第95話 寂しいからって、浮気しちゃだめですよ
クリスマスが過ぎ、街中が年末の雰囲気一色に染まりつつある土曜日の早朝。
荷物を詰め込んだ特大のスーツケースを引きずりながら、アパートを出て鍵を閉める。
学生時代から愛用しているシルバーのスーツケースは、所々に擦り傷がついているもののいまだ現役で、軽量で耐久性に優れている、私のお気に入りだ。
サスペンション付きのキャスターは静音仕様の親切設計で、こんな早朝から家を出たとしても、音を立てずにアパートの共有通路を歩くことができる。
私は明日から長期休暇を使用して、両親がいるロンドンへと帰省する予定だ。そして実は、これが社会人になってから初めての帰省だったりする。
最後に帰省したのは、就職する直前の、大学四年生の三月が最後だったと記憶している。
去年も、何度もお父さんから「帰っておいで」とお誘いを受けていた。
でも、仕事を覚えるのに忙しくて必死だったのと、決して航空券も安くないということもあって後ろ倒しにしていたら――気付いたら、二年も帰っていなかった。
数分前、結衣さんから「ついたよ」とメッセージが届いていた。
エレベーターで一階まで降りて、共有玄関を抜けると、まだ外は薄暗く、冬の朝特有の刺さるような冷えた空気を感じる。
アパートの脇に、白いセダンがハザードランプを焚いて停まっている。結衣さんの車だ。手を振ると、中で待っていた彼女が私に気づいて車を降りてくれた。
黒いコートを羽織った彼女が、私に向かって手を上げて笑う。
「かなた、おはよ」
「おはようございます。今日はわざわざ送ってくれて、ありがとうございます。スーツケース重いから……助かります」
「ううん。私が見送りたいだけだから、気にしないで」
結衣さんは私のスーツケースを受け取ると、慣れた手つきでトランクに積み込んだ。
寒さに耐えるように、コートの上から両腕を摩りつつ彼女の愛車に乗り込むと、結衣さんは待ってましたというように私に温かいミルクティーのペットボトルを差し出してくれた。
ハザードランプを消して、車が走り出す。向かう先は――私と結衣さんが初めて出会った場所。空の玄関、羽田空港だ。
「そういえば、律さんからお土産のリクエストがあったんですよね」
「へえ、何が欲しいって?」
「香水ですって。来年から婚活するから、“いい女感が出るやつ”をお願いって言われました。でも、匂いって好みもあると思うんですけど、私が選んで大丈夫ですかね?」
「婚活? 前にも言ってたけど、律、本気だったんだ。私、ずっと冗談だと思ってた」
「私もです……」
婚活、かぁ。
改めて考えてみると、私より二つ上の結衣さんと律さんは、来年で二十七歳になる。そろそろ本格的に生涯の伴侶を探したいと思っても、おかしくはないのかもしれない。
とはいっても、今の時代結婚だけが全てではないし、人によるとは思うけれど。
現に私の親友の悠里は、恋人はいなくとも仕事と趣味に全力を注いでいて、充実した生活を送っている。
悠里だって、恋人がずっといなかったわけではない。たまにいい人がいたりしたこともあった。
でも、悠里の中の優先順位はいつだって決まっていて、まずは音楽、その次に仕事、時々恋人……というような具合だから、彼女の恋愛遍歴を遡って考えてみても、付き合いも別れも、比較的あっさりとしたものだった。
そんな野良猫みたいに自由気ままな悠里の生き方も、私はとても素敵だと思っているわけで。
他人がとやかく言う必要はない。本人が良ければそれでいいし、色んな幸せのかたちがあっていい。
「……結衣さんは、お土産、何がいいですか?」
車窓から流れる景色を眺めながら、ぽつりと尋ねる。
「私はいいよ。かなたが帰ってきてくれるだけで十分だから。あーあ、しばらくかなたに会えなくなると思うと、本当に寂しいなぁ」
溜め息と共にそう零す結衣さんに、笑う。
私が秘書になってから、こんなにも長い期間離れるのは初めてだ。
きっと私も、ものすごく寂しくなるだろうと思って、実は今回の帰省にもシャチくんを連れてきている。
結衣さんがいない夜を一緒に乗り越えてきた私の大切な相棒だから、この子がいるだけで安心感が格段に違う。
私と同じように結衣さんがこんなにも寂しがってくれるんだったら、私のアパートに連れ帰ったアザラシくんを彼女に預ければよかったかもしれないと、少しだけ思った。
「……寂しいからって、浮気しちゃだめですよ」
一応、ちくりと刺しておく。すると結衣さんはそんな私の小言を軽く笑い飛ばした。
「こんなにかわいい恋人がいるのに、浮気なんてするわけないでしょ」
心の底からそう言っているのだとわかって、少しだけほっとする。
本気で疑っているわけではないけれど、物理的に距離ができれば会いたい時に会えなくなるし、眠っていた彼女の悪癖が騒ぎ出したりしたらどうしようって、心配になることだってある。
それは結衣さんが如何にモテるのか、私が一番理解しているからだ。
モテる恋人を持つと、本当に気が休まる暇がないんだってこと、結衣さんには一生かかっても理解できないかもしれないけれど。
空港に向かって、車はアスファルトを駆け抜けていく。朝日が昇るまでもう少し。
東の空には灰色の雲の隙間から、薄いオレンジ色の光が差し込み始めていた。
***
第三ターミナル直結の駐車場に車を停めると、スーツケースを引いてチェックインカウンターへと向かう。
飛行機に乗ったら後は座っているだけなのだけど、その座っているだけの時間が本当に長い。
足は浮腫むし、お尻は痛むし、移動だけで私はいつもくたくたになっている。
帰省は自分で決めたことだけれど、本当は結衣さんと離れがたくてたまらない。今更だけど、どうせなら出発前にもっと抱きしめておいて貰えばよかったと思う。
チェックインを済ませた後にスーツケースを預けると、ようやく身軽になれた。
フライトの三十分前に保安検査場を通れば十分間に合うから、それまでは結衣さんと一緒に居られる。
「ねえ結衣さん。まだちょっと時間あるから、せっかくだし展望デッキでも行ってみますか? 色んな飛行機見れるかも」
「展望デッキ? いいね、行ってみたい」
「ちょっと寒いかもしれないですけど……」
「寒かったら戻ればいいじゃん。せっかくだから、見に行こう」
そう言って、結衣さんが笑って私の手を引いた。
第三ターミナルの最上階である五階の展望デッキに向かうと、既に日が昇っているとはいえ、冷たい風が吹き抜ける季節だからか広々としているのに人はまばらで少なかった。
国際線だからか、滑走路へと向かう色んな航空会社の大型旅客機が次から次へと行き交っていて、大迫力だ。
銀色の主翼が朝日を反射してキラキラと輝いて、まぶしかった。
「かなたが今日乗る航空会社って、どこ?」
「JALです。ヒースロー空港行きの、四十三便」
「そっか。じゃあ……ここからなら、かなたが乗る飛行機、見送れるかな」
朝日に照らされた、寂しそうなその横顔を見つめる。たった数日離れるだけだけれど、いつでも会える距離にいるのと、すぐに会えない距離に離れるのとでは、心持ちが全然違う。
もしかして私が日本を去ったあの日のことを思い出しているのかもしれないと思ったら、胸を針で刺されたようにちくりと痛んだ。
「……結衣さん、あのね」
小さく息を吸ってから、フェンス越しに見える飛行機を見つめ、目を逸らさないままその手を強く握った。
結衣さんがこちらを見た気配がする。でも私は彼女の方を振り向かずに口を開いた。
「両親に言おうと思っているんです。私が、女性と付き合ってるってこと。もちろん、その相手が結衣さんだってことは、まだ言うつもりはないですけど。今回は、そのための帰省なんです」
「えっ……」
結衣さんが息を呑んだのがわかった。そっと彼女に視線を向ける。朝日を反射して輝く、その深く黒い瞳が、水面のように不安げに揺れているのがわかった。
「どうして? かなたまで、無理に言わなくていいんだよ。私は、ずっと秘密にしてたって――」
結衣さんは、きっと両親にこのことを伝えることの重さをよく知っている。その不安も。
でも私は左右に首を振って笑った。彼女の不安を吹き飛ばすように。
「無理なんてしてないですよ。大丈夫です。だって、絶対にわかってもらえるって、信じてるから」
春になれば、すぐに私も二十五歳になる。今でこそ、結婚なんてものは個人の自由になりつつあるけれど、両親の世代は今と比べて結婚するのも、子供を産むのも、今よりずっとずっと早かった。
それもあってか、最近は母親から「いい人いないの?」と聞かれる頻度も増えてきた。律さんみたいに、結婚を意識する人たちもこれからどんどん増えてくるだろう。
誤魔化し続けることもできるけど、限界はある。私の両親だって、イギリスに永住するわけじゃない。いずれ日本に帰ってくる。多分、そう遠くない未来に。
そうなったときに、私が結衣さんと暮らしていることを説明する必要だって出てくる。どのみち、きっと避けては通れない。
別に無理に言う必要もないとは思う。やり方はいろいろある。でも、隠す必要性も感じない。
ただ、素直に両親に伝えたいだけだ。
生涯を共にしたいと心から思える人と出会えて、私はとても幸せだってこと。その相手が、たまたま女性だっただけ。
今、私たちは結婚することができなくとも、深く強く心が繋がっている。
それにいつの日か、日本の法律が変わる日も来ると思うし、私はそう信じてる。性別なんて関係なく、当たり前に寄り添って生きていける未来が、絶対に来る。そう、確信している。
「……本当に、わかってもらえるかな? 反対されたりしない?」
結衣さんらしくない、少しだけ弱気な声だった。繋いだ手が、不安げに私の手をきゅっと強く、握り返す。
「大丈夫ですよ。だから次は一緒に来て、私の家族に会ってください。私が過ごした街も、結衣さんに見て欲しいから。ロンドンの街並みって、本当に綺麗ですよ。ちょっと遠いし、移動は疲れるかもしれないけど」
その瞳を見つめて、微笑んだ。すると、強張っていた結衣さんの表情が、柔らかくなった気がした。
「……うん。次は、絶対に一緒に行く。約束する」
空に向かって一直線に飛び去っていく飛行機を、肩を寄せ合って見つめる。吐息は白く染まり、澄んだ冬の冷たい空気に溶け混じって消えて行く。
でも、繋いだ手は、いつまで経っても、温かかった。
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