第93話 私、今、すっごく幸せです
「かなた、大丈夫? もー、お酒弱いんだから、あんまりハイペースで飲んじゃだめだって言ったのに。顔、真っ赤だよ」
私を窘める結衣さんの、柔らかい声が聞こえる。
二人きりのエレベーター。ぐんぐんと昇っていく鉄の箱の中で、私はぎゅうっと彼女の腕を抱きしめて、寄りかかるように体重を預けた。
「大丈夫ですよ、わたし、全然酔ってないです」
首を振ってそう伝えれば、結衣さんは小さくため息をついて、肩をすくめる。
「飲みやすいお酒も、考えものだね。シャンパンも、ワインも、いつもかなたが飲んでるお酒よりもずっと度数高いんだから、気をつけてよ?」
「はぁい」
「部屋に行ったら、まずはお水飲もうね」
「大丈夫ですってば。もー、結衣さん、心配しすぎです」
次々と運ばれてくる豪華な料理はどれも美味しくて、ついついお酒が進んでしまったのは事実だけれど、強がりじゃなくって、本当にそんなに酔ってないと思う。
乾杯のシャンパンも、クリスマスの特別ディナーコースを楽しみながら飲んだワインも、私に合わせて甘口でオーダーしてくれたから、すごく美味しかった。
確かにさっきから心臓がドキドキしているし、足元がふわふわする感じはあるけれど、結衣さんと一緒にいるときはいつもこんな感じだったような気がする。
エレベーターの中は二人きりだし、誰にも見られていないことを良いことに、「結衣さん」って名前を呼んでぎゅっと手を引く。
少しだけ背伸びして、その頬に軽く唇を押しつけた。
驚いたように目を見開いた結衣さんが、ばっと私の顔を見るから、笑ってしまった。そんなにびっくりしなくてもいいのに。
だって恋人同士なんだし、たまには私からこういうことをしたって、いいはずだ。
「……かなた、やっぱりめちゃくちゃ酔ってるでしょ」
「酔ってませんよー。ね、結衣さん、私、今、すっごく幸せです」
彼女の左手を両手で握って、精一杯の気持ちを伝える。すると結衣さんが、ぱちぱちと瞬きをした。
一度、結衣さんは何かに耐えるような顔をした後、私の腰を右腕で強引に抱き寄せた。ぐらりと身体が揺れて、顔が近づく。至近距離で真っ直ぐに結衣さんと目が合って、ただでさえ激しく打つ鼓動が、さらに速度を増した。
あ、キスしてくれるのかな。そう思って目を閉じそうになったところで、エレベーターが減速する。
それに気付いた結衣さんが、階数表示に視線だけをやって、何かを堪えるようにきゅっと眉根を寄せた。
ぴたりと止まったエレベーターは、無情にもそのドアをゆっくりと開いてしまったから、結衣さんは私の身体を抱き寄せる手を緩めた。
なんだ、残念、キスしてくれるのかと思ったのに。
結衣さんは、深くため息をついて、何かを振り払うように小さく首を振った。
「……かなたは、お酒と相性が悪すぎる」
相性が悪いって、どういうことだろう。確かに結衣さんと比べれば、お酒には弱いかもしれないけれど、別に飲めないわけじゃないのに。
首を傾げつつもエレベーターを降りる。目的の部屋は、目と鼻の先だった。
私の酒癖についてまだぶつぶつと小言を言っている結衣さんを無視して、「早く開けて」とドアの前で結衣さんのジャケットの袖を引いた。
結衣さんが胸ポケットから出したルームキーを翳すと、カチャンと音を立ててドアの鍵が開いたから、わくわくしながら部屋へと入る。
一面ガラス張りの窓から望む東京の夜景と、クリスマスデザインで統一された装飾。
大きなツリーと、大きなベッドの周りを飾るバルーンアートに目を奪われる。
「わあ、すごい! 結衣さん、見て! 風船がいっぱいです」
大きなキングサイズのベッドに駆け寄って、ぼすんと座る。その弾みでベッドを装飾していた金色の風船が、ふわりと宙に浮かんだ。
風船を一つ手に取る。ぽんぽんと両手で遊ぶように転がしていると、結衣さんがふっと力が抜けたように笑った。
「喜んでもらえて何よりだけど、まずはお水飲んでね? ケーキも用意してもらってるから、かなたの酔いが覚めたら、一緒に食べよ」
「ケーキもあるんですか? やったぁ」
結衣さんが、備え付けの冷蔵庫からお水を取りに行ってくれている間に、クリスマスカラーの赤いベッドスローを剥がした後、そのまま後ろに倒れ込んだ。洗い立てのリネンの香りを胸一杯に吸い込んだところで、ふと気付く。
着心地がいいから気にならなかったけれど、今、私は結衣さんに買ってもらった大事なドレスを着たままだった。
そういえば、私の服はどこに行ったんだろう。部屋を見渡せば、バゲージラックの上に置かれている紙袋が目に入った。どうやら、食事中に預けていた荷物は、事前に部屋に運んでくれていたらしい。
ミネラルウォーターのペットボトルを片手に、結衣さんがベッドまで歩み寄ってくる。
「かなた、大丈夫?」
心配そうに、結衣さんは私を見下ろしている。別に具合が悪いわけじゃない。むしろふわふわして、良い気持ちだ。
でも、心臓の調子はおかしいみたい。絶え間なくドキドキと鼓動を速めていて、それはどんどん加速していく。
心配しなくても平気。それよりも早く抱きしめて欲しくて、私はずっとうずうずしている。
早く、その身体で、その唇で、その指で、私を愛しているって伝えて欲しいのに。
いつもなら狼みたいに襲ってくるくせに、私がお酒を飲むとどういうわけか途端に結衣さんは理性的になろうとする。
そっと手を伸ばして、「結衣さん」って呼んでみる。すると、起こして欲しいのかと勘違いしたらしい結衣さんは、ペットボトルを持っていない方の手で、伸ばした私の手をそっと握って軽く引いた。あぁ、もう、違うのに。
わかって欲しくて、私はその手を思い切り自分の方へ引き寄せた。
「わ、っ」
予想外のことでバランスを崩した結衣さんが、ベッドに手をついて、私の上に倒れ込む。
もう逃がさないように、その首にぎゅっと腕を回して引き寄せた。
驚いたように見開かれた瞳に、少しだけ気分が良かった。だって、いつも私ばっかりドキドキさせられているのは、不公平だ。結衣さんにだって、もっと私にドキドキして欲しい。
こぼれ落ちてくる艶のある長い黒髪を、そっと耳にかけてあげる。それからその耳の縁に指を滑らせて輪郭を辿ってから、照明を反射して光る銀色のピアスに指先で触れた。
もう一度、「結衣さん」って、声に精一杯の甘さを乗せて、名前を呼んでみる。でも、彼女は、そんな私を窘めるようにすっと目を細めた。
「……かなた、お水は?」
「いいです、いらない……。私、そんなに酔ってないです」
「そう言ってる時点で、めちゃくちゃ酔ってると思うんだけど……」
苦笑いして、私から目を逸らした結衣さんに、むっとする。私があげたネックレス——ブラックオニキスのクローバーが、目の前で揺れた。白い首筋。滑らかな肌の質感を近くで感じて、耳元でドクドクと心臓の音がする。
「ねぇ、結衣さん」
「うん?」
「服、皺になったら嫌だから……ぬがして」
指先で、そっと、彼女の首筋を辿る。
天井がぐるぐると回っている気がする。もう背中側にあるファスナーを、自分で下ろせる気がしない。
甘えるようにねだってみれば、結衣さんは、かちんと凍ったみたいに固まってしまった。
おかしいなぁ。結衣さんって、おねだりすればなんでも私の願いを聞いてくれるはずなのに。
今日は私のお願い、聞いてくれないの? そう問いかけるように、私は黙ってじっと彼女を見つめる。
結衣さんは、一度目を瞑った後、深く呼吸を整えてゆっくりとその瞳を開いた。熱のこもった視線に、心臓を射貫かれる。
言葉にしなくてもびりびりと伝わってくる私を求めるその視線に、身体が震えた。そう、その目で、私を見て欲しかった。
「……かなたって、ほんと、ずるい」
「だって……自分じゃ、脱げないです」
「そうだよね。いいよ、脱がしてあげる」
背に回った腕が、私の身体を起こしてくれる。抱きつくように身を委ねて起き上がれば、耳元に優しく唇を押し当てられた。
「……ケーキ食べるまでは、我慢しようと思ってたんだけど」
彼女の整った指先が、スカートの中に忍び込んでストッキングに覆われた太ももを引っ掻く。いつもだったら直に触れる指先が、薄い布一枚隔てているだけでなんだかもどかしく感じる。
素肌で触れあいたい。早く脱がしてくれたらいいのに。
「今日は、何も、我慢しなくていいです」
さっき飲んだお酒のせいなのか、結衣さんのせいなのか、もうわからない。食事しているときから私はずっと変だった。
彼女に触れられるだけで、身体中がぞくぞくする。
「それ、誘ってくれてるってことでいい?」
「……そういうの、聞かないで。結衣さんの、好きにしていいから」
こんな会話、ただのじゃれ合いだ。意味なんてない。
だって、結衣さんだってもうわかっているはずだ。私がただ、「したい」って素直に彼女に伝えるのが恥ずかしくて、もじもじしてしまっているだけ。
昨日だってしたのに、これじゃ結衣さんのことばっかり「すけべ」って、言えないかもしれない。
「……それじゃあ、ケーキは、後からにしよっか」
熱い吐息と共に囁かれて、目を瞑る。声色に乗る甘さの中に、欲が見え隠れてしている。
いつからだろう。こんな風に囁かれるだけで、じんとお腹の奥が熱くなってしまうようになったのは。
彼女に触れられると、私は真夏の太陽に晒されたアイスクリームみたいに、いとも簡単にとろけてしまう。
顎を取られて、唇を奪われる。強引に親指で唇を割って、開いた隙間から忍び込んできた柔らかな舌は、ワインのフレーバーがした。
ベッドの周りを装飾しているバルーンアートが、ふわふわと揺れる。
身体に触れる手のひらの熱が、薄い布地から伝わってくる。唇を離すと、視線が合った。
結衣さんは優しく微笑んで、跪くようにして、ドレスから覗く私の膝に口付けた。ストッキング越しだから、ちょっとだけ、くすぐったいような不思議な感覚がする。
結衣さんの手のひらが、ふくらはぎを撫で下ろしていく。そしてさっき買ってもらったばかりのパンプスの踵に、彼女の手が触れた。
最初は左足、その次は右足と、順に脱がされる。なんだかシンデレラにでもなった気分。ガラスの靴ではないけれど、私にとってはそれに近しいほどに価値があるものだ。
ただ靴を脱がされているだけなのに、息が上がる。こんな反応をして、はしたないと思うけれど、どうしようもなく彼女が欲しくなってしまう。
結衣さんが、顔を上げる。私の瞳をじっと見つめて、優しく微笑んだ。
「……なんか、お姫様みたいだね」
「結衣さんが、かわいいドレス、プレゼントしてくれたから」
「ううん。何を着てても、出会った時からずっと、かなたは私のお姫様だよ」
私がお姫様だというのなら、魔法をかけたのは結衣さんだ。結衣さんが私をそうしてくれた。
こんな甘ったるい台詞をためらいなく言うなんて、結衣さんだって人のこと言えないほど、酔ってるのかも。
その手が私の背に回って、ファスナーを下ろされたのがわかった。
「ふふ……そのお姫様に、悪いことしようとしてる人がいる」
自分からねだっておきながら、からかうように言ってみる。すると結衣さんは笑って、私の手の甲に口付けた。
「……仕方ないでしょ? だってそれがお姫様のご要望なんだから」
クリスマスだし、たまにはね。たまにはこんな夜があったって良い。私たちを縛るしがらみも、今だけは全部忘れて浮かれてしまう夜があったとしても、神様だってきっと今日ぐらいは目を瞑ってくれると思う。
アルコールを摂取した時に感じる特有のふわふわとした心地よい感覚に身を任せて、私はそっと目を瞑った。
***
内ももに押し当てられた唇が、優しく皮膚を吸い上げる。きっとそこには昨日付けられたばかりの赤い印がまだ残されているはずなのに、結衣さんは、いつもここに痕を付けたがる。
彼女とセックスする度に増えるその痕は、結衣さんの気分次第で首筋だったり、背中だったり、鎖骨の下だったり、場所はいつもばらばらなんだけど、太ももだけは、いつだって絶対だった。
なんでなのかな。何か意味があるのかな。わからないけれど結衣さんがしたいならと抵抗せずにそのままにする。別に結衣さんの他にこの身体を誰に見せるわけでもないから、好きにしてくれていいと思う。
左の太ももについた赤い印に、ぬるりと舌が這う。時折軽く噛まれたり、こうして舐められたりするから、柔らかで温かくて、弾力のある感触がくすぐったい。でもそれもなんだか気持ちが良かった。
「なんか、結衣さんっていっつも、太ももにばっかり痕……つけますよね」
指摘すると、結衣さんが最後に私の太ももにキスをした後、顔を上げていたずらに笑った。
「あ、バレた?」
「だって、いつもそうだから……」
思い返してみれば、結衣さんっていつも私の太ももを撫でてくるし、触られる頻度がやけに高いと思う。
身体を重ねれば重ねるほどに、少しずつ結衣さんの癖がわかってくる。
例えば結衣さんは本当に余裕がないときは、口数が少なくなるだとか。そういうところ、きっと結衣さんだって知らないんじゃないかな。
でもきっと、それはお互い様で、結衣さんも私の知らない私をたくさん知っている。
むしろ私の身体のことなら多分、私よりもずっと結衣さんの方が詳しいと思う。
優しいところも、たまに意地悪なところも、私は彼女のすべてが好きで、たまらない。
汗ばむ熱い身体を寄せ合う。荒い呼吸と、抑えきれない私の声が、室内に響く。彼女の長い指が、私のすべてを支配する。
逃げようとする身体を押さえつけるように抱きしめられると、呼吸がより早く、浅くなった。
お互いに余裕がないのがわかる。アルコールでぼうっとした思考回路ではもう「気持ちいい」ということしか考えられなくて、立てた爪が食い込むのも構わずにすがりつくようにその背に抱きついた。
形の良い耳に、軽く歯を立てる。
結衣さん、気持ちいい、もっとして。
上擦った声で、荒い呼吸の合間にそう言えば、結衣さんが、なんども「かなた」って切羽詰まったように私の名前を呼んだ。たったそれだけで私は、どうしようもなく胸が苦しく、切なくなる。
「もっと」って、ねだったのは私の方なのに、その長い指に追い詰められると途端に逃げ出したくなってしまう。抱きついた身体からする誘うような甘い香水の匂いに、くらくらする。
もうむり、と小さく零せば、結衣さんがぐっと身体を離して、私の顔を覗き込んだ。熱の籠もった黒い瞳が、私を見下ろしている。
甘えるような声をあげてしまうのを止められない。なんで結衣さんの指って、こんなに気持ちいいのかなぁ。
こんなときになぜか、仕事中に書類をなぞる結衣さんの長い指と、つるりと整えられた丸い爪を思い出してしまって、ぞくぞくと身体が震えた。
仕事中の結衣さんが見せる真剣な眼差しと、今、私を見下ろしているまるで狼みたいな強い視線は、全然違う。
それなのにその印象を結びつけてしまったら、これから先、自分が苦しい思いをするのはわかっている。仕事中だったとしても、こんな甘い夜を、彼女の長い指を見る度に思い出してしまいそう。
私だけに向けられるその視線も、余裕のない表情も、そのすべてが私の胸に深く深く刺さって、抜けそうにない。
ぐっと身体の奥を押し上げられて、腰が浮いた。あぁ、もう無理。じわじわと、生理的な涙があふれてくる。
どうしよう、噛み付きたい。でも、涙でぼやけた視界に映る結衣さんの肩には、昨日私が付けた噛み痕が赤く、残されている。
なんとか我慢しようとしている私に気付いたのか、結衣さんがふっと笑って私の耳元に唇を寄せた。
「かなた。……噛んで、いいよ」
「で、も……」
「いいよ。だって、その方が、気持ちよくなれるでしょ?」
違う、最初はそうじゃなかった。気持ちよくて、怖くて、どうしたらいいのかわからなくて、その肩に歯を立てたのが始まりだった。でも、今は――。
噛み付いたら痛いのなんて知ってる。何度も彼女の肩についた傷を見ては、反省することを今もずっとずっと、繰り返している。
わかっているのにやめられない。我慢できない。だって、結衣さんとするセックスは、いつだって、噛み付きたくなるほど、気持ちが良い。
ギュッと私を抱きしめて、優しさに溢れた声で、「かなた」って名前を呼ばれて……欲求に負けた。
昨日付けたばかりの傷痕に重なるように、歯を立てる。強く噛み付いたせいで、結衣さんが、痛みに呻いた。
ビリビリと、頭の奥がしびれる。痛みに耐えて強張る身体を、私はぎゅっと強く抱きしめて、離さなかった。
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