第94話 今夜は良い子にしてないとだね


 ふわふわと浮かぶような微睡みから、ゆっくりと意識が浮上する。頬に優しく押し当てられた唇の感触で、目が覚めた。


 背中に、しっとりとした人肌の温もりを感じる。後ろから抱きしめられていることに気付いて少しだけ顔をあげると、結衣さんが薄く笑って私の顔を覗き込んでいた。


 布一つ纏わないままで、触れあう素肌が心地良い。気を抜いてしまえばまた、とろとろと眠りに落ちていきそうになる私の意識を、優しく穏やかな声が揺り起こした。


「かなた、起きて」


 優しい声色で耳元で囁かれて、私は何度か瞬きを繰り返す。

 ゆっくりと窓の外に視線をやるといまだに暗く、私たちはまだ、夜の中にいると知った。

 あの後、お酒の力も相まって、私は少しだけ眠ってしまっていたみたいだ。


「う、ん……」


「先にお風呂入りたい? それとも、ケーキ食べたい?」


 頬に、首筋に、優しく降ってくる唇を受け止めながら、眠っていた脳を再起動する。

 お風呂か、ケーキか。どちらも魅力的な提案だけれど。


「……お腹すいた、けど……先にお風呂、入りたい、です」


 割と真剣に迷った結果、まずは入浴を優先することにした。

 すごく汗を掻くようなことをしてしまったから、まずは身体をさっぱりとさせたい気持ちが食欲を僅かに上回った。

 結衣さんと密着しているだけならそんなに気にならないけれど、少しだけぺたぺたする肌は、シーツとの相性があまり良くない。


「わかった。じゃあ、お湯溜めてくるね」


 私の髪を優しく撫でてから、結衣さんはてきぱきと下着を拾い集めて身に着けた。

 白いシャツをさっと羽織るとベッドから抜け出して行ってしまったから、急になくなった体温が名残惜しい。


 夕食から時が経ち、私の理性を見るも無残に崩壊させたアルコールが抜けてきたおかげで、徐々に霞がかっていた頭がすっきりしてきた。


 数時間前の自らの行いを、猛省する。

 頑なに「酔ってないです」と言い張ってしまっていたけれど、「飲みすぎ」という結衣さんの指摘は絶対に正しかった。


 また、やっちゃった。ため息をついて、額を押さえる。


 酔うと、普段だったら必死に抑圧している甘えたがりな自分が顔を出す。

 いつもだったら言えないことも、アルコールの力を借りればいとも簡単に言えるようになってしまうから、思い出すだけで顔から火を噴きそうなほどに恥ずかしくなる。


 お酒を飲んでするセックスは、理性をかなぐり捨ててしまえる分、このまま天国にいってしまうのではないかと思うほどに情熱的で良い反面、全てが終わった後に湧き上がる羞恥心も、普段のセックスの比較にならなかった。


 なんであんなこと言っちゃったんだろ、と後悔して、赤面する。

 結衣さんと付き合うまでは、自分には「性欲」なんてないと思ってた。でも、違った。私が何も知らなかっただけだった。


 できることなら、私がこのベッドで零した言葉の全てを、一つ残らず結衣さんの記憶から消してしまいたい。


 なんて反省していると、バスルームから結衣さんが戻ってきた。

 手にはペットボトルを持っている。ぱきっと音を立ててキャップを捻った後、私に手渡してくれた。


「喉渇いたでしょ? お水、飲んでね」


「ありがとうございます……」


 シーツを引っ張って起き上がった後、膝を抱えながらそれを受け取る。

 実は、起きた時から喉がカラカラだった。もらった水を飲み下すと、すーっと冷たい感触が喉の奥を通って、胃の中へ流れ落ちて行く。


「酔い、覚めた?」


「……はい」


 赤くなった頬を隠すように立てた膝に頬を押し付ければ、そんな私を見て、結衣さんは何も言わずにただ笑った。







 バスタブにお湯が溜まった頃を見計らって、二人揃ってバスルームへ向かう。さすがスイートルームなだけあって浴室は驚くほどに広く、所々にあしらわれた金色の装飾はまるで映画の世界のように眩しかった。


 大きなバスタブと、ベルガモットのいい香りがするバスアメニティにはしゃぎながら、お互いの身体を洗い合って、入浴を済ませる。

 本当はもっとのんびり入りたかったけど、ケーキが私を待ってるし、お酒も入っていることだから、長湯はよくない。

 

 汗を洗い流した後、ふかふかのバスローブに袖を通して、洗面台の鏡の前で順番に髪を乾かし合った。

 艶のある彼女の長い黒髪はまるで絹糸のようで、手で梳くと指の間を流れるようにすり抜けていく。


 女性特有のきめ細かい滑らかな肌や、柔らかな髪の香りにときめくことも、結衣さんに出会うまでは経験したことがなかった。でも今は、この美しい黒髪を心の底から愛おしく思う。


 出会ったときもすでに結衣さんは完成されていて美しかったけれど、二十六歳の彼女は学生時代にはまだ少し残っていたあどけなさが消えて、洗練された大人の女性の美しさを湛えていた。


 端整な顔立ちは、美術品のように美しい。きっとこれから先も、もっともっとその美しさは増していく一方なのだろう。


 流れる髪を一束掬って、口付ける。いつも結衣さんが私にそうする気持ちが、わかったような気がした。


 今まで彼女が私にしてくれた沢山の「うれしいこと」を、これからは私も同じくらい、いや、それ以上に返してあげることができたらいい。


 胸を焼き尽くすような恋心は、その熱を失わないままに、気付けば強く深い愛情へと形を変えていた。

 相手を強く求めるのが恋心なら、与えてあげたいと思う気持ちを愛情と呼ぶのだと初めて知った。

 結衣さんが私に与え続けてくれた愛情は、この心を絶えず満たして、溢れるくらいの幸福をくれた。


 だから私も。生涯あなただけを愛し続けると、今私は迷いなく神様に誓うことができる。




 ルームウェアに着替えて、大きなソファに腰掛ける。高層階の窓から望む夜景は美しく、今年の冬、関東を襲った大型の低気圧が連れてきた雪は、街並みを白く覆い尽くそうとしんしんと降り続いていた。



 結衣さんが箱からケーキを取り出すと、チョコレートのいい匂いがした。

 クリスマスの定番ケーキ、美味しそうなブッシュ・ド・ノエル。

 切り株の上、粉砂糖で模した雪の上に、小さなサンタさんの砂糖菓子が乗っていた。


 あれだけディナーをお腹いっぱい食べた後だっていうのに、目の前に甘いものがあるだけで、食いしん坊の私はすぐにお腹がぐーっと鳴く。


 切り分けられたケーキを目の前に差し出されると、自然と笑顔になった。迷わずに私のお皿にサンタさんを乗せてくれた結衣さんも、嬉しそうに私を見つめている。

 口に運ぶと舌の上でとろけるチョコレートクリームの味に、思わず唸った。

 名の知れたチョコレートブランドのケーキって初めて食べたけれど、深みがあって、その違いが一口でわかるほどに美味しい。

 これはまさに、特別な日に食べる味だ。


「美味しい?」


 隣に座る結衣さんに問いかけられて、うん、と素直に頷いた。

 学生の時、一度だけ結衣さんと過ごしたクリスマスも、私にとってはかけ替えのない思い出の一つだけれど、恋人になってから迎えた初めてのクリスマスである今夜もきっと、一生忘れられない思い出になると思う。


「あのね、実はかなたにもう一つプレゼントがあるんだ」


 私がケーキをぺろりと平らげたのを見計らって、結衣さんが突然そんなことを切り出した。


 もう一つ? 思ってもみなかったことだったから、私は驚いて目を見開く。


 これ以上、まだ何かあるって言うの?

 ぽかんとしてしまった私に結衣さんは笑うと、いつの間に用意したのかルームウェアのポケットからラッピングされた箱を取り出して、私の膝の上にぽんと置いた。


「開けてみて」


 一体、なんだろう。驚きを隠せないまま言われたとおりに、箱を飾る赤いリボンをしゅるりと解いて、開けてみる。

 中には、艶のある黒いレザーのキーケースが入っていた。手に取ると、微かに膨らみを感じる。


 何か、入ってる? ぱちんと金色の留め具を外して、キーケースを開いてみる。


 中には、赤いリボンが結ばれた、少しだけ傷のついた鍵がキーリングに付けられていた。


 すぐにわかった。この鍵は――大学入学前、初めて結衣さんに出会った時に渡された、あの家の鍵だ。


 絶対に見間違えるはずがない。一つ屋根の下で二人過ごした一年間、私が毎日使っていたものだから。別れの日、彼女に返した、あの鍵だ。


 出会った日の記憶が、ぱっと色付いて蘇る。初めて結衣さんと出会った日のこと。私はまだ十八歳で、彼女は二十歳だった。

 大きなスーツケースを手に、あの家に初めて踏み入った時、私はこれ以上ないほどに緊張していた。

 だから、覚えている。あの日、まだ傷一つなかった真新しいこの鍵を、結衣さんが私の手に握らせてくれた時のこと。


 不安でいっぱいだった。


 まだ結衣さんがどんな人なのかも知らなかったから、何を話せば良いのかもわからなかった。

 最初の数週間は顔を合わせるだけでずっと緊張しっぱなしで、砕けた話もあまりできずに、ツンケンしてかわいくない態度ばかり取っていたような気がする。

 でも、結衣さんはそんな私に対して嫌な顔ひとつしなかったし、いつだって変わらずに、優しかった。


 あの家で一緒に過ごした季節の全ては、甘酸っぱい恋の記憶で埋め尽くされている。


「結衣さん、この鍵……」


「ちょっと気が早いかなって思ったけど、せっかくだから今日、渡しておきたくて。春になったらまた、一緒に暮らそう。今度は、期限なんて決めないで、ずっと」


 なぜだろう。涙が溢れてくる。あの日私が手放したものが、またこの手のひらの中に返ってきた。そう思うだけで、言葉にできない感情の濁流が、涙となって溢れ出して、止まらなくなる。


 手の甲で、涙を拭うように瞼を擦る。すると結衣さんが、ぎゅっと私の手を取った。


「泣かないで、かなた」


「だって……」


 涙を吸い取るように、唇が瞼に優しく押し当てられる。たまらずにすがりつくように抱きつくと、ルームウェアから覗いた白い肌からは、甘くさわやかなベルガモットの香りがした。


 ぴったりと身体が密着する。まるで磁力で引き寄せられたかのように、私の身体は結衣さんから離れたがらない。そんな私の背を、優しく慈しむように、熱い手のひらが撫でた。


「春になったら、ベッドも家具も、全部、新しいの買いに行こ。かなたは、どんな部屋にしたい?」


「いいんですか? だって、結衣さんの家なのに」


「これからは、二人の家だよ」


 シンプルで、無駄なものが一切ない彼女の家も、私は好きだった。

 あの日私に与えられた自室は今も、そのままの姿で時を止めて残っていることを、私は知っている。

 結衣さんは、諦めないでいてくれた。いつか私が帰ってくる日を信じて、ずっと。


「……私、また、あの部屋に帰ってもいいですか?」


 そう問えば、結衣さんは私の髪に頬ずりをして、笑って言った。


「それはだめ。かなたの部屋のベッドは処分するよ。だって私、かなたと毎日一緒に寝たいもん。だから、私の部屋を、二人の寝室にしよ」


 腰に回った腕が、きつく私の身体を抱きしめる。また一から始める、二人の暮らし。次々に膨らむ想像に、心が弾む。

 首筋に擦り寄って、私を抱く身体の体温をもう二度と手放したりしないように、強く強く、抱きしめ返した。



***



 寝る支度を整えた後、じゃれ合いながら縺れ合うようにベッドに倒れ込んだ。さっき、押しのけるように退かしたバルーンアートが、ふわふわとベッドの周りで浮かんで揺れている。

 ルームウェアの隙間から覗いた私の首筋を結衣さんが甘噛みするから、擽ったくて顔を背けると、少し強引な手が私の手首を掴んだ。


 その強さに、あれ、と思って結衣さんを見ると、待っていましたとばかりに唇を重ねられる。何度も角度を変えて、擦り合わせる唇が気持ちいいからそのまま受け入れていると、いたずらな手のひらが私の脇腹を撫でて擽ったから、慌てて肩を押し返した。


「ちょ、っと、結衣さん……!」


 薄暗いオレンジ色のルームランプを反射するその黒い瞳がにんまりと細められる。


「寝るんじゃ、ないんですか?」


「んー……、かなたは、もう寝たい?」


 信じられない。さっきあんなにしたのに、なんでそんなに体力があるんですか。

 結衣さんの、すけべ。


 って、言いかけたけれど……さっき、自分から彼女を欲しがってしまったことを思い出して、今日だけは、その言葉を飲み込んでおくことにする。


 普段、私が結衣さんより遅く起きることなんて滅多にないけれど、もしもこれ以上体力を消耗してしまったら、本当に結衣さんより早く起きられないかもしれない。

 プレゼントを明日の朝までに結衣さんの枕元においてあげられなかったら、それこそクリスマスの意味がない。


「ねえ結衣さん。良い子にしてないと、今夜サンタさん、来てくれないかもしれないですよ……? いいんですか?」


 そう思って言えば、結衣さんはぱちくりと目を丸くする。


「……私にもサンタさん、来てくれるの?」


 驚いたように言うから、思わず笑う。来ないわけ、ないじゃないですか。そう言いたくなる気持ちを堪えて、結衣さんの身体に抱きついた。


「結衣さんがこのまま大人しく眠ってくれるなら、来てくれますよ、きっと」


 私がそばにいる限り、もう二度と、サンタさんが来ないクリスマスなんてやってこない。

 結衣さんは笑ってそのまま私の隣にごろりと横になると、私の身体をぎゅっと強く抱きしめ返してくれた。


「そっか、じゃあ……今夜は良い子にしてないとだね」


 嬉しそうなその声に、私も笑顔になる。明日は絶対に結衣さんより早起きしてみせる。

 そう誓った後、胸元に顔を押しつけて、幸せに包まれながら、目を瞑った。




 翌朝。


 宣言通り、結衣さんのもとに、四年越しにまたサンタさんがやってきた。


 枕元に置かれていたプレゼントの包みを開けると、結衣さんは本当に嬉しそうに、無邪気に笑って喜んでいた。


 その笑顔を見て、私は――来年も、再来年も、その先もずっと、彼女のサンタクロースであり続けたいと、心の底から、思ったのだった。




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