪鹿毛を差し出した」

 義母の栄子の言葉が蘇った。


――山拐は、山の守り人にするために、子どもを拐う。

 健介は立ち上がった。


 山拐が山の守り人として拐ったのが猪鹿毛なら、この影の中に、猪鹿毛がいるのか?


「猪鹿毛えぇええ」

 風が下降をやめ、徐々に上へ上へと上がり始めた。

「待ってくれ、猪鹿毛。いるなら返事をしてくれえ」

 影は木々を渡り始めた。梢から梢へ、枝を揺らし、葉を茶色い落としながら、影はどんどん薄くなっていく。

「猪鹿毛ええぇぇ」

 いつしか静けさを取り戻した森に、健介の叫びが響いていった。



     エピローグ             



 一年が経った。

 羽矢子の一周忌を、村の寺で行う日、健介は花を摘みに行った。羽矢子が好きだったユリの花だ。里ではまだ蕾だったため、山へ入って摘んできた。白地に斑点が入った可憐な花で、ひっそりとしたその姿は、羽矢子の墓にふさわしい。

 

 法要には、義父母はじめ、丸橋林業の仲間たちが訪れてくれた。

 小菱田の姿はなかった。証拠不十分で、盗伐に関して起訴はされなかったが、あれから数日後に村を出たと聞いている。

 寺での読経を済ませたあと、義父母や丸橋林業の仲間たちとともに、墓へ行った。義父の総一朗は、転んだあとの容態は回復し、すでに退院しているが、認知症は進んでいる。それでも、羽矢子の墓の場所は憶えているようで、村の墓地となっている田んぼのはずれまで、先に立って歩いた。

 

 強い日差しと熱風が吹くあぜ道は、去年と変わりはなかった。墓に着いて、線香をあげ、花立てにユリを挿すと、束だったユリは、はらりと分かれて赤褐色の花粉を石の上に落とした。


「ここからは明見山がよく見えますね」


 手を合わせたあと、美月が言った。

 墓は集落が集まっている場所から離れた棚田にある。正面に村を見下ろすようにそびえる明見山が見えた。

「そうですね。ここなら」

 その先を言おうとして、健介は口をつぐんだ。ここなら、猪鹿毛のいる山からよく見える。そんなことを口にしたら、虎太郎にきっと叱られるだろう。


 あの不思議な体験のあと、虎太郎は「山拐はいない」と言い続けている。隠じいが見たもの、健介が見たものは、突風による幻覚だと言ってはばからない。

 折に触れ、虎太郎は言うようになった。

「山にいると、奇妙な体験をしてしまう。それは、きっと、自分の心が見せるまやかしなんだ」


 それでいいと、健介は思っている。


 猪鹿毛が虎太郎の身代わりとなって山へ行ったという隠じいの話は、虎太郎にとって辛いものだったはずだ。

 ただ、あの吊り橋で渦に落ちそうになったとき、ツルを引いてくれたのは誰だったのか。

 その疑問は、いまでも、健介の胸の中にある。


 そして、くぐりの穴に落ちた虎太郎と隠じいが、どうやって対岸に着けたのか。


 何か、得体の知れない力が働いたと思うのは、虎太郎の言うように、猪鹿毛を追いかける自分の心の働きなのかもしれない。

 

 ほんとうに山拐は存在しないのか。

 

 ゆこあみ組が見つけた三ヶ所のイノシシの骨のうち、小菱田が置いたと主張したのは、一ヶ所だけだった。崖地に置かれた骨と歯型のついた骨は、自分の仕業ではないと、小菱田は譲らなかった。

 

 それなら、誰の仕業なのか。

 答の出ないまま、今にいたっている。

 オヤジさんに言わせると、

「わからんままでええやないか」

ということになる。

「山には不思議があったほうがええ」

のだそうだ。

 

 義母の栄子は、依然、山拐の存在を信じている。口には出さないが、山の彼方を見つめる目に、それを感じる。栄子の勧めによって、健介は神尾井村に住居を探そうと思っている。

「あんたも、山が近いほうがええじゃろ」

 栄子の言葉の意味を、深くは問わない。


「あっちいなあ」

 秋生が額の汗を拭いながら、声をあげた。

「また明日から下刈りかあ。きついよなあ」

 ため息とともに呟いた佑樹に、健介は笑って応えた。過酷な下刈り作業にも、もうすっかり慣れた。どんなに辛くても、山にいると喜びを感じるようになっている。


「あ、誰か来る」

 秋生の声に、健介は後ろを振り返った。

 棚田のあぜ道を上がってくる者がいる。片手にユリの花束を持っている。羽矢子が好きだった花を知っている者だ。


「奏人」

 

 思わず呟いたとき、栄子が手を上げた。奏人も手を振り返す。

 健介も手を振った。

 

 猪鹿毛は山に棲んでるんだ。


 そう言ったら、奏人は笑って言うだろう。

「あんた、馬鹿じゃないの」

 だが、健介はここで待つつもりだ。猪鹿毛が帰って来る日を。そして奏人が訪ねてくれる日も。

                            了

 

 


 

 

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山拐(やまかい) @popurinn

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