病的な猫好きのわたしが、犬との暮らしを真剣に考えるまでの、人生の話
丸毛鈴
病的な猫好きのわたしが、犬との暮らしを真剣に考えるまでの、人生の話
「犬と暮らせたら、いいんではないか」
そう考えはじめたのはいつのことだろう。正直、最初は「猫が飼えないから」と思っていた、ような気がする。
わたしたち夫婦は大の猫好きだけれど、諸事情で猫が飼えない。譲渡型保護猫カフェにはかれこれ7年近く通っており、何度も「この子と暮らしたい」と“ガチ恋”をした。たいていが個性豊かな大人の猫だったが、猫ならなんでもいいのだ。猫種なんてなくてもかまわない。年齢も問わない。どの子もかわいい。人懐っこい子も、そうでなくても、みんな魅力がある。さわれない子は、健康維持が難しいかもしれないが……。
それでも、猫を飼うには、現実的には難しい事情があった。
そうこうしているうちに、お散歩している犬がかわいく見えてきて、ドッグランを走る犬がかわいく見えてきて、猫とはぜんぜん違うその種を知りたいと思うようになった。もともと夫婦ともに、動物全般が好きなのだった。
ただ、我々は犬を飼ったこともなければ、身近に犬を飼っている人もいない。それゆえ、「犬」像はどこか遠く、ぼやけたものだった。散歩が必要っぽい。なんとなく人なつっこそう。なんとなく猫よりは飼うのがたいへんそう。
泳いだことがない人が、水泳を想像するようなもの、とたとえるとわかりやすいだろうか。
「でも、泳いでいる人ならたくさん見たことがあるよ。水でしょ? きっともったりしてるよね? 重そうだよねー。ぷかぷか浮くっていうけど、それってほんと? 息するときはどんな感じ?」
具体的にイメージできないことは、うまく進められない。水泳なら「イメージと違って、上手くできなかったよ~」となれば、ひとりで溺れればすむが、動物相手となればいのちがかかっている。
さらに事態をややこしくしたのは、わたしがなんとなく子どもを希望していたことだった。わたしたちにとって、子どもと動物はバーターだった。ここまできたら伏せることなく語ってしまうが、わたしはかなりのアレルギー体質だ。なかでも猫に強く反応する。検査結果もそのように出ている。
子どものころは猫を飼っていたが、猫を吸うことなど考えたことがなかった。いとおしくて猫をぎゅっとすることと、目のかゆみ、鼻水とのどの痛みはセットだった。親に叱られながら、わたしはそれでも毛まみれになって遊び、猫をときどき抱きしめた。
そんなわたしには、「自分の子どもがアレルギーを持っていない」とは想像ができなかった。
もうひとつややこしいことに、わたしにはその子どものころに飼っていた猫に、さみしい思いをさせてしまった強烈な後悔がある。親が離婚し、わたしは猫と父と自宅に残った。が、心身の不調のため学校から保護者に連絡がいき、結局、わたしは母に引き取られることになった。猫は父が責任をもってめんどうを見た。しかし、どんなことがあっても動物にさみしい思いをさせるのは罪だ。
あの子は、ある日、庭に迷い込んできた猫だった。庭に埋めてあった生ごみをあさろうとし、土いじりをしていたわたしの背中に登って下痢をした。「猫がっ! 背中にー!」と大騒ぎをしながら、「こんなに弱っているんだから、家で飼おうよ」とわたしが言ったのだ。
他人にとっては汚い話だけれど、あのときの背中のあたたかさはいまでも覚えているし、わたしにとっては宝物だ。あのおおらかでやさしい子が、見知らぬ人間であったわたしの背中に乗ったのだ。猫にとってはたいした意味のない行為かもしれない。でも、それはもっともよい瞬間として、わたしの人生に焼きついている。
子どもがほしかった。それが叶わないなら、許されないことかもしれないけれど、猫を飼って、今度こそさみしい思いをさせることなく、しあわせにしたかった。それはぜんぶ叶わない。犬はよくわからない。「猫のかわり」と飼うわけにはいかないことだけはわかる。子どもと動物は違う存在であるとは重々わかっている。ただ、わたしという個人の人生の問題としては、子どもと動物は、深いところでからまりあってもつれきっていた。
そういった問題でずいぶん混乱したので、カウンセリングに通いつつ、わたしたち夫婦はぼんやりと犬とふれあえる場を求めた。
譲渡型保護犬カフェに行った。「すべての犬が人間にフレンドリーではない」「おそらく、多くの犬は飼い主以外には興味がない」とわかった。
保護犬の譲渡会に行った。目当ての柴犬とは目があった瞬間に、お互いに「合わない」と思ったことがわかった。犬は人間を選ぶのだと強く感じた。ほかの犬ともふれあった。おびえている犬でも、ゆっくりであればなでさせてくれる。そんな犬のやさしさに感動した。犬の牙は鋭く、力だって強い。それでも人間を噛まないのだ。そして、犬のことが存外怖く、心を開けない自分に気がついた。こんな自分がいつか犬と暮らせるんだろうか。やっぱりわからなかった。ただ、保護団体の丁寧な説明には好感を持った。
ふたたび、別団体の保護犬の譲渡会に行った。やはり目当ての犬とは条件が折り合わなかったものの、その犬のあっけらかんと陽気な様子には強く惹かれるものがあった。会場にはそのほかにもいろいろな犬がいた。ちらり、ちらりと人間を見上げて震える怖がりの子犬をなだめながら、ボランティアの人が、
「こういう子は、飼い主さんといっしょにいろんなことができるようになっていきます」
と説明してくれた。そして、こうつづけたのだった。
「でもね、ビビりな性格がなくなるわけじゃないんですよ。飼い主さんと一緒だから、平気になるんです。飼い主さん一筋になるから、そりゃあかわいいですよ」
ボランティアさんに許可を取り、わたしもゆっくりとなでてみる。やわらかい毛を震わせながら、子犬はわたしをちらりと見る。
猫よりもずっと、犬は人間の目を見る。その視線がまっすぐに自分をとらえたら、たまらないだろう。そんなことをはじめて想像した。
それでも、やはり「自分たちの、犬との暮らし」は上手く像を結ばなかった。カウンセリングに通いながら、最初に足を運んだ譲渡会を主催していた団体のInstagramをなんとなく眺める日々がつづいてた。
2024年になって、その団体にとんでもなくかわいい子がやってきた。こぶりな中型犬ミックスで、Instagramには健康診断の結果を待つ様子、日々のお散歩の様子、わかってきた性格などがアップされていった。そのどれもが我々夫婦の心をとらえ、募集開始と同時に思い切って「お見合い申し込み」をしてみた。
すでに申し込みが入っていることも説明されたが、保護犬のお見合いは先着順ではない。犬との相性や人間性を見たうえで、預かりさんと呼ばれるボランティアがいちばん適した飼い主を選ぶ。
実際に会った犬は、写真よりもさらに愛らしかった。穏やかなその子をなでながら、我々はいろいろなことを預かりさんに聞いた。お散歩のこと、食事のこと、医療のこと、老犬になった際の介護のこと、災害時のこと。
何より衝撃だったのは、お試しでお散歩体験をさせてもらったことだった。
お散歩が大好きなその子は、しっぽを立ててごきげんに歩く。その動きが、喜びが、リードを通して伝わってくる。クンクンと夢中になって気になる箇所をかぎ、ときどき預かりさんやわたしを見上げる。
いっしょに歩く。そのことを、動物が喜んでいる。それがとんでもなく愛おしかった。雨の日も雪の日も散歩をするのは、想像を絶する大変さだろう。でも、犬との散歩は本質的には楽しく、しあわせなことなのではないか。
我々がお見合いしたのは大人の犬なので、いっしょに過ごせる時間はそう長くはない。でも、こんな子と穏やかなに日々を暮らせたら。
家に、犬とわたしたち夫婦がいる。犬と、わたしたちが歩いている。その像が、はじめてはっきりと結ばれた。また、引きの感じから、「犬初心者である自分たちが、責任をもって飼える犬の大きさ」も実感として理解できた。
残念ながら、その子の飼い主は別の家族となった。理由も教えてもらったが、人格的な信用問題はなかったようで、会の人は「丸毛さんたちに合いそうな犬がいたら、連絡しますね」と言ってくれた。
わたしたちが結んだ「犬との暮らし像」は、その子ありきのものだった。次に出会う子は、また違った個性を持っているだろう。それでも、一度でもそういった像を結べたことは大きな前進だった。
「人間に生まれたからには、犬と暮らしてみたいよね」
猫のかわりでも、「犬を飼えたら」「飼えるかな」でもなく、いまのわたしたちはそう思っている。
人生にはいろんなことがあって、後悔も懺悔も叶わないこともある。前に進めるのはわたしが生きていて、動物よりも強い立場にある人間だからだ。本稿を前向きに結ぶことは許されない。それでも、やはり。前を向きたい、と思っている。
病的な猫好きのわたしが、犬との暮らしを真剣に考えるまでの、人生の話 丸毛鈴 @suzu_maruke
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