君のいない世界を進めるなら

ナナシリア

君のいない世界を進めるなら

 もう、なにもしたくない。


 俺に期待するな。


 俺に求めるな。




 俺は怠惰な人間だった。


 なんでもできた。


 生まれつき勉強は得意だった。


 テストでは毎回満点ばかりを取り、授業では誰よりも簡単に問題を解く。


 運動も、人並み以上にできた。


 トップとは言わないまでも、なにもやっても経験者並みに戦える。


 だが、やらない。


 世界の仕組みを、理解してしまった。


 どうやっても、本当の天才には追い付けない。


 俺は勉強ができたが、全国一位は終ぞ取れなかった。


 俺は運動ができたが、どれだけ熱中しても勝ち続けることはできなかった。


 それはあくまで俺の努力不足かもしれないと、納得していた。


 俺はなんでも適当にできて適当にこなしていたが、その中でも本気になっていることがあった。


 剣道。


 本気の戦い。そのピリピリとした空気が俺を刺すようで、好きだった。


 中学の頃、俺が県大会に進んだとき、ごちゃごちゃとした会場の中で、うるさく笑い合っているチームがあった。


『お前、今回も全然練習してなかったよな』

『だって、やらなくても勝てるから』


 ふざけた会話。こんな会話をしているやつに負けることはないと思った。


 実際に俺は準決勝に勝利し、決勝に進出。


 準決勝のあとの小休止を挟み、俺が試合場に向かうと、俺の対面にはさっきのチームの選手がいた。やらなくても勝てるなんて抜かしていた選手だ。


 負けるわけにはいかない。俺は気合いを入れ直した。




『まさかお前が二本取られて負けとは、思ってもいなかった』


 戦いのあと、顧問は冷静に言った。


『あいつ、センスだけで戦ってた。技術が特段高いわけじゃない。ただ、速くて軽い。あれだけ綺麗に旗が上がったのは不思議だ。あいつは大した練習はしてないだろうな。試合ではたまたまお前が負けたが、根性ではお前が勝ってる』


 顧問なりに、俺を慰めていたのかもしれない。


 しかし、その言葉が俺に絶望を知らしめた。


 ようやっと、本物の天才に努力で追い付くことはできないと知った。


 ほどなくして、俺は部活を辞めた。


 退部届を提出した帰り道、一人で考える。


 本気でやっても勝てないなら、最初からほどほどにやろう。


 一番楽で、効率のいい生き方をして、適当に幸せな生活を送っていけばいい。


 退部したからといって勉強を頑張るわけでもなく、学校外のクラブでの活動をするでもない。


 俺は、曖昧に、適当に毎日を過ごした。


『佐藤くん、本当はすごいんだからもっと頑張ればいいのに』


 高校に進学し、一人で窓の外を眺めていた俺に、話しかけてきたクラスメイトの女子がいた。


『えっと、誰?』

『わたしは、工藤有紗。クラスメイトの名前くらい覚えといた方がいいよ』


 工藤さんは優しく笑って言った。


『余計なお世話なんだけど』


 俺がむすっとした表情で返す。


『で、すごいってどういうこと?』

『佐藤くんの名前、学力検査の結果表で四位に載ってたし、中学二年のころ県大会で決勝まで行ってたでしょ?』


 俺は苦笑した。


『佐藤玲なんてよくある名前だろ。それに、剣道やってたのは昔の話』

『当時の佐藤くんの担任に確認したら自慢げに喋ってた。全国四位を取ったのは、ここにいる佐藤くんだよね』

『生徒のプライバシーは尊重されないのか』


 あっさりと話す担任も担任だが、そこまで俺のことを執念深く調べる工藤さんも工藤さんだ。


『どっちも昔の話だから。今は大したことない』

『今から本気でやれば、もう一回できるんじゃない?』


 工藤さんは、どうしてか俺を追い続けた。


『今やらなかったら、一生できないよ』『やれるだけやっといた方がいいと思う』『いつやれなくなるかわからないんだよ』


 俺に『頑張ること』を要求し続けた。


 俺は、断った。


『一生できなくても気にしない』『俺はやらなくてもいいと思う』『やれなくなってもいいから』


 工藤さんは、よく言えば根気強く、悪く言えば執念深く俺を追い続けた。


『なんで工藤さんはそんなに俺に構うんだ? 面倒くさいと思わないのか?』

『佐藤くんを追いかけてるのは、佐藤くんに興味があるから。でも、早く本気出せばいいのにとは思ってる』

『嫌だ』


 普段通り工藤さんは俺にやる気を出させようとして、俺は普段通りに断る。


 しかし、続く言葉は普段とは違った。


『なんで佐藤くんはそんなに無気力なの?』

『それ、悪口?』

『違うよ。理由が知りたいの』


 俺はどこまで話すべきか迷う。


 理由なんてないと突き放してもなにも問題はない。しかし、ここまで俺に興味を持っているのにすげなく突き放すのは忍びない。


『どれだけ努力しても、敵わない相手はいるから』

『それ、だけ?』


 工藤さんは驚嘆の表情で言った。


『それだけ』


 素っ気なく答えた俺に、工藤さんは絶句する。


『勉強も、部活も、それだけで捨てたの?』

『幻滅したか?』


 質問返しで肯定する。


『そういうわけじゃない、けど……。佐藤くんにとって、そんなに辛いことだったの?』

『辛いわけじゃない。ただ、どうせ勝てないのに頑張る価値を感じられないだけ』


 それだけ早口で言って、俺は目を逸らした。


 クラスの喧騒がこれ以上思考するのを邪魔する。


『もし、わたしがすぐに死ぬとしたら?』


 世界が静まり返った。


 変わらずそこにあるはずの喧騒も聞こえない。


『え?』


 絞り出しても、間抜けな声しか出ない。


『例えの話だよ。もしそうなら、佐藤くんは』

『本当にそうなら、俺にできることはやる』

『じゃあ佐藤くん、今日の放課後わたしの家に来て』

『いや、なんでだよ』


 俺はすぐに突っ込んだ。


『なにも言わずに来てほしい。佐藤くん、部活もやってないでしょ?』

『そうだけど』

『このお礼はなんでもするから』

『いや、でも』

『来てくれないんだったら、わたし死んじゃうかも』


 意味がわからないと返答しようと思った。


 しかし、工藤さんの真剣な表情が目に入り、そういうわけにはいかなくなった。


『来て、くれないかな……?』

『絶対行きたくないというわけでもないから』


 俺が言うと、工藤さんは相好を崩した。




『お、佐藤くん。来てくれたんだね、入って』

『わかった』


 メッセージで示された工藤さんの家を訪ねると、ちょうど玄関の外に工藤さんがいた。


『飲み物、なにがいい?』

『飲み物用意しなくてもいいから、本題に入ってくれ』

『わかった。その前にいくつか、約束してほしいことがあるの』


 なかなか話が始まらないことに少し苛立ちながらも、俺はその言葉に同意する。


『一つ、この話を他人にはしないこと。二つ、この話を聞いてもわたしへの接し方を変えないこと。それだけ守って』

『わかった』


 一つ目はともかく、二つ目はかなり特殊な条件だと思った。だが、もしかしたらそういう人もいるのかもしれないと考えて、気に留めていなかった。


 工藤さんは、自分の机からなにか紙を取り出し、俺に見せた。


『診断書?』


 診断書。患者、工藤有紗。余命三ヶ月。


『これは』

『わたし、およそ三ヶ月で死ぬの』


 --嘘。


 --例え話だと言っていたじゃないか。もしもの話だって。


 --本当に余命が三ヶ月だとは考えてない。


 --なるほど、対応を変えないでほしいっていうのはこういうことか。


 --誰にも言ってないのか。


 --そういえば、いつやれなくなるかわからないとも言ってた。


 思考が入り乱れる。うまく整理できない。


『それ、本当なんだよな?』


 まず俺は、嘘である可能性を疑った。


『もちろん、本当だよ。お医者さんの見立てでは、わたしは三ヶ月くらいで死ぬ』


 疑う余地もない真実だった。


 ふうっと長い息を吐く。


『少し、思考を整理する時間がほしい』

『いくらでも待つよ』


 工藤さんは、三ヶ月で死ぬ。俺はなにをするべきだろうか。なにができるだろうか。


 工藤さんのために、できること。


 余命が短い人は、なにをするのだろうか。


 お金を使いきる? でも、それは俺が関わることじゃない。


 旅行? でも、それも、俺はいらない。


 友達や家族との時間を過ごす? どうやら友達にも余命のことは伝えていないようなので、そういうわけでもないだろう。


『悪い、結論が出ない』

『いいよ。佐藤くんは、無理にわたしのことを気遣わないでほしい』

『どういう意味?』

『人に気を遣うことって、相手を見下してるみたいだから』


 確かに工藤さんの台詞は的を射ているように思える。


 人に気を遣うことは、自分には余裕があるが、相手には余裕がないと思っている、そう思われる可能性はゼロではない。


『その代わり、佐藤くんに一つお願いがある』

『俺にできることならなんでもする』

『じゃあ、わたしと一緒にいながら、とりあえず勉強を頑張って』

『とりあえずって、それ以上を要求する予定もあるの?』

『三ヶ月以内に佐藤くんが結果を出したら』


 なぜ工藤さんが俺に結果を求めるのか、その理由はわからなかった。


 しかし、工藤さんの頼みを断るつもりにはなれず、工藤さんと一緒にいながら勉強を頑張ることが決定する。


『工藤さんと一緒にいるって、具体的にはなにをすればいいの?』

『学校にいる間と、放課後しばらく、わたしと一緒にいてほしいの』

『勉強しながら?』

『勉強しながら』


 次の全国統一のテストは二ヶ月後。それを逃せば、今から五ヶ月後に行われるテストがその次のテストだ。


『いいよ、やってやるよ。だから、テスト範囲教えて』

『え、テスト範囲知らなかったの?』

『勉強する予定なかったから』


 苦笑しながら範囲を説明する工藤さんは、それでも少し嬉しそうだった。




『佐藤くんは、わたしが死んでも平常心を保ちそうだよね』

『表面上はな。あんまり関わりがないとはいえ、今は関わってるし、クラスメイトなんだからそれなりに悲しむと思う』

『死んだ後のことまで考えてもらえるなんて、わたし好かれてるね』

『それ、冗談だよね』

『うん』


 くすくすと楽しげに笑う工藤さんを横目に、俺は問題集のページをめくる。


『お、国会の話だ。懐かしい。常会は一月一日から百五十日開かれるとか、高校受験でやったなあ』

『百五十日っていうと、五ヶ月? 今から五ヶ月後にはわたしはとっくに死んでるね』

『それ、なんのつもりで言ってるの?』

『もちろん、冗談だよ』

『笑えないからやめてくれない?』


 俺が言うと、工藤さんはまたくすくす笑った。だから、笑えないって。


『佐藤くんも結構わたしとのやりとりに慣れてきたね。そろそろ名前呼びしちゃう?』

『いや、まだ一週間くらいしか経ってないけど。名前呼びは早すぎない?』

『でもわたしの場合はあと三ヶ月で死ぬからちょうどいいと思う』

『それなんのつもりで言ってるの?』

『言わなくてもわかるよね』

『じゃあ俺が言いたいことも言わなくてもわかるよね』


 笑えない冗談を言うのはやめてほしい。どうやって返せばいいのかわからないから。


 やはり工藤さんは、くすくす笑っていた。


『そろそろ解散にする?』

『そうだな』

『また明日、玲くん』


 突然名前で呼ばれて驚く。


 工藤さんは満面の笑みをたたえていた。


『また明日、工藤さん』


 精一杯の報復として、あえて名字で呼んでみる。


 工藤さんは頬を膨らませた。


『冗談だよ。また明日、有紗』

『そういう冗談はやめてよね!』

『そっちこそ、笑えない冗談はやめてくれ』


 一通り喧嘩して、互いに声を揃えて笑う。


 笑い飽きると、俺は少し余韻を感じながら、有紗に手を振った。




 有紗のいる日々は、これまでの退屈な日々より幾分も面白かった。人間は孤独には勝てないということが証明される。


『そろそろゴールデンウィークだねえ』

『だからといって俺は休めないだろ』

『うちで勉強しないといけないもんね』


 自分で決めたとはいえ、有紗のにやついた笑顔が少し腹立たしい。


 でも、まだ高校生なのに余命を宣告された有紗と比べれば、休めないくらいなんてことない。


『有紗の家はゴールデンウィークの間も親いないの?』


 今まで何度も有紗の家を訪ねたが、有紗の親と鉢合わせしたことは一度もなかった。


『きゃっ、わたしのこと襲うつもり?』

『襲わないけど。で、親は?』

『わたし、一人暮らしだから。親はうちには住んでないよ』

『余命三ヶ月なのに一人暮らし? 親はそれでいいって言ったの?』

『なんかね』


 続きの言葉を待つが、有紗の言葉に続きはなかった。


『へえ』

『……』

『……』


 気まずい静寂が俺と有紗の間に降りる。


『玲くんはさ』


 有紗が名前を呼ぶと、俺は有紗と目を合わせた。


『わたしのこと、どう思ってるの? 友達? ただのクラスメイト? それとも、好きな人?』

『友達とも、クラスメイトとも違うような気がする』


 そんなありきたりな関係ではなく、もっと異常で、歪。


『へえ、わたしのこと好きなんだ。残念だけど、わたし余命三ヶ月しかないから、諦めた方がいいと思う』

『ごめん、俺一クールだけのアニメは別に好きじゃないんだ』

『わたし、アニメじゃないし!』

『冗談だよ』

『そうだよ。わたしの余命は一クール分もないんだからね』

『それじゃあもっと駄目じゃん』


 俺が突っ込むと、有紗はからから笑った。


 有紗のその温度が心地良かった。


『なにが面白いんだか』

『ごめん、あんまり面白くないよ』

『じゃあ笑うな突っ込め』

『あまりにも酷かったから』

『その言葉が酷い』


 俺の言葉に、有紗はまたからから笑った。


『とりあえず、休み楽しみに頑張ってこー!』


 有紗が気合いを入れた。




 有紗は、勉強以外にも俺に求めるつもりだと言っていた。だから、俺はこの高校でも帰宅部のつもりだったが、剣道部に入ることにした。


『や、玲くん、無理しなくていいよ』

『別に、無理してるってわけじゃないから。ただ、俺は剣道が好きだから剣道部に入るだけ』

『でも、駄目だよ。勉強と部活、同時にトップを目指すなんて無理に決まってる』


 有紗のその物言いが、俺自信も不思議なほど腹立たしかった。


『あまり俺を舐めないでくれ。そのくらい余裕だから。中学時代だって、最初の頃はそういう生活だった』

『そうかもしれないけど、でも今は勉強の難しさも部活のレベルも全然違うよ』

『それでもやりきるから。テストが終わってからの一ヶ月じゃ、勝ち進むなんて夢のまた夢だ。今から二ヶ月半、全力でやればなんとかなるかもしれない』


 互いに一歩も譲らず、話し合いは徐々にヒートアップして、言い合いになっていった。


『今でもきつそうなのに、部活始めたら玲くんの身体がもたないよ』

『大丈夫だ、二ヶ月半経ったらしばらく休むから』

『駄目。その期間で身体を壊したらどうするの?』

『壊さないから問題ない』


 互いに互いを睨み合う。


 話し合いは平行線で、なかなか進まない。


『ねえ、本当にやるの?』

『もちろん』

『もう、わたしは止めない。玲くんの覚悟が見えたから』


 俺はほっと息を吐いた。


『有紗が--』


 俺は首を振った。


『二ヶ月半経つまでに、俺が絶対にテストで高順位を取って、大会も勝ち抜く。だから、信じてくれ』


 有紗は俯いて頷く。


『玲くんは、わたしの分まで頑張って、みんなに好かれるようになってよ。それで、「今の玲くんを作った、すごい人間がいた」ってこと、知らしめて、わたしがいてよかったって、世界中に思わせて』

『有紗のおかげで今の俺がいるって、誇れるような人間になる』


 俺が反芻すると、有紗はさっきよりも力強く頷いた。




 勉強、部活、有紗と話す、この三つを繰り返しているとあっという間に時間が過ぎた。平日は学校と部活、休日は勉強と部活に消化され、ゴールデンウィークを意識する間もなく学校が始まる。


 余命三ヶ月の少女と一緒にいるのに、なかなか時間がとれないのは少し悔しい。だが、こうでもしなければ有紗の願いは叶えられそうにない。


『今日テストだけど、調子はどう?』

『まずまず。全体的なレベルで見たらかなり最上位だけど、全盛期の頭が帰ってきたわけじゃない。だから一桁順位が取れるかはわからない』


 正直なところ、テスト前は剣道をセーブして勉強に力を入れていた。ところが、今回のテストに自信があるわけではない。


『一桁とは言わないから、わたしの名前を知らしめられるくらいの順位を気楽に取ってきてよ』

『やだね。一位、取ってくるよ』


 実際のところ、このテストで一位を取れる自信は全くない。


 しかし悲しいかな、人間は見栄を張ってしまう生き物だ。


 大きく出てしまったからには、それなりに結果を出そう。


 その思いのもと、集中てテストに向き合えば、五教科分のテストの時間も一瞬のように思えた。


『どうだった、玲くん』

『全問解けたから、一位の可能性はまだ消えてはいない。有紗の方は?』

『わたしは勉強してないから全然駄目』


 有紗が勉強をしていないのは、勉強をする必要がないからだ。


 俺はそれに気づいて、勝手に少し悲しくなる。


 口に出そうとするが、有紗を傷つけてしまう可能性を考慮して、なにも言わない。


『だってわたし、もう死ぬから学んだこと活かせないしね』

『俺の気遣いを全部ぶち壊していった……』

『いつも言ってるじゃん、わたしに気を遣わなくていいって』

『ごめん、俺が悪かった』


 確かに、有紗の言う通りだ。


 俺は、有紗がそのくらいで傷つく人間だとは思っていない。だから、傷つかないならいいやと話してしまえばよかったのかもしれない。


『あ、わたしはその考え方だけど、そうじゃない人もいるからこれからの人生では気を付けてね』

『これからの人生って言うと長い時間があるように聞こえるな』

『わたしもこれからの人生頑張っていくね!』

『もしかして余命伸ばそうとしてる?』

『長そうに感じるから』


 有紗が大声をあげて笑う。それに釣られて、俺は小さく笑った。




『佐藤、後から入ってきたのに上手いな!』

『一応、剣道自体は昔もやってたので』


 先輩が俺を褒めてくれるが、素振りをしながら答える。


『そうか。先生に相談して、次の試合出すか考えておくから、楽しみにしてろよ』

『はい』


 それだけ言って先輩は去っていった。


 個人戦だけでなく団体戦でも勝てれば、より俺の評価が上がり、それに付随して有紗の評価も上がる。


『玲くん、まだ練習する?』

『有紗は帰るのか?』

『うん、このまま病院に行かなきゃいけないから』

『……そっか』

『余命、伸びてくれないかなあ……』


 俺はなんと答えるべきかわからなくて、目を伏せた。


『じゃ、わたしはもう帰るね』

『ああ、気を付けて』


 有紗も帰ってしまったので、俺はしばらくここで素振りをしてから帰ろうと決めた。




『明日、地区大会だよね』

『そうだな。残念ながら、日程からして、有紗に県大会の結果を見せるのは無理そうだ』


 有紗の余命は、何度病院に行っても多少ずれるくらいで大きくは変わらなかった。


『大丈夫、わたしが見るために勝つわけじゃないでしょ?』


 俺は力強く頷く。


『わたし、応援に言ってもいい?』

『有紗に見せるために勝つわけじゃないけど、来てほしい』


 有紗は、出会ってすぐのときよりは落ち着いたが、今月から来月に死ぬ可能性が高いとは思えないくらい、元気だった。




 地区大会当日、客席に有紗の姿がなかった。


 有紗に告げられた余命からして、有紗が死んでいてもおかしくない。


 俺は不安を抱えながらも、試合に向き合った。


 団体戦は、俺は全勝したが、周囲の勝利が安定せず、県大会には出られないという結果になった。


 そして、個人戦準決勝。


 これまでの練習の成果、特に中学までに積み上げてきた基礎が活きたのか、個人戦では俺はその場所まで進んだ。


『待って、俺あの人見覚えあるんだけど』

『俺は見たことない』

『いやいや、中三のとき県大会の決勝でお前がぼこしたやつじゃん』

『ああ、面が好きな人だっけ』


 中二のときの県大会、決勝で当たった相手が、この準決勝まで進んできていた。


 負けられない。


 一旦有紗のことも全部忘れて、試合場に入る。


 試合が、始まった。


 結論から言うと、相手は弱かった。


 中学時代から弱くなったというわけではなく、成長していない。


 筋肉が増えたとか、小手先の技術のバリエーションが増えたとか、そのくらいのものだ。まともに練習をやっていれば、もっと伸びるはずだ。


 俺が面で二本取って勝ち。


 因縁の相手に勝ったはずなのに、試合終了後即座に思い浮かんだのは有紗の心配だった。


 決勝の相手は知らない選手だった。


 準決勝の相手よりも弱かった。


 優勝の表彰を受けても、どこか虚しく、うわのそらだ。


 うちの学校の部が解散すると、俺はすぐに有紗の家に向かった。


 有紗は家にいなかった。俺は次に、病院を目指した。


 有紗は死んでいた。最期が近づいたときに、看護師に俺への手紙を渡したらしかった。


『玲くんは信じないかもしれないけど、わたしは玲くんのことが好きだったよ』


 書き出しの一文、それだけで涙が零れそうになって、俺は目元を押さえた。


『玲くんのことが好きにしては玲くんに冷たかったよね。ごめん』


 俺だって、有紗のことが好きなのに、少し冷たく当たっていた。俺の方が謝りたいくらいだ。でも、謝るべき相手がもういない。


『わたしの言葉、一生忘れないでね。玲くんは人気者になって、わたしのことを自慢して』


 賢くなって、部活が強くなって、みんなに好かれるようになって、なんでそんなにすごいのって訊かれたときに、有紗の話をする。それで、有紗のすごさをみんなに知らしめる。


『さて、玲くんに話せていなかったことが一つ、あります』


 こんなにあらたまって、なんのことだろう。予想しながら読み進める。


『わたしは実は、高校に入るより前に、玲くんと会ったことがあります』


 有紗に言われて、心当たりがあるような気がして、過去を思い返す。


『たぶん、小学生くらいのころでした。公園で週に二、三回、遊んでいました』


 やっと思い当たる。


 俺と同学年の女の子だった。


 彼女は俺のことをいつも褒め称えてくれて、彼女が褒めてくれるのが嬉しくて、俺は頑張ってたんだ。


 中学までの熱量はいったいどこから来たのかわかっていなかったが、今ようやくわかった。


『あのときの玲くんも本当にすごくて、高校で再会したとき、どうしてこんなに無気力になってしまったんだろうと思って、ストーキングしてしまいました。その節はすみません』


 いや、有紗。俺は有紗が俺のことを追い続けてくれて、なんだかんだで嬉しかったよ。


 言葉が伝わることもなければ、誤解が正されることもない。


 ああ、死とはこれほどまでに絶対的なものなのか。


『でも、今の玲くんは、あのときの玲くんにも引けを取らないくらい、格好いいです。地区大会は見に行けそうにないですが、勝てましたか?』


 勝てたよ。昔の記憶も、俺の変な考えも、打ち破ることができた。


 才能はすべてじゃない。もしかしたらそのときは勝てないかもしれないけど、必死でやればいつか必ず。


『わたしが死んだら、玲くんはもしかしたらやる気をなくしてしまうかもしれません。わたしのことを考えてくれていると思うと幸せな気持ちになりますが、しかしそれは正しい選択ではないです』


 有紗の予想と裏腹に、今の俺はやる気に満ち溢れている。


 俺の意思で言葉を伝えることができないから、天国から見ているかもしれない有紗に結果を見せるのが一番早いから。


 例え才能に差があっても、絶対に勝てないわけじゃないということを知ったから。


 それもこれも、有紗のおかげ。


 有紗がいなければ、地区大会に出ることもなかっただろう。


『わたしの死を悲しむより、玲くん自身を磨いてください。それもこれも全部わたしのおかげだから!』


 有紗の望みは、受け取った。


 でも、今日だけは。


 やる気を失っているわけじゃない。ただ、もう有紗に会えないというこのやるせない気持ちを、一日だけ流させてほしい。




「佐藤、集中しろ! 工藤さんがお話をされているだろう!」


 工藤さん。うちの剣道部の卒業生で剣道がすごく上手らしく、今日は県大会に向けて呼ばれていた。


 『工藤』という名前の響きで、つい有紗のことを考えてしまった。


 有紗が死んでから今まで、ずっとそうだ。有紗のことばかり考えてしまう。


「すみません工藤さん。佐藤のクラスメイトに工藤という生徒がいて、その方が直近で亡くなってしまっているので、少し繋がりを感じてしまったのかもしれません」

「構わないですよ。続き、話してもいいですか?」

「どうぞよろしくお願いいたします、工藤さん」


 工藤さんは話を再開した。




「玲、十月のテスト順位が今日返されるって。玲はまた一位取れそう?」

「余裕」

「まったく、玲はなんでそんなに頭いいの?」

「全部、有紗のおかげだ」


 目の前のクラスメイトはきょとんと首を傾げた。


「有紗って、亡くなった工藤さんのこと?」

「そうだよ。有紗はマジですごいんだよ。俺、元々無気力な生活してたのは知ってるよな?」

「うん」

「そんな俺を、テストでは全国一位、部活では地区大会個人戦優勝ってレベルまで引き上げたのは、有紗なんだよ」

「え、工藤さん頭も良くて剣道も上手なの?」

「そういうわけじゃなく。メンタルコントロール、みたいな?」


 クラスメイトは納得したらしかった。


 同時に、有紗は満足しただろうかと想像する。


「じゃあ、結果返すからそれぞれ席に着け」


 教室にやってきた先生の合図に従い、生徒は全員席に着く。


 出席番号順に点数や順位が返却され、俺の番が回ってくる。


「佐藤、今回も一位だ。すごいな、どうしてそんなに突然頭が良くなったんだ? 五月はじめのテストでは平均より低かったじゃないか」

「全部、工藤さんのおかげです」

「どういうことだ?」

「工藤さんがいてくれたおかげで、本気で取り組もうって気になれたから」


 先生はそれでも納得していないらしかったが、俺は結果用紙を奪い取って席へ戻る。


 クラス中から好奇の視線が向けられる。後で、クラスメイトからの好感度をあげておこう。じゃないと、有紗のすごさが伝わりづらくなってしまう。




 授業が終わる。


 有紗が活きていた頃は、よく一緒に有紗の家に向かったものだが、今となっては一人で帰るしかない。


「すみません。佐藤くん、ちょっと話があるので、校舎裏に来てくれませんか?」


 顔を赤らめた女子生徒が俺に話しかける。


「ここじゃできない話?」

「……はい、ここでは恥ずかしいので」


 周りを見渡せば、人が絶えず通っている。


「わかった、今から行こうか」


 俺と女子生徒は無言で移動する。俺が前を歩き、女子生徒がその斜め後ろを着いてくる。


 しばらく黙って歩くと校舎裏に着く。


「その、わたし、佐藤くんのことが好きです。もしよろしければ、付き合ってくれませんか?」


 答えは、一つしかない。


 だが、なにが好かれる要因なのか、それは気になる。


「俺の、どこが気に入ったんだ?」

「その、寂しげな雰囲気とか、頭がいいところとか、それを謙遜するところとか」


 別に謙遜してるわけではないんだけど、と苦笑い。


「悪いけど、君と付き合うことはできない」

「彼女が、いらっしゃるんですか?」

「いや、彼女じゃない……と思うけど」


 俺が有紗と付き合っていたのかは、よくわからない。


 ただ、有紗が俺に好きだということを伝えたのは、有紗が死んだ後に見た手紙が初めてだったから、付き合っていたというわけでは無さそうだとは思う。


「ただ、好きな人がいるんだ。もう絶対に叶わない恋なんだけど、どうしても忘れられない」

「そう、なんですね……。すみません、出すぎた真似を」


 女子生徒は心から恐縮している様子だった。


「謝る必要はない。勇気を振り絞ってくれて、ありがとう。気持ちを受け取ることはできないけど、すごく嬉しかった」


 できるだけ優しく。できるだけ傷つけないように。


 目の前に立っている相手は有紗じゃない。極限の気遣いを以て接するべきだ。


 こんなとき、有紗なら、という考えが浮かぶことがある。相手に失礼だ。


「引き留めてしまってすみません……。もう帰っていただいて、構いません」

「君は、これからどうする?」

「少し、一人になりたいです」

「じゃあ俺、校門で待ってるから。君が落ち着いたら一緒に帰らない? 彩」


 女子生徒は目を丸くした。


「なに? 俺でもクラスメイトの名前くらいは覚えてるよ」


 半年前、有紗にかけられた言葉を思い出す。


「そうじゃなくて、名前呼び……」

「そっか、彩は三ヶ月じゃ死なないのか」


 女子生徒は、状況がわからないという顔をした。


 やっぱり、なにをしていても今と有紗を重ねてしまう。


「名字って、平野だよね?」

「はい、平野彩です」

「じゃあ、平野さんの方がいいかな」

「いえ、その、やっぱり、彩って……」

「じゃあ、また後で、彩」


 彩は、自信なさげに頷いた。




「佐藤、マジですげえよ。二連続で全国一位だって? やっぱ天才は違うなあ」


 他クラスの男子生徒複数名が集まって俺を持ち上げた。


 確かに才能で補っている部分はあるが、大半は努力でやってる。


「才能って言うより、やっぱ有紗の有無だよね」

「有紗って、この間死んだ工藤のこと?」

「ああ。俺の場合、有紗に助けられてここまで来たから」


 目の前の男子生徒たちは全員残らず怪訝そうな顔をした。


「有紗はな、すごいんだよ。俺元々全然やる気なかったんだけど、そんな俺にやる気を出させて、寄り添ってくれたのが有紗。おかげで全国一位まで来られた」


 俺の言葉に、周囲は沸き上がった。


「工藤そんなにすごいんだな、知らなかった」

「でも、死んじまったんだよな」

「本当に、惜しい人を亡くしたってやつだね。俺はすごく世話になったから、死んだときは辛かったよ」


 有紗からの手紙を読んでいるうちに底無しに涙が溢れ、読み終わってからは大声を上げて泣き続けた。そのくらい、有紗の死は俺に影響を与えた。


「次、合同体育だっけ」

「そうそう、サッカー」

「あれ、佐藤ってサッカーもまあまあできるよね?」

「剣道ほどじゃないけど」

「すごいね」

「これに関してもすごいのは有紗なんだよね。俺、前までだったら絶対本気で授業やろうと思ってなかったから」


 有紗がすごいすごいと褒めてくれるおかげで、モチベーションが保たれていた。


 今はもう有紗はいないけど、有紗のすごさを知らしめるという目的があるから、サッカーも上手でなければならない。


「じゃ、俺この試合でハットトリック決めるんで」

「佐藤それは無理だって」

「大丈夫。有紗すごいから」


 有紗のいない世界でも、有紗のためになら、いくらでも進める。そのためなら、手間も努力も惜しまない。

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