第35話

 ハッハッ。

 

 自分の息の音だけが耳に響く。下を流れる水の音も、ツルの擦れる音も聞こえない。

 汗が首筋に流れる。ツルを握り締める。

 騙し騙し足先を、ツルの上に置いた。見ないつもりでも、真下の渦が目に入ってくる。目眩を感じた。水が誘うように回転を繰り返している。


「そのままだ、そのままゆっくり進め!」

 オヤジさんの叫び声がした。

「前を見ろ! 下を見るんじゃない!」

 手の位置をずらした。瞬間、掴み損ねる。掌に溢れる汗とツルに残る水滴で滑ったのだ。

「あっ」

 すんでのところで、ツルを掴んだ。どうにか、態勢を立て直す。

 一歩、二歩。もうすぐ最もツルが細い部分にさしかかる。


 だいじょうぶだ。

 進むんだ。

 健介は自分に言い聞かせた。


 待っていろ、山拐。猪鹿毛を見つけてみせる。おまえたちが連れ去ったのなら、連れ戻してみせる。

――あんた、なんでそんなに必死で猪鹿毛を探すんだよ。

 ふいに、奏人の声が蘇った。


 どうしてだろう。


 会いたいからだ。会って抱きしめたいからだ。

 いや、それだけじゃない。


 健介は足を進めた。細くなったツルは、掴んだ途端、頼りなく揺れる。

 俺は、猪鹿毛に言わなきゃならないんだ。

 ごめん。

 こんな父親を許してくれ。

 許してくれないだろう。でも、言いたいんだ。

 生まれてくれてありがとう。俺の息子になってくれて、ありがとう。

 それだけでいい。それを伝えられたら、どんなに嫌われても憎まれても構わない。

 

 ふいに、激しく吊り橋が揺れた。

 掴まったツルが竹を絞るような音をさせた。体が浮いたと思うと、ビューッと風の音がして、大きく投げ出される。


「ワアアァーッ」


 足元のツルがきっぱりと千切れ、健介は手すりのツルに掴まったまま、宙に浮いた。心臓がひっくり返るほどの恐怖。

 足先の数十センチ下に、渦が見えた。


「西尾さん!」

「きゃー!」

 見守るゆこあみ組たちが悲鳴を上げている。

 震えながら、健介は考えた。このままでは渦に落ちてしまう。なんとかしなくては。でも、どうすれば。


 吊り橋は、健介がぶら下がった場所から、べろりと広げた網となった。両岸につながってはいるものの、橋ではなくなってしまった。網から伸びたツルの一本に、健介はぶら下がっている。

 対岸に目をやった。吊り橋の降り口の間近に、水辺を覆うように、大木が枝を落としている。

 あそこまで行ければ助かるかもしれない。枝先を掴めば、対岸へ飛び降りられかもしれない。

 だが、そこへ行くには、掴まったツルを登り、網と化した橋の手すりだったツルにたどり着き、それからうんていをするときのように、腕を順番に前へ進めていかなくてはならない。

 

 うんていは得意だ。

 ボクサーだった頃、近所の公園に大人用のうんていの器具があり、ウォーミング・アップに何往復もしたものだった。

 問題は、うんていで前へ進むには、体を振りながら進まなくてはならない点だ。しかも、体は横向きのままだ。


 途切れることなく、橋は古いドアを開閉させているような音を立てている。激しい揺れに、耐えられるとは思えない。

 もし、途中でツルのどこかか千切れ、体がこれ以上下がったら、渦に巻き込まれてしまう。巻き込まれたら、長い長い水のトンネルに引き込まれてしまう。


 くぐりの穴。

 引き込まれても、いつかは対岸へ浮かび上がるとは言うが、それは何年も先の話だという。


 ぞくりと背中に悪寒が走った。

 グズグズしている暇はない。一歩でも対岸に近づかなくては。一歩でも、渦の上から遠ざからなくては。


 ツルを登った。どうにか橋の手すりにたどり着いた。

 ここからが、勝負だ。

 ゆっくりと体を反転させて、右手を左手の先へ運んだ。ツルが悲鳴を上げる。

 ギギギーッ。

 落ちろと囁かれている気がする。


 次は左手を右手の先へ。

 ツルが細い。体が下がった。つま先が水面に届きそうだ。

 汗が目に入った。瞬きを繰り返し、息を整える。深く吸い、吐いた。


 待っててくれ、猪鹿毛。ここで終わりにはしない。


 ふたたび体を反転させる。もう少し進めば、ツルが太くなる。せめて、あの場所まで。


 ふいに、突風が吹いた。

「わあああぁあ」

 橋が激しく揺さぶられ、健介の体も揺さぶられる。汗で滲んだ右手が、滑ってしまった。

 左手だけで体を支え、揺さぶられ続ける。

 

 もうだめだ。

 

 そう思ったとき、ガクンと体に衝撃が走った。

 慌てて右手もツルにしがみつく。

 揺れは激しくなった。だが、風による揺れとは違う。もっと何か別の力によって、橋が揺れている。


「まさか」


 健介は握ったツルを見つめた。ツルが動いている。対岸へと、ツルが引っ張られている!

 徐々に健介の体は上に上がり、対岸へ近づいていく。


 なんだ、これは。何が起きている?


 健介は動きを開始した。反転を繰り返し、ツルの先へ先へと体を進めていった。

 大木の枝が間近に迫った。まだ、枝が細すぎる。先にある太い枝に飛び移らなくては。

 ツルの動きが止まった。空気の匂いを嗅ぐときのように顎を上げ、風の気配を探った。

 風はやんでいる。


 今だ。


 健介は大きく腕を動かして、先へ進んだ。太い枝の先端まで一メートルを切ったとき、体を振って勢いをつけ、飛び上がった。

「うおおぉお」

 口をついて出た叫び声とともに、健介は枝に掴まろうとした。だが、寸でのところで、届かない。


 クソ!


 瞬間的に健介は総一朗から預かった刀の鞘を抜き、木の幹めがけて刺した。

 刀は刺さった。

 柄を掴む。

 もう、俺は死ぬんだと、健介は確信した。五十センチに満たない細い刀の柄に、人の体が支えられるはずがない。


 だが、刀はびくりとも動かなかった。


 助かった。

 幹の洞に足を掛け、両腕で枝にしがみつく。

 心臓の鼓動が、思い出したみたいに早くなった。体の奥に押し込んでいた恐怖が、全身に溢れ出してくる。

 ゆっくりと、足場となる洞を探しながら下りていった。

 

 吊り橋の降り口へ戻り、対岸でオヤジさんたちに手を振った。

 歓声が上がった。

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