【短編】山田おじさん

cubeべぇ。

山田おじさん

 ある国の片隅に、ひとりのおじさんがおりました。

 おじさんは、何もすることがなく、昼間は遅く起きて、水を飲み、煙草を吸い、たまに散歩へ出かけはするものの、とくに何の目的もないので、近所をうろついて公園にたどり着くとトイレにしばらく籠もって、そのあとベンチに座って煙草を吹かし、周囲を眺めて独り言を呟くのでした。

「俺の人生は一体何だったんだろう?」

 これはいつもおじさんの頭の中に浮かぶ言葉でした。

 おじさんは山田一郎というごく普通の名前でした。有名私立の中高一貫校から東京大学に入って卒業すると同時に財務省へ入省し、高校生の頃から付き合っていた彼女と結婚し一姫二太郎をもうけて、名のある政治家たちの陰で時代を作りつづけてきたエリート官僚ではなく、地方都市で両親は公務員の中流家庭で生まれ育ち、進学校でもなく底辺高でもないまずまずの学校を卒業したあとになんとなく地元の運送会社へ就職してみたものの、生来の口べたコミュ障から突然会社を辞めて、同時に逃げるように東京へやって来ると、誰にも話さずいままで内に秘めていた小説家になりたいとゆう夢を突然都合良く思い出し、さっそく取りかかってみるものの、ろくに本など読まなかった人生なので白紙の原稿用紙を目の前にしても物語は思い浮かばず、学ぶは真似ぶ、とりあえず他人の小説を読んでみようと思いついて、森鴎外の『舞姫』を手にすると間違って古文の本を買ってしまったと勘違いし、三島由紀夫の本を開いてみると漢字の読みがさっぱり分からず、辞書を引くのも億劫で、なおかつ回りくどい表現に辟易して放り投げてしまい、ならば国民文学でもある夏目漱石であれば大丈夫だろうと読み進めてみれば、書生と先生の深い絆に心をうたれて感動し、まともな小説で人生で始めて涙を流したものの、数日経って冷静になるにつれて、俺がこんなすごい物語を書けるはずがないと、あっさりとやる気を失ってしまったのでした。

 働かずにぶらぶらしながら山田おじさんの少ない貯金がさらに少なくなってきました。

 生活してゆくために山田おじさんは働き口を探しました。景気が良かった昔と違ってすぐに正社員にはなれません。新卒でもない、英語もしゃべられない、MBAの資格も持っていない、グローバルスタンダードから大きくかけ離れた立場にあり、なおかつ人見知りのあがり症なので営業はもちろんできず、プログラムやウェブページ作成の知識もなく、パソコンを触ったこともなく、運送会社にいた頃はFAXと電卓と手書きの事務作業員だったので、なんの資格も持っていません。せいぜい普通免許を持っている程度ですが、最後に運転したのは教習所の車で、道路標識が何を現わしているのか曖昧にしか覚えていないペーパードライバーでした。

 そんな中年おじさんはまともな職を得ることは出来ません。つまり、なんの能力もない人間は自分の身体と時間を資本主義の歯車に噛ませ、売り渡し、お金を受け取る生き方しか残されていないのです。

 とりあえずアルバイトを始めることにしました。

 ホテルのレストランの皿洗いです。洗い場に運ばれてきた食べたあとのお皿やコップやフォークやスプーンを洗浄機に放り込んで、そのあとタオルで拭き、戸棚に並べる作業です。そのほかにもコックさんたちが使った鍋やフライパンやおたまやフライ返しや泡立て器やボールなど調理器具を洗ったりしますが、油をたくさん使っているので洗浄機では落とせないので、たわしやスポンジと洗剤を使って手作業で洗います。

 時々テレビに出るお店なので、ホテルに泊まっている宿泊客のほかにも、外からたくさんの来店があるほどの人気ぶりです。食材の仕込みは早朝から始まり、開店するお昼時の調理場はまるで地獄のような忙しさです。そのため食器や調理器具を大量に洗ってまた使います。何度も何度も使い回します。

 「ほら、サボってるんじゃないわよ!」

 洗い場の窓口を仕切っている上条郁子おばさんは大声でそう言います。

 山田おじさんはこのおばさんが苦手でした。同じアルバイトの身分であるにもかかわらず、長い間ここの仕事をしている自負と、みんなより一番年上である年功序列意識から、同僚たちをやたらと上から目線で指示してくるのです。

 客席ホールから運ばれてきた汚れた皿は、シンクのシャワーヘッドでお湯をかけて生ゴミや油などをある程度洗い飛ばしてからラックに並べ、スプーンやフォークは別のラックに収めて洗浄機械へ入れます。

 上条おばさんはいつもシンクのシャワー洗浄をやっています。タオルで食器を拭いたり、棚に並べたりはしません。皿洗いの中で一番偉い立場の人間が、洗い場の窓口であるシャワー洗浄を行うと思い込んでいるのです。

 しかしながら、お店が忙しくなり、ホールから運ばれる食器が多くなると、シンクの脇にたくさんの汚れた皿が積まされます。廊下にならんだ食器カートにも皿が積まれ、コップやスプーンやフォークがごちゃごちゃに並べられてしまいます。それらを山田おじさんはひとつひとつ別々のラックに収めて洗い場の窓口まで持っていくのですが、おばさんのシャワー洗浄が終わるまで洗浄機に食器を入れられないので、汚れ物がどんどん溜まっていきます。洗い場の他の人々は決してサボって突っ立っているのではなく、おばさんの作業を待っているのです。

「はやく手伝いなさいよ!」

 振り向きざまにおばさんの口から怒りの台詞が出ると、切羽詰まっているので助けてください、という意味になります。職場の年長者で、この仕事を長くやっているキャリア思考なので、終始上意下達の発言が身体に染みついてしまい、他人に頼み事をするへりくだった姿勢が取れなくなってしまったかわいそうな方でもあるのです。

 洗い場にいる人たちはとりあえず仕事をする素振りを始めました。といっても、流れ作業の最初にあるシャワー洗浄が滞っているので、同僚たちは何もすることがありません。しかたがないので、一度拭いた皿を何度も拭いたり、食器棚にあるコップの向きを揃えたり、スプーンやフォークをぴったりと重ねたり、本来やらなくてもいいような作業をして、おばさんの怒りをやり過ごすのでした。

 調理場からコックさんがやって来ました。

「A4のプレートとC6のサラダボウル、はやくして」

 盛り付けの食器が足りなくなって、はやく洗うように促しに来ました。

 上条おばさんはコックさんに返事をしましたが、長く勤務しているのに、指示された食器がどれなのか詳しくありません。

「ほら、聞こえたでしょ。はやく調理場に持って行ってよ!」

 発破をかけようとしたおばちゃんの言葉に、同僚である五味ちゃんが衝撃の事実を告げてしまいます。

「そんなこと言っても、皿がもうないですよ」

 五味ちゃんこと、五味啓介は二十歳の青年で、若気の至りといえば聞こえはいいものの、空気が読めず思ったことをすぐ口にしてしまうのです。たしかに言っていることは間違っていないものの、相手のキャラクターや性格に配慮して言葉を選ぼうとする心がけは全くありませんでした。トラブルの発端は大抵五味ちゃんが関わっていました。

「そんなことあるわけないでしょ! ちゃんと探してよ!」

 上条おばさんがすでにキレ始めています。

 コックさんが要求してきた皿がすでに棚にないのは事実でした。どこにあるのかといえば、まだ汚れたまま洗い場窓口のカウンターに積まれたり、廊下にまで並んだ食器カートに留まったままなのです。つまりおばさんの洗浄が遅くて食器が回っていないのでした。まして皿の種類をきちんと把握していないのならなおさらです。

 現実をはっきりと伝える五味ちゃんは、現状を変える勇気があるとか、グローバリゼーションに沿ったコミュニケーション能力が備わっているとか、上意下達に抗う反骨精神があるとか、志が高いのではなくて、たんに自分の考えを口から出してしまう性分なのです。

 山田おじさんはなんとかしてこの場がうまく収まる方法を必死に考えます。コックさんから要求されている汚れた皿をかき集めて、上条おばさんに先に洗うようお願いしてみました。すると無口ながら従ってくれたのです。普段から他の人たちの話を素直に聞き入れてくれれば余計なトラブルもなくなるのですが、おばさんがこれまでの人生で頑固な考えを培ってしまい、ひとつのお店にあるちっぽけな洗い場で長く過ごすうちに、自分のやり方を続けてきた経験が、自身の成功した体験として体中に刻まれ、頑なに他人の話を無視するようになってしまった、つまり典型的な老害でした。

 しかしながら現実は非情です。こんな状況であろうとも、中年若年世代は老害たちと共に生きてゆかなければならないのです。現実を見据えた行動で、ちょっとずつでも変えようとする試みを繰り返すしかないのです。いつまでも高齢者のせいにしていては何事も埒が明きません。

 語り手がこんな説教をしている間にも時間は流れ物事は勝手に進んで行きます。最後のオーダー時刻が過ぎてもお客様はまだいるので、依然として洗い物の減る気配はなく、次から次に汚れた食器がやって来ました。注文されたメニューの食器を優先して洗い、棚に収めたり、調理場へ持って行ったり、スプーンやフォークをタオルで拭いたりしている合間に、洗い場の人たちが交代で休憩を挟みつつ、お客さんがお店を出て行くと、ようやく洗い場の窓口に積まれていた皿の量が減ってきました。

 五味ちゃんが店の裏口にある喫煙所から戻ってきたので、山田おじさんは上条おばさんに声を掛けました。

「あの、上条さん、次、休憩、いいですよ」

「私、まだいいわ」

 上条おばさんは投げやりな言い方で、洗浄シャワーで汚れたお皿を流し続けています。

 山田おじさんは意味が分からず頭に疑問符しか浮かびません。洗い場の人たちで交代で休憩をする順番が回ってきたはずなのに、上条おばさんは拒否したのです。

 また始まったか……

 ささやき声がおじさんの脳内アンテナに受信されました。同僚の遠くで呟いた響きが地獄耳のように聞こえてきたのか、あるいは以前から溜まっていた頭の奥に沈んでいた記憶から湧きだした台詞なのか、それとも透明な姿でこちらを密かに観察している宇宙人から送信されたメッセージなのか、いまいちよく分かりません。

 唯一分かっているのは、上条おばさんがなにやら怒っているという事実です。

 自分自身で何に怒っているのか分らないまま、ただ怒っている人は、周りにいる人々の感情をかき乱し巻き込んで、都合のいいように物事が進んでゆくと無意識に企んでいるのです。

 ただ、山田おじさんは低学歴で頭の回転が悪く、他人の気持ちを推測する洞察力も想像力もなく、コミュニケーション能力も足らず、そしてなによりも度胸や覚悟など一切ないので、いまの上条おばさんへどのように声を掛ければいいのか分からないので、緊張しつつ黙って洗い物の作業を手伝うしかありませんでした。

「上条さん、休憩に行かないんですか?」

 背後で食器を拭いていた五味ちゃんが、またしても空気を読まずに発言してしまいました。

「私はいま行かないって言ったでしょ?」

「なんで怒っているんですか?」

「怒ってないわよ!」

「いや、怒っているじゃないですか。百人いたら九十九人は怒っていると言いますよ」

 どうして五味ちゃんは余計なことを口にしてしまうのか。それは本人にもわからない神の領域である形而上学な話なのかもしれません。

「あなたねぇ、前々から思っていたけど、なんでそうゆうぶっきらぼうな言い方しか出来ないの!? もっと他人の気持ちを考えてみたらどうなのよ??」

「人の気持ちを考えずに、自分のことしか考えていないのは誰ですか?? 今の台詞、そのまま返しますよ!」

 今の台詞をそのまま返しますよ、というテンプレートがかつて安っぽい昼ドラで使われていた事実を五味ちゃんは知らないでしょう。現在はブーメラン発言と呼ばれています。口にした言葉が皮肉にも、本人へそのまま批判として跳ね返ってしまうのは、昔からよくあることなのです。

 上条おばさんは、やっぱり休憩するから後お願いね、と投げやりに言いながら調理場から出て行ってしまいました。

「あのババア、自分が困るとすぐに逃げるよな!」と五味ちゃんに言われても、山田おじさんは臆病なので動揺しながら頷くことしか出来ません。我が儘で思ったことを口からすぐ出してしまうふたりの性格はどちらも似たり寄ったりです。むしろこの先、五味ちゃんに味方扱いされてしまうことに気が気でなりませんでした。

 そんなこんなでいつも当たり障りのない優柔不断な振る舞いをする山田おじさんは友達がいませんでした。仕事場の人たちとの付き合いもなく、勤務時間が終われば自宅のボロアパートへ帰るだけです。もともと人付き合いが苦手なので、ひとりで過ごすほうが気分が落ち着きます。テレビを見ながら、コンビニで買ったビールを飲み、スポーツ紙や週刊誌を眺める日々です。

 しかし、山田おじさんもひとりの男であり、感情の持ち合わせている人間です。寂しさに苛まれる夜もあるのです。心のわだかまりは主に股間へとたどり着きます。スポーツ紙の風俗店を紹介する記事や、週刊誌のグラビアに登場するアイドルの写真を使って、パンツを下ろしてペニスをしごいてはみるものの、女の子が商売ですり減った肌と黒ずんだ乳首にさらなる空虚さを感じて股間の息子が萎みそうになり、興奮の勢いを止めないよう次に思春期を過ぎたばかりの少女の水着姿をおかずにしていると、罪悪感が白い液体と共に発射され、ティッシュにくるまれすぐにゴミ箱へと放り込まれます。たとえ性欲が沸き起こってもセックスする相手はおらず、AV写真集やDVDを買うお金もなく、まして風俗へ行く勇気もないので、自ら慰めて処理するしかありません。

 パンツを穿き、ぼんやりしながも山田おじさんは違和感を拭えません。以前よりも興奮の度合いが中途半端なのです。海綿体への血流のたまり具合がゆるく、噴射の勢いも弱い。勃起の角度にも現れていました。若いときには重力へ逆らうようにそびえ立っていた我が息子は、いまではかろうじて水平を維持出来る程度なのです。今後はさらに地へ向かって垂れ下がり、一生懸命ペニスをしごいても何の興奮も感じず、何も出てこない暗い将来が頭の中を巡り、缶ビールのアルコールが余計に回りはじめました。


(了)

(執筆時期 2017年頃)

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