第34話
降りかかる枝を払いながら、健介は斜面を下りていった。
先頭はオヤジさんだ。
小気味よく枝を折る音をさせて、オヤジさんが滑り下りていく。
管理地のように整備されていないこの斜面は、若木や下草が生え放題だった。地面に生き物のように浮かび上がった根も、行く手を阻む。注意しなければ、沢に転がり落ちてしまうだろう。
やがて、水の音が聞こえ始めた。
沢だ。そう思ったとき、はっきりと
「やめろ! おじい、行くな!」
悲痛な虎太郎の叫び声だ。
「虎太郎!」
美月が叫び、勢いよく枝を払った。
「あそこだ!」
秋生が美月の後に続く。木々の間から、川面が見えた。その対岸に、虎太郎がいた。大きな岩がいくつも重なる間に、虎太郎がこちらに背を向けてしがみついている。
クマザサの群生を踏み越えて、全員が川辺へ出た。扉が開いたように、日の光に包まれた。
目の前には、四、五メートルほどの渓流が流れていた。昨日の雨で水かさが増しているのだろう。流れが早く、濁った青黒い水が流れている。
「虎太郎うぅ!」
佑樹が叫ぶと、虎太郎が振り返った。
「だいじょうぶかあああ!」
佑樹の問いかけに、虎太郎が手を振ってこたえる。
そして虎太郎は、何か懸命に叫んだ。だが、水の音に消されて、はっきり聞き取れない。
「森の中にぃい」
と、ようやくそれだけ聞き取れた。
「森の中に、どうしたああ?」
秋生も叫ぶ。
虎太郎が必死な身振りを繰り返した。森を指している。
「隠じいが森の中におるのかもしれん」
小菱田が言った。
だが、目を凝らしても、対岸の暗い森には何も見えない。
「渡りましょう」
佑樹が前へ進み出たが、小菱田に制された。
「いかん。ここは深い。ぜったいに水の中に入ってはいかん」
「でも」
「あそこに吊り橋がある!」
美月が指差したほうに顔を向けると、五十メートルほど先にツルで編んだらしき細い吊り橋が見えた。何年も使われていないらしく、途中は擦り切れて、からまったツルだけになっている。
「――ほんとうに、吊り橋はあったのか」
呟いた小菱田に、全員が怪訝な顔を向けた。
「あんた、あの吊り橋を知っとるのかね」
社長の問いに、小菱田は呆然としたまま頷いた。
「昔、儂がまだほんの小さいとき聞いた覚えがある。森のずっと奥にある沢にはくぐりの穴があり、その沢を渡るために吊り橋が掛けられとると」
「でも、ここは、村の者も入らない森なのでは」
健介は吊り橋を見つめた。枯れ木を組み合わせたかに見える吊り橋は、日の光の中でゆらゆらと揺れている。
「村の者が渡したんじゃありません。山拐が渡した吊り橋だと、そう聞いた覚えがあります」
「山拐が?」
「ともかく行ってみましょう」
佑樹の一言で、吊り橋を目指すことになった。
岸に近い場所に転がった大きな岩の上を、滑らないよう注意しながら進んだ。ちょっとでも足を滑らせれば、流れの早い水に巻き込まれてしまいそうだ。
ようやく吊り橋の渡り口までたどり着いた。下を覗いた。水が渦を巻いている場所がある。吊り橋のほぼ真下だ。
枯葉がぐんぐんと下へ吸い込まれていた。ちょうど流れてきた大ぶりの枝が、きしみ音をさせて飲み込まれていく。
「あれがくぐりの穴だろう」
小菱田の呟きに、健介は息を呑んだ。あんなところに落ちたなら、ひとたまりもない。
吊り橋へ近づいてみた。遠目で見るよりも更に痛みが激しかった。吊り橋というよりも、太いツルの紐が渡されていると言ったほうが正しい。足を乗せる桁の部分も、手すりとなる部分も、ツルで出来上がっている。そのツルが、ところどころささくれて細くなっている。ツルの下側へいくほど、コケが生え、緑色に変色している。
向こう岸までは、七メートルほどだろうか。長い距離ではなかった。だが、高さがある。
渡り口のすぐ下には、巨大な岩が三つほど。
そこからは平らな石が横たわり、ふいに水が迫っている。石の周辺の水は薄い緑だが、徐々に濃い緑色に変わり、吊り橋の真下には渦が巻いている。最も高度がある場所は、約十メートルほどか。
「とても渡れたもんじゃねえな」
オヤジさんが言った。
「虎太郎はなんとか安全そうだ。消防に連絡をして、救援に来てもらおう」
社長の意見に、ゆこあみ組が頷く。
健介も反対する気はなかった。だが、このままじっと救援を待つ気はなかった。
「俺が行ってきます」
全員が目を剥いた。
「あんた、無理だ。この吊り橋が危ないのは見てわかるやろ」
「そうですよ。救援を待つべきです」
オヤジさんの忠告に、佑樹が賛成する。
「でも、俺は行きます。行かなきゃならないんです」
「危険ですよ。あの吊り橋は向こう岸まで渡り切れませんよ」
佑樹が怒鳴った。
「だが、今行かないと、いなくなってしまうかもしれない」
「何がいなくなるんですか」
代わりに答えてくれたのは、小菱田だった。
「山拐」
全員が息をのんだ。
「まさか、あんた、本気で山拐がいると思っとるのか」
オヤジさんが目を丸くした。
「冗談だろう。そんな言い伝えを信じて、あの危険な吊り橋を渡るっていうのかね」
社長も呆れる。
「ここは人間が立ち入らない場所だと聞きました。そんな場所に、なぜ、隠じいと虎太郎は向かったんでしょうか」
健介は全員の顔を順番に見た。
「もしかしたら、隠じいは山拐に遭遇して、連れ去られたのかもしれない」
「――そんな」
「まさか」
美月と秋生が呟いた。
オヤジさんは首を激しく振る。社長が言った。
「儂の親父もそのまた親父も、山で生きてきた。その間に、実際、不思議な出来事に何度も遭ったと聞いとる。いちいち口には出さんかったが、あれは夢でも見ていたのかと思ったことが何度もあると、聞いたこともある。だが、それでも、儂は、山拐なんちゅうもんはおらんと思っとる」
「どうしてですか」
訊いたのは、小菱田だった。
社長が小菱田に顔を向けた。
「儂のじいさんや親父の時代とは、山が違っとるからです。もう、山に、得体の知れん者が、人間から隠れて過ごせる場所はなくなったんです。じいさんや親父が育まれた山は、もうありません」
「でも」
声を上げたのは、佑樹だった。
「僕は山拐の存在を信じますよ」
美月と秋生が佑樹を振り返った。
「あの林道で何か得体の知れないモノを追いかけて行き、森で怪我を負ったとき、僕は確かに感じたんだ。僕らの知らない何かの存在を」
「だけど、あのあと、佑樹は否定したじゃない。得体の知れないモノなんて、馬鹿馬鹿しいって」
美月は口を尖らせた。
「怖かったんだよ。だから、否定せずにはいられなかったんだ。それに、信じたくなかったらかでもある。信じたら、もう、山での仕事ができなくなると思ったんだ」
「わかる。山拐なんて信じたら、腰が引けちゃうよ」
秋生も声を上げたが、そのあと小菱田が呟いた声が聞こえたかどうか。
「腰が引けたほうがいいのかもしれん。山への畏れを忘れずに、人間は生きていくべきなのかもしれん」
おーいと虎太郎の声がした。それが合図となって、健介は吊り橋に足を踏み出した。
太く硬いツルは、じっとりと濡れ、足元がギシギシと音を立てた。
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