第96話 それでもいいって思うくらい、大好きなの


 気が遠くなるほどの長いフライトを終え、飛行機が滑走路へと着陸する。

 到着のアナウンスの後、座席上の収納棚から手荷物を取り出すと、凝り固まった身体をぐーっと伸ばした。

 

 私にとって二年ぶりのロンドン・ヒースロー空港。

 もう何度も足を運んでいるからすっかり覚えてしまった道を、勝手知ったようにすいすいと歩く。


 スマホの機内モードを解除すると、弟のかなめからメッセージが入っていた。

 私がいない間に車の免許を取ったらしく、空港まで迎えにきてくれているそうだ。私が大学進学を機に日本に戻った時、まだ中学生だった要はもう二十歳で、大学生になっていた。



 時差があるせいで私は眠くてたまらないけれど、こっちはまだお昼過ぎの時間帯。

 スーツケースを受け取った後、あくびをかみ殺しながら到着ロビーへと向かえば、記憶の中の姿よりも一回り身体が大きくなった弟が、私に向かって手を振っていた。




「会わない間に、また大きくなったね……。もしかして、お父さんの背、抜いた?」


 スーツケースを転がしながら私の前を行く、見違えるように大きくなった背中に声をかける。

 黒いブルゾンとジーンズを履いた後ろ姿はもうすっかり大人の男性で、二年前と比べても一段と逞しく見えた。


「そうなんだよ。父さん、すごく悔しがってた。それにおれ、まだ身長伸びてるんだよね〜」


 振り返って笑った顔にはまだ少しだけ幼い頃の面影を感じたけれど、男の子の成長って本当に早い。

 スーツケースを持つその手もごつごつと節くれだっていて、記憶の中の小さな手を思い出して少しだけ切ない気持ちになった。



 駐車場に着くと、見慣れた車を見つけた。年季の入ったランドクルーザー。長年乗っているお父さんの愛車だ。

 もう家族揃ってアウトドアに出かけるような年齢でもないけれど、お父さんはいまだにこの車に拘って、大事に乗り続けている。


 まさか、要がこの車を運転する日が来ようとは——子供の頃は、そんな先の未来を想像したこともなかった。


 結衣さんの車と比べると車高が高く、見晴らしの良い助手席に乗り込むと、懐かしい香りがした。


「要、運転、気をつけてね」


 自分はペーパードライバーのくせに、お姉さん風を吹かせてそう言えば要はむっと唇を尖らせる。


「大丈夫だから安心して。なんなら寝ててもいいよ。ねーちゃん、本当は眠いでしょ。だって帰省する度、数日は自室に籠もりっきりでいつも寝てばっかりじゃん」


「あのね、要は全然日本に帰ってないからわからないかもしれないけど、時差ぼけって本当に大変なんだよ。九時間も時差があるんだから」


 軽口を叩きつつも、慣れた手つきで車を走らせた要に安心して、シートの背もたれに身体を預ける。

 懐かしい街並みが窓の外を流れていくのを見つめていると、徐々に眠気が襲ってきて、気付けば私は深い眠りに落ちていた。




***




 二年ぶりの帰省は、結局、要に指摘された通りになった。


 毎回のことながら時差ぼけが中々治らず、一週間しかない帰省のうちの最初の数日を、ベッドと仲良くして過ごした。


 結衣さんとは、毎日メッセージを送り合っている。

 離れていると、会いたい気持ちが際限なく溢れてくる。寂しい夜は気持ちを誤魔化すようにシャチくんを抱きしめて、彼女を思って眠りについた。


 新年が、目前に迫っている。


 やることもないからと朝食も取らずに自室のベッドでまったり過ごしていると、ドアをノックする音が聞こえて枕から顔を上げる。


 がちゃりと控えめに開いたドアの隙間から、お父さんが顔を覗かせた。


「かなた、一緒に昼食どう? サンドイッチと、スコーンも買ってきたよ」


 お父さんが、にこにこと嬉しそうに笑って言う。私は頷いて、ベッドから起き上がった。




 サンドイッチを食べた後、私が二人分の紅茶を淹れている間に、お父さんが紙袋からスコーンを取り出して、いちごのジャム、それからクロテッドクリームを用意してくれる。

 お母さんも要も外出しているらしく、家には私とお父さんしかいなかった。


 ダイニングテーブルに並べる二つのティーカップ。食後だからと、アールグレイを選んだ。

 

 ベルガモットの香りに、先日のクリスマスのことを思い出す。バスアメニティに使われていたボディソープ、良い匂いだったなぁ。


 何気ない日常の中にもいつだって結衣さんの存在が溶け込んでいて、ふとした拍子に思い出す度に、私の胸を焦がすのだった。





「まさか、かなたが結衣ちゃんの会社で働くことになるとは思わなかったなぁ。最初に聞いた時、本当に驚いたよ」


 スコーンにジャムを塗りながら、お父さんは嬉しそうに微笑んだ。


 四年前、結衣さんと別れ私がまたロンドンに帰ってきた時、お父さんは誰が見てもわかるほどにしゅんと肩を落として落ち込んでいた。


 あれだけ「絶対に気が合う」と豪語していたお父さんのことだ。まさか大親友の娘と自分の娘のそりが合わなかったなんて、夢にも思わなかっただろう。


 でも、実はお父さんの見込み通り、私と結衣さんはそりが合わないどころか恋仲になってしまうほど、ぴったりと嵌まってしまったわけなんだけど。


「結衣さんの会社で働くことになったのは、本当に偶然だったんだ。今は、秘書として私もお仕事頑張ってる。毎日すごく楽しいよ」


「楽しく働けているみたいで、安心したよ。でも、せめて一年に一回ぐらいは帰省しておいで。あまり顔が見れないと心配だから。母さんなんて、“かなただって日本でいい人見つけたから、帰りたくないんじゃないの”なんて言ってたけど……それとこれとは、話が別だからね。たとえ恋人ができたんだとしても」


 お父さんは腕を組んで、まるで納得していないような顔で私に言った。


 ふと思う。もしかして、話をするなら今がチャンスかもしれない。

 まさにそのことを伝えたかったから、私は半日以上かけて、遙々日本から帰ってきたのだ。


「あのね、そのことなんだけど……私、お父さんに、伝えたいことがあって」


 きゅっと、膝の上で手を握る。


 唐突に、あれ、おかしいな、と思った。


 あれだけ結衣さんに対して自信満々に「大丈夫」と言ったのに、なぜか手が震えて、喉の奥が締め付けられるように苦しくなった。なんだろう、この感じ。


――私、もしかして緊張してる?


 私と同じ色の、薄いブラウンの瞳を見つめる。お父さんは、ティーカップをそっとソーサーに置いて、私をじっと見た。


「伝えたいこと?」


 優しい声で問いかけられて、こくりと頷く。握りしめた手のひらに汗が滲み、力も入れていないのに微かに足まで震えて来たのがわかる。


「うん……えっと……あのね……」


 震えて小さくなってしまった声に、私の緊張を察したのか、お父さんは目尻を下げて微笑んだ。


 会わない間に、お父さんの目元には、記憶の中よりも少しだけ皺が増えたような気がした。

 でもその優しい眼差しは、私が子供の頃から変わらずに、そのままだ。


「大丈夫、ゆっくりでいいよ。落ち着いてから、話してごらん」


 懐かしい声色だった。

 

 子供の頃の記憶が蘇る。泣きじゃくる私を宥めるとき、お父さんはいつも私を膝に乗せて、とんとんと背中を叩きながらこんな風に優しい声で、落ち着くまで優しく語りかけてくれた。


 深く、肺が一杯になるまで息を吸って、ゆっくりと吐き出す。少し気持ちが落ち着いてきた。

 

 大丈夫。

 もう一度、真っ直ぐにお父さんを見つめる。


「お父さん、私……付き合っている人がいるの。本当に優しくて、素敵で、私のことを心から愛してくれる人。その人のことが本当に大好きで、一緒に生きていきたいって、思ってる」


 一息に、言う。私の言葉をただ聞いていたお父さんは、うん、と一度小さく頷いた。

 まるで私が何を言おうとしていたのか察していたみたいに、その瞳は揺らぎもしなかった。


「そうか。かなたは、その人と結婚したいの? もしかしてその話がしたくて、今回は帰省してきてくれたのかな」


 見つめたその瞳は、心なしか少しだけ寂しそうで、潤んでいるようにも見える。

 私はお父さんの質問に、左右に首を振った。


「ううん。結婚はできない……。だって、女の人だから」


「えっ、女の人……?」


 突然の告白に、お父さんはぽかんとして、言葉を失っていた。

 無理もないと思う。私だって、結衣さんと出会うまではまさか自分が女性に恋をするだなんて、想像したこともなかった。


「……うん、ごめんなさい」


 膝の上の手が、ふるふると震える。顔を上げることができなかった。


 お父さんは、絶対にわかってくれると思っている。いつだって私の言葉に耳を傾けてくれたし、頭ごなしに否定されたことなど一度もない。

 だけど――いざ伝えるとなると、心とは裏腹に想像を絶するほどの緊張感に襲われていた。

 

 理屈じゃないんだな、こういうのって。ちぐはぐな感情に、自分でも困惑している。


 たっぷりと間を置いてから、石像みたいにカチンと固まっていたお父さんが、ふー、と息を吐いた。


「そう、か。女性か……。いやぁ、びっくりした」


 恐る恐る、視線をあげる。お父さんは、ひげが生えてもいない顎を撫でて、脱力したように前のめりになっていた身体を背もたれにぐっと預けた。

 

 なんて言われるだろう。様子を窺うと、お父さんは私の目を見て、微笑んで見せた。


「かなた、“ごめんなさい”なんて、謝る必要はないよ。かなたが好きになった人なら、きっと素敵な人なんだろう」


 その言葉に、ピンと張り詰めていた緊張の糸が緩む。温かいその眼差しが、心の奥底まで染み入っていくようだった。


「……うん。結婚もできないし、子供も作れないけど、それでもいいって思うくらい、大好きなの。一緒にいられるだけで、私は本当に幸せ」


「そんなにも心から愛せる人に出会えることなんてそうはない。一生に一度あるかないかだよ。その気持ちを、何よりも大切にしなさい。大丈夫。お父さんは反対なんてしないよ。話してくれて、ありがとう」


 肩の力が抜けて、思わずへたり込みそうになった。


「お父さん、ありがとう。……もしもこれから先、私が同性と付き合っていることで、お父さんに迷惑をかけることがあったら……」


 私の言葉を、お父さんは「かなた」と私の名前を呼んで止めた。


「かなたが幸せならそれでいいんだ。誰に何を言われようが構わない。何があっても迷惑だなんて、思わないよ」


 芯の通った、真っ直ぐな声だった。一点の曇りもなく、本当にただ娘を思ってくれている父親の眼差しを感じて、案じていた全てのことが杞憂だったと理解する。


「今度、その子を連れておいで。僕の大切な娘を預けるんだ、顔ぐらいは見ておきたいからね」


 そう言って、お父さんはにっこりと笑う。釣られて私も、ふふっと笑った。


「……うん、ありがとう。次は、絶対に一緒に来る。すごく綺麗な人だから、きっとお父さん、びっくりすると思う」


 きっと一目でも顔を見れば、すぐに私の恋人の正体に気付くだろう。


 絶対に、驚くに違いない。


 だって結衣さんは、彼女のお母さんにまるで生き写しのように、そっくりだから。




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【書籍化決定】アフタヌーンティーは如何ですか? 桃田ロウ @momotarou123

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