パラダイム

北沢龍二

パラダイム 

天国篇





◆登場人物


銭谷慎太郎 ・・・・・警視庁警部補 

太刀川龍一 ・・・・・元企業経営者 

小板橋   ・・・・・警視庁巡査部長

石原里美  ・・・・・警視庁巡査部長

軽井澤新太 ・・・・・私立探偵

軽井澤紗千 ・・・・・軽井澤の娘

御園生和洋 ・・・・ 新人探偵

風間正雄  ・・・・・探偵社への依頼者

守谷保   ・・・・・探偵社への依頼者

レイナ   ・・・・・調査員、ハッカー

米田智明  ・・・・・調査員

御園生洋  ・・・・・軽井澤の元上司。報道記者。

江戸島昭二郎・・・・・財界の重鎮 X重会長

赤髪女   ・・・・・元芸能人、アイドル

槇村又兵衛 ・・・・・綾瀬署の老刑事

是永    ・・・・・綾瀬署の警部補

節子    ・・・・・保護司




目次




殺人の七日前 (九月八日)


殺人の六日前 (九月九日)


殺人の五日前 (九月十日)


殺人の四日前 (九月十一日)


殺人の三日前 (九月十二日)


殺人の二日前 (九月十三日)


殺人の前日  (九月十四日)


殺人の当日  (九月十五日)


終章











 序


 石原里美巡査による事件の概要


 令和三年九月一五日夜、東京湾の埋立地で、殺人事件が起きた。

 厳密には海面処分場と呼ばれる、まだ行政の登録も、帰属する管轄区も曖昧な埋立て最先尖の人工島において、である。

 私石原は警視庁捜査一課の警察官であり、この事件の第二番目の発見者である。別件の隠密捜査の最中にとある「情報」があり、捜査一課銭谷警部補と私は死体らに対面した。死体ら、というのはこの殺人事件の被害者が一人ではなかったのである。

 合計三名の死亡が確認された。三つの死体は埋立地に孤独に置かれたドラム缶の中に折り重なっていた。いや厳密には折り畳まれた死体はひとつしかない。残りの二つは生首であった。つまり全身の遺体が一つ、首より上の頭部だけのものが二つ、ドラム缶の中に置かれていた。

 我々より先に、この三つの死体を確認した人間、つまりこの事件の第一発見者がいた。私立探偵の軽井澤新太氏だ。氏はドラム缶の縁(ふち)に両手をかけ、自分の乗ってきた古い軽乗用車のドアも開けっぱなしにして、死体のほうなのか地面なのかわからぬ辺りを見て呆然としていた。言葉を失ったもぬけの殻、という表現がとくに正しかったと思われる。氏の他には、おそらくドラム缶を運搬搬入したと思われる軽トラックが一台、ドラム缶の周辺にはセメントか何かの材料になる砂と砂利の袋が何か作業の途中のような形で落ちていただけである。見渡す限り広大な埋め立ての途中で、少し先まで行くと海面である。闇の中、おそらく海水の場所だけが少し水面らしき光沢がある。

 有り体に言えば、この軽井澤という人物が、殺人の容疑者であるはずだった。というのもこの人工島、本当の名前は令和島、は東京湾にまだ登記もされていない巨大な廃棄物質の塊のようなもので、真っ平の地面と海面処分という名の埋め立て途中の海水面があるだけなのだ。都市計画の都合上、島の形だけ外枠は最初に壁ができていてその区画の中に次々と恐らく東京中のゴミ処理物が投げ捨てられていく、そういう、海が地面に変化変質するような場所である。見渡す限り、人間どころか生き物の気配さえない。

 この令和島への入り口はひとつしかない。つまり、たった今、この私石原と銭谷警部補がやってきた中央防波堤方面からの一本の道だけ。これ以外、島に出入りする術はないのである。草木さえない平べったい埋立地に、探偵の車と、我々の車、そして誰のものかは判らぬ軽トラックと、ドラム缶に入った三つの死体があった、という状態である。

 言い方によっては、この令和の埋立地は密室とも言えたから、我々が死体の現場に辿り着いたときに、すでに先着して呆然と立っていた軽井澤という男が容疑者になるのは当然である。そうして銭谷警部補が役割に準じて話しかけ、問いただしたところ、すんなりと、

「それならば、まず自分を逮捕してください」

と申し立てがあった。このため、早々にこの事件は三人の人間が生首など含め残酷極まる形で亡くなられるという非常に凶悪な殺人事件でありながら、幸いにも容疑者もいち早く逮捕という、短絡的な結末を迎えるものと思われた。

「銭谷警部補、おつかれさまです。まずは、本庁に連絡いたします。」

わたしがそう言った時だった。銭谷警部補が

「ちょっと待ってくれ。」

と少し余所行きの声で言った。そのまま、しばらく無言になったまま容疑者の探偵をじっと見つめ続けていた。私が混乱というか、よくわからない予感をしたのは、死体を見た時よりも、むしろその時からなのである。わたしは埋立地の冷たい海風を頬に受けながら髪の先が唇に絡むのを気にもせず、ただ、呆然としていた。

 銭谷警部補はこの事件を、まず、本庁に報告することを拒否した。殺人の現場で、鑑識を呼ばないなど前代未聞である。ばかりか、この人物を手錠に形だけは嵌めながら、いくつかの質疑をおこないはじめた。その質疑は、容疑を固めて、現行犯逮捕を進める目的とは言い難いものだった。つまり、ちょっと世間話のような感じなのである。




殺人の七日前 (九月八日)



一 霞ヶ関   (銭谷警部補)


 夏の終わりの、夕暮れだった。  

 東京霞ヶ関の警視庁では、憂鬱なやりとりが続いている。

「刑事さん。いや、銭谷警部補。何度も、申し上げてる通りですよ。」

若い参考人は、あえてわたしを名前と肩書きで呼んだ。

「もう少しだけ、捜査にご協力を頂けませんか。太刀川さん。」

「お話ししているとおり、私には、刑事さんが仰っていることが、さっぱりわかりません。何か確実な証拠があればまだ、わかりますが。」

睨み合いは想像よりも体力を使うものだが、参考人太刀川龍一は若者らしくほとんど疲れを見せなかった。聖人君子のような姿勢で、椅子に座ったままである。わたしは厄年で、彼よりもひとまわり以上の歳をとっていた。硬いパイプ椅子が少しキツくなっていた。

「刑事さん、いや、銭谷警部補。そろそろ。」

言葉を、紙に乗せるように、若い男は話した。

「そろそろ、任意のお時間としては十分なのではないでしょうか。」

「……。」

「小市民としてお役に立てることがあればと思ってご協力しているおつもりです。」

わたしは、押し黙った。スーツの上着を脱ぎ、もう一つのパイプ椅子にかけた。アメ横で買ったネクタイを野良犬の首輪のように緩める。

「あなたが私に問うたのは五年以上前の出来事です。今も昔も、おっしゃるような内容に身に覚えがございません。いまさら、どこかで起きた新しい事件に紐付けて何かを言われても無理がありますよ。」

「五年経とうが、話したいことはある。」

「無理があることは、お認めですよね。」

若い男は少し微笑んでみせた。まだ三十一歳。艶のある肌と髪。高価そうな襟付きシャツは、くたびれた身なりに無精髭の刑事とは対照的だ。部下の手前、わたしはそれでも心を奮って、

「太刀川さん。あなたが、多くの関係者と、六本木ヒルズの資産家の一室で時間を共にしたのは事実だ。」

「もうそれ、六年以上前ですよね。そんなことは、忘れましたよ。」

若い男は眼光を強めて、つまり、年長者のわたしを侮蔑してそう言った。

「部屋に出入りした中には薬物の売買に関わったものもある。あなたの会社(パラダイム社)も様々な関わりがあった。その関係者が、今回の金融事件にも絡んでいるわけですから。」

わたしはそう言って深く息を吐いた。金融事件というのは、わたしが作った任意聴取のこじつけだった。

「言葉が違います。私の会社ではなく、私が昔関わった会社ですね。今は関係がない。株も売った。」

「でもあなたが創業して、上場させた会社でもある。」

「株を売ったら終わりですよ。ビジネスをやったことがないと判りにくいかもしれませんが、そういうものなんですがね。まあそれはいい。では、堂々と、今回の不正の嫌疑で私を逮捕すれば良いでしょう。なぜそれをしないのでしょう。」

こじつけて呼んだだけの人間を逮捕など出来るわけがない事を分かって太刀川はそう言った。わたしは聞こえないふりをした。あの太刀川が六階にくるということで、若手にも少しだけ参加を仰いでいるのである。完全なゼロは避けたい。

「失礼ですが、銭谷刑事。論点を誤魔化してまで、あなたが調べたいことは何ですか?」

太刀川龍一。学生時代からウェブ開発で名乗りを上げ、随分の資産と人脈を築いた。その中には犯罪に絡んだ関係者も含まれる。実際にそういう人間の集う六本木、西麻布の疑わしい界隈にも出入りしていたし、メッセージや写真の履歴も数多く残っている。

「余計なお世話かも知れませんが、今回は良かれと思って、不正事件のご協力で参ったのです。久し振りのご連絡でしたからね。ご存知六本木の自宅から、この霞ヶ関は日比谷線で二駅ですし。」

「……。」

「さてと。もう十分、お話しさせていただいたと思います。」

勝ち誇るように太刀川は言った。

 煙草が愛おしい程の想い出になって、わたしを胸板の裏から呼びかけてきた。中毒者のように手元が落ち着かない。脳内の言葉が順序正しく並ばないのがわかる。取調室の禁煙を始めた官吏をわたしは恨んだ。

「あなたは、あの六本木ヒルズ3505号室に、幾度も出入りした。」

「部屋の番号まで思い出せませんよ。」

「防犯カメラでわかってます。」

「それ、何度も聞きましたよ。」

「人間が死んでいる。」

死と言う言葉が出てもなにも変化を見せず、太刀川は、また同じことを聞くのかという表情をして、

「繰り返しですね。私は関係がない。アリバイもある。そもそも動機もない。おっしゃるとおり、事件のあった六本木のあの部屋に、事件とは違う日時に出入りしたことがあったのは若気の至りです。うん。そうとしか表現のしようがないです。他のこじつけについても、説明をし直しますか?」

「沖縄の件はどうですか?あなたの仲間、いや関係する人間の死については?」

「ふふ。沖縄のことを自殺と決めたのは警察ですよね。」

「沖縄県警がね。」

わたしは日常好まない縦割りの言い逃れをした。太刀川龍一はすぐに反論した。

「僕ら小市民には県警も警視庁も一緒です。そもそも警察組織が結論づけたのですよね?あなたはどこの組織の権限でその結論とは違う話をしてるのですか?こうやって蒸し返すのは組織として許された見解ですか?」

 幾度かの過去と全く同じ言葉だった。わたしはニコチンのない、わびしい室内の空気を吸い込む。しばらくわたしが次の言葉を出せないでいるので、太刀川の方から切り出した。

「刑事さん。いや、銭谷警部補。自分はもうああいうインターネットのような世界の仕事を辞めたんです。わかりますよね。」

「……。」

「世の中、いろんな仕事があります。刑事さんも仕事を選んだ方がいいのではないですか?」

「それはあなたに関係はない。」

「時間は有限だということを申し上げたいんですよ。」

「……。今までお聞きしませんでしたが、あなたはパラダイムの株式を売却後多くの現金を得ましたね。それらのお金はどうされていますか?」

「金は、慈善に使ってるのです。」

「……。」

「嘘では無いですよ。口座でもなんでも調べればいい。今時は銀行口座は電子取引で筒抜けでしょう。」

「調べ済みだ。金の動きは殆どない。」

「そうですか。ではそれだけってことでしょうね。どうせ他のことも調べてるだろうからあえて言いますが、サイバー空間でいくら調べても無駄ですよ。」

「無駄?」

「ご存知の通り、私のアカウントはもうこの世にないんですよ。」

「アカウントがない、のは知っている。以前のようにメディアに出るのをやめたようだな。」

「銭谷警部補。あなたの昭和風情より、今の私はアナログですよ。目の前の、手触りのある仕事だけを選んでいるんです。サイバー空間で独断的に捜査している警察さんにとってはやりづらいかもですがね。」

「慈善というのは?」

「様々なことに研究したり投資したりするんですよ。最近では脳死関係の文献を見たり実際に行ったりしています。」

「脳死関係?」

「ええ。ご存じないですか?人間がどこまで生きていて、どこからが死ぬかと言う話です。まさに小宇宙です。」

「慈善活動のイメージが湧かないが」

「研究に近いですよ。人間の脳というのは不思議で、体が全く動かなくなっても脳だけで生きていることがあるのです。まさに、ね。まあ、あなたには縁のないことかもしれませんが、生きているっていうことそのものを考え直したくなったりはしませんか。」

「意味がわからないな。」

「ははは。生きていることと、死んでいることの違いを整理するってことかもしれないですね。そういう哲学とか、ご興味はなさそうですが、意外と面白いものですよ。」

太刀川龍一はその日初めて、楽しそうな表情をした。



二 西馬込の男 (軽井澤新太)


 風間と名乗る男の部屋は、西馬込の駅から徒歩十五分ほどの、環状七号線道路から二本ほど裏手にございました。マンションと聞いていましたが、この古い建物はアパートでございましょう。エントランスなどもなく、風間と名乗る男の部屋の玄関のまえにすぐにたどり着きました。ふと、生腐い悪臭が漂った気がしましたが、わたくしは、古い昭和風のプラスチックに音符がある呼び鈴を押してその男が出るのを待ちました。

 申し遅れました。

 わたくしは、軽井澤新太、かるいざわ、あらた、と申します。私立探偵をしております。

 不景気の時代でありますが、なんとか探偵の仕事で生活をし、一昨年、贅沢にも新入社員を一名、雇用しました関係で、社長としては、最低限、新規の顧客を探さねばならざる日々でございまして、この度Google社の出している広告システムというものを登録してみたのでございます。そのGoogleで頂いた最初の顧客が、この人物でした。

「WEBで見たのだが。」

そのような電話があり、わたくしは事務所のある青山墓地から遥々、この西馬込まで参ったのでございます。通常は、港区の近隣の顧客が殆どでございますから、西馬込というと遥か遠くに感じました。とはいえ、収益拡大のために新規顧客は大切でございます。

 ドアが開いて、風間正男、と名乗る男が立っていました。四十代後半の人間で、胡麻塩の坊主頭で身長は小さい印象です。手足に安易で安物じみた短絡的な刺青が見え隠れしましたが、それらはこの男の景気の悪さを一層浮き彫りにする事の方にばかり、役立っておりました。

 この男、風間正雄は、どこを切り取っても不景気な印象がありました。会話をしていても、視線が定まらないようで、時折、強い睨みをこちらに向けたり、かと思えば、視線恐怖のように目を逸らし何かを隠すような、不穏な性質がありました。神経質のようにしながら、それでいて他者には無神経を装うような矛盾があり、不健康に日焼けした肌と相まって、不気味な虚しさを漂わせておりました。

「調査の内容を、お聞かせ願えればと」

「そこに立ったままで話すか?」

「といいますと」

「狭い部屋だが、中での方がいい。少し臭うだろう?」

狭い玄関とも言えぬ入り口は、侘しい彼の要素のひとつのようでした。色彩も虚しく、独房の入り口で立っているような印象でありました。

「そう言われますと、はい。何か生臭いような。」

「あんたの足元をさっき掃除したんだ」

「掃除?」

「そこに、猫の死体があってね。」


 部屋は典型的な一人暮らしの様子でした。物はないのに、ゴミばかり目立つ男の部屋に、わたくしは少し小さく、吐き気がいたしました。果たしてこのような男が数十万円もする探偵調査の前金を支払うものか、疑念が生じます。

「ということで、俺は、命がやばいんだよ」

男は何とも言えない目つきでわたくしに言いました。

「お命を、ですか?、つまり、命を狙われてる?」

「そうだ。」

「ちなみに、何か、理由は?」

「まあ、いろいろあるさ。男たるものな。」

具合の薄い言葉でした。その間もまた視線が定まらず落ち着きが有りません。

「脅迫。すでに脅しがあったんだと、言っただろう。」

「おどし?ああ。猫のですね。」

この風間という男に漫然と漂う悪臭のようなものが猫の死体の喩えと相まって、室内に横溢致します。また、個人的な感想として、命を狙われているならば、Googleで繋がった探偵よりも余程、警察の方が役に立つようにも思われます。わたくしは、そろそろ簡単に前金を頂かなければ、そうでなければ直ぐにでも去らねばと思い、話の切り口を整理しようとしました。しかし、なんと申しましょう。五十代近い、不審な男、と言うものは実は二人きりで向き合うと本当に恐ろしいものなのです。何をするか判らぬ化け物の恐怖とも言えます。男には、狂気が漂うようにも思われなかなか金の話を言い出せぬ自分がおりました。

「一体、あのう、どういう理由でそんなことになったのでございましょう。命を狙われ、猫の死体を届けられる、その、心当たりはございますか?」

「ある。」

風間と名乗る男は、ボールペンと小さなメモのような物を取り出して、それを開いたり閉じたりを繰り返しはじめました。メモを取るというのは、この手の人物に於いては少し違和感がございますが、風間はメモが好きなようでした。

「心当たりが、ありますか。」

「ああ。ただ、いくつかある。それを調べて欲しい。」

「いくつか、というのはどういうことでしょう。」

「それは訳あって、言えない。」

「言えない、のですか?」

「ああ。そこをうまくやってもらいたいんだ」

言えないことばかりで、警察にも行けないというあたりが、不審を増長致します。その間も、男は視線を定めきれず、言い訳のように小さなメモ帳をいじっています。

「この事務所は、あんたと、探偵は二人か」

「そうですね」

「もうひとりが、これはなんて読むのだ」

「みそのう、ですか?御園生と書いて」

「ああ、みそのうか。そう読むのか」

「ええ。新人でサポートをしてもらっています」

「新人、というと若いのか」

「はい。担当は、社長であるわたくしがお受けいたします。」

「そうか。」

この間の会話も視線はやはり定まらずでしたが、(実はこの会話は深くこの事件に関わる会話なのですがここでは割愛します)わたくしが少し、訝しむ評定をすると、

「まあとにかく、とある人間を特定してくれればそれでいい。簡単なことだろう?前金で二十万円、見つけ次第、百万円支払おう。」

男はそう言いました。

 男がカネを払う意志はあるということで、わたくしはさすがに、もう少し詳しく説明をもらおうと質問をしました。ずいぶんと判りにくい説明を繰り返したのですが、論理の曖昧な彼の言葉を要約いたしますと、まず第一に、猫の死体を送りつけたりしているその首謀者を見つけ出してほしいと言うのでした。なんでもその首謀者から脅迫じみた葉書が送られてきておりその葉書を見れば大体のことはわかるというのが彼の主張でした。

「その、葉書の方は、その、どんな、葉書でしょうか?」

「これだよ」

そういうと、風間はメモの間から抜き出すようにして、小さなちゃぶ台に、一枚の葉書を置きました。

「拝見してもよろしいでしょうか?」

「ああ」

「触ってよろしいですか?」

「ああ」

その葉書の表側には風間正雄という宛名と、この西馬込の住所が手書きで書いてあります。裏には、アルファベットで真ん中に、大きくも小さくもなく、


W


とだけあります。こちらも手書きです。大人の文字とも子供のものとも読めるようなぼんやりとした筆跡で、片面に、風間正男という宛名と住所、そして、裏面には、アルファベットの文字がひとつだけ、でございます。

「これは、いったい、なんですか?」

「言っただろう。この葉書を出したやつを探して欲しい。」

「この、葉書の差出人ですか。」

もちろん、この怪しい葉書には、差出人の記載などはある訳がございません。

「このハガキを送ってきたやつが、猫の死体を置いたと思っていいんだ。」

わたくしは、ちょっと理解が追いつきませんでした。

「つまり、この葉書は、何かの意味があるのですね?Wという文字も含めて。」

「もちろんだ」

「その意味なるものは、差出人と、風間さまは、理解できるという趣旨でしょうか?Wという、文字ひとつで命まで狙われているという結論はどうやって出るものか、わたくしにはさっぱり飲み込めず」

「うるせえな。」

「うるせえ?」

「いや、つまりその、色々こちらも事情があるってことだ」

勘に触ったのか、急に、風間という男の声は、荒々しくなりました。人格の分裂したような不協和が有りました。

「わたくしどもは、調査にあたり、高度な守秘義務(NDA)を契約させて頂きます。お名前はもちろん、どんな情報も許可なく世には出しません。罰則もあります。なので、一つ一つの材料を正確にいただいた方が、確実に、進捗が早いのです。」

「うるせえよ。」

「し、しかし」

「うるせえのは、うるせえんだよ」

明らかに威を付けた言葉が吐かれました。

「で、見つけられるのか?」

灰皿には山盛りの吸い殻が所狭しと刺さっておりました。風間はそれでも更に続け様にタバコを咥え込みながら、落ち着かない表情でこちらを睨み直しました。

 風間正男という人間は明らかに、通常の市民感覚とは離れていると言えるでしょう。そもそも、殺人を云々するならまず、警察に行けばいいのですから。何も高い金を出して探偵を雇う必要など無いのです。逆に言えば、警察様を拒否したい何らかの理由があると言うことなのでしょう。一般市民には、想像しづらいことです。

 しかし、風間氏が一般市民ではないからと言って、いわゆる典型的な反社会組織に所属をする種類の人間かというと、わたくしの見立てではそれも違っているのです。

 わたくしの見立てで恐縮ですが、彼、つまりいま、煙草の吸い殻の向こう側にふんぞり返るこの風間という男は、犯罪組織という人間社会の中に所属できるような気が一切しないのです。実は、犯罪組織の人間には、ある種の艶があります。いやむしろその色艶こそが暴力組織の真髄でしょう。善悪を超越した世界で、とある人間が、とある人間に魅了されるが故に犯罪組織は存在します。その艶がなければそれは犯罪組織ではなくただの犯罪者でしかない。風間には一切その艶は御座いませんでした。

「ところで、風間様お支払いの方は?」

「もちろん、大丈夫だ。」

財布を見せると、そこには札束は用意されてはおりました。

「では、二十万円のほうを」

「は?ちょっと待てよ。捜査の方針も、説明もなく、手付を用意では厳しいぜ?」

「いえ、前金というのは」

「あんたが二十万円もらって、何もしないままという保証はどこにある?俺としても、大事な個人情報を話してるんだ。それなりに対応してもらわねば困るぜ。」

「しかし」

「困るぜ。まずは一回持ち帰って、捜査の方針でもなんでも考えてからが筋だろう。」

筋骨隆々とした人間に殴られるような恐怖があったりはしません。ただ、風間の表情の中にある狂気とでも言いましょうか。組織も拾わぬような五十過ぎの男の、恐怖とも言いましょうか。そのせいかわたくしは次の言葉が見つからず、しばらく言葉を失っておりました。

 その様子を見てか、風間はじっとわたくしを見つめ、

「あんたが、軽井澤さんでいいんだよな。ミソノウさんでなく」

「はい。新人ではなく、わたくしが本件は担当すると申しましたとおりです。」

そう繰り返しながら、こんな案件は、御園生くんに回せないと思っていました。

「そうか。それとさ、あんたは、なんで探偵になったんだい?」

「わたくしがでしょうか?」

「ああ。軽井澤探偵通信社、とかいうのをなぜ作ったのかなと。」

「それは、どういう意味でしょうか?」

「勝手な推察だがずっと探偵だったわけではないんだろう。何か事情があったりするのかということだ。」

風間は少し気になる言葉を吐きながら私を見ました。

「とくにございませんよ。」

「そうかな。」

「……。」

「まあ深い意味はない。とにかく、金は払うから、その調査の方向性だけでも出してくれないか?」

男は、有無を言わせぬ、という空気で、不気味なその葉書をわたくしに渡すと、煙草をゆっくりと燻らせました。西馬込の狭いアパートの一室は、まるで取調室のような拷問的な空間になっておりました。

 わたくしは狭い一室で、坊主頭の色黒い風間という男を眺めながら、Googleの広告というのが連れてくる顧客は、今後もこんなものばかりなのかと暗鬱な気持ちに落ちておりました。



★「★ 補足メモ



三 説明難   (銭谷警部補)


 代わり映えしない、いつもの夜が訪れようとしていた。

「銭谷警部補は、なぜ、いつまでも彼を追うのですか?」

太刀川龍一の帰ったあとになって、まだ二十代の小板橋健二巡査部長がわたしに向かって、そう言った。彼の更に下の、石原里美巡査が、会議室内のコップを片付けていた。小板橋は今時の若者らしい生地仕立ての良いスーツを着ていた。新人の石原は、就職活動で見るようなスーツだった。確か彼女は昨年異動で捜査一課にきたばかりで、今回の太刀川の対応に小板橋が参加させてくれていた。

「何故か。その理由が気になるか?」

「ええ。なにか、百戦錬磨の銭谷さん的なこだわりなどがあるのかなと。」

「うむ。どうだろうな。」

百戦錬磨、というのは小板橋らしい言葉の使い方だった。本当の尊敬があるならそういう言葉は使わない。わたしは返答を探したが、いいものが思い浮かばなかった。あの太刀川龍一が警視庁の六階に来ると言って期待していたのだろう。にも関わらず、小板橋も石原も、時間を無駄にしたのは事実だ。

「まあ、勘でしかないな。」

「勘ですか。」

「ああ。刑事の直感だが。」

「なるほど。勘ですね。」

 小板橋が得意のパソコンを叩く。わたしと目を合わせるより、自分の側の画面を見ながらの会話だった。石原里美がわたしと小板橋の二人の間のお茶を取り替えた。

「太刀川は、会社を辞めたというけど、その手前で、明らかに何らかの意図的な動きがあった。」

わたしは、そう静かに諭すように話した。

「まあ、そうでしょうね。それは、そう思います。」

「六本木事件が起きた利害関係の中にいたのは確かだ。事件性は両論あるにせよ、関連して死んでいる人間もほかにある。」

「本庁では事件性はないと判断したということですが。」

「……まあいい。つまりその死の点を繋ぐ場所に常に、太刀川龍一という男がいるのは、事実だ。」

「なるほど。」

小板橋はパソコンの画面を見つめながら相槌を打った。わたしは見るべきパソコンがない。

「周辺人脈ともいうし、関係者とも言えるかもしれない。だが、そういう人間の関係は、時間がたった程度で消えたりはしない。」

わたしが強めにそういうと、小板橋は理解してますよという表情で、

「パラダイム社、を辞めるまでは、ある程度そうだったかもしれませんね。」

と言った。

「そうだろうか。」

「もうすでに、太刀川元社長は株も売ってますよね。自分が支配も出来ない会社になっている。」

「うむ。それはそうなのだが。が、しかし、古いものの見方かも知れないが」

会話を始めながら、やはりと思った。この小板橋と言う男は、今日の取り調べで、直ぐにでも何か成果が出ることを期待して参加しただけだろう。太刀川が何かを吐いたならその目撃者になるだけで、大手柄なのだ。そうでもない限り、諸問題で停職勧告を受けたという噂のわたしに付き合う意味がないはずだ。

 わたしは、以前なら怒鳴るところを押さえた。こういう場面での議論や会話が得意なら、この若い小板橋巡査とも、適切なチームを組めたかもしれないが、わたしにはそういう宗教の教祖のような言葉の能力は無い。

 実はわたしには誰が告発したのかは不明だがパワハラ懸念の話が降りてきている。上司である捜査一家長からは言動に気をつけておけと言われたばかりだ。ハラスメントでの降格の沙汰が出るのは、もうそろそろなのかも知れない。そんな噂が回っていれば敏感な若者には、どこかに飛んでいく先輩への敬意が薄れても当然だろう。

「銭谷警部補」

突然、石原里美が差し込んだ。

「申し訳ございません。こちら会議室が、5分ほどで、次の予約が入るようですので、お話し長引くようであればとなりの4番に移動されますか。」

「あ、僕はもう大丈夫ですよ。ここまでで大丈夫。」

わたしの意向は確認はせぬまま、小板橋はそう言いながら、パソコンを閉じ始めた。やはり、わたしの人事の噂が、一定の効果を出しているのが態度の違いに現れている。

「しかしだな」

そう言って小板橋をたしなめる言葉を集めようとした時、もうすでに、かれは席を立って去ったあとだった その言いかけの言葉を拾わさせられたように、石原里美がわたしを見つめていた。

「あ、ああ」

ふと見ると、茶を片付けるのではなくわざわざもう一度、淹れ直してくれたのだ。

「ありがとう。」

「いえ。」

「せっかくだからいただこう。」

既に、小板橋は大した挨拶もなく去っていた。石原は配慮がちに扉を閉じた。

 太刀川にしろ、小板橋にしろ、わたしの周りには最近、自分の年齢と合わない、理解の及ばないものが溢れている。捜査一課ではまあまあの実績を積み重ねてきたつもりだけれども、今の時代、人は過去を見たりはしない。現在、もしくは今後の肩書きだけが全てになる。

 わたしはタバコを吸う夢を見るようにして目を閉じた。もう少し汚い言葉が、脳裏に並んでいたが、辛うじてそれらは唇の手前で立ち止まっていた。そうしながら、わたしは、元々この捜査をわたしと組んでいた捜査二課のとある同僚のことを思い出していた。彼が辞めてなければ、こんなことにはならなかったはずだ、と、ふと思った。やつは、どちらかといえば、今の小板橋のようなやつを見て、唾を吐く種類の刑事であった。


四 地下鉄   (太刀川龍一)



 事情聴取の協力を終え、地下鉄霞ヶ関駅の階段を降りるとき、太刀川龍一は、桜田門に向けて振り返った。

 皇居の手前に屹立する警視庁ビルが見える。

 日本の警察、検察機構には、灰色を黒にする力があるらしい。それはどこの法文にも書いていない。けれども自分に言い聞かせるべき厳しい事実として、太刀川はそう思っている。時の総理大臣さえ、ややもすれば不思議な理屈で捕まえることが出来る。そういう力をあのビルの周辺に巣食う人間たちは持っている。

 権力は権力の顔をしていない時が最も逞しいと思う。目に見えているものは倒されることがあるけども、目に見えないものは倒す方法がないからだ。

 だから太刀川は、定期的に警察や検察、政治家などの様子も伺うようにしている。あの執拗な銭谷警部補もたまにはこうやって定点観測してもいいと思うし、警察の検察だのに詳しい人間や政治家と共に食事をするのも、決して無駄なことではないと割り切っている。たとえばああいう真実を追求したがる刑事に、むしろ自ら顔を見せ、諦めさせるくらいが良いし、向こうの事情が何か変わっていればそれが顔に出てくるに違いない。金融事件の屁理屈など理由は何でもいいのである。

 太刀川はゆっくりと呼吸をしながら霞ヶ関駅の階段を降りていった。

 多くの勤め人が、恐ろしいほど無言に歩みを続けていた。丸の内線、千代田線、日比谷線が乗り入れている霞ヶ関は、日本で最も国家公務員の官僚が利用する駅だろう。謂わば国を動かす駅と言える。 

 しかし、霞ヶ関駅の空気に、未来への夢や興奮、労働者の熱気のようなものはない。暗く押し黙った空気だけがある。これが官僚の体臭なのか、別の時代的な理由なのかは判らない。

 太刀川は、売店で最近、趣味になっている紙の新聞を買うと、日比谷線のホームの椅子に座った。

 そうして腕時計を見た。

 中目黒行きがすぐに滑り込んできたが、立ち上がらなかった。

 中目黒行きのドアが閉まり、彼だけを残して車両が去ると、一瞬ホームは人が消えた。

 変わらぬ姿勢で、買ったばかりの新聞を手に取りゆっくりとめくっていく。

(霞ヶ関駅、か。)

 太刀川は回想する。

 およそ二十五年以上前に、この駅を通過する、日比谷線、千代田線、丸の内線全てに、国家を転覆させる目的で猛毒を準備し、同じ日本人を、無差別で殺そうとした事件があった。ビニールに猛毒の液体を入れただけの袋を持ち合わせた人間が、単純に人間を殺すために乗車していた。具体的な殺人の対象があったわけではない。知りもしない、もしくは直接には憎む気持ちもない、同じ日本人という人間の命を奪うために猛毒を持って朝の満員電車にその実行犯は乗車していた。同じ日本人を誰でもいいから殺そうとした。できれば、官僚を殺そうとした。正確には、霞ヶ関に日本の警視庁や官公庁があるからーーー官僚が最も利用する駅だからーーーX地点として狙ったのだが、被害にあったのは殆どなんの罪もない、一般市民ばかりだった。

 地下鉄サリン事件と呼ばれたその事件は、既に警察にとっては解決済みのことで、裁判も、死刑の執行もほとんど終わっている。

 太刀川は駅をもう一度眺めた。


(何故あんなことが起きたのか?)


 犯人よりも、なぜ事件が起きたのか、のほうに太刀川は興味がある。その答えはどこにも説明されぬままだという現実に興味がある。反省も回顧もないまま過ぎたのが、事件が起きた理由を象徴しているのかもしれない。

 もう一度時計を見る。

 立ち上がり、新聞を畳むと、次に来た中目黒行きに乗った。

 日比谷線の車内はありがちな混雑だった。が、乗客はそのほとんどが、耳に白や黒のイヤホンをし、手のひらの画面(スマホ)を見つめていた。誰も画面以外の現実には見向きもしなかった。誰かに後ろ指刺される心配もなく、太刀川は文庫の本をポケットから取り出して、目を落とした。文庫本は、夏目漱石の「草枕」である。

 そうして、それまでとは違う、別の表情で、あたりをほんの一瞬だけ見回した。

 万が一、銭谷警部補がこの時のこの太刀川の表情を直視していたら、若手刑事のつまらない反論を一蹴していたかもしれない。黙って尾行でもしろと命令できたかも知れない。

 太刀川のその目は明らかに「何かを探している」目だった。銭谷刑事ならば、気がついたかもしれない。

 太刀川龍一。

 三十一歳。

 東京大学工学部機械工学科に在学中、プログラマとして関わった事業を中心にパラダイム社を設立。その後、当時最年少での東証一部上場を果たした。上場後はメディアの買収を仕掛けるなど大胆な経営方針で社会を賑わせたが、その後、株式資産の全てを売却し、また、全ての役職を辞した。そればかりか、警視庁の調査であった通り、一切のインターネット上のアカウントは放棄されているため、ネット上でも消えてしまったかのような印象になっている。

 



五 ビデオ会議 (御園生探偵)


 御園生という自分の名前のせいで、まあまあ一度で覚えられるかもしれない。軽井澤探偵通信社の唯一の所員で、軽井澤社長の右腕を自認している。

 その日、例によって、VideoCallが始まっていた。新しく獲得した顧客の件である。

 通常、我が探偵通信社の業務を始める場合、軽井澤社長が、所員である自分と、必要なフリーランス・メンバーを集めて、一斉業務説明(オリエンテーション)と呼ばれる打ち合わせをおこなう。

 今回は、まずはフリーランスの方は、レイナさんだけにしての会議を設定した。この案件は、僕が提案したGoogle広告で得た新しい顧客だった。

「依頼者は、風間正男、と言います。」

依頼者にサマをつけ忘れたまま、軽井澤さんは、淡々と話をした。男の家の玄関に、猫の死体が置かれていた。とある葉書を元に、その首謀者を探している。おそらくその猫の死体を置いた首謀者は風間と言う男を殺そうとしている。なぜか警察には行かない。その他、西馬込の狭いアパートや、男の胡麻塩の坊主頭や、汚いけど言葉が溢れたメモ帳や、冴えない身なりについても淡々と話をした。

「殺害予告が来たというのに、警察に行かない、ってことですか?」

レイナさんが言った。

「変な人ですね。」

冴えのない軽井澤さんに反して、杉や檜を斧で割るような、心地よい声が電波越しで響く。レイナさんの声はいつ聞いても、声優のように優雅且つ繊細な、響きがある。残念ながら、僕はその声から想像される彼女の美しい顔を見たことは一度もないのだが。

 一時期、美しい大学生風の女性が画面で少し不自然に動いていたが、それは、DeepFakeと呼ばれる画像で作り出された、レイナさんの偽顔だったのを知った。もう仕事を始めて二年ほども経つのにも関わらず、レイナさんの私生活のことはほとんど知らない。事実として彼女は恐ろしいほどに有能なハッカーで、しかしながらハックだけでなく、状況の把握や論理の整理などについてもすこぶる優秀だ。軽井澤社長の説明を、一で十を理解してしまうせいで、しばしば、自分がついていけないこともある。

「警察が、嫌いだってことですよね。」

レイナさんはまとめるようにそう言った。

「そうですね。風間は、そもそも警察という方角に拒否感があるようです。また、職業についても、隠しています。」

「なるほど。」

「ええと、個人情報は、御園生くんから、お願いしますね。」

「はい。大田区西馬込の++++、携帯電話番号が080ーXXXX-YYYY、本名は、風間正男、です。」

実際に下の名前まで読むと少し古びた名前だな、と思った。最終的にはこの直感は当たったことになるのだが、もちろんその時点で気づくことはなかった。

 僕が風間の情報を伝えているその最中から、カタカタカタカタとレイナさんの画面で静かなtypingの音がしている。仕事の早い彼女はすでに此方の話を聞きながらリサーチを用意しはじめているのだろう。電話番号さえ入れればある程度の周辺データベースを開示できるように様々な人間のデータをすでに蒐集が済んでいると言われている。

「情報としては、いまのところ、この程度ですかね。」

レイナさんの声がVideoCallに響いた。

「はい。」

「風間正男への脅迫テキストは、メールやSNSなどではなく、physical(物質的)な手紙です。」

「でしょうね。」

レイナさんの画面には、今は女子大生風のDeepFakeではなく、彼女の好きなドラゴンの刺青模様(トライバル)が、表示されている。僕はこの刺青ロゴも、Fakeの顔面と同じように、なんとなく愛おしく感じたりもする。このまま、物理的(physical)に永遠に出会わないかもしれないし、もしかしたら彼女は自分の近所に棲んでいて、どこかの街路ですれ違っているかもしれない、というような、おかしな詩的なことを何故か考えてしまったりする。

「整理すると、風間という男は、警察には行きたくない。」

レイナさんは話をまとめ直した。

「はい。」

「しかし、猫の死体で困っている。自分への殺人予告だと。」

「そうです。」

「その殺人予告はSNSやメールではなく、葉書で、まだその葉書を見せてももらえていないですが、差出人を調べて欲しい、と。当然、差出人は書いていないと謂うことですよね。」

「はい。」

「ずいぶん、雲を掴むような話ですね、ふふふ。」

レイナさんはそう言って笑った、と思う。

「すいません。」

「いえ。軽井澤さんにはいつもお世話になっていますから。ちなみに、私が調べる優先は、葉書の出し主ですか?それとも風間という男ですか?それとも殺人的なものごとが起きる理由ですか?」

「葉書の出し主ですね。ただ風間という男の周辺も調べたいです。」

「承知いたしました大体わかりましたので、近日中に折り返させていただきますね。」

「ありがとうございます。」

「いえ。こちらこそ。」

そうレイナさんは言って、テレビ電話の画面から退出していった。その最後の声は、またいつものように悲しいほどに美しく僕に響いた。デジタル音声とは思えない温もりのまま、スピーカーではなく空から心に落ちてくるような気がした。

 いつもどおり、会議は短く終わった。要点がわかれば、もう質問する時間も要らないのである。

 軽井澤さんはなんとなく、曖昧な表情をしていた。僕はなぜか、従来とは違う新収益を祝おうという気持ちにはならず、少しの不安を予感していた。

 


六 著名ハッカー(レイナ)


 十三個目のピアスは初めて、左耳にした。

 最近はずっと金色に染め続けている髪に上品な銀色がポツンとした。九個の様々な形が並ぶ右耳とは別の印象があった。初めての左耳だった。

 遠くで物音がして、方角がわからないときがある。多分、右と左で聴力のバランスが違うのかもしれないという「その人」の言葉がいつもレイナの頭を通り過ぎる。空間把握って、小学校では教わらなかったけど、興味があった。興味を持ったことは、学校の外側の場所で自分で探した。音響とか空間の本を読んだ。用語がわからないので手当たり次第に調べた。既にネットで検索することで学校の先生に聞く数十倍の速度で、回答がわかったし、ある程度理解してから、さらに調べるために、数学や物理の本を読んだ。ネットである程度読めるし、生の本で読むこともある。

 理系の本は、探偵小説みたいに、謎々を辿って推理しながら読んだら、意外と面白かった。「その人」が勧めてくれた本は、理系の本が多かったのだと思う。自分がパソコンに詳しくなったのはその人のおかげなのに、その人は、そのことに気がついていなかったかもしれない。方程式の謎解きは、名探偵の推理なんかよりも余程色気があった。思えば二十歳の頃の独房で、誰ともつながりもなく、やることがなかったあの頃、とにかく暇だった。あのとき、本を読むのが幸せだったことが、今の自分を作っている。

 会議が終わるとレイナは、トレーラーをまた進めた。

 マンションを解約して、大型トレーラーのリースを借りて、そこに荷物の一切を運び込んだ。自宅が移動するのは楽しかった。東京からまっすぐ九十九里に出て、そのまま太平洋沿いを北へと向かった。本当はこのまま北上して青森まで行きたいと思っていたのだけども、福島を海沿いで走れないという通行止めがあった。レイナはそれをそこまできて、初めて知った。その理由をどうこう言いたくはない。レイナは一回茨城からまた南に向かい直すことにした。日本列島の海岸線を逆に回り直そう。そうして一周して帰ってくる頃には福島の海も走れるのかも知れない。即座にそういう整理をした。

 大型車を運転する。

 2トンもあると、ハンドルも重くなる。大きさ。大きいという感覚。トロイの木馬。マウント富士。おおきさ、って、憧れなんだと思う。超高層ビルが便利だからあんなにたくさん増えるんじゃないと思う。きっとシロナガスクジラとか恐竜とおなじ、変な生命のプログラムが内包されていて、遺伝子に巨大化への憧憬構造(あこがれ)がきっとある。それってビッグバンで始まった宇宙が広がっていくってことと、どこかで繋がってると、決めつけている。小惑星より、木星がかっこいい、みたいなこと。ビックバンが逆で、小さくなっていくことで始まったのなら、憧れの方向はまた違っていたかもしれない、とレイナは福島の海を背にしてから、思った。


 さて、風間という変な男の調査、だ、とレイナは頭を整理した。 

 携帯電話の番号から入っていくとする。SMS でもLINEでもなんでもいい。風間を宛先に、なんらかの連絡(Attack)をとって、ダミーファイルを送っておく。その保存が切れる直前くらいに少しだけ、ちいさなひとつの動作をするようになっているダミーのファイルを。C(コンシューマー)向けサービスをしていたのに、そろそろ、サービスを終えそうなアプリ経由が理想だ。沢山見張ってれば、レイナには大体わかる。アプリの会社のエンジニアが転職とかをし始めるときに、微妙な揺らぎがくる。その頃から、隙が出始める。悪意のある誰かが、暗証番号やファイルの管理、戸締りを少しだけ忘れて、会社を辞めたりする。そう言う「顔も知らない仲間」がエンジニアにはたくさん溢れているのをホワイトカラーの人々は知らない。

 エンジニアにとって、愛を込めて開発したのに、経営が仕上げてくれなかった仕事(プロダクト)の恨めしさって言ったら無い。だったら、最後に、会社を辞める時に、法的に問題ない程度の揺らぎを残して、消えていくくらい許されると誰もが思う。そういう情報が市場に出ていく。それらを利用すれば、やり方は沢山、無限にあることをレイナは利用している。

 ということで、少しだけ設定をすれば、機械がある程度、すすめてくれる。

 もう少し走ったところで、何処か海沿いに停めよう。

 夏の終わりの無人の海。駐車場は泊め放題だ。

 十三個目のピアスの穴に嵌めた石を人差し指と親指で撫でながら、レイナは巨大なトレーラーをゆっくりと走らせていた。





 

七 猫の臭い  (赤髪女)



 指に残る、猫の死体の匂いが気になっている。 

 赤い髪の女は、キャベツの腐った気持ちで、公園のベンチに座っていた。

 GPSの記録によると、風間と名乗る男は、最近ずっと家にいることが多い。だから、夜寝静まった後に「もの」を届けるのにはちょうどよい。家に帰ってきて発見するより、寝て起きて、見つける方がよほど恐怖があるからだ。そういう細かい命令を「指示者」はしてくる。

 ヘリウムガスを吸った声の「指示者」の命令に従い、淡々と「仕事」をこなしていく。今回の一連の仕事には少し不満はあるが、金が悪くないから、やむを得ない、と赤髪女は考えている。以前より、金額が増えているのだ。

 一番の不満は、猫の死んだ臭いが指先から取れないことくらいだ。

 指先にこびりついている。

 今回、生まれて初めて猫について、いろいろなことを考えさせられた。思っていたよりも、死んだ猫は重かった。暖かく体温のある生き物が、固く冷たくなると重さだけが残るからだろうか。そして実際に野良猫でもそれを殺すというのは手間がかかった。

 赤髪女は腕の注射跡をいくつか撫でた。

 中毒的な走馬灯(フラッシュバック)が回るのを感じている

(クスリがほしい)

 新しい仕事の最初の報酬は素晴らしかった。猫の臭いが消えないこと以外は大体悪くない。

 だが、もう少し稼がねばならない。

(クスリがほしい)

 稼げばいい。それだけだ。

 ペットボトルを持っていた。

 すべてのやり方はインターネットに載っている。

 なんでも載っているのだ。

 準備はできている。前回と同じやり方だ。

 多摩川沿い、土手の近くの公園は風が強かった。赤髪女はベンチにUberの四角いランドセルを置いた。この箱に、死んだ猫を前回と同じようにいれて、チャックを閉めればいい。

 朝からずっといくつもの公園を回ったけど、丸一日かかったと思う。猫を見つけたのは陽が暮れて街灯が灯った頃だった。ペットボトルから、餌を投げた。野良猫は最初は、訝しがっていたが、餌の匂いなどが良かったのか、それとも空腹が酷かったのか、ある一瞬から、堰を切ったようにその小さな団子にしゃぶりついた。

 女は野良猫が間違いなく、餌を食べ飲み込んだのを見ると、一瞬周りを見回した。そうして、五、六分ほど、何もなかったかのように目を閉じ、眠るふりをした。

 目を開いた頃「現場」から少し離れたあたりに、先ほどの野良猫がぐったりと横たわっていた。近づいて確かめた。苦悶の表情をさせ、猛獣の子孫であることを晒した途中のまま、猫は息絶えていた。やれやれ二匹目だな。でもこれで、こちらが、クスリの禁断症状と戦わずに済む。

 赤髪女は、後片付けでもするように、ビニールの手袋をして、その猫を四角いuberのランドセルの中に入れた。ビニール手袋は猫が収まり次第投げ捨てた。

 思えば、便利なブラックボックスが世の中に登場したものである。核爆弾を背負って目抜き通りを歩いても、誰も偽uberを止めることも出来ないのだから。猫の死体を届けるには、この上ないブラックボックスである。

 赤髪女は公園での仕事を終えた。

 顔を上げ周囲を見回す。用意していた自転車にまたがり、四角いランドセルを背負い公園を去る。環八を越えれば、西馬込だ。先日のアパートは近い。もう一度GPSを確認した。予想通り、男は近所を歩いて、また家に戻るようにみえる。いつものことだ。せいぜい晩飯のコンビニだろう。

 奴の家の近くどこかで休憩して、夜が更けるのを待とう。

 

八 板電話   (銭谷警部補)  


 日没後の警視庁六階は、人が疎らだった。

 本庁を出て、わたしは上野に向かった。独身寮のある金町まで帰る手前で、すこし、憂さを晴らしてから帰りたい。いつものことだが、地元の金町で一人で飲む気分にはなれなかった。

 霞ヶ関から千代田線を湯島で降り、いつものように広小路を抜けてアメ横に入った辺りで、その日の気分にあう、居酒屋に入った。ジョッキで何かを飲めればいい。そんな気分だ。

 アメ横のガード下。

 山手線と、京浜東北線が四六時中、頭上を通り続ける。会話相手のいないわたしには騒音はむしろありがたかった。落ち着かない気持ちを雲散させるように酒を煽ればいい。

 焼き物が売りの居酒屋の一角に座ると、わたしは、餃子とビールを頼んだ。そうして、食前のタバコに火をつけた。しばらく煙を吸った。頭を弛緩させるこの時間が、独り暮らしのわたしには、家族の団欒のようなものだ。

 板の電話(スマート・ホン)を手に取り、迷惑メールのフォルダを開いた。ジャンクメールの狭間に、売込みのない文字も少ないメールがあるのを見つけ、それを開く。



To Z


 郷に入っては郷に従え。

 その言葉には一理ある。

 刑事の仕事は、順調か。K 



文面を読まなかった。ニコチンを深々と吸い上げながら、わたしは、そのイニシャルのKの文字を、終わって黒ずむ夕焼けでも眺めるように身任せにしていた。現実アメ横の居酒屋からは夕焼けなどは見えない。上野の山か本郷台に向けて林立するビル群は夕焼けの始まる手前で太陽を隠してしまう。

 わたしはイニシャルKを名乗る人間との時間のことを回想した。

 わたしと出会う以前から各所に内偵していた奴は、事件の点と点をつなげる自信を持っていた。

「城のような建物だよな」

六本木ヒルズのことを、そう言った言葉を思い出す。

 止まったエレベーターも疑問が溢れていた。部屋で女性が死んでいるのに、救急車も呼ばれなかった。その場にいた人間も正確にわからない。そして、監視カメラに一部不具合があって正確な記録は消えてしまっていた。何から何までもみ消しの典型のような芳しい匂いがあった。

「あの部屋の実質の主催者こそが太刀川だった。」

イニシャルKーーー捜査二課にいた金石という刑事はわたしにそういった。

「全てがつながっていたんだ。なのに全部がひっくり返った。」

やつが説明もなく、わたしの目の前からいなくなったのはそうなって暫くしてからのことだ。


 晩飯の上野アメ横で私はひとりだった。串焼きと、済ませたビールの後のハイボールを三秒も眺めずに、胃に流し込んだ。塩気と、炭酸と、肉汁と、アルコールと、最後におきまりのニコチンが混ざりながら、からだは少しずつ、憂鬱を麻痺させ、緩めていく。もう少し飲めばいい。そうして一眠りすれば、この気持ちは収まってもいくだろう。時間が心を紛らせ日常の一日が、終わっていくだけでいい。どうせ、良いことなんか何もないのだ。適切な麻痺をさせねば気が狂うだろうし、シラフでやり切るにはそもそも頭のネジを外すしかないのだ。



郷に入っては郷に従え。

刑事の仕事は順調か



その文言がわたしの現状を見て知っているような気がした。今日の取り調べのことを思い出した。

「順調なわけがないだろ」

と声に出していたかもしれない。周りでは二組ほど、サラリーマンが会社の女性を連れて楽しそうに飲んでいた。残りの三名ほどが静かに一人きりでわたしのように飲んでいた。いや、静かだと気が付かないくらい、電車の音がうるさかった。

「順調なわけがない。」

少し小さく、不気味にわたしはその言葉を声に出してみた。肩のあたりから首にかけて神経痛のようなものが走る。タバコを咥えたまま、酒をまた注文した。もう少し酔わなければ、いろいろなことが脳裏から消えてくれないと思った。

 

 




殺人の六日前 (九月九日)



九 早朝の電話 (軽井澤新太)


 一の橋が麻布十番から始まり、二の橋が仙台坂下、三の橋、古川橋で右に大きく曲がって四の橋になります、と説明してピンとくる人は東京の地図マニアの方かもしれません。四ノ橋のつぎが天現寺橋で慶應幼稚舎や広尾の高級住宅地に連なり、川の名前は古川から渋谷川へと地域ごとに名前を変えていきます。

 会社を辞めて家族と別居を始めた時に、わたくし軽井澤はこの四ノ橋に住み始めました。偶然空室だったマンションに住んだにすぎません。あまり馴染みのない場所が良かったのと、不動産屋から、地元の四ノ橋の商店街が便利だと教えられたからでした。事務所まで歩くにもちょうど良い距離なのです。

 四ノ橋の商店街は、川から白金台に向けてまっすぐ走る細い路地です。その中程に八百屋があり、その隣のマンションの三階でわたくしは暮らすことにいたしました。白金といっても白金台とは違います。この辺りは、六本木から広尾恵比寿と高級住宅街に囲まれる狭間になっていて、何故か下町風情が残るのです。商店街は昔ながらの老夫婦がやっていることが多く、墨田区だ葛飾区だの下町よりも下町らしい香りを嗅げるかもしれません。

 庶民的な商店街を見下ろす三階の小さなベランダでタバコを吸うのがわたくしの、小さな喜びでした。そんなどこにでもある、中年男の独り暮らしの一室でございまして、そんな一室に、朝から携帯電話がこれでもか、というくらいに鳴ったのでございます。

「さっき行ったよ。あんたの事務所とやらに。いい場所にあるのだな。」

「ど、どちらさまですか?」

「風間だよ。もう忘れたのか?登録しろよ」

「えっ?事務所に行った?青山墓地のですか?」

「ああ。青山墓地の裏手の、軽井澤探偵通信社だ」

ホームページに住所を載せているのですから、やむを得ませんが、風間のような人間に約束なしで来られたのは想定外でした。

「それは、本当ですか。わざわざありがとうございます。ちなみに、どうされました?」

「もう十時だ。ずいぶんゆっくりだな。」

「昨夜遅くまで、調べ物でしたので。それより突然どうなさりましたか。」

風間は電話の向こうで深呼吸のような間合いをさせて、

「また来たんだよ。」

「またともうしますと?」

「猫だよ」

あえて、死体と言いませんでした。しかし、生きている猫ならば、歩いて去るでしょうし、わざわざ電話をかけては来ないはずです。

「また、ですか。」

「あそこ(西馬込)にはもう住めない。とりあえず引越し先を探している。」

「そうですね。引越しをお勧めいたします。」

「葉書の残りをポストに入れた。あれが全部だ。とにかく、葉書を俺に、送った奴が誰かをまず知りたい。どうか前向きに考えてもらえないだろうか?」

少し言葉に詰まる間合いがありましたが、わたくしは、それよりも、昨日、間合いを見て言えずにいたことを言い出しました。

「二十万円の先払いはいかがですか?」

「ああ、それだな。」

「はい。恐れながら、我々もボランティアではないのでして。」

「わかっている。金はある。ただ、まだあんたらから何も、もらっていない。勿論、方針など貰え次第、金は振り込むさ。なので葉書の残りを一度見てくれるか?」

「葉書ですか?昨日お借りしたものと何が違いますか?」

「なにがちがう?と言われても難しいが。」

「同じものが他にあるのですか?」

「まあとにかく見てみてくれ。あの葉書は一枚じゃないんだ。何枚もある。その全部をポストに入れたんだよ。それを見れば色んなことが、すぐ、わかるはずだ。」




十 好青年   (赤髪女)


 朝になって西馬込の風間は猫の死体に気がついたらしい。風間がGPSの上で動きを見せたのを、赤髪女はしっかりととらえた。

 まず都心に向かった。西馬込から逃げるようにして、風間は都営浅草線を五反田まで出て、そこからは歩いている。五反田から都心部を北上している。途中、幾度か止まってしばらくして動く、というのを繰り返していた。

 地図を注意深く見ると、止まった場所は全て、地元の不動産物件を掲示している場所のようだ。GoogleのMapを照らして赤髪女は気がついた。まだ早朝で不動産会社はやっていないだろうけども、都心では大抵物件のマイソク図面を窓ガラスに貼っている。マイソクというのは、部屋の坪や間取りや値段条件が一枚に書かれている紙のことである。

 赤髪女は急いで自宅の祖師谷を出る準備をした。

 西馬込のアパートに暮らしているなら、毎日そこに帰ってくるのだから安心だけども、引っ越しをされると、どうなるかわからない。その手順の中で何かの事故でGPSを胸に投げ入れた風間のジャケットが万が一捨てられては目も当てられなくなる。この風間を見失えば、自分の今後の報酬に影響するのは確実だろう。

 薬物の禁断症状のせいで落ち着かず、赤髪女は小田急線を都心に向かった。早朝六時頃からの風間の都内行脚が五反田、目黒、広尾、と抜け、西麻布を超えるのを赤髪女は目視している。何度も停止するのだが停止する場所を地図で検索すると、やはり必ず、不動産屋があった。

(まあ、引越ししたくなるか)

赤髪女は小田急線から直通の千代田線に入った。できれば、風間の引越し先が落ち着くまで、遠巻きに尾行をせねばならない。

 すると、西麻布を過ぎた青山墓地沿いのとある場所で風間は止まった。

 この場所に限ってしばらくしても、場所を変えなかった。他の場所と違い長めに止まっているのだ。そして気になって赤髪女が調べてみると、それまでと違いそこには不動産屋がない。あたりは住宅ばかりで店舗もないのだ。ひとつだけGoogleが指し示す施設として探偵事務所があるだけだった。風間は探偵事務所の目の前で随分の間、止まっている。

 赤髪女は千代田線から入って、地図を確認し、表参道で降りた。そこから小走りに走った。表参道から青山墓地のその辺りまでは十五分はかかったけども、その間も風間の位置は変わらなかった。しばらく歩き目と鼻の先という所まで来てから、さすがに細い路地で鉢合わせるわけにもいかず、身を隠せる場所を探した。すると、墓地の崖の上にうってつけの小屋があった。その影に小さく佇んで崖の下を見下ろすと、風間が事務所の前の狭い路地でタバコを吸っているのが見えた。

 誰かを待っているようにも思えた。

 赤髪女はGPSの位置を確認しながらもう一度GoogleMapで詳しく見てみた。風間の立っている場所は


軽井澤探偵通信社


の目の前である。やはり、不動産屋ではない。少なくとも不動産屋に貼り出してある図面を物色してるのではなく、人を待っている。つまり、探偵を待っているのだ。

(風間は探偵を雇ったーー。)

このことは、次の報告に入れねばならないだろう、と赤髪女は思った。「指示者」には一応、報告をしておく必要があるし、自分にもリスクが増えたと考えたほうがいい。

 そうしてまた十分ほど経ったが、誰も現れないのに痺れを切らした風間は西麻布の方に戻って行った。風間がだいぶ離れたのを見てから、赤髪女は崖の湿地を降りて、事務所の前の通りに出た。もちろんGPSを片手に風間の動きは常に視界に入れているが、どうやら西麻布交差点近くの不動産屋をまた物色しているらしい。

 それにしても、都会の一等地にこんな陽当たりの悪い湿った場所があるのを知らなかった。曲がりくねった窪地の端にある、古いアパートの一階である。元々店舗か何かだったのか、中が丸見えの窓ガラスが無駄に大きい。探偵事務所などの商売に合わない、と赤髪女は思った。もしくはずいぶん間抜けな探偵なのではないか。

 風間が探偵を雇う気持ちは赤髪女には理解できた。おそらく何らかの問題を抱えていて警察には向き合えないのだろう。家に幾度も猫の死体が届くのは並みの精神では耐えられない。少なくとも自分には無理だと赤髪女は思う。

 目立たないようにカメラを腰あたりに置いて、赤髪女は探偵通信社の写真を撮り続けた。「指示者」にはこういう写真をできるだけ送る方がいいはずだ。今度の「指示者」は、なぜかそういう頼まれていない作業も喜んでくれるのだ。

 ふと、事務所の前にある、古めかしい車が気になった。いかにも地味な探偵が使いそうな車だった。

 探偵にGPSをつけるのは難しい、と赤髪女は思い、少しだけものを落としたふりをして、車の下にしゃがみ込んだ。そうして自動車裏面に、秋葉原電気街仕込みのGPSをシールで貼り付けた。安定して剥がれない場所が大事だ。親指の爪程の高性能シールで、気付かれる事はまずないはずだ。

 古い車だった。貼り付けられる場所はいくらでもあり、風間の胸ポケットに入れた時よりよほど簡単だった。

 その時だった。

「どちらさまでしょうか?」

突然声をかけられた。

「あ、すいません、携帯を落としちゃって」

赤髪女は、昔アイドルだった時の笑顔を思い出そうとしながら、振り返りの笑顔を投げた。突発的な対応だった。

「携帯ですか?見つかりましたか?」

スーツ姿の青年が一人で立っていた。

「あ、は、はい。」

見惚れるくらいの美男子だ、と赤髪女は思った。こんなうらぶれた墓地裏の坂の下に不似合いな、美男だった。大手町や、高層ビルのオフィス街に似合う、ネイビーのスーツが、眩しかった。

「あのう、あすなろ不動産ってこちらですか?」

赤髪女はさらりと嘘をついた。もうすでに車の裏にはシールはしっかり貼ってある。

「いえ。ここはそういう不動産会社ではないですね。」

「あれおかしいですね?ちなみにこの辺りで不動産って」

「いいえ。不動産会社はこの路地には、ないと思います。外苑西通りに出たらあるかもですが。」

「ああ。ちなみに、こちらは、、ええと」

「ああ、ここはうちの事務所で、これはうちの車ですね。軽井澤探偵通信社のです。」

赤髪女は驚いた。この人が、探偵?商社マンかエリート弁護士の風情ではないか。

「軽井沢?あの、長野の?」

「いえ、避暑地の軽井沢町ではなく、社長の名前が」

「ああ、失礼しました。」

赤髪女は、自然体に、すこし取り乱した小芝居も忘れずその場を去った。好青年に向けて幾度となく礼節の範囲で振り返りながら、ただ頭の中では、

(いったい、あの貧乏くさいアパート住まいの風間にが、なぜこんな好青年のいる探偵事務所と繋がるというのか。)

赤髪女は、そんなことを思っていた。

 GPSをみると風間は次の不動産屋でまた物色を続けているようだった。



十一 十四枚  (軽井澤新太)



 風間からの電話を受けわたくしは事務所に急ぎました。既に朝の早い御園生くんは出所しておりました。

「御園生さん、風間からの郵便物はありましたか?」

「郵便、これですよね?」

「ありがとうございます。」

「今朝は早く出所してたので、郵便もチェックしました。そうしたら、昨日の話に上がっていた、葉書がこうたくさん届きまして。」

「たくさん、ですね……。」

「それにしても変な葉書ですね、これは。」

「変?」

「ええ。十四枚もあるのです。しかも、全部手書きです。」

「十四枚。全部手書き、ですか。」

そういって御園生くんはわたくしにその葉書を並べて見せながら

「おんなじ筆跡で、全部、書いていますね。十四枚。」

といいました。

 御園生くんはマグネットで一枚ずつ、事務所の白壁ーーホワイトボードがわりに使っている壁の方に貼り付けて行きました。

「ちょっと謎掛けみたいなのですが」

御園生君とわたくしは、事務所のお決まりの席に座って壁面をじっと見つめていました。

 

E N R 

T K U 

A A C 

S W C 

E O


 宛先を一つ一つ、手書きで書かれた葉書は14枚、裏面がアルファベットの文字のみで送付されておりました。昨日、風間から預かった一枚はEでしたが、

他の十三枚にもそれぞれ文字が書かれていました。つまり、十四枚の葉書の表が全て同じ風間宛で、裏に、一枚ずつ、


E N R 

T K U 

A A C 

S W C 

E O


の文字が、書かれていたのです。

「しかし、普通にこんなの送られてきたら怖いですね。」

御園生くんは当然首を傾げました。

「そうですね。朝起きたら、自分の名前宛ての葉書があって、それが、十四枚。怖いですね。全て手書きで差出人不明。それが風間曰く、命に関わるとわかっている内容だとすると、恐ろしいどころではないね。加えて、猫の死体がまた置かれたというのですから。」

「猫が、またですか。」

「今朝、風間から電話がありました。で、葉書を送ったと。」

「なるほど。そうなのですね。でも軽井澤さん、これは郵送でなくて、風間本人が、我々のポストに投函したんだと思いますよ。」

「え、本当ですか。」

「ええ。おそらく。ただ、僕が着いた時には風間らしき人間はいませんでしたが、ほら葉書を我々に送るなら宛先を書き直さねばならないですから。」

その通りだとわたくしは、相槌をして、

「しかし、わざわざこんな朝早くに西馬込から、西麻布まできたのですね。」

なんだか、不自然な風間の焦りを体に浴びながら、わたくしはまざまざと、壁に貼られた十四枚の葉書を見つめました。見れば見るほど、言葉を失う、ようなよくわからないハガキでした。


大田区西馬込XXXXXXXXXX 風間正男どの


E N R 

T K U 

A A C 

S W C 

E O


「しかしこれ全部手書きっていうのは、送った人間は筆跡を取られる恐怖もないということですかね。もう、半分狂っているとも言えるんですかね。」

「そうかもしれないですね。」

 



十二 とある暗室(人物不詳 村雨浩之)    


 男は1日の仕事を終えると、一人になる時間をえた。

 都内の秘密の場所に設定してある「その一室」に入る。

 誰にも教えていない、誰もいないこの部屋は、室内の照明もつけていない。煌々と古い年代物のPCの電源だけが光っていた。

 暗がりに設置した古いPCを開くと、画面の光で室内が明るくなった。

 インターネットをIPアドレスから作り込み、設定する。

 いわゆる合法プロバイダーではない設計でネットに繋がったDW(ダークウェブ)である。アカウントは海外のどこかで作られた数億近いプロンプト計算が必要なもので、ランダムに定期的に乗換が行われる。そうやって、足が誰にもつかない形をとっている。

 男は仕事をする場所として、この一室を使っている。ここは、誰とも接続されない場所、だからだ。

 この一室の秘密には十分な自信が、男にはあった。この部屋の存在自体がもう、どこにも登記されていないのだ。更にそのIPアドレス自体が一定ではなく、繰り返し変更される。個人情報というものが存在しない部屋を男は作っていた。

 闇売買の市場は賑わうばかりだ。

 日本人だけが知らないだけで、世界中で進化を遂げている。そもそも国家ぐるみで犯罪を行っている国さえある、とも言える。警察も官公庁もこの領域を確保しようと必死だが、難しいだろう。多くの日本人は知らないし、信じたくもないだろうが、テクノロジーの領域では日本国は恐ろしい後進国なのだ。

 DWの世界にはさまざま商品が販売されている。

 反社会で生きる人間などは携帯電話も住所も持てないわけで、そうなればこういう見えない市場が育つのはある意味当然である。問題はそれが日本では管理できないくらい海外の技術で支えられているということだろう。

 社会的に抹殺されたもの、前科者、ある事情で参加ができなくなった人間たち。そういうインターネットに正面から参加できない人たちが、ここに集まる。集まるから市場が立ち、金が動き始める。人間の3%が犯罪者だとするとそれは、日本でユーザー300万人のマーケットなのだ。そしてその収益は全て海外に流れている。

 名前も全て偽名。新興の仮想通貨や、ワンタイムのデジタル通過が、送金手段になる。

 金融庁や警察がいくら取り締まっても、変わらない。最新の技術はハッカーたちが先に行くからだ。

 日本の警察が気がつく頃には、そのサイトは跡形もなく消えていく。便所の落書きが定期的に清掃されてきたように、消されては、また最新の技術で新しく重ねられていく。

 男はそれらの技術に精通していた。

 男はこの場所で、さまざまな取引も、時には人材のスカウトも行っていた。

 あの赤い髪の女も、元々はここで見つけたのである。





十三 捜査一課長室(銭谷警部補)



 わたしはその朝、捜査一課長に呼び出されていた。

 久方ぶりに対面した早乙女課長は以前より重厚に見えた。組織は肩書きが上がると、人間の表情を変える。時に人の人格も変える。この特別化された課長室が変えているということかもしれないが。

 分厚く背の高い課長室のドアを開けると奥の席に、早乙女は座っていた。

「銭谷です。ご無沙汰しています。」

「おお。」

噂の通りの話、つまり降格人事の話を示達されるのだと思った。そもそも業務でもない世間話でこの部屋に呼ばれる事などはない。

 早乙女課長の前置きは長かった。乙女という言葉とは真逆で、首まで太っている。その肉が、捜査より官官接待の会食で磨いた身体なのは知っている。カラオケの趣味は悪かった。わたしの捜査の成功はいくつかの部分で彼の昇進を助けてきたのだが、出世してしまえば、そんなことは関係がない。

 人事のようなものは結論だけで良い。

 若手の多くはわたしより手柄を取ろうと頑張っている。ある意味わたしが降格すれば横並びとも言えるし、いなくなれば自由になる場所も広くなるだろう。

「自分の弁解は特にないです。どんな処分にも甘んじます。」

怒鳴ったり不快を与えた記憶はないが、人命にも関わるような捜査の仕事に、怒鳴らずにいることを優先するのはわたしには出来ない。時代が変わったという言葉だけで、処理できないものはある。そもそも、パワハラと言う処分には、有りがちな背景として私はどの場面がそれだったのかを聞かされてはいない。何度も怒鳴ってきた刑事人生である。そんなことを指摘されれば、簡単に誰でも終わらせることができるだろう。

 わたしは開き直っていた。要するに誰に対しても怒鳴る時は怒鳴るのは、今後も変わらない。なぜなら、刑事の目的は捜査で犯人を捕まえることだからだ。怒鳴って物事が進むなら、わたしは怒鳴るだろう。相手が課長だろうが一緒だ。

「まあ、銭谷、お前もなんとかしようと思ってのこととは思うが、ご時世というのがあってだな。」

課長は、淡々と世の中も変わりつつあるのだというようなことを繰り返している。組織人の四十代は、精神的に不幸に見舞われることが多いという、本を読んだのを思い出した。

「早乙女さん。いや、早乙女課長。結論だけでいいですよ、わたしには」

「わかってる。お前の性格は。」

「はい。」

「これは俺の整理で話してるだけだ。」

五乙女さん、あなたは、若い頃は俺なんかよりもっと新人に厳しいやり方をしていたし、仕事ができない割に威張ってた貴方には、それ以上の罪があるはずだ。加えて仕事が終わっても飲みだカラオケだに連れ回してもいた。そんな言葉が出そうだったが、自尊心の尻尾が邪魔をしてわたしは、唾液を飲んだ。

 すると、苦虫を潰すような声で課長が、

「一旦、処分保留だよ。」

とだけ言った。

「保留」

「ああ。ご時世だから、気をつけてくれ。メールだのは特に。モノが残ると守りづらい。」

「守りづらい。」

「守るというか、まあ、察してくれ」

「しかし、わたし宛に」

後で知ったのだが、だれがわたしを訴えているのかは、早乙女課長でさえ知らされていなかったらしい。

「処分保留だ。密告を全て処罰の対象にしていたらキリがない。しかしこのご時世、ハラスメントの密告を辞めろとも言えない。銭谷、わかってくれ。理解を願いたいところなんだ。」

ひさしぶりに、五乙女の顔をまじまじと見た。出世してからは殆ど話すこともなかったが、わたしより仕事ができないことは本人も認めていたはずだ。

「殿上人の課長、まで上り詰めても、大変そうですね。」

「セリーグ、パリーグ(ハラスメントのこと。パワハラがパリーグ、セクハラが)なんて、気楽に呼べんぞ。管理職は。」

みなまで言わせる前に、わたしは頭を軽く下げると、部屋を出始めていた。


十四 海岸線  (レイナ)


 レイナの目の前に海が広がっていた。海岸をカモメが幾度か舞っていた。トレーラーは少しずつ茨城の海から南へと進んでいた。

 十三個目のピアスは悪くない。指先で摘むと、肌ではない銀の冷たさが心地良かった。

 今度の軽井澤さんの仕事は、今までの単純な調査ではなかった。Googleから繋がった、新しい顧客は随分特殊に思われたが、まずはやれることを用意しようとレイナは思っている。

 Googleでやってくると言うことは、ネットのさまざまな場所を通っている。道を順々に歩いて行くようにネット上での行動には全ての「道のり」がある。適切な技術さえあれば、誰でもできる追跡手法が世界中に溢れている。

 レイナが少し調べただけで、風間正男は、典型的な不審者と言えた。

 職業もよくわからない。クレジットカードも持っていない。

 加えて不気味な依頼の内容である。

 葉書の差出人を調べたいという。

 葉書に関しては、今朝、御園生くんから追加分が届いた。Eだけの葉書でなく合計十四枚分のほかの葉書も含めたPDFが送られてきた。   


E N R T K U A A C S W C E O


手書きの筆跡で、アルファベットの文字違いがある以外は、宛先含め全てどれも同じ内容だった。ネズミ文字の手書きで繰り返し書かれている。レイナは気持ちが悪かった。自分で言うのもなんだが、これは普通の人間がすることではない。なにか、通常でない事情があるはずだ。

 ただ、そういう異常は、ネット上で何らかの足跡を作る可能性もある。まずは少しずつスクリプト組んで情報獲得を進めていく、のがいいかもしれない。

 軽井澤さんの仕事は丁寧に行いたいと思っている。


 

十五 日比谷松本楼(銭谷警部補)


「銭谷警部補」

小さいがよく通る若い女性の声だった。わたしは、その声の方を振り返る気さえあまり起こらなかった。近頃、本庁舎に居心地の悪さを感じてるからか、昼飯だけでも独りで外で食べようと思い、まだ昼になる前からエレベーターを待っている時だった。石原巡査は、わたしを、ふと偶然という様子で、見つけたように話しかけた。

「銭谷警部補。お昼ですか?」

「ああ」

「どちらに?」

「決めてはいない。」

一瞬、間合いがあった。

「お付き合いさせていただいてもいいですか。」

そう言いながら、石原巡査は閉まりかけるエレベーターに乗りこんできた。早い昼のせいで、食事に出るのは、我々二人だけだった。日比谷濠側に我々は歩いて出た。

「質問をしてもよろしいでしょうか?」

「かまわんよ。」

「銭谷警部補は、なぜ、太刀川龍一を追ってるのですか。」

「興味でもあるのか?」

「お茶係、が出過ぎかも知れませんが」

「そういう係は、過去のものだ。男女は平等に仕事をする、という時代だ。」

わたしは平坦にそういった。言葉は嘘ではなかった。パワハラ警部補になったらもう言えなくなる言葉かも知れない。

「失礼しました。なるほど。」

わたしは、せっかちだから歩く足が早い。濠端を法務省の横を通り、日比谷公園にむかう信号で止まるまで一気に歩いていた。止まったところで、石原巡査はやっと続けた。

「なぜ、太刀川を追いかけているのでしょうか。」

「必要があるからだよ」

「必要。」

「そうだ。」

「既に彼に関連する死亡事故は、解決済みかと」

「誰が決めた?」

私が強めにそういうとさすがに若い女性巡査は表情を少し臆した。顎の線から口元にかけて美しい静寂、がある。天気の良い日で、皇居の緑が、雲ひとつない青空の下に輝いている。街路樹の作る影が色濃い。

「誰と言うか、その、すいません。」

何を答えてもこのわたしは論駁するつもりだったのだが、石原巡査は沈黙したままだった。

「カレーでいいか?」

「はい。なんでも。」

「歩かせて悪いが省庁の食堂が最近嫌いでな。」

警視庁からレンガ作りの法務省を越えたところに日比谷公園が広がる。東京市の長者番付の常連でありながら、退官後財産のほとんどを寄付したという明治の人間がここにある樹木の一つ一つを設計したことはあまり知られていない。わたしがこの公園を好きな理由のひとつだ。松本楼はその日比谷公園の真ん中にある。

 ここのカレーは、どんな二日酔いも解決してくれる、と個人的には思っている。ドラム缶で食べ続けたいくらいだ。



 初めて金石と会ったのも、この松本楼だった。

 あの日、刑事のランチには贅沢なカレーを前に、我々はお互いを探りあっていた

「あんたは」

一般的には巨大な警視庁の中で、捜査一課が二課の警察官を互いを知るような事はない。私たちは完全な初対面だった。

「ずっとこっちで?」

「ああ。捜査一課でほとんどだ。最近では珍しいかもしれない。」

「自分は最初、綾瀬で。」

「ああ、綾瀬。」

二人は同期だ、という早乙女係長の説明で、わたしは敬語を使わなかった。二人とも会話が噛み合わず、松本楼特有のbuffet形式をいいことに、三度くらいカレーを自分の皿に掬い直した。松本楼の昼は当時から洋風と和風と二つのカレーが並んでいた。ずいぶん満腹になってから、ようやくお互いに事件に対する考えを少しずつ、話し始めた。無論太刀川という男についてである。

 この時点では、六本木事件はおきていない。わたしは沖縄で怪死した太刀川の子会社の人間について疑惑を持っていた。そのことに紐づけて、太刀川に対する一つの疑惑を持っていた。この疑惑は沖縄県警との線引きもあり進められていなかった。不満を持っていたわたしにある意味、ガス抜きの意味を込めて捜査二課で太刀川を追っているという人間を繋いだのは当時係長だった早乙女である。

 捜査一課は殺人を中心に切り口を強く設計する。ある意味殺人事件が起きた瞬間からが沸騰した作業の始まりだ。捜査二課は逆に知能犯を前提に動く。金石は太刀川の周辺の華麗なる人脈の周辺をずいぶん長い間内偵していた。

 話を始めてみると、金石は話がうまく面白い人間だった。そのまま日比谷の喫茶店に移動し、そしてそのまま夕方を過ぎても話が止まらず飲みに行くことにした。赤のれんに入ってモツを突きながらも、全く話が終わらなかった。

 それが、金石とのはじまりだ。

 我々は互いの直感で、疑惑を感じる太刀川の周辺を独自に捜査をすすめた。

 その後に六本木の事件が起き、合同捜査本部が立ち上がった。ごく自然な流れで捜査一課と捜査二課の二人の人間は、一緒に捜査をすることになった。捜査本部の解散までほとんどの時間を共にしたと言っていい。

 恐らく、性格が合ったとかそういうことではない。互いの刑事根性のようなものは類似性があったかもしれないが、何よりお互いを近づけたのは、我々が双方、まるで違うアプローチを持っていたからだろう。殺人の観点から類推を重ねる捜査一課のやりかたと、陰謀的な経済事件の観点から人と人のつながりを追う二課とが、同じ六本木の事件を全く別の切り口で見ていたのだ。正直、わたしは奴のやり方を見て、新鮮な気持ちになった。おそらく、金石もそうだったはずだ。

 そういう時間が始まったのがまさに、この松本楼の二階の、白いテーブルクロスの上でのカレーライスだった。真っ白い什器に、真っ白い白飯と、二種類のカレーを重ねる。

 そう。

 この松本楼の二階で始まったのだ。わたしは珍しく過去について懐かしい気持ちになった。



「考え事ですか?」

目を開けるとそこは、現実の日比谷で、若い女性刑事が、わたしを見つめていた。金石ではなく、現実の今の松本楼で、石原巡査は少し寂しそうな表情でわたしを、見たように思った。人間二人でいるのに、他の人間のことを考えているなど、困ったモノだろう。

 カレーを食する段になると、石原巡査はまた質問を始めた。

「質問してもよろしいでしょうか?」

を忘れないのが、彼女の真面目さを物語っているかもしれない。我々の時代は、それでも答えてくれない鬼の先輩刑事ばかりだったが。

「小板橋さんも太刀川を調べたかったのですかね?」

「小板橋か。どうだろうな。」

「はい。」

「太刀川を取調できると言う話には、乗り気だった。万が一、太刀川が何かをゲロすれば、一旦店じまいした捜査本部を飛び越えて表彰ものだろう。」

「なるほど。」

「でも、そんな取調ひとつで、若者が評価を得ようなんてのは損だ。長い仕事の中では。」

「損ですか?」

「ああ。近道は、一度覚えると辞められない。」

言いながら、その近道をうまく使う人間もいるぞ、と思った。いや、もしかすると、近道が大事な時代になったのかもしれない。

 食べていると、沈黙の時間が増える。カチ、と食器の音が響く。松本楼の上品な什器と、純白なテーブルクロスをわたしは見つめた。美しいものは心を素直にすることがある。

「太刀川に興味はあるのか。」

「あります。」

「迷いなく言うのだな。」

「銭谷警部補は。」

「わたしか?」

「警部補は、ご自身の警察官の信条に近い何かで、過去の事件を追いかけているのでしょうか。」

少し緊張したような言い方で、石原巡査は弁じた。言葉を終えた後の、顎の線が美しいとわたしはおもった。少女と呼んでは怒られるだろう。石原は回りくどく話をしたが、意味は伝わった。ちゃんと質問をする人間なのだ、と思った。

 例の降格の噂が生じてからと言うものの、わたしの太刀川追跡に参加をする若者は皆無になっている。若い人間たちはわたしとの仕事に、距離を置き出している。

 若者が器用になったというけれども、わたしはそう思わない。若者に選択肢が増えた時代が来ただけだ。彼らはプロ野球と枝豆とビールしか選択肢のない時代に育ってはいない。

「警察の仕事を、信条なしで出来るのなら教えて欲しい。」

「はい。」

「わたしは誰がなんと言おうが、私の仕掛かりの捜査をやめることはない。」

「仕掛かり」

「真犯人を捕まえるかどうかは、警察官の人生の問題だ。階級や組織は関係ないと思っている。」やはり、松本楼のカレーは酒か何かの薬が入っていると思う。わたしは不気味に饒舌な自分を、恥ずかしいとも思わなかった。目の前の石原を見つめたまま、「ただひとつ。犯罪者に手錠をかけることだけに全力を費やす。犯罪者が捕まりもせず、街の中に残ることを許したくないんだよ。」

わたしは、似た内容を繰り返した。やはり、胸を打つような演説はわたしには不似合いだと思った。

 石原は下を向いたまま、何か難しい顔をしていた。


十六 八百億  (御園生探偵)


僕は、十四枚の葉書を、壁に貼り付け、並び替えるのを繰り返していた


E R T K U A A C S W C E O


アルファベットの順に並べ替えると


A A C C E E K N O R S T U W


見当も付かなかった。

「そもそもなぜ、風間は我々に頼むのですかね。」

「我々に?」

「はい。」

「うむ。そうですね。特に理由はなかったのかも知れません。」

「初回相談無料という広告の設定だけ、が理由だったんですかね。」

Google検索で、探偵、初回無料、という言葉を設定したのは僕だ。もちろんこれは、最初の面談までと言う意味なのだが。

「どうですかね。わたくしは、そこは詳しくはないのですが。まあ、警察に行かないいうのも、変ですよね。」

軽井澤さんは、Googleのことは分からないと言う表情のまま、壁のアルファベットを眺めた。

「警察にも行かないのは、なんとなく、彼がスネに傷がある、と言うことだとは思うのですが、我々にも、この葉書の14枚の説明ももらえないと言うのが、よくわからないですよね。」

「おかしな人ですよね。」

「後ろめたい過去があるのか。それとも、何らかの犯罪が絡んでいて、話せない事情があるのか。どうなんでしょうかね。」

そのとき僕の電話が鳴った。

「レイナさんです。」

僕と軽井澤さんが事務所にいるということで、スピーカー対応での会話になった。

「今大丈夫でしょうか?」

「御園生です。はい、もちろんです。」

僕は、少し今までの澱みを振り払うように声を立てた。

「昨日の新しい調査先の件を考えてみたのですが。資料のほう、御園生さん、ありがとうございました。」

「いえいえ」

「実は、私の専門はインターネットですから、物質的な葉書は簡単なのでは無いのですが、一応宛先が手書きだったと言うことでその本と手書きフォントについてはあらゆるメディアを探させていただきましたが、これが、出てきませんでした。」

一つ一つ調査が始まっていることを感じた。調査とはアイデアだともおもう。誰もみたことのない場所に向かっていく感じだからだ。

「まあ、手書きをさらすと言うのは多くのリスクもあるため、ほとんどの人が避けるのも事実です。ましてやこの風間の関係者である四十代五十代の人間となると確率はほぼゼロに近くなってくるかもしれませんね。」

レイナさんの美しい声が沈黙の中に響いた。

「ありがとうございます。ちなみにレイナさん、追加の葉書のほうはご覧になりましたか?今朝方送らせていただいた通り少し奇妙なもので。」

僕は、追加の葉書のこともレイナさんの意見が聞きたくて伝えた。

「はい。電話はその確認でして。この葉書は、十四枚も同じような葉書を送りその十四枚にアルファベットの文字を別々に書いて送ってきたということですね?そして、おそらく風間はその意味を知っているけども、意味の前に、この葉書を送ってきた人間を突き止めて欲しいというのが、今回のご依頼になる。」

「そうです。」

「なるほど。かなり奇妙で珍しい依頼者ですね、風間という人間は。あの十四枚の葉書が何を意味しているのか、御園生さんや、皆さんの方ではどんな議論になってますか?」

「はい。なかなか行き詰まっております。並べ替えによって無限に言葉が並ぶような気もしておりまして。」

僕がそういうとレイナさんは

「まぁそうですね。ざっと14文字だと、八百億通り位ですかね。現実的ではないかも知れない。」

「ちょっと待って下さい今なんて言いましたか?」

「現実的ではないと。」

「いやその前の」

「ああ、八百億通ですか?」

「なんでにそんなに数値に?」

「階乗の計算、だと思います。」

「ええと」

「まあ、調べればすぐわかります。また何か進捗があれば、私の方でももう少し調べてみますね。」

僕は笑ってしまった。

「八百億」

「すごい話ですね。」

「ちょっと、無理かな」

「そうですね。」

不気味さの上に面倒臭いと言う言葉がかぶさった。二十万円の前金をもらうために、このクイズに向き合うような気分は遠ざかった。少しずつ壁の葉書への興味は薄れた。

 レイナさんの確認が終わって電話を切ると、我々は、自然と、通常の不倫身辺調査や、ペットの追跡などの基本案件の整理に戻った。お昼を過ぎる頃、軽井澤さんは、

「今日はわたくしは早めに、失礼する予定です。」

といった。頭を切り替えたいのもあるのだろう。

 僕は引き続き事務所で事務を続けた。壁の葉書は不気味ではあったけれども、あくまで、この時の段階では、不気味な依頼人が金も払わずに、我々に頼ってきた迷惑な案件に過ぎなかった。金を払わない顧客を客とは言わない。無視しておけばよいはずだった。


十七 別名の就職(軽井澤新太)


 わたくしは、毎週2回ほどボクシングのジムに通っております。乃木坂から地下鉄千代田線にのり二十分もすると、多摩川まで参ります。ボクシングのジムのある河川敷まで歩くのです。

 好青年の御園生君に手を振るとわたくしは、風間の不気味な葉書などを一切雲散霧消すべく、サンドバックを叩ける場所に向かいました。

 わたくし軽井澤が、御園生くんを弊所に参加させるようになったのは、およそ三年ほど前のことで御座います。まず申し上げますと、彼はわたくしが以前所属していた企業で、大変お世話になった先輩の御子息なのです。

 しかし、そのようなお世話になった方のご子息を何も、探偵稼業などに巻き込まなくても良かろうという、世間様のご意見も当然あるかと思われます。かくいうわたくしも、そのようなものの見方をする人間の一種類でございます。大切に育てて立派な大学にまで行かせたものを、何故、大手の企業に就職させずに探偵にというのは親心からすると複雑で御座います。小説やドラマの世界ならまだしも、昭和の昔、甲乙丙丁の丙業種とも言われた探偵稼業でございますから。

 これにはわたくしも、一定の言い訳がございます。実は彼は、最初は御園生という名前ではなく、別の佐藤翔太という名前で、弊所に就職希望をしたのです。ご承知の通り、わたくしどもの仕事は、大企業と違い、新人を研修させる余裕などございません。新卒のようなものは当然断らせていただきます。それが、どうしても、頼む、というのを幾度も繰り返したわけです。やむを得ず、採用させて頂いたのです。もちろん別の佐藤という名前ですから、御園生先輩の、ミ、の字も想像できませんでした。

 見習いという形で仕事を幾つか渡すようにしました。基本的にわたくしの雑務の手伝いと言ったところでございますが、これが何を任せてもしっかり対応し、みるみると成長をして参りました。安月給にも不満さえなく、朝から晩までよく働くのです。見習いどころか、わたくしにとってもなくてはならない存在にさえなり、これは随分有難い見つけ物をいただいた、と思っておりました。そうして、二年ばかり過ぎたとある日、突然、

「わたしは、子供の頃、あなたに抱っこされたことがあるんですよ」

と、その佐藤青年は立派に言ったのです。二年ものあいだ、そんなことも想像だにせずに過ごして参ったわたくしの脳がどのような反応をその場でしたのかはいつかまた後日何らかの形で申し上げるとだけ、させてくださいませ。もっとも、もし、御園生先輩がまだ存命であればこのようなこと自体が、最初から起きなかったかもしれない、もっと言えばわたくしも探偵をやってはいなかったかもしれないのでありますから、人生というのは不思議なものだと申し上げざるを得ぬのでございます。

 弊所の所属である、御園生くんの紹介として上記が適切かはさておき、まず当面は、若い割にはなぜか、当事務所のために必死に働こうとしてくれる不思議な若者とでも思っていただくのが適切かと思われます。補足として、御園生くんは、父親の面影はほとんどございません。(それが故に、佐藤と名乗った嘘を信じたのです。)恐らくお母さまに似たのでしょう、誰もが嫉妬するほどの美男子でもあります。ただ、今時というよりもむしろ、少し昭和の香りがするあたりは、御園生先輩の遺伝なのかと思っております。



十八 GPS   (赤髪女)


 赤髪女は、その日一日中、GPSで風間を追った。

 探偵事務所を出ると、風間正男は麻布十番商店街から芝公園へと抜け、桟橋を晴海から有明へと抜けていった。埋立地の方へとむかっていく。

 しかしこの中年男はよく歩く、と赤髪女は思った。歩くのは嫌なので少しずつ地下鉄で間合いしながら追うのが面倒だ、とおもった。

 夕方近くまで歩みは止まらなかった。

 歩き続けて東京の東の端、江東区の新木場まできた。その先は舞浜、千葉である。

 新木場で右に折れると、風間は今度は海の方へ向かった。

 埋立地に入ってからは不動産屋も少ないのだろうか。ほとんど立ち止まることなく進んでいる。とにかく、よく歩く。いや、おそらく猫の死体からの恐怖で足が進むのかもしれない。もうすでに夕暮れは終わって夜になっていた。時計を見ると、もう夜の七時を過ぎていた。

 海沿いで何をしているのか判らなかったが、しばらくしてから、また新木場の駅の方に戻ってきた。そうしてまたきた道を歩き出した。電車に乗る金もないのかと、赤髪女は思った。そのまま今度は隅田川沿いを北上して歩いていく。それにしても随分体力がある。そうしてまた1時間ほど風間は北上を続けた。

 GPSを設置していなかったら間違いなくこの男の相手はできなかっただろう。 

 



十九 変装論議 (レイナ) 


 最初に変装(disguise)をした日。

 レイナはその日をはっきり覚えている。

 誰かが、気がつくような、ちょっとした変装では意味がないと思っていた。安易なサングラスや、帽子や少し違う化粧をした程度では、自分は満たされない。変装して別の自分になりたいと言う、不気味な自意識を解決させるなんて、簡単じゃないと思う。

 準備には一ヶ月はかかったと思う。男物のスーツを選び、中年の少しくたびれたネクタイと、靴と靴下というイメージはしたけど、ありがちに集めたものではダメだと思った。まず、自分がなろうとしている男性像を幾度となく、レイナは言葉で整理をした。

「仕事には疲れているけど、男としては魅力的」

「どこにでもいそうだけど、意外といない。」

「そんなにお金があるわけではないけど最低限の服選びはしていて」

「スーツは結果として、不本意に似合っている。」

文字で整理してその人間をいろいろと作っていった。名前も考えた。佐島恭平。若い頃にみんなに、きょうへい、と呼ばれたスポーツマンだった感じ。会社勤めで、歳をとって行った独身。痩せていて、黒髪。クラスではさほど目立たないタイプ。よく見れば意外に整った顔をしている、など。

 自分の中だけで、この世の中に戸籍もない佐島恭平が、どんどん育っていく。そうして一周回ると、自分がその佐島恭平の心をわかるようになっていく。空を見たら何を感じるのかとか、電車に乗ればどこを見るのかとか、なにを考えどう感じるかの、一つの人格が、レイナの脳内に育っていく。そうなってから、初めて、Sajimaの人格になりきってから、ネットでアカウントを作った。Twitterやinstagramに佐島恭平が始まっていく。それぞれに現金をチャージして、身につけるものを買い出しを始めた。佐島の「財布」で少しずつ買っていく。大道具小道具のようにいっぺんに頼まず、現実の間合いでひとつずつ注文し、佐島恭平の気持ちになって届いた段ボールを開く。そうして、試着して確かめてから、追加で買い足していく。買い足しながら、佐島という感覚が研ぎ澄まされていき、人格が安定を見せていく。まるで自分の家に、もうひとつ、同居人のように存在し始めるような。

 レイナは、最初に佐島恭平が、実際に街を歩く日を決めた。

 7月26日。

 幽霊の日。

 かつて、東京の町に幽霊がいた日だという。きっかけは何でも良い。嘘の記事だって自分が信じて動けばいい。真実がそこから始まる。

 スーツケースに佐島の荷物の全てを入れて、受付もない貸し会議室を選んでその駅、赤坂見附という駅に向かった。ビルの3階でQRコードで入ることができた。隠しカメラは設定されてない。

 全裸になって、男ものの下着からデオドラントから、付けていく。見えない部分こそ、心を研ぎ澄ます。きつく髪をまとめ上げた上に、ウィッグを重ねる。化粧ではなく、素顔にうっすらと髭を重ねる。特殊メイクを調べて、女性とは違う化粧を施して、男性の素肌に近い色彩を用意する。レイナはもともと筋肉の多い方だけど、肩には襦袢をつける。胸にはサラシを巻いて男の胸板にする。そうやって白いシャツを左右逆のボタンを確かめながらつなげていく。左右逆だということに驚かないくらい、気持ちが、男性のそれになってるのを感じていく時、爽やかな始まりの感動があった。朝の始まりとか春みたいな季節の持つ、純粋な感動。自分が産まれてきた気持ちをもう一度思い出すような。いままでの人生を全部消しゴムで消して、初めて真っ白なa3の紙に、思い通りに描き始めるような、そういう貴重な気持ちだった。


二十 愛娘   (軽井澤新太)


 東京都の西の外れに近い小田急登戸の駅から河川敷を歩くこの道はわたくしの好きな空間のひとつです。東京の街で地平線を見ることなど難しいものです。ここまで地平線に近いものを見つけることができるのは、河川敷かせいぜい高層ビルからの眺めだと思われます。

 河川敷と言うのは人間にずいぶんな視界の広がりを与えてくれます。この眼差しの広がりに、わたくしは束の間に心を癒やされております。ジムは風薫る河川敷の土手から階段を降りたいわゆるゼロメートル地帯と呼ばれる川面よりも下手すれば低いくらいの一角にございました。

 その女性は、汗ばんだ表情でランニングを終えて、ジムに戻って来ました。

「おつかれさま」

「これからミット打ち?」

「うむ。少し今日はしっかり殴り込みたい。」

「あら。ストレスかな」

「大人の世界はいろいろあるからね。」

すこし軽装が気になります。わたくしからすると、これほど可愛らしい女性はそうそういないのではないかと思います。それでいて知的でもあるし、わたくしが言うのもなんだが同世代の男は放って置かないはずでしょう。申し遅れました。この女性こそが、わたくしの一人娘の、軽井澤紗千と申します。

「大学の宿題がたくさんだから、今日はパパとディナーは無理かな」

「やむをえないね。」

娘は、爽快にほほえみ、宝物のように思われている気持ちも知らずに、頓着なく手を振ると、土手に駆け上がり、帰っていきました。わたくしはいつものように、彼女が見えなくなるまで、こころのなかで、手を振り続けておりました。

 考えに行き詰まるときに、わたくしはボクシングを致します。人間の身体には、脳では把握不能の防衛本能のような設計がされております。長い進化の過程で脳が科学的に何かを覚える以前から、身体は脳を守って来ました。考えに行き詰まるとき、身体的な何物かが脳内の点と点をつなげることがあり、わたくしはそれを閃きと呼んでおります。

 ボクシングジムという場所は都内に少なくなったかもしれません。わたくし、軽井澤が好んでおりますのは、都心の富裕層が集う、邪まな筋肉美を互助的に、宗教的に製造させあうものではなく、ひと世代も昔のもの、郊外の河川敷あたり風が吹けば壁揺れるくらいの零細なジムでございます。そのような経営も稚拙な川沿いの体育的な運動用の薄手のバラックで、ミット打ちに来る大人たちのさなかに、ごくたまに、少し病んだように暗鬱とサンドバックを叩き続ける若者があります。若さという懊悩をそのまま闘争心に変えて、現行世界への不満を睨むかのように撃ち続ける存在があります。この手の零細なボクシングジムが時折チャンピオンを排出するのはそういう理由がございましょう。何者かへの不満を持つ青少年の横顔が、犯罪ではなく、このサンドバックに向かう姿にこそ、わたくしは、束の間の癒しを覚えるのかもしれません。この登戸ジムにもまさしくそのような感覚がございます。

 探偵風情がくだらぬ叙情を申し訳ございません。かくいうわたくしも、遠い昔にそのような気分で叩いたこともございましたのでしょう。無論、そのような暗い青春は遠く去り、いまは、ただ、この世の大人の事情やら暗鬱やらに染まった自分自身を、少しでも雲散させたい一心で仕事の合間にサンドバッグを叩きに参ります。

 幾つもの仕事を辛うじて前進させるのもこのような趣味あってのことかも知れません。ほとばしる汗が、わたくしの中の精神的な汚物を一掃します。そんなカタルシスのあとならば、嫌な仕事の電話でも、耐えうるものでございます。

 この日も、おそらく誰よりも暗鬱にサンドバックをいたぶり続け、筋肉が疲れ果てるまでそうしていました。そうして弛緩した体で、ジムを出て土手の階段を上がり、広大なる多摩川の河川敷を見下ろしました。

 人間は不思議なもので、身体の血流に合わせて精神というものが反応するようできております。更にはそういう気分が実際の運気を変えていきます。風香る草原や、長閑な界隈を拳闘に汗した体で歩くうちに、たとえば風間の鬱陶しい電話も、遠く去って行くのです。わたくし、という細胞の集まりがしっかりとした回復を身体に行い、そのまま精神の側まで癒されていくのをまさに味わっておりました。

 まさにそのときでした。

 まさにそのとき、世にも恐ろしい電話が鳴ったのでございます。


二十一 タバコ場(銭谷警部補)



ToZ


本末の転倒。

飲みすぎは、やめておけ。

若者に迷惑をかけないようにしろ。


K 




 金石が辞めて、半年もしてから、わたしに差出人不明のメールが届くようになった。アドレスは毎回違う。問題のあるメールに見え、自動的に迷惑メールに振り分けられているのがほとんどだ。ふと気になって迷惑フォルダを開くと、何通も溜まっていることも多かった。一時季に数本のメールが来る。しかし、気がつくとほとんど来なくなったりもする。そもそも迷惑メールで削除されているのかもしれない。忘れた頃に数本がまた来る。

 挨拶も、宛名も、なにもない。ましてや金石だという証明はどこにもないし、金石であれば当然記すべき内容、例えば突然いなくなったことへの説明もない。

 ただ、本文から突然始まり、Kという文字で終わる。おおよそ他の人間では書けないはずのわたし宛の微妙な内容が記載されている。

 便利な時代になったのだろう。こういう風に、一方的に好き放題に言葉を送付して会うこともしないで済む。それでも、本質的に奴のことが好きだったわたしには、たまに来るその文面の内容が不快だとしてもなんとなく開封してしまう。やつからかもしれないメールが着信していることが何かの癒しになっているのだろう。でなければ忙しかったわたしが、迷惑フォルダを暇を見て探すようなことなどしないはずだ。もしくは最近見ることが増えたように感じるのは、おそらく、例の問題(ハラスメント)のせいかもしれない。

 今、わたしは二十年かけて積み上げた刑事の実績と、時間を失おうとしている。いや、もともと積み上げたものとか、成果実績そんなものは無く、ただのわたしの思い込みがあっただけなのかもしれない。若くして警部補だとか、捜査一課のエースだとか言う自尊心にもしてなかった言葉が、何故か今更、脳裏をよぎる。失ってから、初めて見えてくるものがあるのだろう。

「ここあいていますか?」

「ん?」

煙草場に自分がいたことも忘れていた。自席では仕事もなく、手持ち無沙汰で、このタバコ室にいることばかり増えている。机で昔吸えたタバコは、今は会議室でも吸えなくなった。

「お昼はご馳走さまでした。」

石原里美は、タバコの灰皿を見ながらそう言った。

「とんでもない。」

「女が吸うのはダメですか。」

「いや、気にならない。ただし」

「ただし?」

「妊婦には勧めないようにしている。」

「なら、大丈夫です。」

ライターを自分で取り出し、石原はタバコの火を灯した。

「自分一人で考えてみたんですが。」

そう前置きをすると、石原は、タバコの煙に載せるように、彼女自らの来歴を簡単に話し始めた。カレーでわたしが饒舌過ぎたせいで話しづらかったのかもしれない。もしくは彼女なりに午後の時間を使い、言葉を整理したのかもしれない。

 彼女自身の説明は短かった。短く終わったせいでその言葉は彼女が思う以上に、清々しく聞こえた。銭谷警部補のやろうとしてることに共感があると言ったところで、タバコを止めてわたしの方を見つめた。素直な眼差しだった。

「もう少し太刀川の件についてお話をお聞かせ願いたいのですが、だめでしょうか。」

石原の表情は真剣だった。

「事情があり、すまんが少し場所を変えても良いか。」

わたしの人事界隈の噂は聞いているだろう、と思いつつその説明はしなかった。場所を変えたいという話だけをしてわたしは石原の返事を待った。

 少しの間合いのあと、

「もちろん、どこでも構いません。渋谷でも新宿でも。タバコが吸えなくても良いです。」

と、快活な返事だった。

「ありがとう。」

「こちら、私の私用の番号です。チャットなどでご指示ください。」

「……チャット。」

「太刀川案件は、捜査一課の正規の作業対象としては時間を割きにくいと認識しています。」

「……。」

「ただもちろん、それをあえてどうするかという作業だと考えてます。なので私はこちらの個人携帯電話の方が助かります。」

石原はそれだけ言うとタバコ場を出て行った。



二十二 実験番号 #0298


 僕が彼女を初めて見たのは、小学校四年の春のことだ。

 一学年で十クラスもあった小学校で、教室が四年のクラス替えで隣になったのがきっかけだった。当時、多くの小学校にはそれくらいのクラスがあった。1組だと10組の人間の顔を知ることは難しかったとおもう。

 通常発見する美しいものの列とは全く違う、段違いの美しさだった。休み時間に廊下を歩くだけで、あたりの空気は一変した。自分はいち早くそのことに気がついて、それを誰にも言えなかった。多くの男子生徒は気がついていたと思う。どのクラスかわからないが廊下を歩くあの女は誰だ、と。少しずつ、周囲に知られていく。話題になっていく。僕は、密かに彼女の美しさがどこかで有名になって欲しくないとさえ思っていた。

 小学生時代は、休み時間を廊下でなるべく過ごすのが癖になった。

 稀に彼女が僕の目の前を通ることがあると、それだけで一日が清く晴れ晴れとした。

 毎年クラス替えがあるのは知っていたから僕は密かに期待していた。けれども十クラスもあるのでそれは叶わなかった。小学校時代に一度も、自分は彼女に話をしたことがない。


 運動会や、体育館で行う学校全体の行事だけは、例外的に堂々と彼女を視界に置くことができた。廊下での盗み見とは違い、適切な理由をつけて自分は彼女の姿を視界に入れた。髪型が変わっただけで、何か新しいものを得たかのような気分にもなった。

「川田木は好きな子はクラスにいるのか」

同級生の小林はそう言う会話が好きだった。

「そんなの、いないよ。」

「おれは秋葉がすきだけどな。」

「知らないな。何組だい?」」

「たぶん1組だな。ずっと端っこの方だ。」

「1組の人間まで調べてるの。」

「いやさ、通学路が近いんだ。」

「そうか。」

彼女の通う方角については、校門を出てどちらに曲がるかくらいしか知らない。さすがに後をつけることはできなかった。ただ自分の自宅の方角ではなく、少し裕福な一軒家の並びのある街区のほうに帰っていくので、通学路で重なることはなかった。

「8組の三田村純子もすごい人気だな」

「……。」

「知らないか?」

小林が下品な笑いの中で、気になる女生徒を並べた何番目かに、その名前が出た。三田村純子というのは彼女の名前だった。自分は聞かないふりをした。そうやって会話の材料になることで純子の存在が汚される気がした。

「知らない。自分はその子も、知らない。」

そういうのが精一杯の対応だった。



二十三 河川敷の電話(軽井澤新太)


 

 知りもしない番号からの着信画面をしばらく眺めた後に、わたくしは河川敷の土手の上で電話に出ました。今思うとどこかでボクシングの後の前向きな気持ちがそうさせた気がしました。

「モリヤともうします。探偵事務所さまでしょうか?」

「はい。」

「ええと、あれ、名前は軽井澤探偵さんでよかったですかね。」

そういう一見、紳士的な声が守谷と名乗る男との最初でした。

「はい。軽井澤ですが。」

「急ぎのご相談です。はい。特別料金をお願いします。ぜひ、一度お会いしてご相談をさせていただきたいのです。打ち合わせですが、新宿のわたしの事務所、でもよろしいでしょうか。はい。脅迫じみたことをされていまして。」

Googleは連続して客を連れてきたようでした。

「内容は嫌がらせの相手の調査と言うことでよろしいでしょうか。」

「そうです。」

「ではいつ頃にお伺いを」

「実はその、申し訳ないですが、今すぐお願いしてもよろしいでしょうか。」

「いまですか?」

「ええ。事態は大変に急を要しておりまして。住所を申し上げます。新宿区・・・の808号室です。」

電話の声は勝手に自分の都合で言葉を並べました。わたくしは、メモを取ることもしませんでした。

 本来であれば、多摩川の河川敷で受けた電話はわたくしは、断ることはない、と申し上げても良いくらいに、気分が良い時間なのです。万事ものごとには縁というものがあり、そして、このわたくしの最も優雅で爽快な時刻に電話を鳴らしていただけたということも、他ならぬひとつの御縁であるはずです。しかし、今は、風間の件で若干、顧客を選びたい気持ちが増しております。通常の仕事も残っております。急かされる仕事の連続は懲り懲りでございましたので、さすがに今すぐというのはお断りさせていただこうかと思い

「実は現在いくつかの業務が立て込んでおりまして、今すぐというのは」

とわたくしは、言葉を返しました。ただ、モリヤと名乗った男は、すぐさま切り返します。

「そこをなんとかお願いできませんか。お金はすぐにでも振り込みますから。」

「いえ、今月は我々は、なかなか課題山積でして…。」

とわたくしがそう話しかけたそのときでした。

「あっ、ちょっと、待てお前!うっ!」

という、モリヤの声と同時に、おそらく電話を落としたような衝撃音が受話器の向こうから致しました。そうしてすぐに、わたくしが声を出そうと躊躇するうちに、モリヤと名乗る男の声は、聞こえなくなり、しばらくガサゴソと雑音を小さくさせていました。

 問題はそのあとでした。

 なにやら、電話の向こうで、小さく

「やめろ、おい。」

「……。」

「やめろおい、なんだ……。」

という言葉が一瞬すこしだけ聞こえました。塞いだ口から漏れたような声色です。その小さな声はほんの束の間でありながら、恐ろしいほど震えや怯えがつたわる、小さな小さな声でありました。確かにそれは、元々の電話の主である、モリヤと名乗った男の声でした。

 ゾッとするくらいに押し殺した物音たちと、異様に力んだ怒気とでも申しましょうか、わたくしの想像では、布類などで口を塞がれたモリヤ氏がその奥底に激しい声を出している、喚き声とでも申しましょうか。そのような意味不明の断続音でございました。ぞっとする声と物音の連続はある種の冷たいものも感じさせました。歯医者で使うようなおかしな音もしました。切断音でしょうか?想像力過剰たるわたくしは、電話の向こうに何か血生臭い地獄があることを思わずにはいられませんでした。

 電話はそのまま切れませんでした。

 おそらく、ベッドの隙間なのか床の見えないところに落ちたものと思われます。もしくはモリヤ氏が意図的にそうやって、見つかりにくいところに投げたのかもしれません。

 そのあとは一定の時間、不気味ななにか、鋸のようなものを、動かしているような音と、そして気が狂ったようにバタバタとし続ける、あぅ、あぅ、という口を塞がれたおぞましい、声を止められた人間の呻(うめ)きのようなものが聞こえました。空想をしすぎとご指摘されるかもしれませんが、いや、音というものは言葉以上に実際を語るのです。そして、目を閉じた人間の想像には、際限がないのでございます。

 電話を切ることもできませんでした。電話を切れば、こちらから、また変な音でもしたら困るようにも思い、金縛りを打たれた石像のように携帯を耳に当て、わたくしは河川敷に立ち尽くしておりました。耳だけが壁のようになってその電話の音に張り付いていました。

 阿鼻叫喚の封じ込められた叫びが、全くの静寂に変わったのは、十分や十五分の時間ではなかったと思います。散歩の老夫婦が、わたくしの真横から多摩川の河川敷の果て見えなくなるまで歩いて行ったくらいで御座います。それでも不思議と電話の電源は切れずにいます。静寂が続きます。おそらく電話の主のモリヤと名乗る男は、何者かに襲われたのだと、わたくしは想像しました。そして、我々の事務所に救いを求めたのは、その襲撃が今にもくるのだと予感していたからなのではないかと。もしかすると、風間と似て、警察には言いづらい事情もあったのでしょうか。想像が行き過ぎかも知れませぬが、しかしながら、おおよそ全く筋違いとは思われません。

 そんなことをわたくしが妄想しているさなか、ようやく電話がぶつりと切れました。

 おそろしい音の世界との空想がやっと終わりました。ビッショリと胸板と背中と再び汗まみれになったわたくしは、受話器として持ち続ける左腕がここまで突っ張ることの異常を感じつつ、やっと終わりましたその電話に一瞬解放されまして、河川敷の草むらにしゃがみ込んでしまいました。

 が、しかし、心地を取り戻して河原を眺めた刹那に、実は時間差攻撃のような悪魔的な、二つの事実がわたくしの脳裏に落ちてまいりました。 

 一つ目は、そもそも何故、電話が切れたのだろうか?と言うことです。もしそれが本当に犯罪的な襲撃ならば、あの時電話を切ったのは、犯人に違いないのです。何故なら、モリヤが何らかの形で、助かっているなら、再び電話口でわたくしに助けを求めるはずですから。

 二つ目はもっともっと恐ろしいことです。じつは、襲撃者が電話を見つけ、通話の続く電話の画面を見た場合、逆算すれば、襲撃の一部始終が筒抜けだったことは即座に理解されるでしょう。また、番号を調べればすぐに軽井沢事務所は探知されます。

 もし殺人事件がそこに存在する場合、殺人犯は我々をその目撃者の一種類として、追いかける可能性がある。もしくは電話の持ち主を必死に探す可能性があるーー。殺人を隠すための殺人がしばしば存在すると言う恐怖がわたくしを襲いました。



二十四 芸能社長  (赤髪女)


 薬が足りなくなると、いつも過去のフラッシュバックがくる。

 いろいろな過去が襲ってくる

 覚醒剤中毒者は、過去との戦いに生きている。未来など描くことができない。未来を描けるとすれば、キマった時だけだと、赤髪女は思う。

 自分で言うのもなんだけども子供の頃は可愛かった。事務所に入ってアイドルみたいな仕事が始まった時も、普通に誰よりも人気があった。事務所の社長が自ら声をかけてくれて可愛がってくれた。それが贔屓目だったとは思わない。自分はあの頃、とにかく人気があった。

 でも、人間には向き不向きがある。もともとアイドルが好きだったわけでもないし、芸を磨きたいと言う気持ちなどコレっぽっちもなかった。歌の練習も踊りの練習もおしゃべりの練習もSNSの練習もどれも興味がなかった。ファンの人とのコミュニケーションにも興味なんてなかった。

 その事は事務所の社長にはすぐ伝わっていた。

 それでも社長は優しかった。

 もうすでに何回か芸能界でミリオンセラーを当てていて、引退したおじいちゃんのような存在だった。実際にもう年齢も八十歳位だったと思う。環境に適応できない自分に優しくしてくれた、と赤髪女はおもう。

 父と母が離婚したころ、厳密にいうと、アイドルを始めたあの頃は父がいなくなったころで、母親に新しい男の人ができたあとだったと思う。新しいお父さんだよと母親に言われた時、自分が消えていくような寂しさがあった。自分の芸能界はそうやって始まった訳で、アイドルになる夢なんてこれっぽっちもなかった。

 東京で一人暮らしを始めて、夜の街で遊びはじめて、いろいろな事を覚えていったけど、どこかで寂しさがあった。今でも何に自分が飢えていたり、なぜ寂しかったのか、はわからない。もしかすると今でも寂しいのかもしれない。

 社長はそういう私を見ては、声をかけてくれた。

 いろいろ気を付けるように、と言ってくれていた。

 周りのアイドルの子もみんな同じようにそういう場所で未成年なのにお酒を飲んで遊んでいた。でも、正直いうと、そういうのも含めて芸能界にあまり興味がなかった。だから遊んでいても楽しくなかったんだ。社長はそこまで見越していたように思った。なんでも週刊誌にたくさんお金を払って、記事を止めたりしていたらしい。まだそういう事務所の社長が強い時代だったのかもしれない。

「君に向いてる仕事あるかもしれないよ。」

社長がこの話を初めて私にした日のことを覚えている。アイドルの仕事とか歌とかそういうのが好きじゃない私に対して真摯に目を見て話していた。君は約束を守るからね。口も固い。そういう人にだけ向いてる仕事があるんだ。

 事務所のソファでタバコをしながら社長はゆっくりといったのを赤髪女は覚えている。

「約束を守る?」

「そうだ。」

「私が?約束を?そんなのなんでわかるの?」

「見てる人は、見てるよ。ちゃんと我慢ができるんだ。好きなことしかできない人間の逆なんだよ。」

「うん」

「我慢をしてるからね。この仕事は簡単な仕事だから。他の人に言っちゃっいけないよ。」

「うん」

「そうして、安定した時間を持てば、覚醒剤もやめられるかもしれないい。いいかい。覚醒剤は本当にやめられないんだ。」

社長は知っていた。遊び始めて、夜の街で私がどんなふうに遊んでいるかも。孤独に誤魔化して自暴自棄になっていたことも。そういうことも含めて心配していると、いった。

 恥ずかしい話、最初は、社長に呼ばれて仕事を紹介すると言われた時、てっきり売春か何かの仕事かなと思った。

 噂でそういう仕事があった。でも私はやっぱりいい社長と知り合ったのだと思う。社長はその頃もう病気が始まっていていろいろなものに、人生最後の優しさを与え出していたって、誰かが言っていた。人生の終わりにゆっくり、優しくなっていくんだと言う人がいた。

 社長は私にその仕事をくれた。

 その仕事は不思議だった。


 突然歩いている時に紙袋が落ちている。

 それを拾うと、紙にやることが書いてある。

 それをやると、紙をまた拾う。どこかに行けとか、書いてあったりする。

 またしばらくしてたとえばトイレに入ると、何か袋がある。

 お金が入っている。

 また、紙にやることが書いてある。。。


 繰り返すだけ。

 インターネットとか絶対に絡まない。電話もない。ただ、歩いていたり、コンビニに行く帰りとかに、いつも紙袋が多かったかな。

 そして、オーダーは一定期間続く。一度始まると、毎日忙しいくらい。でもそれは一年に何度もない。

 生活費とも丁度、リンクする。仕事も、仕事というより、封筒(おそらく、どう見てもお金が入っている)をどこどこの郵便受けに入れろとか、手紙を届けるとか、箱に入った何か(もしかしたら麻薬のようなものかも知れない)を、住所に届けるとかばかりだった。

 そうやって、ずっと仕事をもう8年もしている。それが少し変わったのが今回の仕事からだった。

 電話の指示になったのだ。

 それは大きな変化だった。

 今、赤髪女に電話をしてくる「指示者」はヘリウムガスの声で、決して名前は名乗らなかった。ただ、風間という人間のことを説明し、幾つかの電子器材を郵便ポストで渡してきた。当面この男を追いかけると言い、そして、猫の死体の嫌がらせを指示してきた。

 不思議な変化だった。 

 加えてもうひとつ変化があった。それは、これまで何となく一定に保たれていた自分の収入金額が変わったのだ。最初はさほど気にならなかったが、時間が過ぎるにつれて渡される金額ははっきりと意識するようになった。

 本当は、社長が生きていれば聞いてみたかった。社長はそういうことを、少しだけ、匂わせていたから。

「真面目に何年もやってると、少しずつ良くなる仕事だからね。どんな仕事も少しずつ、上に上がっていくんだ。真面目に続けることが大切なのだよ。」


 電話が鳴った。

 非通知の番号である。

 ヘリウム声の「指示者」からだ、と赤髪女は思った。



二十五 パソコンと変装(レイナ)



 自分を救ったのはパソコンと変装だったとレイナは思う。この二つは似ていた。パソコンは名前を隠せる。それは変装の一種だ。進化の中で次々と手法を深めた。顔も肩書きも確認がどんどん難しくなっていく。

 一つの人格で生きることと違って何らかの解放がそこにあった。世の中が停滞していてもその解放だけは、世界中に広がっていくのがわかった。

「新しい自分でいいのよ。レイナさん、あなたには才能があるから。」

その言葉が今も響いている。鬱屈として壁の隅っこで一人で体育座りで朝から晩までを過ごしていた頃の自分とは違う。言葉を脳に通わせずに、怯えた動物のように震えたまま時間を過ごしていた頃とは。

 パソコンは不思議だった。

 学校みたいな先生がいない。

 どこまでも窓に文字を打ち込み続ければ、答えがどこまでも続いていく。でも打ち込まなければ、何も言ってこない。


 線路は続くよ

 どこまでも


現実では、線路はどこまでも続かない。それより先には行ってはダメだって大人がいう。永遠は嘘だし絵本の線路にも必ず、ページの終わりが来る。

 パソコンは違う。

 終わりがない。

 本当に終わりのない線路だって作れる。

 永遠だ。

 永遠に時の流れの中で、無限に、宇宙のはじから反対の宇宙の先まで、繋がっていくくらいに、限界がない。終わりがない。全てのWEBページを見終わっても、まだ今、新しいページが生まれ続けている。そして、どこまでも、いつまでも繋がっている。

「そういう風に考えるってことは、あなたには才能があるのよ。」

またその人の言葉が耳に届いている。

 パソコンにはもう一つ特徴があった。

 全てが解決されていた。

 自分で自分の名前をつけることが「基本」だった。そうしてその名前も、ある程度すると、変えることもできるし、更には複数持てるのだ。全て自由だ。最初から誰かに変装して生きることもできる。

 自由な名前で作った、自由自在のスクリプト構文が、動き出す。自分が作ったものが世界中で、テクノロジーの部品になって動き続ける。誰にも実際には会わず、スクリプトだけをパソコンに打ち込んでいるのが一番いい。そうしてそれらの言葉たちが、最大限に能力を発揮して、レイナのために動き出してくれる。寝ている時も他のことを考えている時も、スクリプトは自動で作業をしてくれる。

 レイナはその束にまた新しい技術を試し始める。テクノロジーの寿命はどんどん短くなっているから、その生まれては消えるサイクルは瞬間的になっている。

「あなたには才能があるのよ」

その言葉が音符のようにレイナの耳に流れていた。




二十六 アメ横問答  (石原里見巡査)


「御徒町のパンダの前で」

というメッセージが銭谷警部補から入っていた。

 不思議な人だと思う。

 仕事の鬼と呼ばれ、捜査一課のエースで実績も誰よりもある。メディアでもかなり注目された大事件捜査の中心的役割をいくつもこなしてきている。そこには、ほとんどの若手がまだ学生の頃にテレビで見た事件も多い。それでいて、そう言う過去の実績を説明する言葉を器用に持っていないように感じる。多くの刑事は自分の過去の手柄を語るけれども、銭谷警部補にはまずそれがない、と石原は感じた。

 剛腕ゆえのパワハラ、というがそういう空気も少しも見えない。何かに威張り散らす種類の人間を石原里美は想像していたが、どう見ても相容れない気がする。とりわけ実際に銭谷本人と話してからの石原の印象はそうだった。

 今、待ち合わせを霞ヶ関から距離を置いてくれたのは石原としてもありがたかった。


 御徒町のパンダ


は、駅を降りてすぐに誰に聞いても簡単にたどり着くくらい明確な場所で、待ち合わせに適していた。上野という街が、パンダに強く連動した過去があるのはネットで少し後追いした。石原は御徒町のパンダに五分も前に着いた。銭谷警部補は既に到着していた。

 特に立ち話することもなく、銭谷警部補は小さく頷くと、無愛想に先に歩き始めた。横断歩道を渡る時にも、石原が後ろについてきてるのかも確認もせず、アメ横の混雑をまるで人がいないかのような速度で歩いていく警部補は、お世辞でも女性の誘導が得意とは言い難かった。ふと、仕事の鬼は独身、という言葉が石原には思い出された。

 二つくらい角を過ぎたところでガード下の道に入った。上を山手線や京浜東北線などが走るガードの下にレンガ作りの旧式の構造があった。その地下を勝手に掘ったような入口があり、奥に、赤提灯で「ホッピー」という文字が揺れていた。



二十七 指示者の電話 (赤髪女)


「指示者」はいつものヘリウムの声だった。

「西馬込はどうだ」

「はい。風間と名乗る男ですが、西馬込の自宅を出た様子があります。」

赤髪女は答えた。

「ふむ。」

「不動産屋を回っています。五反田から青山まで来て、それから芝から有明の方に降りていっています。」

「有明?」

「はい。埋立地の方まで回りました。」

「ふふ。なるほどな。まあ、想定の範囲ではある。」

「想定の範囲?そうですか。わたしもよくわかりませんが、風間は今日一日、住み替えのために不動産を転々と歩いた様子があります。」

「なるほど。猫の臭いに苦しんだようだな」

「はい。それは、もう。今日のところは、少し内陸に入った錦糸町の安宿を見つけて泊まったようです。」

「錦糸町…。GPSは便利だろう。」

「ありがとうございます。」

「綾瀬のもう一人のほうはどうだ」

「そちらも、コンタクトを始めていますが、時間がかかっております。」

「……。」

「GPSは彼にはうまく設定を出来ずにおります。」

「警戒心が強いはずだ。無理はしないでいい。」

「はい。」

「綾瀬は、少し別のやり方を考える。そのことは模索している。そのために金を用意するから、届けておく。」

「金ですか。」

赤髪女は「指示者」の言葉がわからない時がある。知的な人間にありがちな、説明を端折ることが多い。しかし、それを質問するとヘリウムの声でもわかるほどに不機嫌になるのがわかる。

「GPSを付けられないのなら、別のやり方で位置を把握する、ということだ。そういうやり方を今考えている。金はそれに使うから、持っておけ。意味がわかるか?」

「は、はい。ありがとうございます。」

「以上だ。」

「ありがとうございます。」

「うむ。」

指示者は、納得したような間合いで頷いた。赤髪女は、金が届けられると聞いて引き続き仕事が続くことに安心した。実は金銭収入が増えたのを理由にまた覚醒剤に手を出していた。薬のためには今の良い条件での収入が必要なのだ。

「他に、何かあるか?」

「すいません。実は、一つ気になることが」

「なんだ」

「西馬込の風間についてなのですが。」

「なんだ?錦糸町にいるのだろう?」

「探偵に相談をしている様子があります。」

「探偵?」

「はい。」

「なんで探偵なんだ、突然。」

「指示者」の声が、なぜかそこで焦ったように赤髪女は感じた。

「わからないのです。それこそ彼に金があるとは思いませんが、風間は不動産業者を回る合間に、探偵事務所に寄りました。」

「うむ。」

「なんという事務所だ。」

「はい。軽井澤探偵通信社、という、西麻布交差点から青山墓地の方に入ったところにあります。」




二十八 アメ横   (銭谷警部補)



 わたしは石原のメッセージにアメ横の御徒町駅側を指定した。上野駅より、こちら側の方がアメ横の中に入りやすい。待ち合わせの場所という言葉に、不慣れなせいで、指示には少し困った。自分にとっての誰かと落ち合うのは、通常は殺人現場になるからかもしれない。

 石原は日中と変わらぬ濃紺のスーツ姿だった。髪をかき上げながら歩いてきた。

「お時間、ありがとうございます。」

「……。」

私は特に説明もなく、ホッピーを飲ませる地下の串焼き屋に入った。その店は立ち飲みで、とても女性を招待するような店ではなかったが、そもそもわたしは適切な店を知らない。

 ゴツ、という音をさせてジョッキのセットが運ばれた。煮込みと、マヨキユウが続き、狭いカウンターが皿で溢れた。沈黙に苦しむ必要もない、いかにも落ち着きのない店の空気が良かった。

「そもそも、なぜ銭谷警部補は太刀川の事件を追うのでしょうか。」

石原は少しずつ酒が入った頃に、直球の質問を始めた。

「別に、過去を追ってるのは、太刀川の事件だけじゃないさ」

「え。」

「色々な過去のものが常に脳裏にある。」

半分嘘で半分本当だった。非番の日まで頭を使うほど、刑事の仕事ばかり考えている。

「どういうことですか。」

「うまくいえないが。刑事も二十年もやってるといろいろと過去の負債が育つんだ。」

「ふさい?二十年の負債ということですか。」

わたしは金石のことには触れずに、概論から話しをしようと思った。勤務時間外に酒を飲んでいるのだから結論を急ぐ必要はないだろう。

 六本木ヒルズの事件のことや、その周辺で自分が関連すると位置付けて内定捜査を続けていたもう二つの事件のことなどを外側から話した。また、彼らの背後で株の取引、つまりマネーロンダリングに近い形での資金の移動もあった可能性についても話した。ただ、その捜査の中にもう一人、捜査二課の刑事である金石がいたことは、言わなかった。最も重要な前提をいうことをわたしは躊躇した。

「失礼いたします。」

石原は、ようやくこの店で初めてのタバコに火をつけた。

 吸い方が美しかった。第一印象では強めに感じさせず、むしろ後から追いかけてくる種類の美しさが稀にある。石原の風情にはそういう種類の好ましさがあった。自分が酒に酔ったのか不安になりつつ、思わずタバコをつかんで、

「警視庁の未解決案件というのを、知ってるか?」

「聞いたことはあります。」

「どういうふうに?」

「未解決事件は、384件。班もある。」

石原は、正確にその数字を答えた。

 わたしは、あれ、と思った。このように数字を明確にいうのは、興味を持って調べたことがある証左でもある。

「それとは違いますか?」

「ああ。良い質問だ」

タバコの煙がふんわりと我々の間で雲か霞のように濃くなった。

「384件は、未解決とは言っても、警察が事件と認めていて、警察として悔しくも未解決だと、公表しているものだ。捜査は続いているし、時効に近づいているものもあるが、比較的堂々と仕事ができる。」

「なるほど。」

「まあ、ある意味、大手を振って捜査ができる。」

「はい。」

「わたしの未解決は違う。例えば太刀川はそのひとつだ。」

わたしはジョッキのホッピーを煽ってから呼吸を整えるようにして、

「奴の事件は、警察がもう解決したと宣言してしまっている。未解決ではなく、解決済みなんだ。もはや、事件でもない。警察組織として解決済みだ。」

「……。」

「つまり組織としてもう捜査が終わったので調べる必要はないとなっている事件だ。むしろ調べてはいけない。」

「なるほど。それはわかります。」

「そもそも、納得のいく犯人が出てきて過去を覆す自供したわけではない。いやもはやそういう人間が出てきたら、逆に困るくらいだ。三人も死んでるにもかかわらずだ。」

「三人は初耳です。」

「そうだろうな。世の中的には全く別の事件に思われている。」

そうだ。その三つをつなげて、世の中に出してしまおうと金石とわたしはやっていた。奴(金石)は確信していた。証拠、証言は集まりつつある、と繰り返していた。その内容を最後までこのわたしには告げないまま。

 わたしは、もう一度わかりやすく、六本木ヒルズでの事件と、沖縄での変死、もう一つの死亡事故を言葉を足しながら、なぞった。最初の二つは報道も良くされたから、石原も知っている。世の中でも、不審なことを言われた事件だった。

「警察組織として、ヒルズの事件は一貫して殺人としての捜査をしていた。殺される理由が、女性の被害者にはあったし、その仮説の方がよほど自然だった。」

「……。」

「それがある日、上層部から、これは事件ではなく事故だとかいうのが、降りてきて、手をひけとなった。突然だった。捜査本部の解散は。」

追加した二回目の煮込みや焼き物数本がゴツンとカウンターに置かれた。石原里美は美しい所作でそれらを並べ直した。こういう労働者向けの飲み屋は男性だけのものではない。むしろ女性の色彩が入ることで映画のような清冽を生じることがある。

「上層部の誰が決めてるのかはわからない。ただ太刀川のことを堂々とやれば上から待ったがかかる。」

「なるほど。」

「だが多くの人間は多少は疑問に思っていた。当初はわたしへの同情もあった。だから、ある程度の捜査をすることは暗黙の中で許されているつもりだった。」

 石原はタバコを消しながら、小さく頷いた。

 わたしは話をしながら少しずつ、石原の様子を探っていた。それは人間としては嫌な嗅覚を使う作業だった。直感で信用をしているからこういう場所で飲んでいるが、残念ながらパワハラの件もあり、最近の若者というのを無闇に信じきれなくなっていた。

 昔からある程度の若い刑事は、警視総監が解決済みにした事件を、裏返し、真実を暴くことに興味を持つ。誰もがたどり着けなかった真実にたどり着く事は、やはりいつの時代も警察官にとって究極の夢なのは変わらない。問題はその一箇所にこだわり続けられるかである。今の若者には選択肢が溢れている。最初はニコニコ頷きながら、参加する。しかし実際の捜査が難解で作業量が多く、簡単に進まないとわかると、少しずつ面倒になり、諦めてしまう。他にたくさん選択肢が存在するのだ。ある意味、小板橋もそういうことだ。ましてや太刀川の件は上層部が「閉じた」仕事なのだ。若い石原巡査もどこかでその波に攫われる時が来る。

 わたしはホッピーを煽った。

 わたしが黙っている間、石原も黙っていた。

 力みが伝わるのかも知れない。

 六本木ヒルズの女子大生の死亡は、事故ではなく、殺人だった。それを警察組織が何らかの力学で捜査を終わらせた。少なくとも当時の現場の認識はそれだったはずだ。圧倒的にそういう真実だった。

 殺人ではなく、事故になった。

 関連は知らないが、捜査本部解散を命じた早乙女が課長に出世をした。

 そして、金石は警察官を辞めた。

 ゆっくりと時間が経っていくうちに、まるで世の中が忘れるのと同じように、事件は過去になっていった。金石のことを思い出す人間は警視庁にどれだけいるだろうか。現場が殺人事件と疑わなかったものが、薬物の結果の死亡事故に処理され、やがては報道さえされなくなった。太刀川は会社を辞めて世の中から消えたようになった。早乙女は捜査一課長という肩書きに馴染んでいった。

「まあ、そういうことだ。」

話がまとまらなくなっていったのと、酒のせいで自分の頭の中の整理をどこまで話しているのかも不安になっていた。少し後悔しながら、わたしはキューリを齧ってごまかすようにそう言ったところ、

「おもしろいじゃないですか。」

石原はそう言った。

「そうかな。」

「はい。面白いと思います。太刀川のあの事件が実は真実が違っている。殺人事件が背後にある。つまり殺人犯がいるかもしれないが上層部の判断で、何か隠蔽があったかもしれない。」

「まあそうだ。」

「面白いと思いました。」

最初は誰しもそういう。わたしは、特に驚きもなく石原を見つめ返した。

「まあ、そうか。」

わたしがそう言ってタバコを繰り返すと、石原は少し考え事をしたようにしながら、美しい頬に、ホッピーを持っていった。少し多めの量を喉越しでやってから

「面白い話だという意見に加えて、一つ質問してもよろしいですか?」

と言って、こちらに少し向いた。

「もちろん質問はなんでも構わない。」

「銭谷警部補は、こういう話を、少し諦め気味に話してますか?」

「諦め気味?どういう意味だ」

「いいえ。ただなんとなく、そんな気がして」

「どういう、意味だ。」

「そんな気がしたのです。」

石原は、小動物のように輝く黒い瞳で、わたしを見つめていた。タバコの煙が、彼女の手前で揺れていた。

 わたしは、少し背筋を伸ばした。そんなことはない、という反論の言葉が喉から出ていかなかった。彼女のいう通りだと思いながら下を剥きそうになった時、

「失礼しました。諦めていらっしゃらないはずと思っているから、今日ここにきたのもあります。お許しいただけるのなら、もう少し詳しく太刀川の件も、他の作業についてもお聞きしたいです。」



 

 


殺人の五日前 (九月十日)  



二十九 地下鉄  (太刀川龍一)


 朝陽が六本木の夜を乾かしていた。

 太刀川は、ヒルズ・メトロハットの横を抜けて、六本木通りからそのまま日比谷線へと降りた。六本木には地下鉄が二つ、日比谷線と大江戸線が乗り入れている。

 一度図面を見ると何でも記憶してしまうのである。太刀川の脳裏には。東京の地図に合わせて、高速道路の地図、水路の地図が重なり、歴史的な笄、角筈など江戸の切絵図から、明治大正昭和と移ろう街並から、路面電車と呼ばれた都電の路線図までもが詳細に重なっている。

 地下鉄路線図は特に頭に入りやすく、赤坂見附と永田町のように、別の駅だけども実質は地下で連結している駅だとか、地上からの階段が、JRとどう連結するかの類いまで、脳が面白がって記憶をしてしまう。その時代ごとの人流の円滑性や滞留を、予算の範囲で苦心した公共設計者らの、奥深い工夫を見るのも、太刀川には楽しみなのである。

 毎朝六時には六本木の自宅を出る。

 朝を歩く。

 テレビもスマホも見る事はなく始まる一日である。

 それは、人類がだいぶ前に忘れた喜びに満ちてもいる、と太刀川はおもう。小鳥のさえずりを聴きながら足を進める間に朝の陽射しが角度を変え、街の匂いが変わっていく。微妙な変化を感じられるようになったのは、インターネットを離れたーーあの五年前の頃からである。

 六本木の駅のホームに降り立つ。

 早朝の地下鉄は通勤客がすくないのが良いと、太刀川は思う。車内一両あたりせいぜい三、四人しかいない。日中はこうはならない。

 日比谷線を霞ヶ関方面に乗った太刀川は、あたりを眺めながら、様々な思索を続けた。

 ポケットに文庫本を一冊。あとは何も持たない。約束は全て頭の中だけにする。すべては心の中に描く。描ききれなければ、それで良い。忘れたら、忘れてしまうような内容なのだ。

 さて。

 太刀川は、今日の予定を思い返した。

 夜は銀座の会食まで未だ時間が余っている。

 それまでは、またゆっくりと東京を散策するだろう。

 太刀川は、他人事のように、そう思うと再び文庫本を開いて没頭した。



三十  四ノ橋  (軽井澤新太)


 多摩川の河川敷から真っ直ぐに帰宅したのち、わたくしは四ノ橋の自宅で一人唸っておりました。お酒の力で無理やり眠りについても、小一時間もせずに目が開きます。起きるたびにスマートホンで新宿や歌舞伎町などの言葉でニュース検索を続けましたが、河川敷での断末魔のような電話に紐つく報道は未だございません。

 普段しない事ですが、念のためテレビをつけ朝四時台から始まる各局のニュースも眺めましたが、どこにもわたくしが想像したような報道はございません。その間もただただ昨日の河川敷で手に取った電話向こうの恐るべき想像がわたくしの脳裏に繰り返されます。

 音とは恐ろしいものです。

 例えば、人間を殺す音と、食肉を骨ごと切断する音と区別はつきますまい。

 殺人音はすなわち、日常の生活音の中にあるのでございます。

 文字の物語と言うのも人類に多大なる想像力をもたらしてきたものと思いますが、今一度、音だけの物語と言うものも試してみると、その凄まじさに驚きます。思えば庶民が文字を知らぬ時代から、祇園精舎の鐘の音と、平家物語が口頭伝承の物語として十二分にあの時代の合戦を描ききったように、音は実のところ文字のない音だけでも十分なのです。音だけで人間の脳内で縦横無尽に贅沢過ぎるくらいに暴れうるのです。

 自己の精神の全量が掻き立てられ、自由か不自由かも分からぬ冥路へと向かって全神経が疾走をする。音が勝手に妄想させる。昨日の什器のようなもので肉を打ち裂く音が、殺人の光景となってわたくしの脳裏を席巻します。叫びを抑えた嗚咽はわたくしの網膜に具体的な人間の血の場面を妄想させ、映画のような画面となって脳髄を赤赤と染めます。

 ややもすれば失われつつある、四ノ橋の自宅のちっぽけな現実に戻ろうとわたくしは、必死に自意識に訴えます。しかし自意識に戻ろうとすればするほど今度はまたもう一つの恐怖がわたくしを包みます。

 たとえば、軽井澤探偵通信社のホームページには、私の電話番号の記載をさせていただいております。住所も記載されております。Googleの検索でもすれば、辿り着きやすい場所になります。そのために晒しているのですからその通りなのですが、じつは、ネットの世界というのは追いかける時は便利で気がつかないものですが、追われだすと逃げられる場所などございません。ホームページ、などと気軽に設置しますがもし悪魔がそれを見つけ、いざ追いかけてくることになればこれほど対処の手段のないものはございません。住所も電話番号も晒されているのですから。

 わたくしは、布団を被りながら、自らの置かれた環境を幾度も分析を繰り返しました。

 昨日の河川敷の電話は、そこから聞こえた音を総合すると、室内からのものだと思われました。逆に言えば、室内つまり事務所のような場所で電話をしていたような人間が、突然、電話を奪われリンチのようなことにあったように思われるのです。そんなことは素人では難しいことです。素人だと想定することには無理がございます。何者かが暮らす部屋に、部屋の構造も分からずに人数で押し掛け、電話中にその人間を取り抑えると言う事ですから。結論として、素人ではなく組織の仕事なのだと思われます。

 そんな組織犯罪者が襲撃の後、電話がかかりっぱなしだったことを知ったかもしれないのです。どういう行動に出るのか。単純な恐怖です。被害妄想も甚だしい、と言うご指摘は甘んじて受けましょう。わたくしとしましては、この一連の想像が当たってしまわないことを祈るばかりなのでございます。


 始まってほしくなくとも、一日は始まります。

 本日、火曜日は毎週、墓地裏の探偵事務所オフィスでの定例ミーティングがあるのですが、わたくしは四ノ橋の自宅を出てからも当然このことが頭から離れませんでした。いつもなら少し優雅な気分になる広尾の垢抜けた界隈から西麻布の交差点に向け段々と色彩が変遷する街並みも、全く脳に呼び込まれずにいました。それどころか、いつもは気にならぬ笄公園の前にある燻んだ水色の犯人護送車の列が妙に気になりました。それらは執拗にわたくしの心理そのもののように冷たく暗鬱に沈んで見えました。




図X 地図図面


 四ノ橋→広尾→西麻布→青山墓地




 ほとんど役にたつ答えも見つけ出すこともできぬまま西麻布交差点を越え、青山墓地の崖の裏にある我が事務所まで辿りついておりました。

「おはようございます。」

事務所の扉を開けると御園生くんの大きくて元気な声がありました。

「おはようございます。」

と声を返すのがやっとの有様でございました。

「あれ、軽井澤さん、どうしましたか」

「あ、はい」

「なんだか軽井澤さん、いつもと違うかなと思いまして。寝不足ですか」

好青年でありながら、細かい点にも意外と気が利く御園生くんは、朝の挨拶から私の一連の状況を察したのかもしれません。

 事務所に入って定例ミーティングの準備をする間も幾度となく、御園生君とわたくしはお互いの違和感の中にありました。二人しかいない事務所ですから日常との差異はなかなかごまかせるものではございません。ごまかしながら過ごす時間というのも苦しいものでしょう。

 やむなく、わたくしは昨日からの一部始終を簡単に説明をしました。

 突然の電話。軽井澤と私の実名を名指してきた男。それから始まった、河川敷でなければ耐えうることのなかった阿鼻叫喚の「まだ見ぬ音の物語」を、わたくしは淡々となるべく概略から、語りました。

「なるほど。」

「まぁ少し、考えすぎなのかもしれませんが。」

「ううん。そうですかね。」

「まあ、どうでしょう。」

「そうですね。」

それからは、定例会議らしく、昨日の風間の話や、仕掛かっているいくつかの仕事の確認を行いました。手際良く、てきぱきと、いくつかの支払いの事や、今後の予算の事なども話しました。多くの意味でこの御園生と言う青年に私は助けられておりまして、この火曜日定例会はとても大事になっております。

 あらかた、仕事の確認が終わったところで、秘書のいない事務所らしく缶コーヒーを冷蔵庫から取って並べました。煙草に火をつけて一服といったところで、御園生くんは言葉を選ぶようにしながら、

「やっぱり、軽井澤さん。」

「はい」

「軽井澤さん、新宿歌舞伎町に行きませんか?」

実は私は心のどこかで歌舞伎町には行かなければいけないと思っていました。ただ、それと同時に筋の悪いであろう仕事に御園生君まで巻き込みたくないと言う気持ちもありました。

「もしかしたら、その男の、ただの持病か何かの発作とかかもしれないですしね。だとしたら、今からでも行ってあげたほうが、後々、嫌な思いもしないで済みますからね。」

御園生くんは、もっともなことを言いました。どこかで彼の優しさもあるのを、言葉選びに感じながらわたくしは頷きました。

「なるほど。」

「いずれにせよ、こんなことで、軽井澤さんが心配事を抱えるのは損ですよね。僕もいつもの元気な軽井澤さんと仕事したいですから。」

そう言って、御園生君は快活に笑いました。屈託のない好青年の笑顔で、ああなるほど、彼は女性に人気者なのも理解ができる、と普通に思いました。

 あえて付け加えれば、人の手助けをしたい、という熱気がそこには横溢してありました。わたくしは彼の父親である御園生先輩のことをふと思いました。人助け、と言うその言葉の崇高なる意味合いを、私は過去の自分の人生も含めて複雑な気持ちで思い返しておりました。日常は、そういう過去へ遡ることは考えないように仕事をしていますが、こうやって非日常的な切り口がやってくると、どうしても人間とは不思議と多くのことを思い出すようでもあります。わたくしの目の前の快活な笑顔は、父親の御園生先輩にはさほど似てはおりませんでしたが、笑顔の雰囲気そのものになにか親子の感覚が二つ重なってその場に凛としたように思われました。

「ありがとう。」

「いえいえ。それでは、さっと新宿まで参りましょう。」

事務所を出ると、離れの角に半分公道にタイヤをはみ出した小さな車があります。軽井澤探偵社の社用車のマツダのキャロルです。普段は思い出すことはしないのですが、御園生君が運転席に座った時に、父親である御園生先輩が同じようにそこにいた記憶を思い出しました。

 この古い黄緑色の中古の軽(キャロル)には、御園生先輩と一緒に取材で動いた時の記憶がいくつも残っています。気持ちが叙情的になるのを誤魔化しながら、わたくしは小さく深呼吸をしました。



三十一 布団   (銭谷警部補)


 昨夜の上野は、明らかに飲み過ぎだった。

 わたしは自宅の布団の中で二日酔いをなだめていた。

 酒が美味くなるのは、後ろ向きではなく前を向いた時なのだと思う。壁に突き当たっていても前を向いていれば美味い。何かを追い求めていることを前向きといい、追い求めることを諦めた状態を後ろ向きと言うならば、わたしは、太刀川に向けて少し後ろ向きになっていたのかもしれない。

 布団の中で酔いを冷ましながら昨日の石原との泥酔の中の会話をなぞっていた。もっとも泥酔が確かだったのはわたしの方で、若い石原はどれだけ酔っていたのかはわからない。

 何杯目のホッピーだっただろうか。

「たとえば、太刀川が、インターネットを離れてたと主張していることについて?どうお考えですか?」

「主張している?」

「ええ。昨日の小板橋巡査長との取り調べの際にそういう会話があったと思います。」

「太刀川が主張していたように聞こえたか。」

「はい。インターネットなんかはもう関わってもいないし、アカウントもないとわざわざ繰り返していたように思えました。」

石原はタバコを左手で吸いながら、右手に座るわたしの方角を漠然と眺める。目は見てはいない。目を見るのは、話がひととおり回ったあとだ。結果、わたしは安らかに酒を煽りながら話すことになる。間合いや空気が良かった。いつもより饒舌になったのはそのせいだろう。

「どうだろうか。わたしは少なくとも、太刀川がインターネットを離れたという言葉は疑って聞いている。」

「なるほど。」

「ただ、そのことは過去にも随分調査をした。結論、全てアカウントを落としているのは確かだ。少なくとも電話番号さえ持っていない。なので奴から個人情報をサイバー空間で得れることはなかった。いや正確には五年前からなくなっている。」

「五年もの間ネットに触れない、となると、相当不便ですよね。」

「まあ、そうかもしれない。」

「太刀川くらいになると、幾らでも抜け道を作ろうと思えば作れるのかもしれませんが。」

その時、石原は小さく私を傷つけないように話した気がした。わたしはネットを捨てた男として太刀川のことを奇妙に思ってもいる。事実としてあの男は、携帯電話を持ち歩いてはいないし、自宅にインターネット回線もない。そのことを石原は偽証(フェイク)ではないかと感じているらしいが、わたしはといえば、少し、太刀川の気持ちもわかると思っていた。色々なものを追跡され、ネットの側から警察に丸裸にされた。いつまで監視されているのかもわからない。管理・監視される気分は嫌なものだろう。実際に、捜査や世間からの攻撃で太刀川は疲れ果てていた時期があった。

「そもそも、その事自体が、嘘にも思うのです。」

石原は主張するように言葉を置いた。タバコを持つ左手が立ち飲みの壁の方に少し高くなる。

「うそ?」

「ええ。SNSなどあらゆる場所から退出した事で、ほとんど世の中は彼のこと、太刀川のことを忘れていきました。太刀川はもはや過去の人です。」

「……。」

「金を稼いだ太刀川が、もう引退の気分ならそれでいいと思います。でも銭谷警部補、太刀川龍一のあの眼差しはわたしにはそういう状態にはどうしても思えません。むしろ、世の中に対する強い何かの気持ちを隠している気さえします。」

「なるほど。」

「どうおもいますか?」

「正しいかもな。」

「ほんとうですか?」

石原は少し艶のある顔をした。

「あるといえば、あるかもしれない。と言うのも奴は、なぜか毎日誰かしらと会い続けていた。」

金石と飲んでいたころ、会話の中で自分の脳の奥の方に消えていた記憶が再生される感覚があった。饒舌になっていくスイッチを押すやつだ。つまりは、酒がうまかった。

「ひととですか。」

「連絡の手段も想像できないが、夕方になると、銀座だ、赤坂だで何故か飲んでいた。」

「どうやって。」

「大企業の幹部や議員などだ。事件が終わってから定期的に尾行をつけていたから間違いない。」

「なるほど。」

「やつは行動に幾つかの特徴があったんだ。」

「特徴?」

「うむ。例えば、毎朝地下鉄に乗る。」

「地下鉄?」

「六本木ヒルズの別の部屋に引っ越したんだが、流石に事件後は流石に夜な夜なの動きは無くなった。ただ朝が早くなった。朝から地下鉄に乗る。」

「朝からですか。」

「ああ。でも地下鉄に乗る割には、大抵日中、どこかにアポがあるわけではないのだ。アポは、夕方までない。」

「アポもなく朝に?」

「ああ。きまって朝六時半ころだ」

「六時半ですか。夜遊びをしていた人間とは思えないですね。」

「そのことについては、本人に一度聞いたこともある。そうしたらどう答えたと思う?」

「想像がつきません。」

わたしはそこでようやくタバコを口に持ってこれた。一呼吸してから、

「東京の街を散策してるらしい。」

「街を?東京の?」

「そうだ。この町の歴史や文化を、仕事から離れてみるとちゃんと学び直したくなったのだと。そうしてそんな話をするのに、人と食事に行ったりしてるらしい。」


二日酔いの布団の中でわたしは必死に昨夜の記憶を正確に再現しようと必死だった。ホッピーの何杯目なのかは、もう数えられなくなっていた。アルコールで意識が後半から遠ざかり始めていく。そうして前後の脈絡の全く思い出せない時間帯で、とある石原の言葉が残っている。その時石原は、タバコを一旦消して直角にわたしの方を向き直した。言葉を明確にしますよという表情をしたせいで、泥酔の中で脳がそこだけ薄れる記憶の中で明確な現実を作っている。

「警部補。これから、よろしくお願い申し上げます。」

「よろしく?」

「はい。私で良ければ銭谷警部補の作業に、ぜひ参加させて頂きたいです。太刀川の尾行がたのしみです。無論、この件は隠密、銭谷警部補とわたくしだけのことにしてください。その方が作業の性質上よろしいかと考えます。」

石原がその言葉を言った前後の会話がわたしには思い出せないままだった。いくら脳の中を探しても、前後の会話が呼び戻されることはなかった。



三十二 分裂   (レイナ)


 人格の分裂はネット上では日常的なことだと、レイナは思っている。

 インターネットには最初からそういう魅惑がある。例えば別の人格になっても構わない。別の人格で誰かと言葉を交わすこともできる。そうやって人間関係を擬似的に構築して、誰かの生活を覗き見することさえできる。透明人間のようにして相手だけ調べていくネットの空間に、人間が中毒になることがあるのは、自然なことだとレイナは思う。そうしてそのさきに人格が二つ三つと割れていく場面がある。

 レイナは、初めて佐島恭平になった日を思い出していた。

 誰一人自分を知らない、そう確信して、街を歩くのはなかなかの気分だ。ほんとうの意味で、自由そのものなのかも知れない。二度と訪れはしない異国を旅をする自由はこんな感じだろう。自分の人格も、自己紹介も、すべてウソで良いのだ。過去にどんな失敗や恥ずかしいことをしたとしても、関係がない。全裸で歩いてもいい。なぜなら自分はその社会に本当はいないのだから。

 佐島恭平になって歩くとき、レイナは背が高いことを、少しだけ喜んだ。自分で言うのもなんだが男としての、スーツが似合ったし、中に入れた胸板や肩の襦袢も、いい形でおさまった。そこにいるのは自分ではなく、誰も知らない見たこともない人間なのだ。

 幸福感があった。

 自分がいないことの幸せは不思議だった。

 消えていくことの幸せ、は、自殺者の気分と近いのかも知れない。

 自分だけでなく、世界も同じような変化の中にある思う。生身の自分自身は一個しかないのに、複数のレプリカントが生まれては消え、人間が分離可能になっている。そうしてもしかすると、肝心の自分自身が消えてることもあったりする。むかしのSFで自分を殺して人造人間になる話があったが、もうすでに現実に近づいている。

 パソコンの中では新しい人格が公然と市民権を得た。twitterの中ではいくらでも自分を偽造し、増殖させることができた。Googleのメールは何個でもアカウントが作れる。

 自分が目撃されない。

 この幸せのことをレイナは「その人」に話したかった。

 レイナがどういうふうに悩んで、どういう風に解決されて今があるのかを、その人に話したかった。

 けれども、その人とはもう会えない。

 いや正確に言えば、その人に会えなくなって、レイナは必死に、この変装という作業を執拗に始めたのかも知れない。

 少なくとも今の自分があるのは「その人」のおかげだ。



「ピアスを開けたいの?」

「その人」はまん丸の目でレイナにきいた。最初のピアスを開けた時のことだ。

「うん。ピアスを開けてみたい」

「いいじゃない。自由にしましょう。」

そう言ってレイナに優しく微笑んだ。

 まだ、お互いを自己紹介もできていない時だった。

 春の前のまだ寒い冬の日だった。あの時カレンダーを見て二月の終わりの二十四日だと覚えたせいで、ピアスを開けた一日が少し手触りを強く思い出すことができる。

 その女性(ひと)はレイナを連れて、ピアスの開けられるお店まで、電車で連れてってくれるという。彼女は施設の大人たちと話をしてくれて、あり得ないことに外出を許してもらった。

 施設の外に出る大きな門の横で、その女性の手を強く握ったのをレイナは思い出せる。

 田舎の駅までバスに乗った。前の方におばあさんが一人だけ、他の客はいなかった。バスの座席は古くて赤いフェルトの角が剥げていた。山を降りていく感じがずっとあったけど、その時はバスがどういう高度で走ってるのかを考える余裕はなかった。山林を抜けて部落を通り、信号機のある街まで来て、ようやく、駅の前に辿り着いた。それまでずっと、レイナはその人の手を離さずにいた。

 ホームで待つと長い列車がきた。

「立川まで行けば、大丈夫ね。」

線路は次の駅が見えるくらい真っ直ぐで、山の方角に伸びていたのを覚えている。バスを降りてもずっと騒音は続いていて、ふと見上げると、空に黒い飛行機が飛んでいた。不思議だった。黒い飛行機が米軍のものだと知ったのはずっと後のことだ。

 電車はすごい速度で走った。

 揺れが怖かった。列車同士がすれ違うたびにすごく揺れた。

 その女性(ひと)は微笑みながらわたしを見て、揺れるたびに繋いだ手を強く握り直してくれた。寒さに対抗して暖房を強めた車内だったから、その人と繋いだ手のひらの汗ばんだ。

「大丈夫。事故なんて一度もないくらい、安全なのよ。」

「……。」

「あなたを、なんて呼べばいい?」

「なんて?」

「あなたのこと。なんて呼んだらいいの?」

「あたしは、レイナ」

「うん、じゃあ、レイナさん、でいいね。」

「うん。」

「あなたは、なんて呼んでくれるの?」

「……。」

その時、レイナが握っていた手が少し汗ばんだ気がした。自分の汗か。その人の汗か。わからなかった。

「なんて呼べばいいですか?」

レイナはそう聞いた。

「セツコがいいな。下の名前」

「……。」

「さん付けなくてもいいよ。」

そう言ってその人は笑った。笑うときにエクボが出来て、まん丸な目がくしゃってなる。

 ピアスを開けた、二月の二十四日。

 その日が施設で初めてレイナが自分以外の誰かを名前で呼んだ日になった。



 レイナはあの日の列車のことを、昨日の軽井澤さん達とのテレビ会議の時に思い出した。理由はわからない。ピアスを開けたいと言ったレイナを慮って、節子さんが施設の人に無理を言って電車に乗せて遠出をしてくれたのは、相当な事だったはずだ。

 きっと決意のようなものがあったのだと思う。節子さんのそういう覚悟は、他の大人たちと全く違った。他の大人はそんなことをする訳がなかった。何もしてくれないと分かっていて、レイナはピアスを開けたいという突拍子もないことを言ってみたのだから。大人の人たちは、みんな曖昧な笑顔を道具にして、事勿れにレイナを見ていた。なるべく距離を置いていたのを知っている。

 子供だから未だわからないと思うのは間違いだ。むしろ子供は大人のそういう表情だけを見ているのだ。

 そういう子供の頃のレイナの予想をその人、節子さんは堂々と覆した。ピアスを開けるためにわざわざ施設を出て街に行こうと言ったのだ。

 あの時の節子さんと、全く関係のない軽井澤さんとが自分の中で繋がっているように思うのはなぜなのだろう。このことはずっと自分の中でも不思議だった。でもその謎が、軽井澤さんと仕事をする理由だと思っている。ハッカーなんてお金があれば誰でも雇えると思ってる人が多いけれども、軽井澤さんにはお金で雇われている気がしない。何故だか知らないが軽井澤さんには、そういう不思議さがある。なんだろう。何を求めているのかも、わからないような、もしかするともう求めている物自体がなくなっているような、そういう牧歌的ななにかが軽井澤さんにはあるのだ。



三十三 本郷文庫 (太刀川龍一)


 太刀川は、六本木から乗り込んだ日比谷線を霞ヶ関で丸の内線に乗り換えた。そのまま銀座や大手町の方面に向かった。

 今日の文庫本は「江戸と東京」××某、という聞いたことのない作家の新書で、戦後すぐに書かれたものらしい。

「…丸の内線は、地下鉄でありながらいくつかの場所で大胆に地上を走る。その理由は徳川時代まで遡ることを知る人は少ない。東京の地下鉄の歴史は古く、1916年の日露戦争の直後に計画され、昭和二年に東洋で最初に産声を上げた。ということはそれまで人類はさほど都市の地下に電車を走らせてはいないのである。

 パリやニューヨークに物真似して大都市の交通網を作り始めて少し勝手が違ったのは、旧東京市の地形である。江戸の街は、西洋の大都市のように平らな場所がさほど続かず、凹凸、起伏が激しい。あちこちに谷川や濠や暗渠がある。渋谷、青山、赤坂、溜池、新橋、ここまで谷や川や坂に纏わる地名が多い大都市は世界には珍しい。深い濠が江戸城の周りを切り刻んでいるこの東洋随一の大都市で、ニューヨークのように単純に縦横地下に通すことはできなかった。かと言って、濠の下にもう一つ潜った深度では、地上からの階段が深くなりすぎる。当然エスカレーターなどがまだない時代である。ひらべったいニューヨーク五番街の真下をただ通すのとは設計が全く違った。

 お茶の水濠や、四ツ谷濠などはそのため、地下鉄をあえて地上に出した。家康の濠が深過ぎるため、その底まで掘り下げるのではなく、あえて潜らず、上に出した、というわけで、水面の上を走らせたのである……。」


 太刀川は文庫の文字を追いながら、地下鉄に揺られた。街歩きをする場合、こういう本などを予め用意する。歩く場所に合わせて書籍を選ぶ。本は深く長い、人間が一定の時間を紙に費やした怨念ともいうべきものが匂うものがいい。WEBの文字とは違う時間が明らかに自分に流れる。

 太刀川は前の会社を辞めてから、本を読む時間だけが増えた。自分自身がここまで文字列というものを好んでいたことを如実に知った。

 趣味になっている街歩きをする際に書籍で下調べをしてから実際にその場所に行ってみると東京という街は、また数倍面白いということを知った。恐ろしいほどに歴史が論理的に組み込まれているのだ。例えば東京の堀が深いのも、大阪城の濠を攻めたことの因果があるだろう。放射同心円状に見えて微妙に渦巻貝のように広がる東京の幹線道路も城の縄張り防御が基礎にある、奥の深い設計である。そうやって眺めると長閑なお堀の軽鴨もまた深い意味合いで眺められるのである。歴史の街には人間の有り様が混み行った入れ墨のように刻み込まれている。

 地下鉄丸の内線は、お茶の水濠を過ぎた。「江戸と東京」にあったとおり、地下鉄なのに御茶ノ水では水の上を走っている。脳裏に韻を踏んだ言葉を味わいつつ、太刀川は次の、本郷三丁目駅で降りた。

 旧加賀藩、東大赤門の最寄りで知られる本郷の小さな駅には、その朝も乗降客は大学の関係者らしきがぽつりぽつりとある程度だった。

 駅の改札の外で太刀川は立ち止まった。ポケットから先程の文庫本を取り出して、壁の書架を見つめた。そこには、

「本郷文庫」

と書かれた、縦書きの題字が貼られていた。

 本郷三丁目駅の出口の壁に、掲示板がありその隣に、小さな棚がある。そこに新旧織り交ぜの古本の文庫本が所狭しと、いくつも並んでいて、

「本郷文庫」

と、右端に画鋲で打たれていた。

 それは、一部の地下鉄の駅に設置されている、古本の無料貸し出しだった。利用者は好きな時に好きな本をそこから取り出して記帳もせずに自由に持っていく。そのかわり通常の本屋と違い、カテゴリで並んでもなければ、お世辞にも美しく保管されてあるとは言い難く、古本には落書きやら誰かの読んだ跡のような線引きが多くあった。

 太刀川は学生時代から、本といえばもっぱら、古本であった。幾つかの駅にあった無料の貸し出しを使った。本郷文庫もそのひとつだった。時には地下鉄に乗りもしないのに、歩いて菊坂の下宿からこの本郷文庫にきて、好きな本を拾っては、読んだ本を戻すのを繰り返していた。

 古本を汚いという人もいるが、濫読で一日何冊も読むものを毎日新品で買うことは、貧乏学生には辛い。学生時代の横溢する好奇心に対する対価を、適切に節約ができるのがこの本郷文庫の貸出である。

 加えて太刀川にはもうひとつ、本郷文庫を面白がる、少し別の「意外な」理由もあった。それは「本に落書きが多い」という理由だった。

 古本も、このように雑に扱われた青空文庫になると、色々な人間が回し読みしているせいで、落書きも一様ではない。古い本には半世紀前の学生運動の頃の書き込みさえあった。メモ書きがカタカナのものは大正生まれの人間かもしれない。関係ない恋の悩みを長々と欄外に綴るものもある。老若男女を問わず、ほぼ自由に、いやむしろ自分勝手に筆跡が横行する。謂わば古本自体が、匿名のネットワークであり、スレッド(掲示版)でもあった。

 新品の本には無い、その小説の中に書き込まれた赤い線や言葉が、誰か偉い人や、作家のような読書子が書きとめたことかも知れない、という好奇の気分もある。逆に無名の、名もない人の感想文が妙に心を打つということもある。武者小路実篤の小説の中の、愛、と言う言葉に丸だけ付けているような、こともある。なぜだか知らないが涙の場面に、赤いインクが涙に濡れたようににじんでいる場合もある。とある表現が上手いという文章に、自分勝手に太ぶととメモや赤線を入れている読者もあったし、扉や背表紙の欄外に、長々と感想を勝手に書いてあるものもあった。読者なのか批評家なのか。革命政権を云々と祈るような宣言もあれば、三島由紀夫の金閣寺の感想を作者本人宛に書いているものもあった。

 本という「個」の時間世界の中に、なぜか、他人や第三者が介入する。それは学生街の古本置き場に許された特殊な世界だったのかも知らない。印刷所から郵送された新品の本では味わうことはない、人間臭がそこにあった。

 太刀川は、しばらく、本郷文庫の前で佇み本を手に取ったりしていた。持ってきた二冊目の、梶井基次郎の「檸檬」という小説をそこにおくと、他のものを一冊だけ手に取った。この文庫のルールは一冊をおけば一冊持って帰ると決まってるわけではないが、なんとなく昔からそういう習癖が太刀川にはあった。

 ただし、人の見方によっては、檸檬をおく前後だけ、太刀川が辺りをじっと眺めた、ようにも思えたのだが。


三十四 尾行   (石原里見巡査)


 石原里美巡査は早朝から六本木に来ていた。昨夜、上野で銭谷警部補が

「太刀川は毎朝六時半に地下鉄に乗る」

と言ったのが気になった。自宅のある目黒区から六本木は地下鉄日比谷線の途中駅でもある。霞ヶ関に向かう前に自分の目で、太刀川の朝の日課を確かめてみたくなったのである。

 六本木駅の改札の近くに佇むと、いとも簡単に太刀川が歩いていくのを目撃した。地下鉄日比谷線に乗るのに辛うじて追いつくことができ、隣の車両に滑り込んだ。太刀川は日比谷線から銀座で丸の内線に乗りかえた。変装も何もしていない石原は、遠目に太刀川を追うのが精一杯だった。どの駅で降りるかだけ把握しようという程度で尾行を続けた。そうやって、丸の内線に乗った後も駅ごとに、乗り降りの様子だけ、別の車両の扉から半身を出し遠目に視界に入れた。大手町、淡路町、お茶の水、と乗降客に太刀川は見当たらなかった。百八十センチほどの長身なのもあり、見逃しはしないだろうと思った。次の本郷三丁目駅で降りたので、石原は恐る恐る後をつけた。乗降客は他の駅に比べ少なかった。

 改札を出てすぐのところで、太刀川が立ったままでいるのがすぐ見えた。

 石原は駅にある公衆トイレの女性入り口に無理やり身体を隠した。太刀川は何やら、改札を出た場所で壁の方を見ている。そうしてしばらくしてから、もう一度顔を出すと、もういなかった。急いで駅を出ると、商店街を歩く太刀川の背中が見えた。まだ朝も早い商店街は、喫茶店や古本屋などが空いてる程度だった。石原は無理せず遠巻きに尾行を試みた。太刀川は東大医学部の方に向かった。東大病院の南側に位置する春日通をゆっくりと上野の方に歩いて行ったが、あまり深追いは危険だと思っているうちに見失った。

 駅に戻って、太刀川が見つめていた場所を確認すると、そこには古本置場があった。

(古本を見ていたのだろうか)

時計を見やると、既に霞ヶ関に戻るべき時間だった。石原は尾行をそこまでにし、地下鉄丸の内線で霞ヶ関まで戻り、捜査一課のある六階に定刻前に登庁した。


三十五 雑居扉  (御園生探偵)



 マツダのキャロル。

 それは昭和から走り続ける古びて色の抜けた薄緑の軽井澤探偵通信社社用車だった。鬱蒼と繁る青山墓地の南端の樹林の下で、大自然に負けまいと、人工塗装のトタンが力なく太陽の光を返している。 

 西麻布まで五分も歩かない割りに殆ど人気(ひとけ)のない一角に佇む、古く小さな三階建の、手前が少しだけ墓地との向き合いで無計画に空いている区画に小さく二割ほどタイヤが出る、若干の違法駐車をしているのがその年代物の車だった。

 六本木ヒルズやミッドタウンの新しい時代の建築群から取り残され、青山墓地の坂の下の崖沿いの一角で、周囲の古い昭和色の建物に染み付いたようにくすんだ薄緑色のマツダのキャロルは、なんでもタクシー嫌いの軽井澤さんが前職の頃から乗っていた車なのだとか。

 僕と軽井澤さんはキャロルの扉を開けると無言で乗り込んだ。掠れ果てた、いつものエンジン音をさせて、ゆっくりと動き始めるのを確認しながら、今一度、朝から元気がない軽井澤さんと話して、例の河川敷でかかってきたという、不気味な電話の話を聞いた。

 いろいろ可能性はあるのかもしれないけれども、僕は、不安を解消する一番は実際にそこに行ってみるべきではないかと意見した。軽井澤さんは少し渋々だったけれども、一緒に新宿歌舞伎町に向かうことにした。外苑西通りに出て、北上をする。クーラーがいまひとつなせいで、車窓を開けるのが好きになっている我々は、左右全開にしていた。早朝の風は既に秋の冷気を含んでいた。

 職安通り南のバッティングセンター近くの駐車場にマツダのキャロルを停め、車を降りた我々は、周辺のマンションを見上げた。電話の中で軽井澤さんは、モリヤと名乗る男の声と、ハチマルハチ、と言う部屋の番号についてだけは記憶出来ていたが、マンションの住所番地は「歌舞伎町メゾン云々」とだけしか聞いていなかった。さすがに、モリヤと名乗る男の電話番号にかける気にもならない。

 だが、便利なもので、歌舞伎町メゾン、を地図検索すると、すぐにその場所はわかった。その精度はいつも通り素晴らしかった。この便利さのせいで、待ち合わせの場所という考えも消え、道を覚えることもしない、と、軽井澤さんは以前言っていた。Googleを使わずに街に出ていた時代っていうのはどういう感覚だっただろう。僕には道を交番で尋ねたりするなんて想像ができない。

「恐ろしい便利さと正確さですね。」

見つかった建物の前で、我々はCaliforniaの巨大企業の賛辞を言っていた。もっとも、そのGoogleの導線が連れてきた客が風間かも知れないのであり、おそらく今回の男もそうなのだが。

 再開発の波に乗り遅れた古い雑居ビルが集まる一角に、そのマンションはあった。三十年以上前はもしかすると人気だった風情を少しだけ残す大きめの雑居ビルだった。808号室の郵便受けには、紙に手書きで平成企画株式会社と書いてあった。電話をかけてきた「モリヤ」という人間の自宅ではなく事務所なのだと思った。われわれは直接、部屋番号808に向かった。雑居ビルは入り口に警備も鍵も何もなかった

「誰でも、八階の玄関までは辿り着ける、ということですね。」

軽井澤さんは、古臭く加速の遅いエレベーターの中で、暗くそう言った。僕は学生時代の卒業旅行で行った南米ブエノスアイレスの、ものすごく古い、人力かと思われるようなエレベーターのことを思い出した。永遠に次の階に辿り着くことのできない寂寥とした間合いを持つ、独房的な箱。時空を変換するかのような、不思議なあの乗降機に歌舞伎町の雑居ビルのその箱は似ていた。

 速度の遅さを忘れた頃に、チャイムのような古い音がしてわれわれは八階にたどり着いた

「軽井澤さんの想像が確かなら、電話の主のモリヤという人間が、電話の最中に何者かに取り押さえられ、リンチをされた、かもしれない。」

「最悪の場合、という意味ですが、そうですね。」

「その上で、偶然、電話に出てしまった、我々軽井澤事務所に、一部始終を聞かれたと、その場の、加害者たちは思っている、と。」

「どうかその予想は当たらないで欲しいと思ってはおりますが。」

「いえ。ここに来たのは、気持ちをすっきりさせるのが目的ですよ、軽井澤さん。」

「そうですね。そう言っていただけるのはありがたいことですが。」

軽井澤さんは引き続き元気がなかった。僕には、軽井澤さんという愛すべき人間の一端が、他ならぬ軽井澤さん自身を苦しめているように思った。

 エレベーターを出て通路を右手に歩いて808号室の玄関前までくると、先ほどのバッティングセンターが死角気味に少しだけ見下ろせた。ビル同士が手を伸ばせば届くほどに隣接していて、そのせいで視界が狭い。壁と壁とが合わさる視界の端の方にだけ青空が小さく縦に切り取られていた。目の前には隣のビルの黒く煤けた外壁が差し迫り、トコブシのように壁に貼りついた空調がぶううんと、街の溜息のような音を奏でていた。

 軽井澤さんが、鞄の中から、防犯用の感電機(スタンガン)を取り出し構えるのを確認しながら、僕はゆっくりと呼び鈴を押した。

「……。」

誰も出ない。

 長い沈黙の間、軽井澤さんと僕は見つめ合った。気配がないとも言えない。日常の匂いというか、誰かがここに通ったり暮らしたりしていると言う空気は僕でも感じられた。人がいるとも思えた。

 もういちどまた、ゆっくりと呼び鈴を押してみる。

「……。」

しばらく、溜息のような空調音だけの沈黙は続いた。まんじりとした時間が流れた。僕は、軽井澤さんと静かに目を合わせ覚悟を決めた。深呼吸をして、クリーム色のドアの、ドアノブをつかんだ。そうして、ゆっくりと回した。

 808号室の、ドアは空いていた。



三十六 隅田川  (銭谷警部補)  



 

 布団からいつまでも出れなかったのは非番が言い訳だった。

 幾度頭の中を探しても、昨夜の石原が最後に話した言葉の前後が思い出せなかった。

 酒が切れてきたところで意を決して家を出ると、わたしは金町から京成柴又線を乗り継ぎ浅草に向かった。観光客のように切符を選びもせず浅草桟橋から船に乗り隅田川を下った。 

 非番の日の過ごし方は二十年近く変わらない。

 隅田川は変わらず悠然と流れていた。

 午前の陽光に、川面が釣魚の鱗のように輝いている。

 川から眺める東京の街はまるで別物だ。日常にない視界の広がりが、脳に新鮮な安らぎをくれる。日頃眺めている建物を、空からではなく、陸からでもなく、水の側から見つめ返す。わたしにはそれは自分の背中や普段見落とされる死角を眺める視座に似ていた。海風と一緒に自分の脳裏にまた別の物の見方が降りてくる時が、刑事の空想に最もありがたい種類の閃きをくれることがある。川風、いや東京湾から届く潮風を頬に受けながら遊覧船の上でひとりになった時に、わたしは幾度となく妙案を思いつきそれが結果として捜査を進展させたりもした。思えば休日も仕事のことしか頭にない。そういう姿勢は昨今の若い人には合わないのは確かだろう。

 独り身で暮らす金町寮から京成線を乗り継ぎ、下町経由で隅田川に出る。東京には珍しく長閑な三両編成で柴又青砥を回って押上、浅草へと出る路線は、平日に十車両編成の千代田線で霞ヶ関へ直接向かう電車とは風情が違っていて、浅草に着く頃には日常にない気持ちになるのが常だった。

 遊覧船に揺られながら、わたしは再び、昨夜の上野での若い石原との会話を思い浮かべていた。

 ほとんどのことを、わたしは気兼ねなく話した。自分でも驚くくらいに、何も包み隠さず、太刀川での捜査の失敗や、今に至る難しさ、自分の勝手な想像、思い込みも話をした。悩みのようなものまで酒の勢いで語ったかもしれない。石原には不思議な間合いがあった。わたしは言葉をつなげるだけでその間の論理の接着は石原がおこなってくれるようだった。酒の飲み方を知っていると言うことだろうか。わたしはふた周りも年齢差がある石原に操縦されるようになんでも喋っていた。その結果、

「これからよろしくお願いします」

という宣言を受けたことになる。繰り返しだが、その前後が思い出せないまま、わたしは石原と何らかのチームを組んだことになる。

 ただ、そうやって思い出せない記憶が昨夜の酒にあるにもかかわらず、わたしには一つの確信は揺るがずにいる。

 どんなに酔って自分を見失ってもわたしの口先からは「とある」人間の名前は出なかった。そのことにだけは確信があり、自信がある。そもそもわたしは最初から会話の中でその人間を避けていた。本来太刀川とのことを話すならば最も最初に話さねばならぬことだが口に出さないと決めていた。

 金石元警部補のことである。

 昨夜石原の前で、わたしは金石のことには、触れなかった。

 そのせいで、最後まで会話がどこか間合いを悪くしていた。太刀川の捜査を一緒にしようという会話なのに、もともとの捜査本部の相棒の名前を伏せているのだ。石原の会話があそこまで上手でなかったら昨夜は破綻していたはずだった。

「質問していいですか?」

そのようなことを明確にいう石原巡査の真っ直ぐな眼差しは、自分を成長させたいと言う気持ちがはっきりとあった。むしろ自分の成長のために先輩が情報をくれないのはおかしいと言う程の熱さえこもっていた。

 その姿はわたしには懐かしい。石原の鋭い質問を受け止めながら、かつては同じように先輩刑事に楯突いていた自分の若い頃を思い出していた。

 そんな会話の中で、わたしは金石には触れなかったのだ。それは明らかに不誠実なことだった。この年齢になると、自分が昨夜不誠実な酒を飲んだかもしれないことが、まあまあ気持ちを憂鬱にする。わたしは二日酔いの脳に、休息のように缶ビールを煽らせ、空虚な心で川面を眺めていた。自分の迷惑メールを手持ち無沙汰で見てしまったのは、そんな時だった。



ToZ


本末転倒。

飲みすぎは、やめておけ。

若者に迷惑をかけないようにしろ。




 私と金石は、五年前、特別捜査本部の中で一つのチームを組んでいた。

 金石はとにかく体が大きかった。わたしも一応百七十八センチメートルはあるが、それを見下ろすような巨漢だった。二メートル弱だろうか。聞いても微笑んで誤魔化すばかりで、最後まで身長を教えることはなかった。太っているわけでもないが、体重も普通に百キロは超えていただろう。肥満の脂肪ではなく筋肉をつけていた。

 引き締めていたのは体だけではない、むしろ精神的なものがすばらしかった。彼の捜査に対する姿勢に触れると、わたしはしばしば迷いが消え去った。どんな優秀な人間も毎日ずっと一緒にいると嫌になるものだが、奴にはそれがなかった。ずっと一緒に仕事をしていたい。そういう気持ちにさせられる。捜査を一緒にする喜びを感じさせてくれる。そういう稀有な存在だった。

 前向きな気持ちが継続したのは、奴(金石)が見せる様々な人間的な魅力のせいでもあっただろう。体格の割に繊細で人に見えないところで人一倍悩み考え続ける。その悩みは、常に真実をどう把握するかと言う、まっすぐな前提を持ちながら、それでいて組織を超越した視座さえ感じさせる目標の設計がある。

 彼と一緒に捜査をしていると、常々警察官と言うものはどうあるべきかと言うことを考えさせられる。そしていつの間にかわたしは金石の理想に叶うように捜査を行おうとしている。彼の理想は大きく純粋だった。純粋に真実を追求する。当然、警察の組織の都合などは、後回しで、犯罪における真実の追求だけに真っ直ぐ集中していくことになる。


 女子大生が死亡し、合同捜査本部が立ち上がると我々はさらなる連携を深めた。

 殺人の捜査一課と、知能犯、経済専門の捜査二課とが良い形で連携を始め、金石とわたしとはその象徴とも言える組み合わせになった。

 金石は迅速だった。さっそく内偵していた沖縄の死亡事件を、六本木に紐付けた。パラダイム社関連会社の社長が、なぜか沖縄のホテルで自殺した。金石はこの人間をかなり以前から内偵していて、死の前日、沖縄に不自然に向かったのも知っていた。だから金石自身、不審死を聞いてすぐに沖縄に向かってもいた。しかし非公式の警視庁捜査員の沖縄入りは曖昧な対処を受けた。沖縄県警はすでに、自殺と確定させていたのである。自殺するには不自然なほどの全身の切り傷のあった遺体を検視することさえさせてもらえなかった。この頃から、不思議な何かの壁が発生していると、金石は思っていた。

「全部は、まだ銭谷にも言えない。勘弁してくれ。」

奴は最後の頃それが口癖だった。金石は情報を掴みはじめていた。毎晩我々は顔を合わせたがわたしは金石が事件の核心に近づいたのは明らかだった。情報への嫉妬と仲間としての喜びも混ざったが、それ以上に、わたしは何かの危険のようなものを感じ始めていた。もうすぐ我々は恐ろしい闇を暴くのだという予感が少しずつ恐怖を帯び始めた。もし全てを暴露するならばそれは、警察の側にも何らかの被害が及ぶのではないか。

「声に出して言えば、情報それ自身が、銭谷を殺すことになるかもしれないからな。」

「どういう意味だ。」

「情報を知っていることで、危険になる、という意味はわかるだろう。」

金石は最低限のことをだけしか共有をしなかった。当然だ。情報を途中で小出しする事は最も危険だからだ。わたしは金石と相談し、断片的なその情報を更に端折って、早乙女係長や捜査本部に報告をしていた。警察の上層部がなんらかの権力とつながっていれば、報告は馬鹿を見ることになる。もちろん連絡にはメールなどは使わなかった。

 事件の核心へと近づきつつある。

 期待が始まりつつあった。

 それは金石の表情でわかった。

 確実に捜査の最終章の高鳴りに金石本人も昂奮していた。

 そういう臨界点に近づいていたころだった。

 突然警察の中で方針の転換が発生したのだ。

 その転換の意味を誰より理解していたのは金石だったと思う。 

 金石は消息を絶った。

 突然だった。

 警察どころか、わたしにも何の説明もなく消えてしまった。別れの挨拶さえなかった。ただ職を辞したのではない。どこにもいなくなったのだ。それは一般的には失踪と呼ばれるべきものだった。

 挨拶も連絡先の交換もなく、もっと言えば、住所や連絡先さえも消し去るように金石は消えた。わたしは奴の住んでいたという五反田の独身寮や、捜査二課の人間にも消息を辿った。しかし、連絡手段どころか、金石の消息はどこにもなかった。住んでいたというひとり暮らしの部屋にはチリひとつ落ちていなかった。無人の部屋を見て、わたしは明らかに随分前から金石はこうなることを想定して準備をしていたのだと思った。


 わたしは、船の後ろのスクリューで波立たせられた川面を見ながら、自分でも理解のできないような言葉たちをブツブツとつぶやいていた。二メートル近いやつの無骨な胸板に話しかけている。

「金石。今、どこにいる?」

頭に来ている。正直いつも苛立ってしまうことが多い。わけのわからぬ一方通行のメールはもうこりごりだが、時折そんなメールでさえ待ってしまっている自分の気持ちがある。

 遊覧船は海に近づいた。

 佃大橋を越えると、そこから先は川という風情ではなくなる。

 石原に、金石のことを話せないでいた自分にわたしは恐怖した。説明せずに、どうやって一緒に捜査をするのだ、という言葉がきつく自分の胸ぐらを掴むのがわかった。それでいながら、金石が何一つ話さずに消えたときの暗い気持ちを誰にも話したくない自分がいるのも確かだと思った。

 わたしは、改めて迷惑メールを見た。


ToZ


本末転倒。

飲みすぎは、やめておけ。

若者に迷惑をかけないようにしろ。



ため息のような汽笛が遠くの船舶で聞こえた。






三十七 カレーライス  (レイナ)


 カレーライスが美味しいとレイナは思った。施設の食堂で、節子さんがカレーライスを作ってくれる日があった。理由はわからないけど節子さんが施設に来て、自分で作ってくれるのだ。

 その施設の広い食堂の窓の近くのテーブルが、節子さんとのお話の場所で、カレーライスの日は、いつもここで二人で大盛りを一緒にいただいた。

「難しいの?」

レイナは主語もなく聞いていた。それはずっと、節子さん宛に繰り返している質問だったからだ。

「うん。」

節子さんは同じことを何度聞いても嫌な顔もしなかった。

「どうして?」

「そうね。まずね、誰かに自分を見せて、理解してもらうってことは難しいのよ。世の中のほとんどの人がそれに悩んでいるのだから。」

初めてのピアスを触りながら、少しずつ複雑な質問を節子さんとできるようになっていることをレイナは感じていた。

「どうして?世の中の人はどうして、気持ちを理解し合うのが難しいの?」

「だって誰にだって、気持ちがたくさんあるでしょう?」

「たくさん?例えば?」

「そうね、色に例えたら、青色の時も、赤色の時も、黄色いときも、人それぞれに気持ちの色があるでしょう。色も無限にあって、それでいて同じ人間もひとつもないの。誰かの気持ちを理解するなんて、本当にとてつもないことか、理解の勘違いをしてるかどちらかなのよ。勘違いをして理解したと思い込んだりする、そのほうが危ないのよ。」

「節子さんは?」

「おばさんは、もう歳とった大人だからね。慣れてくるし、理解できないことを諦めることも増えてくるというか、自分の色が落ち着いてくるのかもしれないね。若い頃はどんどん考えて悩むことができるでしょう?」

「うん。」

「そう。でもどんな色の自分でも受け入れてくれると判っていないと、自分を見せたいと思わないよね。」

「……。」

「みんながみんな、バラバラのものを理解しあうのはすごい時間がかかるし、次の日にはその人の気持ちが変わってるかもしれないでしょう?」

その通りだ、とレイナは思った。節子さんだけがこういう話ができる。他の大人ではありえない。

「だから、誰かに理解してもらうことよりも、自分が何をするのかを考える方がいいのよ。レイナさんには色んな才能があると節子おばさんは思ってます。だから、周りがどう見てるのかを考えるよりも、自分が何を出来るかを先にしてみようね。」

「自分が何ができるか?」

「そう。あなたにはきっと才能があるから。自分の得意で楽しいと思うことを見つけるといいわ。」

カレーライスの日は、こういうお話をするのが恒例だった。ご飯の上にあの香りが漂うと、レイナは不思議と心の扉が少し開く気がした。




三十八 歌舞伎町の私刑  (御園生探偵) 


僕が目配せをすると軽井澤さんが

「ごめんください。」

と、小さめの声で室内に呼びかけた。

「モリヤさん、いらっしゃいますか。」

無音だが、人間の存在していた空気が、はっきり漂った気がしたのと、タバコや何かが少し焦げた匂いがした。誰かがいるに違いないと直感的に感じた。

 軽井澤さんが先に、僕が続く形で、恐る恐る、室内に入り始めた。すぐ走って動けるようにあえて靴を脱がなかったが、室内は土足も許されるような有様だった。灰色の絨毯は黒く汚れていた。

 三、四歩を踏み進めたところで視界に入ったものに僕は戦慄した。

 部屋の一番奥に死体のように転がった半裸の人間が落ちていた。置き去りにされた、というより落ちていたという方が適切なくらい、人間という印象とは遠い。生き物というより、物かゴミのようだった。

 軽井澤さんと僕は、他の人間の気配がないのを十二分確認してから、ゆっくりと近づいた。死体だと思っていた物体から、空調音に混じり、かすかな吐息が動いた気がした。

(死んではいない。呼吸がある…)

 軽井澤さんと僕は目を合わせた。

 軽井澤さんも同じことを感じたらしい。

「大丈夫ですか?」

「……。」

「すいません、大丈夫ですか?」

「……。」

虫が呼吸をする場面を見たことがないが、おそらくこれが、虫の息という喩えになるのだろう。

 身体中に傷を負っている。僕は、第六感から、これが軽井澤さんの説明したモリヤだと感じた。軽井澤さんに電話をかけてきて、その最中に、襲われた可能性のある男だ。

 普通ではないのは確かだった。髪の毛の至る所が燃えていて、茶色く縮れている。さらに身体の至る所に皮膚を焦がされた臭いがしている。体のいくつかの場所は切り裂かれたらしく、その切り傷にわざわざ、ホチキスで縫い合わせをされたりもしている。切り傷だけでなく、打撲の痕が、紫色の斑点になって持病のように転々と足先から、太腿、半裸の上半身から、腕にも広がっている。まだ出来たばかりの傷らしく所々はまだ流血している。ただ、それらを差し置いて衝撃的な一箇所があった。

 男の左腕が、腕の途中で切断されているのである。

 軽井澤さんは、喉で言葉を飲み込み直すように、言葉を絞り出した。

「あなたは、もしかしてわたくしに電話をいただいたモリヤさんでしょうか?電話を頂いた、探偵事務所の軽井澤です。声に覚えがありませんか?」

「……。」

「電話の途中で、繋がらなくなりました。電話のなかで、わたくしはいくつかの音が漏れ聞こえました。そこで嫌な想像をしたのです。だから、あなたのおっしゃった住所に参ったのでございます。」

軽井澤さんの想像はある意味当たっていた。むしろ現実はその想像を超えていた。

 被害者は、還暦近い男だ、と思われた。

 髪の毛は剃られたり、燃やされたりしている。よく見ると、切られた髪の毛や、燃えた残骸(カス)が、周辺に散っていた。体中に火傷をしている、根性焼き、というレベルのものではない。やけどで拷問をさせられたかのようだ。鉄の棒か何かで殴られているため、顔と体は複数箇所、築山か大福餅のように、局所的に腫れている。ズボンを脱がされていて、何人かの集団にやられたのか、肛門からは出血をしていた。いや、彼を殴っていたであろう鉄の棒が肛門に刺さっていた。

 死体寸前の男はようやく軽井澤さんと私がそこにいるのに気がついた。。しかし瞼が葡萄の房のように腫れていて思い通りに動かないらしい。部屋は薄汚く何もない事務所だった。還暦近い男の、まるで死体のような体と、彼のものとおもわれるボストンバックがひとつ、ごみのように落ちているばかりだった。

「大丈夫ですか?救急車を」

「やめ」

「?」

「や」

「警察を呼びますか。」

「いえ、やめて」

軽井澤さんは全てを理解して飲み込むような表情で、モリヤと思われる男との会話を急いだ。

「あなた、お名前はモリヤさんですよね?お電話いただきました。」

「…あなたは?」

「軽井澤探偵通信社です。」

軽井澤さんと僕はそのとき同じものを見つめていた。襲撃犯が持ち帰らなかったそのスマホである。それは、モリヤの倒れてる少し横に落ちている。僕はそれを拾った。

「これはあなたの?」

僕が尋ねるとモリヤは、本当に小さな幅で少し傾げた。その体のあちこちにタバコを原因として焦げた匂いを出す黒い煤や火傷の跡が見え、僕は現実に自分のいる状態を把握できないままだった。正直、今玄関の扉が開いて、加害者の集団が再び入って来ることだってあり得る。異常な世界が目の前にあった。僕は背筋から恐怖が繰り返し襲ってくるのを感じた。怨恨だとしても、気狂いじみている。

「この電話から、わたくしにかけたのはあなたですね?」

軽井澤さんが問いかけると、モリヤは再び小さくうなずいた。

「あなたは守谷。守に谷で、モリヤ、ですね。」

微かに頷くのを続けた。

「電話が切れた後、この番号を彼らは、見ましたか?」

「あ、あなたは、」

「はい」

「か、軽井澤さん、ですよね?」

「はい」

「ここで話すの、は、まずいでしょう。」

「?」

「ぜひ、場所を」

守谷という男は、そう辛うじて言った。内容はさておき、その時なぜか僕は怪しさを感じた。嘘をついているというより、嘘が基本で、嘘をついて生きている人間特有の異臭を感じたのだ。関わるべき人間ではないという強い直感もやってきた。

「御園生くん、とりあえず、この人を連れて出ましょう。」

「しかし、この人は。」

「ええ。そうですよね。」

軽井澤さんはおそらく、僕と同じ理由で躊躇があった。守谷に対する、不信があるようだったが、しかし、冷静に考えれば、この状況をそのまま放置して帰るのも何も解決をさせない。今すぐそこから再び襲撃者が戻ってくるかもというのもあるし、犯罪者が軽井澤さんの携帯番号を確認したのなら、WEBサイトまでは辿り着けてしまう。襲撃犯たちの情報をなに一つもなくここを去ることのほうが確かに恐怖だ。少なくとも何らかの情報をこの男から得ておきたい。

「ここを出ましょう。出てから話します。」

「は、い。」

「守谷さん。何か持ち物は必要かですか?」

そういうと、守谷は壁の近くに落ちているボストンバックを明確に指差した。

「これだけで良いですか?」

それは、腕を持って行かないでいいのかという意味だった。切断された腕がどこにあるのか、わからないが、この部屋にあるのであれば、まだ接合は間に合うのかもしれない。

「腕は、多分もうないから。」

守谷は非常に小さい声で、絶望そのもののようにそういった。その声に僕は突然ほんの少しだけ同情したのを覚えている。人間が、自分の体の一部を切断して失う悲しみというのは共感しやすいのかもしれない。

 最終的に軽井澤さんが判断したのもあり、僕らは、この守谷と言う男の肩を担いでエレベーターへ連れて行き、職安通りまで隘路を歩き、タクシーを止めた。ここまでは、人助けが半分、組織的復讐が我々に及ぶことの恐怖が半分だったが、いずれにせよわれわれはさすがに彼をマツダのキャロルに乗せる気にはならず、職安通りでタクシーに乗り込んだ。少し移動してから、良き場所を探して話を聞こうと軽井澤さんは小声で言った。

 還暦近い守谷と言う男は抱きかかえるとすごい体細かった。片腕がない分、さらに体重を軽く感じさせられたかもしれない。彼の茶色の草臥れたジャケットで腕の切断面を隠しながらだった。

 タクシーは、職安通りを、皇居の方角に走り出した。



三十九 九十九里 (レイナ)


 九十九里の長い海岸線を眺めながら、節子さんとの会話をレイナは思い出していた。同じ会話を何十回とした。何十回も繰り返すうちに、安らぎのようなものが生じて、節子さんとの会話がよろこびになった。

「人間が理解し合うなんて、難しい。」

節子さんが幾度となく言ったその言葉の延長に変装という解決策が生まれていったのだと思う。

 変装。

 いろいろな人格を自分のなかで作る、心の中でできる遊び。思えばそんなことをずっと毎晩眠りにつく時に行っていた。今日は、誰になろう。明日は誰になろう。物語を作る。一人五役くらいの舞台だ。そこで自分が五人を演じ分ける。そうしてこんがらがるくらい考えているうちに眠りにつくことができる。

 その遊びには、眠ることの他に、もう一つ秘密の理由があった。

 自分のいろいろ嫌いな部分を、一時的に、消し去ったりできるのだ。

 欠点を消して別の人格の人間になっているーーそう確信できる時に、あきらかに明るい気持ちになる。不思議だとレイナは思った。自分という人格部分が消える時に、なぜ明るい気持ちになれるのだろう?

 自分は何を消そうとしてるのだろう。

 トレイラーを止めた九十九里の海岸の、目の前の砂浜を、海沿いの村の子供たちが、走っていった。五人ほどの子供のうちの一人が足が遅く、リーダーの少年から叱責を受けている。

 さっさとしろよ。

 レイナが思ったよりも強烈なパンチが飛び、また別の少年も足で蹴った。

 格闘技の映像番組のせいだろうか、そういう刺激を試しているのかもしれない。

 骨を打つような打撃音が遠くにも聞こえる。

 レイナは漠然と見ていた。

 一通りの動きを終えると少年たちはまた次の疾走を始めて砂浜の先に見えなくなった。大人の真似事をしながら、まだ何もわからない子供が走っていく。節子さんが言っていた。子供は大人の真似をしてるんだよ。子供が悪いのは大人が原因だよ。どんなに悪いことをしたって、それがまだわからないんだから。

 節子さんは、そう言っていた。

(何歳から罪になるのだろうか。)

レイナはトレーラーから南の海を見つめながら思った。自分のことではない。世の中で今起きている罪の定義のことだ。法律や懲役年数の話ではない。実際に法律がなかった場合の話しである。

 例えば、一歳の赤ん坊が間違って親を殺しても罪にはならない、と思う。それはある程度、そうなる気がする。でも二十歳の子供が親を殺したのは罪だろう。とするとゼロ歳から二十歳の間に、罪が始まる年齢が存在する。八歳は罪か?十五歳は?罪だろうか?でも親によってこの世に産み落とされ、生じた存在が、その生みの親を殺す場合の罪とは何なのか。

 心が落ち着かなくなった。

 十三個目のピアスを撫でる。

 海を眺めながら考える。

 人間は、何歳からそういう罪を背負うのか?

 法律のことじゃない。

 世の中に法律ができる前の大昔、子供が母親を殺したらどうしていたのだろう。

 例えば、その時残された父親は、殺人をした子供をどうしていたのだろう。

 想像ができない。

 子供が、親を殺す。

 殺人をしたその子供には罪が発生するのか。

 ある年齢から、人間を殺せば殺人という罪になる。

 殺人罪は懲役という罰がある。

 罪と罰は違う。

 罰ではなく、本当の生命としての罪を知りたい。

 罪は、「いつ」始まるんだろう。

 その定義を知りたい。

 レイナは思う。

 どんな罰を受けても、罪は消えないはずだ。

 本来、罪とはそう言うものだ。

 レイナは考え込んで、自分がいつも繰り返し思考の憂鬱の中に降りていくのを感じた。

 いつものように色々な考えが頭に散乱する。人を殺した瞬間に罪が始まるのだろうか。いやそうではなく、誰かを殺す前から、殺そうと思う時点で始まっているのではないか。結果として殺したのか殺さなかったのか。もっといえば、殺そうとしてなかったのに相手が死んでしまうことだってある。偶然の罪と、計画の罪は一緒にしていいのか。

 言葉が終わらずにいる。

 レイナは海を見つめた。

 節子さんを思い出すことと海を眺める時とは、気持ちが似ている。

 先ほどの子供たちが、九十九里浜のずっと先で見えなくなるあたりまで走っていった。

 



四十  登庁 (石原里見巡査)  



 本郷三丁目の駅から丸の内線で石原は戻った。

 捜査一課のある六階の銭谷警部補の席には誰もいなかった。

 帰り際に明日は非番と言っていたのを思い出した。

 昨夜のお礼を朝、人の目のあるところでは出来ないと思っていたので、ちょうど良かった。 

 昨夜、上野の立ち飲みには、三時間もいただろうか。

 銭谷警部補は面白い人だ、と、石原里美は思った。

 パワハラのことは、本人が言うほど気にはしていないように思えた。殆どの大人の警察官が昇級や役職のことを話題にする中で、銭谷の表情には役職降格への恐れも特になく、また強がっている様子もなかった。そんなことより多くの事件について話すことが他にたくさんあるのだという感じで、酒を煽るたびに実務的な言葉が次々溢れた。

「石原は、ノートは使ってないのか?」

立ち飲みのカウンターに警察手帳を出したときに、銭谷はそんな小さな手帳で何ができるんだと言う顔をした。銭谷警部補は常に大学ノートに全ての取材ネタを書き込んでいるらしい。そして過去の事件を時系列でまとめるようにしている。突然、そんなことも文脈なく話すのである。

 仕事の話はとめどなく続いていった。内容は多くの学びがあり、どのアドバイスも一般的な警察官とは違っていた。たとえば、意外なことに最初はまず、インターネットで検索をするのが良いと言うのである。年配者にありがちな足で仕事をしなければいけないと言う空気を出していながら、使えるものは使う、らしい。

「真実に近づく速度が全てなんだ。新しいもので良いのがあれば、なんでも教わりたい。」

銭谷警部補はそういった。使えるものは全て使う。要するに真犯人を逮捕できさえすればなんでもいい、新しい知見が役立つなら全て使えばいい、という姿勢がそこにあった。インターネットを調べることで見えてくることは多いし、世の中の無名な落書きにも何かの理由があるんだと、語ったので、石原は驚いた。

「銭谷警部補がインターネットにお詳しいとは知りませんでした。」

「詳しくはない。パソコンで調べるまでで、最近のSNSやスマホはわかっていないんだ。」

「でもお使いになる言葉が、お若い気がします。」

「どうだろう。でもこれも太刀川のせいかもしれないな。」

会話の流れで煽った訳ではないが、隠密操作を円滑にするために官費支給ではない個人の携帯電話を持てないかと、提案したところ、意外なことに、その場で、承知すると銭谷警部補は言った。当然この「上層部」には開示しない捜査作業のやり取りを警視庁から支給されたスマートフォンでするわけにいかない。石原はそのことは最初に相談したかった。


 六階フロアは人がまばらだった。

 石原里美は、パソコンを開くとデスク作業を始めた。

 太刀川龍一と検索窓に名前を入れると、案の定ネット上には様々な文言が溢れた。いわゆる、株価操作のインサイダー疑惑や、六本木周辺での華やかな交遊から、殺人事件への疑惑などが終わりなく流れてきた。

 警視庁が修正した後の死亡事故という表現ではなく、殺人と書いてあるものが多いのは、その方がネット上でアクセスを拾いやすいからであろう。どの記事もしっかり広告が貼られている。過去の事件が広告収入の資産になっていた。すでに大手メディアから消えているとはいえ、過去の太刀川周辺のゴシップにはまだ価値があるらしい。

 記事によっては太刀川が首謀だとも書いてある。その他、陰謀説も含めて言葉は溢れた。女性死亡事故。連続殺人事件とも書いてある。パラダイム株式会社の周辺で、三〜五件の疑惑と事件が少なくともあったとされており、三人は実際に死んでいる、という。どの記事も写真や細かい説明を交えて、まるで報道記事のような体裁をとっているものもあった。

 石原里美はゆっくりとそれらを、まずは一旦、端から読み始めた。読みながら昨夜銭谷が言っていた

「火のないところに煙は立たないんだ。民衆の空想は馬鹿にならない。」

という言葉をそれらに重ねた。

 ただ、実際に細かく読み込むとどの「民衆」記事は雑だった。クリックを目的にした広告引っ掛けのようなページが多い。例えば過激な題名のものに限って、内容は希薄だった。実際に、大手のメディアはほとんど、警察の発表後の整理がされているせいか、記事は消していた。

 人のまばらな大部屋のデスクで、石原里美は、頬を叩いた。

 まず事件を調べる前に、太刀川の来歴からノートに書き出しておこう。

「東証一部、当時の最年少での上場。福島の県立高校から、現役で東大に入学。大学時代からの、スタートアップに取り組む。大学二年で起業、だから一九歳が創業になる。そして、二十三歳で上場。

 その延長線上で、あまりにも早く成功を手にしたために出てきたいくつかの問題が発生。斬新な経営手法は、今となればどこの企業も取り入れているものでもあるが、当時の多くの日本の利権企業らと<そり>が合わなかった。その後、メディア買収を企図した株売買などで不穏な空気を重ねていった。

 上場後五年。太刀川は二十八歳になった頃に、その風向きが怪しくなる。ネット関連企業で幾つかあった株価操作などの関係者ではないか、という疑惑が出る。実際に、ヒルズ族と呼ばれるような新興の上場企業経営者らの集うサロンと呼ばれる密会が複数あり、太刀川はそれらを多く主催していた中心人物だったという悪評もこの時期に増えた。この点は、最後まで本人は誘われたから行ったという言い方をしているが、参加者によっては太刀川に誘われたという人間も多く、実質上の主催者だった可能性は否めない。

 その密室だったかは定かではないが、地上波放送局を買収、および、サッカー球団を買収する話が、表面化し出したところで、パラダイム社に対する批判的な風当たりが極限に達した。太刀川らの若手経営者が取った手法は、ハゲタカと呼ばれがちな投資ファンドの常套手段ではあっても、日本のビジネス社会では不人気だった。買収の危険に晒された当事者のメディア各社は当然過剰な反応を始めた。民放各局による太刀川への否定的な喧伝が始まったのもこの時期である。」

ノートに整理しながら、一呼吸を置いた石原は、今一度太刀川のことを思い返した。自分は当時は高校時代だったと思う。テレビのニュースがそればかりになっていたのを思い出す。新しい時代がきたのか若者が潰されるだけなのか判らないけども、何かの二極が対立してせめぎ合う、そういう空気を眺めていた記憶がある。

「この特異な状態は半年から一年ほど続いた。しかし、その間、メディア各社の思惑とは裏腹に、パラダイム社の株価は高騰した。つまり、パラダイム社が万が一大手民放や球団のような資産を手中に収めることに成功すれば、その可能性はさらに飛躍することを、市場、特に当時加熱していた個人投資家の票を集めたのである。メディアでは冷たく報道されたが、市場は正直で貪欲だった。多くの投資家にとって上がり続ける株価は魅惑的だった。そうして天井知らずに上がり続けた株価の臨界点とも言える時期に、潮目が変わった。」

実は株価の頂点で、死亡事故が起きている。

「当初の一連の報道は、ヒルズ族の秘密のパーティがあり、その中で薬物で女子大生が殺された、という庶民が飛びつきやすいタイトルで始まった。警視庁も合同捜査本部を設置し一気に彼らの内部を調べ切る機運が高まった。メディアは突然の殺人という言葉の登場で急速に劇場化した。もともとあった経済的な日本の将来の議論という報道ではなく、殺人という犯罪の謎を追う論調に変わった。」

石原はノートに情報を整理し続けた。一回書き切るのがいいと思う。この辺りの時系列は混乱していた。

「結果、殺人という言葉の先行で、パラダイムの株価が暴落を始めた。時価総額一千億円の大企業となっていた会社がストップ安を連日続ける。実に毎日百億円単位の資産が消えていくことになる。株価が大幅に変わった時点でいくつかの問題が発生した可能性があるが、これは相当複雑な整理が必要である。もっともその暴落は六本木の女子大生の死亡が直接の原因ではなかった。その捜査線上に半年前のとある事件が浮かび上がったことも起因している。とある沖縄での不審死ーーなぜかこの事件が再度捜査の中で注目をされることになった。というのもパラダイム社は不正会計を指摘されており、その会計責任者で太刀川龍一の重宝していた証券部門のトップが沖縄で自殺したその本人だったからだ。自殺ではなく、殺人だったのではないか、という注目がメディアを中心に疑惑として始まり、ここでマネーロンダリングが殺人事件と共にあったのではないかという疑惑が再熱した。例えばネット上では口封じのため太刀川龍一が人を使って殺したのではないかという書き込みが溢れた。

 パラダイムに関連する企業の経営者がすでに死んでいたーー。自殺として沖縄県警は処理をしていたが、明らかに全身をナイフで切り裂くなど実際におかしな内容が多かったし、県警の判断に警視庁は疑問を呈する様子さえあった。」

真っ白いノートに指を動かしてみると、確かにパソコンやスマホとは違う脳の整理がある気がした。石原は珍しくタバコも吸わずに集中できた。

 関連が噂された殺人事件は三つ以上あったが、警視庁としては、表向きは六本木女子大生殺人事件に対して特別捜査本部を置いた。捜査を牽引しその全貌を明らかにするために、殺人を主管とする一課と経済事件を主管とする二課を合わせた捜査本部を形成した。

 この事件の捜査の現場陣頭指揮を取ったのが、いまの早乙女捜査一課長(当時二係長)である。また、現場の中心的な役割として、銭谷警部補。それと、銭谷警部補は言わなかったが、もう一人。捜査二課の金石警部補がいた。銭谷警部補はなぜか昨日この人物の話をしなかった。この捜査の前後で、金石警部補が一身上の都合で退官したことにも一切触れなかった。

 捜査本部は少なくとも、六本木での女子大生の死亡、そしてパラダイムの投資関係の責任者だった子会社社長が沖縄のホテルで死んだ二つの事件を主に内偵を進めていたらしい。一説には金石警部補はすでに確固たる証拠を掴んだのではないかという噂も、捜査一課のなかで語られているのも事実である。一昨日の小板橋巡査部長などは、このあたりを知っているのか、もしかしたら知っていて、それゆえに、太刀川が警視庁に来ると聞いて手を上げたのもあるかもしれない。つまり、五年もたった今でも、誰もそこに何もなかった、とは本当は思ってはいないのである。

 ここで昨夜の、銭谷警部補の説明になる。

 あるところで、潮目が変わった、と少し酩酊しながら銭谷警部補は繰り返した。

 確かに、六本木事件の報道では不思議な変化があったーー。学生当時の報道を思い出しても石原は思うのである。

 石原は自分の記憶も回想しながら、ノートに整理を続けた。

「もともとはパラダイム社の太刀川社長の周辺に対しては、否定的な報道が基本であった。最年少上場から、太刀川の経営手法だとかメディア買収、サッカー球団買収などの話が繰り返されるたびに、世の中の常識として太刀川ら若い経営者は生意気で、常識知らずのレッテルを貼られて報道された。良い意味では、世の中の空気というか、常識というものに対して、恐れを知らない、古い常識を変えていく存在とでも言おうか。悪く言えば、社会的に未成熟だとか、マナーを知らないというような言葉である。後者のような否定的な切り口での説明や取り上げが、印象として強く続いていたはずだ。

 ただ、それらの報道が、いつの間にか消えていった。全ての報道はいつの間にか消える、けれども、この六本木事件については、突然消えていったように見える。」

実際に今石原がネットで調べてもある時期から報道が少ない。大手メディアの正規記事が既に削除済みなのもあるが、石原は、確かに銭谷警部補のいう点は、自分の記憶と近い印象があると感じた。テレビを賑わせていたものがふとある時から、熱が覚めたように消えるともいおうか。その変化はあらためて言われないとわからないし、誰もこの潮目の変化には気がついていないのではないか。

 思い返してもパラダイム社関連の報道の結末を思い出せない。どういう風にあの買収騒ぎが収束したのか。死亡事故は最初はどのチャンネルを見ても同じ報道合戦だったはずだ。東大出の若き経営者が殺人事件に絡んでいるというあの報道がどういう結論になったのか。太刀川は逮捕もされず、被害者のその後も報道もされていない。事件そのものが何だったのかの振り返りさえない。あの加熱した報道の着地点を誰も知らないのである。

 例えば、昨夜銭谷警部補が淡々と語ったことーーパラダイム社の社長である太刀川が株式まで全て売却して、経営の一線を去ったことなどは、石原は知らなかった。あれだけ世の中を騒がせていたのだから、報道があっても良いはずだ。最初殺人事件だと言われた六本木ヒルズの女性の死亡が、殺人事件ではなくなり、純粋な事故だった、と処理されたというのも、報道された記憶がない。たしかに、ただ、いつのまにか報道の表舞台から話題にもならない世界に消えていった。

 石原は昨夜の銭谷警部補の横顔を思い出した。タバコを左に右手にジョッキをずっと交互にしながら、彼が言った、何か力が動いたんだ、という言葉が脳裏に残った。

 石原は深呼吸をして目を閉じた。

 本当の未解決事件。警視庁の中では解決済みになってしまった、本当の未解決。

 銭谷警部補はこだわりを持って説明していた。

 太刀川龍一。

 彼の周辺で何があったのか。

 多くの論理が変わった、とするなら、一つの仮説が出てくる。


(権力との手打ちがあった、ということ?)


権力者との調整、つまり手打ちをできずに、潰されていく人間は多いのかもしれない。太刀川は潰されたように見えて、実は、自分の現金などは失わず株式を売却できている。そして、一昨日見せたあの表情。あの表情は、何かを捨てた人間のものではない、と石原は思う。むしろ、何かを「これから始めよう」としている人間の眼差しに思えるのだ。

 株価の暴落と、死亡事故で追い込まれていたときに、万が一「権力からの逮捕状」が発生していたなら?警察に届く前に、それを太刀川龍一が知っていたなら?命と引き換えに会社を放棄することで助かる道があったのなら、どうだろう。

 その際に、誰が動いたのか。動く可能性があったのか。太刀川の周辺で一緒に逃げる必要があった人間がいたのか?

 石原は警視庁六階の高い天井を見つめた。

 珍しくタバコを指が求めなかった。

 


四十一 水道橋界隈(太刀川龍一)



 東京ドームは本郷三丁目から坂をひとつ降りた目の前にある。

 ドームの横を南北に走るのが白山通りで、南は水道橋神保町の書店街を抜けて皇居に向かう。ドームから東へ坂上がれば東大のある本郷台を抜け、上野の不忍池や湯島へと続く。上野の広小路を右折すると秋葉原の電気街が始まっていく。そこからは平べったい江戸以来の目抜き通りで、神田、大手町、日本橋を超え銀座へと続く。

 どの街に降りても東西南北を把握する習癖が太刀川にはあった。

 一度地図を見て仕舞えば頭から離れないけれども、そもそもどこの街にいても理科系の脳には不思議な病があって、どちらが北かを直感してしまうのだ。そうやって街歩きばかりしているせいで、太刀川には東京のあらゆる地理と、道と、企業の建物が頭に入ってしまっている。記憶したというのではなく、塗り絵のように自分の歩いた道が色づいてしまうからである。

 昼過ぎに秋葉原を通り、午後には、大手町に入り三時前に日本橋を通り過ぎる見込みだ。多くの人は地下鉄だ、タクシーだと乗り換えるが、実際に歩いてみてもそれほど時間はかからない。夜の銀座での経団連重鎮との会食に、合わせて二時間ほどの時間が余っている。少し、本でも読もうと、太刀川は思った。


 

四十二 出歌舞伎町(御園生探偵)  


 

 軽井澤さんと僕に両肩を担がれながら、守谷はタクシーの後部座席に乗った。両肩と言っても左の腕は切断されていてその断面をジャケットに隠しながらだった。

「か、カバンは…」

「ここにありますよ。」

「進めてください…。車を早く。」 

何かに怯えているが、僕にはむしろしっかり喋れることの方が意外だった。

 タクシーの運転手は、

「大丈夫ですか?病院ですよね。」

と、驚いた顔をさせたまま、そういった。

「まずは、前に進めて...、」

守谷は振り絞るように声を出した。かすれた声だった。

 車が走り出すと、僕は守谷を見つめた。

 紫に腐った果物のように腫れた瞼は視力を失って見えた。何を見て何を考えているのか想像しづらい。

「どこに向かいますか?」

「……。」

「とりあえずまっすぐですすめていいですか?」

会話が成立しないまま、タクシーは職安通りから皇居の方角へ向かい四ツ谷を越え、しばらく走った。

「大丈夫ですか。」

指示を明確に貰えぬまま、タクシーは半蔵門を右折して内堀通りに入った。車窓左に皇居の外濠が広がったところで守谷が突然声を発した。

「高速に乗ってくれ。」

「え?高速ですか?」

タクシーの運転手が苛立った声を出した。無理もない。てっきり重病人を抱えて乗り込んだわけで病院へでも行くのだとばかり思っていたのだ。それが行き先も告げないまま、高速道路に乗れとまで言うのだ。

 桜田門の手前を右折し、左手に官庁街を通り過ぎ坂を上がると、ゆっくりと首都高四号線、霞ヶ関入り口が見えた。

「高速に乗りますよ、いいんですね?」

守谷の言動は、その後も非常に不可解なものだった。がしかしそれは、或る何かから逃亡したいと言う観点だとすると合点が行った。明らかに守谷は終始怯えていて、それだけは芝居ではなかった。霞ヶ関の高速入り口の直前で、

「いまだ!」

と頓狂な指示をしたり、品川方面に向かうと見せかけて突然渋谷方面だ、と前言撤回するなどめちゃくちゃだった。首都高を六本木、渋谷と越えた後、池尻大橋の出口でこれもまた彼は突然

「そこだ!」

と小さく怒鳴った。

「えっ、ここ?」

たまらず運転手が、急ハンドルを切ったので、側石に車が当たる勢いだった。

「もっと前に言わないと危ないじゃないですか!」

僕はそう強く言ったが、守谷はまた再び目を半眼させ、我々の言葉に一切耳を傾けようとしないという態度をとった。池尻大橋の出口からタクシーは玉川通りに入った。よく見ると守谷は腫れた目でバックミラー越しに追跡がないことを指示のたびに確認もしているのだった。

 三宿の交差点の手前あたりで、

「そこを左」

と言ったのが最後の指示で、曲がって少し走ると恐らく中規模の病院の入り口が目の前に現れた。池尻病院という立派な掲示があった。我々はタクシーを降りた。

 病院に入ると、診察の受付もしないで守谷は入院病棟のほうに行くエレベーターに乗った。僕は車椅子を用意しようとしたが、守谷は

「自分の足で歩ける」

と主張した。クリーム色のリノリウムの古めかしい廊下を歩く。病院はどこか暗い雰囲気があったが、正しく病院であった。それよりもこの正規の病院に守谷のような男が受け付けもせず入っていくのが僕には奇妙だった。軽井澤さんは黙って歩いてきている。守谷は速度は遅かったが辛うじて自分一人で歩いていた。

 そのとき、守谷を知っている様子の看護師が近づいてきて、空いている部屋がここにあるみたいなことを小さい声で守谷に言った。守谷の様子を見てもさほど驚きもせず、看護師は部屋を案内した。一体どういう病院なんだろうと僕は思った。

 守谷の入った一室は複数共同の相部屋だったが、他の患者はいなかった。

 やっとようやく話ができるようになりましたねと言う前置きから、軽井澤さんは、一体なぜ我々に電話してきたのかとか、昨日の人たちがどういう人間達なのかどうかとか、あなたが今後襲撃される可能性があるのかとか、まずは基本的な質問を幾つか重ねた。しかし守谷はそれらの善意の質問に対してほとんど反応のない無視を続けた。その態度はタクシーで東京を半周させて、せっかく落ち着いた場所まで連れてきた我々に対して明らかに失礼で、非常識的だった。

 その後も間合いを見て我々は繰り返し守谷に声をかけた。しばらくの間は守谷の無視を我々は我慢していた。どこかで片腕を失っている人間へ、生命ある動物なら誰しもが持つ、本能的な同情だったかも知れない。そうやって質問をしては沈黙されるのを繰り返して時間が過ぎ、ふと時計を見ると三時を回ろうとしていた。事務所を出て、既に五時間は過ぎていた。流石に痺れを切らしたのか、

「これでは、そろそろ我々は帰るしかないですかね。」

軽井澤さんはそう静かに言った。

「そうですね。」

何を聞いても無視をするし、不気味な人間の内情まで興味があるわけでもない。店じまいせざるを得ない諦めを覚悟した、実際の言葉だった。

 そのときだった。

 守谷は突然、奇妙な声を出して笑い始めた。躁鬱病で言う、躁の状態が始まったのかもしれない。瀕死の人間が病的に出す声なき声とも言える。吃音の中でもはっきりとした口調で、

「あんたらも狙われたかもな。」

といった。

「なに?」

「知らんよ。恐ろしい奴らだ」

「どういうことだ」

「逃げてもいいが軽井澤さん、あんたにも家族があれば、奴らがどこまでを狙うかは俺は知らないぜ。」

「今何といいましたか?」

家族と言う言葉を聞いたあたりで、軽井澤さんの温度が変わった。眼が怒気を帯びているのがわかった。一人娘の紗千さんを思ったのかも知らない。

「俺を見ればわかるだろう。普通の奴らじゃない」

「では、そろそろ聞かせてもらえますか?」

軽井澤さんは強く冷たい言葉を返した。 

「何のことだ?」

「とぼけないで貰えますか?」

「とぼけない」

「何故あなたがこうなったのか?そして、何故あなたは昨日わたくしに電話をかけたのか?です。」

「……。」

「あなたを襲ったのはどこの誰ですか?」

「誰だかはわからん。」

「本当ですか?心当たりもない?」

「ない」

「心当たりもなく、こんなことをされて、なぜ警察に行かない?」

「あんたの知ったことじゃ無い。まあ、俺にはもう失うものが何もないってことだ。」

「……。」

「ただ、あんたらが放置して帰れば、このまま俺は、引き続き手足をひとつひとつ、斬られるかもしれない。その時、今際の間際にあんたらを売るかも知らんな。いろんな秘密を話してしまった相手として。はは。」

守谷の笑い声が沈むように響いた。それはまるで死体から出た腐った異臭のようだった。文字通り最低極まりない人間のもたらす、重苦しい間合いと沈黙の後に、

「何を所望だ?」

軽井澤さんは、恐ろしく冷たい声でそういった。

「……。」

「もう一度聞く。何が所望だ?」

軽井澤の声とは思えない冷たい声だった。

「誰かを、知りたい」

「誰か?襲撃した奴らを?本当に知らないのか?」

「ああ。この襲撃をした人間が誰かは、具体的に知らない。襲撃の理由には心当たりはあるがな。」

「どう言う意味だ」

「俺は本当に知らないのさ。だから知りたい。」

「もう一度聞きたい。一体何人の人間が昨夜あの場所にきた?」

「覚えてないね。三人はいた。」

「顔は見たのか?」

「馬鹿な。全員、目出し帽だ。」

「予告なしに、部屋に?」

「鍵は閉めてあった。それを開けて入ってきた。」

「鍵を?」

「まあ、オンボロマンションだからな。」

「質問を変えよう。」

「……。」

「何故、名もない探偵事務所を陥れようとする?恨みでもあるのか」

軽井澤さんがそう聞くと、守谷はふと、何かを逡巡したように僕は感じた。意外だ、という表情にも見えたかもしれない。

「何の恨みもないさ。むしろ申し訳ないとは思っているが。この通り自分には誰も味方もない。使えるものは使う、それだけだ。」




四十三 青山の崖 (赤髪女)


 赤髪女が再び、表参道駅をおりたのは十五時を過ぎた頃だった。

 表参道交差点から青山墓地の方角へ歩き、パンダのような模様をしたプラダビルの筋を過ぎると、少し落ち着いた住宅街になる。そのまま、墓地の脇の坂を降りた。昨日の探偵事務所の前を通り、そのまま、赤髪女は墓地の茂みに隠れた。崖の上にうってつけの清掃員向けの作業小屋がありそこから事務所のあたりを見下ろせた。

 午前に指示者からは二つの追加があった。

 一つ目は、GPSの追加だ。風間ではなく、守谷、という人間らしい。守谷という男のGPSは新宿歌舞伎町で点灯を始めたのだが、先程から動きが増えた。落ち着かなかったが、最終的に今池尻大橋のあたりに移動し、少し落ち着いた様子がある。

 二つ目はこの探偵事務所を更に調べろということだった。後者はある意味、赤髪女の予想し期待した方向に誘導されたとも言える。結果、GPSを探偵の車に設置したことが生きている。その車は今新宿の歌舞伎町にある。奇しくも守谷という男のGPSの青い点滅がはじまった場所でもある。

 風間が探偵事務所に接触したことを報告してから、指示者の様子が変化した。指示者は赤髪女に、この探偵事務所の人間を調べろと言い出した。猫の死体に困った風間がこの事務所に頼ったというだけで、なぜ、探偵の尾行までするのかが赤髪女は腑に落ちなかった。

 窓を見下ろして中を覗く。

 事務所には人がいなかった。

 無駄に大きな窓から中が丸見えの事務所だ。カーテンもしていないのは、北向きで日当たりも悪いからだろうか。

 ただ、赤髪女は少し積極的だった。

 素敵な探偵さんのいる事務所なのだ。

 エリート商社マンのような溌剌とした美男子の探偵さん。

 赤髪女は少し自分が艶めくのを感じた。

 見込みで「シール」を貼らせてもらった事務所の薄緑の車は同じ場所にはなかった。履歴を見ると、車は朝にはもう移動していたらしい。今は新宿歌舞伎町にある。未だ出社していないのではなく、既に朝から社用車で仕事をしているらしい。赤髪女はあの美男子の探偵が早朝から働いている姿を想像した。

 赤髪女は、社用車の位置が新宿にあるままなのを見て少し大胆になった。窓越しに事務所の中の物色を始めた。鍵はこじ開けなくても、これだけ窓をブティックみたいにガラス張りにしていれば中は見放題だ。デザイナー事務所と勘違いしているのか、世の中に隠し事がないのかは知らないが、随分開け広げである。

 窓が大きい割には、事務所は狭かった。地震実験車が何かみたく、窓の外から室内の全てが確認できる間取りだ。真ん中に応接机と年代物の二人掛けのソファがあるばかりである。左奥の角に取調室の書記官の居場所のような小さな机がある。これが、あの美男子の机だろうかと、赤髪女は爪を噛んだ。右側は壁いっぱいが黒板の代わりの白い落書き壁になっていて、おそらく整理もされていない紙や写真が、マグネットで所狭しと貼られていた。

(男だけの事務所だな)

赤髪女はそう言う想像をしながら、室内の写真をできるだけ撮った。壁に貼ってあるものも全て、まずは写真にしておく。写真の枚数が指示者からの評価になるはずである。そうすれば収入をまた増やせる予感があった。



四十四 本郷界隈 (太刀川龍一)


 太刀川は竜岡門の前を通りすぎた。

 竜岡門と言うのは、赤門や安田講堂前にある正門と違い、さほど有名ではない東京大学の入り口の一つである。ここは学生というより東大病院の出入りが主となっている。

 周辺には、竜岡門の名をあやかった建物は多く、竜岡門ビルディングもその一つだった。

 太刀川は茶色いレンガに左の片面だけ蔦が密集した地上四階建てのマンションを見上げた。いつも上り下りをした蔦まみれで剥き出しの非常階段が懐かしい。この四階がパラダイム社の創業の地だ。オフィスは残っていない。パラダイム社が、六本木に移ってから閉鎖させていた。

 実はこの創業のオフィスの賃料はずいぶん長い先まで払われ済みであることを知る人間は少ない。そもそも、あれだけ騒いだ記者たちも、ここが創業の場所であることなどを知ってる人間はほとんどいなかった。

 ビジネスは人間同士の殺し合いで、利潤の奪い合いなのだということをまざまざと覚え始めたのはこの小さな一室だった。売り上げが上がり、社員が増えて手狭になり一度、二階が空いたので追加でそこを借り、六本木に移転させるまでの三年ほどしかいなかったが、ある意味で誰よりも、一番辛かったあの時期をこの部屋は知っている。

 この部屋の鍵をまだ自分が持っているということを知っている人間はもうだれもいないだろう。太刀川は竜岡門ビルディングを眺めながら、一昨日、霞ヶ関の地下ホームでぼうっとした時間を思い出した。かつて、猛毒のサリンをばらまいた人間たちには、東大の数学科にいたような人間が少なからず含まれていた。あの頃、きっとそれは何かに飲み込まれた人間たちだと考えていた。人間の社会はこころの飲み込み合いだと感じる。組織がそれぞれ様々なやり口で大勢の人を飲み込んでいく。装置のように、重力のように、組織は人間を飲み込んで大きくなっていく。人間を飲み込めない企業だけがつぶれていく。宗教も政党も全部同じ。そうやって利権と利潤をうばいあう。

 太刀川がそれらを学び始めた場所が、この竜岡門ビルディングだった。理想や夢と全く逆の現実と向き合った場所、とも言える。誰にも言えない事を整理しながら社長業を学んだ、あの孤独な時間はここにあった。

 太刀川は何か言葉を念じたような表情をすると、鞄の中にある部屋の鍵を手で確かめていた。



四十五 池尻病院 (御園生探偵)


「あなたがわたくしどもに調べて欲しいのはこの襲撃を行った人間という意味ですか?」

僕は軽井澤さんが敬語に戻したのを聞いて少し気持ちが楽になった。

「あ、ああ。」

「心当たりは?ございませんか?」

「心当たり?」

「襲撃者です。三名位はいた。目出し帽をかぶっていた。おそらく体格もしっかりしていたのなら、若者だったのですかね。」

「……。」

「だとすれば、彼らは直接にあなた、守谷さんに恨みを持つことは珍しい。そういう若者から恨まれるような生活をされているのでしょうか?」

「……。」

「そうでないとすると、その若者たちは誰かに命令された、雇われて襲撃を行ったのかも知れませんね。襲撃者と命令者は別だと考えた方が自然ですね。恨みを持っているとすれば命令者になるでしょうから。」

「……。」

「その心当たりはございませんか?」

 守谷は返事をしなかった。

 目を閉じ、病院のベッドに横になっていた。


 どこかで僕は苛立つ自分をおさえていた。

 二人連続、である。

 Google広告を試してみようと軽井澤さんに話したのは自分だ。日頃の近所付き合いの顧客ではなく、もっと遠くの新規開拓を、というGoogleの広告文句にやられたのだ。結果として新規顧客は二名とも、ほぼ最悪の結果になっている。軽井澤さんに申し訳ないと、自己嫌悪をしていたそのときだった。

「おい。」

軽井澤さんらしからぬ言葉使いのせいで、一瞬それが軽井澤さんの声だと僕は気がつかなかった。

「いまだ。今すぐ、知ってることを誠実に話さないと許さないぞ!」

聞いたことのない軽井澤さんの底を割るような声が響いた。再び、敬語体が抜けている。僕はびっくりした。

「おい、聞いているのか?」

気がつくと軽井澤さんは、ベッドに馬乗りになるように守谷に飛びつき胸ぐらを掴むと怪我人なのも気にせずに壁に突き上げた。か細い、守谷の全身が宙に浮いている。

 僕は軽井澤さんがそんなに凄まじい形相で、掴みかかるなんて想像できなかった。これには守谷も驚いた。

「聞いていますか?」

敬語に戻ったけれども、その礼節が、逆に恐怖を煽るようだった。

「ぜ、全員覆面をしていたんだ、わからんよ。」

「では、姿形は見たのですか?身長や、そのほか何かしらの情報を」

「わからない」

「彼らの背後にいる人間を本当に想像できないのですか?あなたは我々が恐ろしい組織に睨まれたと言いました。」

「……。」

「あれは、うそですか?勝手な想像でカマしただけでしょう?どうなんですか?」

守谷は小さく、首を上下させながら

「そ、組織は、あるはずだ。」

とだけ言った。

「あなたと、そういう組織に仕事でのトラブルがあったのですよね?」

「いや、ちがう。」

「ちがう?」

「仕事の相手じゃない」

「どうしてそう言い切れますか?」

「ちがうんだよ」

「……。」

「仕事のトラブルじゃない、と言い切れるのはなぜですか」

「……。」

 その時である。

 軽井澤さんがその間隙に僕を見たのだ。その眼差しは、全く怒りに震えてはいなかった。むしろ目線で「何かの指示」を試みていた。それは一瞬だけだった。一瞬が過ぎるとそのまま軽井澤さんは、守谷を折檻を続けた。しかしそれは、怒りではない。つまり、軽井澤さんは、自分がそういう位置で守谷の胸ぐらを掴むときにできる、死角のことを意図しているのだ。そうして、その死角には、守谷がずっと抱えてきた汚く小さいボストンバックがあった。

(そうか、そういうことか。)

僕は軽井澤さんもさっさとこの場を去ろうとしているのだということに今気がついた。

「俺はわからん。」

「なぜこんなことをされたのですか?あなたの仕事が理由でしょう。」

「仕事は関係ない」

「なぜ?」

「関係ないんだ」

「そもそも仕事は何を?」 

「見れば分かるだろう。いろいろだよ……。ろくな商売じゃ無いさ」

「……。」

「とにかく、仕事は関係がない」

「何故そう明確に言い切れるのですか?」

胸ぐらを掴んだままだ。呼吸ができなくて苦しい守谷は、

「俺にはわかる。そういうことではないんだ。」

「では聞きます。あなたは、どこかでこのような事態が訪れることを知ってて、電話を私たちにかけませんでしたか?」

「……。」

「そして、その電話を隠し、修羅場が終わる頃に存在を見せた。つまり、探偵事務所のような存在をつなげることで、相手への、歯止めを探した。」

軽井澤さんは、どこかで想像していたことを言った。もし、守谷が天涯孤独で誰にも頼る先がなく、警察にも頼れないとするとあることかもしれない。

「お、俺は悪くない。」

「……。」

「怖かったんだ。」

守谷はそこまでいうと、おめおめと泣き出した。どうやら軽井澤さんの指摘も遠くない正解だった様子があった。精神的に参っていて、図星を言われた老人のみすぼらしい涙なのかもしれなかった。身体中怪我だらけの年寄りが、泣きじゃくる惨めさは酷かった。

 軽井澤さんは、チラリと僕をみた。

 どうや<僕の作業>が済んだことを理解して、

「また明日来ます。今日は大変だっただろうから、少し、まずは休んでください。尾行はされていないはずですから、この病院なら安全でしょう。」

と言って手を解いた。その解き方はそれまで胸ぐらを掴んでいた手とは思えないくらい、優しい気遣いがあった気がした。

 ベッドに戻された守谷は、無言で天井を見ていた。皺の強い目尻に惨めにしか思えない涙の跡があった。



四十六 軽井澤紗千  

 


 どういう娘であるべきかは常々悩んできた。

 どういうふうなことを話せばいいか。父の言葉をどう感じればいいか。

 両親が別々に暮らすようになったのは、父、軽井澤新太が前の会社を辞めて独立した頃だった。前の会社と言うのは全国ニュースを作っている放送局、つまりテレビ局だ。もちろんニュース以外にも、ドラマや歌番組とか沢山あるけども、父は多分そのテレビ局のニュース報道に関わる仕事をしていた。

 たぶん、というのは、父は私には一度も仕事の話をしたことがないので、母になんとなく聞いた時にそういう概要だったからでしかない。そういう理解を自分はしている。

 テレビ局、ってそう簡単に入れないし、親類に有力者のコネもない我が家族だから、父は苦労して就職したはずで、何故それを、わざわざ放擲して、言っちゃ悪いが、探偵みたいなことを始めたのかは、さすがに「娘からも聞けない」でいる。せっかく終身雇用でまあまあの給料がもらえる放送局に入ったのに、どうして辞めたのか。理由はよくわからない。そう。そうだ。そういうことは、聞かない事にしている。

 昨日、多摩川沿いで久々に会ったその日、父は少し疲れていた。 

 それでもジムに入ってミット打ちを始めるといつものように表情は変わっていった。私は遠目でそれを確認しながら、父と同じ部活で競い合うようないつもの気分をさせて河川敷を走りに出た。多摩川の土手は見晴らしが良いのが好きだ。

 自分で言うのもなんだけど、父と母が離婚をしなかったのは、一人娘の私ためだと思う。実際、私立の中学に入れてもらってからも、父も母も仕事が本当に忙しくて、私への対応は代わりばんこだった。二人で一緒に、私に向き合う事は、正月や誕生日でも稀だった。送り迎えは交代制だった。でも今から思えば、交代が合理的だったのだ。

 大学に進学が決まった頃に、父が四ノ橋で一人暮らしを始めて、いくつかの事が、理解出来るようになった。大人になるという事はそういう冷たい現実を平凡に処理できる事なのかもしれない。

 父も母も一人娘である私をこよなく愛してくれている。このことはありがたい。別居が大学入学まで遅れたのもただただそのせいだったろう。ほんとうは、二人はもう、とっくの昔に、冷めてしまっていたのに、この自分のために別れないでいてくれた。それも、ひとつの愛情の形だとおもう。もしかしたら本当は離婚したいのに、私が結婚するまで待っているのかも知れない。

 ママは雑誌編集者でworkaholicで、大きな括りではマスコミという同業なのかも知れないけど、父と母が互いの仕事について私の前で語るのを見たことはない。母は、父が会社を辞める頃、どんな意見があったのだろうか、など込み入ったことは何も知らない。

 父が父の人生をどう歩んできたのか、私はほとんど知らない。娘に対する時の父は父親として力んでいて、多分、仕事の時とは違う気がする。父は、普段私を見つめる時はいつも柔和で優しい、包容力のある表情をしていて、愛情がそのまま溢れてるような存在だ。その父が、拳闘の拳を握り締めて殴っている時、まだ出会ったことのない父の姿が、そこに見え隠れする。私は、自分に見せない父の本当の表情を探しているのかもしれない。母が父に恋をした頃の、そういう場面を、といえば言い過ぎだろうか。

 とくにスパーリングなどをして、真剣の戦いになっている時の、表情をみるのが好きだ。あえて加えて言えばそれは、父の過去の暗い場所からやってくるように思えるのだ。この私には話したことも、母にも語らないでいることも、あるのかもしれない。

 私はそれに、触れたいがために、ボクシングを辞めないでいる。もちろん河川敷をこうやって走る時間は自分にとって貴重な時間なのは間違いないが、それは、半分くらいでしかない。こんな多摩川まで来なくてもスポーツジムは都心にも沢山あるのだから。



四十七 指示電話 (赤髪女) 


 赤髪女をフラッシュバックが断続的に襲っていた。

 胸が苦しかった。

 薬物の禁断症状である。

 ここ数日、高価な覚醒剤を使ったのが良くなかった。財布が心もとなくなっている。赤髪女は肩を揺する典型的な中毒者の症状を繰り返しながら、南青山の探偵事務所を少し離れた墓地の草むらにうずくまっていた。

 電話が鳴った。

「諸々は、順調か?」

指示者はヘリウムを飲んだ声で、ゆっくりと話した。

「はい。」

赤髪女は周辺を見回した。薬が欲しい。しかし金が足りないのだ。普段ない金額を得たせいで少し上級の代物を求めてしまった。上級の商品には通常ない別の依存性がある。

「ご、ご指示の探偵事務所を引き続き、少し調べています。」

「風間は?」

「風間はやはり、家を引き払ったのか、外泊をしています。錦糸町近くの安宿です。」

赤髪女は、GPSの位置を思い出しながら、家にいないことは確かだと告げた

「風間は探偵事務所と連絡をとっている。それは間違いないのだな?」

「完全に確定とまではいえません。しかし、昨日の朝、だいぶ長い時間をこの界隈で過ごしていました。不動産屋を回っているにも関わらず、この事務所だけは別だったと思いました。」

「いま、南青山か」

「はい。まだ風間に動きがないので。探偵の方の調査に力を入れろ、というご指示だったかと。」

ヘリウムを含んだ無言の呼吸音が、電話の沈黙を繋いだ。

「風間は、また、猫でしょうか?宿泊先には厳しいかと」

「いや。」

「……。」

「ちなみに、昨日からはじまった新しい緑のがその探偵のGPSか?」

赤髪女が昨日の朝、車に取り付けたシールのことだ。

「はい、いや、その探偵の身体には流石に取り付けられないと思われましたので、彼らの事務所にある車に取り付けました。」

「ほう。」

声が弾んだ後に押し殺す吐息があった。

「今朝方、新宿に向かい、そのまま放置されているようすです。」

「そのようだな。」

「何か気になることでもございますか?」

「新宿という、偶然についてか?」

「いえ。」

「偶然と必然とが混在する。」

「どういうことでしょうか。」

「まあいい。質問はするな。」

「はい」

「しかし、探偵を雇うとは。風間にそんな金があったのか」

「少なくとも、あのホテルに泊まる限り、金はあるとは思えません。」

赤髪女は風間のたどり着いた木賃宿を思い出した。Googleで見る限り、世の中にある宿泊施設の中で最下層にあるのは確かだった。

「実際に、どうやってるのかは知りません。探偵側が騙されているのかも。」

「騙されている?」

「見せ金というか、支払時期などに誤魔化しがあるのかもしれません。」

「知り合いでもいたのか?」

「そうは思いません。が、なんでも繋がる時代ですから。」

「なるほど。」

「ところで、すいません。」

「どうした。」

「その、わたしの、ここまでのお金についてですが」

赤髪女はその部分を明確にした。次の薬の購入のための、金が間に合わない。

「金に熱心だな。」

「そういう意味では。ただ、追加の作業もご指示いただき、ありがたくさせていただいております。」

赤髪女は、突然商売じみた言葉が出る自分に驚いた。これも薬物依存のたまものである。

「もうすぐ届く。次の動きは待て。それより」

「はい。」

「今日明日は、最優先で探偵事務所を詳しく調べてもらおうか。」

「かしこまりました。現状はホームページと、この事務所の目の前、と車の追跡程度しか情報ありませんが。」

「どういう探偵が働いているのか、を調べてもらおう。零細な事務所に見えるがな。」

指示者はすでに、ある程度用意していたのか、細かくその方法を述べた。赤髪女は、頭に覚えきれず、メモを取った。

「もうそろそろ金は、届いている。安心しろ。」

「ほんとうですか。」

「GPSには、風間と守谷、それと探偵の車があるということだな。それと話をしたもう一人はどうだ?」

「もう一人、綾瀬ですね。」

「ああ。」

「すいません。風間が落ち着いたところでと思いましたが、家を出たり探偵に向かったりと混乱があり。この後にどこかでと。ただ、綾瀬の方は取りつく島もなく困っておりまして。」

「まあそうだろうな。」

「申し訳ございません。」

「まあいい。まずは探偵を進めろ。」

「了解しました。」

赤髪女は、GPSの画面を見た。オレンジ色の風間が錦糸町にいて、新宿から始まった守谷という青い点が池尻大橋のあたりにある。緑色の、探偵の車が歌舞伎町のままだ。

 指示者の電話は切れた。また元の草むらにうずくまるだけの自分に赤髪女は戻った。想定の通り、電話が切れるとフラッシュバックが断続的に襲いなおした。

 苦しい。

 早くしたい。

 禁断症状が続いたままで、いろいろな頭の中の病理や妄念がゴム玉のようにあちこち溢れて暴れる。手と肩が他人のものみたいに痙攣したりする。少し危ないと感じた赤髪女は、一旦祖師ヶ谷大蔵まで帰宅をすることにした。表参道で千代田線で小田急線方面に乗り込んだ。

 電話からの指示にはやはり慣れない。

 赤髪女は、小田急線の座席に蹲りながら、そう思った。

 社長さんから紹介されたこれまでの仕事にストレスのようなものは一切なかった。全ては淡々と続いてきた。それが今回から、金額が上がった。電話での指示になった。指示者はヘリウムの声である。相手は番号も何もかも不明だが、何をどう考えているのかは、言葉で理解はできる。指示者がやろうとしていることは、朧げながら理解はできる。ということは、それに対応しなければいけない。すくなくとも会話であるかぎり、前の指示を覚えていなければならない。

 八年間、こんなことはなかったのだ。

 どこかの落とし物を届けるとか、物を拾ったりするとか、殆ど、人格と触れることがなかった。

 社長さんが言っていた、「少しずつ良くなる」と言う言葉を、赤髪女は思い出していた。実際に金額が増えたのは「少しずつよくなった」ことなのだろうか。でも、正直にいえば、金額が大きくなったのは結果として薬物の量を増やしただけだった。何も幸せを増やしたりはしなかった。これでは本当に少しずつ良くなってるのかわからない、と赤髪女は思った。

 




四十八 暗い部屋 (人物不祥 村雨浩之)


 男は、電話を終えると、その暗い一室で、GPSの画面を見た。

 履歴をしっかりと見直す。

 GPSは目的の<三人の男のうち二人にまで>付けられた。二人とも狙った通りの恐怖を設定させながら、である。

 やはり、こうやって見ておくことは大切だと、男は思う。こいつらは、何をするかわからないし、そういう悪魔的な実績を持っている。元々その悪魔が互いに恐怖して傷つけ合う可能性を恐怖していたはずだ。

 誰の計画かは別として、十四枚の葉書はそういう設計だったはずだ。


E N R T K U A A C S W C E O


 しかし、GPSを見る限り、風間も守谷も逃げている。風間は探偵事務所を徘徊した後、埋立地まで周り、そのまま内陸に戻るようにして、錦糸町の周辺で宿泊した。

 守谷は新宿の歌舞伎町から車で首都高を移動した。今はおそらく病院に逃げた様子がある。どちらも恐怖から逃げようという動き方になっている。

 防御や、攻撃のにおいがしないままである。

 つまり、この三人が殺し合うという方向になっていない。

 計画が悪かったということなのか?逃げるだけでは、だめだ。

 それでは困る。

 それでは解決をしないからだ。

 過去から届く、あの葉書を解決させることにならない。

 男は暗い部屋でその画面を見た。自分が書き込んできたドキュメントに綿密に埋め尽くされた言葉を、改めて見つめ直した。


(このままで良いのか?)


二人ーーー風間と守谷は逃げ惑っている。もう一人綾瀬の男の動きは把握はできていない。

 葉書が来てからもう一ヶ月は過ぎている。これまで相応の金をかけ、いくつかの仕掛けをさせてきた。猫の前で風間は逃げるばかりだった。守谷はどうだろうか。歌舞伎町であそこまでされれば命の覚悟をしなおしても良いはずだが。

 男は自問自答した。

 赤髪の女によれば、さらに状況が追加された。

 風間は探偵に頼ったという。

 なぜ、探偵などと話が始まるのか?それが奇妙だった。これは全く想定外である。男は、GPSを眺める。

 ふと、守谷がいた歌舞伎町に、なぜか探偵の車が置かれたままになっている。探偵の車が何故か、守谷のいた歌舞伎町に朝から向かっている、とも言える。

 一体、この探偵はなんなんだ?

 男は暗い部屋で画面を睨んだ。

 GPSは、青色が池尻大橋。もうひとつ緑色は新宿歌舞伎町。そしてオレンジ色のものが錦糸町。


(やはり、綾瀬の男を動かさねばならないのだろうかーー。最も人間を殺すことが得意な男。実際に人間を率先して殺してきたとも言える、あの男をーー。)


男は悶々とした。第三の男を絡めた最後の計画はある程度ドキュメントに記載を始めてはいた。しかし、できれば彼を絡めることだけは避けたかった。


(あの男だけは何をするかわからん。)



四十九 病院の外へ(軽井澤新太)   


 わたくしは、守谷と言う男が「何か」を知っているようにしか思えず、激しく胸ぐらを掴み揺さぶりました。しかし、それは、半分はもうこれ以上この男との押し問答で今日を終わらせたくないという一心で、これでいちど事務所に帰ろうという判断でした。くわえてもう半分は、目で合図をした、御園生くんへのお願いもありました。守谷が大事そうに抱えていたボストンバックを、この隙に見て欲しかったのです。このまま手ぶらで帰っても辛い時間が続くのは判りきっています。せめて守谷の背景情報を巻き取りたかった。わたくしは守谷の胸ぐらを掴みながら、一瞬だけその視線を御園生くんにおくりました。

 守谷を吊し上げている間、背中にはその「作業」の気配がありました。しかし、か細い体と、片腕の切断含め、身体中の傷跡はやはり生々しくありました。人間の姿としてあまりに不幸だとも言えます。わたくしは人間というものがどういう仕組みで不幸になっていくのか、ということを何故か胸倉を掴みながら脳裏で思っておりました。

 頃合いを過ぎたところで、わたくしは振り向きました。ボストンバックは、元の位置に何もなかったように置いてありましたが、御園生くんの表情を見ると、何か仕事を行った後の表情をしていたものですから、わたくしは安心して、

「では、いきましょう。」

と穏やかに宣言し、守谷を置き去りに病室を出ました。リノリウムの廊下に出ても振り返ることはせず、御園生くんとわたくしは無言で淡々と階段室へと向かいました。

 病院を出たところでわたくしと御園生くんはタバコを一服したり、お互いの携帯電話などを確認いたしました。

 そこには、一人娘の紗千からの連絡メッセージもありました。

「昨日はボクシングのあとバタバタでごめんなさい。近々お食事でもいかが?」

父親にとって、いつどんな時でも嬉しいものは、娘からの食事の誘いの連絡かもしれません。そもそもこれまでも、これから先も、娘からのメッセージの全ては、喜びでしかありません。初めてスマートフォンと言うものを持たせてメッセージを自分に送ってもらったあの日から、すべてのメッセージをいとおしく思います。

 通常であればこのような娘のメッセージをわたくしは、何よりもありがたく受け止めます。昨夜から眠れなかったような今回の事件だったり、話すのも嫌な調査を押し付けてくる風間のような相手の仕事をしているとしても、青空のようにそれを吹き飛ばすのが娘からの連絡でございます。

 しかし今回は、少し違いました。

 いつもの通常のようにはいきませんでした。

 なぜなら、わたくしは今日の守谷のことがあって、少し明らかに心が乱れているのです。あの歌舞伎町のおぞましい場面が、なぜか自分の娘の記憶と混乱し、混じったような気がしたのです。守谷の犯されたような状況に、自分の娘の紗千が向かうかのようなありえない妄念が脳に生じたのです。

 想像というのは恐ろしいものです人間の脳細胞というのは想像したくないと思えば思うほど、精神が逆に働き、想像したくないものを想像してしまうものだと何かの物の本で読んだことがございます。一瞬の妄想が娘の具体的な不幸の場面を脳裏に強制したのです。それを、わたくしに仕向けるのです。

 連日、守谷や風間のような種類の人間と時間を過ごしたせいかもしれませんが、最も愛する娘と、あの二人が、単純に素材としてでも脳に混ざるのはとにかく、苦痛でした。自分の娘がもし、あのような不気味な男たちに監禁され、陵辱を繰り返し受けたなら?そういう、トラウマのような問いかけがわたくしの脳に生じたのです。それは表現をするのも苦しくなるような鬱然たる心情でございました。

「ありがとう。是非と言いたいところだけども、今日は先約があります。来週どこかでお願いします。」

わたくしは精一杯の指の力でそのメッセージを書くばかりでした。


五十  地下鉄へ (御園生探偵) 



 病院を出ても、しばらくは軽井澤さんと僕は話さなかった。

 すぐにタバコ場を見つけて、無言でお互いの電話を見たりしながらしばらくした。

 突然起きたいくつかのことにゾッとしていたことにくわえ、更に僕は軽井澤さんよりも先に、とある全く別の恐ろしいことを目の当たりにしていた。早くその事を軽井澤さんに話したいが、少し恐ろしくて、言い出せないままだった。深呼吸しながらタバコを肺の奥まで飲んだ。

 少し前、守谷のベットの前で、僕の目を見た時の軽井澤さんは、そのまま視線を守谷の鞄に流し向けた。その視線には明確な意図があった。つまり、奴のカバンから、何かを盗めという指示である。カバン全てがなくなれば騒ぐだろうが、開けて中身をいくつか、であれば気が付かない。明日にでも返せば良い。そうも言ったように聞こえた。

 僕は、のたうち回る守谷の胸ぐらを掴む軽井澤さんの背中側に、守谷の持ち物をずらすと、ちょうどその姿を隠すように合わせて、うまく彼のカバンの中で持って帰れそうなものを選ぼうとした。

 その時に「あるもの」が、目に飛び込んできたのだ。

 カバンにあったもの。

 それは、見覚えのあるものだった。見覚えはあるが遠い過去でもなく、懐かしくもなかった。ただただ見た瞬間ゾッとする種類のものだ。いや、一昨日からずっと軽井澤さんと僕が、悩ましく見つめ続けたものだ。

 病院のタバコ場を出てから軽井澤さんは、何かの考え事で青ざめた表情を続けていた。話しかけづらいことの少ない軽井澤さんだけに、余計に僕は逡巡し、言い出しを躊躇した。

 池尻大橋の駅に着いて田園都市線の地下鉄に乗ると、車両に殆ど人がいなく、長い椅子で二人だった。僕は、ようやく覚悟を決めた。

「軽井澤さん。」

「はい」

「目で合図をくれた、守谷の荷物です。」

「ああ、そうでしたね。」

「ちょっと、信じられないことが起きました。」

僕は、呼吸を深くしてから、黙ってそれを見せた。それは、守谷の麻袋のようなボストンバックを開けた時に発見したものだった。

 軽井澤さんは訝しげにそれを見た。わたしが持っている葉書、をじっと見つめている。そうだ。僕の右手には、束になって、アルファベットが記載された葉書が、おそらく数えていないのだが、十四枚あった。

「どうしたんですか?御園生くん。その、風間の葉書は、事務所に置いて来ましたよね。たしか、黒板に貼り付けていた。あれ。ええと。」

「最初はそんなふうに思いました。それだから、逆に驚いたのです。」

僕はそう言って軽井澤さんを見つめた。

「どういうことですか。意味がまるでわからないです。」

僕は手にした葉書を

「これは風間宛のものではないんです。」

軽井澤さんは、眉間にシワを寄せ僕を見つめた。そんなわけはないだろう、という表情で。

「いったいどういうことですか?」

「宛先が違う名前になっています。」

僕はそこで、葉書を裏替えして、宛先の方を見せた。あっ、と言う目眩が、軽井澤さんの表情に浮かんだ。そうして焦り始める呼吸が追いかけた。

「守谷保アテ??」

「僕もわからないです。守谷の鞄を開けたら、これがあったんです。」

しばらく呆然として、二人とも声を失った。渋谷、渋谷と電車のアナウンスがあった。そのまま、田園都市線は直通の半蔵門線になる旨が告げられる。

「鞄の中はくまなく見ました。あとは、競馬新聞くらいでした。財布の中は、ざっと見ましたが、千円札数枚の小銭と免許証。名前は、守谷匡。本籍は、大阪でした。さすがにそれを持ち帰るのもはばかれたのですが、この葉書だけは拝借しようとおもいました。」

複雑なことがいくつか想像できるけれども事実は至って単純明快だった。風間に送られていた葉書と似たものが、守谷保宛にも送られていたのだ。ざっと見た感じでは、アルファベットの筆跡も似ている。これは、同一の人物や、同じ組織が送ったものとしか思えない。

 地下鉄の中で枚数まで数えるのが憚れたりもしたが、ゆっくりと声も出さずに僕はそれをめくった。どの葉書も宛先は、守谷保で十枚を越えたところで嫌な予感はあったが、やはり同じように十四枚だった。僕がその事を理解したのを軽井澤さんは気がついたようだった。

「枚数も同じですか」

「そうですね。おそらくアルファベットも、同じように思えますが、事務所についてから確認します。」

目眩のまま、頭を押さえていると、あたりは白々と光り、電車の窓が明るくなり、地下鉄のどこかの駅のホームに滑り込んだ。表参道表参道、と駅員のアナウンスがあり、ようやく僕は自分たちの今いる場所を把握し直した。

 エスカレーターを二つ降りれば千代田線である。

 その時、軽井澤さんの電話が鳴った。

 軽井澤さんは、その画面を見ると、はっとした表情になった。

 そうして、僕を見つめ、スマホの画面を見せた。


 西馬込 風間正男


と表示がある。

「どうしますか?」

「出ない手はないでしょう。いろいろ聞かねばならないことがありますし。」

「……。」

「はい、軽井澤です。」

軽井澤さんが電話で話すと、風間の声が、スマホの中でしている。がなり散らすような雑な言葉遣いだけは感じられた。

「はい。そうですか。はい。風間さま、ちなみに、この後、会いませんか?事務所で良いので。ええ、こちらの都合ですのでチャージは大丈夫です。」

軽井澤さんがそう言うと、意外だなと言うような声が聴こえた気がした。僕と軽井澤さんは千代田線が滑ってくるホームで

「はい。場所は、南青山です。では、この後、お待ちしてます。」

という軽井澤さんの言葉で電話を切ったあと、少し沈黙した。おそらく二人とも考えていることは同じだった。

 なるほど、風間が来るのであれば、このもう一組の葉書のことは単刀直入に、聞けるだろう。そうすれば、一気に解決するかもしれない。

 もはや、前払金のことを僕と軽井澤さんは忘れていたかもしれない。とにかく風間に早く来させて、この不気味で気味の悪い状況をさっさと打破するか、もう金はいいから早く我々は不関与にさせれないかと、言うべきだと僕はおもった。実際に風間が事務所に来るのであればそうできるはずだ。



五十一 祖師ヶ谷 (赤髪女)



 赤髪女は祖師谷大蔵の自宅に帰ると、郵便箱を見た。薄茶色い封筒が、無造作においてある。現金が入ってるとわかる厚みがある。

 金が届くとほっとする。

 と同時に、やはり少し怖いと思う。

 こう言うふうに、郵便受けに封筒が入るようになったのは今回が初めてなのだ。

 これまでは違った。

 振り込みでも郵送でもなかった。 

 例えば買物をして帰ってくるといつの間にか鞄の中に入っていたりする。路を歩いているとアスファルトの真ん中に茶色い紙袋が落ちている。目立つように。駅の文庫本のコーナーに、紙袋で置いてあることもある。それが何故か、自分の目に止まる。すべて、必要なときに絶妙のタイミングで赤髪女に渡された。

 しかし、今回は違う。

 こうやって郵便ポストに堂々と届く。

 違和感がある。封筒を取り出して中身を確かめながら、もし隠しカメラでもつけたら届けた人間の顔を知ることが出来るのだろうかと思った。すくなくともこの八年間のやり方では、そういう可能性さえ想像したことがない。

 仕事の信用が上がって、届ける手順が簡易化したのだろうか。社長さんの言う通りにもう八年もしてきた。社長さんはいつも言っていた。一生懸命にずっとやり続けるといつか何かが良いことが訪れるよ、と。

 今回のこのやり方になって、お金が増えたのは確かだ。サラリーマンみたいに昇格して給与が増えたという事なのだろうか。

 赤髪女は、万札を掴んで自分の財布に入れ直した。



五十二 思い出  (レイナ)

 

 トレーラーは、福島、茨城の太平洋沿岸を南へと進み、千葉の九十九里浜を過ぎた。少し先に街が見えた。海岸の街は勝浦という地名だった。

 昨夜から準備していた佐島恭平の服装に着替えると、レイナはトレーラーを降りた。街といっても、港町にJR 外房線の列車駅がある程度だろうか。駅前を歩いても人はまばらだったが、漁港の近くに飲食店が並ぶ小さな商店街があり魚市をやっていて少し賑わっていた。

 佐島恭平になったレイナはゆっくりとその往来を歩いた。

 元々、レイナと言う人間は街を歩くことが恐怖だった。

 佐島恭平ならば、少し楽になる。佐島恭平という人格は決して、街を怖がったりはしない。架空の設計と定義がそうなっている。レイナ自身を楽にしてくれるのである。

 勝浦漁港の商店街は短かった。

 少し歩ききったところで、店舗は途絶え、すぐに海が見えた。

 空が水平線に向けて薄白く雲をまぶし、視線の限界で海と重なっていた。

 ふと、今日の変装は不完全だと思った。佐島恭平であることを諦めてレイナは砂浜へ降りる階段に腰掛けた。雑念が脳に溢れている。

 人間関係。

 自分はどこかで人間を避けている。

 佐島になるのも、自分を誰にも見せたくないという恐怖心があるからだ。


(絶対に誰にも言えない過去があります。)

(今まで言わないできた秘密があるのです。)


 誰しもそんなことを言うような異常者を避けたい。

 異常な人間と関わって生きていくのは苦しいし、人間は不思議なもので、異常に触れると異常が芽生えておかしなことが始まってしまうかもしれないのだ。異常者は街の真ん中にいてはいけないのだ。人間はそれがわかっている。その結果、異常者は、周囲に自分の異常を隠し始める。過去の犯罪があればそれを隠して生きるし、常に演技をして正常な仮面の自分で生きることになる。

 節子さんと何度も話したことだと、レイナは思った。


(だめ。今日は、佐島恭平になれない。)


商店街のおしまいに、ちいさなレストランがあって、古い昭和の香りがしていた。飛び込みで入るとメニューにカレーライスがあった。

「カレーライスください」

注文すると、コーヒーを出すような手早さでカレーがやってきた。

 ゆっくりと、スプーンですくう。

 少し懐かしい味がした。


「単純で悩みのない人生なんてつまらないものよ」

カレーライスの味と一緒に、節子さんの言葉を思い出す。

「人間の一部分しか見ないようにしてると単純になれるのよ。思考をそっちに行かせないと決めちゃえば、楽ちんだから。」

「……思考停止?みんな、考えるのをやめてるの?」

「どうだろうね。でも、少なくはないかもね。」

「でも。」

レイナがいつもの話になろうとしたところに節子さんは先んじて、

「つまらない過去だったら一回忘れてみるのもいいわ。新しく別のことを始めてみるのも。」

「忘れるんですか?」

「うん。」

「無理してですか?」

「思い込めばいいのよ。演技みたいなもの。自分が生まれた場所とか、なんでもいい。自分の別の新しいものを描いてみるの。こんな素敵な性格で、こんなことに喜んで、こんなことを探しているって。思考停止しないで、新しいことを考えるの。」

節子さんは、何度となく、レイナにそう言った。激烈な過去について悩むレイナを見て、幾つかの配慮で生まれた会話だったのだと今は思う。当時のレイナは、

「新しく始めてみよう」

と、熱をもって繰り返す節子さんの言葉にはどこかで癒された。そうして、本当に、自分が始まるような気さえした。自分と言う人間に、全く違う眉毛と、髪の毛と、服を着せて違う人間の人格と気持ちになって生きる。買い替えたパソコンみたいに。


 いま、自分は男性の格好で、カレーライスを食べているーー。


「…自分がもう嫌なのなら、変えてしまうのもアリなのよ。」

「そうかな。」

「そんな気持ちで良いのよ。」

「……。」

「でもそれよりもっともっと大事なことがあるわ」

「だいじなこと?」

「ええ。」

「どんなこと?」

「そうね。あなたの能力の問題ね。」

「能力?」

「あなたには才能があるのよ。私にはわかるのね。」

「才能?」

「うん。その才能で何かをやってみてほしいわ。だって、あなたには才能があるから。」

「よくわからない。」

「まあ、焦ることはないわ。あなたは嫌かもしれないけれども、私はあなたの今が好きよ。」

「なんで?」

「過去に悩んでるのは悪いことじゃないから。過去を気軽に忘れてる人より、過去を悩みながら生きている人間の表情が私は好きよ。だって、その方がずっとおしゃれで今時らしくて、人間らしいんだもの。これは本当のことよ。それでも悩んだらまた変装すればいいのよ。悩んでる自分はそのままでいいの。変装してもう一つ楽しむのよ。」



五十三 秋葉原 (赤髪女) 



「一所懸命やっていれば大丈夫だよ。少しずつ良くなるから。」

社長さんはそう言って、赤髪女にこの仕事のことを教えた。もう八年も前から、変わらずに赤髪女は、この仕事を行ってきた。

「長く真面目にやっていれば、きっと人の評価が上がるよ。世の中はそういうものだよ。信頼されて、人の役に立てばいいんだ。」

「……。」

「あと、本を読むことだよ。」

「本?」

「読んだことあるかい?」

「興味がないです。」

「本は素晴らしいよ。」

「でも。」

「うん。社長さんも、若い頃は一冊も読んだことがなかった。ある時期から面白さを知るんだ」

「まだその時期じゃないのかな」

「無理する必要はないよ。でも、困ったら読むと良い。おすすめの本をプレゼントしておくよ。」

「なんて本?」

「たくさんある。ダンボールにいれて自宅に送ってあげる」

 社長さんは言っていた。


 たとえば、新聞紙が落ちていて、文字の何箇所かに赤く丸がある。

 その文字をつなげると、


 港区麻布十番X のY のZ


という住所になる。その場所に行くと、次の命令がある。電話はない。大抵、紙や封筒だった。文庫の古い本の時もある。古本を開くと何かが挟んであったりする。

 そういうことだから、赤髪女はこの仕事で人と会話をしたことがなかった。そこに人間が存在する感覚さえなく、仕事は常にゆっくりとしていた。金額も最低限だったから、覚醒剤を買うのは簡単ではなかったのだが。

 今回は違う。

 突然、電話がかかってくる。

 そこには細かい会話があり、ヘリウムの声だが人格めいたものが見える。そして何より金額が大きい。結果覚醒剤を購入する頻度だけが変化した。

 赤髪女は身震いを少しさせながら覚醒剤を得るために祖師ヶ谷の自宅から都心に向けて地下鉄を乗り継いだ。

 禁断症状のせいで、油汗が背中と腋の下に酷かった。

 駅の階段をあがると、青空が高くて遠い。秋葉原らしい赤と黄色の看板の色彩が青空の手前に見えた。

 嘔吐したくなるような感覚が自分を襲っている。

 それは、いつも突然だ。

 脳にぶつぶつと紫色の泡が始まりそこを毛虫のようなウジ虫のような生き物と、化学の強い石鹸が混じったような混濁が広がっていく。そこにはゴキブリの幼虫や、ウジもいる。

 そういう気持ち悪さが脳を覆っている。

 そこに、覚醒剤が入る。

 注射の後、一瞬にして全てが真っ白になり、まるで新しい太陽が輝き、遠く水平線まで真っ白に広がっていく。心が救われる。さらに、みんなが笑顔で赤髪女のことを話し始める。「ありがとう!」「ありがとう!」「あなたのおかげです!」そういう言葉が脳内に溢れる。

 覚醒剤は赤髪女の悩みを知っていて、知悉していて、それを解決するように脳を作り直してくれる。恐ろしいくらい完全な自分になっている。薬物が体に入っている間は、そう言う感覚があるーー。

 赤髪女は、後悔をしている。

 多分もう自分では、覚醒剤を止めることはできないだろう。


 大金を握りしめて、赤髪女は電気街の裏道へと歩いた。

 「取引所」がある、ラジオ関係の古いビルに入る。

 昭和の匂いが鼻に来た。

 五階の部品売り場に行く。売り場は、小さい蝶ボルトネジから、大きなユリヤ、部品も含めると、エンコーダー、IFT、真空管、それぞれが、屋台のスーパーボウルのように部品ごとの海になって陳列されている。

 お決まりの<ネジの海>の中に五万円を埋める。

 そのままその場を去る。

 エスカレーターを降りて一旦、下の一階までは行き、そのままもう一度同じ場所に戻る。金を入れた<ネジの海の底>に「取引」の品物が埋まっている。

 ネジの海に手を突っ込むと、金属の冷たさの中にぬめりとしたビニール袋の肌触りがあった。



五十四 続秋葉原 (太刀川龍一)


 学問の神様のいる湯島天神から、上野広小路を通って太刀川は秋葉原へと出た。すぐに電気街が見えてきた。


「…秋葉原の歴史は古い。

 江戸時代から火事の多かったこの地区に、秋葉神社(あきは)という鎮火の神様を静岡から呼んだのが始まりだった、という説もある。江戸庶民は、この秋葉神社のあった野原を、あきばっぱら、と呼んだ。つまり、今の東京駅や、神田や銀座界隈の当時からの繁華街とは違って、この辺りは野原が多かったのだろう。この秋バッパラ、がその後、明治になり、国鉄が通って、駅ができて正式名称は、あきはばら、となった。アキバハラでなくアキハバラと濁音を後ろに置いた。しかし百年程の時間を経て、多くの若者がこの街をアキバと呼びなおした。お上が、アキハと呼ばせたものを、庶民が幾度もアキバと濁し直すのが不思議である。アキバとは今時の若者の言葉なのではなく、昔の呼び方に戻ったようでもある。

 …戦前、ここにラジオブームが来た。想像できない人が多いけども、戦前はテレビがなかった。筆頭のメディアと言えば、ラジオと新聞だった。今、インターネットやテレビに人が集まる心理と全く同じように、ラジオや新聞という最先端メディアを人間は追い求めた。中には戦時中に連合国の短波放送を傍受して、日本の敗戦を個人的に予測したような人間もいた。そういうTechkyNerd はこの秋葉原で部品を集めたに違いない。部品から設計し、ゼロから作ってしまう。その心理こそ部品が溢れたアキバっぱらの真髄で、なぜか不思議と現代のスタートアップと酷似する。…新しい人間を集める香りのする秋葉原は、戦後の空前のラジオブームの担い手となり、GHQから睨まれることになる。マッカーサーが屋台禁止を決めて、大勢の露天商売が途方に暮れた時、とある人物が彼らの負債を一手に預かり、この秋葉原の国鉄ガード下を買い占め大量に移転させた。これが、秋葉原電気街の始まりと言われる…。」


 しばしば読み思い出せる一節だった。「闇市逍遥」という、戦後派の随筆だが、下北沢や、新宿東口、渋谷百軒店の文章も面白いのだが、この秋葉原に関して特に太刀川は好きだった。大学時代から、部品とか屋台とかの軒先を愛したし、仕事に行き詰まると、ラジオシティや、電気街の裏道を歩いて、二階三階を階段で上がって部品を見ては息抜きをしたものだった。そこには「はんだごて」の香りが時代を超えて漂っていて、いつ来ても「ただいま」と言いたくなるような懐かしさがある。太刀川は今でも日本の可能性は少しこういう指先に近い場所にあると思っている。欧米人の太く大きいガサツな指では作り切れない繊細な世界があるとも、思っている。

 竜岡門ビルディングの部屋にあった最初の頃のパソコンは、こういう部品を集めたものだ。独自の回線技術は通信を基礎から学ぶことや、サーバー構築の最先端をまさに手で学ぶことができた。単純な技術だが、触れておかなければその進化が何かもわからなくなる。たとえばムーアの法則で、処理の量が指数関数的に上がるということは有名なことだけども、ではそれがどういう部品によって実際増えていくのか、はこういう場所で組み立ててみないとわからない。ゼロからの組み立てが出来ない人間にものづくりは無理だ。スタートアップは人の作れない基盤をゼロから作った場合の利幅が最も大きい。

 太刀川は、竜岡門を訪れた後に良くある心地よい感傷のなか、電気街のビルに入り旧式のエスカレーターを乗り物にでも乗るように味わいながら、脳裏に自分の読書してきた言葉たちが溢れることに任せていた。



五十五 ラジオビル(赤髪女) 


 入手したての薬をトイレで直ぐに仕込むと赤髪女は気持ちが落ち着いた。

 背中や脳裏を歩く蛆虫たちは記憶の果てに消えている。

 さっきまでの苦しみなど嘘のようだ。

 五階からエスカレーターをゆっくり降りる。

 ラジオを作れるらしい、よくわからない部品たちが、金属の焼けたような工場くさい不思議な香りをさせて並んでいた。

 ふと、そのときだった。

 どこかで見たことのある人間がエスカレーターを下から上がってきてちょうど降りる赤髪女とすれ違った。明らかにテレビで見た既視感があった。

(最近はテレビでは見ないけども誰だったか。確か一時期テレビでよく見た男だが。)

その人物が醸し出す雰囲気は普通ではなかった。直感的になにか自分と同じ匂いを赤髪女は感じた。なんだろう。まさか、同じ五階のあの場所に取引に行くのだろうか。赤髪女はあの場所で同じように取引するかも知れない他の人間に初めてこのビルで出会ったような気がした。そういう確信があるような横顔がエスカレーターを上がって行った。

 それだけではない。

 何故か、その男と、どこかで会話をしたことがあるような気がしたのである。

 なぜだろう。テレビでしか見たことない人間なのに、何故か親近感と言うか、すでに<いつも>会話をしている相手のような邂逅があった。もしくは<幾度も>この男と自分が会話をして、気持ちが触れ合っているかのような感触があった。

 赤髪女には自分に生じる不思議な直感の出所がわからなかった。

 今し方の、覚醒剤が上質だったのだろうか。

 なぜだろう。



五十六 天現寺バー(銭谷警部補) 


「おひさしぶりですね。」

バー「Paradio」はまだ店を開けたばかりで客がいなかった。ニコルソンと、わたし達が呼んでいたバーテンはまだ健在だった。いやむしろあの頃の時間がそこに屹立(つった)ってるようにさえ思えた。やがて、名前も確認せずに何年も前のボトルを出してきた。まるで昨日のボトルのように。

 ジャックダニエルのボトルは埃被るどころか、綺麗な半円の艶を反射させていた

「清潔だな。」

「神経質なんですよ。」

まるで、長い時間不義理にしたことにも興味がない、というような風情で、最低限の言葉が使われた。ニコルソンは、頭頂部近くまで禿げ上げていて、それを隠さず逆に目立たせるようなオールバックをしてる。

「神経質か」

「ご存知かは知りませんが。」

「他人の性格には興味が元々ない。」

「ロックでしたね。」

客商売の愛想ではない。天性の非同調でもあり、どんな戦争が始まっても彼は思想で周りには飲まれないだろう。ジャックダニエルは少しだけ残っていた。わたしには酒を眺めながらまさにあの頃の空気がボトルの底に漂って映るように思えた。

 もう六年も前になるのか、と指を折って数えた。二課の金石と仕事終わりに飲んだのが始まりだ。安月給の刑事に優しい値段とまでは言わないが、捜査に行き詰まった脳味噌には贅沢な無駄が必要だった。渋谷とも上野とも違う、変化のある場所を求めた結果、また、わたしの足立区とは逆の品川方面に住む金石との仕事終わりは、このあたりがちょうどよいとなった。

 一課で殺人を担当するわたしと違い、金石は二課で知能犯を専門としていた。既に幾つかの巨大な経済事件で実績を重ねていた。六本木の連続死亡事件が起き、捜査一課早乙女主任の主導で、我々は捜査本部を組むことになった。今、早乙女がどう思ってるかは別としてそのキャスティングは絶妙だったと言えるだろう。

「ダニエル、ロックです。」

ニコルソンは、思惟の邪魔をしないくらいの声で、グラスを置いた。まんまるく削られた氷が夕焼けの太陽みたいに、ウヰスキーの琥珀の上に揺れた。

 

 六本木事件。

 わたしはバーの死角の闇を遠く眺めながら回想した。

 それは、世間的には二つの死亡事故だったはずだ。金石とわたしはそれに加えてもう一人の人間の死をあわせ、三つの死と向き合ったが一回その三つ目のことは枠外に置いておきたい。

 ひとつが、パラダイムの子会社社長の沖縄のホテルでの謎めいた変死とも取れる自殺であり、もうひとつは、若い女子大生の六本木の一室での変死だ。二つの死は、太刀川のパラダイムがまさに世の中を席巻していた頃に起きた。この若い東大出の鼻につく経営者は明らかに、時代の寵児だった。六本木ヒルズの別のフロアに彼は成功者の証のように豪邸を構えていたし、変死は強引な経営方針の反作用にしか思えなかった。事件が起きた時に多くの人間は、彼が何らかの犯罪に絡んでいる可能性が高いと感じた。沖縄で死んだ子会社の証券会社の社長に至っては、何かの隠蔽のために殺したのではないか、という疑惑もあった。たとえば反社会勢力との接点を消すなどの理由で。

 沖縄と六本木での死亡事故は、いかにもメディアが好みそうな事件だった。富裕層が集う高級な六本木ヒルズのマンションに出入り自由の女子大生やタレントと言うのも庶民感情からするとチャンネルを変え難い。防犯カメラはその階だけ壊れていたり、若い女子大生が死んだ部屋には、テレビに出る著名人や政治家、ベンチャー企業の経営者が何人も出入りしていた。その一人である証券会社の社長が、沖縄で滅多刺しで命を落とし、ところがこれは自殺であると、沖縄県警で処理される。

 そこまでは事件としては起こるべくして起こった、ある意味自然な事件だ。表現が正しいかはわからないが、不自然ではなかった。ただの事件だった。もしかすれば、政治家や上級官僚に関係する人間があの六本木の部屋や、証券会社の社長に接点があったかもしれない。しかし、そうだとしても自然な、わたしのなかでは想定内の事件ではあった。

 この自然な事件が、<或る時点>で潮目が変わる。

 沖縄、六本木と死者が出てから少しして、太刀川はパラダイム社を辞め、密かに株の売却を始めた。その売却が始まる頃から、何故か、報道全体が変化した。何故かそれまでの太刀川周辺の罪を暴くという熱気が消えていったのである。急激に静まった、というよりなぜか他の事件や、事故が相次いで気がつくと世の中が忘れていったと言った方がいい。有名なタレントの覚醒剤の逮捕が相次いだり、別の視聴率を取りそうな事件が気がつかないうちに報道を変化させていった。

 太刀川が会社の代表の座を失い、上場も廃止となる時も、メディア全てが取り上げるどころか、そんなニュースなど誰も知らなかっただろう。世の注目は別のことにあった。出る杭は打てるが、沈んだ杭を相手しても視聴率を取れないといえば、それまでだが本当に<それだけ>だったのだろうかーー。

「これこそが、やつの仕掛けた脱出作戦だよ。」

金石はそう言った。太刀川の助かるための仕掛けがこの変化の中にあるのだと、金石は確信めいた言葉で、このカウンターの席でそう話した。

 追い打ちをかけるように捜査本部解散の話が早乙女から降りてきたのはそのすぐ後だった。

 まさに、わたしと金石は、事件の裏採りを続けていたときだ。メディアが相手をしなくなっても、巨大な真実があれば再び振り向かせることができる。巨大な真実は小出しにはできない。全部を集めることが必要だ。

 あの時期、我々はほとんど毎晩このバーにいた。夜明け前の始発が走る前、世界が眠りに落ちるころ、誰にも邪魔されずに二人で話ができたからだ。

「銭谷、やはり世の中はクソだぞ。」

「くそ?」

「ああ。ひどいものだ。」

「警察ではなくて、世の中が、か?」

捜査本部の解散をするかも知れないという噂はあった。どこかで、予想の範囲でもあり警視庁の上層部の中に何かあるものを感じていた。しかし金石はもっと警察の外側まで含めて見ていたかもしれない。

「おろかな二世や金だけの人間がこの世の春を謳歌している。この不景気で未来も霞む日本で、だよ。税金も限界まで取ってだ。」

「金だけの人間は、いいじゃないか。自分で稼いだんだ。」

「本当に世の中に価値のある仕事で、稼いだ金ならな。」

「ちがうのか?」

「ちがう。」

「でもどうやって。」

「権力の側にいれば、なんだってできるんだよ。今日本の税率は50%だ。この国のお金の半分は税金がばら撒かれる。その金に群がるんだよ。なんでもできる。権力は情報の宝庫だからな。」

「被害者は納税者か。公金でこの世を謳歌する。」

「太刀川の周りはそんな人間ばっかりだ。みんな金だけなんだ。」

「金だけか。」

「むしろ太刀川のほうが、純粋かもしれないぞ。」

この世の中には庶民が見たくない闇がある。わたしもその庶民の一人だ。金石はその闇の中をしっかりと両眼で見ていた。暴露をする価値ある情報が集められていた。だから、本庁にすべてを報告できなくなっていった。

「すさまじいよ。全員が売国奴かもしれない。」

「全員ってことはないだろう。」

「いや、正義の味方は存在できない世界ってあるんだよ。」

金石は饒舌だった。わたしはあの頃、金石の語る闇を全て信じ切れていたわけではない。

「能天気すぎるよ、銭谷は。」

「そんなに世の中に闇があるのか?」

「闇の方は見えなくすることを何十年もやってる。戦前からやってるんだ。」

戦前から、という言葉が出る時はすでに酩酊している。金石は大きな体の割に酒が入ると、よく酔った。

「警察にも?」

「もちろんだ。でも警察に存在しない方が不自然だ。政治にもメディアにも財界にも、<歴史あるもの>には何にでもある。あえて言えば、ゼロから一代で成し遂げられたばかりの会社の方がまだ少ないかも知れない。」

「太刀川はそうじゃないか。」

「だから純粋かもしれないって言ってるんだ。」

「つまり、闇に飲まれる取引があったと?」

わたしが本質的な質問をすると金石は遠くを見た。そうだ。この席で。その表情だ。

「何らかの闇がある。その闇はずいぶん長く存在している。」

「陰謀論だな。」

「そうだ。でもメディアも権力の側にあれば、闇を隠す方針になるのが自然だろう?」

こういう会話は酒を煽り、お互い記憶に残らなくなるあたりで、最も饒舌になる。その証拠にわたしは金石のこのバーでの陰謀の言葉をさほど覚えていない、と思う。陰謀なんて、と頭から信じ込んで酒をかわしていたからだ。

今となってはそういう言葉でも良いから少しでも思い出したいとさえ思うことがある。

「信じられんな。」

「まあ信じなくても良い。闇を暴こうとするのはあまりにも危険なのはわかるはずだ。」

「ジャーナリズムというか立派な記者だっているだろう。」

「立派な人間は、出世しなくなってるのがわからないみたいだな。」

「信じ難いな。出世した立派な人もいる。」

「ちがう。本当に立派な人間は無理だ。」

「……。」

「いいか銭谷。逆なんだよ。」

「逆?」

「ああ。出世した人間こそが立派だというプロパガンダがあるだけだ。警視総監は自分たちより人間的に優れていると誰もが思い込んでいるだけなんだ。その尊敬心こそが、権力を安定させる。権力の正しさをみんなが信じる。本当に権力が正しいならいい。でも本当に正しい人だけが上に行っているのか判らないってことさ。<人事は隠れ蓑>にできる。」

 金石のいないバーのカウンターの木目をわたしはグラスで撫でた。ウイスキーの水滴が小さく楕円を描いていた。

 金石が刑事を辞める前日、いや当日の夜明け前ーー。

 我々は、このバーで、今私の座っている席の隣で、また明日、と言って別れた。

 何一つの説明もなく、一つの別れの言葉もないままだ。

 わたしは黙って何年も過ぎても味を変えずにいたバーボンを煽った。

 ニコルソンは銅像のような風情の男で、寂しく空虚を見ていた。愛想もなければ、会話も聞く耳もない。立ったまま眠ってさえいるようだったが、無駄な客の戯わ事よりも崇高で遠い地平を眺めるコンドルのような、禿げかたをしていた。

「つかぬことを訊くが、わたしと昔来ていた大男はどんなことを話してたか覚えているか?」

「覚えてませんね。下らない話でしょう。こんなバーですから。」

「くだらないか。」

「崇高な話をしたけりゃ、他に行ってもらった方が良い。」

「そうだな。」

わたしはその話題は追いかけず、ぼんやりと酒を飲んだ。そういう捨て鉢な独り言が似合うバーテンだった。





五十七 事務所にて(御園生探偵)


 テレビ電話のレイナさんは自らの画面を出さずミュートしていた。

 軽井澤さんが、連絡をして、できる範囲で、つまり作業の片手間でも良いので、参加を頼みたい、と頼んだのである。それは調査が行き詰まった時にたまに使うやり方だった。

 我々は池尻大橋から戻り、風間の電話を待つべく事務所に向かった。マツダのキャロルを歌舞伎町に置いたまま事務所に戻るくらい急いだのだが、風間からの電話はいつになっても無かった。そのまま夜がやってきた。軽井澤さんと僕は少しずつ途方に暮れた。

 結果、レイナさんにも相談して対策をしようという話になった。レイナさんは快く引き受けてくれて、テレビ電話に参加をしてくれていたのである。

 軽井澤さんと僕は、一つ一つの葉書を並べ直し壁に貼り付けていた。


風間宛 A A C C E E K N O R S T U W

守谷宛 A A C C E E K N O R S T U W


風間の葉書と、守谷の葉書を、答えを合わせるようにアルファベットが同じものをAから順に、合わせる。

 宛先が風間正男宛のものが十四枚。守谷保宛のものが十四枚。そして、枚数が同じ時点で予想されたことでもあるが、一枚一枚並べていくと、宛先以外、全て同じだった。

 手書きのアルファベットの葉書を白板に貼り並べると、ますます不気味だった。今朝、歌舞伎町から始まった異常な時間が、軽井澤さんと僕との間に、暗く漂った。死体同然の男。不気味な病院。そうしてそれらが、猫の死体や風間という男の方角にもつれ絡まっていく。

「しかし、全く同じ、とは。」

「そうですね。」

「さすがに、この二人が何も関係がなく無関係と言う事はありえないですね。」

その通りである。むしろ関係がないと考える方が無理がある。

「しかしなぜ、我々になのですかね?」

僕は、風間と守谷は、何か我々の事務所に恨みでもあるのかと軽井澤さんに問うた。そうでなければ、こんな風に二人が同じ状況で一つの探偵事務所に関わる説明がつかないからだ。

「どうでしょうね。少なくとも守谷については、この葉書を我々に見せる意思はなかったですが。」

「そうですね。」

「ただ、表現は違えど、自分を攻撃する存在よりも先に、ある意味この葉書の出し主を調べろという主旨で我々に迫ったのは二人共通しているかも知れません。」

「……。」

「風間は明確にそうでした。守谷も、葉書ではないけれども、襲撃した人間を知りたいと言っていた。もしこの葉書を隠していたなら、風間と同じようにもう少し時間が経ってから見せるつもりだったのかもしれないですね。」

「なるほど、しかし。」

軽井澤さんのいう通り、この二人が繋がることは奇妙だった。安易に思いつくのは、この二人が元々何らかの利害関係者だ、と言うことだろうか。

 軽井澤さんはじっと僕の目を見たが、その後は何も思いつかない様子で空虚な室内を見まかせにしていた。パソコンの画面ではレイナさんが無言のままだった。ミュートで、顔も出していないが、こちらの声は聞こえているだろう。

「どうなんでしょうか。うむむ。」

「まったくの偶然、ということかもしれませんし」

「全くの偶然ですかね。偶然では起こりえない気がしますよね。」

「確かにそうですね。偶然に並ぶには文字列が多すぎますね。」

軽井澤さんは、そう言って頭を抱えた時、僕はハッとした。Googleが創業以来ずっと人間の行動を追っていて、利用者をある一定のカテゴリ分けをしてると聞いたことがある。例えば行動や過去が類似している人間を、一つのカテゴリーとして二人の人間を括ったりするようなことがあれば……。つまり、軽井澤探偵通信の広告がこの二人にだけ出続けたような。人間としてこの二人を「同じ穴の狢」と判断した結果などがあったりするのではないか。Googleの方針が稀に不気味になるという記事を昔読んだことがあるのを僕は思い出そうとした。

 その時、だった。

 軽井澤探偵通信社の入り口のドアが何も音を立てずに突然開いた。僕は、なぜか、昨日の朝に事務所の前にいた、赤い髪に帽子をした怪しい女性が飛び込んできたのではないかと一瞬思った。が、違った。女性ではなく太めの男性だった。坊主に近いパンチパーマ気味の髪型に古めかしい、今時どこで売ってるのかと思うような、銀縁のメガネをしている。フリーランス調査会社の米田さんだった。僕が入所する前から、軽井澤さんとの古い付き合いがある人で、レイナさんと同じようにフリーランスで業務委託契約がある。

「おや、これは。」

軽井澤さんと僕の表情が、だいぶ暗かったせいだろうか。米田さんは、我々の顔色と様子を改めて見つめ直した。

「ちょいと仕事帰りに、こちらのウイスキーでも舐めて帰ろうと思ったところだったんですが。お呼びでなかったからもしれませんね。」

身長百八十五センチ以上ある米田さんは、狭い事務所を更に狭くした。僕は行き詰まった思考が更に圧迫されるのを感じながら、

「僕らが困っていることをなぜわかったんですか?」

と、ちょっと若者らしく気を使った言葉を吐いた。軽井澤さんはそういう余裕のある表情はしていなかったが。

「あはは。そこまでの察知能力はありません。ただなんとなく虫の予感はしたかもしれませんがね。おお、これは、どうしましたか?」

米田さんは、改めて壁いっぱいに貼り付けられたアルファベットの葉書を見て驚いた。僕は、まさにこれで困ってるのですという顔をして無言で頷きながら、

「レイナさん、米田さんが今事務所に来られまして」

と、テレビ電話で参加しているレイナさんに伝えた。

「ああ、レイナさんですね。お疲れ様です。」

米田さんがそういうと、レイナさんは返事ではなく、チャットの上で、いいね!の、ボタンで反応した。

「ありがとうございます」

そうパソコンにお辞儀する冗談をさせながら、米田さんはじっと僕と軽井澤さんを交互に見つめた。その様子が普段とは違って随分おかしいのを感じ取っていたようだった。

「奇妙な葉書でも、集めてるんですね?クロスワードパズルか何かですか?」

「米田さん、僕らも結構困った状況なんですよ。」

「これはまた失礼いたしました。まあ、そうですよね。だいぶ行き詰まった様子はあります。なるほど私に今できることがあるか分かりませんが、脳みそをひとつ増やすまではできます。お呼びでなければいますぐ撤退しますが。」

米田さんは、元ラグビー選手だったらしい。その割に指先が器用な印象で細かい調査だとか我々が調べ切れない官公庁向けの様々な人脈を駆使して時として軽井澤さんを助けている。実は入所二年目の僕は米田さんが、彼の仕事をどのように作業しているのかは詳しくはわからない。なんでも、軽井澤さんが前の会社にいた時から、受発注の調査等をお願いしていた関係だと言う。時折高額の支払いがなされているのは以前から気になっている。少なくとも今回の案件はそんな予算がある仕事だとは思えない。守谷は一円も払わず詐欺にあったようなものでもあり、風間は前金を本当に軽井澤さんに渡したのか怪しい。

「うむ。ジャックダニエルの余裕はなさそうですね。」

米田さんは、いかつい顔をくしゃりとさせて笑った。巨体が揺れるようにして、狭い室内が軋むようだった。

 本当にただ酒が飲みたかっただけなのかも知れない。実際に事務所が空いているときに、たまにウイスキーが少し減っているのは米田さんのせいだろう。

 青山墓地のこの事務所は、鍵を玄関の外に並ぶ植木鉢の右から二つ目の下に置くルールになっている。軽井澤さん曰く、貴重品も何もないし、そもそも探偵事務所に盗みに入る人間はいないだろうとタカを括っている。

 事務所は窓だけが巨大だった。窓の横にそのまま薄っぺらい扉が付いていてそれが事務所の入り口である。本気になって泥棒が考えたらガラスをちょっと割れば全てのものが盗めると思う。もっと言えば外から見れば事務所の中身は丸見えだった。

 机を大きく取り、その周りにソファを二箇所置いていた。それと、北側の壁際に僕の作業机があった。東は大きく窓と入り口があり、南側の壁に白板がわりのシートを貼ってある。西側はほとんど使わないキッチンと、余った壁に、ゴッホの絵を飾ってある。もちろんレプリカの<夜のカフェ>の絵だ。


 僕は改めて、米田さんにこれまでの一部始終の奇妙な話を説明した。ところどころ、例えば河川敷で守谷の電話を受けた話などは、軽井澤さんにも手伝ってもらいつつ、正確に時系列に、歌舞伎町から、池尻大橋で何があったかを説明した。最初はおどけて聞いていた米田さんも、話があまりにも不気味なのを理解し、途中からは神妙な表情になった。ウイスキーも片手に持ったまま用意したコップには注ぐことはできないでいるようだった

「風間と、守谷。」

米田さんはつぶやいた。

「そしてこの葉書ね。」

「はい。合計二十八枚ですね。」

「これまでの印象としてこういうお客さんはあまりこの探偵事務所は集めていなかった印象でした。」

「はい。」

「こういうビジネスでしたっけ?」

そのコメントは少し鋭かった。軽井澤さんはその質問に答えるようにして

「いえ特に、具体的にそういう話と言うことではなかったのですが。今まではどちらかと言うとご近所の方々がネットで見て住所を頼りにいらっしゃることが多かったかもしれません。今回、わたくしのほうで事業拡大のためにGoogleの広告と言うのをトライしまして…。」

売り上げの為、Googleを使うという僕の主張を渋々受け入れたのが本当なのだが、軽井澤さんはそういう言い方をしなかった。

「なるほど。」

「まあ、Googleだけが理由ではないんだとは思いますが、立て続けに通常にない状況が続いています。」

「ちなみに、葉書は触ってみても良かったりしますか。」

「もちろん構いませんよ。僕らも触っているし。」

「いえいえその、警察だなんだで、指紋確認みたいなことになるのかなと思いまして。」

「われわれは探偵事務所ですからね。もし米田さんが指紋がまずいような過去を持ちでしたら私が机におきます。」

僕は冗談のようにそう言いながら葉書の一部を机の上に置いた。米田さんは自ら葉書に触ろうとせず、僕が逐一ひっくり返すそれを前のめりにじっと見つめて確かめていた。

「なるほど宛先は手書きなんですね。」

アルファベットの文字の方だけを見せるように壁に貼り付けていたから、その裏に記載された宛先の方を見ていなかった。米田さんは、風間正男宛てと守谷保宛のそれぞれの宛先がどちらも手書きであるのを見て驚いていた。

「なるほど。随分な鼠文字ですね。どちらも同じ筆跡なのは間違いなさそうですね。」

「そうですね。」

「確かにこれを見ると、この二十八枚に、全く同じ筆跡でこうやって宛先を書いているとすると、ちょっと尋常ならざる精神の持ち主に思えますね。今仰った歌舞伎町での襲撃も、強い怨念がこの葉書の印象線上にあるともいえます。なんとなく、これらが重なるのもわかります。」

米田さんが改めてこの手書きの宛先を見なおしたその時、

「あれれ。」

何か、少し違和感を感じた様子で、

「これってあれですか。葉書自体はいっぺんに届いたんじゃないんですね?」

「いっぺんに届いたんだと思います。それぞれの十四枚ずつ。」

「いえ違うと思いますよ。」

米田さんはそう言って葉書のうち二つを僕の手前で指さした。軽井澤さんはずっと元気がないのかタバコを吸って窓の方を見ている。

「みてくださいここ。ほら、日付が違いますね。」

「どういうことですか?」

「ここですよ。この日付」

ああ、と、思った。すっかり、抜けていた。葉書の、消印を見ていなかったのだ。消印には日付がある。僕は不気味な葉書のアルファベットばかりに目が行って、基本的なことが抜けていた。馬鹿だと自分の頭を殴りたくなった。

「軽井澤さん、すいません僕が抜けていました。すぐにここに貼り付けていたから。アルファベットの並びをどうするかにばかり注目してしまっていた。ああ、そうか。」

「御園生くん、米田さん。どういうことですか?」

話にやっと入ってくる様子で軽井澤さんは米田さんに問い掛けた。

「消印です。日付違いがあるんですよ。」

「日付違い?」

「ええ。日付が違うと言う事は順番を分けて、文字の順に送られたと言う可能性がありますね。」

 米田さんはそう返した。


A A C C E E K N O R S T U W  (アルファベット順)

? (送付日付順)


そうか。毎日一枚ずつ送られてくるのであれば、当然、その文字の順がわかる。僕は興奮した。軽井澤さんは、タバコを灰皿に擦り付けて消しながら、

「ごめんなさい、もう一度、説明頂けますか?消印とは、どういうことでしょうか?

「消印ですよ。例えばCの葉書は八月の六日の消印、ですね。でもこのW の葉書は八月九日になっています。えーっとこれはなんだろうこれはまた八月の六日、うむ六日ですね。あれ、六日と九日が多いなぁ。」

事務所の中では沈黙の中で葉書がカサコソカサコソと机の上で移動する音だけが鳴り続けていた。僕は米田さんが葉書の角に指紋だけをつけないように気を使いながら爪で動かすのを気にしながら、消印の日にちだけ見ていた。

 ふと窓の外を見るともうとっぷりと日が暮れて、青山墓地の崖の下には、真っ暗な闇が広がっていた。都会の真ん中とは思えない幽霊が出るほどの暗闇になるのが、この事務所の特徴である。



五十八 勝浦の海 (レイナ)


 軽井澤探偵通信社のリモート会議は行き詰まっていた。

 レイナは顔も声も出さずに耳参加にして、トレーラーの運転席から、目の前の夜の海を見ていた。

 南房総勝浦の海の闇が鳴っていた

 ミュートをしているから、こちらの潮鳴は届かない。

 軽井澤さんが幾つかの課題を整理して意見を語っている。

 彼との出会いがあって、もう六年にもなるのか、とレイナは思った。

 軽井澤さんとの仕事に感謝をしている。仕事を通して人と出会いがあり、たとえば米田さんや、御園生くんも含め、不思議な魅力のある人とも出会えた。人物調査やペットの捜索など、日々やってくる仕事はどれも味わいがあって面白いけども、実際に人間が人間と向かい合って、相手の魅力を肌で感じることが更に良いと、思う。

 だが、今回は少し、いつもの仕事とは違っている。いつもの探偵仕事は、このような暗さはないと思う。こんな不気味な葉書が出てきて、謎かけのようなことをやるなどはなかった。普通なら避けたい仕事に思えるにも関わらず、軽井澤さんを助けたいと言う仲間が集まり、知恵を使おうとなっている。かく言う自分もその一人だとレイナは思った。そうさせてしまうのが、軽井澤さんの不思議な魅力なのだと思う。

 夜の海は真っ黒だった。

 空に星が見える場所があり、見えない場所は雲が動いていた。月はどこだろう。波が強く打ち付ける音だけが、絶え間なく続いている。

 zoomの画面では引き続き、軽井澤さんらが深刻に語っている。不気味な、答えの出ないアルファベット。日常的ではない二人の男。猫の死体。左腕の切断。

 レイナの中で少しずつ懸念が増幅している。

 今回のこの仕事はあまりよくない方向に向かっている。

 狂気には、触れない方がいい。

 狂気は、狂気を呼ぶ。人間の中に眠る狂ったものを呼び起こす。

 本来狂ってもいない人間も狂わせてしまう。

 触れない方が良いのだ。

 レイナは軽井澤さんや御園生くんには従来の仕事に戻って欲しかった。もしくは、いち早く、この問題を自分が解決して二人を解放したいと思っていた。二人をなんとしても、狂気の周辺、風間や守谷のいる場所から遠いところに移動させたい。

 そういう否定的な気分の中で画面を見ていたとき、米田さんが消印の話をした。

 葉書は一度に送られたものではない、という。

 レイナは暗算を試みた。

 あっと、思った。

 八百億通りが二千万通りになる。

 加えてその文字数なら、スペルの問題を新しく設定できるかも知れない。

 MacBookで別の窓を開くと自ずと指がスクリプトを書き始めていた。

 


五十九 経団連重鎮(太刀川龍一)



その日の夕刻。

経団連副会長、江戸島X重工会長は太刀川龍一ととある銀座の寿司店にいた。

「その後、書けましたか?」

太刀川はそう言った。年長の男は少し照れて

「いきなりその話題ですか。」

「まあ我々は、そういう趣味人ですから。江戸島会長の方こそ、いかがですか。」

「まあ、なかなか。やはり仕事だなんだと、入ってしまうと、中々集中できないですね。」

「ですから、本当のことをやるためには、早く勇退されたほうが良い。いちおう、背任罪というのがありますよ。」

「背任か。ははは。利益相反はしていませんから。」

「それはどういう小説を書くかによりますよ。だって、青年時代に見た夢を物語にするとしたら、概念的には利益相反を起こしかねませんよ。だってね。この国、株式会社日本という国の筆頭株主は誰だかわかりますか。」

「またその話ですね。」

「はい。表向きは、江戸島さんらのような老人階層が筆頭株主なのです。表向きですよ。」

「はいはい。」

「若者は株主支配の構造も知らない。そう言う無知や知識差を株主支配層にうまく使われて、例えば戦時中には、鉄砲玉にされた。全体の効率を考えてね。」

「儒教の産物でしたっけ?徳川家康の功罪?以前も仰ってましたよね。」

「僕の会社『パラダイム』もそういう意味で、やられたようなものですから。この国の筆頭株主を知らずに何をやってるんだと。」

「チェンジオブコントロールが待ち遠しいと。若者が筆頭株主になるべきだというご意見ですよね、太刀川さん。」

「そこまではいいません。生意気な若者が排除されるのは時代の常だと思いますよ。でも、株主と経営者には適切に、国家の資産を使ってほしいものですね。この国には素晴らしい資産があります。土地も、海も、水も、自然も、人間も。どれも世界に誇れる。平成を停滞させた経済界の重鎮としてコメントをお願いします。」

太刀川はビールを手に握った。

「文学的にですか。困ったな。」

「まあ困らせたいんでね。はは。そんな感じで、まずは乾杯しますかーー。」

太刀川の文学趣味は、昔からのもので、理系でありながらそういう読書が好きなのである。江戸島と太刀川は不思議な縁で一連の騒動の前からの付き合いである。多くの人間関係が清算された中でこの二人の関係が残っているのはこういう歯に絹を着せぬ太刀川の会話を江戸島が孫でも眺めるように受け止めるからであるが、加えて二人の文学趣味も奏功しているかも知れない。

「まあ私のは、純文学を言い訳にしてますから。売れるのを目的にしません。」

江戸島会長は乾杯のビールを口にしてからそう言った。

「西友の堤さんは、大学の先輩ですかね。江戸島会長は文学部ですよね。」

「そうですね。」

「あの人も、経営者でありながら別の名前を持っていた。ペンネームを持って、生きるというのは、ひとつの人生の味わいを増すのかもしれないです。江戸島さんのペンネームを教えてほしいのですが。」

「それはお許しください。」

「内容も秘密ですよね。」

「いやまあ、僕のはまあ…。どこかにそっと、純粋な気分を残すくらいのことです。そういう言い訳を楽しんでるのです。」

「ペンネームねえ。」

「太刀川さん」

「はい。」

「あなたはないのですか?」

「なにがですか?」

「ペンネームですよ。別の名前とも言いますが。」

「……。」

「あなたもある意味公人だ。人の目が一定の世論を持ちかねない。そうなると、世の中に内緒の変装のような名前を持つことも合理的な意味を持つでしょうね。」

「……。」

「世の中に企業の社長だとか、あの会社の役員だと、言われればものを書いても、色眼鏡になるものです。そう言う意味でペンネームはすこし、自由な気持ちを持てると言うかね。おや、そういう名前でもあるのですか?」

「……。そんなものはないですよ。」

「本当ですか?」

「ええ。存在しないものは存在しません。」

「でも、太刀川という名前は目立ちますからねえ。何をするにしても。名前を変えたくなる気がするとおもうけどな。」

「……。」

「まあ、そのことはいいとして。」

「江戸島会長は、どんなペンネーム、いやどんなものを書いてるんですか?」

「そうですね。話題を変えますか。私はと言うと、ペンネームはもちろん言いませんが、さんざん、物を売ってきましたからね。商売に人生を捧げてくると、逆に、誰も見向きもしないような売れない物を作りたくなるんです。」

「そうですか。」

「商売人には、そういう人間は多いと思いますよ。売れなくていい、って言われると何を作っていいかわからんのです。売れるものを作るのと全く構造が違うから。」

「なんとなくわかる気はします。」

「なんだろうなあ。人気を得ようとする気持ちって、どこかで自分に嘘もつきますよね。自己否定というか、付和雷同というかね。顧客主義は、それはそれで良いことだけど、本当の自分と違ってくるような。」

「……。」

「それだけ過ぎてしまう人生の対処療法として、私は多少の文筆を趣味にしていると言うことです。」

「はい。認識しています。」

「そうだな。あなたには何度か話したか。」

二人は声を出して笑った。

「あの江戸島、経団連の重鎮が、書いた、純文学といえば、ある程度は売れますけどね。」

「それは嫌だ。それじゃ本末転倒なんだ。わかるでしょう?だから、ペンネームは教えたくない。」

「いいですよ。死ぬ前には教えて下さいね。」

「どうだろう。」

「困りますよ。死んだら会話できないんですから。」

太刀川はちらと寿司屋の主人を見た。寿司屋の主人は、随分若いので太刀川のことを江戸島会長の息子かと思ったというような顔をしていた。だが当の寿司職人は太刀川をどこかで、テレビで見たことのある顔だと思ったばかりで、それからは視線を避けていただけだった。

「死んだら、何もできなくなりますからね。」

「若いあなたに言われると、ドキッとしますね。」

「いえ。」

「……。」

「江戸島さんはどうお考えかわかりませんがね。なんだか思うんですよ。犯罪で人が死んだりする時に、刑罰が軽すぎるなって。」

「はい。」

「死んだ人、被害者の方は、もう何もできない。殺し合いだったのならまだわかるけども、現在の死亡事故は、江戸時代の侍の決闘みたいなことはほとんどないですから。基本的に異常な人間が、正常な人間の命を奪ったと言う構造がほとんどです。」

「まあ程度の差こそあれそうかも知れませんね。」

「それなのに、江戸島さん、思いませんか?被害者が損をしすぎている。殺されて、さらには遺族はみんなその死を後悔しながら暮らし続ける。殺人犯は飯も食えて生き続け、まあまあな場合、刑務所も出て暮らせたりする。」

「……。」

「僕はあまりに不平等だと思います。だから本当の天罰がないのなら、復讐が必要にも思うんですよね。」

「復讐ですか。」

「はい。江戸時代はそういう仇討ちの設計があったと思います。」

江戸島会長は急に力んで太刀川龍一が話し始めるのを珍しいものを眺めるようにしてから、

「そうですね…。」

と小さく相槌した。太刀川もその間合いで目の前に寿司屋の主人が差し出した手巻き寿司を手にとって口にしたせいで言葉が続かなかった。

「景気はいかがですか?太刀川くん。」

「……。」

「ゆっくり食べてくださいね。」

「…いえいえ。まあ、僕は景気なんて関係ない身ですからね。」

「そうなんですか?」

「ぼくはもう散歩が仕事ですから。」

「本当ですか。引退だって世間は騙せても、僕の目は騙せませんよ。ちなみに、今日もどうされていたんですか?」

「いや、本郷から湯島のほうを散策しました。」

「ほう湯島ですか」

創業の地に行って、感傷に耽ったとは太刀川は言わなかった。

「キヤノン機関を見てまいりました。」

「キヤノン機関?」

「ええ。」

「どういう意味ですか?GHQのあれはたしか諜報機関でしたよね。戦後の日本占領時代の。国鉄の下山総裁謀殺論などのミステリーは読んだことがあります。」

「おお、さすがお詳しい。いえいえ、冗談ですよ。軍人のキヤノンはとっくに帰国してもう生きてはいないでしょうしね。見てきたのは旧岩崎邸ですよ。三菱財閥の邸宅が本郷に残ってるんです。」

「ああ。岩崎邸。そうですね。戦後財閥接収であそこは米軍のオフィスが入ったりしていた時期がありましたね。ああ、キヤノン機関は旧岩崎邸にあったと聞いたな。」

「ほんとうに東京は歩いて見て回れるものが溢れきっています。特に歴史周りは今の日本に繋がってて、体がいくつあっても足りないですよ。」

「旧岩崎邸ですか。岩崎彌太郎、彌之助兄弟ですよね。戦時中は、三菱商事や重工を躍進させたのは小彌太かな。」

「まあ、僕みたいなベンチャー気質は、創業して百年後の今の三菱より、明治の頃の伸ばしている時代に感慨がありますがね。」

「ベンチャー気質ですね。」

「まあ、経団連の重鎮のあなたには、わかりませんよ。ベンチャーが出てきたらいやでしょうから。」

「これは随分なことを。そんなことは行って欲しくない。」

二人は笑った。太刀川は、普通の若者が重鎮には言わないことを言う。この手の発言には、少しの不快が重鎮にはあるが、重鎮は重鎮らしく、大きく構えたい。結果、不快ではないのだという態度をとる。老人のこういう見栄と我慢が面白く、太刀川はしばしば、多くの財界人にこの手の言葉を投げつけるのである。

 この東証一部上場のX重工江戸島昭二郎会長は妙に太刀川のことを可愛がってくれている。こうやって定期的に銀座の高級店で生意気な反論も聞くのである。

「ふうむ。その湯島のあとはどうされたんですか?」

「秋葉原ですね。」

「ほう。あれですか、アイドルというか。」

「ははは。会長からアイドルなんていう言葉が出るとは思いませんでしたが。お孫さんがお好きだったりするやつですか。」

「いえ、私は子供はいないので」

「ああ、失礼しました。そうでしたね。私はさほどアイドルには興味はないのですが、秋葉原の雑然とした街並みは好きです。今日はラジオの部品を眺めてきたばかりです。」

「​あいかわらず、手ぶらの散歩が楽しそうですね。」

「ははは。厳密には手ぶらではない。これを持っていますよ」

太刀川は文庫本を見せた。

「ずいぶん年季入りですね。文庫本ですか」

「いえ。年季というか、新品で買っていないんですよ。」

「古本がお好きでしたね。」

「ええ。電子書籍が出た時に、実は、紙の本は無くなると思っていましたよ。ビジネス的にもいろいろ狙いましたしね。それが今、こうやって手で文庫本を持ち歩く幸せってのを楽しんでいるんです。人生わからないもんですね。」

「ほう。面白い。」

「本はデータだけでなく、物として手触りがある。物であることが価値を逆説的に高め始めている気がします。集中力というんですかね。自分が真っ直ぐ考え事に向かえるというか。本の世界観に入っていくには、スマホでは難しいものもある、と思うんです。」

「わかる気がしますね。」

「まぁインターネットから排除された私としては僻みのようにも思われてしまうかもしれませんが。そもそも論なんですがネットに繋がらずに本を読むっていうのは結構いいもんですよ。」

「僻みだとは思いませんよ。文筆業を志す小生としてはむしろ勉強になります。」

そういうと江戸島会長は豪快に笑った。白髪をオールバックにした、横顔に大黒天のような耳たぶがあった。典型的な出世型の人物である。



六十  池尻の夜 (守谷保) 


 二人の探偵が帰ってからかなり長い時間、男は殆ど微動だに動かなかった。守谷と名乗った男は、池尻大橋の病院で伏せていた。

 この病院の院長が、風俗関係の業者と蜜月なのは、知る人ぞ知ることもある。なんでも院長先生は、派手好きで、若い頃からそういう不祥事を繰り返した人物らしい。自ら脛に傷があるせいで、様々な古い組織との連絡があった。そのせいで、院長が殆ど診察もしない今になっても、過去のさまざまな、正体不明の組織がこの病院をさまざまな形で利用しているのは、風俗関係者の末端である守谷も知っていた。

 とにかく融通が効く。接客時のトラブル、裸体で失神したような薬のトラブルなど客は当然事件にしたくはない。経営する側も、事件を起こしたり処理を誤れば顧客回復には苦労する。これらの突発的で多様な問題を、警察にも届けずに難なく対応してくれる病院は有難い。要するに、意識が戻ればいい。事件が起きなければいい。いや正確には事件が起きても警察沙汰にならなければいい。

 池尻病院ではこの種の問題にいつでも的確に対処がされた。だから守谷は自分自身がこうなった時も、さも仕事上での問題だという風情でこの病院にきたのである。これまでの経験上、さまざまの無理は効く筈だ、と予想した通りだった。自分を知るあの女医は明らかに気を遣っていた。守谷にではない。風俗の背後にある組織と病院のつながりをである。身分の照会などもないまま、女医は、薬を用意し、痛み止めをくれた。せいぜい不遜な客とのトラブルとでも思ったのだろう。しかし、腕がなくなってるというのに冷静な表情も変えなかったのには驚かされたが。

 少しだけ、楽になった。

 少し体が楽になると、守谷は、昨日からの出来事を思い出した。

 十四枚の葉書が来てから予感はあった。

 しかし逃げる場所は直ぐには考えられなかった。たいして金があるわけでもない。いまの仕事を失えば生活もままならない。身一つで暮らすことくらいはできるが、定職は楽だ。何より安定がある。それは失いたくない。

 しかし、葉書だ。

 あの葉書が、以前の、二十年前のものと同じ趣旨なのであれば命に関わる事になりかねない。

 実際にそういうことになった、とも言える。

 それにしても、なぜ今さらまた…。

 何かの手違いでまた、葉書が発送されたに過ぎないと思いたい…。

 昨夜は最悪だった。

 あいつらは雇われただけだろう。明確に指示があり、この俺に「あの当時のこと」を繰り返していた。あの部屋で行われたことを、だ。

 あのやり方。

 同じだ。

 あえてそうしている。

 長い時間をかけて、記憶の中から消したものを、ひとつひとつこの俺になすりつけ直す。あの当時と、内容は恐ろしく酷似している。正確に同じようになぞってさえいる。被害者の味わったことを正確に再現していた。タバコを焼付け、棍棒でなぐり、集団でそれをする。

(ちがう。俺は違うんだ。)

守谷は自分に言い聞かせるように言葉を集めた。

(俺が殺したんじゃない。)

俺は、一緒にいただけだ。組織の末端として加わっていただけだ。自分は何も主導していない。ただ、一緒にいただけだ。

 守谷は繰り返し自分に説明してきた言葉の中を彷徨い直した。三十年前のあの事件で人生の大部分を失った。その意味では俺は被害者の方のはずだ、と、誰に説明しても聞く耳も持たぬであろう言葉をまた繰り返した。

 あの葉書のことを改めて思い出す。

 今更カバンの中で見つめ直す気にもならない。アルファベットで葉書に書いてある文字は脳裏に言葉として並んでいる。記憶から消したものをわざわざ、思い返させやがって。。

(一体、誰が設計しているのか。)

全ては過去の闇からやってくる。

(やはり、被害者の父親か。)

体の回復が少し進むと共に、頭の中にさまざまな過去がよみがえる。甦らせたくない記憶ばかりが。

(いや、違う。その線はないはずだ。)

幾度も脳裏に繰り返された言葉が守谷でしかわからない論理をまとめ帰着しなおしていた。

 ふと、ベッドの横の簡易テーブルにペンがあるのが見えた。ポケットまさぐるとそこにあった小さなレシートがあった。

(ではいったい、誰が設計してるのか?)

 思うことを書いていく。

 自分の周りに、ひとり、ふたり、と。

 四人。

 捕まったのは四人だ。

 でも四人以外にも関与者はたくさんいたはずだ。

 我々四人だけが罪を受け、他の人間は名前さえ出されなかった。むしろうまく、逃げた。四人は人生を失った。いやもっと言えば、四人の中にも判決の差があった。

 天井を見る。部屋を見る。入り口のドアを見る。

 ふと、また、わけのわからない奴らが今そのドアからまた入ってくる気がした。

(理由はなんだ?)

(二十年前を繰り返す理由は?) 

 葉書の言葉が脳裏に並ぶ。

 やはり、今回もあの場所に確認に行った方がいい。

 葉書は少なくともそれを指示しているのだ。

 あの場所にいくのだけは避けたかった。

 


六十一 続銀座 (太刀川龍一)


「江戸島さん、先日、警視庁に呼ばれたんですよ」

「ほお。また何かしたんですか?」

「失敬な。ちがいます。」

「でもまた。」

「いやね。あの事件が終わった後も、ずっと私を追いかけている刑事がいるんです。」

「へえ。それも執拗ですね。もう随分と経つでしょう。結局事件にもならなかったものを今もまだですか。」

「まあ、そうですね。」

「……。」

うっすらと、言っていいことといけない事があるかもしれないと言うような間合いがあった。どちらかというと江戸島の側が気を遣ったかもしれない。

「…まあ、ある意味変な刑事なのですかね。」

江戸島がしばらく沈黙してそう言葉を返すと太刀川は

「でも、立派だと思ったんですよ。」

と唐突に言った。

「りっぱ?」

「だって。全体の命令が終わってからも五年以上経ってまだ、当時の自分の確信なのか仮説なのかを失わす、何かをしようとしているのですから。現場として立派だという意味ですが。」

太刀川は言葉を曖昧に省略した。江戸島会長ともなれば、事件全体がきな臭かったり、なにか不自然だった部分は感じているだろう。あえてその周辺まで会話をしたいとも思わない。

「その刑事はとにかく古臭いんですよ。なんていうんだろうなあ。嫌いではないというか。」

「古臭い刑事ですか。」

「懐かしい感じともいいますかね。古い日本ともいうかな。ああいう頑固一徹のような人間は。組織には迷惑かもしれない。今みたいに同調圧力の強い時代こそ、ああいう奇人にも活躍してほしいとは思います。」

「なるほど。奇人なのですね。」

「まあ、江戸島さんみたいな経営においては同調者がしっかり動いた方が良いんでしょうけどね。そんな変な奴ばかりじゃやりにくい。」

「嫌な言い方だな。」

「はい。結局僕みたいなベンチャーってのは、同調では何もできないんでね。新しい地平線は非同調からなんで。そういうヘンテコな人間なんですよ。」

「物はいいようだな。」

「何だか目の前の物事に不満ばかりなんです。自分で嫌だと思ったら、黙ってられないというか。世の中的には困った者だと思います。」

大将が珍味の貝を、何かの説明をしながら置いた。警察絡みの話題になったせいか、二人とも会話の合間に料理の説明も上品に聞いた。

「ところで、太刀川さん。インターネットのない生活というのは、なかなかでしょう。」

「そうでもないですよ。」

「携帯電話もないわけでしょう?」

「ええ。人間関係は、会うだけです。」

「うむ」

「例えば、今日江戸島さんと次の約束をしなければ、もしかしたら永遠に繋がらないかもしれないですね。ネットで呼び掛けたりなんて絶対できませんから。」

太刀川は、そう言って笑った。

「そんな中で、太刀川君はその才能は何に使ってるんですか?」

「才能があるとは思いませんが。」

「いやあ、十分才能があるでしょう」

「まあ、株を売った金は多少あるので、幾つかやっています。」

「事業か何か?」

「いえ、事業は懲り懲りですよ。」

「それは本音ではないと思っていますがね。ああ、以前も慈善事業も手がけてると仰ってましたね。」

「そうです。むしろそちらがメインで、少しずつ成果が出ようとしてます。今は、脳関係の案件を面白がってやっていて。そう、そういえばX 重工さんにも参加いただきたいものがあるんですよ。」

「医療関係に?お門違いではないですかね。」

「いえいえ。こういうのは、製薬関係みたいに関係する業者だと馴れ合いにしかならない。常識を飛び越えると面白いんです。利害関係なく人間の常識でやれば良いんです。」

「常識的に、ですか。まあ、世の中の常識を疑うようなことも多いですがね、昨今。」

「そうなんです。どの専門も、外部から見ると驚くようなことばかりなんです。先ほどの昭和の警察官の話と同じですよ。組織はたいてい、闇を持ってるんです。だから慈善が本当に困ってる人まで届かないことが多い。」

「なるほど。」

「ひとつ、ぜひ江戸島会長この件は早々に打ち合わせをさせていただきたいのです。」

「もちろん、いつでもどうぞ。」

「会社に伺いますよ、次は。」

「そうですね。秘書に電話でも、あ、電話もないのか」

「はい。」

「すごい徹底ですね。」

「いえいえ。番号さえ覚えればメモも要らないんです。気軽なものですよ。そう何人も相手したくないですし。意外とアポなしで怒られることも少ないですよ。」

江戸島と太刀川の会話は尽きなかった。寿司がひと通り終わったにもかかわらず、酒も飲まず緑茶(あがり)で二人は語り続けていた。

 太刀川の会食は、二軒目に行くことをしないのを江戸島は知っている。過去の六本木の遊びに懲りたのか、もしくはそういう年齢を過ぎてしまったのか、太刀川は銀座の夜の街に繰り出す気配もなかった。

「遊ばなくなりましたよね。」

江戸島はもう少し飲みたかったのか、そういう言葉を太刀川に投げた。

「そうですね。まあ、色々ありましたから。」

「このあとは?まっすぐ帰るのですか?」

「秘密です。まあ、銀座のホステスとか六本木でシャンパンを飲むような場所には行かないですよ。僕もまあまあ忙しいんです。」

「貴重な太刀川さんのお時間を頂いたってことですね。」

「そうですよ。」

「ぜひ、慈善事業の方もお願いしますね。会長にはきっと面白いと思います。ぜひ早々に、お話させてください。」

「ええ。ぜひ。」

まだ二十時を過ぎたばかりだった。おおくの銀座の客がこれから次の店に行こうとする時間だったが、二人は気持ちよく別れの言葉を交わし始めていた。






六十二 ウィスキー(米田智幸)


 米田智幸は、寝落ちした二人の探偵を見つめながら、コップだけ用意したウィスキーを飲むことができずにいた。この為に駅からも遠い陸の孤島のこの事務所まで歩いて来たが目的は叶わなかった。

 レイナさんはだいぶ早い時間帯で、すでに画面から降りていたが、米田は残りその後も、あれこれと軽井澤さんと御園生君は議論を続けていた。そうしていつの間にか二人とも無言になり、その場で眠り出した。 

 軽井澤くん、の寝顔を見るのは久しぶりだった。

 米田智幸は懐かしく眺めた。

 放送局に彼がまだいた頃、初めて出会った十五年以上も前には、この軽井澤くんに、仕事を届けるのはメールやチャットではなかった。資料は封筒に入れ、手で持参して届けていたから、あの当時テレビ日本の六階の報道局フロアに行くのが常だった。徹夜明けで机で寝てる彼を幾度か見たものだ。寝顔でも人の良さが分かる、不思議な人間だった。

 調査会社にいた米田に、天下の放送局正社員である軽井澤さまが、テレビ報道で記事にするものの裏取りを頼むようになったのがことの始まりだった。大手メディアはその多くが外注主義で、米田のような人間が幾人も下請けをしている。放送局も広告会社も、その業者がひと回り安い人件費で下請けする事で急拡大する業務を支えている。

 軽井澤くんは、大企業にいる割には、自分の地位を鼻にかけない好感の持てる人物だった。幾つかの特徴の中で、その事が彼を象徴していた。仕事が変わった後もこうやって少し違った形で付き合いが続いているのは、そのせいかも知らない。

 軽井澤くんはテレビ日本報道局が誇る敏腕記者の一人だった。いや報道局御園生班と言えば泣く子も黙るスクープ班であった。あの頃の主だった事件の最前線で、死体の血が乾かぬうちに現場に来るのは、常に御園生班だと言われた。業者(フリーランス)や若手ではなく、あの二人が最強なのだという話を何度も聞いたのを米田智幸は思い出す。めちゃくちゃな仕事や調査を振られるけれど、それは最強であり一流の仕事の因果なのだ。だから、楽しかった。世の中でこの人たちと仕事をできる人間は他にはいない、という気持ちで仕事が出来る時は人生にそうない。

 その出世コースの軽井澤くんが、ベンチャー精神で新しい企業を立ち上げると言って、虎の子のテレビ局を辞めると言ったのは驚きだった。さらになぜ探偵事務所だったのかは未だ謎だ。GAFAだ、ネットだという時代の逆、テクノロジーとも程遠い探偵という事業の選択と創業については今でも疑問で、もしかすると経営の才能みたいなものはさほどなのかもしれない。いや、もっと奥深く崇高な理由があるのか知らないが、自分は詳しくはない、なにかがあつたのかもしれない。まあ、昨今の拝金主義的なものだけが許された時代に乗らないのも軽井澤君らしくて米田は好きだと思った。

 報道記者が経営者になるっていうのはあまり聞かない。やはり、記者は、ものを知ってるようで、経済の実態の外側にあるのかも知れない。溢れるジャーナリストのロマンチズムと、経営の算術を兼ね備えるのは、容易ではないのだろうか。

 そして何よりも、この机にうつぶせで寝ているもうひとりの人間、これがあの御園生さんの、息子さんがこの探偵事務所に就職したと言うのも、よくわからない謎だ。米田智幸は、直感で、二人にその事を聞くのは禁忌タブーに思えている。そのことは、むしろ軽井澤探偵通信社の最大の謎で、そして、軽井澤くん本人がそもそも探偵になったこと以上に謎に思えた。ただ、自分が、このことを根掘り葉掘り聞くような人間であれば、この二人と今のように付き合いが続いてはいないだろう。性格もあるがプライバシーのことには一切関わらない。軽井澤くんの出身がどこでそもそも結婚しているのかも知らない。そういうことは、当事者が話したくなったら、聞くだけでいい。せっかく仕事とプライベートが割り切れる時代になっているのだから。

 米田はウイスキーを味わえないまま、もう一度、壁面に貼られた葉書を眺めた。消印で一瞬だけ盛り上がったが、十四枚の葉書は六日と九日の二種類しかなく、文字が意味を持って並んでくれるような事はなかった。


OCCEETRN  ・・・六日消印

AAUKSW    ・・・九日消印


発見に興奮したけども結局それが解決につながらないとわかると、二人は眠気に落ちたようだった。 

 何か暗い、病的なものを感じることと、軽井澤御園生の二人がそこに、巻き込まれることと、の不安が、アルファベットの並ぶ筆跡を見ながら予感された。ミミズのような文字は、内容の不健康さ以上に頑強な執念と病的な固執を感じる。強い怨念ともいうし、長い間をかけて蓄積された自意識が発露しているとも取れる。どの文字もゆっくりと時間をかけて書いた筆圧で、単純に作業をさせられたような下請け作業の印象ではない。

 二人はGoogleの広告を入れたからだと(厳密には軽井澤さんはわかってもないようだが)言うのだが、米田には、それとは別の理由というか、何か暗い繋がりの予感だけがあった。二人の寝顔を見ながら、いくつかのことを思い返すと、米田は静かにドアを閉めて出た。一応鍵を閉めてお決まりの植木鉢の土の中に小さなその鍵を埋めた。




六十三 文字列  (レイナ)

 

 レイナは、ビデオコールを降りた後にスクリプトを書き始めた。 

 Macの画面に流暢な文字列が並んでいく。レイナが書いた命令文でMacが動く。ネット上にある、さまざまな物事を読み込んだり分類したりしていく。

 消印の日にちの違いがあったと米田さんが言ったが、八月六日が八枚。八月九日が、六枚と分かれただけで、御園生くんが期待した文字の並びがそこで見えるわけではなかった。御園生くんは少し落胆した声になっていた。八枚と六枚に分かれたところで、


TEECCRON AKUAWS


これを今すぐに手作業で文字列にする難易度は、消印の違いがあってもさほどは変わらない。

 ビデオコールから降りて、トレーラーのテーブルで温かいコーヒーを入れた。複数の人間でブレストをするのも良いが、ある程度行き詰まったあとは、会議を離れ、ゆっくり一人で考える時間がレイナは好きだった。

 気になることを調べていく。

 レイナはいくつかのアルファベット関係の暗号について調べていた。英語の参照記事をかなりの速度で読み込んでいく。レイナが気になったのは、葉書のアルファベットにCと言う文字が入っている点だ。C は日本語にはない。稀に文脈で使うこともあるけども、基本は存在しない文字だ。

 レイナはスクリプトの構造を考えながら、英語の文字列についての論文などを読み漁った。例えば、


「長い暗号を読み解く時に、


 E


 に注目する。

 何故か。

 英語では、Eの出現率が一番高いのである。

 逆にQが一番低い。地球が滅びて、石碑だけの星になった時、宇宙からの来訪者は、この星で一番使われた文字列である英語の石碑を見て、おそらく最初に考えるのは出現率になる。順番が決まっている文字列暗号の解読の基本だ。Eの位置を研究しながら、おおよそ二十六文字程のアルファベットの法則を考えていく。」


WEB上のテキストを数秒ごとに拾い、頭に入れていく。これを繰り返しながらその領域の知識を一定のレベルまで上げる。その上で、どういうスクリプトを実行すれば効率的になるか、ということを頭の中で描くのである。

 少し読み進め調べてみるだけで、アルファベットの領域は、随分と奥深いことがわかった。

 例えばそういう文字列解析の技術はたくさんあり、ベゼネル暗号のように第二次世界大戦ころには莫大な軍事予算を使って様々な研究がされている。実はその延長が、このインターネットのセキュリティに使われているということを知る人は少ない。そしてその基本がエラトステネスという紀元前のアテネ人が見出した<素数>に絡んでいると言うことも…。

 レイナは自分が楽しい気分になっていくのがわかった。パソコンの中の参照を重ねているだけで時間が過ぎてしまう。暗号関係は軍事も諜報も全て絡むパソコンの本質でもあり参照(レファレンス)と空想(イマジネーション)を繰り返すと限界がないのだ。

 そういう楽しい気持ちを抑えてーーレイナは参照記事をMacの外枠に外した。

 軽井澤さんの憂鬱な表情が脳によぎる。

 一旦、軽井澤さんの仕事を進めなばならない。

 書き込んだスクリプトの実行を一旦開始しよう。


六十四 間諜   (人物不詳 村雨浩之)


「うむむ。さて、お前たちは、うまくいったのか?」

「ええ。流石に五人も使えば手も足も出ません。しかし」

「しかし?」

「奴は消えました。」

「消えただと」

「はい。新宿の部屋から」

「どういうことだ」

「どうも協力者がいたのかも知れません。」

「守谷に?」

「守谷というか、あの男にですね。はい」

「あんな人間に、協力者などいないだろう。」

「そうなんですが。」

「どんなのだ」

「いや、それがよくわかりませんが。その我々の顛末を抜かれてるかも知れず」

「抜かれてる?」

「録音、ですね。」

「どういうことだ。失策か。」

「電話がかかりっぱなしだったんです。」

「なんだそれは?」

「まあ、ご指示いただいたことは対応できております。ご安心を。

「……。」

「細かく再現させておりますよ。タバコの根性焼きから、なんでしたっけ、若い人間に細かく指示してますから…」

「で、その場面を抜かれたのか。」

「まだわかりません。しかし、相手も相手で」

「どんな相手だ?」

「番号で調べたんですが、探偵のようでして」

「探偵?」

「はい、調べたのですが、南青山にある探偵事務所です。」

「まさか。」

「はい。軽井澤探偵通信社というところに抜かれている可能性はあります。なにしろ守谷の電話が部屋の隅で繋がりっぱなしだったんですから。」



六十五 覚醒の最中 (赤髪女)


 優しげな言葉が聞こえる。

 目の前にいないのはわかっているのに、言葉だけがはっきりと優しく。

「ちゃんと仕事をしていれば、ゆっくりと、昇格をしていくんだよ。」

それは社長さんの懐かしい声だった。たしかに社長さんは最初そう言っていた。真面目にやっていけばいい。そうするといい話がくるのだよ。いつかそれがわかる日が来るよ、と。

「いい話?」

「そう。少しずつ、よくなっていく。真面目に一つ一つコツコツとやっていくのが大事なんだよ。そうすると、少しずつ上の位置にいけるんだよ。」

「社長さんみたいに?」

「私は違うけどね。」

「社長さんは違う?その仕事は、何のお仕事なんですか?」

「大切な仕事さ。芸能界の仕事ではないけどね。」

「私はそんなに芸能界好きじゃないんです。」

「そうみたいだね。聞いてるよ。アイドルは嫌なんだろう。」

「はい」

「握手が嫌かな?」

「いえ。そもそも、人前も嫌なんです。」

「ははは。だと思って、仕事をご用意させていただいたんだよ。」

「……。仕事、ですか。」

「若いうちはいろいろなことをやっておくといいんだ。」

「はい」

「生きていくには、ある程度のお金は必要だよ。」

「そうなんですね。」

「そうだ。でないと、女の子は、水商売だとか、自分を安売りすることになるからね。そうやって、自分の可能性を失っていくより、少しでも良いから、安定した仕事をしたほうがいいんだよ。」

社長は丁寧に丁寧にいつも教えてくれた。大好きな社長だった。八十歳を過ぎていて人生の最後の様な表情でいつも赤髪女を優しい眼差しで見つめてくれる。長く病気を抱えていて、いろいろなことを考えていたんだろうなと思う。もし社長が生きてさえいれば私はこんな風にならなかったのかもしれない。



六十六 最初の悪夢(軽井澤新太) 


 それはとある監禁の場面でした。わたくし軽井澤が、何故か監禁をされていて大勢の目出し帽の男に部屋から出れぬようにされています。今は全身を縛られていて身動きは取れません。

 一見、歌舞伎町のあのマンションを想像しましたが窓の隙間の外に辛うじて見えるのは民家です。そこはまだ昭和の香りのする一軒家の二階のような部屋でした。

 悪意を堂々と隠さぬ人間たちに囲まれる恐怖は酷いものでした。一人きりで大勢の罪人、犯罪者に向き合うことの尋常ない恐怖にただ焦りました。誰かが昔言った、人間は人間が一番怖いのだと言う話を、強く思い出してます。

 ただこれは、現実であるようにも、非現実的な夢でもあるようにも思われます。いや、わたくしは夢を見ているのではないか?事務所で寝落ちしたのではないか?まるで夢を夢として理解しながら、その夢から覚めずにそっと身を任せる感覚でわたくしは傍観しているのかもしれないと感じました。あまりに現実とは思えない状況だったからでしょう。

 目出し帽の男たちは、やがて、私刑をはじめます。

 わたくしは叫びます。

 辞めてくれ、辞めてくれ。

 凄まじい力で、わたくしの身体は押さえられ身動きは取れないばかりか、不都合に動いた場所には容赦のない鉄パイプなどでの殴打が入ります。骨を打つ音と、激烈な痛みが夢でありながら全身に伝わります。吐き気がきます。

 それらの悪魔の時間が続いていくうちにだんだんと最初は夢か何か冗談だと思っていた自分が、ほとんど現実にこれが行われているのだと言うふうに変換していくのか分かりました。殴られ犯されるひとつひとつそれぞれが、現実の信憑性を高めていくのでございます

 しかし、です。

 しかしながら、です。

 一つ不気味な気がするのです。

 おかしい、と思うのです。夢であるということ以上に、この場面を何故か、わたくしは何処かで見聞きして知っているのです。知っていてそれでいて何か蓋をした記憶のように脳のどこかの抽斗(ひきだし)に片付けてあるのを知っている。

 つまり、映像は、外部からではなく、どこかわたくしの内なる自意識からやって来ている。幾度となく脳が経験したものを、再生しているような感覚さえあるのです。

 類似したドラマや映画の回想なのか?もしくは誰かに聞かされた物語か何かなのか?わかりません。しかし、わたくしはこの自分がまさに今ここで侵される私刑を予測しているのでございます。この恐怖は、これから何をされどういうふうに扱われるのかを「既に事前」に教えられて、「その事を知っている」かのような恐怖なのです。そしてもっと恐ろしいのは、そういうことを知っていながら、自分がそれを忘れようとしたと言うことも知っているのです。恐怖で精神が辛いので、日常の生活に思い出せないようにしていたような、そういう脳裏の空白地帯からやって来るのです。

 身体中を縛られ、目隠しをされると大勢の不気味な男が代わる代わる、わたくしに、タバコを押し付け、棒で殴り、服を破り、言葉では書けぬようなことをして、わたくしを凌辱していきます。

 悪夢です。

 しかしそれは非現実の夢です。それもわかっている。あえて言えば、過去の何かがつながり合いながら、わたくしの脳の中で再放送されていく、という感覚でしょうか?

 再放送。

 放送?

 その時、一瞬、私の脳裏に深く深く刻まれていた全く別の領域の何かが産声をあげるのです。そこにある人物がいます。それは私より年長の、人物です。

「映像使用認めてないだろ!止めろ!きさま!家族を殺された、被害者の気持ちを、考えたことあんのか?」

重低音の如く、別場面の声が、伴奏をしているようです。その人物の声が響く中を、わたくしは繰り返し私刑を受け続けます。

 夜が訪れ、また朝がくる。日中がくる。そしてまた夜が来る。食う物を食えず衰弱します。夢の中で幾度も朝が繰り返されます。一週間、二週間と過ぎ、自分が殺されていくのだと、思っていく。

 そうして目が覚める程度ならばわたくしはこのことを申し上げませぬ。過去のわたくしのササクレを集めた夢の一つ一つ語るには及ばぬ。そんなことを申し上げたいのではございませぬ。

 問題はその後なのです。

 ふと自分のことを鏡で見ることができる事に気がつきます。

 自分が何かの力を工夫さえすれば、そちらに抜け、脱出できるような予感がします。窓の近くに鏡があり、うまく体を捻ればそこに、抜け出せるようなのです。まるで自分の体を置き去りにして、幽体離脱して部屋から抜け出るような感覚とも言いましょうか。これはシメたものだと思い、私はそこから、厳密には体をおいて、眼だけ抜け出していきます。

 そうして、うまく脱出し、元いた自分の姿が見えるように、振り返りますーー。そうしてわたくしは、その姿を見て唖然とするのです。

 リンチを受けている人間の姿は、恐ろしいことに私では無いのでございます!

「紗千!何でお前が??」

恐ろしいものをわたくしは見させられるので御座います。この陵辱され、私刑され続けるこの身体がよく見ると美しい少女であり、他ならぬわたくしの溺愛するたった一人の愛娘なのでございます。同時に、よく見るとなにか窓ガラスの外には誰かが、陵辱されているこの少女自身を愛して止まない誰かがいて、人間とは思えぬ形相・顔面で狂ったように暴れています。

 それは、分断した国境線の鉄柵の向こうで、自分の娘の処刑されるのを慟哭して鉄条網にしがみつく、人間の父親の有様でした。そしてそれが、なんとこのわたくしの顔面ではありませんか?凌辱されてたはずのわたくしの骸が外にいて、わたくしの娘の紗千が私刑を受けているのです。そしてその紗千の父親であるわたくしは何も出来ずに狂人のごとく叫んでいるのです。その阿鼻叫喚の苦悶の表情の、恐ろしさと言ったら……。

 わたくしは、あのように恐ろしい人間の顔面を見たことはございません。それが他ならぬこの自分自身の顔面と知りながら、恐ろしくて見ることもできないのです。

「殺すなら、この俺を殺せ!娘は解放しろ!早くしろ、殺すなら俺を殺せ!!」

その鬼の形相をした「わたくし」は怒鳴り続けます。夢の中のはずですが、自分でもわからない。わたくしは何もできません。ばかりか、逆に犯罪者たちは囁くのです。

「この手順にお前は覚えがあるだろう?」

目出し帽の男達は嗤いながらわたくしに語りかけるのです。

「覚えがあるだろう?」

「……。」

「いいか?お前は被害者になるのだ。知らぬ存ぜぬではなくなる。第三者ではない当事者になる。そのことで、本当の理解が叶うんだ。」

「……。」

「お前が求めたことが、こういうことだったはずだ。」



六十七 埋立地  (守谷保) 




 守谷と呼ばれた男は塩臭い海風を吸った。

 その場所は最初、夢の島といわれていた。島はゴミを捨てる場所だった。東京湾でハエが大発生し、異臭騒ぎがあったがそれはゴミを無差別に捨ててきた結果だ。夢とは名ばかりの島だから誰も近づかなかった。

 そのゴミの印象こそがかつて<埋立地を目指した>理由だった。川だと近すぎる。不安が残る。しかし東京湾の沖で、ゴミを集めて土に埋めてる島はいかにも罪悪の痕跡を消し去る期待があった。

 守谷と呼ばれた男は夕暮れを待って池尻病院の部屋を出た。私刑で犯された全身が痛んだ。片足を引きずるようにしか歩けず、鉄の棒で穿たれた下半身がきつかった。駅までの道のりがこんなに遠いとは思わなかった。池尻大橋から田園都市線に乗り、案内や地図を色々と調べ、渋谷から新木場までりんかい線の直通があるのだと知った。新木場駅へ降り立った頃には夜は更けて、人もまばらであった。






 <東京湾から渋谷界隈までの地図(挿絵)>







 埋立地と言っても広い。

 細かい場所は思い出せない。

 ただ、大まかな区画と道路の設定は変わらなかった。二十年前に、刑務所を出た後<再び>行った時の記憶とはほとんど変わらない。<最初>に行った時とはまた違う印象であったが、そもそも<最初>に行った時の記憶は暗闇の中で陰ってしまってよく見えない。

 新木場駅からその場所はさらに遠い。海へ向けて歩いたが、痛む全身が辛くなった。

 すでに夜だった。

 大都会の喧騒とはまた違う。埋立地の不気味な海潮音や工業用地をいく車の雑音が冷たかった。

 懲役に行く前、三十年前、<最初>この場所に立った時、守谷はまだ未成年の少年だった。このあたりで必死に地面を掘った。ゴミで埋立てられた土壌にホームセンターで買ったスコップで穴を掘った。やはり記憶は暗闇の中で、光がなく、その前後をおもいだせない。恐ろしいことをしている感覚は、既に麻痺していた。ただ人間関係の中で、自分が捕まらないためにはとにかく深く掘らねばという気持ちだけだった。深く掘れば捕まりにくいという感覚は残っている。

 あの時の記憶が蘇る苦しさと昨夜からの現実の激痛とに耐えながらしばらく歩いた。闇夜の中にゴミ処理場なのかコンクリート処理などの工場なのかわからない建物が立っている。その前の道が海に向けて行き止まりのT字路になっている。

(ここだ)

 男はゾッとした。

 覚えている。

 偶然と言うには恐らく嘘が混じる。守谷は忘れたつもりであっても、何一つ忘れられず覚えていたのだ。三十年前自分達が穴を掘った場所を。そして二十年前に今と似た心理で再び訪れた場所を。

 生唾を飲みながら、足を引き摺りながら、守谷は歩いた。

 漆黒の夜で、あたりには照明がなかった。人間のいない暗闇が広がっている。

 目の前のアスファルトの地面に光っているものがある。それは殴り書きに書かれたネズミ文字だった。



殺順

逃亡者殺ス

傍観者殺ス

仲間ヲ私刑許ス

仲間ヲ殺ス許ス



文字は二十年前と変わらなかった。心のどこかで守谷は予想をしていた。時間が解決できない同じ怨恨が二十年過ぎた今も変わらずに動いているのは確かだ。やはりそういうことだったのだ。

 周囲を見回すうちに守谷は呼吸が苦しくなるのがわかった。一度文字列を確認すると、急いでまずはその場を必死に去るしかできなかった。

 


六十八 間諜 (人物不詳 村雨浩之)


「だれだ、おまえは?」

「ようやく電源を入れたな。」

「なんだ、この変な声は?ガスでも吸っているのか??」

「まあ、関係者とだけ言っておこう。猫のにおいは取れたか?」

「まさか。おまえは?ちょっと待て。お前は一体誰だ」

「ははは。質問が先とは、いい身分だな。」

「なんだと?」

「いい身分だと言ってる。すばらしいよ、風間さん。」

「なにがだ。」

「とぼけるな。」

「とぼけてない」

「ずいぶん、余裕があったものだな。」

「知ったこっちゃない。余裕などないぜ」

「安くはないだろう。探偵を雇うのは。」

「なに?」

「探偵さんとは、どういうご関係だ」

「……。」

「探偵には、何を話した?金はどうした。」

「…しらん。」

「そんなことを、誤魔化せると思うのか?今夜の閨所はどうだ?探偵を雇うようには思えないぞ」

「……。俺のことを知ってるのか?この携帯を辿ってるということか?」

「寝屋だけじゃない。どこをどう動いているのかも知っている。そうだろうな。何度も確認したくなるくらい、怖いのだろう。考えたくないはずなのにな。昨日はわざわざ埋立地まで見に行った様子だからな。」

「……まさか。」

「まあ、逃げても何も解決はしない。そのことは知っているだろう。」

「……。一体、何が目的だ?」

「まずは、最初の質問に答えろ。探偵には何を話した。」

「な、何も話していない。大したことは話していない。」

「大したこと話していないなら、どんなことを話したのだ?」

「…葉書の主はあんたか?」

「質問に答えてから質問をしろ。」

「大したことは頼んでいない。」

「ふむ。まあいいだろう。質問を変えよう。逃げ続けるつもりなのか?」

「なに?」

「逃げることが危険だと、わかってるだろう。」

「……おまえは誰だ。」

「逃げ道などない。おまえが探偵を雇おうが、なにをしようがだ。むしろリスクだけが増えている」

「……。」

「胸に手を当てるがいい。」

「……。」

「何を迷う。簡単なことだろう。逃げずに先制攻撃をすればいい。あいつはまだ綾瀬にいる。」

「…誰のことだ?」

「とぼけるのが本当に好きなようだな。これ以上しらばっくれるならこちらも考えるぞ。」

「いや、違う。まさか、あんたは。」

「……。」

「お、尾嵜のことを言ってるのか?」

「そうだ。」

「あんたは誰だ?奴は…綾瀬に?」

「堂々たるものだよ。ずっと住所も変えていないのだ。同じ家に住んでいる。連絡先を調べる必要もないだろう。」

「そうか。あんたは随分詳しいな。」

「お前の手助けをしてるだけだ。あとは行動をすればいい。奴がどうなったって、誰も悲しむ人間などいないだろう。」

「しかし。」

「別に殺さなくてもいい。文言は読んだだろう。ただ危害を加えればいいじゃないか。」

「あんたは誰だ」

「質問に答えろ。誰かが死ぬか、瀕死にならねばならない。そうだよな?」

「……。」

「助かりたくないのか?」

「……。」

「あいつが、逃げようとして私刑にあったのは聞いたか?」

「……。あいつ?」

「とぼけなくていい。片腕を切断されたようだ。」

「腕を?」

「分かるだろう?逃げないほうが良いということが。逃げたやつにこそ、地獄がくる。そうだろう?前回、二十年前に何があったか思い出すが良い。」

「しかしそれは…。」

男の声は、反論をしようとしたが、遮るようにヘリウムの声は続けた。

「何、簡単なことさ。お前らのうちの誰かが、つまり。」

「誰かが、死ねばいいということか。」

「わかってるじゃないか。主犯格の尾嵜に死んでもらうのが、世の中の納得ともいうものだろう。それを誰が行うかだけの問題だ。」

ヘリウムの声がそう言ってから、電話は長い沈黙になった。しかし、風間と名乗る男は、その後もただ怯えた言葉だけを繰り返すばかりだった。ヘリウム声の男は苛立ちを隠せなくなって、あれこれと脅しの言葉を続けたが風間を名乗る男は、挙句には

「お、俺は、もうたくさんなんだ。もうこんなことに関わるのは。もう十分だろう。俺だけが悪いわけじゃない。」

という言葉になった。

「おまえのような人殺しが、今更何をいう。一人殺すのも二人殺すのも同じことだろうが。」

「……。」

「人を使ってもいいわけだ。探偵では逆だろうが。」

「…あんたは、だれだ」

「誰かは関係ない。とにかくだ。逃げるならば、後悔をすることになるとだけは言っておく。」

電話はそこで切れた。


六十九 スクリプト(レイナ)


 レイナは画面を見ながら首を捻った。

 風間と守谷に関する、令和三年から元年までの三年分のSNSや記事の収集は完了した。さらに平成の時代にも直近から遡り1000日ほど検索・収集をした。平成三十年、二十九年、二十八年の三年間である。しかし結果は、思うように進まない。問題の風間と守谷の二人は少なくともこの六年間のネット情報では犯罪者という可能性は限りなくゼロに近い。ネットの結論は明確だった。

 あくまで三年分を遡っただけの現状のデータとはいえ、風間と守谷には全く事件・犯罪性がない、というのはレイナの中では想定外だった。この点は軽井澤さんや御園生君とも同意見で、あの葉書には強く復讐の印象があるし、過去への強い怨念が顕在する。殺人や強姦の犯罪歴を、レイナは想像していた。しかし直近六年ほどのネット記事の収集では、それらは結果は出てこない。

 普通犯罪者は何かの書き込みを受けるものである。多くの受刑者は刑務所を出た後も掲示板を賑わす。インターネットは罪のあり方を変えた。犯罪者の掲示板はネットのコンテンツの一角を担っている。残忍な犯罪の手口や状況の再現、それを許さぬ小市民のコメント、が応酬するだけで十分に人が閲覧するコンテンツなのである。

 レイナのMacBookは最大速度で計算を続けている。少なくともあと1日もすれば平成の残りの時代まで、ほぼ読み込めるはずだ。現時点では、まずは計算を待って、それから考えを整理し直すしかない。

 だが、一点だけ、気になることがあった。

 機械学習がある全く別の事件について提示をしているのである。その事件の犯罪者が風間や守谷だ、という風にではない。関連性、という部分だけでとある事件をMacBookは提示している。何の材料がその古い事件を呼んでいるのかは不明である。計算の根拠も、アルゴリズムもわからない。

 レイナは首を傾げるしかなかった。

 というのも、その事件は既に犯罪者は確定していて、その受刑者たちと、風間も守谷には関連が一才ないのである。



七十  バーにて (銭谷警部補)


 

 わたしの顔に書いてある何かを読み取ったのか、ニコルソンは厨房へ消えた。

 客のいないカウンターでわたしは一人になった。

 午後のうちに来ていた石原からのレポートを官製の携帯電話画面で読むことにした。読み始めるとわたしに朗らかな興奮がきた。お世辞ではなく、それはしっかりとしたものだった。まず作業量があった。様々なことを時系列で調べてあり自分なりの整理を順番に設定してあった。その上で自分の中で仮説を持っていた。仮説はひとつだけではなく二つ三つ四つとあり、そのどれもが具体的だった。ただ、隠密の捜査であることを意識してか、主語や固有名詞はことごとく省略をしているせいで用言が苦しそうだった。わたしはできるだけ早く、今日秋葉原で買った私用の方の携帯電話の番号とアドレスを教えなければならないと思った。

 ウィスキーを頬張るように味わいながら繰り返し読む。

 そこには今後、彼女自身がどう動くかがこれも具体的な主語を省きながら書かれていた。ただ省略していても、方針が具体的なのは明確だった。仕事を進める意思が明確なのである。レポートの後半はスケジュールや時間の配分の計画が書いてあった。霞ヶ関の本業との兼ね合いもうまく整理されており、早速明日から週に四回もの頻度で、早朝に動くと書いてある。主語はないが、太刀川を早朝から尾行したいという意味であろう。一人で幾度も尾行すれば顔バレするぞ、とわたしは素直に思いながら、最近わたしを襲いがちな絶望とは別の方角に明るく自意識が広がるのを感じた。

 返信で少しの御礼と、明日はよろしく頼む、と官製の電話でできる限りのメッセージをいれた。

 しばらくしてから、わたしは行けるようなら参加する、と追加で記載送付をした。実はどこかで今日、この天現寺のバーにきたのは、朝まで飲んだまま六本木に向かうつもりでもあった。

 憂鬱で途方もなく後ろ向きな場所へ向かいがちな脳をジャックダニエルと、石原の言葉が交互に堰き止めていた。

 丸氷が小さくなった頃にまた、ニコルソンが顔を出した。



七十一 暗室(人物不詳 村雨浩之)  

 

 男は電話を終えると呼吸を整えた。

 暗い部屋で、タバコに火を灯すと、まるで焚き火のように赤々と先端が燃えた。

 時々、ヘリウムで隠した自分自身が出てしまう気がしてならなかった。

 この部屋は極秘作業を行う場所である。

 自分以外に誰一人としてその所在も存在も知らない。

 男はいつものように部屋に設置した旧式のパソコンを開いた。古い純国産のテキスト編集程度しか役に立たないーーその代わり一般のインターネットにも繋がっていないそのパソコンの中から、とあるドキュメント文書のファイルを開いた。

 記憶には限界がある。とは言っても紙に書いて持ち歩くのもよろしくない。

 だから変更があった後にはこの部屋に来て、自分の作戦計画が予測とずれていないかをドキュメントで確認し、自分なりに修正を行うのである。

 男は犯罪を犯している認識がある。

 自分の本当の名前も隠している。

 多少は世の中に知られた名前である。

 いや、まだどこにでも書き込みも溢れている、とも言える。

 くだらない、ネット社会。

 永遠に刺青のように名も名乗らぬ人間が他人を陥れ続ける。 

 インターネットなどに触れてはダメだ。

 既存のインターネットに、自分の作戦などーーそんなものを記述するわけにはいかないのだ。

 男はドキュメントを見つめ直した。

 作戦ーー。

 その骨格は簡単だ。

「罪を犯した人間には罰を与えればいい。」

それだけのことだ。そうすれば、世の中の誰も迷惑しないはずだ。

 世の中はいつだって復讐の長い物語が大好きなのだ。

 刑務所で懲役を終えた程度で人間の罪が改められるなど誰も思っていない。

 言うなればさらに追加の、道義的な罰を願っている。

 たとえば殺人犯が刑務所から出てくるなど本当は、誰も許せたりしていない。

 そんな人間は社会にいないでほしい。

 本来は死刑ーー極刑に値するような人間がこの東京の各所に平然と暮らしているのを、誰も知らない。

 隣近所と関わらないでいい、マンションやアパートによくある都会の自由な生活は、裏を返せば隣が犯罪者でもわからないということだ。犯罪者は各所に暮らしている。対して反省も、後悔もせずに今時の言葉で言えば、「前向きに」暮らしているーー。自分はそういう社会のゴミを処理しようとしているだけだ、と男は脳裏に繰り返した。

 社会に暮らす死刑に値する人間が、殺し合うーーたとえばそういうイベントが発生すれば、不満ばかりの世の中では清涼たる吐け口にさえなるだろう。誰もが、事件が欲しいのだ。今の世に誰も満足して生きていない。ほとんどが不満の吐口を探しているのだ。

 インターネットで検索でもすれば明らかなことだ。

 過去の事件や犯罪掲示板の言葉たちの悍ましいこと。罵詈雑言を言葉の限り浴びせあう、ニックネームの人間たち。

 誰も本名など名乗らない。

 そこでは犯罪者だけが実名なのだ。


「おまえは人殺しだ」

「おまえは悪魔だ。」

「おまえを絶対に殺されるべきだ。」

「おまえは懲役が短い。」

「おまえは死刑になるべきだ。

「刑務所を出たら殺す。」


言葉がインターネットに、溢れきっているではないか。

 だから自分のやっていることはある意味人助けであり正義なのである、と男は思っている。だから葉書を出した人間が何らかの復讐を計画するのなら、その願いを叶える道筋を作ってもいいと思っている。あのアスファルトに記載された言葉の通りに。


殺順

逃亡者殺ス

傍観者殺ス

仲間ヲ私刑許ス

仲間ヲ殺ス許ス


男はこれまでも幾度となく葉書のことを考えながら文書(Document)に計画を書き込んできた。実際に埋立地のあの場所にも足を運んでいる。そしてその計画をもとにそれなりの予算をかけ、人を雇い、人間を動かしてきたのである。

 しかし、である。

 男は、脂汗を滲ませながらドキュメントを見つめ直した。

 少なくとも風間と名乗る男は動く様子がない。いや、先ほどの電話でもわかった通り、ただ怯え逃げることだけに向かっている。

 つまり「計画A」が、正しく進んでいない。

 当初の想定からの変化を見直さざるを得ない、と男は思いはじめている。つまり「計画B」の方を意識せざるを得ないのである。

 GPSの画面をもう一度見る。

 もうひとり。守谷と名乗る男は今夜ずいぶん移動した。渋谷に向かい、そこからりんかい線に乗り換えた。なるほどと思う。こいつはおそらく怯えているのだろう。あの体でーー歩くことがやっとの体で、わざわざ<事件>の現場まで戻るのだ。いや、あのような私刑を受けたからこそ恐怖から逃れられないことを奴は知ったのだ。新宿での地獄が、効果があった。やはり、限界に近い恐怖は人間を支配する最善の手段だ。風間が逃げる傾向にあるのは猫が良くなかった。猫の死体ではダメだった。

 再び、風間の位置を見つめた。

 猫ではないやり方を、奴にも設計しなければならない。ただそれだけでは不十分だろうーー。

 暗い部屋で男はゆっくりとタバコを吸った。真っ赤にタバコの先が燃え輝くのを見もせずに、数本を立て続けに吸い続けていた。

 ヘリウムの男は、少し冷たい眼差しをして綾瀬の周辺を地図で見つめた。

 そうしてしばらく考え事をしてから、ドキュメントの計画をーー「計画B」を細かく書き直し始めた。風間と守谷を中心として動かすだけの計画を見直し、三人目の人間を積極的に動かさなければならないと思ったのだがやはり「綾瀬」については男は正直自分で自ら関わりたくはないのである。



殺人の四日前(九月十一日)


七十二 寝落ち  (御園生探偵)


 朝だった。

 軽井澤さんの鼾(いびき)で、僕は目が覚めた。

 昨夜、議論は行き詰まった。

 軽井澤さんと僕は、昨日の朝からの、歌舞伎町、首都高、池尻と回った疲れがひどくあった。強く精神的な疲労だった。結果、僕も軽井澤さんもこの狭い事務所のソファーと机に俯して寝落ちてしまった。暖房の効きの悪い真冬ならそうはならない。夏が終わった後の過ごしやすい季節だったからだろう。

 我々が寝落ちをしたあと、米田さんは帰ったようだ。

 疲れ果てて眠ってしまっていたが、肝心の風間からの電話は鳴っていないことを僕は確認した。軽井澤さんの電話は机の上に置かれていて、我々は寝落ちする瞬間までその電話を見つめていたのだ。

 軽井澤さんはソファに斜めに体を預けて、強い鼾(いびき)をしたり、無呼吸になったりを繰り返しながら額に汗を浮かべている。この二日間で凄くやつれたように思えた。

 僕は、ひとつの責任を感じていた。元々Googleの出来高広告をお得だと試したのは、この事務所の売り上げをどうにかして上げていきたいと言う話を自分がしたのが原因だった。でも、今現在まで、軽井澤探偵通信社は収入にそれほど困っているわけではない。事務所には相応の固定の収益があり、適度の給料もちゃんともらえている。軽井澤さんも、高給取りの放送局時代で貯めた金があるのか、それほどお金には困っていない気がする。もしくは、金銭への執着がないのかもしれない。僕の手取りは新卒の三年目としては十分なものだった。

 それなのに、ある意味無責任な新規顧客開拓をしてこの状況を作ってしまったのだ。

 僕は改めて軽井澤さんの寝顔を見つめた。人のせいにしない軽井澤さんの性格が滲み出ていた。全て自分の責任にして、脂汗の下で苦しんでいる、そんな表情の寝顔だった。



「御園生というのが本名でして。」

「御園生って、えっ。」

あの日、今から一年と半年前、初めて僕がそう言った時、軽井澤さんは、混乱した。

 それはひどい混乱だったはずだ。

 まず、一つ目が、当初の佐藤翔太という名前が嘘だったということへの驚き。二つ目はそもそも嘘だった名前の本名が、御園生という、一般的ではない名前だったことだ。珍しい名前でもあり、前の会社で知っていた名前だと思ったはずだ。

「父が前の会社でお世話になったと思います。」

僕がそう単刀直入に言ったとき、軽井澤さんは全てを理解したような、それでいて呆気にもとられた顔をした。

 二人ともなんだか、変な気持ちになり、たまらず外を散歩したのを覚えている。事務所から青山墓地の方へと無言でしばらく歩いてから、

「ああ、そうだったのかあ。」

と軽井澤さんはつぶやくように言った。

「すいませんでした。」

「見た目は、似てないですね。ああ、そうだったのかあ」

「すいません。なんだか、言い出し辛くて、最初はほんの思いつきでした。そのまま言い出せなくなったんです。」

「そうだったのかあ。」

 それは、怒りも驚きも越えた透明な響きだった。

 声が素直に空に広がり小鳥(水鳥)のように回遊して戻ってくるような余韻があった。川端康成に「有難う」という掌編があるが、その響きのような、「そうだったのかあ」という言葉が、純粋に爽やかだった。あの日は桜の季節の終わり頃で、青山墓地の周辺には、薄桜色の雪のような花風が吹いていた。折からの陽光は枝に残る桜の花びらを輝かせるのだけに役立って、

「そうだったのかあ」

という軽井澤さんの声を、吸い込むようにしていた。他のすべての邪念が軽井澤さんの声に全て消されてしまっていく感覚があって、僕はなにか貴重なものに打たれた。

 新卒でなぜ、探偵事務所にはいるのか。御園生という名前をなぜ言わなかったのか。探偵事務所の中でもなぜわざわざ選んだのか。会話になるべき質疑は幾つもあったけども、軽井澤さんはそのどのひとつも質問をしなかった。そして、一年半が過ぎた今も、その質問はされぬままだ。

 僕と軽井澤さんは、じっと花びらの降りしきる墓地のあたりを歩き任せにしていた。青山墓地の桜の花弁は、この国のために命をかけた英霊たちの墓標を撫でて、そうして我々の足元のあたりで旋風(つむじかぜ)に舞っていた。

 僕のがわでも、軽井澤さんからの質問があれば答えを用意していたのだけども、軽井澤さんは何も聞かなかった。話す言葉が出ずに、墓地半分くらいを、どこに向かうことなく無言で歩いたくらいしてから、ふと軽井澤さんは、

「これからもよろしく。」

とだけ言った。そういった軽井澤の顔の横あたりをくるくると、桜の花びらがいくつか舞っていた。

 以来、軽井澤さんと僕は、その話をしたことは一度もない。



七十三 地下鉄  (太刀川龍一)


 その朝も、太刀川龍一はいつもの日課の通り、地下鉄日比谷線に乗った。霞ヶ関方面の列車の六時台、都心では通勤混雑時間の少し前である。車両には、四、五人程度の乗客である。

 おやと、思った。

 見覚えのある人間が、そしらぬふりをして隣の車両にいる。先日の無駄にしか思えない取り調べからまだ日も経っていない。似た身なり(スーツ)とオールバックの髪。刑事にしか思えない風情。銭谷警部補に偶然なんていうことはないだろう。

「銭谷さん、おはようございます。尾行は珍しいですね。」

太刀川は隣の車両まで歩いて話しかけた。

 銭谷警部補は、悲しく、そして疲れた目で太刀川を見上げた。

「尾行ではない。」

「偶然ですか。なるほど。霞ヶ関に通っていますものね。ご住所は優雅な中目黒の先か、東横線沿いですか?」

「それを説明する義務は、私にないはずだ。」

「義務はないですね。でもそろそろお互い協力して、理解し合うのも大事かもしれないですね。」

「……。」

「噂で聞きましたよ。」

「噂?」

「捜査一課のなかで、あなたは孤軍奮闘みたいじゃないですか。ついに、尾行もご自分でですか?」

「尾行ではない。」

「銭谷さん。」

「……。」

「たぶん、向いていないからやめた方がいいですよ。」

「関係のないことだ。」

「昔のあなたの仲間はどうしました?それとも、警察組織の足の引っ張り合いでも勝手に始まりましたか?そんなことじゃあ、本来大切な本業のほうも保てないでしょう。税金は正しく使ってもらいたいですね。」

太刀川はそう言って、銭谷を見降ろした。昔の仲間、と言った時、珍しく銭谷警部補が表情を変えたのを太刀川は見逃さなかった。

「世の中には、市民にとって納得のいかない事件が溢れてます。そちらにまず時間をかけたらいい。私の事件からもう五年も過ぎている。」

眼下には、まるで取調べ被疑者のような風情で、銭谷警部補が項垂れて、地下鉄車両のリノリウムの床を見任せにしている。これでは、こちらが刑事みたいじゃないかと、太刀川は思った。嬉しくもない感覚だった。

 地下鉄は霞ヶ関に到着し、ドアが開いた。

「降りないのですか?霞ヶ関ですよ。」

「どこに行くかは指図されたりはしない。」

「そうですか。では、私は失礼します。」

「……。」

「銭谷さん。また警視庁にも伺いますよ。捜査に進展があったときは呼んでください。私は警察に協力する事にしてますからね。ただ、本来のあなたは、もっとこんなこととは別の事件に首を突っ込んで警察を動かしていくべきだ、と思いますがね。」

太刀川はそういうと、閉まりかかったドアから降車した。

 結果として置いてきぼりになった銭谷警部補は日比谷線の座席に石のように座ったままだった。



七十四 日比谷線 (銭谷警部補)


 去っていく太刀川の背中を流し目した後に、わたしは車両の反対側を見つめた。そこには石原里美巡査が、ちょうど太刀川の後を追って席を立つところだった。

 わたしを少し驚きながら見つめた石原巡査は

「銭谷さん。」

と、小さく声にして頷いたような気がした。駄目だよ、わたしに気づかっては、顔バレしてしまうだろう。先日の取り調べでの印象は薄いとはいえ今後もあるぞ。という言葉の中で、わたしはあえて石原巡査から目を逸らし再びリノリウムの床に目を落とした。少しして見上げると、石原里美巡査の太刀川を追う背中はホームに消えていった。

 尾行を開始します、と言うメッセージが早速あった。

 私だけ残された日比谷線はため息のような音をさせて走りはじめた。

 霞ヶ関の六階に戻る気にはならぬまま、日比谷線を次で降りるか考えながら、ドアの上の路線図を見上げた。

(朝の地下鉄を、太刀川は継続しているーー。)

インターネットを全て切断した頃、彼は毎朝地下鉄に乗るようになった。六時過ぎの、客の疎らな朝にである。少なくとも三年前まで、私がまだ部下を使って調査をできた頃は毎朝だった。

 今さっき、わたしを見つけるとわざわざ太刀川は隣の車両から歩いてきた。警部補と呼び捨てで、さまざまなことを語った。

 わたしは、返す言葉がなかった。虚しい負け犬の表情をするわたしを、まるで権力者の表情で見下ろすと、太刀川は言いたいことだけを言って去っていった。そう。奴は理解している。わたしの立場が変わり、堂々たる捜査など出来なくなっていることを理解している。むしろ警察組織の中で今の異動や処分の寸前なのも知っているのかもしれない。

 どこかで、諦めそうになる自分がいる。

 刑事という仕事において、真実を追いかけることどころか、警察官でいることそのものを、だ。言葉にすれば無残極まりない内容だが、大凡そういう風に躁鬱の波の上下があり、酷い時は最悪の気分がやってくる。人間が歳をとりながら美しくなっていくなんて言うのは幻想で、年齢とともに負けて失う場面が増え、やがて見るも無惨になっていくのが本当である。でなければ都会はこんな絶望臭くはならない。

 我ながら精神的な振れ幅がひどい。

 そういう暗い波もあれば、昨日の石原のように未来を感じる後輩に出会い、自分の経験してきた物事を伝えるだけでやり甲斐を感じる自分もいるーー。

 やはり、振れ幅が酷い。

 現実として、真犯人を挙げられぬままの感覚が続くのは、刑事には厳しいものだと思う。権限もなくなれば確率は下がるばかりだ。敗者の白旗をどこかで隠しながら刑事を続けている、と誰かに言われれば、わたしはなんと言って返すのだろう。先刻のように、ただ床を見つめて無言でいるしかないのだろうか。

 そういうことに耐えたくないから去ったのなら、金石の予見は正しかったと言える。いま、どんな反駁をしてもわたしが組織の外されものであり、あの頃のように部下を集めて何かをするということは容易ではないのだから。

 #


七十五 葉書計算 (御園生探偵)


 しゃっくりのような音がして、二度寝したぼくはまた目を覚ました。

 軽井澤さんがソファーの上で唸っているのだった。

 何かの悪夢にうなされているのか、脂汗が酷かった。

 僕は改めて体を起こした。トイレの前の流(ながし)で静かに顔を洗うと、冷蔵庫から今度こそと、目覚めの缶コーヒーを取り出した。

 壁には、昨夜何度も並べ替えた葉書のアルファベットが虚しく並んでいる。

 米田さんが僕らに指摘した事実として、これらの葉書は全て一括して埼玉の三郷という郵便局から送られているのだが、その消印の日付は、ただ、二日に分けて送られただけだった。


OCCEETRN  ・・・六日消印

AAUKSW    ・・・ 九日消印


八枚と、六枚とのグループ分けができただけに過ぎない。この文字列を並べるのはまだまだ同じくらい難しい。つまり消印という新情報の発見に喜んだ、我々の予感ーー順番に葉書が一日ずつ届いていれば、意味がわかるのではないか?という予感は雲散した。

 我々は行き詰まり、寝落ちするまで答えを出せなかった。いつの間にか米田さんは帰っていた。

 僕は驚くほど甘い缶コーヒーで眠気を振り払いながら、頭を整理し直した。

 最初の文字を選ぶのに十四通りある。十四枚だから、最初に選ぶのは十四枚の中の一つしかあり得ない。


OCCEETRNAAUKSW の十四枚


のうち



を選んだとする。すると、残りが


OCCEETRNAUKSW の十三枚 (Aを選んだ)


となる。次に、二文字目を選ぶ。葉書が十四枚だから(一文字を選んだら一枚葉書は減ってるから)次の選択肢は、十四枚ではなく、残りの十三枚から選ぶことになる。仮にCを選んだとして、残りは


OCEETRNAUKSW の十二枚  (AとC を選んだ)


となる。次の選択肢は十二枚つまり、十二通りになる。

十四枚から、選び、次に十三枚から選び、十二枚から選び、と繰り返す。

だから、二枚までを選んで並べるのは、十四枚×十三枚通りの選び方があるはずだ。三枚目を選ぶときは十四枚×十三枚×十二枚という掛け算だ。

 そうやって文字を並べるたびに選べる枚数は減っていくのだから、選び方は


14×13×12×11・・・という掛け算になる。たとえば、十枚選んで並べて仕舞えば、残りは四枚になってるはずだ。同じように、十二枚選んでしまった後は残りは二枚しかない。つまり最後の選択肢は二枚しかない。

 これは、数学の世界では、


14!


と計算式で書くらしい。十四の階乗、という数式になる。つまり、


14!=14 × 13 × 12 × ・・・ × 2 × 1 


になる。これを今電卓で計算してみると


87,178,291,200


となった。

 870億通りだった。

 レイナさんが言った通り、八百億だ。桁まであっていた。

 僕は電卓を置いて乾いた笑いをさせた。軽井澤さんは未だイビキを続けている。

 計算をしながら、昨日の米田さんの話を整理してみようと思った。つまり、八枚と六枚に分かれるとすると、じつは、パターンが変わるのだ。八枚の方の並びは


8!


になるし、六枚の方の並びは


6!


になるはずだ。計算をしてみると、


8!=40320

6!=720


だから、


8!×6!=2903万通り


となった。

「だいぶ減ったな。」

と、僕は小さく笑った。天文学的数字には変わりはない。一万通りだって無理だ。並べて文字を選ぶ想定がつかない。

 タバコにもう一本火をつける。二千万通りを、並び替えていたら、一年くらい過ぎてしまうだろう。しかしなんだって、こんなめんどくさいやり方をしたのか。葉書一枚に書いて渡せばそれで良いではないか?わざわざ何故、このような悪趣味を行うのだろう?

 僕は守谷の、脅しとも取れる言葉を思い出した。

「お前らは逃げられない」

その言葉は、おそらくこの葉書を見て、何かを読み取ったときに出てきた言葉なのだろう。守谷は明らかに怯えていた。その怯えこそが、この葉書の恐怖を端的に説明していた。実際に左腕を切断された男の顔には、絶望的な恐怖があった。



七十六 施設の窓 (レイナ)



 まだ施設にいた頃、レイナは施設のパソコンを内緒でいじっていた。もともとは、読書コーナーにあったパソコンの本を読んだのが始まりだ。レイナはその本を面白いと思っていた。しかし施設に何台かあったパソコンは、多くの規制でパソコンというより、ただの画面機能だけだった。簡単な日常チェックのテスト以外に何もできなかった。でもレイナは全てのボタンを一つずつ押しながら、パソコンに向かい続けた。ボタンを押すことに楽しい予感があった。大人たちは

「施設内のパソコンはただの更生者向けのページ閲覧の機能しかない」

と考えていたから、しつこくパソコンを見るレイナを咎めたりしなかった。

 ある日職員の人が個人で閲覧したパソコンのログアウトをしないままの時があった。レイナはそのままパソコンを見て驚いた。閲覧規制が解かれたパソコンは、レイナがそれまで見ていたものとはまるで別だったのだ。施設のパソコンは高度に規制されレイナらが見る領域を限定していた。そこには殆どパソコンとは言えない、市役所の掲示板機能程度しかなかった。更生者向けの安全なプログラムだ。

 レイナはその職員のパスワードを拾い、その職員になりすましてパソコンを閲覧するようになった。更生者向けに限られていない一般世界のパソコンは無限だった。レイナは興奮した。職員の目を盗んで殆ど毎日、パソコンの中で自分の世界を広げることを始めたのである。

 節子さんが施設に来たころ、レイナは既にパソコンのバックエンドに入り込んでいた。バックエンドというのは普通の人間がパソコンを開いても見れないファイルやフォルダの集まりだ。写真やファイルと同じ形で、プログラムが並んでいる。画像を写したり、通信を管理したり、検索を動かすプログラムである。知らない人が触ると簡単にパソコンが壊れる場所で、普通は隠しフォルダになって見ることができない。

 大人たちは、レイナがロックされたパソコンをいじってるだけなら問題ないと思っていた。パソコンをしているとあの少女は落ち着いている、というレポートがあったのだ思う。実際、レイナはパソコンに向かっているときにとても静かで問題が一切なかった。もちろん、その頃には自分が閲覧した履歴はしっかり削除するようにしていたので、施設の人が実際に見ても何もわからなかったのだが。

 レイナは大人たちの想像ができないほどパソコンを使いこなしていた。パソコンの中に入りブラウザを構築さえした。本を読めなくてもパソコンの中で記事を探してプログラム言語を学んだ。パソコンはとにかく自分で動かせる。誰にも関わらずに自分で考えてコマンドを作れば勝手に動くのが面白かった。

 ただ、そういうパソコンを楽しむ作業をしながらふと、レイナは自分がどこかで、とある目的を帯びていくことがわかった。

 自分が何故、こんな施設にいるのか?

 自分は何をしたのか。

 自分に何があったのか。

 そのことも、パソコンなら調べられるのではないか?

 実は、自分の名前をいくら検索しても、一切パソコンにでなかった。今思えば、風間や守谷のリサーチをしても全く彼らの情報が出てこないことと似ていた。

 奇妙だとは思っていた。

 何か犯罪でも犯さない限り、こんな施設に入れられるわけがない。子供でも、それくらいは理解ができる。

 そもそも、両親も含め、自分は家族が誰かも知らない。会わせてもらえない。思い出せもしない。

 レイナは自分の過去を幾度となく想像したけども、いつも真っ白で何も出てこない。それでもなんとかして空想に近くなるくらい、過去を想像した。

 何かの犯罪を犯している自分。

 そのせいで少女Aとして、扱われた自分。

 実は世の中では既にたくさんの人が知ってしまっている自分の本当の名前。

 ネットにはその記事がたくさん転がっていて、施設にいる自分だけがそのことを知らない。今もきっとその記事が増幅をし続けている、そんな自分の知らない過去の重大事件。

 しかし、想像に反し、パソコンをいくら検索しても、レイナの記事はなかなか見当たらなかった。自分の名前はいくら検索してもなかった。いくらパソコンで調べても自分がここにきた本当の理由はわからなかった。

 節子さんが施設に初めて来たのは、実はそんな頃だった。



七十七 業務転換 (赤髪女)


「毎日夕方に、ですか。この場所に?」

「……。」

「埋立地ですかね、新木場。駅からは遠い。」

「質問と感想はいらない。」

「…はい。」

「毎日、三万円を、封筒に入れればいい?」

「うむ。」

「お金は?」

「報酬とは別に追加して用意してある。ポストを見ておけ。」

「了解しました。」

「例の綾瀬の人物に電話をすればいいのですか?」

「そうだ。」

「とくに名乗らなくてもいい。名前は尾嵜だ。尾嵜か?とだけ確認すればいい。金を毎日渡すと言えばいい。」

「この人物はいったい。」

「質問はいらない。」

「失礼しました。それと、猫の死体の方、は?」

「猫?」

「風間のほうです。」

「そちらは、なしでいい。」

「ほんとうですか」

「嘘をつく理由はない。」

「探偵の方は。」

「継続だ。基本はそちらを尾行しておけ。情報を拾い続けろ。」

「はい。」

「その合間に、この作業をすればいい。金を届けるだけだからな。簡単なことだろう。」

ヘリウム声の指示者が幾つかの作業の方針を変えたらしい。探偵の情報収集は継続のようだが、新しくまた別の作業を追加するという。赤髪女には内容はどうでもよかった。作業が増えたということは増額した報酬が続くということである。

 追加の内容は、指示者のいう妙な場所に金を届けるというものだった。

 それほど複雑で難しい印象はない。綾瀬のもう一人の人間にGPSを取り付けるという作業に比べれば、よほど楽だ。金を届ける、というのは単純でいい。

 自分がやりやすい単純な仕事がいいのだ。もともと、社長さんの仕事をしてきた八年間は単純だったのだ。届け物が多かった。もしくは何かをゴミ箱に捨てるとか。とにかく誰とも会話せずに成り立っていた。




七十八 いやいや期(レイナ)


「パソコンでなにをしてるの?」

節子さんはレイナにそう訊いた。

「なにもしていない」

「ふうん。ならいいわ。」

あ、と思った。節子さんは、わかっているのかもしれない。

「節子さんは、レイナのことをなにか、知ってるの?」

「個人情報は知らないのよ。」

さらりとかわした節子さんに

「表向きでしょう。周りの噂を聞けばわかるわ」

「おばさんは、噂話とか好きじゃないのよ。」

「あっそう。」

「こうやって、レイナさんと二人で話していることが大切だと思わない?」

今、聞きたいのは、そんなことじゃない。レイナの過去の秘密のことなのに、と思った。そういうふうに、会話の中で思い通りいかなくなるとレイナは、突然何かむしゃくしゃとしてくる。

「節子さんは子供はいるの?」

レイナは節子さんに子供がいないことを知っていた。気分が昂じるとそうやって、節子さんが困る質問をいつも探した。

 今思えば、単純に甘えたい気持ちだったのだと思う。レイナは施設で一人でいて、そういうことを言う相手はこれまで誰もいなかった。だから壁に何かボールでも投げるように言葉を吐いた。

「節子さんは、どうして、子供を?」

どんな質問にも基本的に節子さんは怒ったりはしなかった。

「どうしてだろうね。今日はカレーライスよ。」

「質問に答えて。」

「さあ、普通のカレー。平凡でどこにでもあるカレーだからね。」

いつもの食堂の場所に座る。

「女の人はお腹に子供ができると、どんなのかな?」

頑固なにレイナは、元の会話に固執する。微笑んだ節子さんは、その固執も含めて受け止めている。

「早く食べなさいね。」

レイナはこの施設に来る前の記憶の中に、なぜか、子供を連れている女の人が一番幸せそうだ、と思ったものがある。その場面がどこで、何なのかもわからないけども、子供を抱いている女性の嬉しそうな顔に、幸せな気分を思った記憶があるのだ。実際の場面なのか、写真か何かなのかわからないのだが。

 節子さんには子供がいない、と聞いたとき、何故かその記憶がやってきて意地悪な会話が生まれた。最初は案の定、節子さんの表情はほんの一ミリだけ曇った。質問が節子さんを困らせているのがわかった。

「どうしていないの?」

レイナはしつこかった。節子さんはゆっくりとカレーを配膳しながら

「子供は授かれなかったのよ。」

と自分の言葉で言った。

「……。どうして?」

「そうね。大人は色々だからね。」

「そうなの。」

相手を困らせることで、自分への愛情を確認しようとしていたのだと、今のレイナにはわかる。赤ん坊にはイヤイヤ期というのがあって、そうやって自分への愛情を確認する、らしい。イヤイヤ期は子育ての難所の一つで母親には大変な時期なのだが、子供はその時間を持たずに成長すると、愛情の確認が下手になる、らしい。全てパソコンで調べた内容だった。

「どうしてなの?授からないのは何故?」

レイナはイヤイヤ期という言葉は知っていても、節子さんへのその質問がどう言う刃(やいば)になっているかは知らなかった。

「大人になってね、あなたにも恋人ができたらわかるかもね。でも、ほらカレーライス食べなさい。」

普通の味だけど単純で何も考えなくていい、一番美味しいカレーだ。

「おいしい。」

「そうでしょう。普通のカレーだけどね。そう言ってくれると嬉しいわ」

その頃はレイナにとっては最悪の時期だった。思い出せない過去を調べ続けていた。施設のパソコンのネットで、いわゆる少女Aの犯罪をたくさん集めて、それがもしかしたら自分ではないかと、繰り返し調べていた。少女Aと書かれた自分の写真を探していたのだ。自分は人殺しかもしれないという恐怖がレイナを常に襲っていた。

 少女Aに向けた周辺の言葉は酷かった。死ねとか、消えろは基本語句だった。少女Aはたくさんいた。どの少女Aも人を殺していた。どの少女Aにも同じだった。

 一度パソコンで掲示板を見てしまうと、レイナは胸が苦しくなった。自分の写真や名前はなくとも、気持ちが荒れた。世の中が自分を吐き気の中で見ている。話したこともない人が自分への嫌悪や殺意を持って恐ろしい言葉を繰り返している。もしかすると、この施設はそう言う人と会わなくするための壁なのかもしれない。本当は自分はどの少女Aなのかーーそれを調べ続けている。

 そんな最悪の時期に、節子さんとレイナは出会った。

 節子さんは、他の大人と違った。まるっきり違うのがレイナにはわかった。そんな節子さんという有難い存在に対して、レイナはイヤイヤ期の子供のように、彼女が嫌がることを探していた。

「なんで子供いないの?」

「……。」

「どうして?」

節子さんは笑った。まだまだ心を開いていない時期に、ああいうふうに笑顔を作った節子さんの気持ちが今はわかる。いや、その愛情の深さを思うと、レイナは涙で身体が震えて止まらなくなる。

「なんで、笑ってるの?節子さん。」

「カレーライス。食べてくれてる。喜んで欲しくて、作ったからね。」

「変な質問してるのに?」

「そうね。食べてくれるのが嬉しいことには変わりないわ。」

ふしぎだった。節子さんのご飯を食べていると、いつの間にかこころが落ち着いていく。

 そんな憎まれ口の会話を重ねていた時だったと思う。

 初めて、節子さんは「その言葉」をレイナに言ったのだ。

「あなたには、才能があるのかもしれないわね。」

カレーライスの食堂で、さんざんレイナの妄言を受け止めた後、窓から外を長閑に眺めて、それからレイナの方を真っ直ぐ向き直して、なにか決意した様にしてからだった。ゆっくりと、もう一度、

「才能があるのかもしれないわね。」

その言葉が真っ直ぐ自分の喉元に向かって、胸の辺りに降りて炭酸の泡がしゅわってなるように全身に広がっていくのがわかった。才能がある、という言葉がレイナには他の会話と全く違って聞こえた。

「パソコンは面白い?何をしているのか知らないけど、何だかいい表情をしてると思うの。おばさんは、それが少し嬉しいのよ。なんだか才能なんじゃないかなって。あんなパソコンみたいな箱にじっと向かって、他の人が見てるのも気にしないで没頭できるって、そういう才能があるってことなんだと思うの。少なくともこの節子おばさんにはできないわ。レイナさん。自分の才能を見つけることって難しいことなのよ。人生でいつまで経っても見つけられない人の方が多いんだから。わかりますか?それは幸せなことなのよ。」



七十九 悪夢  (軽井澤新太) 


 わたくしは、夢中で叫んでおりました。

「紗千!」

「……。」

「おまえらやめろ!」

ずいぶんと長い悪夢が、わたくしを襲い続けていました。身体が震え、疲れ果てています。陵辱というものは単純な肉体の地獄ではないのです。時間が継続すれば、

「もう辞めてください。どうか、殺してください」

そう言う言葉さえ出てくるほど、精神のほうから命に限界が始まるのです。

 守谷の場面が、いつのまにか、わたくしと言う親子の悲劇に変換され、まざまざと眼前で続いております。現実のように。ガラス窓のある、和室の中で、わたくしの愛する娘は手足を押さえつけられていて、室内で凌辱されてい、そうして時間が経ち、日々が過ぎます。朝が来て夜が来る、それでも殺人者たちは平然と時間を過ごす。まだ幼い若者で、なにもわからぬ少年たちです。

「紗千!おまえら!やめろ!やめろ!!!やめろ!やめろ!やめろ!!!」

ガラスの外側からわたくしは、鬼神のように目を剥いて叫んでおります。ああ、わたくしは、今にも殺人者になりうる迫力で、娘のために、怒鳴り続けるのです。もう何日も繰り返し、声も枯れております。歌舞伎町でボロ切れのようにされた守谷の何倍もの形で、我が娘が陵辱されていくその悪夢は、どこかで現実ではないのだと、自分で信じているにも関わらず、幻覚の中で声が枯れていく。

 こんな現実があるはずはないと思っていながらも、全てがまるで目の前で起きているとしか思えぬ、色彩で迫るのです。赤い唇。流血する口紅のような血液。目出し帽の少年たちの黒々とした服装と僅かに見える冷たい眼差し。煌々と光る電灯と、わたくしを押さえ付ける背後。掴まれる髪の毛や腕への強すぎる力で、身動きの出来ない虚しさ。

 そのときふと、わたくしに言葉が落ちて参りました。

「被害者は、永遠に被害者のままだ。軽井澤。毎朝、娘を失った苦しみで全ての朝がはじまる、そういう残りの人生を考えたことがあるか?」

「……。」

「お前はそれを絶対に知らなきゃ行けないんだよ。」

「……。」

「人は、忘れることができるさ。みんな忘れる。でもそれは、自分が当事者ではないからだ。

 家族を失った人間は違うんだよ、俺たちは、当事者ではない。だから忘れてしまうんだ。報道だけして視聴率をもらって。立派な金をもらって。優雅な生活をして。被害者を利用して生きている。」

理由はわかりません。わたくしの脳裏に、かつて繰り返し聞かされた言葉が蘇るのです。それらは、このわたくしも幾度も繰り返した、もしくは繰り返し考えたはずの言葉たちでした。それらが竜巻のように旋回し、その和室の窓からの場面に、二重写に重なっていく。

「被害者は、永遠に被害者のままだ。」

「いえ、でも先輩、わたくしにも考えがありまして。今回のことは色々考えた上でのことで。」

「いいか軽井澤。人は、忘れることができる、という奴がいる。それは嘘だ。忘れることができるのは当事者ではないからだ。当事者、つまり被害者であれば、忘れることなどありえない。死んだ家族を忘れる人間がいるか?ましてやそれが、自分の娘だったなどとしたら、どう忘れる?」

それらの言葉は幾度も、まるで忘却への刑罰のようにわたくしを襲い続けました。どこかで忘れることを努力したわたくしを咎める様に、その罰が、まるで自分の娘に落とされたかのような目の前の映像に、わたくしは只々うなだれるばかりなのです。



八十  目覚め (御園生探偵)


 僕が、考え事が終わらずに天井を見た時だった。

 ガタっと音がして、軽井澤さんは、譫(うわごと)言(囈言)を繰り返しながら、突然体を硬直させるようにして、目を覚ました。汗が尋常ではなく酷かった。見たことのない顔色だった。

「だ、大丈夫ですか?」

「ここは…。」

「ここ、ですか?」

「ここは、その、どこで…。」

「事務所です。昨夜皆んなで夜まで考えて、軽井澤さんも僕も寝落ちしまてしまったんです。」

「寝落ち、か。ああ、そうか。」

目を擦りながら、軽井澤さんは脂汗の顔面をタオルを探して拭いた。タオルが重たくなるくらいの汗だった。僕は、嫌な夢でも観たのかと訊こうと思ったが止めた。此方が言葉を止めてしまうくらい軽井澤さんの表情は少し酷かった。

「か、風間からの電話はないですかね?」

まだ、自分が目覚めた現実がわからないと言うふうな表情のまま、軽井澤さんはそう尋ねた。残念ながら、まだ風間からの着信はないと僕は言った。

「机に置いたままだったので。電話は鳴ってないと思います。」

「なるほど。」

軽井澤さんはそう言って念のため、スマホの履歴を見つめた。やはり何もなかった様子だった。

「ありがとうございます。葉書のコピーは、取れてますか?」

「コピー?」

「はい。」

軽井澤さんは目覚めと同時に、焦燥感のある面持ちで、次の手を打たねばならないのだと言う空気だった。

「いかがですか」

「この後コンビニに行こうと思ってます。まずは、写真には収めました。」

「ありがとうございます。」

「……。」

「そうですね。やはり、守谷にまず会いにいきましょう。この葉書の件を話してもらわないと。」

軽井澤さんはやはり、目覚めたと同時に問題に対処したいと言う空気だった。焦燥と疲労困憊が表情に溢れていた。

「すぐに、池尻大橋に向けて出ますか?」

「ええ。あと」

見回したような表情をして、

「車は、歌舞伎町に置いたままですね。」

そうだった。昨日、池尻の駅から新宿に戻ってもよかったのだが、僕があの葉書を見せたから、すぐにでも守谷の葉書を、風間のものと照らし合わせねばならないと事務所にまっすぐ向かったのだ。そのことも忘れていた。コインパーキングが丸一日過ぎる金額を僕は計算した。

「電車で行きましょう。あと、あの人」

「あ、米田さんは昨晩のうちに、帰られました、と思います。」

僕がそう言うと、なるほどと軽井澤さんはおっしゃって、自分のパソコンを閉じた。

 僕は出発の準備をした。あの池尻の不気味な病院に二日も連続で通うのは気が進まなかったが、軽井澤さんも同じ気持ちだったに違いない。

 事務所を出て、コンビニで印刷などをし、西麻布から米軍住宅の横の道を通って乃木坂の駅に向かった。

 それにしても、と僕は思った。

 あそこまでの私刑(リンチ)するのは異常だ。守谷が何かミスをしたから?持ち逃げや使い込みでもしたのか?そういう風には見えない。やはり、あの西馬込の風間正男が逃げ回っていた葉書と同じように、何か許し難い理由を持つ誰かが、もっと壮大な理由で動いているとしか思えない。

 襲撃班はどういう人間なのか?

 とても一人とは思えないから、組織的な背景がない、というのは、考えにくい。でも、何故丁寧にいたぶり続けておいて、殺しはしなかったのか?が気になる。腕を切断するほうが、殺すよりよほど大変なのではないか。殺す、いや消すようなことのほうが楽なはずだ。なぜ、私刑という手順や時間を使ったのか。守谷が拷問を必要とする反社会構成員であるようには見えない。

 軽井澤さんは僕がそんなことをずっと考えている間も無言だった。墓地の横の、アメリカ軍六本木駐屯地のヘリポートの裏から、いつもの真っ赤な米軍ヘリが飛び立つための轟音が響いていた。われわれはヘリの爆音に黙らさせられたかのように地面を無言で駅まで歩き、乃木坂から千代田線に乗った。



八十一 大人たち (レイナ)


 自分が誰かを殺したのかもしれない。

 レイナには予感があった。

 そういう場面に自分がいる想像を繰り返しながら、現実とが混乱して、自分がわからなくなる。

 施設の大人がダメだよって言う場所の先に暗い影があって、そこに何故か人を殺すという言葉がある。その言葉と自分の過去が連結してる。施設の大人の言葉や表情に、幾度も感じてきた闇の部分。大人たちの行動や履歴を集めるとその暗闇の声が聞こえてくるのだ。

(この娘は人を殺すかもしれないから気をつけろーー。)

人を殺した、その罪でこの施設にいるのかもしれない、と思うとき、レイナの心は乱れた。呼吸がおかしかったり、汗がすごく出たりする。そんな筈はないし、そもそも記憶にもないと思いながら、でも、実際に自分には質問して過去を問いただす相手さえいない。いたとしても、怖くてそんなことはできない。

 だからパソコンだったのかも知れない。

 きっとどこかでパソコンで調べることが、レイナには家族の会話の替わりだったのかもしれない。パソコンを開いて画面を見てキーボードを叩いている時間だけは面倒な大人たちがいない場所だったからーー。


 

八十二 老刑事 (銭谷警部補)


 自宅謹慎ともいってもいいような、ほぼ何もしないでいいと言う早乙女捜査一課長の指示がすでにあるのである。つまり本来、少なくとも今日明日はわたしは本庁に行く必要もないのだ。しかし長年繰り返してきた習性で、事件がないと捜査現場ではなく本庁舎の六階の自席へ無意識で向かってしまう。働き蟻がさほど何も考えずに道を行くのと同じかもしれない。職業病というのは不思議なものである。

 自席に着くとメモがあった。


(来客あり、受付まで)


受付に連絡してみると、以前わたしにお世話になって、定年退職をするという老刑事が、ご挨拶に来ているという。メールでもなくずいぶん突然だ。わたしにそんな刑事の知り合いがいたか、幾人かの先輩のことを思い出そうとしたが、心当たりはなかった。

 階下へと降りて人を探すと、その人物は、さも定年退職者だからと言う少し朗らかな風情で警視庁の一階のロビーの入り口から、ニコニコと笑って私に向かって歩いてきた。わたしはなぜか変な違和感を覚えたが、その理由が何かはわからなかった。

「お忙しい中申し訳ございません。」

快活な挨拶をはうらはらに、老人は定年退職をする以上に年齢を感じさせた。刑事は十年老けて見えると言う。名刺は


 A署捜査二課巡査部長

 槇村又兵衛

 

とあった。

「すいません。せっかくご挨拶に来ていただいたのに恐縮ですが、わたしはあなたを知らないとおもいます。」

「そうかもしれませんね。間接的ですから。彼から、よく聞きましたよ。あなたのことは。」

「かれ?」

「お忘れですか?。金石ですよ」

「金石?」

「ええ。わたしの所属してきたA署からこちらの霞が関の本庁に異動になった金石健太警部補です。」

老刑事は小動物のような黒い瞳でそういった

 私は過去の金石とのやりとりの中で、このような老刑事の話があったか、記憶を探った。けれども何も出てこなかった。

「金石ですか。」

「ええ。彼からはあなたのことは聞いてます」

「わたしのことを?」

老刑事は朗らかにわたしを見つめた。



「いやあ、懐かしいですね。」

老刑事は、松本楼のカレーを掬いながら懐かしそうに、金石の新人の頃の話をした。定年退職をする頃に思い出すのは、自分が可愛がった後輩だと言うのは、わたしの腑には落ちたが、何を話せば良いのか判らないでいる自分を悟られぬようにするので精一杯だった。

 松本楼のカレーは相変わらず素晴らしかった。

 明治鹿鳴館時代の風情が残っている。真っ白なテーブルクロスの上で、恐らく安くは無い皿とスプーンでカレーを掬う又兵衛と名乗る老人をわたしは見つめた。

「良いやつでした。突然、何の連絡もなく辞めてしまったのは、後で聞いたんです。こちらでも突然だったでしょう。」

「そうですね。」

何一つどころか、捜査の引き継ぎさえなかった。ただこの老刑事にも同じように、金石が退職をすることを言わなかったと言う事は少しだけ私を楽にした。

「定年退職の挨拶で、せっかくだから金石のゆかりの方に会いたいと思いまして。」

老刑事は、A署の時代に、新人で配属された金石の教育担当だったという。つまり駆け出しの金石を育てたとも言える。所轄時代に、A署にいたことをわたしは金石から、話で聞いたことがない。そういえばお互い仕事の話ばかりして出身地さえ知らなかった。

「金石はああ見えて、繊細ですよ。」

と老刑事は言った。ああ見えて言うのは、彼が二メートル近い巨体の持ち主だ、と言う話の逆算だろう。

「A署だったんですね。」

わたしは、その管轄の金町に今住んでいる、とはいわなかった。

「おや。ご存じなかったのですか。」

「……。」

「とにかく若い頃から面白いやつでしたよ。」

老刑事は、話が好きなのか、賢明に色々な話題を並べた。表層の会話も、ぼんやりとした話題も、それぞれが間合いよく過ぎていった。ただ、あちこちに言葉が流れるけれども結局、金石のほうに会話が戻るのだった。それを二度三度と繰り返した。

「どこへ行ってしまったやら。でも、誰にも何も言わずになんですかねえ」

「各所でも、そうなのですね。」

「ええ。こうやって定年退職の挨拶で、金石にゆかりのある方にお会いしてはおるのですが。連絡取ってるような、ことは聞かないですわな。まったく。捜査二課も、全く。それで、そう言えば一課の銭谷警部補とよく一緒に仕事をしていたはずだ、と聞きましたので。」

「なるほど。」

「辞める直前まで一緒の捜査で組んでいたとか。」

「……。」

ようやく私はある違和感の正体を発見した。つまるところ、明確に自分が壁を作っている理由が自分の腑に落ちたのである。

 もう定年だから、最後に話したいという空気だけだったら、わたしはもっと話したかもしれない。もし定年で思い出話をしたいだけなのであればもっと長閑に、何かの答えを求めたりしないような会話で、会話を進めるはずだ。平凡な思い出を並べて、笑いあえばいい。

 しかし、そうではない。違うのだ。

 この老刑事は、何かを聞き出そうとする意識が奥底にある。もちろん初対面で定年特有の、終了感や、懐かしさを装ってはいるし、うまく隠そうとしてその空気を消し去ろうと笑顔を並べてはいるが、さすがに捜査の最前線を生きてきた私にはそれはごまかせない。

 どこかで会話が、目的会話になっているのだ。

 目的会話、というのはごまかせない。なぜならそれが刑事の本質だからだ。

 何かを聞き出したい。特に金石と私の間に何があったのかを聞き出したいと言う欲望のようなものが漂っている。会話の背後に目的がほんの少しだけ存在するーー。定年退職する刑事にそんなものは普通存在しない。

 わたしは、この又兵衛という刑事に不思議な不安を感じた。定年退職者とは思えない熱を感じる。逆に老刑事の側もわたしにそういう勘繰りがあるのを意識して言葉を選びはじめたようにも感じられた。少しずつ投げ合うキャッチボールに変な力みが生まれていた。そのせいでますます、お互いの言葉は宙に浮いた。たとえば、「槇村又兵衛さん。そうなんですよ。とても大きな事件の捜査を一緒にやったことや、その事件が、ある時に上層部から捜査本部解散を命じられ、その前後に、金石は刑事を辞めたのです。とても不自然な形でした。あと、誰にも言ってはいないのですが、おそらく彼と思われる人間から、不思議なメールが来るのです。これは内容がとにかく不思議でして。でもそれは金石が警視庁のメールに自分の存在が知れるのをリスクと思っているからかもしれないですね。誰だかわからない、内容も意味不明にしているとか。どうなんだろう。」というような、そういうざっくばらんな説明は、わたしの声に出ることはなかった。

 老刑事も、しばらくするうちに、同じようにわたしを見ていたのがわかった。定年退職して人生を諦めた眼差しで話す老人を演じていながら、用意してきた目的の会話が成立しないことにだんだんと不快感を感じ出してその不快感を表沙汰にしないように勤めている様子があった。もっともそれも普通の人間なら気がつかないことであろう。刑事の仕事のせいで人間の言葉の背後を考え過ぎてしまう。

 やがて、老刑事は少し諦めをしたかのような間合いで

「お会いできてよかったです。」

と言った。わたしには、それが一回諦めるしかないですね、という意味合いに聞こえた。

 ただ、意外なこともあった。

 老刑事は言葉や目的を隠している割には、その純粋で黒黒としたつぶらな瞳は、まるで正直者の風情なのだ。そういう正直さは、刑事の仕事の中で少しずつ押しつぶされていくのだけども、それが貴重に残っている。春が訪れた後の山肌で白く光る頑固で透き通った残雪のように、誰もが失った冬を忘れることなく抱いている、そんな印象があった。

 かくいうわたしも、何も答えなかったから何もバレなかったと言うわけではない。何も答えないが故に私が金石の事について何かの感傷や、不納得や、寂しさがあることを、おそらく老練な老刑事は見抜いただろう。あの六本木事件で金石とわたしは組み、まさにその最中に失踪したのだ。わたしが、何かしらの過去に拘泥していることは、老刑事には伝わった筈だ。

 老刑事は、カレーを食べコーヒーを飲み終わると、日比谷公園の森の中に消えていった。どことなくそのゆっくりと歩いて去っていく姿が金石に似ているような気がした、と言えば、それはきっと私のトラウマの問題であろう。実際には姿形は少しも似ていない。

 


八十三 蛻の殻 (御園生探偵)


 軽井澤さんと僕は、焦燥感にかられながら田園都市線池尻大橋の駅を出た。病院まで何か悪い予感がして、ずっと小走りのままだった。

 予感は当たった。

 池尻病院は午前早朝のこの時間も警備(セキュリティ)などなく、昨夜の守谷の部屋へは誰でも出入り可能だった。

 部屋に入ったところで、軽井澤さんと僕は息をのんだ。

「ずいぶん早い脱出ですね。」

 部屋には誰もいなかった。

 ある意味、どこか心の中で予想をしていたけれども、言葉に出せないでいた展開だった。

「携帯を鳴らしてみますか。」

「そうですね。ただ、覚悟して逃げたはずですからまあ、厳しいでしょうね。」

僕は自分の携帯を取り出し、メモをした守谷の番号を鳴らした。もぬけのから、となった室内で寂しく僕の呼び出し音だけが続いた。鳴るけれども出ない。軽井澤さんと僕の間に、策尽き果てた空気が漂った。

「困りましたね。」

「とりあえず、昨日拝借したこちらだけ、病院に預ける形で返しておきましょうか。コピーは取ってあります。」

僕はそう言って、十四枚の葉書の原本を鞄の中で指さした。

「そうですね。何か変な嫌疑をかけられても困りますからね。彼がタクシーにでも忘れていたという、説明にでもしておきましょう。」

我々が、小声でいくつかの会話をしているのがようやく気になったのか、廊下を歩いてきた四十過ぎの看護婦がこちらを少しだけ気にしたので、

「すいません。我々、昨日の守谷さんの知り合いのものですが。おそらくこの病院でしばしばお世話になっている守谷さんだとおもいます。」

そう言って、軽井澤さんと用意した作り話のままにその葉書を返した。彼女は事務的でほとんど愛想はなかった。

「ちなみに、守谷さんはどこに行ったんですかね?かなり怪我をしていた筈で、安静にしなければだし、薬も必要だと思うんですが。」

歩いて立ち去ろうとする看護師の背中に僕は話しかけた。

「あ、わたし当直でなく存じ上げません。」

勝手に入る客がいるのと同じく、勝手に帰るものまで管理できないと言う言い方だった。野戦病院か、住所不定者の集う公園か何かのような仕組みなのだろうか。

「守谷さんは良く来ますかね?」

「え?」

「昨日の怪我の。」

「守谷?ああ。昨日怪我でいらしたのですよね。そうですね。ご自分の怪我でいらっしゃるのは珍しいかもしれません。」

「じぶんの?」

「ええ。」

「どう言う意味ですか?」

すると看護婦は、あ、という間合いで、話し過ぎたことに後悔する様子で

「お二人は、守谷さんの、落とし物のお届けということで良いですよね?」

愛想のない彼女は、次があるから忙しいと言う風情を出した。

「あの部屋は何か事情があるんですか?」

「何もないです。なにも。ただの病室ですよ。」

看護婦は、淡々と冷たかった。もしくは、警察やそういう存在に失言のないように指導が入っているような空気だった。いずれにせよよく管理された態度がそこにあった。

 彼女にまるで無視されたので、我々は守谷のいた部屋に戻った。他に行く場所もないのである。まだ早い午前の光が窓から差し込んで、無人の病室は見方によっては少し幻想的にカーテンを揺らしていた。

 守谷が横たわっていたベッドは何事もなかったかのように、形だけ整えられている。

「守谷は、この病院とどういう関係なのですかね?」

普通、あのような怪しい人間を、待合でも救急車でもなく顔確認だけで受け入れるものだろうか。ぼくは、ご自分の怪我では初めてです、と言った看護婦の言葉が気になった。

「少し、特殊な空気のある病院のようですね。」

「そうですね。」

池尻、三軒茶屋という都会の一等地にありながら、多くの病院と違い、古びて暗い。ピンク色が燻んだような、暗鬱な全体の印象とどことなく湿った臭いが、その時の僕の心理に似つかわしかった。

 朝からずっと青い顔色をしている軽井澤さんは、壁近くの丸椅子に腰だけ下ろしてしばらく茫然としていた。二人とも電池が切れたように動きが止まって、言葉もなくしていた。鬱然とした現実が、有無を言わさずに連続し、解決のない方角へ分散していく。人間はこう言う時に、会話が止まるものなのだろう。

 ふと、その時だった

「あれ」

と、軽井澤さんがつぶやいた。そのまま丸椅子から降り、リノリウムの床に四つん這いになった。ベッドの横に落ちた丸めた紙のゴミを見つけて、拾い上げて、少しずつ指で広げている。

「昨夜こんなものありましたかね。」

「なんですか、それは?」

握りつぶされた紙を広げていくと、なんてことはない、コンビニエンスストアのレシートである。よく見るとその裏に走り書きがあるが、ほとんど文字には見えず、読むこともできない。

「守谷の、文字ですかね。」

「どうですかね。」

僕は軽薄な対応をした。と言うよりも、疲れ果てた軽井澤さんが、神経質に紙のゴミまで自意識過剰に見つめ出したと感じてしまった。

「文字のような気もしますが、どうだろう。守谷の来る前からあったゴミのような気もしますね。」

「そうですかね。」

軽井澤さんは、じっと殴り書きを見ていた。朝よりも更に顔色が悪い。

「少し、軽井澤さん、休んだ方が良いかもですよ。事務所で寝落ちでは免疫も下がるし、疲れも取れないですよ。」

「そうかもしれませんが、しかしご迷惑をおかけしていますし。」

軽井澤さんは、また一連を詫びるようにした。

「迷惑なんてかけて無いです。」

そう言った僕の言葉の後、少し沈黙があった。迷惑をかけた起因は僕の方にある。繰り返しだが、Googleの広告で安易に事業拡大を試みたのは僕だ。守谷も風間もその広告に誘われて電話をしてきた可能性が高いと思っている。彼らはGoogleからすると同じ問題のタグを抱える因子(ユーザー)なのだ。

 僕が言葉を少し待つと、軽井澤さんは青ざめた表情でしかし誠実に僕の目を見て

「そうですね。一回お互いに休みましょうか。御園生くんまで免疫が下がると良くない。」

と、言った。

 その後、二人で幾つか気になる点を話した。軽井澤さんは会話の間も青ざめた顔のまま、すぐそこに倒れ込んでしまいそうだった。

 病院を出て、僕はタクシーに無理に軽井澤さんを乗せた。

 それから、ひとりで池尻大橋の駅へ急いだ。

 新宿まで電車で戻り、マツダのキャロルの延長代金を処理しなければと思った。



八十四 渋谷  (レイナ)


 レイナは節子さんと再度外出をした。

 電車とバスを乗り継いだのを覚えている。山沿いにある施設からバスで近くの街に出て、それから電車随分長く乗った。どんどん人が増えて、そうして、

「ここは渋谷って言うの。」

手を握ったまま節子さんが言った。別に、渋谷という街に何も感じなかった。人がたくさんいることとか、建物が空に向かって争うように生えていたり、地下鉄という電車が空中を走ったりしていた。暑い夏の日だった。

 節子さんの手を握っている時、ふと違和感があった。

 そう。

 ある存在が来る時に、何か微妙ですごく少ない電子が節子さんの手のひらに生まれている感覚とでも言おうか。最初それがわからなかった。でも何かの電気が走る。少しして気がついた。

 母と子供だった。

 母親と子供が一緒に近づくと、節子さんの手のひらに力が入るのだ。


(節子さんはなんで子供がいないの?)


 レイナは、その言葉を残酷に何度も投げたのを思い出した。節子さんに走る、微細な電子がある。ああ、自分はひどい質問をしていたのだと思った。その電子が節子さんにとって何かの苦しみなのだとしたら、自分は最悪だと感じた。

 同時にレイナにまた別の感覚がきた。

 同じように母親が子供を抱いて歩く姿を見た時に、自分にも何かの電気信号が来る。節子さんのものよりずっと暗く重底な憂鬱さだ。最初はそれが何かわからなかった。熱や発汗があった。強い耳鳴りもきた。母親が子供を連れている場面が、なぜか、風景の中でねじれる。歪んでいく。

 原因が分かった。

 それは、母親側が子供を見つめている瞳だった。母が子供を見つめるその瞳を見てしまうと、何かおかしくなる。

 レイナは、急に歩けなくなった。

 どうしたの、とも言わずに、節子さんは、ゆっくりとレイナの横に一緒に座ってくれた。何か同じ恐怖を、母親と子供の一対があるたびに自分達は共有している。いや同じではないけども偶然波長の合う恐怖を共有している。

「こういう街は、初めてだからね。ゆっくりと、慣れていけばいい」

びっしょり汗をかいたレイナを節子さんは、無言で強く抱いてくれた。手を握って、束の間も離さない抱擁の強さがレイナには救いだった。

 その日はそのまま何もしないで真っ直ぐ施設に帰った。

 その夜もカレーライスを食べた。

 節子さんは晩まで一緒にいてくれた。

「節子さんはどう思う?」

「どう思う?」

「レイナのことをどう思っている?」

「どう思うって、こうやって毎週会いにきてるわ」

「でも」

 節子さんとの会話で、話さないことに決めている場所がある。

 なぜ自分には親が会いに来ないのか。

 そもそも親がなぜいないのか。

 家族がいないまま、一人で暮らすのは、なぜか。

 そういうことは、いつの日にか節子さんとゆっくりと大人のように話してみたいなと思った。レイナが自分の過去かもしれない事が書かれたインターネットのページを眺めても気にもしなくなった未来に、どうでもいいお菓子とかでお茶をしながら、ゆっくりと。





八十五 自問自答 (守谷保) 




殺順

逃亡者殺ス

傍観者殺ス

仲間ヲ私刑許ス

仲間ヲ殺ス許ス



 一体誰だ?

 自分に問いかける。

 一体誰だ。

 こんなことをするのは。

 思い出したくない。

 強くそう思う。


 自分たち四人は過去に罪を犯した。

 随分有名な犯罪だったはずだ。

 俺は思い出したくないのだ。

 その言葉さえ。

 そもそも違う。

 そもそも違うのだ。

 四人が犯罪者としてまとめられたが。

 四人で、一緒に殺すことなどできない。

 全員が平等などない。

 四人には濃淡がある。

 一番罪深いやつと、そうでない自分とは違う。

 それなのに世の中は「一緒」にしやがった。

 俺は、巻き込まれたんだ。

 まだ若かった。

 未成年で何も知らなかった。

 未成年は捕まらないと言う話だった、じゃないか?

 みんなそう話していたじゃないか。

 未成年は捕まらないんだって。

 すぐに少年院からも出れるんだって。

 だから。

 だから、やったんだ。

 勇気がある奴が勝ちだって。

 言ってたじゃないか。

 勇気があれば、上に立てるし、女も得られるって。

 薬やるでもなんでも勇気がある奴が勝ちだって話だったじゃないか。

 犯罪を犯すのも勇気があるかだって。

 そういう勝負だったはずだ。

 そう言う肝試しだった。

 俺は勇気を出しただけだ。

 他の奴らよりもーー。

 あの部屋に行った。

 俺は巻き込まれただけだ。

 さらに言えば、それも受け止めた。

 少なくとも俺は、刑期を終えた。

 なんなんだ。

 このハガキは。

 俺は違う。

 俺が違うって何故わからない?

 俺は残りのほかの三人と、違ってる。

 高校だって辞めていなかった。勉強もそこまで嫌いじゃなかった。

 巻き込まれただけだ。あいつらが誘っていなければ。誘惑さえなければ。人生がここまでにならなかった。

 目を閉じる。

 瞼の、筋肉を使うと顔面に痛みが走る。左腕の縫い代が、痛い。ホチキスで閉じた場所が。切断された骨が。


傍観者殺スー。


 その言葉の通り。

 アスファルトの言葉の通りになったということか。いや、殺さなかった。つまり


仲間ヲ私刑許ス


 ということなのか。

 俺を恨むなんて間違っている。

 葉書が来た。

 二十年ぶりに葉書が来たのを俺は放置した。俺は傍観者か、逃亡者と思われてもおかしくなかっただろう。

 そうして、昨日の夕方から俺は半殺しにされた。

 合計五人か、はいるであろう、手足押さえつける男たちに、代わる代わる犯され、肌を焼かれ、そして殴られた。このまま続ければ殺されると言う程に。彼らはプロだ。金でなんでもするやつらだ。作業を言われた通り遂行した。


仲間ヲ殺ス許ス


 このままそうなるということか。俺に腕まで切断される私刑を行い、それでもだめなら、次は誰かを殺すと言うことか。しかしーー。

 しかしーー。

 俺にはそれが恐怖の中心ではなかった。


 俺はただ私刑されたのではない。

 私刑の中に工夫があった。

 俺に何かを教えようとしてくるのだ。

 その教えようとする場面を俺は知っている。

 記憶から消してきたその光景を、俺は知っている。

 執拗に教えようとする。

 まるでこの俺の忘れたいものごとを見定めて繰り返させている。

 そういう執拗さだ。

 私刑の間、ずっと。

 煙草の火のこと。

 床に擦り付けること。

 そのほか全てに類似がある。

 手順に暗示がある。

 消した記憶の方角へ私刑の内容が向かう。

 順番も手順も同じだ!

 俺は、強姦された。

 不気味な奴らに。

 殴りつけられながら、手足を抑えられ口を塞がれ。何度も何度も。

 殺されそうな恐怖の中で、棍棒で殴られながら、繰り返される。

 何度も殴られ、タバコの火で焼かれた。

 身動きは取れない。

 奴らは一晩中それを繰り返した。


(お前がやったことだ)


 その男たちがそう言った気がした。

 ゾッとする声で。

 その言葉を聞いたとき、自分は終いには殺されるのだと思った。

 そういう恨みを晴らすための命令をうけ、こいつらは歌舞伎町にきたのだ。 

 確実に、だれかの命令を受けて。

 明確な指示を受けて。

 もう、三十年も過ぎたはずだ。

 それを忘れることを許さないと。

 この俺にそう言う恐怖を再度認識させよと。

 人間が死んだと言う現実を、どうやって死ぬのかを厳密に忠実に再現させよと。

 そうして、そのまま、死ぬまで続けると思わせろと。

 できれば、本当に殺してしまってもいいのだと。


 違う。

 違うんだ。

 俺じゃないんだ。

 あんたは、恨むやつを間違えている。

 自分なら、あのような、行き当たり放題の失敗をしなかったんだ。

 彼女を死なせてしまう必要など、全くなかった。

 馬鹿だ。

 あのときの、どいつもこいつもが、馬鹿だった。

 周りにいた大人たちも同じくらい、馬鹿だった。


殺順

逃亡者殺ス

傍観者殺ス

仲間ヲ私刑許ス

仲間ヲ殺ス許ス



 そもそも仲間なんかじゃない。

 世の中のどれくらいが中学高校の不良仲間とつるんでいる?

 仲間なんかじゃない。 

 偶然居合わせただけだ。

 よくわかんなかったんだ。

 その中でもがいていただけだ。

 誰かの上に立とうとしてただけだ。

 三十年前、俺にはなんもなかった。

 二十年前、俺は全てを失っていた。

 そしてハガキが俺を追いかけてきた。

 でもあの時のハガキで、ひとり死んだはずだ。

 バラバラ死体になって腕だけ見つかって。

 あのときはそれで、済んだはずだ。

 どうしてそれなのに、また今回も、同じことをするのか。

 今回俺は腕を切断された。

 二十年前と同じように。

 三十年前の罪のためにーー。


 今回は俺が殺されるということなのか?




八十六 覚醒光景(赤髪女)


 田園のような風景の先に、地平線とも水平線とも思える光景がある。子供の頃の自分がいる、と赤髪女は思った。お父さんとお母さんを両手にして左手に母親、右手に父親。たまにジャンプすると両親二人の間で身体が浮いた。にっこりと笑うお母さん。時々話しかけてくるお父さん。

「真美子は大人になったら何になりたい? 」

「恐竜のぬいぐるみになりたい。」

「ぬいぐるみに?ほかには?」

「じゃあ、塗り絵になりたい。」

「塗り絵?おもしろいね。」

「トマトになりたい。」

「大丈夫。なんにでもなれるよ。」

絵本が好きだった。絵本の色彩が好きだった。書いてある文字よりも文字の書いてない場所の色ばかり見て、色を覚えていた。一度、トマトの色を赤って当てた時、お父さんがすごく驚いて、喜んだのだ。そうしてトマトの帽子を買ってくれた。それ以来、絵本を読むと何かを言って、驚かせないといけないと思って、だから一生懸命、絵本を読んだ。

 好きなものはたくさんあった。でも全て、お父さんとお母さんを驚かせたかった。自分を見て欲しいのが理由だった。興味を持って欲しかったから何かを好きになったり、得意になりたかったのだと思う。興味を持ってもらえるように、少し違和感のある言葉を言い出す子供だったのだと思う。お父さんとお母さんが一緒に楽しそうに笑ってくれるのが一番の目的だった。

 田んぼの上を滑っていく。田舎の道を大好きなお父さんとお母さんの間で両手でブランコになって歩けたらどんなに幸せだっただろう。お父さんとお母さんが喧嘩をするせいで、家は少しずつ変わっていった。心が落ち着かない場所になっていた。いつも泣いてばかりの自分がいるのに気づいた。でも泣きたいのはお父さんとお母さんも一緒だったと思う。

 自分がちゃんとしていないから、お父さんとお母さんは喧嘩するのだ、と思った。小学校時代はずっとそうだった。お父さんはたまにしか帰ってこなくなった。たまに帰ってくるとお母さんと喧嘩をした。

 中学一年生で東京の渋谷に初めて来た時、赤髪女は社長さんの事務所に声をかけられた。

 東京で新しく好きなものができたと言うのは、お父さんとお母さんに対する最後の主張だったのかもしれない。自分が頑張るから、仲直りをして、また、田んぼの道を一緒に歩こうよって。

 実際に、アイドルデビューしてから、少しそれは叶ったかもしれない。

 お父さんとお母さんは、一緒に見にきてくれた。

 少し、人気が出始めると、応援をする側になった。

 赤髪女は自分が何かを好きになり、夢中になり絵本を諳んじるように、お歌と踊りを頑張った。そうすることで、お父さんと、お母さんがまた昔みたいに仲良く自分の両手を握ってくれると思った。

 でも、そんな時間は続かなかった。

 アイドルの仕事は全く好きになれなかった。元々少しも興味もないくらい歌も踊りも、全てが苦痛だった。ただ、真美子は、お父さんとお母さんを取り戻したい気持ちだけで生きていた。

 中学二年三年となり、何をやっても、お父さんと、お母さんは、離れ離れになっていくのがわかった。大人の世界に自分ではかなわない事情があるのだと分かった。もっと嫌だったのは、赤髪女が、アイドルになって、お金を稼ぐかもしれないっていうことだけでお父さんとお母さんが繋がっていることが、子供ながらに理解ができた。真美子は、知ってしまった。その証拠に、東京に来ても、お父さんとお母さんは、一緒に会いにはこなかった。食事だって、一緒にしなかった。お昼はお母さん、夜はお父さんみたいに、別々だった。

 社長さんは、いつも言っていた。

「無理しないでいいんだよ。お父さんとお母さんに相談して、駄目だったら、社長さんのとこにおいで」

 アイドルは歌も踊りも嫌だった。

 でもどこかで、頑張っていれば、また、田んぼの夕焼けに向かって、左手にお母さん右手にお父さんでぶら下がって、空中をブランコにして滑っていくのだと思った。お父さんお母さん、真美子は東京で成功するよ。頑張っているよ。

 夢で見た夕焼けは美しかった。

 青空の下の方で、まるで世界の最終章のような雄大な赤だった。



 図X  挿絵  名もない少女の絵(トマトの帽子)



八十七 事務所 (軽井澤新太)



 池尻の病院を出た通りで、タクシーに乗ると

「麻布の四ノ橋までお願いします」

とだけ告げて目を閉じました。御園生くんと別れると、少しは張り詰めていたものが解かれ、身体が鉛のように沈みました。

 疲れが、悪い夢を見させると言います。わたくしは朝からずっと異常でした。乃木坂から表参道で乗り換えて田園都市線に向かう時も、池尻大橋の駅を降りてあの不気味な病院に再び向かう時も、もっと言えば守谷が去り、蛻の殻になった後の病室でも、わたくしはずっと目の前の現実ではない非現実のことに犯されていました。

 あろうことか娘の紗千と、守谷のような種類の人間が自分の脳内で繋がったことだけで足も竦み鳥肌が腕から背中へと広がります。体全部がブツブツと蕁麻疹になっていく気がいたします。

 わたくしはタクシーの座席に身を委ねると、自らの脳髄と戦うように唸りました。何か考え事をする度に、何らかの苦しい光景がわたくしの脳裏をよぎります。何を見ても何かを、と言うヘミングウェイの死の言葉のような神経痛が脳を起点として全身を廃黒く覆うのです。緊張をするな、と言えば、ますます手が震えるような、酒を飲むなといえばますます飲みたくなるような、反作用的な何かで、わたくしの心がそれを見たくないと申せば申すほど、あの不思議な一室に、娘の紗千が閉じ込められる場面が脳に来襲するのです。

 自意識過剰だと、お叱りを受けても仕方がありませぬ。元より、わたくしの子煩悩は少し強すぎてございます。その事は認めましょう。しかし、たとえば、この悪夢が、朝の夢の一回なら、まだ何とかして、忘れられたかもしれません。

 紗千を襲うその光景は目が覚めた後の現実でも衰えることなく繰り返されるのです。眠りから覚めても未だ悪夢が続くのでございます。

 その場面−−−守谷が犯されたあの一室が、我が娘の私刑に変換する不気味な光景−−−が脳に参ります。脳を犯すと言っていい、脳味噌に蛆虫が湧くがごとくに生じるのです。もはやその蛆虫は、眠っているわたくしだけではなく、ただ、歩いたり電車に乗っていたり、考え事をしたりしている場面にまで押し寄せます。

 もちろん幾度も、わたくしは自らの意思でとにかくそれらを振り払おうとします。別のことを考えたり、電車の走る窓の外を眺めたり、歩きながら空を見たり、ただ純粋に「考えるな」と念じ続けてみたりするのですが、一向に収まる気配がございません。

 思うことがあります。

 そもそもなぜ、私にこのような悪夢がやってくるのでしょうか?一体何が起因してこのような心象が脳に生じるのでしょうか?何かの理由もなしにこんな事が起こるとは思えません。そのとき、わたくしは、自分の過去の精神領域の中にある、とある空白のこと、その存在を実は知っている自分を、見つめざるを得ないのです。誰かから見ればちっぽけな一部分かも知れません。しかし、そのわたくしの過去の精神領域の中にあるちっぽけな場所は、間違いなくわたくしには重大で切実な場所なのです。目に見えぬ微妙な引力がゆっくりと私をそちらにもっていく。そうして、わたくしの過去がわたくしの胸ぐらを掴むのです。。

「すいません。やはり西麻布で停めていただけますか。」

四ノ橋と告げたにも関わらずわたくしは少しだけ事務所に寄りたくなりました。運転手に行き先の変更を詫びながら、タクシーを降り青山墓地の方へと歩きました。

 事務所に着くと、壁には、昨夜のまま、風間の葉書と、守谷の葉書の複写が掲げてありました。


O C C N E E T R 八月六日消印

A A U W K S   八月九日消印


この葉書がきっかけであることは間違いがございません。この葉書が二人の人間を探偵事務所に連絡させた。そうして、わたくしは悪夢に襲われ始めたのです。

 今日、池尻で守谷に会い、強引な手法を取ってでも、この葉書の意味を説明させるつもりで御座いました。いや、風間に対しても、そのつもりでした。しかし風間も守谷も音信不通となりました。。

 わたくしが甘かったのです。

 まさかあのズタボロの身体で守谷が居なくなるなど想像出来なかったのですから。

 もっと言えば、最初から歌舞伎町になど行くのも辞めておくべきでしたし、どこかで探偵気分、興味本位の取材気分を出してしまったのも、恥じるべきことだと、今更ながら猛省せざるをえないのでございます。

 わたくしは昨日米田さんが開けておいたばかりのウィスキーを少しコップに注ぎました。少しだけ心をおちつけ直し、ノートを開き少しメモを取り考えていることの整理を試みました。そもそも自分の中でも腑に落ちないことを文字にしてみました。


一。風間と守谷は何故、同じ葉書を持っているのか。


二。葉書の文字列は何を意味するのか。風間の「葉書を見れば分かる」という、態度の理由は何か?なぜ直接の説明を嫌がるのか?


三。守谷のベッドの下に落ちていた、レシートの落書きは、文字列なのだろうか。


 まず一つ目です。

 何故、風間と守谷という、奇妙な葉書を背負った二人が、わたくしの事務所の電話を三日と開けずに鳴らしたのか?という点です。この点を少し調べようと思い、パソコンを開きました。御園生くんと相談して始めたGoogleの広告というのをとにかく調べていきました。Googleと言うのはWEBの会社らしく、昔の日本の家電メーカーのような紙の説明書は一切ございません。その代わりに、説明はWEBに全て並んでいます。それらをただ永遠と辿り続けます。

 御園生くんの説明では、Googleのアルゴリズムは人間を細かく特徴分けをして、似ている環境にいる人間が、似たものを購入したり、行動選択することを紐づけて、他社を圧倒しているとのことです。その人物が、どういう過去があり、何を検索し、どこに訪れ、どういう性格か、などを全て監視しながら分析分類しているというのです。風間と守谷は、見た目、年齢、そして葉書の関連など、ある一定の共通点を持っているのは確かだと感じます。もしかすると、この二人がGoogleのなんらかの作用によって、同一の探偵事務所のホームページに辿り着いたというのは、さすがに極論でしょうか。

 いずれにせよ、まだ整理ができないひとつめはこのことです。風間と、守谷がなぜ、軽井澤探偵社を選んだのかという点です。

 わたくしはウィスキーをゆっくりと煽りました。


 二つ目は、そもそもなぜ、葉書が送られてきたのか、ということと、その葉書に対する、風間や守谷の違和感のある態度です。

 風間は西馬込でのわたくしと初対面の当初から、

「葉書を見ればわかる。」

この言葉を繰り返しております。謎めいた葉書のもつ恐怖や意味をわたくしや御園生はきっと知っているはずだ。見ればわかるはずだ。だから、出し主を調べることができるだろう、と。思えば随分な決めつけ方でした。逆に言えば、風間は葉書が何を意味しているのかは当然わかっているにも関わらず、その内容を話したがらないのです。つまり我々には見えず、風間には一目瞭然の何かが葉書にはある、ともいえます。

 守谷については、葉書の会話はなかったものの、私刑を受け身一つで逃げるボストンバックにわざわざ十四枚の葉書を入れていました。片腕を失い、着のみ着のままであの部屋を出たその貴重な荷物の中にその葉書は入っていました。

 彼らはなにものかに怯えています。しかし共通しているのは、恐怖はまざまざと伝わっていながら、肝心の「葉書を出した人間」を二人とも判らないということなのです。この事実そのものが奇妙なのですが、そしてその奇妙な事実を前提にして

「見ればわかるだろう。」

と、風間は言うのです。その上、

「どうか調べてほしい。」

と、言ってくる。なぜ直球には言わず、

「見て考えればわかる筈だ。」

と決めつけて、こちらの理解に預けるのでしょう?葉書の出し主を調べたいなら早々にその周辺を語り、不明点を明らかにすべきです。それなのに、わたくしの前では、一切その話題には触れないでくれ、過去には触れてほしくない、とでもいうべき態度なのです。

 わたくしの、単純な想像に戻ります。

 守谷が、風間と同じ葉書を持っていたことに対しては、一つの納得がありました。じつは、初対面で彼らの顔面を見た時から、わたくしは実は彼ら二人に、なんとも言い難い人間の類似を感じておりました。風間に西馬込のアパートで会った時に感じた不快感を守谷に感じました。守谷の逐一見せる神経質で不快な行動の随所に風間のことを感じました。彼らはどこか同じ場所からやってきた空気があるのです。それは異臭ともいえます。つうんと、臭うのです。そしてその異臭を、敢えて言えば「葉書」が繋いでいるようにも思うのです。

 ここで、仮に、風間と守谷が何か「同じ境遇」にあったと仮定致します。そうするともう一つの条件が来ます。それは、葉書を送付する人間もそこに関係していたという推察です。

 彼らの人生のどの時代のことかはわかりません。

 ただ、わたくしの想像では、この恨みは少し時間をかけて生じたものに思われます。風間も守谷も、もう歳をとっています。たとえば、昨日今日の恨み言では、あのような「葉書」を執拗に書いたりしないーーただ、単刀直入に襲撃するものだと感じます。やはり直近の恨みではなく、彼らが少し昔に犯した過去の罪などに起因すると感じるのです。

 遠い昔に恨みの原因があり、その原因の場に葉書を書いた人間もいた。いつのことかわかりませんが、十年や二十年も忘れることのない恨み、そのような深い恨みでもなければアノような手書きの葉書が二十八枚も送られないと思うのです。加えて、守谷の関わった私刑や、ひたすら猫の死体を送られる風間のようなことは生じないと思うのです。

 それではどういう過去がそれを発生させうるのか?

 例えば、想像的な整理として、「過去のいじめ問題」のような場合があります。学校が同じで、その人間から生涯恨まれるケースです。もしくは同じ会社での職場での恨みなどもあり得ます。また(少し趣は変わりますが)さらにあるのが、過去の犯罪を一緒にした場合です。例えば、一緒に詐欺を働いたり、犯罪を犯したりした。その犯罪の際に、何かの「恨むべき因縁」が起きたとすれば、復讐によって葉書が送られていると言う整理が腑に落ちます。また、警察に行かないという彼らに共通した態度も、その場合当然となるでしょう。

 そういう犯罪の過去の周辺には

「彼らにしか判らぬ過去の秘密の暗号」

が、あるのかもしれません。それを見て、風間と守谷の二人はすぐに理解する。更には、二人は恐怖する。恐怖した二人は逃げ回る。そして我々にはそれが理解できないーー。

 もし過去に「殺したいくらいの恨み」があるのであれば、この構造はありえるものとも思います。構造とはつまり、手書きの暗号を記載した葉書で脅し、陰湿に二人を脅迫し、何らかの復讐を実行し続けるということです。

 葉書の送付者の意識が尋常ではないことは想像できます。昨日今日の安易な復讐で、こうやって二十八枚も送付したのでしょうか?全て宛先も手書きなのです。やはりこの葉書には風間や守谷にはすぐにわかる「かつての同郷では当然理解できる」符丁があり、それを見る中で恐怖が醸造し、実際に猫だの私刑だのが始まる説明があるのだとおもうのです。

 そうやってわたくしは、妄想を続けながらある壁に打ち当たりますーー。

 実は、この「風間守谷の身内、同郷の暗号説」は成り立たないのです。

 その矛盾は微妙なので、気が付かずに過ぎておりました。いまこうやって紙に書いて整理すると、わたくしもはっきりと理解できます。つまりーー成立をさせなくさせるのは、


「見れば分かる」


と言う風間の言葉です。

 この言葉は少し注意が必要でした。

 なぜなら外部者のわたくしは、その当事者たちの身内の詐欺や犯罪をわかる訳がない、つまり、

「見ればわかる」

わけはないのです。

 たとえば、彼ら小中学校の秘密基地での出来事や、身内との内緒の犯罪をわたくしが知る訳がございません。それは厳然たる事実です。風間がどんなに間抜けだとしても、小学校での秘密の事件を「小学校で関係のない探偵のわたくしが」見ればわかる、とは言いますまい。例えば二十代で犯した犯罪仲間の喧嘩や遺恨を「二十代に出会っていないわたくし」に見ればわかる」とも言いますまい。

 しかし風間は言ったのです。


「葉書の恐ろしさは、見れば分かるからその話題は遠慮する」

「説明はいらないだろう?見ればわかるのだから。」

「その上で、葉書を出してる人間が誰かだけを知りたい」


という言葉たちで、居直り続けたのです。少なくとも、


O C C N E E T R  六日消印

A A U W K S   九日消印


の組み合わせを、眺めれば、誰にでも判ると風間は考えているのです。このことは彼本人も意図していないぐらい「自然に」なされた会話で御座いますが故に、むしろ逆に暗然と、そこにある真実を語っているようにも思われます。

 この点が、まだまとまっていないことの二つ目になります。


 さらに、三つ目です。

 それは、守谷があの病院に残したかも知れないコンビニのレシートメモ−−−御園生くんの指摘の通り、メモとは言い難い走り書き以下のものでございます。わたくしはそれをゆっくりとまた、目の前に拡げました。

 紙切れは、守谷の病室に落ちていたものです。誰が見ても役に立つメモだとは思えないような、文字と言うよりボールペンの試し書きとでもした方が適切な代物で御座いましょう。こんな走り書きまで材料にすことに、御園生君は少し否定的でした。わたくしが疲れ意識の過剰になっているから、体を休めてほしいという気持ちもあったと思います。

 しかしです。

 わたくしはこの点はさほど、心乱れてはいないのです。

 わたくしは元来、落書きというものに人間の奥深さを思うのです。

 落書きは暗い人間世界への入り口の様なものにさえ思えます。

 もしくは落書きこそが逆にその人間の本質を暴くものにも思えます。

 たとえば、誰も読めない記者の走り書きもそうですし、パソコンのタイピングなどとは違う、人間の手が動かした生身の筆跡というものには、複雑で脳裏の及ばぬ何かがあると思うのです。弥生式と縄文式の違いにこだわった、岡本太郎画伯の言葉にもあります。読み込み理解できない非論理的な線形にこそ奥底に眠る意味は大きいのです。読み取り理解できるものだけを集めることは、実は人間を単純で脆弱にします。

 不適切かもしれませんが、そういう理解不能なものを無視することは、わたくしには表現や人間意識の流産にも思えるのです。掛け軸に毛筆した大胆な書初めとは真逆の誰一人観客なく永遠の孤独に捨てられる、もしかすると書いた本人でさえ再現することができなくなってしまった、人間の筆跡。人間の思考の、足跡。そういう落書き。

 わたくしには落書きというものをそのように眺める性質がございます。インターネットの時代のせいで、文字ばかり簡単に並べられるようになりましたが、文字にならぬ人間の意思こそ人間らしい、誠に人間が表現された場所だと思うのです。

 守谷の残したかも知らないメモにそういう闇、を感じました。あのような残虐残忍な仕打ちを受け、その犯人どころか、理由さえ誰にも語らずただ逃亡した不気味な男が、深夜に誰もいない場所で、夜のうちに逃げ出していくその恐怖の中で物思いにふけった。まさにその時、片腕しかなくなった最後の手と指を細々と動かして残した、第三者には解読しようのない文字列。おそらくそれが、今のわたくしと同じように自分だけの脳細胞を整理するための試し書きとなって、レシートの裏側に並んでいる。

 わたくしは、このレシートの文字列を眺めた最初から、とある直感がございました。すなわち、


これは人間の名前ではないか…。


と、思ったのです。いや、守谷が苦悶のうちに過去を振り返る中で、数えて整理した苗字か何か、のように思えたのです。無論、御園生くんがそうだったように、普通に眺めればただの無作為の「落書き」の跡でしかない、見方によっては、ペンの試し書きのようにも思われる、取るに足らない紙片の中なのでございますが。

 レシートは領収書の裏のような細長くしたような紙です。

 わたくしの見立て、ではございますが、どうやら文字描こうとした、試みたと言ってもおかしくない、渦巻きが何箇所か御座います。一つまた一つを、何かの文字だと仮設していくと、よく見れば、

 漢字が、二文字ずつ三つ。

 そして、これもなんらかの一文字。

 が存在します。この時点で、ふと、わたくしには思うところがございます。

 と申しますのも、ぜひ皆様には、メモを実際に取った記憶を遡っていただきたいのでございます。普通メモをとる時になにを書くのか。「思う言葉」を書きたいならば平仮名のような文脈的なものを書きます。「情報」の場合は数字や住所の漢字など、固有名詞を書く。じつはメモはそういう二種類に大きく分かれるのです。それ以外であれば、絵を書いたり図を描いたりするでしょう。

 このレシートの落書きは、数字ではないということは断言できます。つまり電話番号やら番地のメモではない。それでありつつ、平仮名、送り仮名のようなものも見当たりません。つまり、番号でもなく、送り仮名もない、という類推から、これは、関係する人間の固有名詞、つまり、苗字ではないか?という気がしてきたのです。そうやってみると、今まで見えなかったものが見える気がしたのです。

 漢字二文字と思うところは三箇所がそれぞれ、*川、*川、*崎、と言う文字に思えます。川というのは、波線でしかないのですが、二つは似ています。それをあえて、わからないように見せてさえいる。誰かが見てもわからないように書いたのだという気さえしてきました。


図X (手書きレシート)


 一文字余って見えるところは、よくわかりませんが、見方によっては四つの苗字が書かれているように思えるのです。それは守谷に関係する人間達なのではないか?そこに四人の人間がいるのではないか、と思えるのです。

 しかし、明確にいえることがひとつだけございました。この苗字に思える文字列のどこにも、風間、守谷と読める文字列は一つもないのです。わたくしが*崎と感じている部分は、風間や守谷とは到底たりえめせぬ。残りの二つは、#川、*川、と、二つ目の文字が明らかに同じ風情がありますが、当然これも風間や守谷とは一致しません。

 仮にです。

 万が一、この四つが苗字だとすると守谷は、自分とは別の集団が四人もいたということを書いたのかもしれません。例えば、歌舞伎町で襲撃された相手の名前を実は彼は知っていて、それを書いたのかもしれない。結果としては相手に恐怖して文字列を明確にまではできなかった、指が震えたということなのかもしれません。

 以上がわたくしが腑に落ちずにいる、三つ目になります。最後のものは多分にわたくしの性格や思い込みが反映されているものではありましょう。


 わたくしはウイスキーをごくりとしました。脳にはふんわりと花畑のような感覚がさざなみ立ちます。おもえば、久方ぶりのアルコールです。

 答えが出ないでいると、また、娘の紗千が気になります。早く会いたいと思いながらも、万が一今、紗千と会ってしまうと、この混乱した自分が、突然決壊してしまいそうで恐ろしい、とも思えます。妄想ごときで何を苦しんでいるのだ、とお叱りをうけるかもしれませんが、そのせいで、逆に紗千へのメッセージすら書けずにいるのです。

 アルコールが切れる頃に、また悪夢が訪れる予感がします。それらはあくまで、このわたくしの精神の脆弱さが生み出すのでしょう。繰り返しではございますが、わたくしにはそういう脆弱さがあるのです。それゆえに、前職の報道記者も逃げるように辞めたのであり、人間関係というものに本質恐怖し、人との関わりもとにかく減らそうとして生きてきたのです。探偵に物を頼むような、すこし裏暗いような事情のある場面でだけ、人間と付き合うくらいが、この、わたくしにはちょうど良いのだと思いました。たとえば、あの御園生先輩のように健全と豪胆に生きる胆力は、わたくしには一切がないということだけは、確かなのです。

 


八十八 父   (御園生探偵)


 軽井澤さんと別れると僕は、田園都市線の池尻大橋のホームに降りた。新宿へ社用車キャロルを取りに行かねばならなかった。渋谷に出てから山手線で新宿に向かった。

 昨夜布団で寝てないせいか、身体が落ち着かなかった。身体が落ち着かないせいか考えることも落ち着かなかった。なんだか、暗くなりがちだった。

 昼下がりの新宿駅を抜けてアルタの左の路地に入ると歌舞伎町のアーケードが見えた。靖国通りを渡り雑居ビルの並びを歩く。昔の火事で未だに復活しないビルの前を通り、コマ劇場が新しくなった東宝ビルを抜けた。その先は居酒屋は少なく、ラブホテルが集う一角に変わっていく。そういう区画の真ん中あたりのバッティングセンターの駐車場に、昨日のまま何も変わらずマツダのキャロルはあった。

 見上げると、昨日守谷がいた雑居ビルも見えた。

 思えばまだ、彼と出会って二日目だった。

 車(キャロル)の鍵を開けながらふと、突然、何故、軽井澤さんは前の会社、放送局を辞めたのか?と思った。なぜ、辞めて探偵事務所を始めたのか。

 何も理由がなくて辞めたのではないはずだ。放送局の仕事がどんなものかは知らない。でも一般的には、就職の人気も高く給料も相当いいはずだ。安定もある。それを辞めて探偵事務所をやる、と言うほど、軽井澤さんに探偵の仕事に思い入れがあるように思えない。

 軽井澤探偵通信社は、世の中に数多ある探偵事務所の中で零細な方だ。これまでWEB広告での集客もやっていない。港区で増えているペットと不倫調査を、比較的安価で受注しているに過ぎない。ホームページだけは軽井澤さんの知り合いのおかげで立派に出来ている。それで集客が最低限あるだけであるのだが。軽井澤さんには、さほど事業を拡大させたいと言う意思は感じない。余り興味がないのかも知れない。今時のベンチャー起業家たちのような、富裕層を目指すような空気は一切ないと思うし、そういう生活への憧れもなさそうだった。

 マツダのキャロルは古めかしいエンジン音で生き返った。

 明治通りに出て、青山方面を目指す。

 道が混んでるので僕はカーラジオをかけた。

 山下達郎の古い曲が流れていた。

 軽井澤さんはたぶん、相当優秀な人なんだと思う。静かに淡々と、処理をしていく。僕はそれを手伝っているだけで、ある安定の中にいる。そうして月末に売上をまとめると黒字になっている。殆どの仕事を難しく感じさせない。どこで何をすればいいか、が端的に想像でき、対応ができるようになっている。軽井澤さんに配慮されてる、とも言えるかもしれない。どんな仕事でもそう簡単に、こうやってまとまっていくものではないと思う。

 車が小さくて低いせいで、隣を走るバスが建物のようだった。

 明治通りは原宿に近づいて、道ゆく服装が若者のそれになった。

 カーラジオは、夏の終わりの歌を重ねていた。

 もう三年も働いているけど、僕は軽井澤さんの前職のことを話題にしたことはない。もともと、僕自身が名前もごまかした経緯があって、父親のことの導入がおかしくなってしまったのもある。その周辺を気軽に言葉を出せないのもある。

 まあ、父のことについては自分もどこかでコンプレックスがある。

 親子の会話をほとんどせずに父は亡くなった。

 高校時代だった。

 自分なりにいろいろな後悔がある。

 余命がないとわかった頃も父は仕事をやめなかった。もう長くはないと思った頃にも家族より仕事を優先していたのだ。そもそも家族にも病気のことは亡くなる二週間前まで言わなかった。

 父は自分のこと、この息子のことをどう思っていたのだろう。あまり、興味がなかったのかもしれない、と思うことが多い。

 僕はやはり軽井澤さんに父の話題を気軽に話せない。例えば、軽井澤さんに

「父は、息子のことをなんか言っていましたか?」

と聞いたとして、万が一僕のことなど一度も話にしたことがない、と言われればそれは寂しいし、そう言われてしまうのも怖い。家庭より仕事を優先したのは構わないけども、仕事仲間との会話の中に、一人息子の話題が何も語られていなかったことを想像するととても寂しい。さらに言えばその寂しさを軽井澤さんとの今後の会話の中で感じたりしたくない。

 事実として、自分が御園生の子供だと言うことを明かしてからも、一度も軽井澤さんから父の話題になったことがないのだ。

 ただあえて言えば、軽井澤さん自身にも何か、その話題に向かわない感じがあると思う。前職つまり放送局の時代の話を軽井澤さんがする事は一切ないのである。軽井澤さんは、自分の父親と付き合いがあった。だから、どこかでその事を息子である僕が知りたいと思うのは自然だろう。

 たまに、父と軽井澤さんはどんな風に話してたのかと思うことがある。どんなことで笑ったりしたのか。仕事中に何を求めていたのか?

 交差点の信号が、長かった。

 久しぶりに、財布の奥にある一枚の写真を見た。

 若き日の父の写真ーー。

 父の、笑っている写真。

 こんな笑顔は僕には見たことがない、としか感想の言いようない写真だ。

 この一番好きな父の写真の隣にいるのが軽井澤さんだった。二人とも若くて、どこかの青空の下で笑っている。仕事の合間に見せた本当の笑顔という感じだ。こんな写真を財布に入れてることも、軽井澤さんとは話したことがないのだ。

「軽井澤さん。あなたとの写真。こういう父の顔を家で見たことがありませんでした。僕は、ほとんど父を知らないんですよ。息子の自分が言うのもなんですが、仕事してる父の笑顔がこんなに素敵だなんて。あなたとは、どういう仕事をしてたのか?聞いては駄目ですか。」

幾度か喉まできたことがあった。

 けれどもその言葉が現実に、音声となって僕の口から出たことはただの一度もなかった。

 


八十九 湯島喫茶 (銭谷警部補)    


 夏が走って逃げようとしていた。

 わたしは石原と湯島の喫茶で待ち合わせた。

 太刀川の尾行を一旦終えた石原から連絡があり、本庁に向かう前に少しだけ会おうというのである。老刑事又兵衛と日比谷で別れてから本庁に戻る気になれなかった。石原に聞くと、太刀川を尾行し北千住から千代田線で霞ヶ関に向かうところだという。わたしは湯島という場所を提案した。お互いの中間点だという説明だ。

 その喫茶店は、アメ横から池之端沿い、湯島側に入った繁華街の西の端にある。雑居するビル同士の間が狭く、車どころか自転車さえ通れない、そういう路地から階段を上った三階である。

 好きな喫茶店だった。

 初めてこの街を歩いた人間がこの喫茶店に入ることはないだろう。

 客層が大人しいのが良い。声を上げて詰まらぬ会話をする客が少ない。ほとんどが独り客だ。複数で来て会話するとしても、周りと調和できる客が多い。あの狭い路地を自分の目で確かめてそれなりに、判断した人間だけが、この重い扉を開けるからかも知れない。

「よくここはお使いになられるんですか?」

石原は室内に調和した声で、真っ直ぐ聞いた。

「いいや。なぜだ?」

「ちょっとした偶然が、ありまして。」

特別な時か、もしくは一人きりになりたい時だけ使うようにしている、と言う素直な言葉はわたしから出なかった。声に出なかった言葉は死体の持ち物と変わらない。

「たまに使う程度だ。」

わたしは強がった。

「なるほど。たまになんですね。」

「何かあったか?」

石原が気になるような風情をしたのでそう聞いた。

「いいえ。さほど意味はないかもしれないので、後ほど申し上げます。それと、」

「…なんだ?」

「早速買われたんですね。」

「ああ。昨日秋葉原で。」

「番号を教えてください。」

わたしは自分の携帯の番号を書きとめたノートを取り出そうとしていると、製品を手に取った石原はそれを手で動かしながらすでにわたしの番号を画面に映し出していた。

「大丈夫です。登録しました。」

「すまない。」

「素敵な喫茶店ですね。」

石原は、珍しいものを眺めるように喫茶室の天井や壁を見ていた。店主の趣味で、小豆色のフェルトの壁には所狭しと画鋲で映画のポスターが貼ってある。その映画もどれもが単館上映の誰も見たことがないような映画ばかりだ。大勢の人間が知ったものには、陳腐な匂いが漂うから、というような、店側の意思があるのかどうかは聞いたことがない。

「毎回酒を入れて、ウィルスの多そうな立ち飲みでフラフラ話をするほど若くはない」

「座れる居酒屋もあるかもですが」

「酒を飲まない打ち合わせも、わたしは重視している。ホットコーヒーとチーズケーキ。」

わたしは、石原里美に喋りながら、店員に同時に注文をした。女性がお決めになるまでお待ちが出来ない性質がまた露見していた。紳士の国に申し訳ないと思った。

「コーヒーとチーズケーキが最高だ。酒は出ないがうまいパスタはある。十五時までだな。」

「ありがとうございます」

「仕事の話を、いそごう。」

石原里美は、その時じっと私の方を見つめて

「私はあの、ホッピーの店でしたっけ?ああいうのも、嫌いではないです。こういうのも、好きですけど。あ、私はコーヒーをアメリカンで。」

店員は、決して大きくはないが、よく通る石原の声に無言で頷きメモも取らずに歩き去った。美しい間合いだった。

「早速よろしいですか。」

「ああ。頼む。」

「驚きました。今日は、いきなり、太刀川は埼玉に行ったんです。」

「埼玉?」

今日は、という言葉の方も気になったがわたしは埼玉の方を先に聞いた。

「銭谷警部補。彼にとって埼玉は、普通のことですか?」

質問は、わたしのかつての太刀川への尾行を指しているらしい。そう。わたしも尾行はしていた。もっともそれはまだわたしに権限があり、そういう部下を動かせた頃、つまり五年近く前のことだが。

「埼玉は、初耳だ。」

「埼玉は初耳なのですね。」

「ああ。だが、当時も毎日尾行できた訳ではない。元々埼玉に絡んでいたのかもしれないが、把握はできていない。」

「なるほど。霞ヶ関で乗り換えたあと太刀川は千代田線でそのまま日暮里綾瀬方面に向かい、北千住でつくばエクスプレスに乗り換えました。慣れた様子で進んでいたので初めての路線ではないと感じました。」

あの、と言う間合いで、わたしを石原里美は見た。

「電車はお詳しいですか?」

「路線図は頭に入っている。そもそも寮がその方面だ。常磐線の方が詳しいのだが。」

「なるほど。寮が金町でしたね。」

「……。」

「つくばエクスプレ…、この電車は、秋葉原始発で北千住を通ってそのままつくば学園都市まで行く比較的新しい路線なんですが。」

「ああ。」

その新しい路線はわたしの住む金町の方角とは少しずれる。茨城へつながる電車と言えば常磐線一本だったけれども、筑波新線は、新しい人々がそっちに向かったような印象だけがあった。この説明は、東京の北東の方角に興味がなければ永遠に理解はされずらいことだが。

 石原里美は尾行の説明を続けた。

 曰く、つくば行きの電車に乗ったものの北千住から二つ目の駅で太刀川は降りた。つまり茨城県まではいかない、その手前の埼玉で降りたと言うことだ。つくばエクスプレス自体は各車両の座席が埋まるくらいの人間がいたので、尾行はそれほど負担ではなかった。ただ、駅を降りてみると(八潮という駅だった)東京と違い埼玉は人通りが明らかに少なかった。駅を離れたらすぐ住宅街で人が歩いていない。尾行は危険と判断して今日は手仕舞いをした、らしい。

「さすがに住宅地で、ずっと同じ人間が後ろにいては、目立ってしまうな。」

私は適切だと思ったのでそう言った。

「すいません。」

「いや、謝ることではないだろう。埼玉か。少し、らしくないな。」

「らしくない?」

「元々、地下鉄に朝乗り、大体、そのままいずれかの地下鉄の駅で降りる。そのまま散歩をしたり喫茶店などに入る。そして午後からは、政治家とか、財界の人間に会っている。あの頃はそういう印象だった。」

「なるほどです。という意味では埼玉はそういうことではなさそうですね。」

「うむ。埼玉まで行くのは想定にはなかった。」

そこで少し沈黙した後、石原は首を傾げながら、

「埼玉と少し離れるかもしれませんが、そもそも太刀川にはなにか違和感がありますね。」

「どうした。」

「いや、かれはすべての連絡手段を持たないので。」

「……。」

「人に会うときに不便なのに、大変だろうなと思うのです。私などは、電車も地図も全部このスマートホンを見なければ辿り着けないですから。」

「それは大袈裟な話だろう。」

「いや大袈裟でもないです。」

便利さで失うものがあるぞ、と、中年の反駁を喉の手元に置いたまま、わたしは久しぶりに、太刀川を追跡できる喜びを感じていた。捜査進捗を目的とした会話は今のわたしには有難い。やがて届いたコーヒーの漆黒のさざなみを手前に寄せながら、わたしはいくつかの太刀川の違和感について自由な間合いで言葉を並べた。

 意見交換がしばらく続いたあと、ふと石原の最初の言葉が戻ってきて、

「そういえば<偶然>と言っていたが、湯島に何かあるのか?」

説明を一通り終えて自分もコーヒーを回していた石原は、わたしを見た。

「湯島にした理由はわたしには特にはない。日比谷で人に会い、今日は仕事の状況もあるから家に戻ろうとしていた。日比谷と北千住の間が湯島だったにすぎない。」

「実は、今日の尾行の前に、昨日の朝、別途の練習をしてみたのです。」

「太刀川の尾行をか?自主練、か。」

「はい。」

「では今日の尾行は初日ではない、ということか。」

「ある意味そうです。」

「それと湯島がどう関係ある?」



図X 本郷〜湯島の地図



「太刀川は、昨日の尾行では埼玉ではなく本郷三丁目という駅で降りたのです。東大赤門のある本郷です。」

「東大か。奴の母校にでも用があったのか?」

「わかりません。ただ、本郷三丁目からこの湯島の方向に彼は歩きました。てっきりそういう背景などがあったのかもしれないと、思ったのです。」

「湯島に?」

「ええ。本郷と湯島は歩いてすぐなのです。」

「どうだろうな。ただの偶然かもしれないが。」

「そうですかね。」

「そういえば、確か奴の創業した場所はこの辺りだったかもしれないが。」

「創業?」

「どうだろう。もしかしたら、学生時代に住んでいた部屋がそうだったのかもしれないけどな。創業の頃、湯島や本郷の辺りにいたはずだ。」

「そうなのですね。」

「記憶が曖昧だがな。初日の前の、尾行練習か。前向きだな。」

「臆病なだけです。」

「どんどん良くなるのは臆病さを知っている人間のほうだ。」

わたしはようやくコーヒーの香りに戻りながら、少し肩の力を抜いた。

「湯島が気になったのか。」

「ただの偶然だとは思いますが。あの朝、本郷三丁目の駅から、この湯島の方に歩いて行ったので何か関係があるのかと邪推しました。まあ、初日なので、明日からまた繰り返してみます。」

「ありがとう。」

「明日からはまた政治家だ財界と会食だとなるかもですよね。」

「そうだな。」

石原はコーヒーとわたしを一度交互に見てから、話題を戻すように

「銭谷警部補。そもそもの話をしてもいいですか。」

「どんな話をしても構わない。」

「そもそも彼の、太刀川龍一の目的は何なのですかね?」

「目的?」

「金も手に入れ、会社も上場させた人間が、全ての仕事を捨てた。まあ、現金だけは手にしてますが。そうやってパラダイムという会社を手放した後に、太刀川には何か目的があったりするのでしょうか?」

「……。」

「大企業や政治家の人間と会って話すのが好きなだけなら、別に会社を辞めなくたってよかったし、株も売らなくて良いはずだとおもうのです。東証一部上場のパラダイム社の代表としての方が、そう言う社交には余程向いている。」

石原は喫茶店の室内に調和するように、静かに淡々と言葉を続けた。

「自ら職を辞しただけでもないです。インターネット上の全てのアカウントを彼は消しています。一見、まるで世を捨てたようでもあるし、結果的にほとんどの世の中の人間から忘れられている。でも実際にはその後も旺盛に人に会い何らかの活動をしている。」

いくつかの矛盾に石原は気がついている。わたしは大旨合意しているという表情で答えた。

「太刀川は、なにも株を売る必要もなかったし、アカウントまで消す必要もなかった、と。」

「はい。活動を続けるなら、パラダイム社の代表を続けた方が良いと思います。」

「そうだな。」

「昨日、お送りした程度の調査ですが、引き続きここはアドバイスを頂きたいです。単刀直入に思うのは、そこまでお金があるなら地下鉄よりも自家用車か、運転手をつけた方が余程良いはずなのですが。」

「街歩きが趣味だと繰り返していたよ。」

「趣味ですか。」

「ああ。東京の街を歩いて、夕方から色んな人と会うのが楽しいんだと。もっとも石原の指摘通り政治家だとか財界の人間との交流は一部続いていた。」

「一部、ですか?」

「そうだな。あの六本木のころの華麗なる人脈ではない、すこし地味な印象だ。」

「地味?」

「経団連の古株だとか、政治家といっても余り目立たない人だった。とにかく人脈を広げるというようなやり方ではなく、だいたい、二人きりで食事をして終わりだった。今はどうか知らないが。」

「昨日の埼玉もそういう印象ですね。まさかあの街でシャンパンを飲んでる予感はしません。」

石原はそう言って私の目を見た。

「六本木や銀座で夜にパーティーをしてるような様子もなければ、ビジネスマンらしいネットワークを作り直しているようにも思えない。」

「まあそうだな。」

「株を売却して得た資産を何に使っているのかさっぱり想像ができないんです。こう言ってはなんですが、着ているものも学生の着てるものと変わらない。」

「うむ。」

「だから余計に気になるんです。逆にそういう人に限って物凄い志というか、際限のない動機を持っているように思います。」

それはわたしも感じている。いや、太刀川にはそういう空気があるから、わたしは捜査を辞めないでいるともいえる。

「同意だ。」

わたしは素直にそう言った。

 その後も石原はわたしに多くの質問をした。一昨日のわたしの泥酔のことなどは何も気にしていないという空気で、そのことよりも純粋に太刀川の周辺の情報をアップデートしたいという熱意だけがわたしに向けられた。

 打ち合わせの時間はあっという間にすぎた。石原はもう本庁に戻るべき時間だった。

「本日は以上になります。」

「……。」

「明日からの尾行は少し考えがあります。」

石原里美は、最後に今日一番の艶のある笑顔でそういうと、会計を気遣いながら重いドアを開けて、あずき色の壁面の喫茶店を出ていった。 



九十  機械計算 (レイナ)

 

 施設の人たちは笑顔になる時があった。

 でも、その笑顔には目的があった。

 大人たちはレイナになにか目的を持って会話をする。

 上司への報告みたいなことがあるのだと思った。

 そういうときは、レイナはその大人との会話を閉じた。

 お仕事の質問がわからないとでも思うのか?

 子供は大人を理解していないと思うのか?

 レイナは命令の中で嘘を心に宿す大人が嫌だった。

 嘘つきだとは思わないけど、仕事なのだ、というあの顔だ。

 あの顔ほど自分を寂しくさせるものはない。

 会話をするだけで反吐が出る。

 だから、節子さんは貴重だった。

 唯一無二で、節子さんだけは、そうならなかった。

 節子さんとの時間はちがう。

 長い時間が過ぎた今、レイナには節子さんとの思い出したい場面や言葉、声が溢れている。思い出したい、って明確に思える。真っ黒で灰色の過去に、夜空の星のように瞬く光点。優しい笑顔と厳しさと。本当の母親を思い出せない頃に、本当の母親という言葉にレイナは憧れがあって、なぜかその周辺のことを考えると、カレーライスの匂いがしてくる。カレーライスの味を覚えている。母親の記憶って料理の味なのかもしれない。あの匂いを脳裏に思いだす。

 どうして、一度だけでも、節子さんを抱きしめなかったんだろう。

 大好きだった。

 節子さんはレイナが嫌がることだとわかれば、何も聞かなかった。レイナの嫌な質問には笑顔で対処してくれるのに、その逆は一切なかった。どんな会話の中でも、レイナのことを思ってくれていた。レイナの求める世の中のことを本当にたくさん、話してくれた。教えてくれた。街のこと。人間のこと。悲しみのこと。やってはいけないこと。ありがとうといわれること。その周りの悲しみのこと。人それぞれに生きること。自分だけの喜びじゃないこと。カレーライスを食べること。

「手をだして。ほらここに、繋いでご覧。」

「……。」

「そうして目を瞑って。」

「……。」

「ほら人間って、単純に生きてるんだよ。呼吸して、血液を流して、心臓から出た血液を、自分の心臓に全身を回して戻すの。それをするために呼吸して、酸素を取り入れてね。でも不思議じゃない??こうやって手を繋いでも体の中のものまで誰かの手のひらから外に出ないでしょう?」

「どういうこと?」

「こうやって手のひらで相手を感じて、熱や温もりや生きてることを感じるのに、自分の何かが外に出ては行かない。相手の何かも自分まで届かない。」

「レイナの血液は節子さんに行かないってこと?」

「そうよ。みんな、ひとりずつ生きているの。」

「うん。」

「でもね、手を繋ぐと、少し違う気持ちになれるでしょう。家族がいる人には最初から自然とそれができるの。でも、家族がいない人も、こうやって手を繋ぎ始めればわかることなの。」

節子さんはそれを、難しい言葉で「人間社会」だって言った。

「言葉とかね、パソコンの中だけでもいいけど、人間は手と手を繋ぐと違う気持ちになれる。こうやってね。手を繋いでみるのよ」

「こうやって?」

「握手。」

「あくしゅ?」

「そう。同じ人間なんだって感じてみるの。あいても、自分の血だけで生きる、ひとちぼっちなんだって、わかるの。」

「ひとりぼっち?」

「そう。みんな楽しく群れていても、自分の血は自分の体だけにしか流れていないの。」

「だから握手するの?」

「そう。そのとおり」

「わかった。」

いくつかの会話を覚えているけども、この握手の話は好きだった。レイナの掌には、いまもまだ節子さんと何度も繋いだ手のひらの感覚が思い出せる。掌にそれを思い出しながらキーボードを叩いている時が一番無心になれる。


 

 いま、レイナは現実のMacBookの画面を見ていた。

 キーボードを叩く手のひらに、心地よいリズムが続いている。

 作業に入るのは深い井戸に一人降りていくのに似ている。レイナは没頭する。一時間でも二時間でも井戸の底に潜って、いくつかの命令文(スクリプト)を考え直し繰り返し試す時間こそが楽しみなのだ。機械学習周辺の複雑な構造を設計しては、機械への計算命令を書き直す。人間が一生を費やすであろう計算を機械にさせて瞬時に答えを出させ、その仮説を検証する。いつもなら、数回の作業でなんらかの結果が出てくる。そういう結果を狙うようにレイナは(ハッカー)は命令文(スクリプト)を作る。

 しかし、今回の仕事はなかなか思い通りに行かない。

 風間、守谷という二人の人間の周辺の相関性はいまだ見当たらない。

 十四枚の葉書の文字列も仮説さえ定まらない。

 随分とうまくいかないな、とレイナは思った。

 理由はいくつか思い当たる。

 不自然な点の一つ目は、風間と守谷の二人に全く犯罪者の証拠がないことだ。すでに平成の全体まで過去へ遡っているが、インターネットの上では明らかに、彼らは犯罪者ではない。

 二人は警察との接触を強く拒んでいたという。犯罪者でもないのに警察を拒むことは考えづらい。普通、犯罪の履歴があるはずだ。しかし、二人のアカウントは警視庁のどの犯罪情報にも関連しなかった。

 不自然の二つ目は、犯罪組織と紐づかない点だ。猫の死体や、腕を切断するまでの私刑、悪意に満ちた手書きの葉書のどれをとっても、誰か一人で起こしうる作業量を超えている。あきらかに組織かそれに準じるものが動いている。組織が動く場合、レイナがネット上で構築した情報網が反応しない事はほとんどない。その組織が起こした別の事件に類似したり、同じデバイスが使われたりするからだ。しかし、方法をあれこれと試しながら随分と調べているが、どうしても紐付かない。

 少し良からぬやり方も使って、スマホも調べたが、これもレイナの予想を裏切った。風間、守谷の二人とも組織犯罪者が多用する即日携帯(ワンタイムデバイス)を使っていない。むしろ普通に銀行口座も持ち、車の免許証も持ち、それらを携帯電話のアカウントと連携させている。

 計測の結論として風間と守谷は犯罪者でもなく、犯罪組織に関連もしなかった。

 あくまでネット上の情報を追求する限りでは、そうとしか言いようがなかった。

 二人が犯罪者であれば、そのデータを使って葉書のアルファベットの文字も計算ができると思っていた。結果、何一つ計算が進まず、仮説さえできない。計算の結果は、惨憺たるものだと言ってもいい。

 ただ計算の最初から生じているバグともいうべき、とある計算結果は引き続き消えないままだった。風間もと守谷の名前とは関係しない形で、とある事件だけが反応を微細ながら繰り返している。

 その事件は平成ではなく昭和の時代のものだった。いや、正確には昭和が終わり平成に時代が変わるそのころの日本を震撼させた類の事件だった。

 実は、レイナはその事件が嫌だった。ただ、嫌だとわかっていながら、軽井澤さんとの仕事ということもあり、結果を無視し切ることもできないままでいた。









九十一 公衆電話 (軽井澤新太)

 

 目の前に暗い闇がございます。私はやはり手足を縛られ、口には蝶番のように声を出せないような束縛を受けております。そしてその目の前に私の愛する娘が苦悶の表情で苦しんでおるのでございます。断続的に類似の光景がただただわたくしを冒しております。

 その昔、この国では死刑と言うものが市中で行われておりました。有名な石川五右衛門は親子同罪、自分の息子含めて熱湯にて煮殺された、と言います。京都の三条河原では、極悪人のはずの五右衛門が今際のその間際に、意識が尽きるまで自分の息子を諸手を挙げて熱湯には触れさせずまま落命したのが、その頃の江戸雀には切なく人情話となりました。もちろんほんの少しの時差で、子供も同じように五右衛門の茹死の上で、命落したのでございます。

 命をかけてでも、この網膜に記録したくないのが、我が子の苦しみでございます。我が子の絶命を、眺めさせられることほど恨めしい心はございますまい。

 わたくしの脳内の異常は消えぬままであります。油断をして目を閉じれば、わたくしの瞼の裏側が愛する娘の悲劇を映します。なぜか、あの守谷周辺の思惟がわたくしの脳髄の中枢に、その発光を指令するのです。白黒の過去にカラーテレビのような色が色づくのです。雑な、昭和の赤や緑の色彩が小さなブラウン管のテレビの上で粗く揺れるのでございます。

「紗千、頼む、これは幻の苦しみなのだ、どうか、お父さんを許しておくれ。。」

わたくしは、妄念に妄言を重ねながら、一向に雲晴れぬ気分のまま伏せっているくらいしか出来ぬのです。


 その時でした。

 脳裏をつき刺すような、散乱音とともにわたくしの電話が鳴りました。これは、いつも現実に聴き慣れた音でございますが、悪夢の最中では、霊的な別次元的な冷たさで鳴り響くようでした。

 わたくしはじっと目を開けました。

 そこは、新宿の雑居ビルなどではなく、明確にわたくし一人が暮らす四ノ橋の一室でした。悪夢が現実でないのだということが腑に落ちてきます。小さく安堵しながら少しずつ、耳と体をそちらに近づけていきました。

 電話には、通知不可能の表示がございます。

 私は直感でこれは何か重要な電話だと思い少し緊張して、椅子に座り直し、ゆっくりとその電話を前に取り、青のボタンを押しました。まだその時にはその前の悪夢と脳裏に浮かんだ苦しい映像が網膜に残っていたと思われます。

「あんたか?」

私の予想は当たりました。この二日間待ち焦がれていた声が受話器の向こうでいたしております

「俺だ。」

「やっとつながりましたね、風間さん。」

「ほう、俺を探したか?」

「ええ。約束でしたので、一昨夜も事務所で、お待ちしておりました。こちらからも着信を入れたとは思いますが。」

私は自分の精神状態を気づかれぬように努めて冷静に言葉を選びました。言葉が汗をかかぬように、受話器口で風間に悟られぬように、呼吸音をさせない深呼吸を挟みながら。

 電話の向こうでは、公衆電話らしきブザー音がいたしました。風間はわざわざ、自分の携帯ではなく、公衆電話からかけて寄越していました。

「公衆電話ですか?」

「……。」

沈黙の向こうでは国道沿いなのか、トラックが通り過ぎるようなごごうんごごうんという重低音が鳴っていました。

「電話に何かありましたか。しばらく電源が入ってなかったようでしたが。」

「あんたには関係のないことだ。」

「この後お会いして話しますか。」

「そんな状態ではない。」

「状態?」

わたくしがそう聞き返すと、沈黙がありました。

 電話をかけてきたにもかかわらず、しかも携帯電話ではなくわざわざ公衆電話からかけてきているのにもかかわらず、風間は特に私に何か用事を言い出そうとはしません。たまらず、わたくしの方から質問をいたしました。

「風間さん。電話に、ずっと出ない、電源さえ切っている、のはなぜですか。何かありましたか?」

 質問をしながら、わたくしは風間との電話が切れてしまわないように、会話の押し引き想定しました。話して、確認しなければならないことが多数あるのです。たとえば、


・風間と守谷の繋がり

・アルファベットについて

・葉書の消印の意味。

・何故隠したり警察を嫌うのか

・誰かに恨まれているのか。その心当たりは


聞かねばならないことは山ほどあります。

 ただ、唐突にこれらを質問すれば、露骨に嫌な顔をするでしょうし、そもそも電話が切れてしまう恐れもございます。

「風間さま。わたくしの方でも、いろいろなことを話したいのです。」

「なぜだ?俺はまだ金も払っていないぞ。あんたら探偵は金には厳しいのだろう。」

「……。」

その通りです。通常なら二度と電話は致しません。しかし、いまはそんなことを言ってはいられない、追加の災厄がわたくし達には始まっていますので、不本意にも対処してるのです、とまではわたくしも流石に言いませんでした。

「いまから、お会いして話しませんか?」

「悪いが、その状況じゃない。」

「お仕事のトラブルですか?」

「ちがう。それより、逆に、何か進展はあったのか?それが聞きたい。」

「ありました。」

わたくしは、そう言い切りました。守谷のことも十分に進展したと言えるからです。

「あった?ほんとうか?。」

「ええ。ありました。かなり大きな動きがあったのだから、お話をしたいのです。できれば会ってが良いです。」

風間は、沈黙しました。

 わたくしは、突然切れてしまいそうな公衆電話が怖く、自ずと言葉をつなぎました。

「わたくしと会うこと自体が、なにか問題なのですか?」

「そうとまでは言わないが、な。」

「そういう意味でなければどういう意味でしょうか?わたくしと会うことが問題になるような、事情が発生したりしますか?」

わたくしはしつこくなる自分の言葉を、気にいたしました。風間は猫の死体の被害を訴えているだけです。殺されそうになった守谷の側の感覚とは違うかもしれません。

「いかがですか?」

「とにかく、いまは、無理だ。」

「昨日今日、電話の電源をお切りになっていたことと、関係しますか。」

「……。」

「何かから逃げていると言うことでしょうか。いまは西馬込でしょうか?」

「もう猫の死体はこりごりだ。」

「西馬込ではない、ということですか?」

「ああ。ただ、家を出てからずっと誰かに付けられている気がしてならない。」

「尾行ですか?」

「わからん。なんだか、自分の行く場所にまた、猫の死体が届くような気もする。いや、猫よりも、もっと恐ろしいかもしれない。」

「携帯電話の電源を落とすのはそれが理由なのですね。」

風間はわたくしを避けていたのでなく、別の恐怖を避けて逃げているようでした。逃げた結果、尾行の恐怖から携帯電話を疑って、公衆電話からかけている。そのせいで電話の電源も切っているようでした。

 わたくしは少し気が弾みました。電話で会話をしているうちになぜかこちらが主導権を取れるような気もしたのです。その後しばらく一定の風間特有の不毛な応酬を終えたあたりで、わたくしは、畳み掛ける気になりました。公衆電話です。いつ十円玉が終わりになるかもわかりません。会えないのなら電話で聞けることは聞いてしまいたいのです。

「風間さま。」

敬意もないのに相手の名前を丁寧に呼ぶのも、狡猾な報道根性のやり口のひとつでした。

「そもそもですが、何故風間さまは、あの葉書に怯えるのですか?つまり、なぜ、誰かに命を狙われてると、思うのでしょうか?」

「......。」

「そして、なぜ、警察に行かなかつたのでしよう。」

「うるせえ。」

「警察に行かない理由は何があるのでしょう……。」

「それは聞くな。」

「この葉書をもらった人は、みんな、襲われても、警察には行かないルールなどがあるのですか?」

「もらった人はみんな??」

そこでふと、間合いがありました。やはり、とわたくしは思いました。

「みんな、襲われる?どう言うことだ。俺は、襲われてはいないぞ。」

わたくしはここだ、と決意しました。このまま電話が切れてまた何日もつながらないのであれば。死なば諸共でしょう。

「風間さん。」

「なんだ。」

「守谷という人間を知ってますか?守に谷です。守谷保。」

わたくしはじっとそう言って言葉を止めました。流れを作ったあと唐突に沈黙をつかう、取調官のやり方です。段々と、風間が自分のペースの方に合わさってくる予感をさせながら

「守谷という人間が、知り合いにいますよね。」

「……。」

「守に、谷です。」

「守るに、谷、か。」

とか呟きながら、うむとか、ええととか繰り返しておりました。

 ただ、しばらくして、

「しらんな。」

その後の答えはわたしの予想の逆さまでした。

「え?」

「もりやを、知らんな。」

「ご存知ありませんか?昔の知り合いとか、地元とか。」

「知らないものは知らない。」

そんなはずはない、と思いながら、

「地元など、昔の知り合いだったりもしませんか?そういえば地元は、風間さんは、埼玉ですか?」

「違う。」

「違いますか?」

「ちがうな。」

その声は、明確にここで嘘をついてもしょうがない、と言う言い方で強く響きました。

 わたくしは少し読みが外れて、焦りました。

 私は守谷保と風間正男は知り合いだと思い込んでいました。二人には共同に恨みを買った過去があり、同じ穴のムジナとして同じように恨まれ葉書を送られたのだと思っていたのです。それが今、守谷の名前を聞いたこともなく知りもしないと言うのです。残念なことに、風間のその言葉に嘘はあまり感じられません。

 全く知りもしないとは不思議です。そんなことがあるのか。あのような全く同じ葉書を出されている相手、同じ攻撃の対象となる何者か同志、であれば仲間ではなくともお互いの名前くらいは認識していると読んでおりました。

 しかし風間の言葉は、単純な作為の少ない反射物のようにまっすぐ戻されました。少なくとも他の場面では素直に焦ったり吃るような反応がある中で、わたくしにはそれが何かの芝居には思えませんでした。その言葉は、無意識であるが故に、正確な情報で、つまり、風間は守谷という人物には一切の関係がなく記憶にもないということの証左に思われました。

「何のことだ?そいつが葉書を出してるやつか?この俺に。」

「違います。そうではございません。」

「じゃあ誰なんだ?」

「すいません。風間さま。知らないというのは、ほんとうですか?守谷です。守る、に、谷。」

「しらんものはしらん。一体何者だ?」

「……。」

守谷という男については、わたくしも詳しくはございません。このわたくしを、電話で呼び出し、そしてその場所で腕を切断された恐ろしい有様で倒れていて、タクシーに乗せると大騒ぎして、怪しい病院に連れて行かれそこで傷が言えるまもなく次の日にはもぬけの殻になっていた男です。どういう人間なのかも何も知りません。今となっては、彼の残したと思われるレシートの落書きを知る程度でございます。

 しかしそんなことを言い出せもせず、わたくしは元気を失っていました。

「むしろ、私共も巻き込まれましたのです。」

「巻き込まれた?そいつなのか?差出人は?」

「差し出し人ではございません。」

「なぜそのことが、わかる?」

わたくしは、何故なら守谷宛にもあなたと同じ葉書が届いているからです、とは言い出せずにいました。見当が違ったことで、会話の一つの勢いが止まり、電話は逆に目的を失い、わたくしは無念にぼんやりとしました。風間が逆に言葉をつないで、

「俺に届いたあの葉書の差出人の場所は調べたのか?」

と、振り出しに戻しました。わたくしは、これでは駄目だ、電話が切れてはまた困るぞと自分に強く言い聞かせます。

「埼玉の三郷ですよね?はい。差し出しの郵便局は特定できています。」

「その他に、何か新しい発見でもないのか?。」

「はい、三郷も市ですから、広くて情報が無さすぎます。何か心当たりがあるんですか?ちなみに、六日の消印で届いたものと九日の消印で届いたグループそれぞれありますよね。できればその心当たりを教えてください。」

「俺は知らない。三郷も何も知らない。」

「消印もですか。」

「消印?ああ。届いた日のことか。」

「ええそうです。」

「まあ、そうかもな。言葉が別だからな。」

「別?」

「最初の言葉と二つ目のと、ちがうだろう。」

わたくしはじっと頭の中でその言葉を反芻しました。つまり風間は、六日と九日の、言葉が違うと明確に述べたのです。

「風間さん。埼玉の三郷は本当に地元ではないですか?」

わたくしは、ふと、そんな地名さえ知らないのですが、少し気になった程度の風情で、再度確認を試みました。

「地元ではない。」

繰り返しですが、わたくしは守谷と風間は地元が同じでそこから過去の恨みなどで昔の被害者などが葉書を作戦しているように思ってもいました。がしかしその想定も、空振るようでした。

 まんじりとして、電話越しの風間が沈黙をした後に、

「軽井澤さん。そもそもあんたは、葉書の意味は、わかって話してるのだよな?」

「……。」

わたくしはその時「見ればわかる」の整理について思いだしていました。風間の過去を知る由もないわたくしが、何故「見れると助かります。ば分かる」と言われる筋合いがあるのか?というノートに整理した仮説です。

「見ればわかると言うことですか。」

「ああ。その通り。」

「実は、わからないのです。」

「わからない?」

「……。」

「葉書を見て、わからないのか?」

「はい。まずそのことを、教えていただきたいのです。」

「本当にわからないのか?」

随分と驚いた声で風間は聞き返しました。

「はい。残念ながら。」

その時、ブザーのような音がして、電話がきれました。風間はわたくしとの会話の途中を斧で叩き切るように電話を切断したのでございます。

 わたくしは自分から風間を含めてさまざまなものが遠く去ってくるような、喪失感に襲われました。



九十二 実験番号 #4247 



すいへいりーべ

すいへいりーべ


僕はひとつの瞑想の中にある。

僕は既に死んでいるのか?

有体離脱して何か霊的な世界に自分は存在しているのだろうか。

全ては許されざるあの日から始まったのだ

そのことを母は知らない。

母には苦しみを与えたくない。

敵を持つことは苦しいことだ。

この僕のように。

海で溺れて死ぬのと

誰か犯罪者に殺されるのとは

心が彷徨う場所は違うから。


母には健やかに過ごしてほしい

母はこんな風になった僕を、永遠の子供のように

抱きしめてくれる。

でも、抱きしめてくれる感覚はない

しかし何かが近づき、霊長の如く僕を包むとき

母はこの長男を泣きながら抱きしめたのではないかと思うことがある

嗚咽する声が聞こえる気がする

母の抱擁。

僕はこの母の子宮の彼方から生じたのだ。

なぜかそのことを誇りに思う。

奇跡だと思う。

明るい我が母。

賑やかなことが大好きな母。

本を読んでくれた母。

言葉を教えてくれた母。

命をくれた母。

命を。

三人の子供を立派に育て上げた。

僕だけが迷惑をかけてしまった。

僕はまだ生きている。

ただ五感の全てがなく、目も見えない

瞼の裏に、全ての世界がある。

そう。

瞼の裏だけに、僕の世界の全てがある。

その世界は全て過去の映像だけども

未来を超えるくらいたくさんあるのだ。



すいへいりーべ

すいへいりーべ




殺人の三日前(九月十二日)


九十三 再電話 (軽井澤新太) 


「俺だ」

再び風間でした。まだ夜は明けていません。公衆電話らしい、ブザーと十円玉が落ちる音が再び聞こえました。

「少し考えた。まず、さっきの人間についてもう少し聞かせろ。」

「…もしもし。」

「聞こえるか?俺だ。」

「…はい。」

夜明け前の朝四時台の電話ということは気にもしないようです。この辺りが風間という人間の感覚なのでしょう。ただ、わたくしの側も、朝何時だろうが電話がかかってくるのを待っていたのですから、この時ばかりは風間のこの人格をありがたく思ったのでございます。

「まず、そもそも一つ聞いていいか?」

風間は手順もなく強い言葉でそう言います。

「いやその前に、先ほどの十四枚の葉書の意味の続きを…。」

「うるせえ。」

わたくしとしては、先程切掛けに空気を出した、葉書の説明をまず最初にしようと思いましたが、風間はまた癇癪を起こしました。電話はいつ切られるかの恐怖感を増します。必然と風間の主導に従わざるを得ません。

「そもそもだ。」

「…はい。」

「あんたらは、何か困ってるのか?」

「困っている、と申しますと。」

「いや。探偵さまが、前金もしてない人間と会って話そうなんていうことだからな。なんだかおかしいじゃないか。」

風間は少し得意げにした風にも思われました。自分では忘れたふうにしていたくせに、しっかりとそのことは気にしていたのでしょう。

 やむを得ないことです。

 支払いがなければ対応しないと言い続けていたわたくしが態度を変え、何故か追いかける側に回って話がしたいといっている。挙句は電話を切らないで欲しいかのような、文脈をいくつも使っているのでございますから。

 ここで困っている、とわたくしが言えば、何かの手順を風間に与える可能性があると直感で感じました。そういう二流品の駆け引きを好むのが風間の特徴なのは申し上げた通りでございます。

「風間さま、どうか、先程のように電話を切らないでくださいませ。純粋に我が事務所として風間様にお伝えすべき重要な件が発生したのでございます。わたくしが申し上げた守谷という男についてもう少し追加の話がございます」

電話というのは一度切ると、連続の会話よりも、心が整理されるようです。わたくしは、整理しておいた手順から、まずは言葉を置き始めました

「追加の話、というのは一体なんだ?」

「少し気になることがあるのです。」

「気になること?」

「つまり、風間さまに関わる、重大なことがあるのです。」

「ふむ。勿体ぶるようだな。」

「はい。しかし、そのことは、我々お互いにとって、とても大切なことになると思うのです。今日、もしよければ会って話せませんか?」

わたくしが丁寧にそういうと、風間は沈黙をいたしました。公衆電話から、背後でトラックが走るごごうんごごうんという音が幾度となく受話器の向こう側に鳴り響きます。

「いかがでしょう…。」

「無理なものは無理だ。それより重大なことというのは、どういうことだ」

「ええ、守谷、と申しました男、に関することです。」

「……。」

「守谷について我々のほうで重大な…、」

「いやちょっと待て。そもそもだな。そのナントカという奴。なぜ、そいつの名前を俺にわざわざ伝えるのだ?」

「わざわざ?」

「俺の質問はそれだ。俺が頼んでるのは、俺に葉書をよこした人間の調査だ。そいつは頼んだのとは違うだろうーーつまり、葉書を書いた人間ではないんだろう?」

「…はい。」

「だろう。こちらは頼んでいないのに、あんたはわざわざ、その名前を俺に伝えてきた。わざわざ、だ。」

少し溜息がわたくしの頬に落ちました。やはり、風間という人間は、守谷という名前には全く心当たりは無いので御座いましょう。わたくしはやむを得ず次のカードを切りました。

「そうですね。じつは守谷は別の意味で、風間様と関連すると思われます。」

「別の意味?」

「はい。実は、その守谷が、一昨日、襲撃されたのです。それはそれは、恐ろしいものでございました。まさに瀕死の状態で我々が発見したのです。結果、わたくしどもはその現場に間接的に居合わせてしまっています。守谷を襲撃した犯人は、立ち去っておりましたが。誰だかはわかりません。しかし、この襲撃した人間らが、風間さまへ脅迫をした葉書の送り主と関係すると思われる事実が見つかったのです。」

「……。」

「被害者は、守谷保、という名前です。守に谷、保険の保です。」

「事実が見つかった…。」

「本当に、過去を遡っても記憶にございませんか?。」

わたくしはわざわざ繰り返し守谷の話をしました。しかしながら風間は、さほど間も無く、

「知らんな。」

と無愛想に、言い放つだけでした。

「本当ですか?」

「本当も糞もない。知らん物は知らん。」

「知らない。」

「襲撃されそいつは死んだのか?」

「死んでいません。」

「おい。どういうことだ。それならそいつから、聞けば良い。」

「はい。わたくしどもも、そのように思っていました。しかし彼は、重症の体のまま忽然と消えたのです。」

「消えた?」

「ええ。入院した病院から遁走したのです。そうですね、まるで何かに怯え、恐れて逃げるかのように、消えました。」

わたくしがそう言うと、何故か風間に腑に落ちるような、間合いがありました。

「つまり、何かから、逃げる様子だったのだな?」

「ええ。もっとも、あそこまでの暴行を受けていましたので、不安だったのだと思われます。病院に一度入院は出来たのですが、警備員がいる訳でもないのですから。」

「ひどいリンチというのはどのくらいだ?」

「具体的に、でしょうか?」

「ああ。」

何故か名前には関心を持たないのですが、風間は、守谷の傷口の具合や、身体中にタバコの火傷をつけていたなどの話を、興味を持って聴きました。わたくしは、昨日からのあらましについて、歌舞伎町、池尻の病院、そしてもぬけの殻になった翌日迄を時系列に説明しつつ、全身は打撲の傷が入れ墨のように隈なくあり、無数の黒子(ホクロ)やシミのようにタバコで皮膚を焼かれ、肛門から強姦をされていたこと、最後に腕の切断の話をというところで、

「もういい」

と風間は、逆に話を止めて、

「あんたは、その襲撃犯らについては心当たりはあるのか?」

と、さらに質問をしてきました。

「襲撃犯ですか?」

「そのモリヤという人間を襲った奴らだ。襲撃した人間に心当たりでもあったのか?」

風間は、カチカチと、タバコを点けるような間合いをさせつつ、風も強いのでしょうか、なかなか火がつかずに時間がかかっているようでした。公衆電話の向こうでは、引き続き、沈黙のたびに、大型ダンプカーでも通ったかのような環境音が鳴っていました。わたしは、随分、夜中なのに交通量が多い場所なのだと思いました。

「守谷を襲撃した人間には心当たりないです。想像もつきません。」

「手がかりゼロか?」

「いえ。ゼロとは申し上げません。ある可能性として手掛りはございます。」

「ございます?あるのか。」

「先ほども申し上げましたが、そのことが風間さまと連結する重要なことなのです。」

「……。」

「葉書です。」  

「なに?」

「葉書です。」

「葉書。」

「ええ。ご想像付きますでしょうか?」

「随分回りくどいな。さっさと説明しろよ」

「はい。単刀直入に申し上げます。風間様のものと、全く同じ葉書を、被害者の守谷保は持っていたのです。」

「……。」

「筆跡もまったく同じ、枚数も同じ、書いてある内容も同じなのです。」

わたくしがそう申し上げると、しばらくの沈黙がございました。

 ここで、わたくしは、その後のことを正確に申し上げたいと思っております。

 わたくしは、ゆっくりと、時間をかけてその葉書が、風間が渡していったものと全く同じであるということ、筆跡も裏に書いてあるアルファベットも枚数も全て同じだったということを説明しました。説明をしながらこれが電話であることに悔しい気持ちでいました。もし対面していれば、この話に対して風間がどんな表情をして、どこに気を取られ、焦るかを見れたからです。あんな葉書が、二箇所にくるなど、通常であれば、そんなことは絶対に発生しない、おかしな話なのです。ましてやそのもう一人が、襲撃され死に損なっているわけです。ーーー御園生くんとわたくしがそうだったようにーーーそれは、通常ない驚きが、そこにあるはずなのでございます。だから、わたくしは対面で表情を窺い知れぬまでも、少なくとも電話口で風間の言葉がどうなるのかを注目しながら、葉書について説明を話したのです。

 しかし、です。

 実に、風間は全く、驚いてなかったのです。

 説明して言葉を吐き切ったわたくしは、拍子抜けの違和感と、その理由の不可思議さに焦りました。再び沈黙と背後を走るトラックのごごうんごごうんという音だけが受話器に響きます。わたくしが途方に暮れていると、むしろ風間は通常の間合いで、

「つまり、おどろくことに俺と同じ葉書を持っているのだな。」

という、まるでわたくしを気遣いさえするような態度をしました。

「驚くことにな。」

それは、実際に風間が驚いているというより、一般的には普通驚くよなあ、というような声でした。

「はい。同じ葉書でございます。筆跡も、枚数も、アルファベットの文字列も」

「……。」

わたくしも御園生くんも、あの葉書の同一性を知った時に、しばらくの間、絶句しました。守谷の私刑の壮絶な光景に重なり、途轍も無い怨念の存在を頭に描き、恐怖したのを思い出せます。そういうものが、小説や映画ではなく実際に自分へ現実に訪れて来ると、普通は人間は絶句し、言葉を失い、その後に何かを聞いて確かめたくなるのです。

 しかし、風間は違いました。

 多少の反応はありましたが、葉書に単純に対応しただけでした。むしろ質問は葉書ではなく、その周辺に向かいました。

「ちなみに、そいつは、身長はどれくらいだ?」

「身長でございますか?」

「ああ。写真はないのか?」

「写真はございません。」

わたくしはふと、これまで名前も興味がないと言っていたものに対して、名前ではなく、外観を聞くのは奇妙だと感じました。

「他にわかることはないのか?」

「身長は、わたくしと同じくらいでしようか?ただ、伏せって歩く時の様子をもって、でございますが。」

わたしの身長は1メートル70ほどでございます。

「うむ」

「髪の毛は少なくなってます。年齢は、おそらく、五十の手前だとは思われますが、正確にはわかりません。」

「そうか。」

「ええ。しかし、外見では風間さまとちょうど同じくらいに思われます」

「あんたは、そもそも俺の年齢も知らないだろう。」

あえていうなら、人間的な負の空気も似ている、のですが、そこまではわたくしも申しません。

「まあそうか。それは奇遇だな。」

そういった風間はその後も、たわいの無い言葉を繰り返すくらいでした。

 わたくしは、意図した恐怖反応を二つほど裏切られました。

 一つ目は、守谷という名前とその男に同様に送られた十四枚の同じ葉書の恐怖。

 二つ目は、守谷に瀕死の暴行がなされた事に対する恐怖。

 このどちらの一般的な恐怖にも、風間は、さほど驚かなかったのです。いや、あえていえば、一切驚く様子がございませんでした。

 それは、随分と不思議なことだったのですが、そのときのわたくしは公衆電話といういつ切断されるかわからぬ方の対応で考える余裕もございませんでした。話題の材料を出し尽くしたわたくしはもはや次の会話の手もないのです。

 潮時が迫っていました。

 せめて何かの会話を引き出さねばと、わたくしは脳内の有る事無い事を探しました。突然ブザー音がして公衆電話が切れてしまう恐怖の中でです。何か話題にできることでもないかと身の回りをさがしているうちに、ふとわたくしは昨日守谷のベッドの下で拾ったコンビニレシートの裏面の走り書きを取り出しました。どうせまた電話もつながらなくなるのであればもはやなんでもいい、と思いながら、

「もう一つ、聞いてもよろしいでしょうか?」

「なんだ?」

「すこしお待ちください。メモがありまして、、」

ふと気がつくと、東の空が濃紺の光を帯びてビルの黒々とした姿の間を染め始めています。わたくしはこの会話が最後になる可能性を思いつつ声を出し始めました。

「実は、守谷さまの、いや、あなたにとってはただの「同じ葉書」をとどけられた人間が、残したかもしれない、メモがございます。」

メモかどうかはわかりません。ただ、そう言い切るしかないでしょう。思えば風間と初めて西馬込で会った時もからは彼はメモを執拗に取っていましたが。

「メモ?」

「はい。ただこれは暴行を受けてから辿り着いた病院のベッドで、紙もなくレシートの裏に手書きされた落書きの文字列でございます。無論、手のひらに乗せてボールペンを走らせた程度に相当雑に書かれていて、なんのことかはわからないのですが、」

「……。」

「電話番号だとか、日本語の文章は書かれてはおりません。なので意味が見えません。しかし、仮にこれが人間の名前だとすると、ふとそれは意味をなすようにも思えるのです。無理筋かもしれませんが、見方によっては、これが四つの名前なのかもしれないと思われます。つまり四人の人間をメモに手書きしたのかもしれないと。」

「四人?」

「…はい。」

わたくしは、あれ、と思いました。と申しますのも、その「四人」という風間の声が、それまでの声と違って、なにか余裕を持たない印象があったのでございます。わたくしは間髪入れずに、

「四人に心当たりがございますか?」

「……。どういう名前がちなみにある?」

「風間さま。これは明確に名前を、つまり田中だ鈴木だと読めればこのような言い方はもうしません。わたくしには四箇所の殴り書きが、どうも名前に見えるということなのです。あえて言えば、二文字の苗字が三人、三文字の苗字が一人、のように思われるのです。」

「二文字が三人、三文字が一人。」

「……。はい。」

やはり、しっかりと今までとは違う声の調子でございます。風間は興味を示しているのです。

「その名前は?あえて、例えばで言えば?」

「ええと、それが読めないのです。」

「なるほど。」

「なるほど?」

「その、守谷という男が、残したメモに名前が四人。ということがなるほど、ということだ。面白いかもしれないな。」

「面白い?どういうことでしょう。」

「深い意味はない。いや、深い意味があるかもしれん。」

「風間さまどうか、揶揄わないでください。もしできれば、風間様のご認識されているものを、一部分だけでもわたくしどもにご教授願いたいのです。たとえば、十四枚の葉書が一体何を意味しているのかも、我々はわからないので困っているのです。」

わたくしはいつの間にか、芝居を忘れて心からそう声を出しておりました。

「……。」

「いかがでしょうか。」

「四人は、もう正解では無いかもしれんな。」

「正解では無い?えっ?」

「もう三人だということだ。世の中的には。」

「どういうことでしょうか?」

「……。」

「どういう?」

「深い意味はない。」

「四人か、三人かが関係するのですか。」

「まあ、人が死んだことになっている。」

「どういう意味ですか?」

「全身バラバラにされて死んだってことだ。さっきあんたは腕を切断されたとか言ってただろう。」

「どういうことですか?」

「どういうことも何もない。そういうことだ。今回も、死ぬまでやるってことだ。」

「今回?なんのことでしょうか?」

「この葉書は、今回が初めてではないんだよーー。」

「初めてではない?」

「……。」

トラックがごごごんごごごんと音を立ててまた数台走り去りました。ため息が混じりました。

「あんたは、まだ見ていないのか?」

「まだ見ていない?」

「アスファルトだ。葉書の示す場所に行っていないのか?」

「その場所?」

「言葉だよ。殺し合いをしろ、という伝言。」

「ことばですか?」

「……。」

わたくしがそういうと、風間は再び沈黙になりました。受話器の向こうのトラックの疾走音を鳴らしました。

「うむむ少し喋りすぎたな。忘れてくれ。」

「どういうことでしょう?葉書が初めてではない?」

「いや、忘れてくれ。」

わたくしは会話が逃げていくのに焦りながら風間の言葉の意味を理解しようと頭を必死に回しました。

 つまり、この四つの名前かもしれない言葉が、風間が逃げ惑う理由に連結し、守谷の私刑的な襲撃に関連する、風間と守谷の葉書以外の関係性をあらわしている。葉書が指し示す場所があり、その無署のアスファルトになにか伝言があるーー。

 自分で繰り返しても、ただただ混乱するばかりです。もう少し情報が必要で、わたくしは必死に会話を継続させようと、

「風間さま、お待ちください。理解を追いつかせております。このレシートの裏紙は重要なメモなのですね。葉書と同じように関係者には明確な言葉なのかもしれませんが、如何せんわたくしは部外者でございますから、文字の、おそらく人名など固有名詞の判別には苦しむわけでございます。」

「まあ、そうかもしれんな。それより、もうわかったよ。十分だ」

「十分?」

「ああ。あんたらもこれ以上深入りしても、なんの特もないからな。もういいだろう。」

突然、風間は電話を切る空気を出し始めました。わたくしは、焦り、

「風間さま今から、四人の苗字について昨日からわたくしなりに必死に考えた予想をもうしあげたいと思います。ただその代わりに、先ほどの電話でお聞きそびれました、十四枚の葉書の意味と、そのほか風間さまの知っていることについても、お答えいただけないでしょうか。」

「しつこいな。」

「いかがでしょう。」

「もういいって。それより、そうだ。そもそもあんたんとこは、軽井澤さんと御園生さんとでやってる事務所なのだよな?」

「はい?」

「そのあんたが所長で、御園生ってのが駆け出しの若手のようだが。」

「はい、そうですが。」

「いや、少し俺が勘違いしてたのかもしれないな。」

「どういう意味ですか?御園生がなにを?」

「いや、まあ良いや。とにかく今、俺はとにかく、うまく逃げたいわけだ。わかるよな。」

「どういうことでしょう?」

「わからないならいい。」

「しかし。」

「……。」

「風間さん、先ほどの会話の中で、全身バラバラというお話がありましたが、もしかすると」

「なんだ?」

「彼の腕についてですが。」

「その男の腕が切断されていたんだろう?」

「はい。ただ、バラバラというのが過去にあったとお聞きして、まさかこの後、あの守谷にもそういう可能性があるのかと思われ。」

沈黙があった。しかしその沈黙はそれまでのものと違い明らかに風間が何かの思考を巡らせているのがわかりました。」

「あんたが興味本位で知りたいことはもうその辺りまででいいだろう。」

「おまちください。」

「あとはもう、なんでも好きにすればいい。とにかく、あんたも、もうその四人を理解してわかってるじゃないか。知りたければ探偵らしく調べればいい。それより俺が知りたいのはそんな名前じゃない。葉書を誰が出したか、なんだ。誰に出したか、ではなく、誰が出したか、なんだよ。」

「……。」

「あんたは少しもそちらに向かってない。」

「すいません。そのことも勿論、対応いたします。ちょっと待ってください。」

わたくしの会話や言葉はほとんど、行き当たりばったりの破れかぶれになっていました。思いついた会話をただ投げつけるだけしかできないのが自分でも嫌という程わかりました。

 その時でした。

 炸裂音のようなものが電話の向こうで響いたのです。

「どうしましたか?」

風間の声がしません。受話器の向こうで、ごごごんごごごんという先程までの沈黙に流れたトラックの走る音だけは続いています。

「どうしました?」

わたくしは幾度となく、聞きましたが風間の返事がありません

「風間さん、どうしましたか?」

先ほどとは違い、電話はしばらく切れませんでした。つまり公衆電話はつながっているのに、風間の声がしないのです。

「どうしたのですか?風間さん。風間さん?仰った四人のことを確認させてください。風間さん、風間さん?」

わたくしが何を話しかけても、風間は声を出しませんでした。

 時刻は四時五十分を示していました。

 そうして如何程の時間が経ったかはわかりません。

 やがて公衆電話特有のブザー音が高鳴りながら、電話は切断されました。






九十四 去る男 (人物不詳 村雨浩之)


 夜明け。

 凍らせたペットボトルは思ったより、感触がよかった。

 男が殴った一回で、風間は頽れた。脳震盪のボクサーのようにゆっくりと崩れた。もともと背も小さく痩せていた。その横にリュックサックが落ちていた。その上を、潮の風が通った。ドブ臭い潮風だった。辺りには人間の気配がまるでなかった。

 轟々と大型車の走る車道からはちょうど死角になっている。

 男は、風間の横で看病でもするように腰を屈めた。あたりに人がいないのを確認して、氷のペットボトルで殴ったのである。

 まず意識を失った顔面をしつこく確認した。だが、一度確認をするともう二度とその顔面を視野に入れようとはしなかった。大丈夫ですかと話しかけている体制を取りながら、落ちているリュックサックを開け、中を調べた。着替え、財布、電話、メモ帳。

「……。」

財布には、何も参考になるものはなかった。荷物は多かった。免許証には「風間正男」と記載があった。どの荷物も、とりあえず自宅から色々持って出た感じがする。男はメモ帳をとりだし眺めた。小さな紙面に文字が埋まっている。その文字列を見回している。まだ、夜明け前の濃紺の夜空の下で、電話ボックスに蛍光灯が付いてなかったら男は文字を見れなかったかも知れない。

 濃紺の夜の底が少しずつオレンジ色に変わる方角が東だった。凍らせたペットボトルで殴った方の男はハンカチに染み込ませた薬品を再び、風間の口に当てた。こうすれば万が一眼を覚ますこともないだろう。そうして風間の全身を隈無く探した。この男を連れていくとすればGPSの問題があるーー。身体中を探したがなかなか見つからなかった。通行人がいない潮風の埋立地の物陰で、男の体をまさぐっていた。ジャケットの胸ポケットに手を入れたときに、ようやく探していたものを見つけた。

「なるほど。ここか。」

小さい銀色の錫のGPSシールを取り出すと、アスファルトで踏み潰した。そうして凍ったペットボトルと一緒に草むらへ投げ捨てられた。

 男はすぐ近くにとめた車との距離を測った。辺りに人影がないことを確認し、作業を開始した。この男を車に乗せて一旦は移動する必要があった。



九十五 是永  (銭谷警部補)       


 朝。

 私用電話の方が音を鳴らして揺れた。

 A署にいる警察学校同期の是永からメッセージの連絡がきていた。

 十年以上前、是永がまだ本庁にいた頃に一度だけ仕事をしたことがある。今はA署にいるので、先日の老刑事の周辺の調査を頼んだのである。調査というより同じ署なので知ってることを教えてくれれば、という程度のものだった。

「A署、槇村又兵衛」

メッセージアプリの一房目にはそう記載がある。

「ご依頼の件」

警察関係の人間に調べ物を頼むのに、警視庁のメールではない連絡手段を使うのは初めてだった。というより仕事だけをしてきた自分には警察関係以外の知り合いなど皆無なのだ。組織に捧げるだけの人生で個人のアドレスを持つ必要がなかった、とも言える。

 上野で若い石原と初めて酒を飲んだ時、古い日本の典型の自分が露呈するのが気になった。石原は言わなかったが客観的に見て組織にしか自分がいないような、組織に身を捧げただけの大人は若者に尊敬されない時代かもしれない。わたしは、石原のアドバイスにしたがって、刑事人生で初めて私物携帯というものを持つことを決め、あの翌日秋葉原の電気街まで歩き、中古のスマホを買った。秋葉原にいけば、すぐ手に入ると石原が意外にも詳しく教えてくれた。

 右手に新しい小さな電話。

 左手にこれまでの警視庁からの支給の電話。

 デジタルに遅れた自分が今更二刀流にでもなった気分だった。

 そんな右手の方の電話が音を出して小さく震えながら是永のメッセージを届け続けている。

「又兵衛は、定年退職ではなく公金横領」

随分な、内容がきた。これは省庁のメアドには送りづらいだろう。

「当人物について」

「いろいろ思うところはあり。この件はまた別途。」

緑の房が文字を載せて続いている。

 朝の一番に、見たくない内容だった。だが見たくはなかったのだが、どこかでそんな予感もしていた。私は槇村又兵衛と名乗る老刑事のなんとも言えぬ表情を思い出した。

(そもそも、定年退職の挨拶というのは嘘で、わたしのところに来たのか。)

わたしが感傷に耽っていると、

「又兵衛氏のことはもう少しまとめている。待てるか?」

と是永は書いた。是永は家族想いのこころ優しい人間だ。私とは違い、正しく人間の家庭を作っている。仕事だってそれなりに忙しいはずだ。それをたった一度昔仕事しただけの理由で、頼み事を聞いてくれている。

「ありがとう。」

指で書くまえに、声が出ていた。待つも何も、わたしには相談できる人間は限られている。太刀川が誇ったような華麗な人脈みたいなものは何もない。



九十六 昭和  (レイナ)


 最初に十四枚の葉書を見たとき、レイナは平成の終わりから令和にかけての未解決の事件を探そうと思った。殺人事件の復讐や顔面火傷の様な深い怨恨を、葉書の文字に感じていたのだ。風間正男と守谷保という人間がその事件に絡むはずで、レイナは彼らの名前をネット上のすべてのURLで拾い続けた。凶悪事件は大体これですぐ紐がつくはずだ。

 しかし結果は芳しくなかった。

 幾度かURLとは別のアプローチも試みたが、風間と守谷は犯罪歴なし。ネット上での誹謗中傷にも関連がなくいわゆるシロなのである。

 ただ、犯罪関連という意味で、ひとつだけ機械が提示してくる事件があるーー。

 どのデータが紐ついているのかわからないのだが、とあるかなり昔の、昭和の犯罪事件である。あくまで機械学習(ML)の結果で、風間も守谷も犯罪歴がないと一方で結論しながら、ある昭和の殺人事件に二人が関連したと言う計算結果が出る。調べると、その事件には別の犯罪者らがいて、彼らはとうの昔に逮捕され懲役も確定し刑務所に収監されている。どう調べても守谷や風間に関係しないのである。

 昭和の事件。

 昭和天皇が崩御した昭和最後の年の事件である。

 とある、若い女性の命が失われた。若い命を奪ったのは女性と同世代の未成年たちであり、都内の男子高校生含む未成年の少年の犯罪だった。繰り返しだが彼らは逮捕され刑務所に収監されている。もしかして何かの間違いがあるかもしれないと思い、レイナは手作業で幾度か調べ直したが、風間は大阪、守谷は北九州の高校出身で明らかに東京の下町の高校生が起こした殺人事件とは関係がない。年齢とも合致しない。

 レイナは首を傾げた。

 何か機械計算上の誤差があるのだろうか。

 昭和の事件は一度は世の中が忘れたものだったはずだ。三十年以上前、インターネットもまだなかった頃の事件であるのだが。

 あえていえば、そう言う事件が再び世の中に戻ってくることがあるーー。

 インターネットの時代になり、過去犯罪のさまざまな掲示板が乱立し、犯罪が物語として再現されるのである。残虐な事件だけでなく、犯罪の量刑などネット民が語りやすい事件はその傾向が強い。その事件は当時少年ゆえ実名報道もされなかったことと、被害者の女子高生の悲惨さに多くの言葉がネット上に未だ溢れていた。ネット民の声はおおよそ殺意にさえ満ちていて、逮捕された少年らがそれぞれ経歴から写真まで事細かくまとめられ、弾劾され続けていた。それらは今も、継続的に掲示板というなの罵詈雑言の文字列を増やし続けている。怒りこそが文字を生む、と言っても良いーー。

 機械はそれを何かしら拾ったのかもしれない。

 遠い昔の昭和の事件を、平成の終わりの事件と勘違いしたりするのだろうか。

 レイナは掲示板を漠然と追っていた。

 その時だった。

 どこかで予想をしていたテキストが視界に飛び込んできた。


(人殺しが、いつか刑務所を出てこの世に戻ってくると思うと、ぞっとする。自分の近所に住んでいるかもしれないと思うと、最悪だ。)


あっ、とおもった。嫌な方角から石が飛んできたような気がした。文字列はしばらくレイナの網膜に残り、目を閉じても消えない。呼吸が荒れるので、身体中の銀のピアスの冷たさをなでて、他のことを考えた。


(人殺しは、社会に戻るな)


辛辣な言葉を目が拾う。調査の仕事をしているだけなのに、自分の体が不自然な熱を帯びる。軽井澤さんの仕事に没頭していたはずの自分が、その言葉たちのせいで何も集中できなくなるのが判った。


(少年Aは地元の暴力団に入ったらしい。少年B、少年Cは今、まだ綾瀬に住んでいる)


あっ、と再び思った。レイナは自分の混乱が異常になる理由がわかった。

 少年Aーー。

 未成年の犯罪ーー。

 それは自分がパソコンを始め、施設の中で自分の名前を探しはじめたあの頃と重なった。施設にいたあの頃。少女Aと名付けられた犯罪者をパソコンの中で調べ続けたあの頃ーー。



九十七 朝の金町 (銭谷警部補)


ToZ


文学的に言えば、

百の事件には

百を被害者がある


一つとして同じ事件はない


また、殺人において

加害者にはまだ未来があるが

被害者には永遠に未来はない。


言ったはずだ。




同期の是永から又兵衛の公金横領という話を聞いたのは辛かった。いや正確にはその情報に違和感があった。横領をする人間の表情というものをわたしはそれなりに知っていて、昨日日比谷を歩いた又兵衛はそういうものとは真逆の目をしていたからだ。

 落ち着かないまま、仕事の携帯電話を取り出したのだが、手元が定まらず最初に迷惑メールから見てしまった。そこにはKからのメッセージがいくつかあった。

 朝の金町は、冬のように静かだった。まだ夏の終わりだというのに人も少なく、わたしは金町の駅にむかう河川敷の下道(したみち)をとぼとぼと歩きながら、自分の脳裏にやってくるいくつかの文言を並べ直していた。


百の事件には

百を被害者がある


加害者にはまだ未来があるが

被害者には永遠に未来はない。



 迷惑メールの文言は、ほとんど金石の言葉と同じだった。

 天現寺のあのバーでの思い出が脳裏を疾走し、そのまま又兵衛刑事の横顔と混濁した。何故かそういう被害者への解決を追いかけた結果、又兵衛という人間は、公金横領という汚名で警察官を去るのだと、なぜか脳天に言葉が堕ちてきた。不思議な直感だった。わたしは今表向き警察の仕事を奪われている。老刑事も横領ということであれば捜査の前線には参加させてはもらえないだろう。

 空を見上げた。青空が美しかった。ため息のような白い筋の雲がひとつだけ、見えた。

 考え事が止まらぬままわたしは駅に向かって歩いていた。

 考え事を繰り返しているのは仕事に真面目な人間だからではない。刑事の考え事がやめられないのである。仕事が一枚の油絵のようになっていて、この世にある全ての問題を全面解決する夢がある。その反面、未解決を抱えて生きているせいで、常に満たされないものがある。その不満足こそがわたしという刑事の熱源なのだ。

 K、のいう通り、百の未解決事件には百の被害者がいる。

 殺人が職掌である捜査一課が関わり行く被害者の人生は苦しい。第三者のできることなどほとんどないと言える。たとえ犯人を逮捕し事件を解決したとしても、死者は蘇らない。警察では百点になっても、最悪は最悪のままでしかない。 

 わたしは河川敷の下の路地で立ち止まってタバコを吸った。

 そうやって今日という一日が、始まっていた。

 いい日になる予感など何もなかった。

 人のいない河川敷の土手を見上げながら、金町駅までの日当たりの悪い道を歩いた。


九十八 暗い部屋 (人物不詳 村雨浩之)


 男はそのビルディングの部屋近くに車を停めた。まだ朝の早い時刻で人通りはなかった。先ほどの国道沿いの公衆電話から載せた「荷物」を袋のまま部屋に運んだ。袋の中で手足口を縛り、眠らせたままだ。

 先刻この荷物ーー風間と名乗る男は恐らく探偵と会話をしていた。探偵にあれこれと話していた。わざわざ携帯電話を恐れ、電話ボックスを探してまでして。再びあの場所に戻って。

 つまり、状況が変化をしてしまった恐れがある。

 風間、守谷。この二人だけを動かしても進まない。プランAを諦めて、もうひとり、できれば関わりたくないあの男を参加させる。やはりそれしかないと、感じている。男は例の古いパソコンを開いて、ドキュメントに思うままの言葉を書き連ねていったーー。



九十九 手のひら (レイナ)



「少年Aよ。おまえのような人間は、壁の向こうに居続けるべきで、人間社会に戻ってくるな。お前に残りの人生を生きる意味なんてない。」


 レイナはそのテキストを血まみれの死体でも眺めるようにしていた。

 社会に戻ってこない方がいいから、あの高い壁の施設で自分は育ったのだ。 

 何度も節子さんと会話した「生きている意味なんてない」という苦しい方の言葉が少しだけ蘇る。

 節子さんは反論した。けども、難しい反論だったと思う。だって、そんな人間がいたら嫌だもの。自分の記憶がないとかいって、記憶のないところで人を殺していたかもしれないような人間がご近所いたらどうやって暮らせばいい?そんなことにならないように、リスクがないように人は生きるべきなのに。

 軽井澤さんや御園生くんと仕事をして会議をしている自分を思い返す。なんの罪もないあの人たちに、自分の過去を隠してこの世に暮らしている自分が許せない。

 二人は素敵な人できっと自分とは違うーー。

 自分は誰かに近づいて生きてはいけないんだ。壁の向こうにいるべき人間なのだ。

 人間社会に復帰などして良いわけがないんだ。

 殺人を犯して、どうして十年二十年後に世の中に戻れというのだろう。

 二度と取り戻せない、命を失わせているというのに。




 

百  金町駅(銭谷警部補)


 早乙女捜査一課長から本庁の携帯にメールがあった。


「今日もまだ沙汰が出ない。もう少し、大人しくしていただきたく。」


一瞬よくわからない、変な文面だと感じた。少なくとも、心に引っかかる。

 わたしは嫌な気持ちのまま、金町駅のホームにあがった。

 追越し線を緑を基調にした列車が通り過ぎていく。常磐線の快速だ。

 昔は、ピンクに白の不思議な色違いの湘南列車みたいなものも走っていたが、あの車両はどこに売られたのだろうか。最新式の列車の疾走を見ながら、もう使われない旧式の電車のことをなぜか思った。それは何か自分の置かれた状況を象徴するかのような、似つかわしい虚しさがあった。

 早乙女課長のメールが心に引っかかった。いや、あえてそういう含みを入れている点が嫌だった。

 まだ沙汰がない、とだけ言えばいいのに、

「もう少し、大人しくしろ」

というのは何だろう。もしかすると、わたしが太刀川の件で色々と動いていることに触れているのか?石原のことを知っているのだろうか?わたしのメッセージを全て、見ているならそれもあり得るだろう。と言っても、二日程度で、そこまで読み込めるのだろうか。実際わたしと石原は、さほどメッセージのやりとりをしていない。すでにお互いの使用の連絡手段に切り替えている。

 わたしは処分待ちの人間に典型的な、後ろ向きの勘ぐりの中にいた。

 実は、最低限わたしのことを思って早乙女が火消しに動いている可能性もある。部下の不祥事は避けたい管理職の心理もあるからだ。が、どこかでそういう想像に向かわない。明日には突然、パワハラという雑な言葉で、聞いたことのない警察署に異動になり、刑事現場の人生を終わりにさせられる。そういう想像の逆算で人事権者を見てしまう。わたしは自分に染みついた、警察組織らしい人事に受け身になる性質を恨んだ。

 待機。

 結果が出るまで、何の権限も情報もなく、裁判を待つ被告のように暮らしているようなものだった。それでも前向きに刑事の仕事を思っている自分の気持が何より辛かった。

 酒を飲みすぎた朝はいつも最も後ろ向きな気持ちになる。

 常磐線の駅敷台(プラットホーム)に立ち尽くし、左は千葉、右は都内へと真っ直ぐに伸びる、二本の銀色の線路を見おろして呼吸をしていた。人間が死のうという場合は、この線路と、列車の車輪の間に入ればよい。命とは実に簡単である。消えて無くなるだけのことなのだ。線香花火のように少しだけ膨れて最後の叫びをするかもしれないが、終わった後になにもない。何かがあるなんてのは妄想だ。誰だって同じく土に帰るだけだ。何も変わりはない。

 大袈裟な冗談が静かに一歩一歩自分に現実の色彩で近づいてこようとしている。

 命を捧げてきた刑事の仕事ができなくなるのなら、その時に、そこで終わりにすればいいじゃないか。幾度か、わたしは線路を見て思ってきたことでもある。繰り返しだが、わたしには仕事以外に家庭も何もない。仕事以外、唯一の趣味であるアルコールは、仕事のストレスの反作用でしか美味い味がしない。

 わたしは気を紛らわそうと、もう一度電話をいじった。


ToZ


こどく。

被害者の孤独。

そのとなりに自分がいるのか?

ましてや、被害者と加害者の、その対立構造などを作っている奴らに加担してないか。


      K


哲学的な設問を混ぜた散文が幾つか迷惑メールに溜まっている。Kと名乗る男は、こういう思想的な文言を大事にしていた。わたしの知っているKにはそういう性質があった。奴の脳の底には、そういう言葉がたくさん蠢いていた。ただ、滅多にそれを開陳しない。話をするのは彼の方でも大抵、アルコールの力を借りている時だった。我々は仕事終わりにしばしば酒を酌み交わしたが、そう言う会話は居酒屋の最初ではなく、もっと酩酊が進んだ、ウィスキーの香りの漂う場所でと決まっていた。

 メールの到着時刻を見ると朝の三時。となると、奴は今も随分と深い酒を飲んでいるのかも知れない。

「朝から、命の話か……。」

声に出してみると恐ろしく小さな声だった。横に並んだサラリーマンたちは誰一人気がつかない。わたしの声は小さく、世界の誰一人聞いて拾うことはない。

「死んだ被害者、と、その遺族。」

自分がもっともっと優秀な刑事だったら、と思うことは幾度もある。

 早く、解決してやりたい事件。墓前に報告をしてあげたい、事件。

 早く、解決してやりたい。

 墓前に報告をしてあげたい。

 遺族の悲しみを目の当たりにしたから、わたしは刑事の仕事が辞められなくなった。いや、自分の精神衛生の中で、そこを離れられなくなったと言っていい。仕事ではなく、遺族の仇打ち(かたきうち)のように生きる自分が生まれてしまったのだ。

 事件のたびに、捜査一課には人間の死が届く。金町のこの駅で列車の車輪と線路の間で体を八つ裂きに裂かれるような、死ぬという現実だ。そうして、わたしが死ぬのとは違い、人間の死ぬ事件には必ず被害者の遺族がある。愛するものを失った被害者遺族にとっては、もしここが殺人の現場ならば、この線路さえ見たくもないトラウマになるだろう。

 実のところ、恐ろしさはほとんど知られていない。

 被害者にならなければ、もしくは被害者の隣でというほどの生活をしなければ、実際には誰もわからないからだ。

 被害者は毎朝、八つ裂きにされる家族の最期を思い出し、その場面を忘れるしか解決しない苦しみを背負って生きる。生活の中で亡くなった娘の最高の思い出を思うたび、その最悪最期の現実が織り混ざって、胸を苦しめる。思い出すことも苦しくなる。しかし、失った娘を思うその気持ちを忘れることは、実はその失われた命にとって申し訳ないという感覚が混ざる。人間は全ての人に命を忘れられた時に二度死ぬのだという詩人の言葉も被害者を苦しめる。繰り返すが、被害者には一切の救いはない。

 反して加害者側はそうではない。

 二度と戻らない人間の命を奪った現実に反し、被害者遺族に途轍もない苦しみを与えたことにも反し、加害者である罪人はたとえ死刑になっても明日がある。被害者の朝が過去の嗚咽に向かうのとは逆に、死刑はすぐにはやってこない。下手をすれば、死刑にもならず、世の中に戻ってきて酒を飲んで暮らすこともできる。

 そうだ。

 金石、いつもお前はそう言ったな。

 被害者と加害者を並べることだけは許せないって。六本木事件のテレビ報道がそれをやっていた。被害者が報じられていくうちに、どこかで力が加わったかのように、加害者の周辺のさまざまな物語と被害者の命は混乱したままテレビの画面で共存した。善悪より事件の映像の力の方が視聴率にとって大切になった。結果、こともあろうに被害者の生活や、関係のない六本木界隈の背景ばかりが報道された。

 金石。お前は、まだ解決させられないわたしを恨んでいるのか?

 あれだけのヒントを残したのに、未だに何も進められていない、このわたしを。

 だからこんなメールを何度も送ってくるのか?

「そうだ。その通りだよ金石。お前のおっしゃる通りだ。それどころか驚くことに、わたしは刑事を首になる可能性さえあるんだよ。そうなれば手錠を犯罪者にかける役割をできなくなるかもしれない。それに加えて悲しいことに、線路を見て自分に人生の終わりのことを思ったりしている。笑ってしまうだろう。金石。殺人犯を追いかけていたつもりが、自分が殺人者になろうとしているんだ。まあ、被害者と加害者の話にはきっとならない、その二つが同一人物になる、奇妙な殺人だろうけどな。」

その時、電話が鳴った。私用の方の電話だった。

「はい。」

わたしは最悪の気分で電話に出た。自分でも驚く、ずいぶん暗い声だった。

「もしもし」

「どちらさまですか。」

「おはようございます。石原です。こちら、銭谷様のお電話でよかったでしょうか。」

石原だった。まだ彼女を登録していない。

「ああそうだ。おはよう。」

「もしできれば相談がありまして。」

あまりに機嫌が悪く驚いている石原に、わたしは素直に詫びた。石原は最初戸惑いながらも、淡々と電話の要件を述べた。今朝の尾行を早々に見失ったという話で、私は、ひとりで尾行して見失わないほうが難しいという話をしようと思ったが、石原なりに思うことは他にもあるらしい。

 電話まで途方に暮れていたわたしに、電話越しの石原の熱量が強かった。それは何か人間らしい強さだった。振り幅が戻り始めるーー。

「いかがでしょうか。このあと時間はあります。」

仕事に向かうあの単純な気概が落ちてきた。一人で壁に向かう必要はない。志が同じなら刑事は議論ができる。

「わかった。では前回の場所でまたどうだ?」

「どちらの前回ですか。」

「まだ酒を飲む時間ではないだろう。」

「はい。」

「例の喫茶店でよいでしょうか。」

金町から霞ヶ関に向かう途中の千代田線に前回の喫茶店がある。

「もちろんだ。場所はどこでもいい。石原のいる場所にもよるだろう。」

「ありがとうございます。ちょうど湯島の近くまできていました。運がいいかもしれないです。」

「運がいい?」

わたしは奇妙な声を出していた。そうか、運がいいのか。乾いた、明るい自分の声が、自分の耳に届いた。

 運がいいという言葉のせいだったかもしれない。最悪の朝の気分が石原のおかげで、ぶつり、と切断された。それはありがたい切断だった。

 わたしはもう一度、線路を見た。

 生首を介錯する刀のように銀色の輝く二本の線路は、千葉方面からゆっくりと千代田線の直通列車をすべらせてきた。湯島まではほんの数駅である。



百一 独白 (軽井澤新太)


 地下鉄千代田線は地上に出たあと北千住から常磐線に直通します。そのまま荒川を越え、綾瀬、亀有、金町と過ぎるあたりに、千葉との県境の江戸川の巨大な堤が見えて参ります。

 県境の手前の、金町の駅を降り江戸川の方へわたくしは歩きました。

 いつもの多摩川ではございません。わたくしがその日向かったのは、多摩川とは逆の東京の東の外れにある河川敷です。そこは、かつてわたくしがボクシングを始めた場所なのです。多摩川と比べたらだいぶ古くからの場所になります。

 経営者も途中で変わったのだと思いますが詳しくは存じ上げません。古いジムには会員アプリもありません。ただ暗い顔をして門を叩けば、だれでもビジターでボクシングはできるものです。どんな人間も選ばずに殴り合わせてくれる。拳と拳との間に差別がない。それが拳闘であり、ボクシングというものの持つ不思議な魅力でございます。そういう人間の陰影にこのわたくしが魅了されているのは既に申し上げました通りです。

 駅からジムに行くまでには一度河川敷の階段を上がります。葛飾区や江戸川区の一級河川の堤を、ご存知ない方は想像が苦しいかもしれません。二階建ての民家の屋根よりも高いのがこの河川敷の堤防なのです。

 土手から見下ろした街は昭和の色彩とでも言いましょうか。押蔵饅頭のように背の低いゼロメートル地帯の街並みは、どこかに年月を重ねた喪失があり、その黒や灰色の印象の強い屋根を一層暗鬱に見せて底に沈んでいました。その川近くの角地に同じ昭和の香りを残したまま、ジムはございました。

 今朝の四時、風間が電話を切ったあとからわたくしは、何もすることができませんでした。突然切れた電話の後の沈黙は不気味な闇のようでした。わたくしは布団にくるまると、脂汗が自分の全身をずぶ濡れにするのに耐えるばかりでした。体が痺れて、昼過ぎまで、眠気と、眠ると悪夢が来るような恐怖から、眠ることさえできない呆然の中にありました。御園生くんからの電話も含め誰からの電話も出ませんでした。布団にくるまったままスマートホンで、風間と守谷の名前をなんども検索をしました。検索窓に、池尻病院とも入れました。新宿歌舞伎町の平成企画も入れました。そうして目を画面に奪わせながら、自分が考えて整理をすることさえできないまま、時間だけが過ぎました。

 毛布にいくら蹲っても、また再び、紗千の悪夢の場面が押し寄せて参ります。おそらく自分でも制御出来ない脳の命令系統があって、その拒否物を幾度も再現してくるのです。

 結果、わたくしは、このジムを目指したのでございます。

 つまり、多摩川ではなく、かつてボクシングを始めたジムに来て体を痛めつけることにいたしました。理由は自分で言葉にできておりません。脊髄が突然判断して、わたくしを東京の東の外れに向かわせた、というのが事実だったと思われます。ただ当然何もなくそうはなりません。ええ。もちろん闇に飲まれた理由がそこにはあるはずです。ええ。ここではあえてこういう書き方にさせていただきたいところでございます。

 ジムに着き次第、わたくしは準備運動もほどほどに、無心にサンドバッグを叩き始めました。筋肉が攣るくらいまで打ち続けます。汗が滲み始めます。右ストレート、左フック、そういう言葉で追えないくらいに、右左右左を気狂いのように連打する。呼吸もままならぬ間に何十回もサンドバックを揺らし続け、筋肉を弛緩させる。そうし続けることによってやっと、すこしずつ、脳の中の悪魔が溶解して、何か自分らしい言葉が整理され始めるのを感じました。

 今朝までの、多くのやりとりがあります。

 西馬込の猫の死体、歌舞伎町の執拗な私刑、葉書に逃げ惑い連絡が取れなくなっていく二人の目つきの悪い男。不気味な手書きの葉書が二十八枚。そして、通知不可能の公衆電話からなされた、奇妙な会話のやりとり。それらに引っかかりながら逃げることをせずにいる自分。

 自らを落ち着かせ、もう一度、今朝四時の風間のことを頭に描きます。公衆電話の会話の中で、わたくし(軽井澤)のことばに彼が不気味に立ち止まったその場所を思い描きます。例えば、風間は「守谷と同じ年齢」というところで間合いを変えました。奇しくも同じ葉書のことではなく、守谷の身長や見た目を聞いてきました。唐突な四人の仮説についても、風間は少し感情の昂りがありました。やがて彼は何かを理解したかのような声を出しました。勝手ながらわたくしは、ある理解の直前までわたくしの狙う方角へ、会話が進んでいるような印象も受けました。そして突然、会話がこれからというところで再び電話が切れました。

 わたくしは整理をしながら無心にサンドバックをたたきました。ひと通り汗が滲むまでサンドバックを叩き終えると、ランニングのために外に出ました。堤をかけ上ると、江戸川の河川敷の美しい眺めが遥かに広がります。まっすぐ川面の輝きを追うように草緑の堤が並んで関東平野の奥へと伸びていきます。わたくしは、ゆっくりと走りながらもう一度、脳裏に言葉で整理しました。


1。風間は、十四枚の葉書が守谷のものと同一であることには反応が薄かった。

2。葉書についてではなく年齢や身長など見た目の質問を逆にこちらにしてきた。

3。守谷の残したメモの、四人という言葉に反応があった。そのことについて、三人だという言葉も言いかけた。

4。電話は再び突然切れた。ただし、一回目と違いお互いに会話を続ける意志があったなかで切れた。切れる時に心なしか鈍い音がした気がする。また、その直前になぜか、軽井澤、御園生という名前をなぜか突然語った。唐突で、今思えば、文脈に合わない。

5。葉書を「見ればわかる」の姿勢は変えていないが、その内容を教えようとする様子があった。電話が切れたのはまさに、その会話に向かった矢先だった。


 言葉を並べながらわたくしは、遠く河川敷の伸びゆく埼玉方面に向けて走っていました。この辺りは千葉と埼玉と、東京の端とが重なる中をいくつかの河川が複雑に縦横に行き交います。

 風間と守谷の葉書の周辺は、明らかに何かの背景や事情が存在することを思わせます。そして当初から変わらず、強く陰湿で怨念の強い、恐怖感が漂います。少なくとも守谷も風間も、過去の好ましくない出来事から、逃げている印象であり、その逃げる姿を葉書の何かが追いかけている。葉書を書いた人間がそうさせている。そう言う恐怖構造を感じます。そしてその恐怖には、命に関わる怨念や狂気、さらには本当に殺すのだという強い意志が漂うのです。

 しかし、これらの整理をしながら、その前に、わたくし自身のことについても整理をしなければならないのです。なぜ、わたくしは、逃げないのか。この突然巻き込まれた不気味な二人の男から逃げないのか。そればかりか、むしろ積極的に彼らと対峙し、自分の中でどうにかしようという意識を持ち、挙げ句こうやって、河川敷で自らに重圧を課すかのように肉体を駆使までして、この状況に対峙しようとしているのか。

 問題を解く前に、問題に向かう理由が自分の中で省略されているのでございます。

 今ここにきてみて、そういう矛盾が、わたくしにサンドバックを叩かせ、走らせていることがよくわかりました。加えて、その方面の整理も、走り続ける脳裏に少しずつ、落ちて参りました。理解を進めながら、わたくしは再び無になろうと走る速度をあげました。しばらく疲れ果てて心が何も描けなくなるまでそれを繰り返そうとしておりました。そうすることでしか自分の中に生じる冷静な真実を見極められない気がするのです。

 伝わりにくいことだと思います。

 いや、あえて申せば、誰にも伝わらないことを前提に、わたくしは言葉を整理しているのです。それは誰に説明しても共感など叶うものではない、ということだと、考えます。もっと言えば、誰が聞いても

「軽井澤自身が犯罪を犯したわけでもなく、そんなことを気にする必要などないのではないか」

と終わることとも言えるでしょう。ええ。既に誰にも話さずにもう十年以上過ぎていることなのです。

 走り続けていると、河川敷の土手からは古い寺院がいくつか見えます。そのほとんどに墓地があります。卒塔婆がまだ新しいのもあれば、いつの時代かわからないくらい古い風情の無縁仏も沢山あるように思います。墓石の数全て、人生を終えて墓標となったのだと思います。例えばーーこの墓のそれぞれのどの人間の生涯を我々が思い出し振り返ることがありましょう。人間の過去は全て何もなく土に帰る。歴史の偉人でさえ、殆どの心中の思いは伝わりもせずに土に帰るだけなのです。さすれば、わたくしの思い悩む過去のことなどは塵埃そのものでしょう。果たしてこうして語り言葉にすることにさえ躊躇がございます。本当に世間の皆様には申し訳のないくらい、くだらないことなのですから。

 かつて、わたくしは今の人生のような生活とは真逆の生活を送っておりました。わたくしは前職の頃、いまから八年より前の人生においては、ほとんど考え方も生きる目的も含めて、別人格の、全く別の生活をしておったのです。全国展開する放送局というものに勤めて報道記者をしていました。

 たとえば、例を挙げれば、今回のような、血生臭い事件的なものにこそ昂奮してきたのです。人間の生き死にの局面を扱う生業を持っていた、とも言えましょう。そういう興奮を使って自分の正義を設計し仕事を正義化させ、(そして商品化を行い販売して)自己満足をして放送局という企業で高給を取っていたのです。そうして、ある種の安定を得ながら、また別の説明しづらい理由で、その放送局から突発的に逃げるように職務を放棄して去ったのです。必死に自分の過去を黒く墨汁で教科書でも塗るように消して。

 申し訳ございません。まだまだ言葉の整理が足りているとは思いません。

 相当長い言葉を尽くしたものを我慢して読んでもらうか、血を振り絞って覚悟を届けながら書くでもしない限り、わたくしの内面は伝わらないでしょう。果たしてこの多忙な現代社会でそんな精神の彷徨を辿っていただく時間が誰にあるのでしょうか?実際自分の家族にさえわたくしは何かを話せたことはないのです。また話したいとも思わないのです。黒く墨汁で消した過去を話すどころか、話すための言葉の用意もないのです。

 ただ、これらの混乱の結果としてーーーわたくしは何か過去に呼び出されたような気分を持って、この江戸川沿いのボクシングジムに戻ったのです。認めたくない自意識を見つめ直していうならば、わたくしはいくつかのことを確かめなければならないと思ったからなのです。あの葉書の文字列を読みながら、そしてどうやら現実味を帯びた四人の名前を並べながら、黒く塗ったはずの教科書の文字が炙られて、浮かび直してしまうかのように思えたからなのです。言うなれば、自分の知らぬところで過去に黒く墨で塗り潰したはずの全てが、突然の大雨で洗い流されて丸見えになるのを恐れたのです。

 罪というものを人間は忘れようと致します。忘れさせてから残りの人生を暮らしたいのです。濃淡程度の差こそあれ、人間はそういう性質を持っています。わたくしが過去にあったことを深くは語りたくはないように、誰しもにある程度望ましい過去と望ましくはない過去があるはずです。過去の犯罪の履歴などがあれば、その罪を日々なぞり見つめ直し生きるなどは堪え難いものでしょう。そんな苦痛ばかりの人生が成立しうるのか甚だ疑問でございます。

 とはいえ、真っ白に過去を消さんとする誰かの姿勢にも、どこか無責任が宿るのも真実でしょう。自分さえ良ければいいという言葉が、網膜に活字で暴れる。そういう罪悪意識の錯乱がわたくしに、あのような悪夢を見せ、あのような映像を生成させるーー。

 わたくしの自意識は二つの間を往復をしていたのだと思います。

 忘れて黒く塗りつぶして生きるべきか。

 毎日繰り返し罪を思い出して、解決のない憂鬱の海底に自分の独房を定めるべきか。

 その二ヶ所の往復の中でわたくしは最初前者にあった。そして今回の葉書に導かれるように、後者へと移行していった。それが真実なのでしょう。どこかで過去に導かれ、見て見ぬふり、知らぬ存ぜぬで生きることができなくなり、この江戸川の曰く付きのボクシングジムに知らぬ間に足を運んでいたのです。気がついたらこの河川敷にいたのです。

 見渡せば遠く南の川下の空が白く霞にたなびいていました。川の下流に向かう風が海の方から押し戻されているような澱みを感じます。

 小一時間もそうしていたかもしれません。風がまるで自分という主格主体を持たないようにわたくしの心もどこに向かうのか正直わからなくなるような寂寥に、しばらく土手に体を投げ打って言葉を失っていました。

 その時でした。

 わたくしの携帯電話にメールが着信しました。

 それは珍しい名前でした。

 佐島恭平。

「軽井澤さま ご無沙汰しています。佐島です。もしご都合が良ければ、本日、お時間いかがでしょうか?東京におります。どこにでも、伺いますので」

 




百二 仕事 (レイナ)


 レイナは少し気になっている。

 実は軽井澤さんは何かに関わっていている気がするのだ。

 機械の計算で出た昭和六十四年の事件やその周辺にある幾つかの暗号めいた部分に。

 その理由はわからない。ただ直感だけがある。むしろなんらかの関係があるせいで軽井澤さんは逃げられないのではないか。本来は避けるべきなのに、執着させられているのではないか、と感じてしまう。

 どうなのだろう。

 軽井澤さんは本当に何も知らないのだろうかーー。

 もし何も知らないのであれば、すぐに止めるべきだが。


(軽井沢さん。収監刑務所が遠く高い壁の向こうにあるのは、人間の正気を保つためですよね。殺人犯を目で見て触れるということは教育上だけでなく、様々な意味で危険なんですよ。素直で何の問題もない美しいものを、乱れさせてしまうんです。純粋な心であればあるほど悪に飲み込まれやすい。混じり合っていくうちに戻れなくなる。だから昔の罪人は、壁の向こうに置いたり、遠い島に流したり、命をおわらせたりしていますよね。

 風間も守谷もそういう人間に思えます。

 証拠は取れていないけども、でも直感が大切です。こんな人たちの要望に対応したり絡んだりする必要はないんです。今すぐやめましょう。)


 レイナはそう心で呟きながら言葉を整理した。

 しかしそうやって言葉を集めながら、レイナは自分の胸が苦しくなり、頭痛や吐き気が止まらなくなってきた。

 何故なら、その言葉が正しいのなら、レイナ自身が、軽井澤さんや御園生くんと関わることは辞めるべきかもしれないからーー。


「この事件に関わるのを今すぐ、辞めたほうがいい。」

レイナは、軽井澤さんに言おうと思っている言葉を独り言で呟いた。


 千葉の内房、東京湾を望む君津の町の手前で、路肩に車を止め、しばらくタバコを吸った。

 小一時間ほどそうしていただろうか。

 レイナは後部座席のトランクを開けた。

 そこには男物の服装と一式が入っている。

 レイナは初めて自分に仕事を与えてくれた軽井澤新太という人間のことを思った。初めて他人のためにスクリプトを考えたのは軽井澤事務所の仕事だった。そういう時間を与えてくれたのが軽井澤さんだ。それまではレイナは全て自分のためにスクリプトを書いていた。誰かの調査のような受注業務として、頭を使ったことはなかった。誰か他人のために仕事をすることが、レイナには初めてで、それは明らかに新しくて別次元だった。

 もう、軽井澤さんとの仕事をはじめて八年にもなるのか、とレイナは右手を見つめて思った。

 会ってはいけない、触れてはいけないと思いながら、レイナは無性に軽井澤さんに会いたいと思った。

 レイナはもう一度、その男物のスーツを見つめた。



百三 不忍池(銭谷警部補)  


 過ぎ去ろうとする夏が午前の上野不忍池を冷やしていた。

 モーニングを終えた時間帯で客は疎らだった。手前から二つ目のテーブルに石原は横顔で座っていた。

「おはよう。」

「おはようございます。」

わたしは席につきながらコーヒーを頼んで、タバコに火をつけた。

「すいません。収穫ゼロです。朝から見失いました。」

日比谷線の六本木駅で太刀川に似た人間を見つけたのだが、本人の確証ないまま追ってしまったが、よくよく確認すると別人だったというのである。

「今朝は太刀川は、いつもの時間にはいなかったようでした。」

石原は一日を失って、時間を無駄にしたことを悔いていた。わたしは、懐かしいものを見る気持ちになった。

「君はそういうけど、土台一人で尾行など無理な話しだろう。」

本当は一言目に、毎日ありがとう、それだけで嬉しいのだ、と言いたかった。が、成果の出る前に褒めるのは得意ではない。

「はい。しかし、気をつけます。」

そう言った石原は何故かいつもと風情が違う感覚がした。わたしは女性の顔面を見つめ返すのが苦手だ。中学校の頃からそのことは変わらない。

「すいません。」

「すいません?」

「眉ですよね。」

「まゆ?」

時間を挟んでやっとわかった。違和感は眉毛だった。それが今朝の変装の跡だ、ということが落ちてきた。

「いえ、昨日の今日なので、気になってやってみたんです。その自意識過剰だったかもしれません。」

「変装を。」

「今後も幾度も太刀川を追いたいので、顔バレのリスクだけ減らそうかと。でも中途半端な変装のせいで、視界を狭くしてしまい、見誤りをしました。」

石原の座席の後ろに芸人の隠し道具のようにボストンバックが置いてあった。変装というのは、無駄に嵩張る。あまり見せたくないと言う風情で石原が言ったので私は言葉を重ねなかったが、彼女なりの変装の道具、着替えやカツラが入ってるのかもしれない。

「何だか、不慣れですいません。」

「いや、ありがとう。」

わたしは思わずそう言った。

 単純に変装したことについてではない。石原のその姿勢に自分の感謝があった。わたしが頼んだことをやるのではなく、わたしが頼みたいと思ってたことを、言葉を聞く前にやってくれたのだ。わたしの周囲から消えて行った、かつて刑事には当然存在した喜びが目の前にあった。

「ありがとう。」

わたしは恥じらいもなく言葉が出ていくのを感じた。脳で考えたものではない脊髄からのわたしの言葉だ。わたしは日頃、計算でこの美しい日本語を使いたくない、と思っていた。夏の終わりは、少し素直になれるのかもしれないと、なぜか思った。

「いえ、もっとがんばります。すいません。」

石原はまだ完成もしていない、自分の変装については語らず、奥床しい、空気を保ちながら、反省ではなく対策の弁をいくつか述べた。わたしはそれらに過去の経験からの助言をいくつか試みた。そういう会話の中でコーヒーが届いた。

「太刀川の交友関係について、もう少し調べてみました。」

「うむ。」

「意図は分かりませんが、経済関係の人間以外も、交流があるようです。」

尾行一日で、なぜそんなことが判るのだ、という質問をわたしは一旦飲みこんだ。小板橋は、これを始めるのに、質問だけの打ち合わせを三回は要求するだろう。自分で考えてない人間は会議ばかりを求める。

「たとえばですが、慈善のようなこともやっています。」

「慈善?」

先日の会話で、太刀川が慈善という言葉を出したのをわたしは思い出した。

「昨日の埼玉は多分それです。」

「うむ。」

「パラダイムを経営していた頃には慈善事業は、領域になかったですよね。」

パラダイムを経営していた頃に、太刀川が慈善事業などに手を出したことはありえない。そんな精神状態ではなかったはずだ。

「まあそうだな。」

「例えばなのですが病院関係とか、難病の人間の支援や、交通事故の被害者支援、犯罪被害者支援、そういう場所にも足を運んでいるようです。」

「やつはそういうインターネットの顔を消している。自分で発信をしてるわけではないだろう。どうしてそれを?」

「はい。太刀川龍一がネット上にアカウントのないのはおっしゃる通りです。」

「うむ。」

「ただ、逆に、彼が関わった慈善団体の側が地味にSNSなどにあげたりしているんです。」

わたしは驚いた。そんなものを拾う方法が想像できなかった。

「それを拾ったのか。簡単ではないだろう。検索してすぐ出るならば、今のように世の中がここまで太刀川を忘れないだろう。」

「地道なパソコン作業は大切だと警部補は仰ったかなと。」

「パソコンか。」

「いえ。Googleのほうで画像検索がリリースされたので、使ってみたのです。意外と拾えたので、自分も驚きました。」

「画像の検索?」

わたしは上野で饒舌に酔ったときに多くのことを嘯いた自分を恥ずかしく思いだした。自分なりに様々なことを調べてきていたつもりだったが、やはり一人の作業や、ものの見方には限界があった。そしてやはり、わたしはもはや古い人間だった。

「なるほど。」

「慈善団体側が、自分らのホームページに来訪者の写真をあげたりします。太刀川の個人名が記載されてはいませんが、集合写真のなかに太刀川が写っているものが幾つかありました。時季的にも、パラダイムを辞めた後です。」

「慈善団体側の、写真ということか。」

「太刀川の名前の検索では出てきません。画像検索で人物認識された場合にだけです。」

石原は、そういって、適切な位置に灰皿を置いた。

「それと。」

少し、石原は思うことがあるらしい。

「どうした?」

わたしはタバコを蒸しながら、伏し目にコーヒーの漆黒の細波のほうを見つめた。

「その、僭越かもですが」

「気を使わないでいい。我々は他に仲間はいない。」

仕事はできる奴が進める。どんなに若くても関係はない。

「はい。その、なにか、彼の中には必死さがあるように思えてなりません。」

「必死さ?」

「はい。必死に生きている、というか。のどかに、手ぶらで歩いているようにも見せているのですが。」

「……。」

「朝、六時からです。まだ検証していませんが、銭谷警部補のころから続けて毎日これだとすると異常です。」

「うむ」

「何よりあの若さで成功していると、遊びの方で普通は派手になります。それなのに、警部補が先日おっしゃったように、夜の街に全く向かわなくなった。」

「うむ。そうかもしれないな。」

「以前は、六本木の界隈でそれこそ夜な夜なの賑わいを呈していたようには思いますが。まだまだ遊びたい盛りだと思うのです。」

若い石原から、遊びたい盛り、と言うある種、冷めた言葉が出てきたのは私には意外だった。変装の後のせいか石原はスーツの襟が少しだけズレていた。

「加えて、やはり自分の中で腑に落ちて無いことがいくつかあります」

「例えば?」

「まず、インターネットを辞めているというのは本当なのか?これだけの人と会っていると逆に不便になる気がするのです。情報もとれない。」

「うむ。」

「あと、以前申し上げた部分に近いのですが、やはり、その地下鉄に乗ると言うところがちょっと不思議で。なんというか、金があるなら、タクシーで移動すればいいはずです。東京はそこまで広くない。地下鉄で移動するよりもよほど早い。」

「どうだろうか。わたしも人のいない地下鉄は好きだが。」

わたしは今の石原とかつて同じことを考えたことを思い出していたが、あえて逆のことを言った。まだ朝の日課を変えていないことに、その疑念は強まる気もしている。

「警部補は地下鉄がお好きなんですね。」

「……。」

「太刀川と趣味が合うかもしれない。」

「わたしが?」

「いや、そう言う意味ではなくて」

「どういう意味だ。」

「いやなんでもございません。すいません。」

石原里美は、飲み込むように言葉を止めた。

「まだ初日だからな。」

「はい。」

「この方向で少し続けてもらうのが良い。尾行は毎回成功させる必要はない。」

「ほんとうですか。」

「本来尾行は大勢で行う。個人の作業には限界がある。わたしの顔が割れてることもある。人員が少ないのは申し訳ない。むしろ無理をしすぎないで継続してもらいたい。」

石原はそれを聞くと少し安堵したような表情になった。

「かしこまりました。」

声が美しく静かに喫茶室の小豆色のフェルトの壁に馴染んだ。

「それと。」

石原はまだ言葉を残していた。

「銭谷警部補。このあと少しだけお時間ございませんか。」

「時間はあるが何だ。」

「ここは湯島ですよね。」

「その通りだ。」

「前回の話の続きです。湯島についてちょっと気になっていまして。」

「気になったというと?」

「太刀川の創業の関連で、つまり創業の関連するとある部屋を不動産屋に聞いて調べたのです。」

「部屋を?」

これも早い。先手先手と様々なことを動かしていく。繰り返しだが官僚風情の後輩たちは手を動かす前に手順を重視する。手順よりも捜査が進むのは四方八方に手順の確認より先に先手で手を動かすことだ。

「はい。今の太刀川はオフィスも持っていません。何らかの秘密の作業を行うならば、都合がいい場所が必要なのではないかと、少し探ったのです。」

「なるほど。」

「もしお時間があればここから近くですので、見てみませんか?その辺りを含めて歩きながら話せればと。」




百四 思い出(軽井澤紗千)


 一昨日に紗千が送った父へのメッセージには返信は無かった。紗千は返信さえないのが少し気になった。

 大学の午後の授業が突然休講になったので、午後、多摩川に向かった。

 ボクシングでもしていたら、父が来るような気がしたのだ。たまに、自分は父と会いたくなる。それを正面から言いづらい性格なせいで、この多摩川のジムは重宝している。練習した帰りに、夕食を一緒にしたり、少し話すだけでもいい時ってある。家族の感じがする。

 父はいなかった。

 なんとなくジムの外に出たくなって河川敷を走った。

 紗千は走りながら同じように河川敷を走った昔を思い出した。

 多摩川ではなく、別の街だ。

 茨城県の方角、たしか取手行きの緑色の電車の駅を降りて、柴又の帝釈天の方に伸びる京成電車の横の道をおおきな川の河川敷まで歩いた。その先に父が通っていた古いボクシングジムがあった。母が仕事で遅くなるからと急に言われたのがきっかけだった。

 まだ父が会社を辞める前、いまから十年以上前、小学生のときだ。いつもの通り母から送られてきたスマホの地図を頼りにそのジムに辿り着いた。

 父はあの頃はテレビの仕事が忙しくてほとんど週末でさえ会えなかった。だから父に会いにいくのはいつでも楽しみだった。

 その日、ジムにつくと父がいた。

 ところがその日の父は、いつもの父とは違っていた。

 いつもと違う人間が、その日は何かに取り憑かれたように、大きな吊された茄子のような袋(サンドバック)を叩いていた。顔が別人だった。恐ろしい顔をして茄子の袋を殴り続ける不気味な大人がいた。どう考えてもそれはいつも優しく紗千に話しかける父とは違った。怖くて話しかけられず紗千は外に逃げた。堤防から坂を降りた中段の河川敷でぼんやりしていた。いや、心を落ち着かせるために、ずっと川を見ていた。川が左から右に流れていくのがわかった。きっとあっちが東京湾だろう。

 何かが怖い気がして、逃げて、ずっとひとりで泣いていたらしい。

 前後の記憶も思い出せない。

 しばらくして、

「なんで泣いてるんだ」

父の声がした。父に背中から抱きしめられた。その温もりは思い出せる。顔を見せたその時の父は、あの暗いサンドバックを叩く印象が綺麗に抜け落ちていた。父はいつも通り、家で紗千に微笑む父と同じだった。

 十年前だろうか。

 父、軽井澤新太が、放送局の報道記者をやめる前だ。

 たった一度、食事の誘いのメッセージに返信がないだけで、なぜか紗千はその頃の父のことを思い出した。不思議だった。ほとんど思い出したことのない記憶だと思った。

 何故か不安のような雨粒が心に降るように思えた。



百五 竜岡門 (銭谷警部補)


 石原とわたしは湯島の喫茶店を出ると不忍池から昌平坂を上がった。

 右に三菱財閥の名残を残す旧岩崎邸のあたりを越えると本郷台になる。

 歴史ある坂は微妙に蛇行しながら台地へと上がって行った。わたしは歩きながら、石原の意見と自分の脳裏を整理していた。

 

 ・太刀川の株式売却後の金の使い方。どう使ったのか。

 ・毎朝の地下鉄は継続している。理由は不明である。

 ・彼の世を捨てたようには見えない表情。石原も同感。

 ・慈善への傾倒。パラダイム時代にはなかった。


石原の指摘した竜岡門ビルディングは春日通りの坂を上がったあたり、少し横道に入ったところにあった。ビルディングの片方の側面にこの辺りでは珍しく蔦が緑に密生していて四階の上まで壁を覆っていた。その横を鉄製の階段が壁に突き刺す形でついていた。エレベーターはないようだった。

「ビル、というほどでもないか」

「そうですね。四階建てですかね。」

石原はスマホを手に写真を撮りつつ

「太刀川は先日、この竜岡門ビルディングの方に歩いていった、ということだったな。」

「はい。正確には部屋に入ったところを目撃してはいませんが、不動産会社の話と合わせると、おそらくそうだと思います。生活の様子はないですが、光熱費だけは継続しています。」

「部屋は、使われている、ということか。」

わたしはそう言って、横を向いて石原の横顔を見た。石原はビルの四階あたりを見つめたままの頬だった。上野の居酒屋とちがい、折からの陽を受けて肌が健やかに輝いていた。

「ここの四階は、少し裏事情があるのかもしれません。」

「裏事情?」

「はい。じつは、パラダイムの創業は六本木ということになってたと思いますが、それよりもっと前に、ここを登記していたんです。」

「パラダイムの?」

「はい。パラダイム自体の記録には残っていないんですが、当時の取引先の方に残っていました。」

これも随分と早い。適切な裏取りが常に進んでいる。

「ふむ。」

「なぜ、この場所を記載していないんですかね。創業の場所なのですが。」

「創業の場所として、記載していない?」

「それが気になりました。普通だいたい、ネット企業は創業からの歴史をホームページで語ると思います。でもこの部屋は、過去から消されている。実際色々語られたパラダイムの創業のころの武勇伝にも一切出てこないです。よくあるじゃないですか。四畳半一間でパソコンを繋いで始めたみたいな。」

「よくあるかもな。」

「はい。四畳半ではないけども、何だか気になったんです。さらにおかしなことに、会社の株を手放したあとの今になって、太刀川はこの部屋にいた様子がある、というのが。」

わたしは、再びビルディングの四階を見上げた。

「部屋は四階なのか。」

「はい。ワンルームですね。本当の学生の一人暮らしのような狭い部屋です。三階も含め同じ間取りですね。」

石原は、横顔のままずっとビルを見上げていた。今朝の変装の名残だとおもわれる強めの眉毛のむこうに夕焼けが始まっていた。

 竜岡門ビルディングを後にすると、我々はゆっくりと、本郷の商店街の方に向かって歩いた。

「ここでも、気になったことがあるんです。」

石原は歩きながら、商店街の奥にある地下鉄の本郷三丁目駅のほうを指して、呟くようにそう言った。

「気になったこと?」

「これは自分の意識の過剰、でしかないのかもしれませんが。」

駅の改札までたどり着いたところで、石原はわたしに向けて振り返った。

「ここ?」

石原の指さしたのは駅の古本置き場だった。

「太刀川は、ここで本を選んでいました。」

「本を?」

「古本ですね。本郷文庫って書いてありますが。東大赤門の最寄りの本郷三丁目の駅らしいというか。」

「太刀川と古本、というのが結びつかないな。」

「はい。そうかもしれないです。ただ実は、自分でも試したんですが、携帯電話を持たないで地下鉄に乗るとすごく暇なんです。だから、こういう場所は大事なのかもしれないですね。」

石原はわたしに話しながら、ビルディングの時と同じように目の前の対象をスマホで撮りながら話していた。わたしは駅の壁をくくり抜いただけの枠に所狭しと並べられた古本の列を見つめた。西陽が入る古い駅舎に同じように古い本の集まりが似つかわしかった。

 そうして石原とわたしは少しの間、そこで沈黙になった。少し間合いの悪い感情がそこに漂うのを感じた。石原には珍しいなと思った、その時だった。

「銭谷警部補、今日はありがとうございました。今日の最後に、というわけではないのですが、銭谷警部補にもうひとつだけ確かめておきたいことがあります。よろしいですか?」

「確かめておきたいこと?」

「ええ。」

「具体的にどの部分だ。」

わたしはさっと、一つの予感が体を刺した。石原はそのわたしの感覚を見て取ったように真っ直ぐこちらを向いた。

「金石警部補、のことです。」

わたしは顔面の筋肉が波打つのを感じた。

「銭谷警部補とこの太刀川の関連の捜査で、組んでいた捜査二課の金石警部補、いや元警部補のことです。まだ銭谷警部補から、一度もお話を頂いておりませんので。」

石原はわたしの瞳を見つめていた。 


百六 空想後 (赤髪女)


 田園のような光景を思い出そうとしても、思う通りにならない。

 おかしい。さっきまでずっと、気分良く進んでいたのに。

 自分の脳細胞が求める景色が途切れる。

 少しずつヒビが入る。スマホの画面が割れるみたいに。

 指がひっかかりなめらかに滑らなくなる。

 やがて、寒気がやってくる。


(薬が切れてきた。)


 気がつくと、お父さんは別の女の人と歩き始めた。お母さんも。別の男の人と暮らし始める。私と会う時はお父さんとお母さんは不思議な白い目の見えない御面(おめん)をするようになる。

「真美子のことは大好きだよ。」

「アイドルの仕事頑張ろうね。」

そう言っていつまでも二人とも不思議な白い御面をとってくれない。いや、もしかすると取りたいのに取れないのかもしれない。お父さんとお母さんの御面を取ってあげなきゃいけない。体に寒気が走る。脳の細胞が、不思議で不快な針金とブリキ音のコンサートを始める。昔の歌を音程を外して歌いだす。昭和の歌。なにかの、ドラマの主題歌。不安がくる。

 現実に戻っていくのが怖い。せっかく、いい形で仕事も進めていたのに。早く薬を飲まないと、田んぼの夕焼けに戻れなくなってしまう。



百七 河川敷 (佐島恭平)


 東京湾を見下ろす葛西ジャンクションを駆け上がり右折し、高速道路を北上していく。大型のトレーラーは、いくつかの橋を越えやがて高速を降りて市街地に入った。地図を見ると、都心から隅田川、荒川、江戸川と、主だった一級河川があり、その合間に細かく綾瀬川、新中川、中川、旧江戸川と、様々な水路が行き交う。指定された場所は千葉の近くまで行った、江戸川の土手だった。トレーラーは河川敷の一角に停まった。

 すでに、夜風が静かに吹いている。星のない夜空に、満月ほどではない月が雲の狭間から出ていて、少しの明るさを地上に投げている。

 黒いサングラスをしたスーツ姿の佐島は、トレーラーを降りるとしばらく歩いた。そうしてメールをやりとりして、細かい場所を合わせた。ようやく待ち合わせたもう一人の男に、快活に手を振った。

「ご無沙汰だね、軽井澤さん。」

「佐島さん。ごぶさたです。」

「突然で、申し訳なかったね。」

「いえ。偶然、場所も都合が良かったみたいで、よかったです。」

「そう。偶然、湾岸道路にいたんだよ。偶然だ。久々にあえて嬉しいよ。」

「こちらこそです。」

「レイナの仕事っぷり、は最近はどう?」

「はい。とても助かっております。探偵業もかなりデジタル化しておりまして。彼女(レイナさん)の才能にとても助けられております」

「そうか。良かった。」

光のない漆黒の川が無言で流れている。野球場が三つも四つも並ぶ草原の横を土手がなだらかに高台を作っている。誰もいないその土手の上で、二人の男は立ち話をはじめた。

 何年ぶりだろう。男たちはそれぞれ思った。夏が終わった後の、熱を失った夜風が河川敷を撫でていた。静かだった。ふと、どちらともなく歩きながらの会話になった。

「軽井澤さん。少しお疲れのように見えるが。」

「そうかもしれません。」

「例の新しい案件かな。」

「ええ。ご存知ですか。」

「レイナから聞いている。葉書と、もろもろの暗号が複雑という。関係してる人間も随分怪しいようだ。」

「はい。」

「そのことも含めて、話をしたくてね。今日は時間をすまない。」

「いえ。佐島さん。逆にこんな東京のはずれまで来ていただくなんて。」

「ちょうど葛西まできていてね。運がいいと思ったのだよ。ぼくもね。葛西からこの辺りは道が一本だからね。ちなみに今日は、この辺りを調査していたのですか?事務所からは随分遠いようだが。」

「そうですね。そんなところです。」

「そうですか。」

「はい。」

佐島は、ゆっくりと川の方を眺めた。川に沿って高速道路の灯す列が遠く埼玉の方まで走っている。

「ところで、です。レイナとも話しているのだが。」

「はい」

「軽井澤どの。あなたは、今の案件、つまりあの二人、いわゆる風間だとか守谷とかの件はどういうおつもりかな?」

「どういうと言いますと?」

佐島はそこで息を整えた。今日はそのためにここに来たわけである。

「つまりその、直感というか、その、これは、レイナの意見なのだがね。」

「レイナさんの?」

「ああ。わたしは仕事の現場のことはわからないのでね。」

「はい。」

「一連のその風間らの流れに軽井澤さんがどうして首を突っ込むのかというかね。不思議に思ってるのだ。いや、不思議というよりも、不要におもうのだ。」

「……。」

「まあ、その、実は、レイナから聞いたのだが、この件は深く調べていくと、少し古い時代の出来事と絡んでくる可能性もあるのだ。あくまで仮説なのだが。」

「古い時代ですか。」

軽井澤はすこし表情をあげた。見つめられたせいで佐島恭平は思わず黒いサングラスを指でいじった。

「ああ。その古い時代は、世の中というものがね、まだデジタルではない時代だ。もう世の中が変わってしまったけども、昔誰もが、スマホも、ネットも持たない時代があった。」

「……。」

「そこにじつはね、断絶がある。いわば社会情報の過渡期だ。なのでレイナの得意とする、最新の調査がなかなか思う通りにいかないのは彼女が当初から申し上げた通りだ。」

「はい。そのことは、別のお仕事の中でも、幾度かお聞きしておりました。」

「今回はなんとか、その葉書などのアルファベットの並びなどにおいて、またいくつかの仮説において、不得手とはいえ、この件を論理的にネット上で整理し始めた。」

「はい。認識しております。」

「そう。その際にだな、その、レイナから予感というか、何というか、随分、これはよろしくない過去に向かっていくように思えてならないという、直感があったそうなのだ。」

「よろしくない?」

「ああ、彼女なりのコメントがきているのだよ。うまく説明できるかわからないがね。彼女はまず、風間と守谷のことも調べたんだ。なんとなく犯罪者の香りがするとなっているからね。でもそちらはなぜか一切問題が出ない。いや、彼らのアカウントは犯罪者や反社会的なアカウントではない、真人間の一般的なアカウントだ。つまりちゃんとしている様子があるのだ。これはレイナにはある程度意外だったそうだ。すぐに何かの足がつくと思っていたのだ。」

「……。」

「それだけなら、こうやってわざわざ私、佐島があなたに会いに来ることなどない。」

「……。」

「しかしだ。あの葉書なのだよ。アルファベットや、風間らのことをデータベースの一角として、機械での計算を繰り返させ始めてからだ。当然あらゆる機械学習は、その都度アルゴリズムや、初期要素の起き方で計算の結果は変化する。とはいえ機械だから答えは提案してくる。そうやって計算は進めていくでいく。そこでね、突然、関連事項にとある事件が上がった。つまり、風間や守谷の過去がそういうものに絡む可能性もあるという計算が出たのだ。葉書のアルファベットを混ぜて機械が読み込むと、おかしくなるのだ。純正に風間、守谷だけではそうならないのに。」

「ーーつまり、葉書を混ぜて調べると、なんらかの過去の事件につながっていく?風間、守谷だけではそうならないのに?」

「機械というのは予想はしない。予測だけをする。何かの根拠がない限り予測はしないから、なんらかの理由があると思った。しかしレイナがいくら調べてもその理由が出てこない。繰り返しだが、彼女の不得手であるだいぶ昔のインターネットが社会に存在していない頃にまで遡るからだ。しかし」

「しかし」

「しかし、やはり計算をどう繰り返しても、過去の事件、しかもおぞましい殺人の事件に収斂していくようすが強くあるらしい。」

「悍ましい事件ですか。」

「ああ。レイナ自身、もう間違いないと仮説しているかもしれないーー。」

そこで佐島はじっと軽井澤を見つめた。サングラスの中でも黒目を見つめていることが判るような、そういう間合いだった。

「殺人事件、過去の問題の事件に絡むくらいならば、リスクある執着などせずに、探偵としての協力などやめて仕舞えばいいじゃないかと、いうことですよ。軽井澤さん。世の中の闇に手を突っ込むのは危険でしかない。」

「執着ですか」

「ええ。これは執着に思えてならないのだ、と。」

ここで、佐島は少し咳き込んだ。言葉を出すのを少し苦しそうにしながら、

「軽井澤さんが何故そこに向かうのか?レイナはあなたの執着が腑に落ちないと言うのだよ。」

佐島はそこから、ずっと考えてきたことを強めに言葉にした。それは佐島の心の中では苦しい言語作業だった。

「一般論で恐縮ですが、人間は凶悪な案件には触れない方がいい。警察や司直の仕事なんだから。知る必要もない凶悪な事件の因果に巻き込まれれば、日常生活のさまざまなことが、悪い影響を受ける可能性がある。風間や守谷は凶事の関係者である可能性があるし、もしかすれば、彼ら自身自らが今から新たに何らかの罪に絡んでくるかもしれない。彼らは追い込まれている様子がある。」

佐島は言葉を押し殺すように置いた。それらはここに来る前に幾度もトレーナーの中で整理した言葉だった。佐島の頬には相変わらず夏の終わりの夜風が、河川敷の草の夜露に熱を失いながら流れていた。おそらく、今の時刻は、海の方角へゆっくりと向かっている。

 佐島はそこで言葉を止めた。言葉は伝わったはずだ。伝えるべきことを伝えた。あとは軽井澤さんの考えになる、と。しばらく沈黙をしようと思ったときだったーー。

「佐島さん。お言葉、ありがとうございます。ですが、今はまだ、明確に申し上げられないが、実は、わたくしには一つの事情があります。そのせいで、この案件を損得勘定で放擲できないのです。執着と先ほどおっしゃいましたが、はい。そのとおり、執着があるのです。」

「執着がある?」

「はい。まだ申し上げられないですが。」

「そんな、リスクを冒す必要が本当にあるのですか?」

「ええ。今後このまま、このことが、終わってくれるならそれでいいのです。が、どうも、まだこの先に続いていく、もしくは、何かに向かっていく気がしてならないのです。いま佐島さんが仰ったように、新しい何かの罪の予感があるのです。いや、既にそのことに向かっているのではないかと懸念しています。」

「……。」

「そうなるとき、つまりこの先に何かが起こる時に、わたくしとして、絶対に避けたいことがひとつあるのです。」

「絶対に避けたいこと?」

「いや、これは、もう、わたくしの精神の病みたいなものでしてーー。申し訳ございません。少しだけ、待って欲しいのです。」

「……。」

「間違った方向に行ってしまうことだけは、回避したいのですーー。この葉書の周辺で、最悪の状況が起こることを、わたくしは、どうしても、避けたいのです。」

それは佐島には予想外の言葉だった。



 立ち止まって話すのが苦しくなり、どちらともなく河川敷を歩き始めた。歩いたのが海に向かってだったのか、佐島は今思い出しても、その方向がどちらだったか分からない。目で見ている景色さえ確認できていないくらい、混乱していたのだ。

 その後、夜の闇の中で、二人の男は、横に歩くもう一人を意識しながら、片言の言葉を、喋った。その言葉たちはそれまでと違い、明らかに会話にならなかった。言葉の終わりに声の方角を変えたり、歩みを少しだけ緩めたりしていたが、軽井澤が

「自分の執着です。」

と再び言い切った時、二人はどちらともなく、歩みをやめて、土手の草むらに腰をかけた。

 そのまま二人は、懐かしいものを一緒に眺めるように、河川敷から川を見ていた。数日の晴天で、水量が少ない河原の広がりの真ん中を、無言の爬虫類のように艶のない川面が蛇行していた。

 この二人が実際に対面したのは二回目だった。たったそれだけの逢瀬であるにも関わらず、何故か長い過去を一緒に歩いた人間同士の安らぎが、双方にあるように、佐島は感じた。

「軽井澤さん、わかりました。いや、説明は十分です。わかりました。」

「……。」

「あなたにも来歴があるでしょう。かくいう私にも思うところがあります。今日は時間を本当にありがとう。レイナからの伝言を伝えることが私の仕事でしたから、もうこれで十分です。」

「レイナさんによろしくお伝えください。」

「もちろんですよ。」

そこで佐島は少し躊躇した。なにか言おうとしたり、やめたり、というのを繰り返した。そうして三度目の正直という間合いで突然、佐島の声で

「一つお願いがあります」

と言った。

「なんでしょうか」

「軽井澤さん、握手してもらっていいですか。」

「わたくしがですか?」

「はい。もしできれば。」

軽井澤はその時、疲れていた表情を、一瞬輝かせるような笑顔をして、佐島を見つめた。その表情こそが軽井澤の人間としての魅力であることを、軽井澤本人はまるで理解をしていないだろう。

「もちろんです。」

二人の男はそうして握手をした。握手をして、そのまま次の言葉を探すようにしたが、ふたりとも言葉が出せなかった。そのとき佐島は、いや、佐島恭平を演じたレイナは節子さんが渋谷の街並みの中でしゃがみ込んで教えてくれた、<手のひら>のお話を思い出していた。




百八 Kの説明 (銭谷警部補) 


 本郷三丁目駅の改札、古本文庫置き場の前だった。

 石原里美はそれまでとは明確に表情を変えてわたしを見つめていた。

「今回のことでいろいろなことを教えていただき感謝しています。ただ、銭谷警部補が私にあえて言わないことがあるのはなぜですか?私なりにこの仕事に、自分の時間を費やし、刑事としての仕事を成立させたいと思っています。」

「そうだな。」

石原の言うとおりである。金石のことを話題として避けてきたのはわたしだ。

「すまん。」

「いえ。」

「金石のことだよな。」

わたしはその言葉を置いた。精一杯、声を振り絞ったのだが、声は小さかった。

「いろいろ事情があるのかもしれません。言いづらい事情も。ただ、一切説明の中に出てこないのも気になりました。」

わたしはそれでも石原が配慮した言い方をしていることに感謝した。

「今、話した方がいいか。」

「お任せします。もしできればお願いします。」

「このまま、歩きながらでもいいか?」

我々は駅を出て、商店街から本郷の大通りに出た。

「すまん。ここまで話さないでいたことは、まず、申し訳ない。この通り謝りたい。」

歩道を並んで歩きながら、わたしはそう侘びた。本当は、面と向かって頭を下げたかった。今朝の金町駅での銀色の二本の線路が、本郷通りのガードレールの錆びた鉄となぜか重なった。自分自身への自己嫌悪が再来する。死にたい気分というのは、突然絵の具をバケツの水にバラ撒くように、広がる。

 思えば、朝の最悪の気持ちを切り替えてくれたのは、石原からの電話だった。そうやって今日は始まっていた。

「機会を待って、話さなくてはならないとは思っていた。」

「それは、私の首検分みたいなことですか。」

その言葉はきつかった。

「そうではないのだが、言い訳はする気はない。」

「いえ。」

「すまん。」

「でも、話しては頂けるのですね。」

うまく話す自信がなかったし、実際にどこから話せば良いのだろうか、というのも悩んだが、ひとつひとつ順番も気にせずに言葉を並べることにした。今石原は太刀川の事について背負って(しよつて)いる。仕事には<背負う>仕事と、<流す>仕事の二種類しかない。仕事を背負った刑事に順番は要らない。不明ならその都度訊いてくる。

 わたしは小板橋の前で披瀝した自分の説明能力のなさを気にせず、思うままに言葉を並べた。石原に向け、概要を繰り返しながら金石の周辺で触れずにいたことを逃げずに話す。力を抜いて、言葉を預けるように。六本木事件の全体を紐解くように、避けてきた金石を適切に登場させて、なぞった。

「…そこで、つまりある時期に警視庁に力が加わった。少なくともわたしもそう思っている。」

「……。」

「ただ、その確信をしていたのは、わたしよりむしろ、金石だった。金石はそういう存在だった。つまり、このわたしより遥かに情報人脈に長けていた。殺された死体から捜査を始める専門の自分より、捜査二課らしい経済的な人脈にも強く、またわたしも知らぬような情報源や、捜査方法を持っていた。」

わたしは、言葉を集めては、書き順も気にせず並べた。

 石原は黙って聞いている。わたしは、うまく伝わらない気がしたところでもう一度話を戻した。六本木事件をなぞり、そして金石と一緒に組んで、捜査した流れまでなぞる。気がつくと、同じ言葉を繰り返している。

 うまくまとまらないわたしは、一度空を仰いだ。呼吸の乱れを整えるように、一旦立ち止まって、石原を見つめた。

「すまん。」

「いえ。」

「こういうことの前に、大前提から話したほうが良いかもしれない。」

「大前提を、ですか?」

事実をいくら並べても伝わらない理由に、わたしは気がつき始めていた。

「ああ。事実の説明を重ねても、いちばん大事な部分がうまく伝わらない。すまん。」

「事実と別のことですか?」

「説明が得意ではない。わからないことがあれば、どこでも止めて質問してくれていい。」

「わかりました。ただ、一度で理解するように努めます。」

「どこから話していいか、うまく言えないが。」

「はい。」

「例えば、その、そもそも論だが、警察は正義の味方の側だ、という前提があると思う。」

「はい。そう思っています。」

「そうだ。それが、常識的な事実だ。でも、警察の中に万が一、犯罪者がいたらどうする?」

石原は少し歩調を変えた。

「まあ正確には犯罪者じゃなくても良い。たとえば、犯罪者のお友達や親族でもいいし、犯罪者が捕まると色々困る共犯者のような人間でもいい。そういう人間が警察にいた場合だ。」

「……。」

「更に、そのそういう人物が自分の上司だったらどうだろう。いや、更に、警視庁の雲の上の上層部だったらどうなると思う?これは具体的な話ではなく仮定の話だ。」

わたしは、そこで呼吸を置いた。金石のことを話すにはやはりこういうことを話すべきなのだろう。

「想像できませんが、多分、その人物を適切に逮捕したり処分するのではないですか?」

「残念ながら、違う。」

「ちがう?」

石原は少し驚いた声をした。本郷通りを我々を追い越して御茶ノ水の方に向かうトラックが地面を揺らした。

「少なくとも金石は、違うと言うだろう。」

「金石警部補、いや元警部補がですか。」

「そうだ。やつはその点を明確に、指摘するだろう。例えば、数学の期待値を使って、実際に過去の警察の歴史を紐解いて語ってくる。」

「どうしてですか?」

「我々警察が【個の人間】ではなく組織だからだ。」

「組織だから?」

「若い頃は組織のなかにある異常な性質というものに気づかない。」

年長者の言葉として、わたしは悲しい事実を伝えるように、声を小さくしていた。石原は純粋な若者の表情でわたしの次の言葉を待った。

「少し法律的な問題に入るがいいか。」

「はい、もちろんです。」

「法律というのは、一人の罪を裁くことが可能にできている。」

「そう思います。」

「だが、実は若干の矛盾がある。法律は、罪のある人間を裁くのはうまくできているが、罪のある組織を裁くことはうまくできていない。対応する法律が曖昧なんだ。」

石原は首を傾げた。わたしは言葉を探して、

「たとえば、組織が犯罪を犯しても組織に懲役が下るわけではない。とある会社が、懲役五年、のようなことにはならない。その中で、犯罪をした人間というものだけが選ばれて、選ばれた人間だけが罪を負う。」

「……。」

「例えば、捜査一課が処罰されることはないし、いくら組織ぐるみの犯罪があっても警察庁のどこかの部署・組織を懲役させることはできない。あくまで罰を受けるのは個人の人間だ。」

「組織でなく、個人の人間が罪を受けるというのは理解できます。」

石原は必死に理解しようという表情でわたしを見ていた。

「ありがとう。人間が犯罪を犯す確率はどれくらいだと思う?」

「はい。おそらく1%から0.1%ほどですかね。」

「凶悪事件で一万件、刑事犯罪全体で百万件ほどだろう。毎年だ。つまり単純な概算で、十年毎年足しあげればーー 」

「凶悪で十万人、刑事犯罪全体で千万人。まあ、再犯を数えなければ、ですが。」

「すごい数だ。」

「はい。十人に一人が犯罪をしている計算ですね。」

「警察官も同じく人間だとすると計算が合わないだろう?」

「……。」

「令和の今、全国二十万の人間がいる。この十年で二百人が凶悪犯罪で逮捕されていなければならない。」

「……。」

「明治の川路大警視の時代から、令和の今まで、警察組織の犯罪が明るみに出た数はあまりに少ない。数字が合わない。」

「警察組織が、普通の市民より罪を犯さないからではありませんか?」

石原はそう言ってわたしを見つめた。警察官の模範回答だなとは、わたしは言わなかった。

「どうだろうな。警察関係の犯罪率が低いということを信じたい気持ちはもちろんあるのだが。どこかの国の統計だったと思うが、人間の犯罪の確率というのは、職業ではさほど変わらないらしい。」

「……。」

「街中でも、どこでも、犯罪は起きる。当然警察官の中にも犯罪を犯す輩は存在するし、政治家にもエリートにも一定の犯罪者は存在する。でも逮捕されるのはだいたい、そうではない人間たちだと思わないか??」

「数の上では、そうかも知れません。」

「金石はそれを数学的にわたしに言っていた。数字の計算では警察が罪を隠蔽していると思う方が自然だと。」

「……。」

「組織は罪が発生した時にどうするか?その初動は想像ができるだろう?」

「罪を告発するのでは?」

「本当にそう思うか?」

「どういう意味ですか?」

「組織で罪が発生すれば管理職は間違いなく責任問題だよな?」

「…そうかもしれません。」

「だとするとどうなる?」

「罪を、つまり犯罪を隠す、ということですか?」

「そうだ。」

「でもーー。」

「日本人が認めたくない真実がそこにある。じつは、組織は罪を表に出さない。目を瞑る。もしくはなかったコトにする。いや、それが普通なんだ。もはや時代によっては、本人達がもはや罪とは自覚さえしない形にさえなっていく。石原にも、心当たりはないか?」

「……。」

「裏金だとか、歓送迎会の経費だとかが、これまで公然と使われてきたのを聞いたことがあるだろう。一度罪の周辺を隠し通せると人間はその罪を罪とさえ感じなくなっていく。我々が使っている金は血税だ。」

バーで金石が繰り返した言葉だった。

「警察組織にそういう犯罪行為が一切ないとわたしは言えない。つまり罪悪は存在する。そして悪事を犯して捕まらないでいる人間が組織には存在するということだ。」

「……。」

石原は小さく、自分を確かめるように頷いていた。

「でも決して表には出てこない。それらが表に出てこないということは、うまく隠せているということだろう。仮に金石がわたしに繰り返した犯罪確率理論が正しいとすれば、だが。」

わたしと金石はそういう形式が警視庁の中にあると踏んだ。もちろん、裏金とか、そういうことじゃない。六本木事件の幕引きの中でだーー。

「まあいい。これは仮説の話だ。」

「……。」

「もう少し仮説を広げていいか?」

「はい。」

「仮に、金石の考えの方が正しくて、警察組織にも、同じように犯罪があるとしよう、そうすれば、警察犯罪の大多数は発生したにもかかわらず世の中に出なかったということになるよな。」

「そうかもしれません。」

「そうだ。しかし警察の上意下達の命令系統は、本当にしっかりしている。警察組織において、上司の犯罪を安易に告発できる環境が存在すると思うか??」

「…告発できるとは、おもいません。」

石原はその時本郷通りの歩道で立ち止まっていた。

「そうだな。」

「……。」

「ということは、組織の中で、犯罪を隠す極秘の命令系統があるということだ。もしくは、犯罪だと判っていても、目をつぶる循環があるということだ。実際に、それは体感として、このわたしにもある。」

「どういうことですか?」

「まず、命令としては表に出ない、見えない命令が始まるんだよ。」

「見えない命令?」

「ああ。何かが起こるということだ。」

「何が起こるのですか?」

「普通は人事だ。もしくは人事的な懲戒だ。」

沈黙になった。

「金石はそうなった。」

「ちょっと待って下さい。かれは、依願退職だったと。」

「金石は、自分の人事を知っていた。」

「……。」

「そして、その人事が発生した力学の周辺で、逆に自分が握った情報の正しさを確信したのだと、わたしは思っている。」

わたしはもはや確信をまだ持っていないギリギリのところまで話していた。

「つまり、金石さんは警視庁に都合の悪い情報を持った。」

「ああ。やつは六本木のあの部屋にいた人間のーーあの部屋、35Westに出入りした人間の名前は全て把握していた。表向きで、週刊誌に出ているもの以外もだ。」

「出ているもの以外があった?」

「ああ。」

「しかしーー。」

「実際、金石とわたしは自分達の情報を、警察内で開示をしなくなっていた。つまり、開示に恐怖したんだ。当然だーー。もし、警察の中に犯罪者側との連絡ルートがあるなら、報告をすればそちらへ伝わるということだ。自分の身分を隠して情報源に向き合っている金石や奴に協力する人間には非常に危険だ。彼らは当然、六本木界隈の投資家だとか遊興人のひとりとして状況と向き合っている。名前も別だ。そこにいるだれひとりとして、捜査二課の警部補とつながるとなどとは思っていないだろう。」

「……。」

「犯罪者にとっては、犯罪情報を持った人間は何としても潰さねばならなくなる。だから、捜査情報は小出しには出来ない。完全な誰もが諦めざるを得ない真実を全貌から掴み、そして一気に一括で、証拠隠滅されない確信のなかで、お天道様の下に晒さねばならない。それが金石とわたしの合議だった。」

石原は静かに頷いた。もう一度、二人で歩くのを再開しながら、

「その合議の結果、警視庁の中で、わたしと金石だけ、調べることが変わって行った。その辺りが、危険の始まりだ。」

わたしは幾つか他の言葉で、内部を信じられなくなっていくことを説明した。つまりわたしに対して話しかけてくる人間には、上層部からくる裏の調査がある、という懸念を常に持ってきた、ということだ。

「申し訳ない。わたしは、君に対してもそういう目で、見ていた。」

「組織の側からの差し金、かもしれないとですね。」

「すまない。しかし、全ての捜査にこのことは当てはまる。何故なら、警察の上層部が何かの犯罪に関与しているならば、我々は仕事をすればするほど危険なんだ。」

歩いた先は御茶ノ水だった。神田川のガードレールのさき、聖橋越しに御茶ノ水駅が見える。オレンジと黄色の電車が聖橋の下をくぐった。崖の下に神田川なのか濠なのかわからない水が流れていた。

 わたしは一旦話し尽くした。そうして、もう一度、最初に話した六本木事件や、その周辺で金石とわたしが怪しいと思った懸案のことを時系列で説明し直した。石原は飲み込みよく、うなずきながら、ところどころ質問をしながら聞いていた。御茶ノ水の駅を越えて、神保町の下まで降りて、再び聖橋の方から坂を上がり、我々はまた同じ道を本郷三丁目に戻っていた。つまり、だいぶ長い時間を説明に費やした。わたしのなかで、かなりの部分を話せたというところで、石原がふと、

「ありがとうございます。」

といった。言わずもがな、わたしにはその言葉は救いだった。

「もっと早く話そうと思っていたのだが。」

わたしはタバコを指に挟んだまま、火もつけられずにいると、石原はわたしに向かって正視して、

「銭谷警部補にひとつだけお聞きしても良いですか?」

と言った。

「……ああ。」

「小職を、信用はしていただけたのでしょうか?」

掛け値を少しも感じない純粋で直線の眼差しだった。わたしは声を詰まらせ、ただ大きく頷くのが精一杯だった。おそらく唇はなんどもありがとう、と発していたは、声はやはり喉の奥で外に出るのが臆病なままだった。



百九 潮の香り (レイナ)


 手のひらを見つめていた。

 この手のひらで、触れた人間は何人いるだろう。

 パソコンの指先で、さまざまに広がる体感とは全く別の、感覚。それは、レイナには忘れがたい、節子さんの言葉と重なる。

「みんな手のひらから先には、自分を出していけないんだよ。そこで血は折り返して、自分の心臓に戻ってくの。みんな人間は独り。そういう孤独があるのよ。」

だからこそ逆に、手を握るっていうのは大切なんだ、と教えてくれたのは節子さんだった。手を握ると、あらためて人間がわかるのだという。

 レイナはトレーラーの後部座席で全裸でうつ伏せていた。 

 耳元に当たっている衣装箱が硬かった。佐島である時間は終わったらしい。衣装は散らばったままだった。手のひらにだけ、軽井澤さんのあたたかい温度が残っている。レイナは軽井澤さんとの会話を思い返した。

(待っていてほしいーー。)

 何か明確な理由があるようで、その理由を説明できない苦しみをともなうような言葉だった。レイナはその言葉を言った軽井澤さんの表情を思い出していた。

 その時、音がした。

 メールだった。

 ふと、前方に置いた、Macの画面が明るくなった。

 

(御園生です。)


同じく軽井澤探偵通信社の御園生くんからのメールだった。軽井澤さんと同じく、レイナにとっては大切なビジネスパーソンである。おそらく、葉書の件だろう。

 潮の香りが車内(トレーラー)を通り抜けるのを感じた。軽井澤さんと会った河川敷はもうすこし草の香りが強かったが、いまレイナが車を停めている場所は河川敷からずっと海へと向かったところで、東京湾が見える場所だった。湾岸工業地帯にありがちな幾つものクレーンが、動物園のきりんの群れのように首を並べてるのが見えた。赤と白のしましまのきりんのようなクレーンの群れが夜の照明に光っていた。

 御園生君からのメールには、少し相談が書いてあった。



百十 新木場  (赤髪女)



 ヘリウムの声の指示者に指定された場所は埋立地だった。

 渋谷から東京湾の海の下を潜るりんかい線を直通し、新木場まできた。

 指示者は妙に乗り物に詳しい、と思う。

 駅の単位で細かい指示がある。

 路線名と駅名、時には降りる階段まで細かく指示がある。

 駅から南に出ると、駅前に商店街もなく、都会とは思えない静けさだった。なにより生活の気配がない。生活そのものがある祖師谷大蔵とは大違いだと赤髪女は思った。

 夕暮れが始まっていた。空が広かった。 

 埋立地を沖合の方へ向かう幹線道路から、右折して百メートルほど歩いた。人の気配が何もない埋立地だった。住居はなく、工場と広大な車両置き場が広がるばかりだ。車両も、ミキサー車や工場関係の車ばかりで乗用車は稀だった。タクシーも走っていなかった。指示者から言われなければ永遠に赤髪女が訪れることのない場所だった。 

 その場所についた−−−。 

 細かい指示のとおりに、その一角に立つ電信柱を探して、金を入れた封筒をガムテープで貼り付けた。封筒に三万円だけ入れている。通行人は誰もいない。ここにきた人間が拾うのだろうか。指示者は「必ず夜になる前に帰れ」と言っていた。誰が拾うかなど興味もなかった。封筒が貼り付いたのを確認するとそのまま赤髪女はいま来た道に戻った。

(金を置いたら、その場所から電話番号の男に電話をしろ。)

(金をおいた場所を説明しろ。)

誰に電話するのか、は、説明はなかった。おそらく綾瀬の例の人間だろうけども、質問をすれば叱責されるだろうから赤髪女はその事は訊かずに言う通りの作業を行なった。

「はい、もしもし。」

男が電話に出た。

「オザキさま、ですか?」

赤髪女は、指示者にいわれたままの名前を確認した。

「そうですが。」

「今から申し上げる住所に、ご依頼のお届け物を置かせていただきました。必ず日没後に、お引き取りください。」

「……。」

「電信柱を探して、金を入れた封筒をガムテープで貼りつけてあります。住所は江東区の…。」

「なるほど、お届け物っていうのはなんだ。」

「お金です。」

「金か。」

「住所はメモできましたでしょうか。もう一度念のため、申し上げますか?」

「大丈夫だが、念のためもう一度聞こう。」




百十一 検索相談 (御園生探偵)


 僕の提案で、軽井澤さんとレイナさんと三人でのzoom会議を打診した。

 軽井澤さんは、明らかに行き詰まっている。僕は早くこの状況を抜け出したい一心だった。このままでは通常の業務にも影響が出てしまう。

 まず、彼らが何者なのかを早く見極めたかった。相手がわかれば対処の仕方もあるし、もしうまく風間や守谷の一連と関わりを正確に断てるのであればそれはそれで軽井澤さんも喜ぶと思う。そのためのアイデアを少し考えてみたのだ。

 軽井澤さんは会議には入らないままだった。直前になって

「いま、すいません、参加できなくてすいません。」

とだけメッセージが来たところで、レイナさんがZoomに参加した。

「軽井澤さんは参加できないみたいです。急にすいません。」

「いえいえ。どうされましたか?」

いつもどおり変わらない、レイナさんの竹を割るような鋭角な声が帰ってきた。

「ちょっと、いろいろ困っているのが続いてすいません、僕の方でひとつ考えてみたことがあって。」

 僕は用件を言う前に、現在の状況を、改めてレイナさんに繰り返し話した。

 いきなり電話がかかってきたこと。そもそも前金も含めてひどい話になったこと。新宿歌舞伎町でのこと。池尻病院であったこと。二人に共通して送付されてきた葉書。消印の日付の違い。それから、軽井澤さんが、眠れてもいなく、困っているということも話した。軽井澤さんが、僕から見て真面目すぎて、必要以上に風間や守谷の如き二人のことを無視できないと言うニュアンスを最後に足した。

「そうですね。御園生さんも大変だと思います。」

レイナさんは忙しい人なのにゆっくりと、僕の話を聞いてくれていた。

「はい。正直どこかで、早く撤収したいと思ったりもするのですが。」

「そうですね。」

「はい。」

「ただ、軽井澤さんのことだから何かあるのかも知れないですね。」

ふと、レイナさんは少し、歯切れの悪い声でそういった。そのときだけ、いつもの美しい声と少し声色が違う気がしたのは、気のせいかもしれない。

「僕は、なるべく早く、このことを解決してしまいたい一心です。ただ、風間と守谷の携帯電話の番号程度しか把握できてないのですが。何とかして、現状打開しなきゃいけないと思っていまして。うまいやり方が、あればと思っているんですが。」

僕は、声を少し低音に落とした。探偵業法的にここから先は灰色のことになるからだ。

 僕が進めたかったのは、レイナさんの技術を用いて、ある程度インターネットの裏側の非合法的な手段に入ってでも彼らを調べてほしい、と言うことだった。警察にも行けない彼らを、多少よからぬ方法で調べても問題にはならないだろうし、二人が何故同じ葉書から逃げているのか、については、彼らのネット上の行動を探って、何かの繋がりさえ掴めば、一気に解決するかもしれない。たとえば、彼らのネット上の行動の中に共通事項が見つかればいい。

 正直な話、多少は法を犯してでも、いまの危機的な環境を安心して排除したい。そのほうが絶対に軽井澤さんにも事務所のためにもなるはずだ。そういう考えのもと一度だけ深く深呼吸をすると、僕はある提案をそこで行った。

「レイナさん、僕は、彼らのGoogleの検索行動履歴を引っこ抜けないかと思ったんです。そこで重複被ることがあれば、風間と守谷のいまの葉書以外の関係が見えてくるのではないかと思ったんです。故郷、出身、なんでもいい。母校とか。」

「……。」

「どうですかね。」

「…これは御園生さんが自分で考えたのですか。」

「はい。」

「面白いアイデアですね。」

「ほんとうですか?」

「はい。その切り口は考えてきませんでしたから。」

「僕はなんだか、風間と守谷が過去になにか同じ場所にいた気がするのです。軽井澤さんに聞いた話や、実際に守谷と一緒にいた時間のなかで、そんな気がする。葉書の理由みたいなものも、その周辺から起因している気がして、何か繋がりを見つけたいなと思って。」

そこまで話してから僕は、法律の問題があるのを意図して、

「少しまずいですかね。」

と、問いかけた。

「いいえ、いいアイデアだと思います。調査はアイデアですから。」

レイナさんは微笑んだような声をした。

「でも、諸々大丈夫なのですかね?」

僕は法律的な意味合いで聞いた。細かい話だが、探偵というのは、警視庁や警察が発行する免許事業だったりする。違法な調査をしていると、まあまあ簡単に営業停止、となる。そしてGoogleはまあまあしっかりと、違法な行為を定義して、利用規約を書いているだろうし、当然様々な監視もしている。加えて、風間や守谷のGoogleのアカウントに入ること自体が、誰でもできる芸当ではない、と感じる。

 ただ、レイナさんの技術を持ってすれば何かやり方があるのかもしれない。やり方によっては、可能なのではないか?そういう理由で、僕はずいぶん勝手で曖昧な問い掛けをしていた。

「大丈夫ですよ。信頼してるので。もしうまく行ったら、どこかで、気持ちを乗せた見積もりを作らせてもらいますから。」

「ほんとうですか。すいません。」

「いつも軽井澤さんと御園生さんにはお世話になっていますから。」

「いえ、そんな。」

「では少し、お待ちくださいませ」

竹を鳴らすような、空気をまっすぐに通す声をさせて、レイナさんは画面から退出した。

 電話を切る直前に潮騒のような響きが聞こえた。



百十二 本郷逍遥 (銭谷警部補)


「そうして金石警部補は、突然刑事を辞めたのですね。」

わたしは過去をむさぼるようにして無心に喋っていたらしい。無心になれたのは、どこかでこの石原という警察官の仕事に敬意を持ち始めていたからだ。年齢は関係ない。一定の仕事を行う者同士に、最も重要な条件==仲間への上下などない敬意というものを、わたしは久々に思い出していた。

 目の前に石原の黒目がちな瞳があった。うつくしく墨を塗った宇宙のように黒く清凉としていた。

「その後、金石警部補、いや元警部補からは、なにも連絡がないのですか」

わたしはその質問に黙った。黙ったことが答えになる。

「無くは、無いのですね?」

「いや、正確にはわからない」

「金石さんに面と向かって会ったりしたのですか?」

「会ったことはない。」

「では、ネットか掲示板とか?」

「そういうものは使い方がわからない。」

「……。」

「メールが届く。」

「えっ。メールですか?本当に?」

石原は驚いた。わたしが私用のメールを昨日に至るまで持っていなかったことは、湯島の喫茶店で議論をしたばかりだ。ということはつまり、私用ではなく、警視庁のメールに行方不明の金石元警部補から届く意味になるのだ。行方不明で、情報を持ったまま消えたかも知れない人間が、どうやって堂々と本庁のサーバーにメールをしてくるのか?石原の小動物の目が野生のような鋭さを増した。

「いや、正確には本人ではない。いや、本人かも知れないが本人だとは確認ができたわけではない。」

「どういうことですか?」

「イニシャルだけKと名乗るメールが、毎回アドレスも違う形で届くんだ。アドレスは毎回異なる。」

「毎回?」

「一過性のアドレスなのだと思う。ワンタイムなんとかという。」

「ワンタイムパスですね。」

「ああそうだ。それは、迷惑メールに溜まっている。」

「どんなことを?」

「取り留めのない内容だ。はっきりいって。」

「とりとめのないのになぜ金石元警部補?と?」

わたしはそこで、息を整えた。

「内容が自分と金石しかわからない微妙な内容だからだ。ただ、当時の捜査の具体的な情報があるわけではなく、二人で飲んで話した考え方などが、やんわりと反映している、とでもいうべきかもしれない。本を読めとか、説教じみた内容が多い。」

「本を読め、ですか。よく、一緒にお酒を飲まれたのですか」

「数を重ねた意図はないが、仕事の終わりに酒場で落ち合うことが多かった。」

「なるほど。」

「メールには、捜査の内容などは記載されたりしない。まあ、そんなものが書いてあれば、ここで勿体ぶって話すようにはならないからな。」

わたしは警察の板電話を取り出し、そのメールの一部を見せた。言葉の内容で見せるものを最初選んでいたが、石原の真剣に画面に食い入る横顔を見ているうちにそう言う利己的な配慮は減っていった。どこかで彼女を世代を越えて大切な仲間に感じている自分がいた。


ToZ


本末の転倒。

飲みすぎは、やめておけ。

若者に迷惑をかけないようにしろ。


K 


ToZ


ニヒリズムとかではなく、しっかりと実現をしてくれ。

ニーチェを読んでみるのもお勧めする。





ToZ


こどく。

被害者の孤独。

そのとなりに自分がいるのか?

ましてや、被害者と加害者の、その対立構造などを作っている奴らに加担していないか。

     

K 



ToZ


文学的に言えば、

百の事件には

百を被害者がある


一つとして同じ事件はない


また、

加害者にはまだ未来があるが

殺人被害者には、永遠に未来はない。


言ったはずだ。


K 


ToZ


段々とわかってきただろう。 

海の先に、人間は、ゴミを集めて大地を作る。

嘘の大地を作る。


戦前、空襲で焼かれるなどと想像して

街を歩いた人間はいない




石原は首を傾げた。

「不思議なメールたち、ですね。」

「……。」

「金石元警部補以外の人間がそんなことをすることは考えられますか。」

「考えられないーー。わたしにこういう文面を送ることに、意味を持つ人間が、他に見当たらない。」

そもそもこの文面は、金石と私が幾度も会話した会話の続きになっているようなことが多い、とは言わなかった。

「すいません。よければ、これ、なにかのヒントになると思えたので。写真を撮るのは申し訳ないので、ノートに書いていいでしょうか?」

といって石原は大学ノートを取り出した。最初の日に上野でわたしが説明した捜査ノートが既に慣れた手つきで構えられていた。

「もちろん、構わない。」

石原は黙って、私のメールを確認しながら、メモを取った。ずいぶん手が早いらしく、あっというまに書き取っていた。

「もう?」

「はい。速記が得意でして。」

石原は笑った。その笑顔は、からりとして、金石の送ったであろうメールの暗鬱な内容を素通りさせてくれる配慮のように思えた。  

 わたしは石原にメールを見せていたけども、それはあえていえば、自分の孤独を告白することに似ていた。金石と交わした会話は実に具体的で、刑事の自負の強い感傷的な言葉が多く、その内容をもってわたしは、それが金石に違いないと言っている。でもそれは、特定の二人の人間の密室的なやりとりの開示だった。不気味に例えれば、恋人しかわからぬ思い出を語る言葉を持って、送付元を恋人と特定しているようなことでもあった。石原はその周辺には触れないでいた。むしろ内容を飛ばして、金石の失踪や、送付元が毎回違うメールの奇妙さについて、話題を向けてくれた。

「消去法で、金石元警部補しかいない、ということですね。」

「そうだと思う。」

「毎回アドレスを変える。」

「ああ。」

「迷惑メールに入るような、送信元である。」

「すべて自動的にそうなる。」

「これが、定期的にと言うよりは、ある時期に一定の量が送付されてくる。」

「うむ。」

「内容は、いつも、なんと言うか曖昧な、しかし銭谷警部補と金石元警部補の間でなければ成立しない言葉である。」

石原は、正しく把握して、わたしより明確に整理をしてくれた。我々は歩きながら、もう少しメールの周辺について会話した。殆ど、石原巡査のペースで質疑が行われた。わたしはただ彼女の質問に答えるのみだった。

 いつの間にか、再び本郷三丁目の駅まで戻ってきていた。我々には多くのことを喋った後の、奇妙な連帯意識があった。石原は一度本庁に戻るというので、改札まで見送った。駅の奥に消えていく石原には手を振らず、目だけ残して送別した。

 伝えたことが、どう変化していくのかは解らない。

 早乙女課長や、その他の人たちと石原に特殊なつながりがあるとは思いづらかったが、わたしは仮にそうだとしても良いと思った。彼女の仕事の姿勢や、能力のようなものに、わたしは懐かしい気分を持っていて、そのほうが大切なものに思えた。危ない橋だろうが、被害は自分に及ぶ程度で、何か重要な真実が遠くなっていくわけでもないはずだと、自分に言い聞かせた。早乙女に漏洩するのであれば、それを察知した金石がメールを送らなくなるだけだろう。

 わたしは本郷では電車に乗らず、湯島の千代田線まで再び歩いた。

 そのまま一人で、いつものように、幾つかのことを整理をしようと思った。突然わたしを尋ねてきた老刑事槇村又兵衛のこと。彼の横領のこと。金石のこと。自分の謹慎のこと。今日の太刀川のこと。石原の整理のこと。そうして朝から自分が最悪の気分にいたこと。どこかで今朝に戻っていくことへの恐怖を感じつつ、仕事が溢れ出すと、考えるべきことが増えて、精神状態が落ち着く気がした。その落ち着くきっかけになったのが石原だった。

 普段なら居酒屋でノートを出して脳の中のまとめを、と思うが、何故かそう言う気になれなかった。湯島で千代田線に乗ると、北千住を過ぎ金町で駅を降りた。コンビニでジャックダニエルの小ボトルを買った。柴又の方へと、ぼんやり歩きながら、ラッパで呷った。アルコールの熱が胸に回ると清々しくなった。この作業を正しくアルコール依存症という。酒が飲めない人間だったらわたしは薬物というものに染まっていたかもしれない。ラッパで生でバーボンをやると休日の浅草の遊覧船に近い気分が広がった。ふと、歩いて川を見たくなった。隅田川ではなく、別の川、千葉県と東京都の県境に「江戸川」が壮大な河川敷を携えて蛇行している。わたしは河川敷の土手に上がる階段を登った。建物の二階に上がるよりも高い階段だった。



百十三 会議後 (レイナ)       


 男物のスーツや下着はトレーラーの床に投げ捨てられたままだった。

 レイナは全裸のまま、次の服を着るのも忘れてMacに向かっていた。

 風間と守谷二人の、検索語句の共有点が少しずつデータベースに現れていった。それらは三分か五分に一度くらい、Macに文字が落ちた。

 静かな夜だ、とレイナは思った。

 少し前のコールで御園生くんは、風間と守谷を独自に関連づける考えとして、検索語句の共通性を挙げた。アイデアとしてすばらしい、とレイナは素直に思った。

 検索する言葉は、人間の素性が出る。

 人に見せていない自分の秘密もそこには堂々と並ぶ。

 悩みも過去も物の考え方も、何かを真剣に調べれば調べるほど並ぶ。実際に、レイナも施設のパソコンで検索という言葉を知った時に、過去の自分についての質問と検索を繰り返した。それらは施設の大人には一度もしたことのないような誰にも見せたことのない生生とした本質的な質問ばかりだった。風間と守谷の検索語句に注目すべきという御園生君の指摘は、その点でも正しいアイデアだとレイナは思った。

 仕事のこういう場所が面白いと思う。

 アイデアを重ねながら、自分ではない誰かと問題を解決していく時間。自分では出てこないアイデアを取り込んで、技術(プログラミング)的な支援をレイナがする。その結果が、実際に役立ち、問題が解決するときの興奮は、仕事以外で味わうことは難しいとレイナは思う。

(検索履歴、か。)

 御園生くん本人は気づいていないかもしれないけども、レイナの設計したWEB全体のクロールと違い、探す場所の論理をずらしている。WEBの掲示板や記載されたテキストではなく、個人の検索入力行為に着眼をずらした。アイデア・ブレストにおける、入れ替えの技術だ。平成のWEB全てを遡ることに執われていたレイナの調査に全く別の切り口を御園生くんが作ったのだ。

 検索の窓。検索窓では物事を隠さないのが人間だ。検索という製品はよくできている。他人に言えない恥ずかしい履歴だったり、忘れたい過去も、検索をするときは、誰も何も隠そうとはしない。その向こうでGoogleが凄まじい量のサーバーでデータを吸い上げていると知っていてもだ。人間は機械への自己紹介は大胆になる。

 風間と守谷は、Googleアカウントも、スマホも、全て「健全」なものを使っていた。反社会の人間が使う、追跡不可能なワンタイムではなかったのだ。ここが盲点だった。レイナからすれば最初から二人は犯罪者や組織関係の人間だという前提で物事を進めすぎていたのだ。二人のアカウントを調べ直したところ、二人とも二段階認証さえ行っていない。完全な素人の、犯罪者の意識さえない典型的なアカウントだった。そして詳しくは割愛するが、二段階認証さえ入れていないアカウントなど、レイナにとっては、セキュリティ皆無のアカウントと言っていいのである。


百十四 河川敷(軽井澤新太)  


 佐島さんと別れたあと、わたくしは夜の闇の河川敷を歩きました。

 かつて東京の東の果てのこの川沿いから、西の多摩川沿いのボクシングジムに通い先を替えた自分の理由をわたくしは思い出していました。過去、わたくしは逃げたのです。現実からも。当時の会社からも。無論なんとなくではなく、そこには理由があり、拒否があり、意思があり、はっきりと逃げたのです。

 佐島さんと話しているうちにわたくしは少し整理が進んだかもしれません。佐島さんに言われた言葉からということではなく、多くの会話がそうであるように、言葉と言葉が重なる中で、全く違う場所の電気が通ったのです。おそらくその場所に電気を通すまいとしてきたのは、このわたくし自身の無意識の中の意思だったのでしょう。

 わたくしは、歩いて北上をしながら、河川敷の上流を見つめました。

 歩きながら自分が恐怖に駆られている理由が少しずつわかってきました。

 何故ならその先には、かつての事件の現場があるからです。

 わたくしは前職のとある時期にこの一帯に関わりました。いまから十年ほど前です。その事件から二十年の懲役を終えて、とある人物が社会復帰したのです。わたくしはその人物の取材を試みたのです。そのせいで、わたくしはこの一帯には詳しいのです。

 なにか新しく事件があったわけではありません。わたくしは取材を試みただけです。しかしそこで事件とは全く別の経験をすることになりました。それは自分という人間に<最悪の結果>をもたらしました。何かの目に見える不幸ではありません。が、おそらく自分の人生で最も最悪で、後悔をしても何も取り戻せない種類の精神経歴が生じてしまいました。

 誰しもあるのかもしれません。自分だけが知っていて自分だけが後悔をしていて、誰にも話すことのできない<罪状>というものが。世の中の法律にも裁かれず、自分さえ黙っていれば一切問題が起きない種類の<罪>です。その<罪>は裁かれません。人を裏切った最低で最悪な<罪>であるにも関わらず、警察にも捕まらない。それどころか気持ちの持ち方や設計によっては、全く存在も忘れて暮らすことさえできる、そういう種類の<罪>です。(前向きに生きます、という言葉でよく隠されると言ってもいいかもしれません。)

 


百十五 バーボンボトル (銭谷警部補)


 わたしと金石の目の前で、その母親は泣いていた。

 六本木ヒルズで死んだ女子大生の母だった。

 わたしは子育て、というものを知らない。子供というのは世の親にとってどのようににやって来て、どういう風に失われるのか。そんなことは子供のいないわたしには想像ができない。

 泣き崩れる母親を前にわたしは焦ったのを覚えている。

 隣にいた金石が目に涙を溜めていたのだ。

 娘を失った母は、殆ど意味の同じ言葉を繰り返した。子供の頃の話。お祭りで浴衣を着たという写真。風車を手に持ってピースサインをする少女の隣に、今目の前にいる母親と同一人物とは思えぬ、若く闊達な女性がいる。変化は年齢だけではない。愛する娘がこの世に無い事やその未来が存在しない事が母親を幾年も老化させていた。それでも運動会の写真、入学式、卒業式の写真、どこか温泉街での写真、海水浴の写真などを見せながら、母親はメディアで言われているような事実はひとつもなく、ただただ親孝行の娘だったと繰り返した。しかしながらそういう思い出が語られる度に、取り戻せぬ過去と、殺された現実が我々の目の前で存在を強めた。

「すいません。」

金石は、そう言うと幾度も言葉を出そうとしては噛み締めて呑み込み、失語者のように、身体を痙攣させていた。隣にわたしがいる事など忘れられていた。

 殺された女子大生の職歴の疑惑を暴露記事にしたのは大手の新聞社だった。正確には、風俗産業にいたわけではない。しかしなぜか疑惑的に、そういう情報があふれた。わたしは、これは意図的だと思った。メディアがやる手口としてである。

 女子大生は写真で見てもはっとするほど美しい人だった。そういう女性が富裕層の集まる場所で何かをしていたという疑惑、幾度となくその場所に繰り返し参加(アテンド)したという疑惑は、テレビを漠然と眺める視聴者を立ち止まらせやすいことはわたしが見てもわかる。真偽は別として、それらは良く回る記事だった。メディアは報道の顔をしたまま、ゴシップを売る時が一番稼ぐ。誰も憲法を読むことに興味はないし、判例や薬品の原材料までを調べた貴重な報道は視聴率などをとらない。下世話でも稼げるニュースは繰り返し使われる。太刀川の周辺で賑やかだった報道は、いつの間にか女子大生の性的な記事ばかりに収斂していった。当初は、古い日本の産業構造と、四つ相撲で対決する新しい時代の寵児として存在した太刀川龍一という人間がいた。その報道の当初では双方の言い分は比較的平等に議論された。八十歳を過ぎた経営陣にインターネット対策法案は解らないだろうとか、日本は若者にチャンスがなさすぎるというような、見方によっては有意義な議論もあった。しかしいつの間にか、それらがゴシップとどうやら性的な状況の中で亡くなった美しい女子大生の話題にすり替わって行った。議論は本質を失った。そういうメディアの恣意的かもしれない変化に世の中は全く気が付かないままーー。

 ジャーナリズムとは呼べない恥ずべきものに限って、まるで自らが正当本家だと言う顔をする。さまざまな真実不明の修飾が記事に混ざる。彼女の美しさと卑猥な記述たちが、相乗するようにしてクリックの数だけを増やし資本を増強していく。そして、真実から遠ざかっていくとき、世の中はそれに気が付かない。

 結果として六本木事件はある世論へと変貌した。女子大生の死は自業自得だ、という世論だ。若い女子大生が、賑わう夜の街に憧れ、薬物のある一室に自ら赴き、事故死を起こした、という文脈が世の中の合議のようにされた。その部屋を主宰し、その部屋にいたかもしれない人間たちの問題は消え去ってしまった。いつの間にか報道機関やその周辺のメディアは、不思議とその足並みを揃えていった。

 そうして示し合わせたように、その熱の変化が捜査本部に落ちてきたのだ。わたしと金石のふたりを置き去りにしたまま、警察組織は多くの変更を始めた。

 早乙女が<立派な人間は自分だ>と言う顔をして、わたしを呼び止めたのを昨日のように思い出せる。クソのような早く忘れたいものに限って、いつになっても心から消えないことが多い。

 事件の当日の救急車のサイレンが脳に回ってくる。パトカーと救急車が一緒の時は、まだ死亡が確定していない時間だ。死んだと言われた直後のあの時間、六本木ヒルズのエレベーターのカメラは何故か止まっていた。彼女が生きていたかも知れない時間が残酷に過ぎた。その間にあの部屋に関連した多くの富裕層関係者は、彼女の人命よりも自らの社会的地位や風評を守るための手順をしていたのだ。

 本当は取り調べを受け真実を追求すべき大勢の人たちが煙のように消え、証拠も消えたのである。そうしてメディアはそれまでのことを忘れたように次の事件に向かった。早乙女は捜査本部の解散は当然のことだろうとわたしに告げ、事実上警察は捜査を打ち切った。

 金石が泣いていた理由は話したことがない。真実の目の前で何もできずに終わった不甲斐なさに対してだったのだろうか。いや、もしかすると本当はやり方によっては彼女を死なせずに済んだという事だったのか。内偵を続けた中で、一瞬の掛け違いで、全ての扉がしまったことを後悔しているのかもしれない。

 過去の映像と併せて、頭蓋骨を刺すような痛みが断続的に続いている。

 草の香りがふと耳元に過ぎった。

 星空の手前に顔面を覆う雑草がもたれかかっている。

 どうやら河川敷の草むらで眠っていたようだった。

 わたしは目の周りの湿り気を手の甲で拭った。

 最近人がいないときに一人で飲んでいると、どうしようもなくなってしまうことがある。人間として恥ずかしい、不気味な中年男の末路がここにある。感情を酒で混乱させつつ、高めながら、過去を後悔して、また酒を煽っている。ただその目の周りの湿り気は、わたしだけのものではない。金石のあの涙の続きが混ざっているーー。だから諦めがつかない。過去として切断ができない。結果、意識を失うまで飲みたいという願望が飲酒の後半にやってくる。


ToZ


二流の作業はだめだ

二流だけが組織にのさばる。


基本を思い出せ。

遺族の気持ちになるべきだ。



K 


 河川敷での眠りは深かったらしい。

 深夜何時か分からない。

 隅田川では見ることのできない星が、金町まで下った江戸川では少しだけ見えた。切れる寸前の街灯が、空の星と似た点滅をくりかえしていた。

 ウィスキーのボトル瓶だけが、私の<手のひら>で唯一明確に物質がそこに存在する感覚をさせていた。その硬い部分に縋るように、わたしは強くそれを握りしめていた。



百十六 クロール (レイナ)


Wi-Fi、天気、引っ越し、探偵、探偵事務所、携帯電話、競馬、地下鉄、アプリ、借金、キャンペーン、LINE、銀行、ガス、振込、振り込み、地図、地図アプリ、コーヒー、喫茶店、新宿、東京、渋谷、スイカ、Suica、風俗、マッサージ、歌舞伎町、居酒屋、


 風間と守谷の検索していた言葉は平凡な言葉ばかりだった。

 検索の窓に打ち込む言葉は或る意味残酷なまでに人間というものを浮き彫りにしている。生活や日常のなかにある、退屈さ、虚しさ、欲望、憂鬱、不誠実、嘘、不貞のような人間が日常、外側に見せないようなものが、堂々と混ざってくる。検索語句を見るというのは、レイナにはほとんどその人物の秘密を見ているようにさえ思えた。

 風間と守谷の検索語句で重複するものがゆっくりと、並び始めている。セキュリティに対して慎重にしているせいで、一つ一つの言葉が落ちてくるのに時間がかかった。Googleのアクセスは一秒間にある一定数を超えると警告が入るのである。

 御園生君が期待していたような、小学校や地元の固有名詞はまだ現れなかった。 

 普通の重複は、買いたいもの、食べたいもの、移動したい場所、そういう日常の検索ばかりが出てくる。だからこそ不自然な固有名詞があれば重要な手がかりになるだろうという御園生君の期待は正しい。「ひばりが丘小学校」と一人が偶然検索することはあるかもしれない。しかし二人の中年男が検索したとなると、それは出身校か双方に深く関係のある過去の何かである可能性が高くなる。

 しかし、重複の個数はレイナが想像していたより少なかった。

 今のところ、重複として呈示される言葉もまだ一般的で典型的な検索語句がほとんどだった。

 レイナは海を眺めた。夜の海は、暗黒が唸るだけで、ドブ臭い潮騒を続けていた。東京湾は人間がいる場所の光に囲まれて、空の星は殆ど感じられなかった。

 今日、軽井澤さんと会った。

 そこで、佐島を借りて自分の意見を言った。

 軽井澤さん、あなたは手を引くべきだ、と。

 しかし軽井澤さんは何か、複雑な自分自身の過去のことを事由にしてもう少し待ってほしいと話した。その先で、少し不思議なことを言った。それは、

「最悪の状態に行きたくない」

という言葉だった。

 最悪の状態とはなんのことだろう。レイナには今一つ理解が及ばなかった。

 トレーラーの運転席で、火をつけたタバコも吸い込むのを忘れていた。燃えかすが指に落ちた。

 その時、Macが光ったーー。

 レイナは辛うじて仕事の脳細胞に戻り、断続的に続く自分の言葉や妄念を無理やり止めた。そうして、プログラムがGoogleの隙間を縫って調べている検索語句の重複の最新を見つめ直した。

 そこに、とある言葉が混ざっていた。

 その三文字は、すこし残酷に彼女の脳内に刺激を落とした。

 風間と守谷が共通に検索していた固有名詞のなかに、何故か関係のないはずの言葉があった。

 レイナはその見覚えのある三文字を確認した。

「江戸島ーー。」



百十七 回想 (赤髪女)   


 あの時ーー。 

 元々の仕事に何か不満があったわけではない。強いて言うなら少しだけ暇だった。ちょうど恋もしていなかったから。だから、少しだけの気の迷いで、アイドルの頃やっていた覚醒剤が復活した。

 父親も母親もアイドルをやめてしまったわたしには興味を失っていた、と思う。新しい次の家族や子供ができてそっちに向かっていった。そもそも、自分ももう誰が見ても可愛がる子供の時代は過ぎて、めんどうな大人になっていった。そもそも親のいない寂しさは薄れていった。別にもう、親はどうでもいい、と思った。でも、覚醒剤を復活させてしまったのは、親からの連絡が途絶えた頃だったーー。

 酩酊の中でいろいろな裏の検索をしたと思う。

 インターネットには表と裏がある。赤髪女はVPNが流行り出す前、覚醒剤を手に入れるためにその界隈に詳しくなっていた。表ではできない取引をする裏のインターネット。接続の仕方が違うインターネット。ネットが自分を認識していないせいで、出てくる広告も違っている。男物の精力剤とか、老人モノの広告とか、を自分に当ててくる異世界。

 そこには様々な「仕事」が溢れていた。

 符丁のような言葉が並ぶ。ヤーバー、ホワイト、スノウ、チョコ、

 名前は毎年変わっていく。

 やり方も。

 あの時はまだ、裏のネットに対して警察が手薄だったのかもしれない。比較的大胆に、値段と、連絡手段などを設定していた。VPNっていうサーバーは、自分の情報を抜かれないという話を聞いて、それが少し密室的な喜びになって、いろいろ酩酊の中でやったと思う。今はその頃のことは思い出せないし、そもそもそんなサイトは常に生まれては消えていく。正直幻だったのかもしれない、とさえ思う。

 ただ、その場所には覚醒剤以外のさまざまな違法仕事をする人間が沢山いたのだと思う。

 そうかーー。

 多分、そういう場所で、いまの指示者のような人間が自分を見つけたのかもしれない、と赤髪女は思った。



百十八 間諜(人物不祥 村雨浩之) 


「体調はどうだ、守谷さん。」

「……。誰だあんたは?」

「新宿は大変だったようだな。殺される恐怖は嫌だろう。腕は痛むか?」

「だ、だれだ?」

「……腕は痛むか。」

「…殺されるのはまっぴらだ。」

「殺されるくらいなら、殺した方がいいだろう。あなたは人殺しなのだから。」

(深い沈黙。)

「……。お前は誰だ?」

「まあいい。探偵を頼ろうともしたが上手くいかなかったようだな。」

「……。」

「後悔をするかもしれないな。昨日も例の埋立地に行ったようだが。あの時間なら、十分文字は読めただろう。」

「埋立地?文字を読めた?」

「ああ。文字があっただろう。」

「どうしてそれを知っている?」

「そう言う時代だよ。」

「うるさい。…殺しはもうまっぴらだ。」

「であれば殺される側になるしかないな。わかってるだろうに。」

「あんたが首謀者か?このおかしな作業の。」

「質問に答えろ。助かりたくはないのか」

(深い沈黙。)

「助かる方法があるのか」

「ああ。」

「ほんとうか?」

「ああ。そういう理由でわざわざ危険を冒してまで、こうやって電話をしているわけだ。理解が遅いな。守谷さん。」

「……。」

「安心しろ。もう刑務所に戻されたりしないことは約束しよう。単純で簡単な作業を少ししてくれればいいのだ。守谷さん。」

「なにをすればいい。」

「撒菱を知っているか?」

「まきびし?ああ、おそらく調べればわかる」

「お前が宿泊してるその宿を出ると小さな公園がある。その公園の出口近くの駐車場に小さな白の軽トラックが停めてある。先々まで駐車代金は支払い済みだ。」

「待て。俺のいるこの場所を把握してるのか?」

「ああ。山谷で宿泊費が三千円の木賃宿に身を寄せているのは知っている。新宿で襲撃され、その後池尻の方に向かったのも把握している。」

「なぜだ。」

「こちらの用件だけを言おう。その軽トラックの中に、荷物がある。撒菱が入った袋と、塗料が入っている。この塗料を今から撒菱に塗り続けるのだ。」

「よくわからんが」

「命を助けてほしくないのか?」

「……。」

「守谷さん。助かりたければ、もう二度と言わないからしっかり聞いておけ。その軽トラックをこの先使う。鍵は刺さったままだから、引き抜いて保管しろ。まずは撒菱に言われた通り塗料を塗り続けるんだ。次の指示は追って行う。こちらの指示の通りにするのがいいはずだ。そうすれば、今の環境から抜け出させてやる。無論、その前払いの報酬も車の中に置いてある。美味い酒でも飲むがいい。」

「……。」

「おかしな真似をすれば、また新宿のようなことが起きるだろう。もう片方の腕だけで済むと思わない方がいい。」

電話が切れた後、守谷と名前で呼ばれた男は、木賃宿を出て外を見回した。公園がある。そしてその入り口の横手の狭い駐車場に軽トラックがあった。闇に紛れるがおそらく色は白だ。あたりを見回しながらゆっくりと近づくき、ドアを開けた。鍵は空いていて、確かに運転席に刺さったままだった。助手席には袋があり、手で掴むとかなり重かった。鉄の釘を集めたようなジャリという音を立てた。




百十九 早朝の連絡 (御園生探偵)


 それは朝の四時だった。

 重要なメールを音が出るようにしている僕のパソコンに、微かなチャイム音が鳴った。僕はベッドから降りてMacBook Airの置いてある机に向かった。

 パソコンにレイナさんからのメールが新着している。今日の打ち合わせで頼んだことが早速まとまり、メールをくれたようだった。宛先は僕だけだった。軽井澤さんは入っていなかった。

 題名に「共通点のまとめ」とある。

 風間と守谷、二人の検索履歴に、重複パターンがあると僕は仮説した。例えば出身が奄美大島で同じなら、奄美、大島と、言う言葉が共通する。三年も遡れば確実に同じ文字を確実に使うのではないか?出身が北海道と九州では、雪や海の使い方も、当然その周辺の言葉の重なりも違うのではないか?その種の現象があの二人にはあると考えたのだ。その意見を、レイナさんは面白いと言ってくれた。むしろ、すこしアイデアを称賛してくれた気さえした。

 だが予想に反し、レイナさんの報告のメールは思ったよりそっけないものだった。タイトルにはご依頼の共通点の件とだけあり、そして本文にもただ、よろしくお願いしますとあるだけだった。同封されたのはファイルが一つだけ、それも簡単なテキストファイルだけだった。

 僕は、ファイルを開き、眺めた。

 風間と守谷の共通の検索語句だけが遡れる範囲で並んでいた。



Wi-Fi

天気

引っ越し

探偵

探偵事務所

携帯電話

競馬

地下鉄

アプリ

LINE

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振込

振り込み

滞納

地図

地図アプリ

コーヒー

喫茶店

保護司

新宿

東大久保

東京

渋谷

スイカ

Suica

風俗

マッサージ

歌舞伎町

居酒屋

風俗比較

無料

プリペイド携帯

調査

現金

江戸島

ドトール

タバコ

喫煙所

コンビニ

パスワード

家賃

不動産

儲かる

時刻表

道のり

ニュース

探偵

今日の天気

軽井澤

御園生



想像し期待したものとはだいぶ違う、比較的特徴の少ない単語の列だった。特定の学校や、最寄駅、個人名などが重なるのを僕は想定していた。分倍河原とか、新百合ヶ丘のような土地の名前とか、桜ヶ丘小学校、多摩川中学のような学校名とかだ。少なくとも子供の頃から風間と守谷が何かの時間を共にしたと思える特殊な言葉がいくつか重なると思っていたのである。

 そこには、地元の地名もなければ、学校名もなかった。ただただ一般的な語句の重なりだけだった。風間や守谷の過去に関わる言葉、犯罪の内容や、個人名が出たりすることはなく、ほとんど一般名詞ばかりが並んだ。固有名詞として、探偵とか軽井澤、御園生の名前があるのは自分が予想した通り、Googleの検索を行なって軽井澤事務所のホームページにたどり着いて連絡をしてきたのだと思った。


 

Wi-Fi

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Suica

風俗

マッサージ

歌舞伎町

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江戸島

ドトール

タバコ

喫煙所

コンビニ

パスワード

家賃

不動産

儲かる

時刻表

道のり

ニュース

探偵

今日の天気

軽井澤

御園生



僕は、繰り返し単語を見つめ直した。これだけしかないのかと、レイナさんに恨めしく質問をしたい気持ちを抑えながら。しかし、幾度見ても期待していたようなものはなかった。見たことのある言葉ばかりだと思った。

 窓の外が薄らと夜明けを始めていた。


殺人の二日前 (九月十三日)


百二十  朝の電話(御園生探偵)


 レイナさんのメッセージを僕は軽井澤さんに転送した。すると、夜明けを待たずに返信があった。

 軽井澤さんは眠れていないのだと思った。

「ありがとうございます。わたくしが不甲斐ないばかりに、お気を使わせてしまいましたね。なるほど、昨夜レイナさんにそのようなお願いをしてもらっていたのですね。わたくしが手が回らず、打合せにも出れず、ごめんなさい。もしよければ今すぐ話せますか?」

テレビ電話を早々に繋げると、軽井澤さんと僕は形だけ、おはようございます、と挨拶した。僕の方で、画面にレイナさんのテキストファイルを映し出した。



Wi-Fi

天気

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探偵

探偵事務所

携帯電話

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地下鉄

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軽井澤

御園生


「ありがとうございます。いろいろ作業を気遣ってもらって。御園生くん、いくつか質問して良いでしょうか?」

「はい、もちろんです。」

「保護司というのはなんですかね。」

「保護司ですね、これは調べてみたんですが、ボランティアの一つみたいですね。」

「ボランティア?慈善か何かですか」

「ええ。更生に関係する仕事みたいです。固有名詞、ということではないかもしれないですね。」

「更生というのは、犯罪者などの社会復帰に関する仕事ということですか。」

「はい。例えば、刑務所を出た人の就職雇用などをケアしたりするようです。まあ風間と守谷の印象からして刑務所くらい出ていた気もするのでそこで共通したのかもしれません。」

「なるほど。」

ぼくが保護司を詳しく説明できたのは、他に調べるような言葉がなかったからだ。本来はこの検索結果で、地元の学校名とか具体的な人物名などが、重複が生じる予定だった。しかし、そんな明確な「世田谷小学校」みたいな言葉はそこになかった。

 軽井澤さんは、それでも気にせずに、ああでもないこうでもないと言いながら単語をひとつひとつ見てコメントをしていった。我々の名前以外で唯一に固有名詞に近い、江戸島という言葉にたどり着いた時に、

「江戸島というのはもしかして、地名だったりしませんかね?」

と言った。

 実はこれも違う。それもすでに下調べをしてある。江戸島は土地名だったり学校の名前の可能性も感じるのだが違った。幾度調べても江戸川橋や、江ノ島、という地名はあるけども、江戸島という地名はなかった。

 すこし珍しい人名だった。

「人の名前なのですか。二人の共通する人の名前だとすると面白いですね。それは気になりませんか?」

「はい。もしかすると、と思い、一応それは調べました。」

僕は淡々とそのことについて説明した。全てのWEBページ、SNSアカウントを江戸島、edoshimaなどで検索して見回したことや、そういう判りやすいアカウントはなかったこと、唯一ネット検索で出てくる人物があったことなどを説明した。

「唯一ネット検索で出てくる。それは、どんな人物ですか?」

「SNSのアカウントなどではないんです。」

「個人アカウントではない。」

「はい。そうです。」

「どういうことだろう。」

「いくつかの経済新聞などの記事で、名前が出るんです。」

「経済新聞?」

「はい。」

僕は、そう言ってチャットの方にテキストを送った。


X重工株式会社、代表取締役会長 江戸島昭二郎

経済団体連合会 理事 


「つまり、江戸島で、引っかかるのは、この人間だけです。」

僕はリンクでそういう過去のニュースを置きながら説明した。ニュースというよりX重工という会社のホームページや人事だった。それだけで十分に経済ニュースになるのだった。

「X重工の会長というか、経団連の役職者のひとですね。」

軽井澤さんはそう言った。

「お知り合いですか?」

「いえいえ。ただ、財界に名前の出る人物で名前だけ聞いたことがあるくらいです。」

「なるほど。江戸島、ということで言うと、かなり探しましたが、この人物しか出てこないですね。なので、この線も、ないのかなと思ってしまいました。」

「なるほど。」

「東証一部上場のX重工の会長と、風間や守谷が付き合いがあるように思えないなと。」

僕がそういうと、軽井澤さんは珍しく反論的に、

「そうですか。わたくしは少し気になるのですが。」

「ほんとうですか?」

「いや、勿論、全く普通はつながらない気はしてるのですが、逆に異質なのが気になるんです。」

「……。」

「そもそも、江戸島という経済界の重鎮の名前を、あの二人が共通にわざわざネットで時を同じく検索をしたのは、考えてみるとおかしい気がするのです。あの風間が、上場企業の役員の名前を調べますかね?」

僕はてっきり軽井澤さんが、他に取り付く島がないので無理にこの江戸島を掘り下げているのかと思ったが、意外とそうでもないらしかった。むしろ前向きに気になっているのだ。偶然、同じ言葉を検索する、それも、自然な言葉ではなく、普段日常使わない言葉を共通に検索窓に入力するーー。軽井澤さんは、その違和感を指摘して少し独り言のように呟いていた。ただ残念ながら、それ以上の事は思いつかなかった。朝早いのもあり、一旦電話を切ってお互い考えをまとめて、事務所で会おうとなった。

 二度寝をするにも勿体ない快晴だった。

 僕は事務所に向かうことにした。なんだか家にいるのが落ち着かなかった。それは、どこかで愛想のないレイナさんからのメールが関係もしていたのだが。ところが家を出て駅まで向かっているときに、ブン、と携帯が鳴った。

 軽井澤さんからのチャットだった。

 曰く、どういうやり方なのかわからないが、早速この江戸島と言う東証一部上場の大企業の会長室に電話をして、面会を取り付けた、というのだ。時計を見ると、まだ朝の七時をまわったところである。二段階も、三段階も早いその軽井澤さんの手順に私は少し驚きながら

「本当ですか?なぜ、そんなことが可能なのですか?」

僕はそうチャットで返したけれども返信は無く、しばらくして折り返しに電話が鳴った。

「わたくしも、無視されると思ったのですが、意外なことに時間をすぐに取ると言うのです。随分、開放的な会長ですね。」

僕は、軽井澤さんの前職が報道記者だったのを思い出した。この辺のフットワークの良さは、もしかしたら軽井澤さんのそういう前職の影響なのかもしれない。長閑なようで突然疾走する。ここぞというときに突然急激になるのだ。

 普通、大企業の受付に朝の六時に電話はしないと思う。大企業の朝は早いのか、軽井澤さんがどういう言い方をしたのかは知らないが、六時台の電話申し込みで、約束は今日の朝八時らしい。

「御園生さん、会長自らが、わざわざ会ってくれるらしいです。八時十分前に、二重橋来れますか?大手町の皇居の近くの二重橋の、X重工ビルです。」

僕は驚いた声を抑えながら、

「しかし、こう言うことって良くあるんですかね?どんな話し方をしたら約束を取り付けられるのですか。」

「いえいえ、大したことでも無いですよ。普通です。後ほど解ります。それと申し訳ないのですが事務所に寄ってもらい、例の葉書を持って車(キャロル)で来てもらいたいのです。いや、これはお願いしますね。車で。その後もあるかもしれないので。」

軽井澤さんは強引になっていた。彼なりの直感らしきものが動いたのかもしれない。ただ、昨日までの暗鬱より、少し強引で、躁が掛かった感じの軽井澤さんの方が僕も気が楽だった。時折、軽井澤さんはこういう熱を感じさせる時がある。

(同じ報道記者だったという、父もそういう感じだったのだろうか?)

父の仕事のことは一切知らないが、軽井澤さんの突然の強引さに、なぜか僕は父親の広い背中の記憶を思い出していた。

「大丈夫ですかね?」

軽井澤さんは沈黙していた僕にあらためてそう聞いた。

「はい。ちょうどいま、事務所に向かってるところだったので、ちょうどいいです。」

「それはよかった。では後ほど。」

僕はポケットのマツダのキャロルのキーを手触りで確認しながら、反対の手に掲げたスマホでX重工の住所を調べた。瞬時にGoogle Mapに、青山通りを皇居前で右折し三宅坂から二重橋に入る道のりが表示された。この早朝ならものの十分でたどり着くだろう。



百二十一 娘 (軽井澤紗智)


 家族で旅行などに行った記憶は少ない。品川の水族館、あとテレビ局の夏祭りと、サッカーの試合のチケットを貰って母と観に行ったくらい。一人娘としては、サッカーよりフィギュアスケート観戦の方を所望したけども、なぜか貰えるのは大抵サッカーのチケットだった。

 そもそも軽井澤家は家族行事そのものが少なかったのだと思う。父と母は、二人とも仕事中心の生活だったから、塾や習い事から帰っても二人が一緒に家で待っているなどということはなかった。

 今日、紗千は夜明け前に目が覚めた。

 夏の終わりとはいえ、まだ五時台ではすることがなかった。

 それだけの理由で、大学の一限が始まる前に、昨夜から引き続き既読無視のままの父に会おうと青山墓地裏の事務所に顔を出してみた。昨夜から連絡がないので、もしかしたら、事務所で寝落ちでもしてるのか、と紗千は考えたのである。

 広尾、乃木坂、外苑、どの駅からも遠いその事務所は、都心部の忘れられた場所のような隘路をたどる、風水が決して良いとは言えないだろう青山墓地の裏手の、崖の下にあった。歴史を感じさせる昔の石垣の名残がその崖を頼りなく支えている。大雨で土砂が崩れたら大変だなと思いながらその前を通って事務所の前に立った。

 事務所に来たのは久しぶりだった。

 やはり、父はいなかった。

 事務所に呼び鈴は無い。明確に探偵事務所だという説明もない。小さくドアに相撲文字のシールで軽井澤探偵通信社と貼ってあるけど気がつく人はいない、と思う。来客を歓迎してるとは到底言い難い、その事務所を眺めながら、自分の中にもそう言う遺伝子が流れているなあと感じる。紗千は、目立つ看板が好きじゃない。

 見た目は母親に似ている、とよく言われる。けど、父と母、二人のそれぞれの部分が自分に共存していて、こういう日陰に事務所を構える父の趣味は、紗千にも流れている。河川敷で暗くボクシングするのもそう。父と見た目は似なかったけど。まあそれが子供って言うものなのだろうか。性格は、どこか父に似てきたのかなと思うことがある。

 仕事ばかりしてきた父と母だから、お互いの理解が難しかったのだなと、突然思った。仕事をすればするほど譲れない誰にも説明できない場所ができるんだろうか。

「どちらさまですか?」

背中側から声がして振り返ると、その人はじっと私をみていた。急いで事務所の前を去って過ぎようとする紗千に、気さくに話しかけた。若々しくスーツ姿の青年だった。お探しの何かがあるような場所ではないという言い方だった。

「いえ、あの。」

まさか、軽井澤の親族だとも言い出せずにいると、その青年は少し怪しげに、わたしを見ていたけれども、

「西麻布からこの辺りは迷いやすいです。乃木坂駅はあっちです。少し遠いけど。それでは失礼。」

とだけ言って、急いだ風情で、まだ誰もいない父の事務所の鍵を開けて中に入っていった。背の高い好青年で、早朝からしっかりスーツにネクタイまでしていた。

 軽井澤探偵通信社であんな人が働いてるなんて紗千は知らなかった。



百二十二 会長室 (御園生探偵)


「東証一部の会長は、普通、当日の朝の電話で知らない人には会わないでしょう。ははは。」

「お忙しいなか、すいません。」

「いえいえ。わたしは見ての通り、田舎出のたたき上げでしてね。そういう初対面のようなところは物怖じさせないのです。」

快活で良く伸びる声で江戸島会長は第一声を放った。美しく整えられた白髪と、眼光の鋭さ。抑えた笑顔、恰幅の良いスーツ姿。豪放磊落、という空気が表現に正しい。後ろの巨大な窓からは皇居や霞ヶ関が一望され、さも上場企業らしい豪奢な役員室であった。正直僕はすこし萎縮をした。

 軽井澤さんはしかし、その鷹揚な会長に対しても、全く躊躇怖じをした様子もなく

「恐れ多いです。この度は、有り難いお時間をありがとうございます。」

と言って、その後は、絶妙な挨拶の会話や僕の紹介などを続けた。顔面青白く体調の優れないのを除けば、軽井澤さんはこの江戸島会長室という場所で迫力負けもせず、ほぼいつも通りに、むしろ元気よく会話をしていた。そうして十分にお互いの胸襟を開いたところで、軽井澤さんが、少しずつ話の舵を切るのがわかった。  

 とある二人の男への脅迫未遂があり、会長はその脅迫周辺の被害に遭う恐れがある。その男達は随分と筋のよろしくない臭いのする輩である。二人とも江戸島会長のことを明確に口にしており、非公式の情報を警察が動くようなことになる前に入れておきたい、と、そういう説明を、軽井澤さんは、秘書に電話でしたらしく、まずはその事から噛み砕いて言葉を並べた。

 軽井澤さんの言葉にはさまざまな文脈が仕掛けを付けているなぁと思いつつ、僕は会話の行く末を見守った。風間や守谷が何を語ったか?そんな会話をしたわけではない。語ったのではなく、検索をした無限にある言葉の中で、江戸島という言葉が、重複したに過ぎない。そこには軽井澤さんの作為があった。

「ふむう。そうですか。まあ、名前も珍しいほうですが、江戸島って名前で引っ掛けたわけですね。」

「まあそうです。今のところは、彼らが共通して、江戸島というお名前を語った、ということのみです。」

「そういうことは、多いのですかね。」

江戸島会長はどうしたものかなという態度になった。

 とぼけているのだろうか?伊藤とか小林とは違う。ネットの上でもあなた以外、子供や若者含めて誰一人出てこない江戸島という名前なのだ。

「会長はご家族は?」

「実は独り身でして。」

「失礼しましたーー。江戸島という苗字は珍しいですよね。」

「ええ。富山がルーツと聞いていますが。まあ、ありそうでない名前なのでね。それから、お二人は、ええと」

「軽井澤探偵通信社です。」

「大変失礼いたしましたね。そうでした。」

少し遅れた秘書が白銀の什器で、お茶を出した。天井が高く、窓も壁一面に開放していて空を丸見えにしている。濠端を見下ろす最上階で一番の部屋である。

 間合いをうまく取りながら、軽井澤さんの話は少しずつ不気味な領域に入っていく。風間の猫の死体の話や、守谷の私刑に襲撃された様子を比較的細かく語った。その生々しい場面には、江戸島会長は経済界の大物らしい相好を崩さない態度を保ちつつ、適度に顔をしかめたり嫌悪感を示す反応をした。

「心当たりがないですね。」

「はい。」

「それで彼らは、警察には行かないのですか」

「二人とも警察には行かないのです。むしろ我々も勧めましたが。」

「それも変わった方々ですね。被害者なのに。うむ。あと、そもそもあなたたちは何故関係が?」

「元々は我々にコンサル依頼があったのです。」

軽井澤さんは上品に言ったのかもしれないが、単純に探偵事務所に連絡があっただけである。

「その流れで二人が被害を受けた場面で、或る意味で、追撃の目撃者になってしまってまして。そのことは話し出すと少しつまらなく複雑なのですが。このようなことを致す人々ですから組織的な犯罪の可能性もあります。つまり、我々は、無駄に組織に狙われる可能性があるのです。彼らはよくわからない連中で、人を殺めてるかは不明ですが、少なくとも猫は数匹殺してますが、そう言う、タガが外れてる可能性がありますから、関連した人間が、こちらに何をしてくるか予想もつかないと言う種類の恐怖でして。」

そこで無言になった。そう言って仕舞えば、我々だけでなく、名前の出ている江戸島会長も同じ危険性の中にあるのだというのは伝わったようだった。青白いくらい疲れた軽井澤さんの表情がその時すごく効果的に、江戸島会長を怯えさせる気がした。

「警察沙汰を嫌がるのは、何故なのでしょうね。」

「わかりません。ただ、会長のような立派な方々とは違い、世の中にはまあまあ、警察署に足を運びたくない種類の人間は多いかもしれません。」

「全く、変な話です。いずれ警察に行くべきことにも思いますが」

「ええ。ただ、相手を知らない中で、余り勝手に警察に動くのも、よくないとも思うのです。強い覚悟や悪意のある人間どもなら、刺激を無駄にさせてしまう恐れもあります。」

僕は黙って軽井澤さんの言葉を聞いていた。その考え方は初めて聞いたなと思った。

「そういうものですか」

「わたくしも、こればかりは分かりませんが、中々猫の死体を届けるなどと言うのは相当な覚悟がなければできませんので。猫を殺せますか?」

猫の死体という、大手町のビルに似合わない言葉が広い会議室を猟奇的に黙らせた。この時の沈黙が一番長かった。やがて、江戸島会長はしびれを切らしたように、

「うーむ。よくわかりました。ありがとうございます。あらましは理解致したのですが、この話を今どうしろと言われても、困ると言うか。」

軽井澤さんは、そこで、少し長めに呼吸をし、

「会長。そこで少しお見せしたい物がございます。」

そこで、軽井澤さんは、僕の方を見た。ああ、そういうことかと思った。プレゼンのように、筋書きを書いて話してるのだ。僕は、カバンから今事務所で壁から外してきたばかりの葉書を取り出して、机に置こうとすると、軽井澤さんの手が伸びてそれを預かった。そうして手品師のトランプのようにして葉書をゆっくりと一枚ずつ、見せていった。見ると、わざわざ消印の日にちを分けている。

 江戸島会長は、軽井澤さんの勿体ぶった態度に、少し目をキョロキョロとさせ、訝しげに軽井澤さんの手を追っていた。

「こちらはですね、この風間と守谷という二人が共通して恐れた葉書なのです。恐れた、というかこの一連の奇妙な出来事の首謀者が作ったと思われる仕掛けのようなものだと思うのです。」

「……。」

「この葉書八枚は、まず八月の六日に、このグループで送られたんですね。見てください。宛先は全部同じように手書きです。筆跡としては、誰か一人だと思われる手書きなのです。つまり犯人もしくは首謀者は、捕まることも恐れてはいない覚悟がある可能性があります。これが送られていて、そうしてこの六枚のほうが、そのまたすぐ後、三日後に送られているのです。この六枚にはこう言う文字が書かれてます。」

そう言いながら、軽井澤さんは、葉書をゆっくりと広い役員室のテーブルにくべた。葉書の位置を微妙に揃え直したりして、何かの間合いを図る手品師のような雰囲気があった。

「最初にこの八枚。三日後に、この六枚です。」

葉書のアルファベット側だけがみえるように、表面になってるものを裏返していった。

「こうやって、文字だけが、突きつけられるということです。」

役員室の広大な長方形の机の上には、手書きのアルファベットが十四個並んだ。八枚のグループと六個のグループが意味にもならない形で並んでいる。

 

六日消印 O C C N E E T R

九日消印 A A U W K S


沈黙があった。江戸島会長にとっては、何かコメントをすることもできないと言う代物なのだろう。手書きのアルファベットだけの並んだ葉書は本当に不気味に見えてしまう。普通の人生でこんな郵便物を受け取る機会などは無いのだ。

「こういう葉書を受け取った二人の奇妙な男が、何かに取り憑かれたように逃げ続けた。殺された猫が届けられたり、死ぬ寸前まで腕をもぎ取るようなリンチがあった。その別々の二人がそれぞれ共通して送られたのがこの葉書であり、共通して言葉にした固有名詞が、唯一江戸島さんの名前だったのです。逆に言えば他には然程共通することがなかった、とも言えます。」

軽井澤さんはそういうと再び、敢えて、なのか、言葉をしばらく止めた。江戸島会長の方がしびれて、

「ずいぶん、不気味なものですね。」

と、だけ言った。その言葉を受けても軽井澤さんは沈黙したままだった。僕にはその沈黙がすごく長く感じられた。そういう沈黙の合間におそらく会長の秘書が扉を何回か開けてこちらを見た。当然東証一部上場企業の会長ともなれば次のアポイントメントが入っているのだろう。

「まあ、普通に暮らしていて、こんな葉書が来るなんて事は無いと思います。何かの、嫌がらせでもない限り」

軽井澤さんは言葉を続けていたが、扉の向こう側から秘書が次のアポイントに対しての合図を送っている。江戸島会長は秘書の合図に気を配った。

「うむむ。申し訳ないがそろそろ次の約束の時間のようです。こちらは、この葉書で何かを結論と言うわけにもいかないかもしれませんが、貴重な情報交換の途中で申し訳ございません。今日は本当にありがとうございます。」

「あ、しかし」

「また、何かありましたらこちらから連絡させて貰います。」

磊落だった江戸島会長は、その言葉でわかるように我々に何か特に具体的な進捗を与えてくれなかった。僕はその態度で、江戸島という言葉の周辺に打つ手はなくなった気がした。何かを閉じる、そういう会話の終わり方だった。きっとそう簡単に何度もこの会長が我々に時間をくれないだろう。僕は意気消沈していく自分の体を感じた。しかしなぜか軽井澤さんはにこりと笑って言葉を颯爽と

「会長、我々も調べていることがあります。そちらがうまく行きましたらまた、ご報告に伺います。万が一、会長のお身体に何かがあっては大変ですから。」

軽井澤さんは、そう言って立ち上がった。



百二十三 受付追跡(赤髪女)

​​

 薬を体に入れた結果、昼夜がわからなくなっている。

 いや正確には体内時計の電池が切れていて時間を忘れている。夜明けを過ぎて完全に朝になった。いや、朝が何回も、通り過ぎた気がする、と赤髪女は思った。

 それでも眠くはない。

 眺めるのが癖になっているGPS画面の中で、緑の輝点が、動き出した。緑色は墓地の探偵の車、マツダのキャロルだ。

 赤髪女は、自分の頭が冴えるのが判った。実際にまたあのヘリウム指示者からの電話がくることを考えれば、なにか成果があった方がいい。次の入金を狙い続けなければ、また薬のお金に困る可能性がある。探偵事務所の車(キャロル)は南青山を地図の右上へと向かって抜け、赤坂を越え皇居の前を通っていくようだった。都会の真ん中で地図の水色がこんなにおおきいのは、皇居だ。皇居の濠端を走るくすんだ緑の車を想像した。もしかすると、あの美男子の探偵事務所員が運転しているのかもしれない。

 気がつくと、赤髪女はシャワーを浴びて、準備を始めた。別に他の仕事があるわけでもない。バッグに服を複数、秋葉原でも霞ヶ関でも目立たない準備をして家を出た。夏の終わりの朝陽が真横から射して、背中が熱かった。小田急祖師ヶ谷大蔵駅までは徒歩八分程度である。

 小田急線は千代田線に直結する。七時台で既にラッシュを迎えていた。車中、赤髪女はすることがないので、GPSを見ていた。マツダのキャロルは、皇居の濠端に停まって動かなくなった。日比谷通りという幹道沿いだった。

 二十分も経たない時間の後、赤髪女は千代田線二重橋駅から地上に出て、くすんだ緑の小さなマツダのキャロルを見つけた。皇居のお堀を背景に、水彩画のように停まっていた。

 朝の二重橋は当然ビジネスマンが多く、赤髪女はスーツを用意しておいてよかったと思った。大急ぎで女子トイレで着替えて地上に出たところで、ちょうど、あの美形の青年が車から降りて、年上の人間と日比谷通りを渡るところだった。

 赤髪女が遠目に尾行をしようとして距離感を測りかねているうちに、二人の探偵は、日比谷通りの御堀の反対側にある巨大なビルの中に吸い込まれた。赤髪女は焦って走った。ふたりが入ったのは赤いレンガの目立つビルで、X重工株式会社と記載があった。受付には複数の女性が並んで登録対応をしている。一番左の窓口で、探偵の二人が受付をしているのが見える。背後で見つめながら、大勢の出入りするその巨大なビルの一階フロアで赤髪女は人を待つフリをした。帽子が役に立っている。二人が受付を済ませ、エレベーターホールに吸い込まれていくのを確認してから、急ぎ同じ受付の女性に小走りで向かった。いちか、ばちか、だと思った。

「いまの軽井澤事務所、のものですが」

「あ、はい?」

軽井沢、と言われて反応したのがわかった。しめたーー。まさか探偵事務所とは名乗っていなくても、普通、アポを偽名にまではしていないはずだ。どこか出入り業者の風情をさせたのだろう。

「上司のアポに遅れてしまい、直接行きますが、何階ですか?部署がわからず」

受付嬢は、若い新人のようで、困った人間を助けたい様子で、説明をした。

「こまりましたね、どうしよう、会長室なので。」

「はい、会長でしたよね、確か名前が。」

「あ、江戸島になりますが、ええと。」

「そう、江戸島。大丈夫ですよ。社員の方に聞きながら上がって見ますから。その前に、化粧室に行きたくて。」

「あ、それでしたら、入ってすぐ右にございます。」

赤髪女は満足した。アポの相手まで調べることができたし、この赤煉瓦のビルに探偵二人が入っていく写真は既に撮れていた。これで、また当面の報酬は安定するだろう。

 行き先を教えてしまった受付女性を残して、赤髪女はエレベーターホール近くの化粧室の方に吸い込まれていった。



百二十四 役員廊 (御園生探偵)


「まあ、ぜひいつでもいらしてください。」

そう言った江戸島の言葉には明らかに壁があった。こういう壁を大企業的な人間はあちこちに設置するのだろう。

 僕は少し落胆気味の気分で、豪勢な会長室から待合を出てエレベーターフロアのほうに向かった。待合には、何人かの次のアポの出入りがあったり、陳情のような賑わいがあった。

「次の約束もたくさんあるんですね。朝一番は正解でしたね。」

軽井澤さんは、ぼんやりとそういった。

「あれ。」

僕はその待合に、どこかで見たような人間がいたのを思い出した。

「誰でしたっけ?」

「誰?知り合いですか?」

「誰だろう。」

「わたくしは全く知り合いもいませんでしたが。」

「多分、思い出しました。ネットバブルで名を馳せた、僕の世代ではまあまあ目立つ男ですよ。たしか、東大の。」

「残念ながら。存じ上げません。そうですよね、御園生くんの世代は結構若くして成功した人がいるでしょうね。」

僕はその男のことが気になっていたが、軽井澤さんはエレベーターを降りる間も、別のことを考えている様子で、余り興味を示さなかった。

(思い出した。たしかあれは太刀川、太刀川龍一だ。パラダイム社の創業者の。一時期かなりテレビで出ていたのに、まったく見なくなったな。)

僕はなんとか思い出したその名前を軽井澤さんに言い出しもしなかった。やはり、軽井澤さんは明らかに他のことを考えている様子だった。

 我々は古めかしく巨大な赤煉瓦のビルを出た。


百二十五 隅田川 (銭谷警部補)


 夜明け前、河川敷から自宅に戻ってもほとんど眠れなかった。

 ウィスキーの興奮なのかわからない。

 謹慎の身で、どうしても金町の駅から千代田線に乗る気にならず、休日に重宝する京成の方に乗り、下町から浅草に流れ着いた。行き場のない気分のまま、わたしはまた遊覧船に乗った。

 桟橋を離れた遊覧船は少し秋風の強まった隅田川をくだった。厩橋、蔵前橋、両国橋と船が行く。二日酔いのアルコールが風とともに抜けていく。

 もともと、刑事という仕事が好きだった。肌にあっていると信じてきた。四十歳を過ぎ、結婚や家族じみた幸福を素通りしてきたのだが、そこに寂しさなどはなかった。刑事の仕事そのものが、自分の全てと思えていた。

 犯罪者を追う。犯罪を犯した悪人を追う。最終的にどんな手段を使ってでも、それを逮捕する。単純な仕事なのだ。単純だが、正義は人間を癒す。やりがいを与えてくれる。日本中の刑事が安月給の重労働に耐えうるのはこの正義の美しい癒しが存在するからだろう。正しい方角へと自分を定めて仕事に向かうというのは、身体にも良いのだ。大岡忠明も遠山金四郎も、きっと似たような実は単純な喜びで生きていたはずだ。

 日の出桟橋で降りて、いつもの通り何もないままもう一度、今度は帰る便に乗り直す。

 遊覧船は浅草へと戻りはじめる。

 わたしは職業を変えたいなどとは思わないし、他のことができるとも思わない。こうやって、仕事を奪われた休日でさえ、未解決事件に思いを馳せ、ノートを眺めるくらいなのだ。家庭人が休日に子供の野球相手に張り切るように、わたしは休日も刑事だった。それは仕事を誇ると言うより、正義の依存症に犯された古い機械のようなものだ。時間を忘れて、捜査の不足部分のパズルを埋めるよろこびの他に、休日になんの趣味もない。それくらい自分にとって面白いのが刑事の仕事なのだ。

 知らない番号が官製のほうの携帯電話を鳴らした。

「休日は遊覧船でしょうか?」

声の主は唐突にそう聞いてきた。わたしは自分のこの趣味を人に言ったことはない。

「先日はありがとうございました。じつは、定年間際に、事件も抱えておりまして。ほら、わたしももうこの年齢、この立場で、部下もいないときています。なかなか仕事も進まないのですよ。そこで、もしできれば、あなたのような優秀な人にご相談できないかと思いまして。」

「……。」

「少し話しませんか。浅草あたりで」

声と内容でわかった。松本楼でカレーを食べた老刑事又兵衛だった。金石と関係を持つA署の老刑事だ。なぜ彼が、わたしの番号を知っているのか。そうしてなぜ遊覧船に乗っていて、もうすぐ浅草に向かっているのを知っているのだろうか。偶然で処理される内容ではなかった。

「言っている意味がよくわからないが……。」

「浅草寺の、仲見世にいい場所があります」

なにかわたしを探って調べているのは確かだろう、その不気味さと一緒に、松本楼のカレーをおいしそうにしていた小動物のような瞳を思い出した。

「小生は、今日は浅草にいまして。もしご都合が合えば。」

「……。」

「非番の時に、浅草で船に乗ると聞いたもので思い切って電話して見たのですよ。」





百二十六 二重橋 (石原里見巡査)


 石原里美巡査は、大手町の三菱通の路地裏のベンチに座った。周囲を少しだけ気にして視線のないのを確認してから、つけ髭を取り、帽子をカバンに入れ直した。朝から優雅な丸の内のカフェに入る気にはならなかった。

 今朝少し前に太刀川は二重橋駅で地下鉄を降りた。乗り換えるのではなく、地上に上がった。出口のすぐ上のオフィスビルに入って行った。ビルの名前はすぐに分かった。X重工株式会社と言えば、日本有数の大企業である。大手町に巨大な赤煉瓦の自社ビルをかかえている。今日は夕方からではなく早い時間から人に会うようだった。

 石原は、さすがにオフィスビルの中までは追えず大手町の道端で一人になったのである。

 しかし、石原はむしろ少し前向きな興奮の中にいた。

 今朝の地下鉄で初めて撮影カメラを回し、太刀川の朝を映像にすることに成功していたのだ。

 太刀川に絶対に気がつかれないため多くの工夫をしている。石原は撮影中一才、視線も体の向きも変えない。隣の車両の席に座り、太刀川の方角でなく、目の前のスマホを見る。膝の上に置く鞄の脇腹に穴をあけ中に小型カメラを仕込んである。小さな穴からカメラで撮影導線した映像の太刀川をスマホの画面で見るのである。つまり石原は、中年男性が携帯ゲームをやっている姿で、太刀川のいる車両を細かく盗撮しているのである。まるでスマホゲームに熱中するように画面を見つめているだけだから誰も気づきようがない。

 撮影できた情報には、単純な目視の尾行よりも余程情報が多い。画像には、太刀川の二重橋までの姿が自分の目で見るより余程正確に記録され、それを事後に、幾度も見直すことができるだろう。実際に人間が見て生で把握する数十倍の情報量があると感じる。石原は自分が幾度も太刀川の映像を見直せることに興奮した。たとえば、太刀川の視線や目を合わせた人物など、これまで自分の目の前で消えていった情報も、撮影した映像を解析する中で、見えてくるかもしれない。

 石原は率直に、この映像を早く銭谷に見せたいと思った。

 

百二十七 慈善提案(太刀川龍一) 



「江戸島さん。私のアポの前に入っていた、変わった風情の奴らは誰ですか」

「ははは。そんなことになぜ興味があるんですか。なんだか、探偵でね、ネット上で私の名前が使われたとかで。心配してきてくれたんですよ」

「ああ、そういう人たちですか。ネットですね。」

「きみの、引退されたネットですよ」

「ははは。引退なんかしていないですよ。ぼくは。」

「そうなのかい?ちまたでは、メールもつながらないから困ると聞くよ。」

「ははは。江戸島さんまでそう見ていただいてるのは恐縮です。」

「まあ、秘書が困るということですよ。連絡先がないと、アポの時間を変えられないのでね。ネットを否定されてる太刀川さんにいうのもあれですが。」

「いえいえ。ネットは引き続き世の中を動かしていますよ。可能性がないから去ったのではない。むしろ可能性がありすぎるから自分でそこにいるのが怖くて辞めたんです。ぼくは、自分の個人アカウントを全て捨てただけです。世の中がどう動いているかは、引き続き、ぼくなりのやり方で把握せねばならないと思っていますよ。」

「ほう。どんなやりかたがあるんですかね?」

「まあ、模索中です。人類は、便利なものを使いだすとやめられませんからね。宗教革命、産業革命、情報革命、全て技術革新からですから。」

「なるほど。」

「江戸島さん。僕のことを、世捨て人みたいに言わないでください。いろいろなやり方があるということです。」

「そりゃそうか。」

「まあ、あんな物を四六時中見てると体に悪いですから。」

「依存症になってる人も多いと聞くよね。」

「開発した人間はスマホを子供には触らせなかったと言われてます。」

「うむ。なるほど。」

「と、江戸島さん。お忙しい中ですよね。用件がなくても会長とはお茶飲み話もしたいんですが。」

「いえいえ。ちゃんと三十分は時間をとっていますよ。」

「はい。今日は、先日のお話であったフィランソロピーの件ですね。あれを酒飲み話で終わらせるのはもったいないと思っていて、もしできれば会長のポケットマネーでも頂こうかなと思った訳です。」

「相変わらず、大胆な説明ですね。ははは。」

「いえいえ。大企業はお金の使い方を知らないですからね。大学関係者は投資というものを知らない。だから産学ともに成長しない。あれだけの予算を使って何一つ成功しない。」

「耳が痛いね。」

「慈善事業は投資ですよ。株価でなく世の中の価値を上げる。世の中がほんとうの意味で前進することに江戸島さんが興味ある人間なのは僕は知っていますよ。だからこうしてやってきた訳です。」

「相変わらず、うまいプレゼン導入ですね。」

「まあ、ちゃかさないでください。ご紹介したい慈善事業は幾つもありますが、今回は脳死関連です。脳死、植物人間というのは奥が深くてですね、いろいろな不条理があるのですよ。その周辺で例えば臓器移植っていうのもある。」

「心臓だ、腎臓だっていうあれですね。」

「はい。おおよそ、こういう世界は純粋にならないんですよ。特に医者というのは権力争いがひどい。たくさん、おかしなところがある。僕は今、医療周りを色々調べています。これは面白いですよ。」

「不条理を許さないですからねあなたは。」

「人間として当然ですよ。」

「あなたみたいな子供がいたら親も楽しいでしょうねえ。」

そのような話をした後、太刀川はテーブルに資料を出して自分が取り組んでいる慈善事業の一部について一通り説明を行った。江戸島は太刀川の話を熱心に聞く様子だったがふとするとどこかで少し心が落ち着いていない様子があった。理由がわからなかった。太刀川は、ふと、少し前に来た奇妙な探偵らに心を半分奪われているのではないか、と感じた。部下の報告くらいで、心がおちつかなくなるような江戸島会長ではないだろう。

「…大企業経営者には社会への責任がありますよね。世の中は課題ばかりですから。少子化。子供の貧困。医療問題…。」

プレゼンは頭の中でシナリオも決まっており、太刀川は、酒を飲んでいる時よりもよほど快活に話を続けていた。彼自身インターネットに触れていないせいで、こうやって人間に生で話すことが楽しいのである。

「なるほど。面白いですね。日本の大企業の社会的責任は、考えていかねばならないテーマだと思います。」

江戸島は少しずつ、集中を直してきた。

「そうですよ。江戸島さん。わかってきましたね。」

「まあ前向きに、というか、具体的にやろうと思いますよ。大企業の社会的責任というのは、いろいろ言われるから。大した予算じゃないですしね。」

江戸島は集中力を欠いたことを詫びるように、言葉に色を付けた。

「ははは。そうこなくっちゃ。」

「しかし、よく調べている。」

ふとそこで今度は逆に江戸島のほうが、首を傾げた。

「これ全部自分で調査ではないでしょう?パラダイム社を辞めてから、太刀川さんは、色々動いているけどオフィスというかスタッフなどはどうされているのだすか?」

「スタッフですか?」

「ええ。これだけの資料だとご用意も大変でしょうし。資本はお持ちでしょうから、色々雇用されてるのかと思いまして。」

「……。」

「確か新しい会社を作ったという話は、お聞きしていなかったなと思ったんです。」

「まあ、色々ですね。」

「オフィスはどちらで?」

「……。」

こんどは太刀川のほうが明確にそこで黙った。そうして少ししてから、

「オフィスはないんですよ。まあ、強いて言えば自宅というか。自分一人でやっているんで。」

「自分一人ですか?ほんとうに?」

「そうですね。人を雇うと色々面倒で嫌なんです。」


百二十八 実験番号 #3219 


すいへいりーべ

すいへいりーべ


テレビのニュースのような音が、小さく聞こえる時がある

言葉まではわからない

水の中に潜ったときの水面の上にある世界

そもそも見えないし、キラキラ網膜の向こうで蠢いている

呼吸は苦しい

いつも苦しい

僕は水面の下にいて、空気のある場所で何かが動いている

世界が回っていくのを感じている

でも、それは水の外だ

朝と夜はわかる

気温を少し感じてるからではない

朝はこの星が何かをつなぐ、不思議な変換があるのだ

流れる粒子や僕の体の中にある分子構造が、共振する

反して夜はそれとは逆の方にゆっくりゆっくりと進んでいく

そうやって僕は朝と夜を数えている

その数を記憶してあの日からどれだけの時間が経ったのかわかるようにしている

誕生日を覚えているから両親と、弟二人の誕生日を祝っている



すいへいりーべ

僕のお船なにまがる

シップスくるある


水素、ヘリウム、リチウム、べりうむ、

ぼくは元素記号、の配列が大好きだ。水素は一番。ヘリウムは二番。背番号。電子(マイナス)の数と陽子(プラス)の数は同じ。水素は、電子ひとつ、陽子ひとつ。最初の満員が二席まで。最初のK殻は二つで満員。次のL殻は八つで満員。満員が安定してて、酸素Oは八番だから、Lの満員には二つ足りない。だから握手する手が二つ。炭素Cは六番だから手が四つ。ダイヤモンドが硬いのは、炭素が六番だから。ジャングルジムの三角形のかたち。これが世界で一番強い。炭とおんなじものが、立体に結晶するとダイヤモンドになる。数字って面白い

蝉はなぜ7年、11年、13年と土の中にいるのか?

ぼくは数え始める

元素という数字が世界を作ってる。

ぼくのからだも、こころも全部、番号の結果だ。

そういう番号がたくさんになっていくと席が安定しなくなっていく

自分で電子を外したりして、放射能になっていく



すいへいりーべ

すいへいりーべ







百二十九 濠端 (御園生探偵)  


 軽井澤さんと僕は、二重橋前の赤煉瓦ビルを出ると、ぼんやりとした。なんとなく青空の方角を求めて、皇居の側に歩みを進めた。しかしぼうっとしたのは僕だけで、軽井澤さんは

「御園生くん気がつきましか?」

と、問うてきた。

「えっ。何がですか?」

僕は、会長室の待合にいた太刀川龍一という東大出の経営者の名前をかろうじて思い出して、彼の周辺にあった当時の賑やかな富裕層のこと回想していたのだが、軽井澤さんはその話題ではなかった。

「御園生くん。江戸島会長は葉書を見て少し表情を変えましたね。」

「え、ほんとうですか?」

僕は、少し驚きつつ、江戸島会長が葉書を見た場面を思い出していた。意味不明の葉書をいきなりテーブルに並べられた江戸島会長の対応は一般的なものにしか僕には感じられなかった。しかし軽井澤さんは、

「わたくしには、江戸島が、葉書を見つめながら文字を追いかけているように思えたんです。」

と言い切ったのである。

「文字を、追いかける?」

「ええ。やはりこの葉書は一連の文字列なのだと思うのです。つまり、六日の消印のものが一つ目、九日の日消印のものが二つ目の単語になるんだと思います。それがどうしても知らない人には見えず、知ってる人にだけ見えるようになっている。」


六日 O C C N E E T R

九日 A A U W K S


「でも、江戸島会長はまさか、知らないですよね。それを。」

「ええ。普通は知らないはずです。でもなんだか、引っ掛かるのです。話している間も、わたくしには、彼が驚くところと質問すべき場所が少しずれているというか。つまり、心ここにあらずだったのです。」

「……。」

「そもそも、わたくしには違和感の前提があります。」

「前提ですか?」

「ええ。彼が、我々のような人間のアポを朝一番に用意したことです。」

怪しい脅迫めいたリスクの話を秘書経由でする軽井澤さんの作戦がうまくいったからだけなのでは、という言葉を僕は喉元で止めた。

「だってご覧になったでしょう?待合室を。その後もあれだけ待たされてる人がいるんですから。わたくし達のアポが朝の八時に後付けでねじ込まれたとしか思えないです。そうなると明らかに不自然です。」

「……。」

「江戸島会長は、我々の言うような話に関わる過去があるのかもしれない。」

「結構、大胆な仮説ですよね?」

「ええ。ですが、風間と守谷が江戸島と検索する理由がある限りは、大胆でもないかもしれません。」

僕は元々、風間や守谷のような人間と江戸島会長のような人間の暮らす世界は違うと考えていた。住む世界が違うものが関係するとは思えない。知り合いも共通の人間もないはずである。僕は軽井澤さんの仮説に簡単には肯けずにいた。

 我々は折り合わない見解を紛らわすように、漠然と青空の広いほうに向かった。結果、皇居に向けてゆっくり歩いた。夏のあとの午前だった。陽光が真っ青な堀端の芝生をサトウキビ畑のように光り輝かせていた。

「大胆かもしれません。これは仮説なのですが、多分彼にも、守谷と風間のように、文字が見えるのだというと、いい過ぎますかね?」

「江戸島会長にですか?」

「江戸島は多分、何かを感じたのでは無いか。葉書を見ていた眼差しが気になりました。そのあと、我に帰ったように、知らぬ存ぜぬとは言いましたが、わたくしにはむしろ芝居じみて見えたのです。」

そう言い切ると、軽井澤さんは、手帳を広げて文字を書き始めた。そしてお濠端で少年のようにしゃがみ込み、その紙を破ってアスファルトに切れ端を並べ出した。。

「この六文字を見て、何かイメージが湧いたりしませんか??」


 井 園 澤 生 御 軽 

  

なんのことだろう、と、眺めてから、しばらくして、ああそうかというのが、空から落ちてきた。

「そうですね、我々の名前ですかね。」

「そうです。最初はなんのことかわからないけど、少しして脳裏に落ちてくる。そして一度見て順番が脳内に出来上がると、むしろ、その文字の方が先に感じるようになって他の言葉は見えづらくなる。」

「…まあ、この場合は名前ですから。」

「そうですね。ただ同じように六枚、六文字の文字ではあります。」

「でもーー。」

「軽井澤や御園生という名前を、もし全く知らない場合、いまの我々の脳裏に見ているものは見えないと思いませんか?」

「……。」

「つまり、共通の前提がある場合、他の人が見えない物が見えるという意味です。もしそれが、名前よりももっと記憶に残るような言葉だった場合、例えばその過去の犯罪に関わるようなものだった場合、そのトラウマが必要以上に文字を見せてくる、という気がするのです。犯罪を犯したことがないので、これはわたくしの仮説です。うまく言えませんが、わたくしには江戸島のあの目の動きが、何かを追いかけたように見えたのです。」

「……。江戸島会長が犯罪者ということですか?」

「いや、そうまでは思いません。でもなにかの関係者なのかもしれません。目の動きが、なにか文字を追いかけたようにも思えて。」 

「……。」

「考えすぎかもしれませんが、私には不思議に感じたことがあるのです。江戸島会長は最初にこの葉書を見たときに非常に奇妙な顔をしました。その後に六日消印のものと、九日消印のものとを別々に、それぞれじっくりと見つめました。奇妙だと思ったのはその後です。と言うのもある一定の時点で、葉書を見つめるのをやめたのです。」

後半は葉書から話題が離れたからではないですかね、という言葉を僕は喉に止めた。軽井澤さんは話し続けた。

「葉書を見るのをやめた、のには二つの可能性があると思います。一つは奇妙な葉書そのものに興味を失ってしまったということです。見ても意味がないし、もともと興味もないという事です。」

僕はそこは素直にうなずいた。その通りだと思ったからだ。

「もう一つはこの十四枚の葉書の意味が読み取れてしまったせいで見なくてもよくなった、ということです。わたくしは後者に思えたのです。少なくとも会話の中では、江戸島会長は葉書に最後まで興味を持っていました。それなのになぜか葉書を見つめ直さなかったのです。つまり我々と違い何度も見つめ直すと言うことをしないのです。われわれはこれまで幾度も幾度も、この葉書を見つめたでしょう。それは答えが出ないから見つめたのです。しかし答えが一回見えてしまったものにとっては、こんなものは見つめ直す必要の無いものになるのです。なぜなら既に脳裏に並んでしまえば、見つめて並べ直す意味がないからです。その証拠に、風間も守谷もこれらの葉書を、大事に扱っていない。」

そこまでいうと軽井澤さんは無言になり、また昨夜までの暗く青い顔に戻った。僕はそこで軽井澤さんの言う通りだと、賛成をしてあげるべきだったかもしれない。

 軽井澤さんと僕は、押し黙ったまま濠端から大手町二重橋のオフィス街に戻る方向に歩いた。

 軽井澤さんの弁舌には一理あるかも知れないと思いつつ、僕はなんだか気持ちが乗らないままだった。あの日本を代表するX重工の会長のような人間が、猫の死体とか歌舞伎町のあの守谷のような場面とつながる気がしなかったし、軽井澤さんが言うような細かい表情のアヤも自分には殆どわからないままだったからだ。

 軽井澤さんは一段と、表情が青白くなっている。思い詰めて近寄り難いどこか壁のようなものがある。そのくせ突然堀端でノートを破って江戸島との会話について力説して会話をして解説をしたりする落ち着かなさもある。こういう事は普段の軽井澤さんにほとんどない。僕はさすがに不安になっていた。むしろこんな薄気味悪く、生産性のない風間や守谷のことで悩むより、さっさと距離を置いてしまうべきだと軽井澤さんには伝えたかった。しかし軽井澤さんは、

「御園生さん。一つお願いがあります。」

と疲れた眼差しのまま僕を見て次の話題に向けた。

「はい。」

「今日はこの後、江戸島を尾行できないでしょうか?お願いをしてはだめでしょうか?」

「江戸島を、ですか?」

僕は少し呆れたように返したが、軽井澤さんはさほど対応を気にせずに

「わたくしのほうでは、風間と守谷の履歴周りをもっと調べてみようと思います。ひとつ気になることが実はあるのです。」

軽井澤さんは熱をもってそう言った。

 と、その時だった。

 周囲を見ようとする僕を、差し止めるように手を取ると、疲れた眼差しに少し恐怖を集めた軽井澤さんが、

「ちょっと、動かないでください。」

と、押し殺すよな声だけをさせて

「どうだろうこれは、困ったな。」

と言いました。

「どうしました?」

「ええと、もしかすると、おかしなことになってるように感じます」

「おかしなこと?」

軽井澤さんは二重橋から大手町の中心部へ抜ける遊歩道の入り口で歩きながら、

「御園生くん、以前我々の事務所に不審者があったとおっしゃいましたね。たしか、守谷の事件のころです。」

「ありました。たしか、三日前の朝で、風間の葉書が届いた日です。」

今朝も似た不審者がいたと言う事は僕は口に出さなかった。

「どんな人でしたかね。」

「女でした。」

たしかに、どちらも、女性だった。

「なるほど。そのまま。足は止めないでください。」

軽井澤さんは、なんだか意味不明なことを言いだした。

「えっ。このままですか?」

「そう。真っ直ぐ前を向いてください。」

と小さな声をだした。軽井澤さんは、こちらをむいていない。

「そのまま。首の向きを変えず真っ直ぐ前を向いたままです。」

「はい」

「まっすぐ。そう。自然に。その先を右に曲がりますよ。」

「軽井澤さん、車はそちらではなく、反対の方がきっと」

「今大事なところです。」

軽井澤さんは、そう言ったまま真っ直ぐ歩き、道を曲がった刹那、

「後ろを振り返っては駄目です。わたくしはしばらくこのまま真っ直ぐ歩きます。ほらご覧なさい。そこにあるビルです。」

「ビル?」

横を向かないまっすぐ前を見てままで、軽井澤さんは

「この大きなビル、確か中がホールになっていて抜けられますね。ここでこのまま別れましょう。御園生くんは、ビルに入ってしまってください。必ず振り返らずに。わたくしはこのままずっと歩いてみます。」

僕は何のことだかわからなかった。

「今日は、このまま別行動しましょう。御園生くんは、江戸島の尾行をしてみてください。勿論できる範囲で構いません。多分、日中はビルの中ですから、どこかで家に帰るところを尾行を試みてもらえると助かります。実はそう思って車でおねがいしたのです。わたくしはちょっと別の行動を考えていまして、すいません。では、ここで。」

軽井澤さんは僕に左折を促すと、そのまま直進していってしまった。



百三十  自問 (軽井澤新太)

 

 御園生君と話しているとわたくしは、さまざまな事を思い詰めてしまう性質がございます。これはわたくしの問題であり、彼の問題では一切ないのです。そういう、自分自身の自意識の過剰は、わたくしの課題です。思えばそう言う、さまざまの出来事に気持ちよく打算的になれない性質がわたくしの欠点でもあり、適応能力のなさとも言えます。わたくしは、そういう性質なのです。ひとつのことを強く確信してしまうと、それに囚われて他の思考の自由を失います。物事を全部、過去から未来へのひとつの直線に並べて悩むのです。そうしてその直線が整理できない部分を繰り返し思い悩むのです。

 この数日間、わたくしはトラウマのように、過去の自分に対峙しておりました。風間からの打診、意味不明の葉書、手書きの文字列、凄惨な守谷の私刑、風間の音信不通、公衆電話の告白、つぎつぎと続いた一連は、ひとつの直線の列に並びながら、わたくし自身の過去のとある方向へ収斂するのです。脳裏に直線的に並んでいく。並ばなくていいのに勝手に並んでいく。そうして、わたくしは誰にも説明しようのない、共感されるべきでもない、懊悩へ落ちていくのです。

 例えば心を病んだ自殺者がどこまで正確にその理由を説明しても賛同する人は稀でしょう。不気味で後ろ向きな精神の暗鬱作業を、誰が楽しんで紐解くでしょうか。死ぬことで世の中を前進させるという驚愕たる覚悟ならまだしも、ただ自分の檻の中で壊れていくものを人間は見たくはないのです。敢えて言えば、わたくしの心は、そういう檻の中の病理であり、誰しもと共感のない藪の中に向かう種類のものなのです。

 脳裏を世界地図に例えるなら、冷たい北極の海のように人心を消し去った方角です。冷たく遠く理解の及ばない方角です。氷の絶海に心が彷徨います。娘の紗千が悪に犯される白昼夢が重なるのも、そのひとつです。悪夢は墨が滲むように広がります。それでいて少しずつ、その冷たい海の方角に収斂していく。わたくしはそれらを意識し続けながら、できれば思い出したくない、悪霊でも振り払うように、蓋を被せ、避けることを続けるのです。



百三十一 警視庁六階(石原里見巡査)


 石原は本庁に入ると六階の自席に向かった。

 久々に、気が晴れた感じでフロアを歩けるのは、今朝の仕事がかなり自信を持てたものだったからだ。機材も順調だったし太刀川含めて誰も撮影されたことに気がついた人間はいないはずだ。そのデータが自分個人のクラウドの中に既にある。荷物をまとめてロッカーに置いて執務室に入った。

 いくつかの雑務をはじめると、後ろのスペースで雑談が聞こえた。束の間の事件がふと少なくなる時がある。そういう狭間は、刑事たちのちょっとした休息日でもある。楽しそうに会話しているのは小板橋だった。もともと会話が好きなのである。

「…へえ。銭谷さんが…。」

石原はふと気になった。

「…そうなんだ…。」

パソコンを静かに叩きながら、石原は指先ではなく耳のほうに集中していた。自分に関わることだろうか?ただ挨拶もしたので、彼らは石原が室内に入ってきたのには気がついている。自分に関わりがある話題なら会話を止めるはずだ。

「老人?」

「A署の人間さ。…俺は知ってる」

「ああ、小板橋さんも、A署でしたよね…」

「…なんでそんな人と?」

会話は続けられたが、石原里美が気がつけたのはそれくらいだった。老人という言葉だけが少し残った。引き続き、パソコンだけを見つめながら、背後の声を拾おうとしたが、その後は声は絞られてしまい、ほとんど会話も止まっているように思えた。

 石原は幾つかの報告書の整理の方に集中し、溜まっている作業の方を一気に処理しようとしていた。雑務は早々に終わらせて、今朝撮影したものをゆっくりと分析したかった。

 ふと、背後に気配がした。話をやめたのか、当の小板橋が、石原に声をかけてきた。

「おはよう。」

「おはようございます」

「突然明日、だけど、若手の送別会をやるんだ、顔出せないかな。」

「送別会ですか。」

あまり話したことはない、交通課の人間が、H署に移動になるのだった。小板橋はこういう懇親会を積極的に開催して幹事を務めることが多い。

 石原は迷った。飲んでる暇はない。が、なんとなくこういうものに顔を出さないといろいろな意味で良くないような気もしている。同調的な理由というか、まだ転配属されたばかりの石原には懇親会も立派な仕事かもしれない。

「まあ、いろいろあるからね。」

石原の心理を察してか、小板橋は含みを持たせたような言い方をした。

「いろいろですか?」

「深い意味はない。飲みの席で話したいこともあるってことさ。」

小板橋は間合いのある表情をした。何故か先日、小板橋と銭谷警部補が太刀川を事情聴取した際のことを、今ここで言い出すのではないかという気配があった。石原が銭谷警部補とその後、何か話していないか?と言う言葉と一緒に。

「はい。」

石原は気づかれないように唾を飲んだ。何もなかったように小板橋を見て返している。すると小板橋は、

「じゃあ、明日。忙しいだろうから、少し顔出してくれればいいさ。最初から最後までいなくたっていい。」

と、幹事らしく気を遣ったことだけ言った。小板橋の表情には銭谷のような悩ましさはほとんどなかった。純粋に、この警視庁ビルでの人間関係を楽しんでいるようにさえ思えた。

「警察もチームだからな。懇親会も大事だろう。」

言葉が爽やかだった。説明も明確だった。歩き去る小板橋の背中を見ながら、石原はなぜか昨日の銭谷のことを思い返していた。本郷三丁目駅の周辺を何度も周回して歩きながら、金石元警部補についての説明を懸命に言葉を探して悩んでいた銭谷警部補とはまるで種類の違う背中だった。

 


百三二 手順 (軽井澤新太)


 御園生くんと別れた後、わたくしは地下鉄に乗りました。

 追跡の恐怖は払拭しずらいものです。そこでわたくしは、地下鉄を使いました。列車の閉まる扉にぎりぎりと乗り込めば、追跡は難しくなるからです。 

 大手町で、我々を何者かが尾行していた気がします。おそらく女性だったとおもいます。葉書を用意したり、猫を用意したり、片腕を切断させるような組織、そういう組織がわたくしと御園生くんを何かの目的で追跡を開始した可能性は率直に嫌なものです。

 地下鉄の扉が、尾行者があるならば、恐らくは遮断した形で閉まりました。千代田線が無事に走りだすと少しだけ落ち着きました。席に座るとわたくしは目の前の現実に思考を向き直させました。

 この二日間でいくつかのことがありました。電話の途中で途切れた風間のこと、レイナさんの伝言を届けた佐島氏のこと、江戸島という唐突だけれども明らかに違和感のある経団連の人物のことを回想しつつ、わたくしはやはり一つの方向に自分という人間の存在が収斂していくのがわかります。

 そこには絶対的な「条件」が存在し、その存在にこそわたくしは精神が持っていかれるのです。

 それはなにかーー。

 復讐者という人格です。

 暗闇の中にはっきりと設定された復讐を願う存在がわたくしを捕まえるのです

 手書きの葉書が腑に落ちます。

 あの文字列には昨日今日の恨みのような気分がありません。明らかに長い年月を経ても消えない、人間の命懸けの迫力があるからです。

 言い換えれば「復讐人格」が存在する。

 あえていえば、復讐は、まだ序章であり、これから更に厳しくなると想像します。そのことを熟知してるから、守谷は片腕を失った後も逃げ回っている。風間も家を出て電話を消し逃げている。

 そうして、わたくしは風間の最初の依頼に立ち返ります。

 一体、こんなことをするのは誰なのか?

 あのような手書きの文字で何枚も彼らの場所に送付するのにはどんな経緯があるのか?

 なぜ、こんなことをするのだろうか?

 自然に考えればこうなります。

「風間と守谷が人を殺し、その復讐に駆られる人間が葉書を設計し、いままさに復讐を行っている」

 そうです。

 つまり、最も可能性のある起案者は、被害者の遺族になる。

 つまり、遺族が復讐人格であり、全てを起案し葉書を書き、組織を動かしている。

 それが、普通の考えです。

 そして、もしそれが真実であれば、この復讐は極限まで終わらないはずです。

 その極限とは、なにか。

 それは風間や守谷が死体になるということだと思うのです。

 風間や守谷に起きている現象や葉書を見て、誰しもが思うであろう結論はそれだと思います。

 いや、わたくしが想定する物語の最後はその場面なのです。

 風間や守谷が死体になるということなのです。

 

 ただ、ここに重要な(おそらく一般的には奇妙でありましょう)観点があります。

 実はもし単純に復讐が発生するだけであれば、わたくしはこのような青い顔は致しません。

 被害者が命をかけて、殺された我が子の復讐をする。例えば娘の親御さんが何年越しかに、殺人犯への復讐を計画する。それは因果応報の当然とも言えます。正直そのことを第三者が止める権利などどこにあるのでしょうか?自分の娘を殺され絶望の中を生きてきた人間が、もはや自分の命も不要として、人生の長い試行錯誤の中で決断した復讐なのです。もはやそれによって極刑があろうとも覚悟の上なのではないでしょうか。

 繰り返しですが、もしそういう判断の結果ならば、わたくしは青い顔はしないのです。むしろ、誰かの復讐などにあれこれと顔をだす必要などないのですから。

 問題は、別の場合があるということです。

 つまり、そうではない場合です。

 そうではない場合ーー。

 わたくしが佐島氏に待ってくれと伝えたのはそれが理由です。

 言葉が聞こえます。

 悪夢の間に、断続的に言葉が、悪夢で見ているものとは脈絡なく聞こえるのです。



「軽井澤、きこえるか?」

「……。」

「おい、聞こえているか?」

「……。」

「いいか、おまえにご遺族をどうこう言える権利などない。」

「……。」

「おまえは、ご遺族がどういう悲惨な状況下にあるかを見ていない。」

「……。」

「ご遺族が望むなら復讐もありだ。」

「しかし。」

「復讐が」所望なら見守ればいい。そう思わないか?もう死ぬ覚悟で親父さんはやるんだ。誰も止められないだろう。」

「でも。」

「復讐は、それでいいんだ。子供を殺されたこともない人間に何がわかる?」

「しかし。」

「俺の言葉を覚えているか?」

「……。おそらくは。」

「遺族はそんなことしねえよ。」

「はい。」

「ご遺族ってには、自分が最も恨んでいる人殺しのように自分がなるのが、一番吐き気がするんだ。」

「はい。そうおもいます。」

「そうだろ。天国で会ってなんていうんだ。」

「はい。」

「人殺しになった親に、娘さんは会いたくないかもしれないぜ。」

「はい。」

「それはわかってるようだな。」

「……。」

「ただな、問題はそんなことじゃないんだよ、軽井澤。」

「問題?別のですか?」

「もっと大きな問題が、見えなくなっているんだ。」

「問題が見えなくなっている?」

「そうだよ。」

「そんなことはがあるのですか?」

「何言ってるんだ。お前がしているのはそういうことだよ。そういうことを狙ったじゃないか。」

「わたくしは遺族にはそんなつもりはないです。」

「いいや。おまえは最初に遺族を考えずに、別のことを考えた。」

「……。」

「おまえは、まず最初に視聴率のことを考えただろう。」




百三三 幸運 (赤髪女)


 X重工の赤煉瓦ビルを出てから、二人は、皇居周りで何やら、地面にうずくまって話していた。夢中に中年の探偵のほうが若いあの美男子に何かを語っていた。ところがその後明らかに彼らは歩みを変えて、丸の内のオフィス街に消えて行った。その足取りには明らかに意思があった。

(尾行に気がつかれたのだろうか?)

下手な深追いは、今後に影響もするのもあり赤髪女はそこで今日の仕事を手仕舞いした。

 そのとき、見計らったように電話が鳴った。

 指示者のヘリウムガスの声だった。

「最新の進捗を訊こうか。」

「ちょうど動きがあったとこです。」

指示者の電話の回数が増えている。その都度、新しい情報を求めているのである。

「探偵側に動きがありました。探偵が二人、大手町の二重橋に来ています」

「二重橋。この車の停まっている、GPSの場所だな。」

「はい。」

「二人というのは?」

「あの事務所は軽井澤という所長と、若者の二人のようです。小さな事務所です。電話番号はホームページに携帯電話を載せておりましたので確認できました。」

「うむ。奴らは一体何を目的で、そんな場所にいくのだ?風間からの依頼とは関係ないだろう。」

「二重橋の赤煉瓦のビル、がアポイント先でした。ご存知ですか?」

「質問はしないルールだ。」

「はい。会社の名前は、X重工です。おそらくですが、そこの会長に会いに行った様子です。」

「…なぜわかる。」

「聞かれるとおもって、上手く聞き出しました。」

「どうやって?」

「受付で遅刻したことにして、軽井澤事務所の人間のフリ、をしました。」

「ふむ。」

「多分、軽井澤という名前が印象的だったのかも知れませんが。受付の女性が彼らの面会先を教えてくれました。」

「誰と面会したのだ。」

「江戸島という会長です。」

「江戸島会長?」

赤髪女は、あれと、と思った。指示者が明確に聞き返したからである。自分は江戸島という言葉を初めて聞いたときに、すぐに認知できなかった。江ノ島とか江戸とか間違えるくらい普段耳慣れない名前なのである。

「…はい。お名前をご存知ですか?」

「質問はしない約束だ。」

「……。」

「で、どうだったのだ?」

「三十分ほどして、二人は赤煉瓦のビルから出てきました。何か得るものでもあったのか、ビルの外に出ても二人で熱心に打ち合わせをしておりました。ただ、おっしゃる通り風間との関係については確認はできていません、あくまで探偵の周辺の尾行情報です。」

赤髪女はそこまで話した。情報としては十分だろう。料金の追加の話は、次回の電話でしようと思った。

「以上です。引き続き、今日のもうひとつの重要な仕事の方に移動します。」

「……。」

「以上になります。」

「そこからなら、有楽町線がいい。」

「はい?」

「大手町から有楽町まで歩けば、新木場への直通の地下鉄が出ている。」

赤髪女は、指示者の丁寧な言葉に少し躊躇した。

「ありがとうございます。お詳しいのですね。」

「地下鉄の路線など誰でも知っている。遠回りをして欲しくないだけだ。日没までに、が例の現金を届ける仕事の約束のはずだ。」





百三四 暗室 (人物不祥 村雨浩之) 


 暗い部屋。

 電話を切ると、男は、見境なく物を投げつけた。

「ふざけるな。」

ヘリウムのままの声が響く。電話が終わっても、声はそのままだった。

「探偵ごときが。」

音も光も漏れぬ暗い一室であるせいで、歯止めが効いていない。興奮した男は、

「なぜたどり着く?いったいどうやった?」

当たり散らして投げた何かが、締め切った暗い部屋の窓にあたった。ガラスに稲妻の割れ目が走った。男は冷静になれなかった。しばらく類似した放擲を続けた。室内には机と椅子と古めかしいパソコン、それと昨日の朝に持ち込んだ人間の入った布袋があるばかりで、物を投げるために硬い床にゴツゴツという音を立てた。

 数分間、怒りに任せて物を投げていた。

 ただ体が疲れてしまうと爆発した感情はゆっくりと落ち着き、男の精神は、もとの正常な状態に近づいた。

 男は、椅子に深く座りながら、考えてみた。

 もはや、事実がそうなっているということだ。

 ということは、この事実に対処せねばならない。プランAどころかプランBでもなく次のことを考えなければならない。

 事実として、探偵があの二人に関連し、江戸島へと向かったということだ。つまりーー。この自分に何らかのリスクが向かっているということに間違いがない。とすれば、Documentに書いた着地想定は全く別のものにせねばなるまい。

 事実として、風間や守谷についての自分の読みが甘かったということでもある。探偵を雇っておかしな動きをするのは想定外ではあった。

 そして、その探偵の動きも想定外だ。

 男は一時間くらい無言になった。

 無言で、メモも取らず、キーボードにも触らず、旧式のパソコンを見つめ続けた。





百三五 浅草  (銭谷警部補)


 桟橋から降りると、老刑事はどこからともなくわたしを見つけ、声をかけた。

「休日ですか?」

白々しい言葉に、わたしは黙っていた。黒目が強い。やはり悪い人間には見えづらい。

 無視するわたしに、老刑事は開き直った声で挨拶を繰り返した。

「こんにちは。」

「本当に偶然ですか?」

わたしは独り言のようにそう呟いた。

「おや。何か感じられることでもございましたでしょうか。」

「……。」

ある一定の隠蔽的な態度がこの老刑事にはあったことや、公金横領という言葉が脳裏をよぎる。

「お暇だという噂を聞きまして。優秀な人間がお暇なのは、警察の損失ですから」

「わたしが?」

「ええ。」

「いったい誰から聞いたのですか。」

聞いて野暮だと思った。いい年齢の捜査員がパワハラというのは、噂話としては秀逸だろう。警察組織というのは情報が好きで、結果噂話のようなものが溢れている。そういう場所から、口の軽い人間はたどりやすい。

「とある偶然ですよ。」

「偶然?」

「所轄の退職者にまで本庁の極秘事項は降りては来ませんからね。」

「退職者、ですか。」

老刑事は引き続き、愛嬌のある黒目でわたしを見つめた。退職ではなく、横領で懲戒免職という言葉が再びわたしの脳を横切る。

 その時、ふと何故か、早乙女の「大人しくしておけ」という言葉を思い出した。突然、昔の呼び方(ゼニさん)で話してみたり、わたしへの思いやりを建前にしているその空気の気持ち悪さが早乙女らしいと思う。彼だけではない。官僚的な人間は大抵、優しさを含んだ言葉というものを商売道具にし始める。しかしそれは会話技術であり、人間の本来持つ優しさとは別である。むしろ全く逆だ、ということに気がつくのにわたしは二十年近い時間をすぎてしまった。その失敗を老刑事の真っ黒で純朴な瞳を見て思い出した。早乙女とは違う暖かい瞳だった。

 私たちはゆっくりと歩き出した。

 不思議と歩く速度について、どちらかが先に出ることも遅れると言うこともなかった。並んで歩く相性はよかった。浅草寺の大きな赤提灯を右に折れると、小さな赤や黄の提灯が並ぶ仲見世に入った。

「あなたみたいな立派な人が暇をされていると言う事は、国家的には問題ですよね。」

又兵衛はまた同じ話を繰り返した。

「前段は、わかった。それで私に何をさせたいのですか?」

私はせっかちだ。元来、資料のページを後から読む位の人間である。それはどんなに暇でも変わらない。

 わたしが急かすのをみて、又兵衛は少し微笑して

「ふむ。仕事は結論から、ですね。では。」

「……。」

「こういう襲撃の話がありまして。」

老刑事が出したのは、草むらの写真だった。中年男の死体らしきものがあった。

 私はあまり興味を持てなかった。

「事件か」

「まあ、少し特殊です。」

「おみやになってるのか?」

お宮となってなければA署が捜査をするだろう。

「いいえ」

「……。」

「実は、死んでいないんですよ」

写真は三枚あった。どれも別人である。

「これは、鑑識のものではないな。」

「ええ。身内で撮影したんでしょうね。私刑ですから」

「……。」

「味方同士の小競り合い、ともいいましょうか」

「小競り合い」

「ヤクザもの同士の小競り合いか」

写真の所々にその筋らしい刺青が垣間見えた。

「まあそうです。」

「なぜ小競り合いが外に出る?」

わたしは思わずそういった。老刑事はわたしをなるほどという表情で見ながら

「その通りです。ヤクザが、身内のこんな写真を外に出すなんてことは聞いたことがない。いや、晒せば警察に尻尾掴まれるリスクだけが増える。そんなことをする意味がない。そうなんです。だから、この問題はただの私刑ではない、というのが小生の見立てです。」

又兵衛は少し言葉を強めた。

 わたしはすこし、潮が引くような気持ちになって

「まあ、理屈ではそうなるだろう。」

とだけ言った。

 わたしは興味が湧かないままだった。小市民が反社会の人間に何かをされたのなら、まだしも、くだらない奴らの身内の小競り合いを、警察が税金を使って時間を使うわけにはいかない。

「はい。ヤクザもの同士のよく分からない私刑です。A署で当然後回しになりました。」

又兵衛は先を読んでそう言った。

 再びわたしは、老刑事にリスのような眼差しで見つめ返された。静かな眼差しだった。ただその眼には警察官が出世のために始める、人間を損得で見る空気が全くなかった。わたしをその場から去らせない唯一の理由がそこにあった。

 又兵衛がわたしに話したのはおおよそ以下のような内容であった。

 埼玉から綾瀬の界隈を縄張りにしてる、反社会組織に、K組という暴力団がある。この組織の中で身内のトラブルが続いている、という。通常暴力団は、縄張りを争ったり、後継者争いなどで抗争する。どちらも、抗争に勝てば、現金収入のご褒美がある。しかし、K組の抗争において、その気配がないらしい。又兵衛はそのことに注目していた。例えば、襲撃された写真の人間は二人とも、利権に関わるポストを持っていない。組の中でも重要視されていない老いたヤクザである。それがなぜか私刑に遭っている。なおかつその写真がこうやってA署にまで届けられているように、暴力団の抗争とはおよそ思えない奇妙さがある。

 又兵衛は淡々と、説明を続けたが、わたしはどこかで、集中力を失いはじめた。

 どうみてもつまらない事件だった。

 うだつの上がらぬヤクザものの痴話喧嘩だろう。老人同士の意固地や嫉妬がこういう痴話喧嘩を起こすこともあるだろう。

「この事件。これはそもそも事件なのですか?」

わたしは仲見世の列を眺めながらそう言った。

「……。」

「当然、被害届とかはないですね。」

「ええ。」

「失礼ですが、これを、わたしが?」

警視庁本庁の刑事が対応する意味があるのか?という空気をわたしは出した。以前ならそれが自然だった。しかしそう言っておきながら、自分には何も権限は既にないことが心の底に跳ね返ってきた。わたしは、来月にはどこかの署に左遷され、刑事でさえない仕事をしているかもしれない。こんな痴話喧嘩でもありがたく首を突っ込むしかないような立場にあるかもしれない。

「ははは。」

老人は嗤った。 

「なにがおかしい。」

「いえ、当然でしょうね。警視庁のエリートが触るべき仕事ではない」

「馬鹿にしていますか?」

「わたしは馬鹿な人間には会いません。」

やはり、老刑事はわたしの環境を知っている。パワハラで人事的な黄色信号が、警察組織の中で何を意味するのかも。

「この事件を暇な時間を見てわたしがやるべきだと。」

「ええ。そうです。」

「なぜですか。」

「それは、いずれわかります。」

「どういうことだ。」

「この私刑はある大きな事件に繋がっている可能性があるからです。」

「この?ヤクザの末端の痴話喧嘩がか?」

「今はまだ言えません。」

「ちゃんとした説明をしてくれ。」

「もう少しだけ、銭谷警部補が関わっていただき次第、説明申し上げますので。」

そう言ったきり、老刑事は饒舌だった言葉をとめてしまった。

 老刑事は何かを隠している。わたしは老刑事と金石が同じA署にいたことを反芻した。今日は、一度も金石の話題にならないのも気になった。

 A署は埼玉と千葉と隣接する東京の警視庁の管轄の東北のはずれの鬼門に位置する。又兵衛がいう暴力団K組は、その周辺に根を張る組織であった。自分の住む金町もその近辺である。

「どうですか。この続きは、そちらの浅草の仲見世のあたりでいかがですか。良い店を知ってまして」

 この辺は昼からやれるところが多くてねと、老いた刑事は言った。話は座ってからということなのだろう。わたしたちは浅草寺の裏手にありがちな小さなテーブルと丸椅子の野ざらしの串焼き屋台に座った。

 浅草は昼から賑わっていた。太陽と青空の下で堂々と酒をならべ、パイプ椅子にすわって呑んでいる。

「繰り返しますが、あなたみたいな優秀な方がぼんやりしてるのは勿体無いでしょう。」

ビールを飲みながら又兵衛は語った。皺の深い老人の顔面にリスのような黒い瞳がある。

「……。」

「ただのくだらない案件なら、あなたのようなお方に、頼みはしません。」

「しかし」

「この件は、本当なのです。必ずわかります」

「売り込む前に、最初に説明を増やしてほしい。」

「……。」

「何かあるのか?」

「少しだけお待ちください。」

「待てないな。」

「もう少しだけ。銭谷警部補が関わって頂くことを希望します。人それぞれに、才能があります。その才能を無駄にしてはいけない。我々の仕事は国民の生活と直結しております。必ず、手抜きは、罪深い結果をもたらします。」

老刑事はそう言って、また小動物さながらの黒目をこちらに向けた。

 わたしは不思議なものを感じ始めている。たった今、目の前の老刑事が意図せずに漏らした溜息に覚えがある。ただのため息ではない。何度も何度も試みた本当に重要な努力が、闇を乗り越えられない時に出る溜息に似ていると思った。

 まさかそんなものがわたしの心を融かすとは思いもしなかった。巨大なものに立ち向かい、ふと挫けそうになる時に吐くため息。そのため息にわたしは見覚えがある。

「東京から川ひとつまたいだだけですよ。」

老刑事は再び写真を見せ熱心にその土地のヤクザについてあれこれと語り直した。

浅草は夕暮れを始めていた。老刑事への共感めいたものが増えると同時に、わたしの話を聞く姿勢は前向きに変わっていった。

 わたしはやはり、自分が刑事なのだと思った。いくら未解決を含めて過去に膨大な仕事があるとはいえ、たったいま、目の前で現在進行しているものには別の血が騒ぐのだ。



百三六 違和感 (赤髪女) 


 違和感がある。

 そんなことをあまり考えるとよくないと、赤髪女は自分に言い聞かせているのだが、違和感は拭えない。社長さんは、この仕事は昭和の昔からずっとある伝統的で安全な仕事だと言っていた。実際に八年ものあいだ、安定的に生活費を与えてくれたのはこの仕事だった。

 今、そういう安定感は感じない。すくなくとも電話でヘリウムの声で細かい指示をしてくる男は、今までの風情と合わない。やはりこれまでとは、仕事の仕方が違う。

 そもそも、命令の変更などこの八年間で一度もなかった。

 今回の指示者はずいぶんと、長い説明をしがちだ。

 これまでの仕事は、何を目的とした作業なのかもほとんどわからないまま、その断片だけを処理をしてきた。

「ものを拾い、どこかに落とす。」

ほとんどそういう仕事だった。誰が何のためにするのか?など何もわからない。赤髪女が参加してきたのは部分でしかない。作業の全容など想像もできなかった。

 しかし今回は想像ができてしまう。

 最初、風間という男を監視した。

 執拗に嫌がらせをするのが仕事だと、すぐに理解できた。

 しかし風間が探偵に泣きつくと、今度はその探偵を調べることになった。

 そういう変更は、これまでになかった。

 全体の方針を見直したのが、赤髪女にもわかる。

 更にその後、なぜか風間の追跡を辞めた。風間もGPSから消えてしまった。その代わりに埋立地に金を届ける作業が始まる。

 違和感が赤髪女に続いている。

 これまで、一切指示者が自分に人格を見せることはなかったが、今は違う。そもそも電話でヘリウムの声とは言え会話があるのだ。地下鉄の路線を細かく指示したりする。この仕事でいくら追加だとか、金額を増やすとか、金をどう使うかにもこだわりがある。そうだ。指示者は金の力を熟知している、と赤髪女は、感じる。金が足りなくなるとなぜ人間が働くのか。そのことを熟知していて、だから赤髪女にも適宜支払う金を工夫してくる。探偵の仕事を増やすならこの金だ、風間を辞めるからこうだ、というような。

 経営の感覚なのだろうか。

 赤髪女は指示者の指示通り、有楽町線に乗っていた。夕方までにまた仕事をしなければならない。封筒に入れた金を電信柱に貼り付けるという、仕事とは呼べない簡単なものだが、昨日と同じく、湾岸の埋め立て地までいかねばならなかった。





百三七 役員車 (御園生探偵) 


 突然、おかしなテンションになった軽井澤さんから指示され、丸の内のビルの真ん中を通り抜けて、尾行というものを巻くような動き方をしたあと、僕は朝、路肩に駐車したままの社用車に戻った。すぐにでもレッカーされてもおかしくないと思っていたが、意外なことに大丈夫だった。

 午前の陽を浴びて温められた席に座ると寝不足から睡魔が来たが、うつろうつろとしながらもスマホとパソコンを中心に残務を片付け、そのあとは再びX重工ビルを周りを走らせて幾つかのことを調べた。と言っても、役員の車が出てきそうな社用口に目処をつける程度だが。

 睡魔が襲ってきたので、社用口の手前の路肩に車(キャロル)を停めて、江戸島会長の車が出るのを一応待った。眠ったり、目を覚ましたりしながら、万が一見逃したならそれはそれと思っていた。

 軽井澤さんは、江戸島に会った後、何か直感めいたようだった。特に葉書を並べた時、江戸島会長の視線が不自然に動いた、というのを強調していた。皇居のお濠端で、手帳を破ってまで説明をしていた。

 だが、残念だけども僕は同じ気持ちにならなかった。

 正直、東証一部の代表が、あんな風間や守谷みたいな奴らと関係してるとも思えなかった。それは、江戸島会長本人に会って感じた素直(そっちょく)な感想である。経済界を上り詰めてきた立派な感じが不自然なく横溢し、そもそも住む世界が違う。街ですれ違う可能性すらないとも思えた。どう考えても彼と、風間や守谷のような人間が同じ場所で会話や食事をする想像がつかなかった。

 こんな事は時間の無駄じゃないかと、軽井澤さんに言おうか、迷っている。よくよく考えれば、守谷の問題も、われわれは、殺人事件を目撃したわけではない。襲撃の闇集団もそこまでの、追跡をするだろうか?あの場ではあまりの恐怖に、そう思ったが、果たしてどうだろうか。守谷が死んだのならまだしも、大怪我をしたとはいえ警察にもいかないでいるのだ。

 僕は眠ったり、起きたりを繰り返しながらそんなことを脳裏に集めて時間を過ごしていた。おそらく、夕方が始まっていた。午後の日差しが少しずつ弱まるのを睡魔の中のまぶたの向こうでうっすらと感じはじめていた。

 ちょうど、そんな時だった。

 江戸島役員車が、社用口から出てきたのである。

 窓に目隠しがなかったので、僕はなでつけた灰色髪の江戸島会長を見逃さなかった。十秒でも時間がずれれば見逃していただろう。

 車は銀座へまっすぐ向かい、ありがちな接待向けの寿司店の前で止まった。恰幅のいい江戸島会長は優雅に寿司屋の暖簾をくぐった。

 寿司屋で二時間は出ないだろうから、僕は出入り口の見える路肩に駐車したまま、パソコンを取り出して、風間らのせいで放置されがちな多くの作業を再び見直した。軽井澤さんからは連絡はなかった。朝の四時からレイナさんのメールで起こされたまま上場企業の会長室にまで訪れ、そのままその人物を尾行までしている。不思議な一日だった。

 ふと僕は、情報をもらったレイナさんにお礼もしていないのを思い出した。 

 

百三八 新木場再 (赤髪女) 



 赤髪女は昨日と同じ新木場駅についた。

 駅を降り、同じように南に向かう。海の方まで歩く。

 夕方だが人がほとんど歩いてはいない。都心では見ない大きさの倉庫や工場が続き、駐車場のようなだだっ広い敷地にトラックやミキサー車などが並ぶ。

 生活の臭いのない場所だった。街というには不適切なくらいに人がいない。所々ある緑さえ作り物のように感じる。

 寂しい場所だな、と赤髪女は思った。

 こんな場所に指示者は毎日現金を持って行けというのである。

 二十分程歩き、昨日自分が現金入りの封筒を貼った電信柱にたどりついた。

 赤髪女は昨日の電信柱を見て少し鳥肌が立った。

 昨日の封筒はガムテープごと剥がされていた。

 三万円入りの封筒が消えている。


(あの無愛想な電話の男が取ったということか。)


つまり、指示者の思惑の通り、間違いなくここにその男が来て意味不明の封筒を夜の闇の中で拾って帰ったのだ。

 赤髪女は昨日と同じように、用意した封筒を電信柱に貼り付け、昨日と同じようにその男に電話をかけた。こちらの番号は非通知にしてある。

「もしもし。」

「オザキさまですか?」

「はい。」

「昨日の場所から、電信柱一本分、海側の場所に、ご依頼のお届け物を貼り付けさせていただきました。必ず日没後に、お引き取りください。」

「…わかった。」

男は無愛想ながら素直な声で応じた。現金を得ることで何か手順されたような声の印象の違いがあった。

 そうして電話を切ったときだった。

 夕焼けを始める西側の岸壁の方角に人影が見えた気がした。封筒を貼っている時には気が付かなかったが、電話をかけて切る時にふと視界に今までなかった人間の気配があったのだ。視力には自信がある。影は何故かこちらを意識していたように感じた。赤髪女が電話を切った時に、同じように携帯の電話を切ったようにも見え、そのままミキサー車やトラックに隠れるようにして視界から消えていった。オザキという男がまさか既にこの近くまで来て赤髪女の一連の動きを見ているということではないだろうかーー。

 赤髪女は漠とした恐怖が自分を襲うのを感じた。

 あたりに人影は何もない。もし襲われれば何も抵抗できない。自分には護身の術もない。万が一逆に尾行されれば、持ち金全部奪われる可能性もある。背筋が震えるのを隠しながら、赤髪女は急いでその場を去った。

 


百三九 草案  (レイナ) 


御園生くんからメールが来ていた。

作業をありがとうございます。

なかなか、自分の思う通りの結果にはなりませんでした。

むずかしいですね、とーー。

そう書いてあるのをレイナは眺めた。

御園生くん。

違うよ。

十分にあなたの予測は的確だった。

実は、あの言葉の列の中に、風間と守谷とが繋がる場所がありました。

そう。風間と、守谷はたぶん、犯罪者だった。それも殺人です。

ネットには何故か出てこないけども。

少なくとも、それが、わかった。

その中で、あの二人は別々のやり方で何かの救いを求めたのかもしれない。

いや、殺人者に救いなんてないんだけど。

ただ、逃げようとしたのかもしれないけども。

どこかでその道筋を探した。

助けを求めたのだと。

救いとか、現状から逃げたいという気持ちがあった。

それが、わたしにはわかりました。

やはり、風間と守谷は犯罪者だった。

それも殺人。もう少し、調べてみるけどもーー。


風間も、守谷も、あなたが説明してくれたように、一定の雰囲気があります。

そう。

他の人とは違う表情をしている。近寄り難いというか。

風間と守谷はできないんだと思います。

普通の人に混ざって行くことが。

殺人者である過去を持ちながら普通の人に混ざれない。

混ざって行くことは、隠すことになるから。

隠して生きているから、変な表情になるんだと思う。

普通ではない顔になる。

でもそれが真実だと思う。

私にはわかる。

普通じゃない顔になる意味が。

そう。

このわたしが普通の人に混じって仕事なんて、おかしなことだから。

いや、少しはこれからも混じって仕事をするかもしれないけど、御園生くんたちとはやめなければいけない。

私はそう思わなければいけない。

なぜならあなたや軽井澤さんは素敵だから。

素敵なあなたたちと仕事をするには、わたしには難しい問題がある。

本来はそれに値しない人間だから。

ごめんなさい。



百四十 上原  (御園生探偵) 


 赤ら顔になった江戸島と会食相手とが寿司店から出てきたのは三時間後の二十一時前だった。寿司屋の大将らしき人物が深々と頭を下げていた。

 店の出入り口の一つしかない寿司店だから僕ははっきりと彼が出てくるところを見ることができた。他の人たちを残して自分は先に帰るという様子で、会長ともなるとそう言うものかと思った。

 待っている間に江戸島のことを幾つか調べた。秋田の出身で、有名私大を出ていた。新卒でX重工業に就職していた。数年前に夫人を亡くして子供もいないらしい。なので一人暮らしなのかも知れない。であれば二軒目位には行くものと思っていた僕は、直ぐに銀座を去る江戸島の車に拍子抜けた。役員車はこちらの尾行なども気にせずに晴海通りに出て、湾岸方面に向かった。まだ九時前だったが、七十近い経営者はそういうものなのだろうか。

 ここで少しおかしいことが起こった。

 最初、車は銀座から晴海方面に向かった。つまり山の手ではなく湾岸へと向かった。勝鬨橋を渡り、有明方面へと走った役員車は、なぜか、豊洲の辺りで突然Uターンをしたのである。それはマラソンの折り返し地点のような交差点での折り返しだった。そしてそのまま今度は晴海通りを元々来た銀座に戻り直した。いや正確に言えば銀座もそのまま抜けて今度は皇居前を通り過ぎ、最高裁判所の角から青山通りに入った。そうしてしばらく走ってそのまま外苑を抜け、表参道を右折した。

 代々木上原の高級住宅街にある一軒家の前に役員車は停まった。江戸島が中に消え、役員車も帰った後に見てみると、表札には江戸島と書いてあった。

 僕は、少し奇妙に思った。

 銀座で会食して代々木上原の自宅に戻るのになぜ一度、わざわざ真逆方向の豊洲まで向かったのだろうか。



百四一 顔面  (人物不詳 村雨浩之)   



 そのとき、部屋の奥の袋が、少し動いた。

 とある人間ーー風間を昨日、気絶させて入れただけの袋である。

 よく見ると縛っておいたはずの入り口が開いてしまっていた。

 袋が口を開けている。

 結果、袋の中に入れていた風間が少しずつ、顔を出したのである。口にはガムテープをしてあるが、目は閉じていなかった。風間の眼が驚きを隠せない表情で、闇夜の猫のように瞳孔を広げて、男を見た。

 風間のその表情は驚愕していた。

 自分を拉致して監禁した男が誰かを、風間は知ってしまったのだ。

「……。」

ガムテープを口に噛んだ風間は言葉を発することはできないまま顔面が恐ろしく見開いた目だけになっていた。

 しばらく沈黙が再び流れた。

 今まさにーー。

 今まさに、この暗い部屋の男の結論がそこで定まったと言っていい。男は今起きた現実というものに対峙していた。つまるところ奴はーー風間はこの自分の画面を見てしまったのである。奴はそこにある生生とした現実を、消すことのできない事実として知ってしまったのである。

 男はゆっくりと風間に向けて、

「今、おまえは、この私という人間の、行く末をまさに決めたようだな。ははは。馬鹿な男だ。眠り続けておけばよかったものを。もしくは目を閉じておけばよかったのだ。」

風間は首を振った。自分には悪意はないから、許してほしいという様子だった。しかし例え悪意がなくとも、見て知ってしまった事実は消すことはできない。

「なるほど。」

「……。」

「こういう結末が良かったのかもしれないな。本来お前をどうするかについては、いくつか選択肢があったのだ。しかし、自ら自分の運命を決めたのだから。」

「……。」

「私はこの一日まあまあ考えたのだよ。その中で結論をどうするか本当は悩んでいた。しかしお前がこうやって見てしまったという現実のおかげで、どうやら正解がはっきりとしたようだーー。」

そう言って男は、再び旧式のパソコンに向かい、そこに風間がいることも忘れて、もう一度、全体の計画を緻密に記載し直した。ネットに繋がっていないそのパソコンに再び夢中になって設計を記載していく。密室の周辺のアイデアが追加でいくつも出てきた。

 男は自分の中で決断した新しい作戦を文章にして確認を幾度も繰り返した。

 下見した場所も含め、いくつかの準備は盤石にしつつある。

 集中は再び一時間は続いた。


  



百四二 元警部補(石原里見巡査)    


 小板橋らが大部屋を出たのを見て鞄から石原はノートを取り出した。

 言葉を書き連ねていく。


・金石警部補の失踪は、警察上層部の何らかの意向に絡むと、銭谷警部補は思っている。

・六本木事件は、ある時期からなぜか「潮目」が変わった

・金石警部補と思われる人物が銭谷警部補に連絡を続けている。



金石警部補らしき人物のメールの速写ーー。


ToZ


文学的に言えば、

百の事件には

百を被害者がある


一つとして同じ事件はない


また、

加害者にはまだ未来があるが

殺人被害者には、永遠に未来はない。


言ったはずだ。





よくわからないメールである。ある意味ただ、飲んだ勢いで送ったりしているようにも思えるし、銭谷警部補との会話が好きで繰り返しての酒飲み話の会話にも見える。いや本当にそう見える。


ToZ


本末の転倒。

飲みすぎは、やめておけ。

若者に迷惑をかけないようにしろ。 



ToZ


孤独。

被害者の孤独。

そのとなりに自分がいるのか?

ましてや、被害者と加害者の、その対立構造などを作っている奴らに加担してはならない。

     



石原はノートの速写をしばらくのあいだ見ていた。金石警部補は、いや元警部補がなぜこんなメールを送るのかが腑に落ちない。内容も刑事の議をいくつか語っているけれども、そういうものを誰かに見せたいのか、ただ銭谷警部補と語り合いたいのか。

 石原は大部屋で一人頭を抱えていた。



百四三 浅草の夜(銭谷警部補)


 浅草は夕暮れを終わらせ夜の時間を始めていた。赤提灯は暗闇に似合うようにできている。黄色い屋台も辺りが暗くなって初めて温もりが広がる。浅草寺の裏店だった。

 話題は別にして、わたしはどこかに感じはじめた老刑事への親近感で酒を煽っていた。そしてどの酒も、ある程度は人間同士の何らかの距離を近づけたりはする。我々は昨日の会話を忘れたかのように、浅草のこととか昼から飲む話のことを語り合った。

「酒に酔いましたね。」 

だいぶ酒を嗜んでから、老刑事はようやく、

「銭谷警部補は、金石と一緒に、例の捜査をしていたのですよね?」

と今日初めて、金石の名前を出した。

「まあ、そうですね……。」

「奴は、どうでしたか?同世代から見て。」

同世代といえば、そういう言い方になるだろう。

「いえね。A署で私は奴と上下だったんで。あいつが新人の時に私の下にきたんで、箸の上げ下げから教えたようなもんなんですよ。それが行方知れずだっていうんだから。」

金石の刑事人生の最初が、この老人だったのか、とわたしは思いながらホッピーを唇に当てていた。

「しかしねえ。もう二十年も昔になるのか。歳をとるはずです。」

「金石は…。」

「はい?」

「金石は、A署ではどんな刑事だったんですか」

「はは。それは最近まで一緒だった銭谷警部補の方がお詳しいとは思いますが。」

詳しくはない。ほとんど仕事のことだけの会話だった。やつの住所も知らないし、随分長い時間を共にしたが、家族がいるのかも知らなかった。プライベートの会話をしない人間だった。

「身体が大きくてね。」

「それは、わかる」

酒らしい冗談を叩きながら、我々は酒を飲んだ。

「いい刑事でしたね。」

それも、わかる。金石のようなある意味警視庁での中のバランスを顧みない捜査姿勢はどこかで人間の闇を暴いてしまう。そのせいで、身が引き締まることが幾度もあった。

 酔っぱらった、といいながら、又兵衛はレモンサワーを煽った。酔った勢いの言葉だというのが、建前としてあるようだった。典型的に酔った酒飲みの表情で、ふと、それまでの眼力を変えたような気がした。リスのような瞳が、猟犬のような冷たさを一瞬見せた、と思った時に、

「そういえば、金石は、何か特殊なことをいいませんでしたか?」

と、老刑事は言って、真っ直ぐわたしを見た。

「特殊?」

「ええ。なにか、銭谷さんに言ったりしませんでしたかね。」

酒を飲む前は、埼玉のヤクザの捜査の協力が建前だった。その協力依頼に嘘はないと思うが、どうしても又兵衛老人が繋げようとする点と線の中に金石がいて、その金石の周辺にこそ、会話の目指すべき場所があるようにおもえてしまう。

「まあ、酔った勢いですがね。銭谷さんは金石とは結局のところ、どうだったのかなと思ったりしたのですよ。」

又兵衛はレモンサワーを煽ってから机にごつんと置いてそう言った。

「どうと言われても。」

「いや、まあ、困るとは思いますがねえ。勢いの会話です。」

「うむ。」

「当然話せることと話せないことがある。もちろん話せないことを聞きたいのではないです。あの金石が、本庁でどんなふうに仕事を回していたのか、その切れ端でいいんですがね。」

「なるほど。」

「まあ、最初の教育担当としての、エゴでしかないんですが。」

「なるほど、そうですね。」

「まあ酒飲み話ということでね。」

「まあ、あいつと最初に組んだのは、たしかいまから八年ほど前だったかな。」

「へえ、八年前ですかあ。」

わたしも少し酔っていた。酔いに重ねて、少し金石のこともと思ったその時だった。店員が皿にきゅうりを載せて持ってきた。忙しい店員はその時少し雑で、まるで見事に会話の腰を折るように、テーブルの角に太ももを当てた。いわゆるモモカンだ。テーブルから危うく酒やきゅうりが落ちるところだった。わたしは、その雑さが気になり会話の調子が崩れた。言おうとしていた言葉を忘れた格好になった。テーブルの上は静かになった。

 すると、又兵衛老人は、

「ちゃんとしなきゃ、店員さん。」

そう言って、少し店員を大人気なく睨んだ。わたしははっとした。それは明らかにさっきまでの酩酊とは違う冷静さだった。酒に酔って話す空気とは一切違った、計算と目的のある表情だった。会話のリズムを狂わせたきゅうりの置き場所に強い恨みさえ言ってるような一瞬。しかしそれを、すぐさま隠すような気遣いでまた明るく、

「いやあ、いい天気ですね、青空の下でサワーってのは。楽しい」

と言って、又兵衛は元の会話の雰囲気に戻そうとした。しかし、わたしの方は、きっかけを失い、何かと構えてしまっていた。話そうとしていた金石のことも、躊躇いに戻った。

 わたしが金石のことを語るのに躊躇するのには感傷以外にも理由がある。

 金石は、何も言わずに突然いなくなった。その直前までわたしと、捜査本部で何をしていたのか、薄々警察内では気づかれている。警察内では表向き、仕事が嫌になってただ辞めたような処理がなされたが、上層部は誰もそんなふうに思ってはいない。金石が通常の捜査では得難い情報を手にしていたと疑っている。例えば金石は警察以外の別の場所(そんざい)に向かった可能性がある。警察を辞めて、別の組織に入ったのかもしれない。どんな形かはどうでもいい。自分の持つ情報を武器にして生きている可能性がある限り、警察組織には重大な問題が生じる。

 十分あり得ることだった。

 奴は六本木の富裕層の人脈にも刑事であることを隠して別人格で入り込んでいた。幾人かの担当者を使っていた可能性もある。金石が警察の内部の罪状を把握しているのであれば、奴の性格上途中で諦めたりはしない。別の組織に参加しその情報を最大限活用するに決まっている。当然上層部は気になっているはずだ。何も言わないが、早乙女は明らかに金石とわたしのことを気にしてきた。わたしがどこかで連絡をとっていないかを疑っている。

 だからこそ、まだ会ったばかりのこの老人に金石のことを話すのは危険なのだ。

 万が一、彼が裏切り者で、早乙女と繋がっていれば、金石が危険なことになる。わたしは、きゅうりがテーブルを揺らした時に、我に帰った老刑事の表情を思い返した。店員のきゅうりが、絶妙に老刑事とわたしの邂逅を失わせたのは事実だ。会話の間合いを失って、我々の酒の勢いがぴったりとやんだ。

 老刑事は機会を逸したのを理解してか、その後は酒を浴びるようには飲まなかった。しばらくぼんやりとした会話をした後、

「明日には資料を本庁にお持ちしますね。」

と例のリスの瞳を再び輝かせながら言った。

「明日?本庁に?」

「ええ。貴殿に最初にお話ししました、埼玉のヤクザの件です。ご興味いただき、お時間も融通がきくかも、ということだったので。」

「……しかし。」

「税金を無駄使いしてはなりません。秒も惜しんで、刑事の業に邁進しましょう。才能を大切にせねばなりません。」

又兵衛は時折繰り返してきた台詞をはっきりとまた言った。酔った勢いで金石の話をすることはやめたらしく、屋台での後半は殆どそちらへの話題の誘導は感じなかった。




百四四 待合せ (軽井澤新太) 



 わたくしは金町の駅で降り、再び河川敷のボクシングジム周辺へと向かいました。

 一定の吐き気や脳の刺感は変わらずに続きますが、どこかで覚悟を増やしたわたくしは、具体的に何をするのかだけは心に描きつつありました。

 最初に向かった昨日のボクシング・ジムには、若い人間しかおりませんでした。わたくしはボクシングの準備はせずにすぐに、用意してきた質問をいくつかしました。ジムの青年は少し目を丸くして、

「詳しいことは社長に聞いて欲しいけど、社長は今日はいないですね。」

ぶっきらぼうにそう言いました。

「そうですか、明日は?」

「わからない。ええと、まあ多分いると思うけど。」

「なるほど。」

それだけ聞くと今度はわたくしは駅の方に戻り、駅前の交番に入り、当番の警官に話しかけました。

「少し聞いてもいいですか?」

「どうしました?」

「とある昔の事件なのですが。」

駅前交番の若い警察官は、

「昔の事件ですか?」

と、不思議な表情をしました。そもそもその事件も然程知らないようでした。もう一人の警察官も若く、わたくしの話を聞いたけれども茫然としていました。無理もないでしょう。彼らが二十歳とすれば生まれるずっと前のことなのです。

「何かの新しい事件ですか?」

彼らはわからないなりに、真面目にそう聞いて参りました。今は忙しいのだ、というような気持ちが表情に出ています。

「いえ、ちがいます。新規の事件ではないのです。」

「どんな事件ですか?」

「少し古いんです。」

「どれくらいですか。」

「そうですね。もう三十年も経つかな。」

「三十年ですか。それをここで言われても難しいかもですが。その事件を調べているのですか?」

「いや、事件というか。もう事件事態は解決というか犯人を探すとかそういうことでもないんですが、その、関係した人間の現在を調べていまして。」

「犯人が逃亡しているとかではなくてですか?」

「犯人はもうすでに、刑務所をへて出所しています。」

「出所している?つまり更生ですか?」

「そうですね。」

「それは個人情報の問題もありますね。」

「はい。そうだと思います。」

「それをここで話すというのも難しいです。一体どんな事件のことかは知りませんが。」

「はい。」

そこでわたくしは思い切って、想定する個人名、つまりジムで言った名前や事件のことを話しました。しかし若い警察官はその事件を知らないのか、ピンとこない様子でした。多忙にも関わらず話は聞いてくれるのですが、噛み合わないままでした。

 わたくしはもう二つほど、交番を回りました。どの交番もまだ若い警察官がハキハキと対応はしてくれましたが、過去の事件のことも、過去の犯罪者の個人情報のことにも関わる会話になりませんでした。

 そうしてから、もう一度、ジムのほうに戻りました。思い切って、ボクシングジムの若いスタッフに、わたくしの想定する過去の事件のことを、交番以上に詳しく話しましたが、

「何も知らない」

と答えるだけでした。そして、期待した社長もやはり今日は顔を見せないようでした。

 わたくしは最後に、もう一度繰り返して、とある時期にこのジムに通った人間の名前だけを伝えて、ジムを後にしました。おそらくオーナーはその名前を見れば、何かを思い出すと思ったのです。わたくしのことは名前も思い出せないでしょうが、その男のことについては、何らかの記憶があるはずですから。

 再び金町駅の方に戻ると、目立って体の大きなパンチパーマの人間が手をあげました。

「面白い場所で待ち合わせますね、軽井澤さん。」

「米田さん。お忙しい中申し訳ないです。」

「こんな場所と言っては何ですが、縁もゆかりもあったのでしたっけ」

「はい。ゆかりというか、昔通ったボクシングジムがあります。今は、多摩川で東京の西側ですが、始めたのは東のはずれだったんです。」

我々は特にどこを目指すともなく、駅の界隈を歩きました。

「ふむ。風間と守谷は進展しましたか?」

「今朝方、二重橋でレイナさんにいただいた彼らの共通点に会って参りました。」

「共通点?」

「ええ。彼らの検索の共通点です。その前に、実は風間からようやく電話がありましたよ。」

「ほう。いろいろ話せましたか。」

「電話自体は、また例によって、途中で切れてしまったのですが、いくつか話せました。」

「切れたというのも、よくわからないですが」

「はい。公衆電話からかけてきていました。」

「公衆電話?彼は携帯電話がないのですか?」

「いえ、なぜか、その時だけです。」

「なぜ、公衆電話か、そのことについては話しました?」

「話せてません。それが、何だか、追われてるような空気があったのです。。」

「逃げているのかも知れないですね。携帯は、位置がバレやすいと聞いたことがあります。」

「……。」

「猫の死体を置かれた人間が、携帯の電話を切って逃げている。わざわざ公衆電話を使って連絡をしてくる。」

「はい。」

「なんだか、今回の話はいつになっても平和にならないですね。それで風間とはどんな話を?」

米田さんは火のないタバコを手に持ちながら、じっとわたくしを見つめました。

「はい。まずは、葉書のことを話しました。十四枚全く同じ葉書を私刑された守谷と言う男が持っていたよ、と。」

「なるほど。」

「しかし。風間は少しも驚きませんでした。」

「葉書に?」

「はい。それと、同じ葉書を送られている守谷と言う名前についても、風間は一切知らないと言うのです。」

「うむ。では本当に知らないと言うことなのですかね。私にはそう思えないけれども。芝居でも打ったのか。一切関係なさげなのですか?」

「風間が葉書には驚かなかったことや、守谷のことも知らないと言う対応自体には、正直、芝居は感じませんでした。むしろ我々に芝居や嘘をつく意味も全くないように思われますし、そういう印象でした。ただその周辺で、実は、引っかかる点がございました。」

「引っかかる点?」

「はい。例えば、わたくしはこういうメモを守谷の失踪した病室のベッドの下から拾ったのですが。」

「レシート、ですね。」

どれどれと、大切な古い布切れでも見るようにわたくしの手からそのメモを取って、米田さんは目を細めました。

「公衆電話で話題に困ったわたくしは、破れかぶれに、風間にこのメモのことを言ったのです。メモがどうも、四人の人間の苗字に見える、と。」

「なるほど。」

「これに、驚いたのです。」

「ほう。」

「葉書の話や、守谷が私刑され死にかかってる話に興味を示さなかった風間が、果たしてこの四人の苗字を云々という話には、明確に反応したのです。」

「この四人の苗字のメモに?」

「はい。そこから、今度は遡って、それまで興味のなかった守谷についても、見た目や身長などを聞いてきました。」

わたくしは、なぜ見た目を聞いたのかには、多少の心当たりがありました。しかしそのことは言わずにいました。

「見た目を聞いてきたのですか。名前にも私刑にも驚かなかった風間がですね?」

「はい。そうして、最終的には四人には心当たりがあると、言いだしました。いや、むしろこちら、つまりわたくし軽井澤も既にその四人を知ってるだろう、知っていて知らないふりをしているのだろう、という言い方をし始めたのです」

わたくしはそう言いながら、実は四つの苗字が、心の底でわたくしを動かしていることや、この金町まで呼び寄せた理由なのだ、とまでは米田さんには言えませんでした。一旦は、先入観なしで、米田さんには調べて欲しいことがあったからです。

 米田さんはタバコを手持ち無沙汰にして、

「よくわかりませんが、つまり風間は、知っているんだろう、と言ってきたのですね。軽井澤さんが知っているのに知らないふりをしているんじゃないかと。ううむ。よくわからんな。他には気になることはありましたか?」

と、パンチパーマ風の髪の毛をゴシゴシとやりながらそう聞きました。

「そうですね。もう一つ、風間はその四人は自分の知っている話では、一人は死んでいることになっている、と言いましたね。」

「うむ?それは新しい話だな。どういう意味だろう?」

「…。それが私もわからないので聞きたいところだったのですが会話をうまくまとめられないうちに電話が切れてしまいました。」

「公衆電話ですから小銭が切れたと言うことですかね?」

「いいえ。」

「いいえ?」

「はい。小銭がと言うより、電話の向こうで変な音がして何の挨拶もないまま風間との電話が終わってしまったのです。」


 米田さんとわたくしは、立ち話の延長のまま、金町の駅前の喫茶店に入りました。わたくしはコーヒー、米田さんはパフェを頼みました。断片ばかりの不案内な説明や、唐突な呼び出しにも文句一つ言うことなく、米田さんは首を捻りながら、悩んでくれているようでした。

「ええと、大体は理解しました。いや理解したというか、自分なりに情報を並べるだけはできました。それと、今日のこの金町は別ですよね?」

「金町は別?」

「あ、いやその、深い意味ではなくて。ここで軽井澤さんが待ち合わせたいと言ったのは別の理由があってのことだったのかなと思いまして。」

「そうでした。わざわざ来ていただいてすいすいません。」

「調べたいのは法務局周りですよね。」

「はい。」

「この界隈はS法務局の管轄です。一応知り合いはいます。」

一応、と言うときは、この米田さんは、それなりにいると思って間違いがない。これは前職の頃から変わらない間合いです。

「実は風間と守谷が、この界隈の出自だと仮説してみたのです。もちろん違うかもしれませんが。調べて欲しいのです。」

「なるほど。」

米田さんはパフェを削りながらタバコに火をつけて、食べたものと混ぜるようにニコチンを吸ってから

「法務局は、とりあえず今夜、見切りでやってみます。上手くやりますね。」

「ありがとうございます。助かります。それと、風間と守谷の二人以外に、調べてほしいものがありまして。」

わたくしはそこで、∫<とある事件のことを言いました>。そちらの方は、むしろ単純な戸籍作業でしかないので、米田さんには簡単かもしれない、と述べながら。米田さんは少し遠くを眺めるような目線でわたくしを一瞬見つめてから、カフェの壁面にあった狭い曇りガラスをみていました。

 わたくしはその時も、暗い北極の海の方角に集まった冷たい怨霊が、わたくしの動力源であることも、なんとなく隠しておりました。

 しばらく無言で時間をすぎさせた後に

「あ、そう言えば」

と、思い出したように、パフェを仕上げながら、米田さんのほうから声を出しました。

「ちなみに軽井澤さん。この件いつ頃まで追いかけるおつもりですか?」

「わたくしがですか?」

「ええ。」

「なぜ?」

「いや。どうだろう。まあ御園生くんは、この事件早くケリをつけたいのが顔に出てましたね。」

「まあ、そうですね……。」

わたくしは言葉を濁すしかございませんでした。そうして、少なくとも御園生君に関しては、早く、この件は引かせて、わたくしだけで処理をと思ってることを告げました。

「なるべく、できるだけ早く、御園生くんは本業に戻したいと思っています。」

「まあ、そうですね。とは言え、彼も一生懸命やってるのに、いきなり休めは嫌だったりするような気もしますが。いい意味で、頑張り屋さんですからね。」

「そうですよね。」

「まあ、御園生さんには、なぜ軽井澤さんが、ここまでこの案件に首を突っ込むのか、もわからないだろうし。」

「……はい。」

「私もわかっていませんがね。」

「……。」

「今おっしゃった、<とある事件>、というのは唐突ではありますが。」

貴方を問い詰めるのもなんですから、という言葉が米田さんの声の底に滲む気がしました。ふと、勘のいい米田さんは大体のことはもう察しているのかもしれないとさえ、わたくしは思いました。

 思えば、米田さんとわたくしとは、過去の前職時代から仕事を共にしていました。その長い付き合いの中には、彼特有の配慮があります。米田さんはわたくしの精神への無駄な侵入を行いません。これまでの人間関係の中でも、わたしに対し幾度も質問してもいい場面はありましたが、

(なぜ探偵になったのか。)

(なぜ転職したのか。)

というような内容は米田さんは一度も言葉にはしませんでしたし、今後も質問しないのだと思います。おおよそ言葉を配慮して無言にする、そういう種類の配慮は人間の所作の中で最上級のものです。そう言う上級な間合いを彼は持っています。

 我々は、夜になっても酒も飲まずに喫茶店でタバコを、二、三本吸いました。米田さんは早速今夜から動きたい、と言って、知り合い何人かに電話をしたようでした。おそらく法務局の内部の人間でしょうが、その人物がどの部署のどう言う人間かなどは、無論わたくしが知る由もありません。

 最後に小さく挨拶だけすると、米田さんはそのまま喫茶店を後にしました。





百四五 白いテーブル (レイナ)



 レイナは白いドレスのような正装をして、着席していた。

 真っ白く長いテーブルにワインとシャンパンや、贅を尽くした幾つもの料理が置かれている。

 SNSのアイコンのような画像を覆面にした人間が何人も席に座り、グラスを酌み交わしている。やがて酩酊し出す頃にその中の幾人かがマスクを取り、素顔を晒していく。覆面から素顔になる。一人、また一人とその覆面(アイコン)を脱いで、改めてお酒を飲み交わしていく。

 ふと気がつくと、同じテーブルに軽井澤さんと御園生くん、米田さんが素顔のまま座っている。いつもと違ってスーツにネクタイをした三人が少し他所行きの会話をしたりして、既に自分の表情を晒しながら、酒を飲んでいる。 

 ふとレイナは急いで自分のことを手鏡で確認する。

 自分も既に覆面(アイコン)ではなく、素顔でそこに座っている。

「レイナさん、おつかれさまです。」

御園生くんが手を伸ばしてワインを注いでくれる。

「いやあ、こうやって仕事の合間にお酒を飲むのは最高ですね。」

御園生君はいつも通り、楽しい表情でレイナを応援してくれる。その会話を軽井澤さんも米田さんも微笑みながら眺めている。

 仕事の話。

 プライベートの話。

 今回のいくつかの難題の話。

 会話はくるくると続いていく。

「素敵なドレスですね。」

「そんな、ありがとう。」

「風間や守谷ってなにがあるのですかね。」

「今、計算をいろいろ試みていますが。」

「ありがとうございます。僕らはレイナさんの才能と仕事をしているのが楽しいですよ。」

「ありがとうございます。」

「軽井澤さんも、たまに強引なことがありますから。」

「そうなのですか?」

「ええ。今回の事件は、僕もやめた方がいいと思っているのですよ。レイナさんにも負担が大きくなってはいけないし。」

御園生くんがそう言ったときに、軽井澤さんは照れ笑いをした。先日の青ざめた顔色ではなく肌艶がいい。

「いえいえ。」

「僕も軽井澤さんに初めて出会った頃はいろいろありましたよ。」

「そうだったのですか?」

「あの事務所は風水が悪いですよね。」

「まあ、良いとは言えませんよね。」

軽井澤さんも米田さんも爽やかな意見を述べ、食事とお酒が進んでいく。晩餐会というものなのだろうか。天井は高く、真っ白な大聖堂のような場所で、テーブルがたくさんあり、みんなお祝いのお酒を飲んでいる。

 会話の中でレイナは自分が自由になっていく気がしていく。

 自分の何を話しても受け止めてくれるような、そういう気がしていく。

 仲間と語らい打ち解ける喜びが脳から全身を駆け抜けていく。

「これからの時代を作るのはエンジニアだと思うんです。」

御園生くんが言った。「レイナさんはすごいです。尊敬しています。」

「そんな。ただ、詳しいだけです。失敗も色々ですよ」

「なぜ、エンジニアになろうと思ったのですか」

「それは…。」

気がつくとレイナは自分のことを少しずつ話していた。自分の過去についての言葉が、空気の上に声になって歩いている。それは不思議なことだった。

「施設にいたときに、パソコンがあったんです。」

「へえ。パソコンがあって良かったですね。」

「ええ。でも強いセキュリティがかかっていて」

「セキュリティ?」

「自分でそのセキュリティウォールを排除しました。」

「すごい。独力ですか?」

「ええ。それを相談する大人はいなかったので。」

「大人?」

「はい。相談する相手というか。」

「…なるほど。」

「エンジニア作業なんて、洞窟を掘ってるようなものでして。」

ユーモアを交えたレイナにテーブルが笑う。

「でも、とにかくいろいろな言語に詳しい。PythonもJavaScriptもお手の物だ」

「そうですかね。普通ですよ。エンジニアなら。」

「最新のプログラム言語にある、量子コンピュータはどう思われますか?少し僕も、大学の授業でかじったんですよ。」

御園生くんは開発言語に詳しい。

「実用的には、まだまだでしょうね。」

「あれはたしかハイデルベルグの不確定性原理が」

「そうです。」

「そういう基礎理論も、独学ですか?」

「ええ。大学にいってないんです。例の事情ですね。」

「例の?」

「はい。今日皆さんにお伝えした、まあ悲劇的な事情です。」

レイナはふと、自分が自分で望まない言葉を話していることに気がついた。

「悲劇的な、事情ですか?」

「まさしく、悲劇ですね。喜劇ではなく。」

 そう言ってから、笑いがその場にも欲しいと思ったけど起こらなかった。

 あれとレイナは思った。

 少し潮がひいていく感覚がある。

 ふと、テーブルの反対側に、風間がいる。守谷もいる。そう言う表情の人間がもう二人ほどいる。

 座席が変わったのかもしれない。

 御園生くんも軽井澤さんもいるけれども、表情が少し硬くなっている。

 テーブルで、もう一度、自己紹介が始まる。

 仕事仲間だけだった時間が終わる。

 再び、過去を説明する。

「でもどんな失敗をしても、前向きに生きていかないとって思うんですよ。」

なぜか、自分がそんな言葉を話し出している。

 レイナは説明を急ごうとする。

 自分がこのテーブルにいる大勢の人から否定される前に、早く、説明しなければいけない。

 急に息苦しくなるのがわかった。

 レイナの説明を聞きながらみんなが手元で検索をしている。

 続いて、風間も守谷も自己紹介をする。

 みんなそれぞれの相手を疑って検索をする。

 実際に誰かと直接会話をしたり見つめあったりするより、迂回して間接的にパソコンで相手を調べ始めている。

 そうして、レイナの自己紹介が二周目になる。

 なぜ、自分だけ二周目なんですか?

 レイナが言った。

 みんなはパソコンだけをみている。

 誰か天の声のような司会者がレイナに話しかけるのが聞こえた。

「犯罪を犯した人間だからですよ。」

「やめてください」

レイナは小さい声で言う

「それは消えない刺青みたいなものです。そしてそれを、どう隠すか?ごまかして生きるか?そこに必死さが出ます。それは、犯罪をおかしていなければ、気にもならない微妙な作為です。」

「やめてください。」

「さっきまで、レイナさんは、まるで自分はそういう人とは違うかのように言いましたが、あんたは犯罪者じゃないのかな。そう言う表情に見えるけども。」

レイナはその声の主を見る。一瞬自分なのかと思ったけども、自分ではない。見たこともない誰かが自分のような声で話しているのだ。そこには確か米田さんが座っていたはずだった気がしたのだが。

 ふと気がつくと、真っ白なテーブルに、赤い血が海のように広がり始めていた。

 あれと思った。

 その血はレイナのテーブルのどこかから始まっているのだ。

 誰もそれを見ていない。

 でも血の海はどんどん広がっていく。気がつかないまま、テーブルを赤く染めるのだった。軽井澤さんも御園生くんも気がついていない。彼らの皿や手にもその赤い血が着いてしまう。

「どうしたんですか?」

「気をつけて。血がついてしまいます」

「あれ、この血は?」

 ふと見ると、血が自分の手元から出ている。

 ちがうんです。

 ちがうの。

 これはわたしではないです。

 みなさん、見ないでください。これはわたしではないです。

 早く。

 だれか。

 テーブルの血をふいてください。

 せっかくの白いドレスが、台無しになってしまいます。 



 

殺人の前日(九月十四日)


百四六 変装譚 (石原里見巡査) 

 

 石原はその人間の言葉が好きだった。

 その人間は存在そのものが特殊だった。そもそもSNSでしか触れることはできない。テレビには出るわけがないし、街を歩いて会えることもないだろう。実体は不明だ。ハッカーだという噂もある。性別も年齢も不明。名前も、言葉も、すべてアノニマス。もしかしたら老人かもしれないし、中学生かもしれない。


 R 0224


 というハンドルネームで、プログラム言語周辺の知識を語っている。石原にはわからないがその方面の発言では開発者の中ではカリスマ的な人気があるらしい。またそのアカウント自体を定期的に廃止して新しいものに変えるのもおそらく自分の素性を強く隠蔽しているがゆえかもしれない。

 石原が何より興味を持ったのは、このR0224の変装についての知見や考え方だった。そもそもネット上でも顔も声も素性も晒さぬのだから、変装者のようなものなのだがーー。

 変装についてのR0224の語る細かい技術が面白く、石原には役立った。

 警視庁で誰かが変装について教えてくれるわけではない。ありがちな、いくつかの小道具は拝借はできたが、細かい最新の技術は用意がないし変装を指導するような担当者がいるわけでもなかった。ましてや銭谷警部補の作業のためなどとは言えるわけがない。その点、R0224は、細かく変装のことを紹介している。まさに自分が変装家として、変装の課題について書いているのである。

 表現が面白い。メガネや、服装のことから始まらないのだ。

 変装には、まず、精神的な世界が大事だという。

 自分ではなくなること、見えない部分から変更すること。違う人格を生きること。通常の人格の記憶を失いさえすること。それぐらい危険なことまでして初めて、本当の変装が成立する。

 石原はここまでのことはできないと思いながらも、


R0224


の言葉を参考にするようにしていた。実際に役立った。先日は銭谷との面会の時に男性用の下着を持ち歩いたりしていたから、少し恥ずかしくなってしまったが、変装している間はかなり安定があった。そこまでこだわると、尾行という不自然さが昇華して、自分がこの世界から消える感覚がある。やがて純粋な別人格の通行人になることができ、そして風景の中に自然に溶けていく気がした。例えば太刀川が突然立ち止まっても、こちらは変な所作にならない。

 とはいえ荷物にも限界があり、また、トイレで着替えるにしても女性トイレから出てくる中年男はまずいのもあるから、出来る限り、自宅からやらなくてはならない。外出先でやる場合は、ある程度は人通りの少ない場所を探して調整するしかない。

 眉毛を男性のように書き、そして黒くこれも流行とは少し違う質の眼鏡をかけた。ネルのシャツは青紺と白で、ジーンズもスニーカーも石原が日常絶対に履いたりしないものだ。変装は人格。内面から、という


R0224


の言葉が強く生きる。鏡で見てもそれが自分とさえ気がつかないほどに。そしてそれが結果として自信になる。その自信が万が一太刀川が振り返った時に最も自然な対処をさせてくれる。

 今朝も石原里美は六本木の駅の入り口を遠目にして、太刀川が通るのを待っていた。



百四七 夢の終り(レイナ)


 真っ赤なテーブルは血塗れだった。

 白いテーブルが白かったことを思い出せない。銀色の什器や真っ白なお皿の背景が赤くなった。

 そこにいた軽井澤さんや、御園生くんが既にいなかった。血はみるみる広がる。自分の手首から流れていく。

 そうおもってふと自分の体を見る。

 手首から血は出ていない。

 そのかわりに、もう一人テーブルでうつ伏せている人間の後頭部がある。

 それは母だった。血は母の血液だった。

 死んでいる母だった。

 母の写真を見たことがないけども、脳天のつむじでそれは母だとなぜかわかった。

 誰にも言ったことのない、いつもの会話が始まる。


本当はあたしは殺していない。

そんな記憶ないもの。

好きじゃなかったけど、憎んでもいなかった。

事実と現実はちがいます。

あたしは殺していない。

凶器を持っていただけ。

散々言ったじゃないか。

あたしは覚えているんだって。

何もかも忘れてなんかいない。

だから、記憶にないんだって。

衝撃で忘れたりなんかしないから。

そう言ってるでしょう。

それなのに。

もう判決を出したんでしょう。

それを変える気もないし、変更できないんでしょう?


 それは節子さんにもいったことがない言葉だった。

 脳の中で繰り返す、あたし、の会話だった。

 自分一人の会話。

 その会話がはじまると、自分は最悪になるとレイナは知っている。心が乱れて、終わりのない場所に向かっていく。


「でも大丈夫。」


節子さんが言葉を始める。

節子さんが手を握るのがわかった。


「大丈夫だから。」

 

レイナは反論する。


「大丈夫なんかじゃない。あたしを更生なんかさせずに、殺してくれればよかったじゃないか?あたしが世の中に戻る意味なんて、どこにあるの?」


目の前は血の海が立体的に波打っている。

赤い海で自分が窒息する。

でも手を繋ごうとする、節子さんの手がある。

掌の温もり。それでも、人間は孤独だという言葉。

節子さんがまだいる。

びっくりするくらい、怒っている。

 

「約束したでしょう。

 才能を前向きに使うって。」


「玲奈さん。

 あなたは才能があるって。

 約束したでしょう?」






百四八 捜査一課長(銭谷警部補)


 捜査一課課長室は扉が高かった。

 わたしは近頃にない早い出勤をした。

「早乙女さん、先日はメールをもらいましたよね。」

そう言ったわたしの目を最初、早乙女捜査一課長は見なかった。見ないことでわたしは大概を理解した。

 わたしは、早乙女の表情だけを確認したくて来た。目を見れば大体のことはわかるが、目を見れなくても似たようなものである。

「沙汰は、まだだな。」

早乙女は、太った体で朝から汗ばんで、忙しいんだという空気だけを作っていた。課長室にわたしがアポなしで入ることへの少しの不満もありそうだった。

「なるほど、わかりました。」

わたしは世間話もせず、すぐに退出することにした。

 一瞬顔を見れば十分だ。わたしの人事について、まだ特に重要な変化が起きている様子はなかった。そうと判るとこの部屋を早く出たいと思った。過去に同じ釜の飯を食った早乙女が、雲上人の捜査一課課長だ、という別物の空気をさせる空間が、嫌なのかもしれない。無論、本人は何も変えていない、という態度でいるが、それが余計に鼻につく。

「失礼しました。少し、メールの書き方が気になっただけなので。」

わたしが席にも座らずにそういって、退路へと向かうと、

「ゼニ。」

と、古い呼び方で、背中を白い声が追ってきた。

「……。」

「ゼニ。最近はどうしてるんだ?」

呼び方を昔に戻すのは懐柔の一種でこちらの暴走を止めようとする気持ちの露呈でもある。暇にさせると、過去の事件、六本木やそのほかの捜査をまた勝手に始めるだろうと早乙女は思っている。そしてそれは、ある程度は当たっている。

「いや、べつに。ただ、沙汰を待ってますよ。」

わたしは嘘をついた。

「うむ」

「……。」

「おとなしくしておけよ。」

メールにもあった文言だった。わたしは引っかかった。

「おとなしくする、というのは、少し深い意味があるようですが。」

「そんなことはない。ただ、言葉通りだよ。」

「警官の職務はひとつだけ、犯罪を暴くことですよね。」

わたしが綺麗事をいうと、早乙女は機嫌を損ねた様子で、

「そうだな。」

とだけ言った。言葉と逆の表情がそこにある。

「以前から申し上げている通り、わたしはそういう論理でしか動けませんからね。」

「そうだったな。」

「では、失礼します。」

わたしが早く去りたいのだと、空気を出すと、早乙女は

「銭谷。全員がその理想論では無理だぞ。組織で動いているからな。」

「……。」

「わかってくれ。お前が現場に出たい気持ちは誰よりわかってるつもりだ。だが刑事そのものを、させられなくなってしまっては元も子もないだろう。」


 わたしは、大部屋に戻る廊下に出た。

 歩きながら少しずつ、わたしは憂鬱になった。早乙女の最後の言葉が、静かな脅しになっていたからだ。言葉の上では労いを言っている。しかし本質は違う。逆なのだ。「刑事そのものをさせられなくしたくない」というのは、つまり、最悪の場合刑事の現職を取り上げるということだ。やはりメールも脅しだった。文面として残しても人事的脅迫にならない線を意識した、官僚らしい警告だったのだ。刑事の現場では大した実績もなかったくせに、官僚らしい技や用語ばかり覚えやがって。

 昔から、犯罪捜査の世界では早乙女の評価はずいぶん低かった。幾つもの事件を早乙女係長でなく、その下の現場の刑事たちが解決してきた。捜査現場では圧倒的に現場の刑事の力が上だった。俊敏に、迅速に、圧倒的な先手で動いた。対して早乙女は、太った体で汗ばんで、初手を悩みながら席に座ってるだけだった。何をしても判断は遅かったし、上層部に確認などをし始めるとただ足を引っ張るだけだった。犯人が刻一刻と逃げていく現場などでは上層部のご機嫌など伺っている暇はない。ノロマは致命傷だった。

 ただノロマで現場に弱い係長のおかげで、若い我々の権限は結果として相対的に大きくなった。報告してもたいして良いアイデアも降りてこない係長への報告をサボるせいで、結果として現場の迅速な判断は増えた。現場の判断が早いだけが理由ではなかったけども、早乙女殺人二係は、多くの事件を早乙女への報告や判断を経ずに解決し続けた。結果として成績は群を抜くようになった。早乙女係長を現場に関わらせずに成績を収めるーーいつしかその中心が、わたしになっていた。

 ただただ現場の捜査に邁進する日々は幸福だった、と今は思う。

 その間、早乙女係長が、その手柄を細かく幹部連に報告して、人事的評価を肥やし、課長に上り詰めて行こうとしてることは気にも止めなかった。いや、わたしに至っては、いつも蚊帳の外にしていた早乙女が喜んでくれるならそれも良いとさえ思っていた。多くの現場は、犯人を逮捕する喜びがあるだけで出世の計算など後回しなのだ。そんな計算をしてたら捜査は進まない。捜査の現場では一瞬一秒が勝負で、肩書きの計算などはないに等しい。ただ犯人を捕まえるだけで満足だった。

 捜査一課長は我々ノンキャリアの警察官が登り詰める最高峰の「肩書き」である。早乙女は上り詰めたのだ。上り詰めてしまえば組織全部が自分のものになる。生意気で報告もない出身母体二係の刑事だけの係長ではない。特定の刑事係に頼る必要はない。ふとわたしが早乙女と殆ど会話していなかったのに気がついたのは、彼が捜査一課長の手前の役職に昇進して二年ほど経った頃だった。それまでは毎日のように顔を合わせていた間柄だったのだが、もう我々には会話さえなくなっていた。早乙女はもっともっと自分の言うことを聞く部下を、大勢手に入れはじめ、生意気ばかりで報告もない面倒なかつての部下との関わりを少しずつ減らしたように見えた。

 そして六本木の事件が起きた。

 やはり、太刀川の事件は途中で、風向きは変わったと思う。

 あの事件で、警察組織は何らかの力を受けた。圧力があった。圧力がなかったと考える方が不自然だ。

 不自然な圧力があるとすれば、その圧力は、何らかの形で警視総監のような雲上人から現場に降りる。その中継点として、早乙女の位置がある。太刀川の捜査本部を途中解散させ、金石が失踪したまさにその翌年、早乙女は念願の捜査一課長に昇進している。

 雲上人になっていく早乙女の論理と、当時の金石やわたしの感覚は、恐ろしく乖離していた。言葉を気にせずに言えば、警察組織にとって、我々は危険だった。なぜなら、我々には捜査の現場しかなかったからだ。現場には人間の死がある。我々は死の尊厳を優先していた。警察組織を守るより死者の真実を優先していた。

「警視総監でも躊躇なく逮捕する。」

それが、金石の口癖だった。わたしも同じだと思っている。

 早乙女の言葉を借りればわたしも金石も狂っていた、ということになるだろう。



百四九 パラダイム(銭谷警部補)


 人間の死、という厳しい現実に向き合っていると、我々刑事は心がおかしくなることがある。

 ただ死体の場面でおかしくなる訳ではない。

 死体は厳しい現実だが、物体に慣れることは出来る。慣れた後には、実は死体は死体でしかない。

 本当に苦しくなるのは、遺族との対面や会話が始まってからだ。 

 遺族と会い、会話を始めるうちに少しずつある一定の変化が始まるーー。

 物質としての死から、なまなまとした命、人生の最後としての死がそこに現れる。

 泣き崩れる遺族に、刑事である我々は幾度も質問をしなければならない。殺された理由、殺された被害者の特徴、経歴、年齢、性格、まだ生きている時に最後に話した場面。質疑は全て、遺族の記憶や思い出に頼る。質疑をしながら、かつては目の前に生きていた人間の命を繰り返し辿ることになる。

 遺族は、大抵涙を流し、流さない場合は途方に暮れて涙が出なくなってしまった顔をする。過去を刑事に説明して遡るたびに、戻らぬ命を取り戻せない現実の壁に悩み苦しむ。苦しみの中で典型的な後悔ーーー最後に会った時にこうしておけばよかった、あの日はあそこに行かせなければ良かった、この一言だけは話して伝えておきたかった、というような際限ない後悔が溢れ続ける。まさに刑事はその後悔の中で捜査を行うことになる。

 わたしは情に厚いわけではない。それでも被害者遺族とは近しくなる。あえて言えば、わたしが正しいと信じる捜査手法とは遺族との会話を重視するものである。一見遠回りに見えて、実は被害者がどんな人間だったかを知ることは、真犯人の正確な想像が進みやすい。遺族と会話をし、情報を多くもたなければ、犯罪者逮捕に遠回りする可能性さえある。結果として被害者遺族との会話が増え、彼らとの間に、一言では表し難い感情が生じていく。少しずつ、同伴者となり、知人になり、やがて友人になっていくのである。

 机に座って警視庁の内部の論理を算段するだけの早乙女はわたしの感覚とは合わない。議論にもならない。当然だ。彼は遺族と友情を培うような捜査をしたりはしない。むしろ遺族との会話は、現場に任せ、自分は霞ヶ関の内部の都合だけで動く。

 被害者との距離が近づくうちに、わたしには殺人犯が「ただの悪魔」から「仲間を殺した悪魔」に変化していく。どうしても許せなくなる。現場では普通のことだ。だからわたしは組織人としての感覚が崩れてしまう。早乙女は絶対にそういうふうな場所に自分を置かない。

 特に親が遺族で、子供を殺された事件ではどんな刑事もわたしのようになるはずだ。

 夫を失った人間は未亡人。

 親を失った子は孤児。

 それぞれ呼び名がある。

 しかし、子供を殺された親を表す言葉がない。

 悲しすぎて言葉にして説明する気持ちを失うから、言葉さえないのだーー。

 若い女性が亡くなった六本木事件はまさにその典型だった。

「このまま一生、毎朝、毎秒、恨んで苦しんで終わると思います。せめて犯人を捕まえてください。突然、事故に変わったなんておかしいです。許せないです。」

娘を殺された母親の涙を金石とわたしは幾度も見た。

 母親と幾度も会話をし、彼女の気持ちを正確に知り、死んだ女子大生がどんな人間だったかがはっきりと理解されていくと、メディアが報じたような情報が嘘そのものなのが判った。女子大生が夜の商売をしていたとか、富裕層に憧れて夜毎に街に出ていたとかはあり得ない。実際に彼女は二度ほどしか、六本木に行ったことがなかった。他の場慣れした人間とは全く違う不慣れで真新しい存在だったのが、事件の理由だったのかもしれない。検出された薬物などを常習していたとはとても思えない。

 両親が本当に大切に育てたことが、母親の言葉を聞いてもよく伝わった。

 更に、父親はこの件で体調を崩し文字通り人生も失っていた。何をするかわからない、精神的な問題もあるため警察から触れないでほしいという母親の依頼もあり、母親は警察関連の全ての対応を一人で行った。実際に父親は病院に入院し検死にも立ち会えなかった。この父親の姿を遠目に見た事のある金石は、見るも無惨な父親の姿に面会後もしばらく感情を崩していた。一人娘を失った父親は人生そのものを失ったのだと、金石は繰り返した。

 我々はそういう十字架を背負って六本木事件の捜査をしていた。

 だから、あの六本木の部屋に不思議な人間が出入りしていた可能性を知り、その裏取りを金石が潜入捜査で行っていたまさにその時に生じた世の中の変化は不自然としか言いようが無かった。

 何度も繰り返すが、それは突然の変化だった。

 警察組織の中で忖度が生まれた。事件に、なにか触れては行けない聖域が絡んでいるらしい、という空気が出た。聖域が何を指すかは別にして、それが特別なものだったのは確かだ。このまま捜査を進めて大丈夫なのか、という臭いが静かに漂った。

 同時にメディア報道が変質を始めた。見えない力があるのか分からない。しかしそれまで太刀川を非難していたあらゆる言論が趣を変えた。例えば、別の報道を優先させたり、頻度が変わったり、論調の違うコメンテーターが出演するようになった。そして、なぜか、娘を殺された被害者側が、何か問題があったかのような報道が急に始まった。被害者は六本木界隈の夜では有名だった、とか、女子大生には刺青があったとか、薬物の売人と関係があった、というその後嘘とわかる情報が堂々と一流のメディアで報道された。多くの視聴者は誤情報を信じ、世の中の空気が変化した。

 変化は明確にそして揺るぎなく続いた。警察内部では、沖縄、六本木、それぞれ死について踏み込んで調べるのは良くないという空気だけが広まった。殺人ではなく、自業自得の事故なのだーー。警察官は報道および権力の空気を読む。その空気に同調しないのは、多分警察官人生において危険だからだ。相当の自負がない限り空気に同調していく。金石やわたしのような刑事はかなり特殊だった。

 そういう変化の中で金石は一つの確信をしていた。

 女子大生が死んだあの部屋に、不思議なことに、とある非常に重要な人間がいた、ということだ。

 その人間の名前を隠すためにカメラが止まった。報道も変化し、警察内部の空気も変化した。事件が事故に変わった。

 誰が見ても明らかじゃないか?事件を事故に変える権力を持っている存在がそこにあるのだ。

「銭谷。女子大生は間違いなく殺されたのだよ。事故死だとしてもそこに、大人が関わっている。」

「何のために?一体誰が?」

「……。」

「金石。この事件について、少しだけ思っていることがある。」

「なんだ?」

「実は、お前にとっては、元々、その大人が内偵対象だったのでないのか?」

「……。」

「つまり、捜査二課の常套である、隠密の作業があった。その対象は権力者だ。事件を事故に変えれるような、防犯カメラの電源を自然に停めたりすることのできるような、人間だ。その内偵捜査がメインだった。その作業の中で、突然その対象者が、随分派手な事件を起こしてしまった。多かれ少なかれ、内偵作業への影響が発生してしまった。本来であれば、そこで対象を逮捕して終了させる話が、どうしてもそれができない事情も生じた。」

「……。」

「お前は、当然、そういうこれまでの内偵作業を捜査二課の上層部には報告をしていない。もしかすると、恐ろしい秘密や、警察権力にも都合の悪い情報まで知ってしまった。人間が死んだ、少なくとも二人の死については、むしろそういうお前の内偵の作業の方に、向こうが知らないままハマってきただけなのではないのか?殺人が専門の捜査一課には不得手の分野だが。」

「銭谷。少しだけ待ってくれ。」

「……。」

「すまん。理解してくれていると思っている。少しだけ待ってくれ。もう少しなんだ。」

金石の表情を思い出す。我々がやるべきことは言葉にすれば、至って簡単だった。犯罪に関わった人間全ての名前を証拠付きで、全部まとめて同時に開示することだった。そこにいて、殺人に関わったとされれば大問題となるような人物の名前を完全な証拠とともに、出す。それが、少しでも小出しになれば、警察上層部から逆流して我々の捜査自体が白紙に返されるのだから、必ず全てをまとめて完全に証拠を把握し切ってから一斉開示、とせねばならない。

「待つしかないとは思っている。」

「銭屋、すまん」

「金石、お前がやってる潜入はいつからだ?」

「すまん」

「何人いる?」

「すまん」

「……。」

「身分も全て偽って、情報を取り続けることがどれだけ危険かは、銭谷ならわかるよな。」

「理解はしているつもりだ。」

「あの六本木の界隈にいる人間の命に、俺は責任があるんだ。」

金石はわたしにさえ何も言わなかった。万が一、どこかで情報が漏洩し、事件が起こった場合、わたしに対して殺意が生じるのを避けるため、だったと思う。わたしは少しだけ待つ約束だった。

 そしてその情報をまさに掴もうとしていた時に、肝心の金石自体は警察官であることを辞めた。




百五十 祖師谷宅 (赤髪女) 


 赤髪女は昨夜、新木場の埋立地から逃げるように自宅に戻った。電車に乗るときも、しつこく追尾が気になり、何度も後ろを振り返った。

 GPSはずっと見るようにしている。風間のオレンジの輝点が何故か消えた。新宿から始まっている青点と、探偵事務所の車の緑点の動きを暇さえあれば見る癖がついている。

 ただ、このGPSへの指示者の興味は薄まっている。既に指示者は次の標的に向かっているのだ。あの埋立地に現金をとりにくる男だーー。

 本来はそのオザキと名乗る男に、GPSを設定しなければならない。

 海風の中、遠くからこちらを見ていた人間がその男かはわからないが、赤髪女には恐怖があった。何故か純粋に怖いと思った。携帯電話で話して声を聞いた時から、オザキと名乗る男には少し別物の恐怖があった。

 正直その男に近づいてGPSを取り付けることなどできる予感がしない。

 赤髪女は、昨日のGPSの記憶を辿った。

 昼の時点で探偵の車は、二重橋にいた。夕方まで動かなかったが、その後、銀座に移動した。

 あの探偵が銀座で食事をする想像がつかない。とするとX重工の会長を尾行したのかもしれない。二重橋に来たのも含め、一応そういう流れがある。

 指示者への追加の説明はそうしてみよう、と思う。

 探偵の車を示す緑点は、そのあと、銀座から海の方に向かっていた気がするが、最終的には、代々木上原のあたりにしばらくいた。そして、深夜に事務所まで戻った。

 このことを自分なりの解説をしながら報告しようか。

 その報告に加えて、またお金を新木場に置きに行く。

 今日のところはそれでいいと思う。

 新しい指示者の仕事は金がいいけども、ふと気がつくと自分が毎日忙しくなっている。薬のせいでさほど気がつかずに過ぎているが、以前の、金を拾うだけのような単純な仕事の時はこうではなかったと思う。以前の方が自分の生活にも心の安定にも良かったかもしれない。生活にちょうどいいくらいの、のんびりとしたお金が落ちているくらいの方が。




百五一 視線飼育 (太刀川龍一)


 今日、太刀川にとって重要な仕事がある。

 いつものように、ヒルズの住居棟を降りると太刀川龍一は六本木の駅へと向かった。

 朝六時十五分。毎朝の時間を変えないことによって、時間についての思考を減らすことができる。その分、脳の時間が解放される。これは多くの科学者が愛する思考法でもある。

 もう一つ。太刀川は闇を見ることを好んでいる。

 例えば、地下鉄の窓のなかで窓は鏡になる。そこに現実の世界がうっすらと闇に半分犯されたように、写っている。そうやって眺める世界は心にある別種の、感覚を与えてくれる。そうやって鏡面越しに覗き見をしているときは、眺めているこちら側の人格を消し去ることができる。その喜びも重なる。

 地上を走る列車ではこれは起きない。

 川端康成の雪国の列車での二重写しが有名だが、自分の呼吸でガラスが曇る時、その曇った窓ガラスのなかに小さく指で穴をつくると、その鏡で自分の目線を隠しながら車内を見回すことができる。誰にも視線を悟られることがないというのは愉快であるーー。

 インターネットの世界では、人間がパソコンやスマホのどの場所を見ているかという視線位置まで全て過去に遡って管理ができる。そういう管理をネット企業であるパラダイム社で太刀川はたくさん行った。それによって、その人間に最適な広告を出せばそれだけでモノが売れる確率が何倍にもなる。広告だけではない。記事本文を工夫すれば人間の心を誘導することさえできる。戦争をすべきという世論も作れるし、逆に平和への祈りを醸成することもできる。

 検索の履歴も、住んでいる場所も、ネットで買ったもの、どの迷惑メールに反応するかも含め、ネット上の全ての行動が参照され、全ての人間の行動を正確に予測できてしまう。誰しもが自分の意思でインターネットに参加しながら、みずから情報をそこに預け、飼育されていく。民衆の飼育という言葉ほどインターネット文化の背景に適するものはない。

 その仕組みをこの国で懸命に作り、会社の上場をさせたのは他ならぬ太刀川自身だった。そうしてその自分自身がインターネットに絶望したのである。全ての情報をサーバーに預けてきた自分がネットとの一切の関わりを捨てたのだ。言葉を変えればそれくらい怖かったーー。

 飼育されてはいけない。

 この地下鉄の車内は大切だ。

 ここではどんな権力も誰も何も把握できない。

 太刀川は自分の将来が誰かに把握されることだけは許せなかった。



百五二 大阪と福岡(御園生探偵)



 守谷保  本名 昭和二十五年三月十五日出生

        大阪府東大阪市いろは番地に号

 風間正男 本名 昭和三十三年十月五日出生

        福岡県久留米市にほへ番地と号


 僕がテレビ会議室に入ると、既にこの文字列が画面に映し出されていた。

 米田さんが画面に既にいて、少し遅れて、軽井澤さんが入った。

「さっそくですが。ご依頼の二人のものです。」

米田さんが言った。じっと文字面を見ながら、軽井澤さんが

「本人に間違いはないということですかね。」

「説明すると長くなりますが、まあそうですね。」

米田さんはそう言い切ったが、いきなり戸籍と言うのがよく分からず、僕は少し微妙な表情をした。そもそも軽井澤さんがいつのまにか米田さんに戸籍調査を頼んでいたのも知らなかったのだが。

「私は風間にも守谷にも会ったことはないのですが、奴らがこんな三十代ということはあり得ますか?」

と、米田さんは突然若い守谷のような空気とは程遠い写真を出して聞いた。

「それはないですね。申し上げた通り、五十歳前後だと思います。風間も守谷も。」

軽井澤さんが答えた。

「日本全国に風間正男は、二名。守谷保は三名いました。」

米田さんが言った。

「そんなものですか。」

僕は思わずつぶやいた。

「ええ。風間の苗字で二千人くらい、守谷でも同じくらいです。下の名前まで含めると、こんなものです。完全な同姓同名は意外と少ないです。鈴木とか、太郎とかであれば別ですが。風間正男は、三十代が一名と、六十五歳がひとり。守谷保も二名のうち一名は二十代でした。この世代の若者はネット上に顔写真をあげるようですね。」

そう言って米田さんは、ネット上の風間正男と守谷保を名乗る、双方の顔写真をもう一度見せた。どちらも見覚えのない人間の顔だった。僕は、守谷しか会ったことはないが、はっきりと違った。風間の方も、軽井澤さんは全く別人、と言う表情だった。そもそも若い二人は、元気で快活な写真で、ブログを書いているような社交的な陽気さにあふれていた。私刑や猫の死体の印象とは違っていた。

「お話を聞いている限り、風間も守谷もスネに傷のある様子ですからね。ちょっとちがうかなと。そうすると、この二人しかないかなと。」


 守谷保  本名 昭和二十五年三月十五日出生

        大阪府東大阪市いろは番地に号

 風間正男 本名 昭和三十三年十月五日出生

        福岡県久留米市にほへ番地と号



「ううむ」

「可能性がある戸籍が、日本国全部で、この二人だけ、になります。」

「大阪と、久留米ですか。」

僕は米田さんと軽井澤さんの会話に、質問を投げかけた。要するに風間と守谷の戸籍を少し微妙なやり方で調べたと言うことだろうか。僕がレイナさんに微妙な話を頼んだのと同じ種類の事かも知れない。米田さんは色々と役所界隈でのルートがある。

「やはり同郷というわけではない、ということですかね。」

僕がそういうと、米田さんは、

「戸籍からだけでなく、この大阪と久留米の人間の経歴も出せるみたいなので、そちらも、後ほど出そうと思えば、だせます。」

「なるほど。」

「が、まあ、そちらは調べなくてもいいかもしれません。」

米田さんは切り捨てるように言った。

「調べなくてもいいとはどういうことですか?」

僕は、少し気になった。軽井澤さんは黙ったままだった。

「つまり、その、この二人とも年齢が合わない気がするんです。六十八歳と七十五歳ですから。」

米田さんは呟いた。

 よくわからない混乱が訪れた。がしかしある納得が、後から腑に落ちた感じも、すぐにもやってきた。ちょうど僕も腑に落ちたころに

「やはり、元々、名前自体が偽物でした、ということですか。」

軽井澤さんは静かに、唸るように言った。

「まあ、そうでしょうね。それが納得しやすい。彼らが見た目は五十くらいであれば。」

米田さんは画面の向こうでそう言った。

「おそらく、どんなに頑張ってみても六十には届かないと思います。」

しばらく三人は沈黙になった。

 僕らの前に現れた二人の人間は風間と守谷と名乗った。

 しかしその戸籍を調べると、年齢が違う別の経歴が出てきたのだ。

 そんな事があるはずはない、ではないか。

 僕が、そういう顔をしていると、軽井澤と米田さんの二人はテレビ電話の画面上で、少し思い当たるような表情をした。

 僕は、それが何を意味するか、わからなかった。なんとなく二人の間に符丁があるような気がして、質問などを出来ずのままだった。



百五三 是永警部補 (銭谷警部補)



 早乙女との時間や言葉を脳裏から消し去るのにタバコが五本は最低でも必要だった。頭を麻痺させるぐらいにニコチンを与えてからわたしは刑事部屋に戻った。人が出払っていて、閑散としていた。

 大部屋のテーブルの端にわたしがいつも陣取ってきた場所がある。まだそこは誰か他の人間が占領はしていなかった。少し久しぶりに座った気がした。

 席に座って少し落ち着くと、わたしは昨夜の浅草での老人とのことを思い返した。

 昨夜、老人は酔狂の途中で勢いを失った。きゅうり(きっかけ)はどうあれ、その後は、不景気なありきたりの会話になった。金石やわたしの仕事の談義から遠ざかり、ぼんやりとし、どこかで不完全燃焼の空気になったあと、すぐに別れてしまった。飲み足りないわたしは、浅草で、逆に一人で痛飲となってしまったのだが。

 老人は何かを隠している。それはわかった。でなければ、そもそもわたしの休日を尾行して浅草で待つようなことはしない。

 何かを隠していると言えば、わたしも同じだ。

 金石、いやKからのメールのことは言わなかった。老人が新人配属の頃から可愛がってきたというのに、

「金石には、連絡ができないでいる。」

という言葉でわたしは壁を作った。嘘は茫漠と響いた。実際にわたしから連絡は出来ていないから厳密には嘘ではないが、老獪な刑事にはわたしの心理的隠蔽は伝わっていると感じる。

 ふたりの刑事は、お互い相手の本心を知ることができなかった。ただ、話したくもない人間だとしたら、私は最初から避けていたはずだ。むしろ老刑事と自分のあいだには何か直感があった。お互いどこかで思うことがあり、なにかがある。

 又兵衛刑事は、定年で明日からのんびりと暮らそうという人間ではない。刑事の引退とは真逆の執拗さで、なにか捜査がまさに今行われてるかのような熱気さえあるのだ。仕掛り中の強い意志とでも言おうか。長い時間をかけてきたものへの執着とでも言おうか。何かが彼の目の奥にはある。そうでなければ、誰かの休日を待ち伏せしたりはしないし、店員がテーブルを揺らしたくらいで睨みつけたりはしないだろう。

 私用の電話が鳴ったのはその時だった。

「銭谷か」

「是永か。どうだった。」

わたしは大部屋を見回し、流石に声が響くので携帯電話を持ったまま、再びタバコ場に向かった。

「色々忙しいのに悪いな、是永。」

「気にするな。もう現場ではない。で、槇村又兵衛のことを引き続きと、あと追加はK組のことだったな。」

是永も、もともとは根っからの刑事だ。メッセージとは違い電話の声は、彼の情熱がそこにあった。

「ああ。そうだ。K組のことは追加ですまん。」

わたしは又兵衛と別れた後の浅草で是永に連絡してK組の調査を追加で頼んだ。K組といえばまさにA署の管轄だからだ。

「K組ーー。本拠地 足立区・・・、構成員数百八十人、指定暴力団、独立系組織。」

是永は淡々と概略から述べた。

「昭和の時代、オイルショックのころにまあまあ拡大した。最盛期は構成員三〇〇人。その当時の清原組長というのが立派だったらしい。全国的な暴力団とは友好関係を結んで、この辺りでは珍しく独立系で過ごしている。」

「立派か。今時聞かない言葉だな。」

「まあな。清原組長はバブル崩壊ごろに亡くなって、それからはK組はゆっくり縮小していってる。最近は若手がいないって嘆く人間が多いらしい」

「どこも似たようなものだな。」

「若者がヤクザしたがる時代じゃないからな。老人ばかりが増えている。五十代が多い。若手が不足している。ほら、暴対法なんてのも変わってきてるのに、それに対応が出来ていない。」

「……。」

「五十代のヤクザ、こいつらはまあ、大抵、一九八十年台のつまり昭和の最後の暴走族上がりが多いのが特徴だな。不良が大量に暴力団に就職した昭和六十年ころ、どこもかしこも暴走族出ばかりだった。」

是永は、汚い言葉を話すように言った。

「で、又兵衛はそのころの暴対(四課)担当だったらしい。若くして活躍していた。」

K組の事務所は是永の所属するA署の所轄に点在する。又兵衛もA署であるから若いうちから色々な事件で人間関係があったのかもしれない。

「普通の話だな……。」

「まあ、そうだな。普通だ。だが、少し奇妙なことがないと言えば、ある」

「ある?」

「ああ。たしかに奇妙と言えば」

「このやくざが、最近身内で、ちょっと喧嘩を始めたんだ」

「けんか」

是永の話はそこで、彼らの行った、私刑や、リンチのようなものを紹介した又兵衛の話と繋がった。

「奇妙なのは、そう言う私刑が、表沙汰になったってことだ」

「……。」

「わかると思うが、やくざは身内の私刑をわざわざ通報したりしない。身内の小指をハサミで落として警察に行ったりはしないし、私刑して警察にその情報を流す必要は一切ないはずだ。」

又兵衛と同じ話を、是永は饒舌に話した。おそらく、是永にもここに何か気になる点があったのだろう。

「A署的にも少し困った事件だな、と言うことか。」

「警察もご存知の通り忙しいからな。今銭谷、お前が思っていることをA署の皆が思ったわけだ。そもそも、暴力団から市民を守るのが仕事なのに、暴力団同士の下世話な喧嘩の捜査をしている暇はない。捜査をしてみたところで誰もが口を破るわけもなく、逮捕してみたところで身内の小競り合いに税金を使うようなものだ。そういう放置だったものに手を上げたのがーー。」

是永はそこで少し間合いを置いた。

「銭谷。その手を上げたのが、今お前から質問を受けてる、槇村又兵衛刑事なんだよ。」

わたしはその言葉を予想していた。おそらく是永もわたしの対応を予想していたかもしれない。

「ふむ。なぜだろう。」

わたしは素直に聞いた。

「分からん。元マル暴の血なのかな。これは彼が少し力んだと聞いている」

「りきむ?」

「なぜ、こんな事件に手をあげるのか?ってことさ。」

「なるほど。」

「と言っても、又兵衛刑事には結構な実績というか過去の栄光もあるからな。もしかすると、なにか特殊なネタや期待値があるのかもしれない、そういえば、あのK組の亡くなった清原先代とも又兵衛刑事は色々あったはずだとか、みんな色々勘ぐった。もしかすると、大きな事件に繋がるネタかもしれないとか、すごい大捕物に繋がるのではと。」

「なるほど。」

「で、ここからは元々のご依頼の槇村又兵衛についての話になっていくのだがーー。」

「何から何まですまない。」

「よしてくれ。俺も警視庁の本丸にいる銭谷に協力できるのは楽しいってとこだ。で、槇村又兵衛さん、についてだが、彼は、この件で、共同作業者を募った。一人っきりじゃ尾行だってできないからな。で、当初は手をあげようかって言う若手もいたんだ。」

「ふむ。公金横領の噂があった人間に、か。」

「そうだ。実はA署ではあれは冤罪だと、そもそも嘘だっていう人が結構いたんだ。だから意外にも刑事の現場では、協力を前向きに構える人間は多かったそうだ。」

「ほう。それは初耳だ」

「あの人の人望だろうな。」

「それも初耳だ」

「ああ。意外かもだが現場からの人望はあった。」

わたしは是永がそこで言った言葉の内容で、幾つかのことが腑に落ちる気がした。

「でも結果、そのタイミングで処分が出た。」

「横領の処分が。」

「ああ。若手を連れてK組の捜査を色々始めようって時だ。」

「……。」

「考えすぎかもしれないがタイミングは良すぎる。力を感じる、といえば多少はそうだな。」

「……。」

「処分が出た後は、警察のいつものことだった。さあっと人間が離れていった。それまでK組のことを調べようと若々しく息巻いていた人間もだよ。まあ、ご察しの通り、出世の登山道から外れた人間には、今の警察ってのは驚くほど冷たいよな。ましてや、横領処分となれば尚更だ。銭谷、わかるだろう。尊敬の心は肩書の方角に、というのが警察の常識方針だ。それに逆らえば、貧乏警察官は食っていけないからな。もっともお前みたいに捜査一課のエリートには判らないだろうがな。」

わたしは、その言葉を聞き流した。わたしの噂は、所轄までは行ってないらしい。

「誰も又兵衛の横領なんか信じてなかったのに、上から処分が出たら、誰もがそっぽを向くことになった。実際の横領があったかどうかなど関係ないんだ。可哀想だったよ。非国民扱いってのはあのことだ。茶も出ないからな。」

茶ぐらいは自分で汲める。が、茶も出ないという現実が、ほんの少し寂しいだけだ、と、わたしは言いそうになった。

「でも、あの人はそれでもめげずに、捜査を続けてる、と言うことだろう。よくわからない、ヤクザの身内の喧嘩の捜査を。」

是永は少し寂しい声でそう言った。

 タバコ場はわたし以外誰もいないままだった。わたしは是永との三本目になるタバコに火をつけ直した。

「銭谷、あの人を見て、どう思った?」

「どう?」

「あの人の眼だよ」

「……。」

「おれは、あに人が本当に横領なんかやるとは思えん。金や肩書を求めてそもそも生きていない。」

「……。」

「本物の刑事だよ。だから。」

「だから?」

是永は三児の父だ。若い頃に体を壊して、現場を離れ、管理畑を歩いている。A署の前は別の所轄にいた。二十歳くらいからの付き合いだが、こういうときに、自分の意見を正直に言える。

「お前も刑事歴が長ければ、立派な刑事とは何か?思うことはあるだろう。真実を追求しすぎる刑事にはどんなリスクがあるのか。」

「……。」

「とにかく、あの人は私腹を肥やすような人じゃない気がする。」

「うむ。」

「むしろ現場からの評判がよかったのは確かだ。今となっては公(おおやけ)には誰も言わないがな。」

「……。」

「というか、そっちにいった、金石だって尊敬していたくらいだからな。」

「……そうか。」

わたしは、意外な言葉が出たので少し躊躇った。

 金石の失踪については是永は語らなかった。そのことは然程知らないのだろうか。警察署にいると他の署のことは本当に聞こえてこないことが多い。それくらい所轄は大きい組織で、もっと言えば外のことには気を回したりはしていられないくらい内向きの意識になっていく。

「もしかすると又兵衛刑事が今回のヤクザの捜査に立候補したのも、彼なりの理由があるのかもしれない、とも思ったりするけどな。」

ふとそこで、是永は声のトーンを変えて話した。それはパラダイムを感じる変化だった。そしてある一定以上を語る時に勇気のいる内容に、入っていこうとしている様子があった。

「彼なりの?」

わたしは、是永が勇気をやめないように自然を装った。

「うむ、例の、ライフワークというか。」

「ライフワーク。」

「詳しくは知らんが、あくまで想像でしかないが。」

「想像があるのか?」

「わからん。ただ、あのひとがそういうことを言ってるという話を聞いたことは耳にしたことがあるな。」

是永なりに、第三者の位置を保たねばならないという意識が言葉を選ばせた気がした。

「そういうこと?」

「まあ、ここだけの話だけどな。刑事をしていれば見え始める存在とでもいうかな。まあ、お前だからいうけど、わかるだろう?そういう、空間というか、なんというか」

「空間、か。面白い表現だな。」

わたしは、警察官の中にうっすらとあり続ける、とある空間に是永も言葉を持っていることに少し慰められた気がした。それはあの金石と一緒に捜査をしていたときにもっとも意識をさせられた空間であり、金石はそのことについて言葉を濁さずに語っていた。バーで酔った金石が左手でグラスを握りしめるのを思い出した。

「あの老人がその空間に絡むというのか?」

「空間、まあそうだな。兎にも角にも、又兵衛はそのことに執着していたのは確かだ。ご多分に漏れず、署長や幹部連中とは少しずつ距離ができていった。独自のやり方で色々まずいところまで踏み込んでいくってことだったのかもしれない。」

そのやり方も金石と同じだった。

「銭谷。まあ、お前もわかるだろう。警察には色々不都合がたくさんある。純粋な刑事の気持ちだけでいつまでも仕事はできない」

刑事の俸給で生活をしている人間らしい現実的な言葉だった。綺麗事や、理想だけで労働はできない。三人の子供の父で、生活費がかかる是永に刑事の理想論を語るのは苦しい。独身者のわたしとの違いがそこに暗然と流れたのも事実だ。わたしがあの銀色の線路に今日、自分の身を放り投げても子供たちが悲しんで泣くわけではない。戦争で命が必要ならわたしのような人間を選ぶべき、だろう。

「まあ、そうだな。」

「そう。理想だけでは厳しい。」

わたしは、自分の意識とは逆に、是永との会話の後半に集中力を失っていった。いや、有難い情報を是永にもらいたいと思いながら、どこかで背骨に耳が逃げて、聞くことをやめ始めるのだった。刑事をやっていれば見えてくるものーー闇とでもいおうーーがあって、その闇に立ち向かい続けた人間が公金横領いう濡れ衣を被せられ、それでも捜査や自分の考えを躊躇せず信念を変えないでいる、という事実の可能性について是永は繰り返していた。そういう言葉の列がわたしには既に物悲しかった。そういう話を散々した金石が、まるで闇そのものに飲みこまれるようにして、わたしの前から去ったことにも関係している。

 是永はわたしの反応が悪くなったのを気にしたのか

「まあ、ざっとは以上だ。」

と言った。友人の無償でかけがえの無い作業の時間がそこにあった。

「是永。ありがとう。本当に助かるよ。」

「いやいや。まあ、また何かあったらいつでも連絡をくれ。この私用の電話にメッセージを送れば良いな?」

私は返事をしながらタバコの次を探していた。もう何本目か数えもしていなかった。やはりせっかく多くの調査までしてくれている大切な友人に対し、自分は失礼だった。それくらい会話の後半の集中力は、失せていた。本当に、調べて全てを明らかにしたいと思う内容であるにもかかわらず、また貴重な情報であると分かっているにもかかわらず、どこかで巨大なものの前で金石のようになれない貧弱な自分を意識してばかりいた。自分の無力さに苦しくなり、全てを辞めたくなる。警察官になり四十代になるまで一度も感じたことのない感覚だった。

(なにが捜査一課のエースだ。)

タバコ場の角のゴミ箱の汚れた部分が、ニコチンの色で茶黒く汚かった。わたしは変質者のように、その模様を見つめてはタバコを吸うのを繰り返していた。



百五四 車内撮影  (石原里見巡査) 


 石原は太刀川が六本木通りを歩いたのを見て尾行を開始した。正確には石原が変装した、肩に黒い合皮カバンをかけた中年男が、である。

 毎日、同じ時刻、六時半ちょうどが続いている。日比谷線だと六時三十五分に北千住行きがある。大江戸線にはまだ同乗はなく全てこの日比谷線の三十五分を使っている。目的もなく暇つぶしのように動くのにも関わらず、毎朝同じ電車に乗るサラリーマンの通勤のようでもある。

 三十五分発の日比谷線北千住行きがホームに入ってきた。太刀川の隣の車両に石原の扮した男は乗った。十五メートルほど先、車両連結部分の先に太刀川が立っている。扉近くに腰掛けると、合皮の肩鞄を膝の上に置いた。そうして太刀川の乗る車両を撮影するレンズを嵌めた側をそちらに向け、接続したスマホを見ながらカメラの焦点を太刀川の横顔に合わせる。太刀川は椅子には座らず、戸袋のところに立っている。

 カバンに取り付けたこのレンズを発見することはほとんど不可能だろう。カバンを一センチだけ切った穴にカメラをはめていて、誰かに言われれば、その穴を塞いで仕舞えば良い。万が一気がついたとしても公共の場所で人の鞄を開けろとはならない。

 準備が整うと石原は静かにスマホの上から撮影のボタンを押した。画面には石原から直角に九十度右を向いた映像が映し出されている。そこには何食わぬ顔で隣の車両に一人で立っている太刀川が写っている。

 昨夜何度も見て確かめた通り、撮影の画質は十分だった。列車を縦に奥行き深く撮影するため焦点(ピント)が不安だが、こうやって今細かく操作して合わせることができた。人物の表情などはなかなかの品質だ。今後、毎日撮影していけばいいのだと、石原は自分に言い聞かせた。焦る必要はない。

 太刀川龍一が毎日こうやって地下鉄に乗るのが石原にはどうしても納得がいかなかった。ネットとの関わりも捨て、もう世捨て人になって全てを放擲して暮らしているならそれでもいい。無目的に、朝から地下鉄が好きなだけ、なのであれば。

 しかし、太刀川の表情や眼差しには、仕事を諦め捨てた人間のような、そういう晴れ晴れしさを感じない。株全てを売却し、全てを諦めた人間の表情には見えない。まだこれから何かをしようとしているような、男性的な熱さえ感じる。そういう眼差しはなかなか、朝の地下鉄では異質だと思う。

 石原はスマホの中を見つめた。

 朝の北千住行きは乗客もまばらだった。最後尾の八両目の車両に太刀川は乗っていて、その手前七両目に石原がいた。傍目には、ゲームかなにかにのめり込んだ中年男にしか見えないだろう。


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の方針の通り、石原は心を落ち着けて、中年の男そのものの人格になって、スマホを見つめ切っていた。



百五五 戸籍説明 (御園生探偵)


 米田さんがテレビ画面の中で、タバコを吸っていた。

 軽井澤さんと米田さんが阿吽の理解を示している様子だったが、僕はほとんど何を了解しているのかもわからないままだった。

 米田さんは、首を傾げていた僕にだけ諭すように、

「戸籍を買ったってことかもですね。」

と言った。

「戸籍を買った?」

「本当は、この戸籍の持ち主ではない人間が、この戸籍を使ってるって事です。別の人生を購入して生活する、ということです。」

「そんなことできますか?」

「死んだのに死亡届を出さずに、その戸籍を売る。もしくは、本当に行方不明になったような人間の戸籍を使ったりする。そういうビジネスをしてるところで買うんでしょうね。」

僕は米田さんの突然の説明がわからなかった。でも、戸籍を買う、みたいな言葉の響きは確かに、風間や守谷の印象に合うようにも思って

「戸籍を買う。でも、そんなことって、普通に有り得ますか?」

「色々ですね。日本国籍が欲しい、つまり外国人のケースなどはわかりやすいです。この国は閉鎖的ですから。たとえ全く外国人の顔をしていても山田太郎と言われるとなぜか親近感が湧く国なのですよ。嘘だとわかっていてもね。」

「不法滞在などの隠れ蓑のようなことですかね。」

「まあ、色々ですね。あとは、人生をリスタートしたいような事もありますよ。この日本では、失踪だけで毎年、何千人もあって、ほとんど見つからない。たしか、累計で八万人かな。」

「八万?ほんとうですか?」

「国の公式資料、だったかと思います。」

僕は米田さんが妙に詳しいのが気になった。 

「なるほど。」

「逆に言えばそれくらいの本籍が、浮いたり消えたりするとも言える。」

米田さんはそう言って、テレビ電話のパソコン画面を切り替えて、見るからに怪しいサイトを表示した。そこには外国語も含めた戸籍を売買する闇サイトのようなものが幾つもあった。そういうマーケットが存在するということなのだろう。

「風間、守谷は、名前からして全く偽物だった、ということですかね。」

僕はため息をつきながら、この二人が自分の想像から遠くなっていくのを感じた。レイナさんに頼んでいる作業も、意味を成すのだろうか。意味がないことを、頼んでいるかもしれない。名前だけでなく、住所から免許の本籍まで全くの別のものを追っていたことになる。

「そうかもしれません。」

「元々の本籍を探さねばならないんですかね。」

「はい。風間や守谷という人物対象をいくら追いかけても、戸籍を売った業者にたどり着くか、死んだ人間や行方不明者の類いにたどり着くに過ぎないので。つまりお二人が追いかけている風間と守谷という人間には、本当の名前が別にあるということですから。」

「でもそうしたら、どうすれば良いんですかね。」

僕がそんな質問を、幾つも投げる間、軽井澤さんは黙っていた。

 戸籍を捨ててまでして別の名前になった人間の、元々の本籍を探すなどは、至難の技だというのは僕にもわかった。そもそも、いつの時代から、この新しい名前で暮らしているのかもわからないし、金をかけて購入するほどまでに新しい名前が欲しかったのならば、当然、過去の人生とは強く決別しているはずだ。僕は守谷の、目尻に皺のある冷たく孤独な横顔を思い出した。

 別の人生。周りの人間も彼のことを守谷とは呼んでいるけども、本当はその名前ではない。元々のほうの人生を蛻(もぬけ)にして暮らす、そうせざるを得なくなった、守谷と今呼ばれている人間の涙を滲ませていた横顔が僕の網膜に残っていた。

 軽井澤さんが一言も発しないのが僕は気になっていたが、

「江戸島の尾行は、御園生くん、ありがとうございます。とても助かりました。昨夜は、すこしおかしな動きでしたね。」

と突然僕の方に聞いた。

 軽井澤さんは憂鬱な表情のまま、しかし、そのことはしっかり聞きたいという空気で僕に話しかけた。僕は、ざっと、昨日メッセージを入れたことを繰り返し、江戸島が銀座で寿司の会食で、そのまま、車で帰ったこと、代々木上原は多分自宅で、余計なことかもしれないが、調べたところ江戸島は既に奥さんが亡くなっていて、その自宅に一人暮らしだということ、などを説明した。

「ありがとう。それと彼の帰宅の経路でしたよね?おかしかったのは。」

「ああ、その件ですね。」

僕は、あっと思って、

「そうです。少しおかしかったのが、最初、銀座から豊洲の方向に向かったんです。」

「銀座から豊洲。つまり自宅と思われる代々木、山の手向けではなく、湾岸の方へ向かった。埋立地というか。」

「埋立地。まあ、そう言われればそうかもしれません。江東区の方になります。」

「銀座から一度湾岸方面に向かい、なぜか車がUターンしたのですね。それで代々木上原の自宅へ向かい直した。江東区とは全く逆になる。」

会話しながら、先ほどの戸籍の住所を落として、米田さんは画面に銀座周辺から代々木上原にかけての地図を写した。



地図X 代々木上原から、江東区まで



「ちょっと変ですね。」

米田さんがまた聞いた。

「そう思いますが、でも奥さんも既に亡くなって独り身なら、その、例えば愛人などの女性関係が湾岸のタワーマンションに住んでるなどで、一回向かったけど袖にされたようなものかなとも思いました。」

僕は、昨日調べて整理した文言をもう一度言った。

「なるほど。そうか。そういう考えの方が普通かもですね。」

米田さんは、そう言ってはみたものの、何故か空虚を見つめるようにした。テレビ電話の背景が二人ともぼかしになっていて、どこにいるのかわからなかった。

 軽井澤さんは再び言葉もなくじっとしていた。何か、苦しんでいるような先日からの表情が回復してはいないということも、画面越しに判った。

 今朝は軽井澤さんが別の場所にいるというのも違和感があった。一体どこにいってるのだろう、と思いながらそのことを言い出しづらい感じがあった。

 その後、軽井澤さんは少しだけ僕の仕事や、状況のことを聞いた。その聞き方はやんわりと、このタスクから離れて他の通常のことに戻って良いという文脈を含んだ。僕はそれに対して、少し反論気味に、乗りかかった船だということを告げて、今日も思うことあり江戸島をつけてみると話した。江戸島は夕方まで業務で多分動きはないけども、社用車の中でパソコンで他の仕事もできるし、江戸島が会ってくれない可能性も高いので、その点は少し考えがあることだけ告げて、テレビ電話から降りた。



百五六 大切な別れ  (レイナ)



 透明で真っ白な世界がある。何の前提もない、自分の心の中だけの場所。記憶の中で、大切な部分だけを再現しようとする場所。水平線まで真っ白に無が続いていく世界の中に、大切な自分の思い出だけが再生される。自分が苦しんだ時、幾度も幾度も再生してきた、記憶だ。

 小さなテーブルに、椅子が二つだけあって、その一つにレイナは座っている。

 強く目を閉じてから、八秒ほど数える。

 そうして目を開けるとそこに節子さんがいる。

「ご飯、食べましょう。」

会話が始まれば、レイナは大丈夫だと信じている。

 白い世界に、言葉がはじまる。

 施設の大人たちとの会話ではなく、節子さんとの会話。

 自分を理解して汲み取ってくれる言葉。


 あれは、いつのことだろうか。

 その日、節子さんは少し体調が悪そうだった。

 少しだけ痩せたとおもった。

 そのことを隠すように、お化粧を上手にしていて、綺麗だった。

 とても美人で素敵だった。

「ピアスをしている?」

「そう。昔ね、旦那さんに、買ってもらったの。」

「旦那さんがいるの?」

「そう。」

「どんな人?」

「そうね。勝手な人だからピアスを開けてもいないのに、先に買ってしまったの。」

「プレゼント?嬉しい?それでピアスを開けたの?」

「そうね。意外と、楽しい経験だったわ。順番は逆だったけどね。プレゼントされなければ経験しなかったのだから。人生なんてわからないわね。」

「レイナは旦那さんはいない」

「大人になったらね。好きな人ができた時に考えれば良いわ。」

「好きな人?」

「そう。無理しなくて良いのよ。自然とそういう人が出来るから。」

「ほんとう?」

「あなたが、ちゃんと暮らしていれば、必ず出逢います。安心して。」

「ちゃんと暮らす?」

「そう。いつか、この施設から出る日が来ます。それでも今まで通り、いろんな本を読んだり、あなたの好きなことを一生懸命やり続けていれば必ず、あなたを愛し尊敬する人と出逢います。」

「……。」

「あなたにはね、ちゃんと才能がある。あなたの人間としての才能を愛してくれる人がきっとたくさんいるわ。わたしにははっきりわかる。」

「ほんとうに?」

「ほんとうよ。」

 節子さんは、その日を最後に、施設に来なくなったーー。



 会えない日が続くうちに、一つの予感がやってきた。節子さんと出会う前の、あの独りの気持ちに戻って、落ち着かない自分がまたやってくる、と思ったのだ。誰も信じられない不信の気持ちが集まって、自分を鉄の山が押し潰すような毎日にまた戻るような、気がしたのだ。

 でもそうならなかった。

 レイナは自分が変化をしていたことに少しだけ気づいた。

 単純に落ち着かなくなると思っていた自分が、しっかり立ち止まり、前へ向かうようにしている。たとえば、レイナは節子さんに会うための、自分に対する努力を始めた。自暴自棄になるのではなく節子さんが教えてくれた努力を始めたのだーー。レイナは施設の中の自分の評価点を大人がつけてるのは知っていた。知っていて、無視をしていた。でも、評価点を上げると外出の許可が出るのも同じくレイナは知っている。外出の許可ーー。そうしたら節子さんと会えるかもしれない。渋谷の街は広すぎるし電車は遠いけど、節子さんが来れないなら自分で探せば良い。

 その評価点のために、大人たちが求める物事を想定した。もう大体のことは分かっている。まずは、事をあらだてて欲しくない大人の気持ちに合わせて生活すればいい。それだけで点数が上がるはずだ。

 時間はいくらでもあった。施設の中で、レイナは、読書ばかりした。本をたくさん読んだのを、ノートに書いて、並べた。読書ノートはいつも、節子さんに見せていたから、そのことをしっかりと続けた。レイナは今も、読書のノートをつけている。心が一番落ち着くノートの作業ーー。

 そうしてある日

「このノートはお勉強のノートです。節子さんとの約束だから、もし出来れば届けてください。」

と施設の大人たちに伝えた。ノートは大人たちが預かってくれた。多分届けたりはしないのは分かっている。それでも良い。読んだ本の名前と感想を節子さんに話すのが好きだった。話せなくても、書いた文字をそこに収める事で自分は節子さんと話をした気持ちになれる。きっといつか読んでくれるはずだ、と思ってノートを提出するだけで、レイナの心ははっきりと落ち着いた。

「新しい自分を始めればいい。」

節子さんはいつも、そう言っていた。あなたには才能があるから、新しいことをはじめて、新しい自分に出会っていくといい。自分を間違った枠にはめないでいい。

「才能があるのよ」

 その言葉は、美しい歌声のように遠くに静かに響いていた。


 節子さんは何日経っても来なかった。

 夏が終わって、秋が来て、雪が降った後も。

 節子さんのことを、誰も教えてくれなかった。

 それは、意図的だったらしい。

 施設の大人たちは節子さんとレイナが打ち解けていた事を知っていて、何かの環境変化や事実で、レイナという人間が「過去の記録」のような方向に戻ってしまうことをきっと恐れたのだと思う。無理もない、と思う。そういう「記録」がレイナにはあるのだ。それが真実かどうかも突き止める方法はないけども。レイナがいた密室で、母が死んでいた記録ーー。母が死んだ原因となる凶器にはレイナの指紋があったという「記録」ーー。詳しくは知らない。でもそうでなければ、こんな施設に何年も入れられたりはしないと思う。少なくともそういう事件があった。でも事実がそうだとは限らない。少なくともレイナにはそんな「記憶」はない。でもそれをいくら言ってもどうにもならないことも知っている。


 会えない時間がつづいたあとに節子さんから手紙が届いた。

 手書きのとても長い手紙だった。

 その文字は、レイナにたくさんの文字を教えてくれた達筆の節子さんには思えないくらい、ネズミの文字になっていた。きっと、苦しい病気の中で、最後の力を振り絞り、書いたのだろうと思う。紙も所々が汚れたり、シワになったりしていた。

 手紙は、会いに行けなくてごめんね、と始まっていた。自分は、どうやら病気で、万が一のことに備えて、手紙を書く、とはじまっていた。「あなたと出会ったのを、昨日のことのように覚えています。一人っきりで私を見る眼差しは怯えていて、でもどこかで、この私を頼ってくれるまっすぐの気持ちが、強く強く感じられました。それは母を求めるようで、わたしは自分の産んだ子供を持ったことはありませんが、どこかで誰かの母になりたいという気持ちがあったのかもしれません。だからあなたがそういう(ごめんなさい勝手に)気持ちで、わたしを見つめてくれたのではないかと、突然思ったのです。

 ひとりきりでその部屋に、大勢の大人に囲まれても、ただひとりでそこにいたあなたに、わたしは勝手な、眺めおろす側の気持ちで、あなたに向き合いました。わたしが母親がわりになってあげよう、と。世の中にひとりっきりになってしまったあなたの母親になってあげようと。」


 そんな言葉がはじまりにあった。レイナは節子さんをいつも苦しめようと子供がいないことの質問をしていた自分を思い出す。手紙の文字と、自分が吐いた言葉とがしばしば重なる。でも、そんなことは節子さんはお見通しだった。その上で、なにも怒らずに受け止めてくれていた。

「…でも、人間はどこかで、上下ではなくなります。あなたのいる場所に通い、あなたという人間の才能に触れていくうちに、私はびっくりするくらいの驚きや感動を与えてもらうようになりました。いつのまにかあなたが何を話しても何をしてもたまらなく愛しくなりました。気がついていたかも知らないけど、それが子供を思う大人の気持ちなのかもしれません。自分より後の時代にこの世に生まれ、これからの新しい人生を描いていくあなたと、既に人生の多くの時間を過ごし、土に帰って行こうとする自分との限られた有限の時間をいただいているのです。大人が子供を育てるのではない。子供の方が大人をこの私を前に向かせ日々驚かせながら育ててくれるのです。それが大人と子供の出会いであり、広い意味で親と子供ということなのかもしれません。そして、そういう大人の側の気持ちを持てることは、人生にこの上ない豊穣なものを与えてくれます。遺伝子的な実際に自分で産んだ子のない私があなたと出会ったことで私は本当に多くの経験をいただきました。レイナさん。あなたを本当の娘のように手をつなぎながら私はいつしかそういう気持ちに変わっていきました。でもそれだけではなかった。」

手紙は所々に紙に皺があった。病室できっと起き上がれもしないときに寝ながら書いたのだと思った。節子さんが一体、どれくらいの人間を救ったのかは知らない。保護司には守秘義務があるから、自分と会ってることも、誰にも言ってはいけないはずだし、当然他の誰と会ってるということも、手紙には書かれたりはしなかった。おそらく治療の合間に書いたに違いないとレイナは思った。

「あなたの才能に、私は驚かされ続けました。あなたは、いろいろな事を質問してくれたね。何故空は青いの?なんでお月様は?虹はなぜ?誰しもがあなたのようにたくさん興味を持てません。興味を持つということはきっと、その世界を理解できる可能性を持ち、正しく世の中のことを把握して、多くの人たちの役に立てるということだと思います。あなたという可能性に触れながら、そのことをわたしは学びました。あなたがひとりで、施設のパソコンを調べて、いろいろなことを独学で動かして行ったのも、あなたの知的探究心が素晴らしかったからだと思います。いつしかわたしでは、わからないような物事の理解を始める貴方は、わたしの人生の誇りになっていきました。ほんとうです。あなたが私の知らないことを理解して、語ってくれるときにどれほどの喜びを持って眺めていたか。おおげさではないです。それは私のような平凡な人間が、過去から未来へ向かっていく人間史の時間の中で、ひとつの襷をつなぐリレーに参加できたかのような喜びなのです。私にはあなたが誇りなのです。」


書いてあった手紙の、全ての文字をレイナは思い返すことができる。最初、一番最初にその手紙を読んだ時、手紙で節子さんが人間が死ぬことに触れているのが馴染まなかった。人間が死ぬことは想像できなかった。そのまま文字を読み進めると、カレーライスのこと、初めて行った渋谷のこと、ピアスのこと、パソコンのこと、一緒に読んだ本のこと、たくさんのことをひとつひとつ書いていた。まるで写真を撮ってその説明をしているような日記のような文章のすべてがレイナには宝物だった。体調の悪そうなネズミ文字に思い出が溢れ出して、でも節子さんの優しさが全てに浸透していて、そうして、手紙の随所に、伴奏のように、

「あなたには才能がある」

と、言葉が置かれていた。

「あなたには才能がある」

手紙にはその言葉がいくつも溢れていた。


 節子さんとは会えずに、その手紙のままが最後になった。

 言葉だけが残った。

 もしかしたらその言葉こそがレイナの知らない、家族や母のような存在になったのかもしれない。肌の温もりや、抱きしめた記憶、親子の愛情、声のような全てのものよりも、手書きの、節子さんの直筆のネズミ文字が強く長く、実質的にレイナを支えることになったのだから。レイナが文字通り新しいことを始められた理由になったのだから。節子さんの書いてくれた手紙はレイナにとっては家族の写真のようだった。手書きの文字、言葉こそが、家族だった。

「あなたはすごい才能があるのね。特にパソコンの難しい仕組みを覚えているところに感動しましたよ。また体調が戻ったら、やって見せてね。」

さようならとは書いていなかった。また再び会えると信じていたのだと思う。いや、生きている限り、さようならと手紙には書かないのかもしれない。

 節子さんが本当に亡くなったのを知ったのは、玲奈が施設をもう出ると言う時だった。

 レイナは幾冊もの本を自分の独房に取り寄せた。本の中からパソコンの内部に入って行った。それまで手探りで行ってきたものを、実際に、誰よりも学び始めた。最初の施設を出て独房に入り、しばらくパソコンに触れられなかった間も、本を読んで多くのスクリプトを頭の中で組み立てられるようになった。実は脳裏に誦じれることが開発には最も大事だ。プログラム開発はパソコンに触れている時間よりも、その構想を頭の中でいかに整理できるかが勝敗を分ける。テクノロジー開発には最新の技術の入力も必要だけど、指を動かす手前の、孤独な暗算と目的設計の方がよほど大事なのだ。レイナは独房の中で、それを学んだ。むしろ独房の時間が未来の武器になった。

「あなたには才能がああるのよ」

 節子さんの言葉が伴奏を続けていた。

 過去へ向かう楽譜は存在しないーー。

 音楽は常に、過去から未来へ時間を刻む。伴奏はレイナを常に前に前に進めていった。

 いまも、指先がMacに触れるときに節子さんの笑う声がする。そうしてその声が体の中を通信音のように伝播していく。左手の低音が、レイナの美しいメロディ・ラインを後押しする。やがて身体中に飾られた銀のピアスと共鳴する。その心地よい響きがレイナが生み出す全てのScriptにまるで今、生きて存在しているかのような喜びを与えている。



百五七 八潮駅  (石原里見巡査)   


 太刀川と石原を乗せた地下鉄日比谷線は霞ヶ関を超え、銀座を超えた。朝の静寂な車内に無理なカーブが多い日比谷線の軌条の音がうるさく鳴っていた。

(やはりおかしい)

と石原は思った。

 気のせいだと最初は思っていたが、やはりおかしい。

 というのも、地下鉄の他の車両に比べて、太刀川の乗る車両だけ乗客の数が微妙に多い気がするのだ。石原はこれまでの一週間を細かく思い出していた。後でもう一度見比べてみようと思っているが、そういう直感がある。銭谷警部補と話した通り、この地下鉄をなんらかの連絡手段に使っているのならば、連絡員の数にもよるが人数はほかの車両より多くなるだろう。捜査する側の意識過剰なのかもしれないが、インターネット以外で、オフィスも持たない太刀川にとって、何かの連絡ということに、公共の乗り物が<悪くない>ように思える。石原は自分の直感をなぞっていた。

 数百億円とも言われる資産。その資産をさまざまな用途に使う。当然、人を使う。メールもオフィスも持たない太刀川が、その人間たちとの連絡の場所として、この公共の交通機関を使っているーー。

 日比谷線が、銀座、築地を過ぎ、秋葉原についたところで、太刀川は電車を降りた。

 変装の自信もあったせいか、石原は堂々と太刀川を尾行した。いや正確には石原里美巡査の扮した中年男が歩きスマホをしたまま太刀川の後を追った。地下通路から別路線の入り口、つくばエクスプレスと言う茨城埼玉に向かう列車のホームに移動した。よく見ると、その電車は初日の尾行で北千住から乗り込んだ路線だった。既に七時台になってはいたのだが、下りのつくばエクスプレスは乗客は疎らだった。太刀川は今度は座席に座って文庫本を取り出して読み始めていた。日比谷線とは違い、太刀川の車両にはほとんど人がいなかった。石原は再び隣の車両に陣取り、また同じ手順で撮影を開始した。

 列車は最初は地下を走り、東京らしく、少ししてから地上に出た。

 太刀川は数駅目で席を立った。

 降りた駅をふと見覚えがあると思った。実は初日の尾行と同じ駅だったのだ。前回石原はこの人流のまばらな街の住宅街での尾行をやめた。今回は少し大胆になっていた。いや


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の言葉を借りれば石原里美はそこには不在だった。そこには入念な変化(へんげ)を施した中年男が偶然歩いているに過ぎないのだった。そういう自信が尾行を前回とは違う段階まで継続させていた。万が一ばれても、また別の変装を行えば良いという割り切りを石原は持っていた。隠したカメラで見ているかぎりこちらに気がついている様子は一切ない。

 太刀川龍一は駅を降りると、ゆっくりと駅前広場(ロータリー)を離れ住宅街の方へと歩いていった。遠目にその方角を合わせて追いながら、再度今、降車したばかりの駅名をもう一度見つめた。八潮、という駅名だった。そう、八潮だ、とおもった。太刀川を尾行した初日もこの駅だったーー。



百五八 又兵衛来庁(銭谷警部補) 


 午後の十四時になって、昨夜の言葉通り、A署の老刑事又兵衛が訪ねてきた。わたしは六階の会議室に又兵衛を案内し、自ら飲み物を用意した。太刀川が一週間前に座った同じパイプ椅子に又兵衛は座った。テーブルに茶碗を並べて急須から湯を落とした。

「警部補自らとは、申し訳ございませんね。」

老刑事は良き市井の老人の行儀作法でわたしに言った。

「いや、人が出払っていまして。」

嘘だった。誰か若い人間に頼むのも気を使うから、茶の用意も自分でやっているに過ぎない。

「昨日は、ありがとうございました。」

我々はありきたりの、昨夜のお礼などの会話をし、刑事部屋や捜査一課の話をし、金石のいた場所などのことも一線を超えない範囲で自然に話した。それらは本題に入る前の、刑事特有の前置きだった。

「しかし、霞ヶ関という街は、生活の香りがしませんね。合同庁舎のほうに行ってやっと、マクドナルドがあるくらいですから。」

「……。」

「はは。仕事尽くめのエリートともなると、この方がご都合はいいのかもしれませんがね。こう言った感じの、生活を失った冷たい香りが、この街には必要なのでしょうね。まあ、所轄とは違いますね。」

暗に又兵衛は何かを含んだ言い方をした。冷たい街、という言葉は悪くはなかった。少なくとも情熱的な芸術や文化の生まれる場所ではない。

「ところで。」

老刑事は声色を変えた。

「はい。」

わたしは身構えつつ返事をした。茶を飲むだけの事でこの男が霞ヶ関まで来たりはしない。

「銭谷さんは金石から、とあることを聞きませんでしたか?こう言っては唐突かもしれませんが、まあ、組織のような話です。彼が追いかけている組織です。」

「金石からですか?追いかけている?」

「ええ。彼が、まあ、追いかけていた、というか。」

「組織ですか?」

少し緊張した。老刑事は今日は最初から酒の力抜きで、本題に入る気なのが分かった。

わたしが押し黙ると、少しのためらいの後、老刑事は言葉を続けた。

「まあ、金石が直接その組織の捜査をするなどの話ではないんですが、奴は、非公式にそんなこと言いませんでしたかね。」

「組織、ですか?」

「ええ。」

「……。どうだろう。そんなことを言いましたかね。わたしは何の引き継ぎもなく、辞められた側の人間なので、金石がどこまで心を開いていたかも、わからない。」

わたしは嘘をついた。たぶん、知っている。いや、どこかでこういう話題を昨日の夜も老刑事が入れてくるのではないかと思っていた。

 ただ金石がわたしに、このような霞ヶ関の会議室でそれを話したことはない。一度もそんなことはなかった。そういう話をしたのは、決まって、例の天現寺のバーで、浴びるほど酒を飲んだ時だった。あのバーでだけ、我々は従来のパラダイムの外側での会話をした。もっとも酒の飲み過ぎでそれが会話だったかというと困る類のものではある。


 パラダイム…。

 …世の中には前提(パラダイム)がある。

 常識も全て前提(パラダイム)の上に成り立つ。

 前提(パラダイム)を外れた会話は、人間を人間の関係の中からゆっくり外していく。たとえば地球が太陽の周りを回っているという真実を知ってしまった人間にとっては、中世のパラダイムは難しい。神を信じ、まだ万有引力などと言えない時代には<当然地球の方が太陽より大きい>存在だった。太陽が大きくその周りを地球が回るという地動説は中世で言えば悪魔崇拝である。安易に「真実」を語れば命の危険さえある。

 その場合、方法は二つしかない。 

 一つはパラダイムシフトが生じるまで待つこと。

 もう一つは、自分自身で正面から世界への啓蒙を行うことだ。世の中が気がついていませんよ、あなたの暮らしている世の中が信じていることが、間違っていますよ、と言って生活することは本当に厳しい。言葉を選ばずに言えば、命を賭けた作業にならざるをえない。迂闊に自分の言葉を誰にでも話していれば、

 金石は対人処世を熟知していた。

 だから、パラダイムの外側の、聞いたこともない、常識的ではない、闇の組織の話などを本庁の会議室などでは絶対にしなかった。捜査本部のあるような公的な場所では奴は別人なのだ。ただウイスキーを煽って相手(わたし)も酩酊したのを確認した天現寺のあのバーでだけ、そっと、試すかのように隣の席のわたしにその組織のことを言った。

「奴が、いや、金石警部補が追いかけていた組織ですか。」

「どうだろう。追いかけていたかは知りませんが、金石があなたに話したと思うんです。」

「なぜそういうふうに思うのでしょうか。」

「どうですかね。金石があなたという人間をどういう風に見ていたか、小生が勝手に想像しているだけかも知れない。」

「ーーなんという組織でしょうか?」

「はい。まあ名前がないというのが正解だとは思いますが、会話の都合上、エックス(X)とかエス(S)、という言われ方をまれにしますので、今日はそういうエス(S)という文字に仮称しましょう。」

「……。」

「ご存じでしょうか?もちろん呼び方はいろいろあると思います。いや、金石から聞いたかどうかではなく、世の中に溢れるそういう、陰謀論周辺の言葉を、聞いたことはございませんか?なにせ、太平洋戦争の頃まで遡るような、そういう話でございますから。」

「どうだろう。エスっていうのは初耳です。」

「本当ですか。」

「はい。初耳だと、思います。」

 エス。

 わたしはまた嘘をついていた。。

 金石がバーニコルソンのカウンターで語ったのはそういう組織だったはずだ。ただ、名前で呼ばなかった気がする。彼ら、という言い方だったかもしれない。ただ、わたしはそういう組織の周辺を、気になって自分で調べたこともある。通称がエックスとか、エスだという組織はWEBの上で様々な形で語られていた。

 金石がわたしに話した組織は真新しいことでもなかった。過去、巨大な権力に対峙した小市民が隠密に作った、戦前から存在する市井ネットワークのことだった。しばしば、共産党活動だとされることが多いが事実は違う。戦前の反政府分子や、文学作品に共産党関連の表現が多かったり、特別高等警察に逮捕され処刑されたりした共産党系の作家の印象が強いが、実際は特定の思想ではなく、あくまで体制への疑問をもとに、出版や、文筆業の人間が中心に始めた連絡網、というのが本当らしい。いずれにせよ諸説ある類だ。

「戦前の、反体制の組織ですよね。」

わたしは金石からではなく、どこかで聞きました、という態度で返事をした。又兵衛は静かにわたしの目を見てから下を向いて、押し黙った。この日の会話は、沈黙が声より多数を占めた。そういう会話には重要な情報が往来しやすい。

 しばらくして、又兵衛は茶を飲み込みながら、

「ブラックホールをご存知ですか?」

と、唐突に言った。

「ブラックホール、という言葉は知っているが、物理の方程式は知らない」

「私も、物理には詳しくないですよ。」

「そうですか。」

「ただ、ブラックホールというのは、光さえ外に出て行くことができないそうです。光を飲み込んで存在さえ消してしまうんです。だから望遠鏡で外から見ると何もない黒にしか見えないんです。周辺にいるものを全て飲み込む。つまりですね、組織の中で、どうしても外に出して公然と判断をして欲しいという、光があったとしても、光でさえ、重力に遮られて外に出れないのが、ブラックホールなんです。」

「……。」

「権力と似ていると思いませんか?」

唐突だ。わたしは理解ができていないという顔をした。実際に半分も、又兵衛のいうことが正確にわからない。数学やら理科の教科書は燃やした本の中で一番、よく燃えた記憶がある。

「そのブラックホールのような権力組織、戦前は軍部や特別高等警察がそれだったと思います。つまりそういう権力の内部からは、どんなことがその中にあっても何も外に出ないのです。光さえ消されてしまうのですから。」

「……。」

「いいですかね。」

老刑事は明らかに、力んでいる。わたしという人間が、この奇妙な会話から逃げてほしくないのだ。わたしはパラダイムの境界線を意識していた。又兵衛の言葉と自分の対応する態度はその境界を揺れた。

「光さえ外に出ない、というのが本質です。そういう権力の時代は、人類の歴史には幾度もあります。簡単に言えば、権力組織側がなんらかの悪意を帯びた瞬間、闇が始まっていく。光が外に出ない、ブラックホールが始まるんです。たとえば警察組織は犯罪者を捕まえる立場です。その警察組織が、犯罪者に類似した性質を持ち始める。闇というものは一つ増えればその闇を隠すためさらに闇を増やします。殺人犯が証拠隠滅のために追加で誰かを殺すのと同じです。隠蔽と増殖を繰り返しながら強い重力を持つ。そうしてブラックホールができます。」

「……。」

「善良な市民には耐えられたものではないのでしょう。だから小市民の秘密結社が生まれたんでしょうね。それはごく自然な反作用です。どこの国にでもあるなのです。」

「……。」

「もちろん、ブラックホールのようにならなければ、つまり権力に自浄作用や良心があり、そうならなければ、秘密結社など要らないはずです。光が自然と解決するんですから。誰も不満に思わない。」

又兵衛は、朝から話すことを決めて霞ヶ関桜田門に来ていた。もう、金石のことも含め、酒に頼ることではないという判断と、言うなればわたしへの首検分を済ませたのかもしれない。話す範囲も全て決め切っているのだと感じた。

「その組織が今の時代にも動いているとすると、ゾッとしませんか。」

そう言って、又兵衛はわたしをじっと見つめた。

 内容は雲をつかむような、陰謀周辺の会話に思われたが、単純でもなかった。どうやら、この会話が、彼の警察人生でやってきていることに絡むらしい。是永の言ったライフワークという言葉につながる。

「ブラックホールになった権力の反作用の組織が?つまりブラックホールが存在して、その反作用の組織も存在する。そのどちらも誰も見えないというのですか?」

「そのとおりです。」

「この平和の時代に?」

又兵衛はまた少し長めにわたしを見つめた。その目線にはわたしの言葉への疑問符が書いてある。

「銭谷警部補が、平和をどう定義しているかは存じ上げませんがね。ただ、平和は突然終わるのはご存知なはずです。いや、もう終わりが始まっているのかもしれない。 昭和十五年の銀座は、五年後の東京大空襲の想像など誰もしていません。」

それも金石から聞いた喩えだった。いや、もしかすると、A署で一緒だった時に、この老人が金石に語ったことだったのかもしれない。


百五九 金町二 (軽井澤新太)


 御園生くんが画面から降りた後、一瞬だけ米田さんとわたくしはテレビ電話の中に残りましたが、お互いにそのテレビ電話も降りて、画面の外で手を振りました。わたくしのいた喫茶店の奥の席にパンチパーマ風の体の大きな男性がいて、顔を上げました。実は、米田さんとわたくしは、同じ喫茶店の別々の席に陣取って御園生くんとコールをしていました。昨日別れた金町の駅前の喫茶店です。

「昨日は遅くまでありがとうございます。」

「いえいえ。」

「夜まで動いたので、近所のホテルで泊まりました。」

米田さんは照れ臭そうにそう言いました。

「ありがとうございます。無理させてすいません。」

「軽井澤さんもですか?」

「わたくしは一応、ひとり暮らしですから、どこに泊まっても同じですよ。」

わたくしが米田さんのテーブルに移動すると、店員が不思議そうな目で見つめておりました。

「風間、守谷の戸籍については、理解できました。自分の中で、戸籍の問題で腑に落ちました。つまり、風間も守谷も、どこかの土左衛門の戸籍を使っていたと言うことですね。本当は風間と守谷という名前ではなく別の名前で生まれてきた。つまり、過去を書き換えた。」

「まあ、確実でしょう。八十歳の人間ではなさそうですからね。」

米田さんはそう言って静かにわたしを見つめました。 

 風間や守谷という人間をいくら追いかけても、何も新しい情報が生まれないのは当然です。

 いまの司法制度では殺人が死刑になることには直結しません。一人を殺したのでは、無期懲役にもならないかもしれない。結果、本名Aという人間はある時間を経て世の中に戻ってきます。恐ろしい殺人を犯した人間が「もう反省した」という体裁で世の中に復帰をするのです。

 しかし世の中の側もそのことについては、放置をしておりません。古来、社会的制裁というのは非常に緻密に日本社会には存在します。殺人を犯したAという名前で、商売を始めたり、就職をするなどというのは相当厳しいのが現実です。

 そこで、殺人受刑者は本名Aを捨て、全く別の名前と経歴をもつ戸籍を買うことになる。

 その新しい戸籍が、風間正男だったり、守谷保だった、ということです。

 おそらくそのため、レイナさんがいくら探しても、風間や守谷の過去の情報の収集がうまくいかなかったのでしょうし、ましてや御園生君とわたくしで、風間と守谷の名前をもとに葉書の共通点を探すことが少しも進まなかったわけです。生きていれば八十や九十の行方不明者である風間正男と守谷保という、犯罪とは関係のない鬼籍を追っていた訳ですから。

 この理解は、同時にひとつ不気味な事実も新たに生じさせます。

 葉書の送付者はーー驚くことに、そうまでして過去を捨てた二人の人間の今の住所を調べ葉書を送っているのです。

 本名を捨て別の人生を始めた二人の住所と新しい名前を調べ、どんなにレイナさんが調べても紐つかなかった、新しい戸籍の名前である風間正男と守谷保宛で葉書を十四枚ずつ送付しているのです。自分の本名を捨て、新しい戸籍になって生活している人間にとって、その追跡ほどの恐怖があるでしょうか。葉書の送付者は、まるで

「逃げられるとは思うな」

という宣言をしているかのような、そういう恐怖そのものを送付しているのです。


 おそらく難しい表情で沈黙をしたわたくしの目の前に、もう一枚の紙を米田さんが差し出しました。

「もう一つのご依頼の方です。」



少年A 実名 尾嵜憲剛 

事件の主犯格 

懲役二十年、戸籍は過去通り 現在綾瀬在住。


少年B 実名 山川敬之

懲役八年 戸籍は過去通り 所在不明


少年C 実名 小川慎二

懲役八年 戸籍は過去通り 所在不明


少年D 実名 乾健太郎

懲役三年 平成十年十二月 死亡 


「ご依頼の過去の事件について、当時の少年四人の実名と、最新の情報になります。法務局では、基本的に少年の情報は紐づかないように少年法で定められていまして。ですので半分はまず、インターネット上で調べさせていただきました。過去の犯罪者は、ほとんど名前と住所付きで、晒されていますので。」

わたくしは、目を細めて米田さんの手書きの文字を見詰めていました。少しして自分の鞄から守谷の残したレシートを取り出し、見比べておりました。

「戸籍、住所などは間違い無いと思います。住民税の支払いなどは一切ないようです。つまり実質は行方不明になっている人間です。ひとりは既に亡くなっています。」

「明確ですね。」

「はい。当時<あれだけ>有名な事件でしたし、いまどきはネットのせいもあり、メディアや警察がいくら少年だったからといって過去を隠しても隠し通せることはないのです。その結果かもしれませんが、この尾嵜という主犯格以外は、全員行方不明です。まあ殺人犯としていくら懲役を終えても、社会には強く拒否がありますからね。むしろこの尾嵜は珍しいのだと思います。」

「そうですね。」

「はい。尾嵜は地元の暴力団に所属した関係で、住み残ったようですが。普通は、少年B,C,Dのようになるとは思います。」

わたくしは黙ってうなずきました。じつは、それはある程度は予想しておりました。

「ご依頼の二つ目。彼らと、風間や守谷とのつながりについてです。」

「はい。」

わたくしは呼吸を整えて、米田さんの瞳を見つめました。黒目が強い大きな目です。

「おそらく、可能性としては、Dは死んでいますから、このBとCとが風間、守谷につながる可能性はあると思います。あくまで可能性です。殺人犯の汚名を受けて生きるくらいなら、戸籍を買ってでもして、人生をやり直したいと思った可能性はあるでしょう。」

「はい。」

「ですが、すいません。結論から申し上げると、具体的な証拠的なつながりは一切、拾えませんでした。もう少しお時間をいただければと思いますが戸籍を買うくらい覚悟をして逃げる訳ですから簡単ではないはずです。まあ、警察関係では色々と把握しているのかもしれませんが、そこはやはり少年法が表向き強いのです。法務局には当然ですが、雑誌やネットの情報などは記載されないし、噂話が残ったりはしない。」

「そうですか。」

「まあ、ここで簡単に紐づくくらいでは、自分と別の戸籍を買う意味がないですからね。戸籍を買う時に全て紐づかないようにするに決まっている。ネット社会にもここは限界があります。」

「そうですね。そういうことでしょう、しかしだとすると、やはりあのハガキはすごいことですね。」

「そのとおりです。」

「戸籍を買って名前を変えた二人に、その先の住所宛先ふくめて追跡をしていたことになる。尋常ではない」

「はい。」

会話が重ねられてる間に頼んでいたオムライスとサンドイッチが運ばれてきました。二人はその間合いで会話を止めて、米田さんはタバコに火をつけたままスプーンを取りオムライスを頬張りました。ランチが始まるのか店中にトマトケチャップを炒める香りが充満しましたが、わたくしは食欲が出ずサンドイッチを置き去りのまま、

「守谷の残したレシートの文字が苗字だとすると、二文字が三名。一文字が一人。二文字の名字の二人が似ている名前だとすると、小川と、山川というのが実は近くなるのです。また、乾という一文字も、メモに当てはめると腑に落ちる落ちます。守谷はすくなくとも、この四名を頭の中に描いていた。自分が四名のひとりなのか?それとも、その周辺の人間かは不明ですが。」

確かに、乾の文字は、言われればそう見えます。小川、山川、はまさにその想定に近いと言えるでしょう。川の文字は似ている。ただこのレシートの四人の名前と、少年四人が類似するということも、わたくしの想定の範囲でしたが米田さんは言葉を止めず、

「もし軽井澤さんの予想が当たっているなら、守谷はこの四人の名前をあの池尻病院で片腕を失った状態で、わざわざメモを取ったということにはなります。」

「そうなりますね。」

「軽井澤さんは、この事件の起きた頃、おいくつですか?」

「小学生、ですかね。」

「そうですよね。」

米田さんわたくしはそこで沈黙になりました。どこかでこの事件のある側面について、想定ができてきたからかもしれません。パンチパーマ風の頭をぼりぼりとやりオムライスを平らげた後に店員を呼んでパフェをまた注文していました。置き去りのサンドイッチどころか、その時わたくしの視線は


少年A 尾嵜 現在綾瀬在住


という文字列に釘付けとなっていました。実は、米田さんに隠していましたが、唇が引き攣るように震え、また脳裏に不気味な嗚咽がやってくるのも感じました。ただどうにかそのことは、口にせず、

「すいません。ありがとうございます。」

というのが、精一杯でした。

「私もあの事件の当時は小学生か中学生だったかな。」

と言葉だけかろうじてつなぎました。米田さんは憂鬱な過去を調べたせいか少し不快な表情をしながら、

「あれだけ世間を騒がせた事件を起こしたわけですから、むしろ綾瀬でまだ暮らせる元少年A、つまり、この尾嵜の方が気が知れませんね。まあ暴力団に入ればそれでいいってことなのかは知りませんが。他の三人、いや二人のほうがまだまともかもしれません。」

と、冷たく吐きました。一連の事件について知れば、冷たく言うのも理解できます。この四人は正真正銘の極悪非道な殺人犯なのです。その罪は少年法のあのような短い懲役では許されないという世論が、いつまでもネット上で消えないのも理解できます。

「なんなんですかね。あんな事件があった街にまだ暮らせるというのは、無神経なのか、それとも後ろ盾か何かがあるのか。」

「後ろ盾。」

「ええ。そんなに近所の暴力団が守ってくれるんですかね。まったく。」

「そうですね。」

「まあ、軽井澤さんもそこまで必要ないでしょうから調べませんでしたが、とにかく、わたしにとってはどうでもいいです。ネットの記事を見れば見るほど、ただ、苛立つというか、そういう事件ですよ。まあネットがどこまで真実かわかりませんがね。少女が殺されたというのは、消えない真実です。」

怒りをふくむ米田さんの言葉を聞きながら、わたくしは、もぬけの殻のように、なにも言えずにいました。米田さんの顔の下のパフェのグラスを見つめながら、自分の過去のことを思っていたのかもしれません。

「軽井澤さん、なので少年のB、C、がそういうことです。守谷、風間と紐づく可能性があるとは思いますが、ネット上ではつながりません。この二人は、行方不明です。それと、もうひとりの少年Dは、」

「この一番最後の乾、ですね。」

「ええ。この乾は、山梨県で遭難しています。」

「山梨県で?」

「ええ。富士山の裾野に樹海があって。自殺の名所というか。」

「名所?青木ヶ原樹海ですか。」

「はい。もう二十年以上前に死んでいます。警察では遺書も見つかって処理されていますが、SNSやインターネットの出来る随分前のせいで、ネット上では全く記載がありません。法務局で死亡届が出ててその逆算でやっと調べられたのです。」

「なるほど。」

「ネット上の少年AやBが誰だというのは、掲示板が賑わいます。当然、同じ学校だったり地元の誰かが書きやすいですから。しかし、戸籍を変えたり死んだりした後は、情報が積み上がらないようです。」

「……。」

「まあこのDは、殺人の罪を感じていたのですかね。樹海で遺体の一部が見つかり、死亡処理がなされたようです。自殺したから許されるわけでもありませんがね。」

「ありがとうございます。」

「しかし、軽井澤さん。随分な、四人を調べますね。」

配慮ある米田さんは、昔とおなじように、なぜわたくしが、そんなことを依頼するのかについては、一切触れようとはしませんでした。ただ、自分の感想を言うようにそう言いました。

「すでに、平成がひとつ終わっていますからね。四人の少年犯罪者が、刑期を終えて順に社会に復帰してしばらく経っている。最初に出た人間がすでに、もう死んでいたというのは、皮肉だと思いましたが、ほかの彼らはいまどこでどんな生活をしているのか。人を殺した罪を悔いて生きているのでしょうかね。せめてそうあって欲しいところです。そのことだけが、気になる調査ご依頼でした。」





 わたくしは、米田さんと別れると、金町の駅から、江戸川の河川敷のほうに向かいました。帝釈天のあるほうは雄大な河川敷が眺められます。その河川敷は確か先日、レイナさんを紹介いただいた佐島さんとお会いした場所に近かったかと思います。

 人間の心というのはいつでも自分の思うようにならない、不思議なものだと、いう言葉が河川敷の風を頬に受けながら、空から落ちてきます。わたくしは、やはり、生きながら、ある過去の領域に目隠しをして生きているのだと思います。

 風間や守谷の表情を見るたびに、言いたくないであろう彼らの過去の存在を思わされました。それが彼らに共通した風情でした。彼らもまた、過去といかに決別するかを心において生きているように思われます。また、米田さんの調べていただいた情報で、四人の犯罪者たちの話を聞いたときにも、そのうちの一人が自殺している話がありました。その自殺もわたくしには腑に落ちるのです。むしろその人間少年Dだけは正しく罪を受け止めたのかもしれないという、小さな期待さえ抱くのです。

 犯罪者には過去を後悔できる人間と、そうでない人間がいるのではないか。本来は、過去を後悔し罪を改めることが道徳的な理想です。その上で残りの人生を歩むべきでしょう。しかし、しかしです。本当に正しく罪を思い後悔をするのならば、殺人犯は果たして新しい人生など生きていけるのでしょうか?すでに、人を殺している、のです。当然、命は戻りません。どんなことをしても殺された誰かの命は取り戻せないのです。生きている時点で不公平だと言うとてつもない真実がそこにあるのです。それが真実です。

 人間の死の後にーー殺人犯が生きていて良いのでしょうか?生きて反省してる?そんなことがありえるのか?それは反省ではなく、ただの忘却や誤魔化しなのではないか?

 その忘却はきっと遺族には許しがたいことです。なぜなら遺族は愛する娘がいないことを、毎朝地獄のように思い出しつづけるのです。何の罪もないまま突然絶望を突きつけられ、その日から永遠の悪夢の中にいると言っても過言ではないでしょう。前を向いて生き直すしかない、などというつまらない言葉遊びはそこにおいて何も意味を為しません。そう思うと、少年Dにはそういう感覚があったのかもしれません。

 わたくしは、事件の周辺を思い出しながら河川敷を眺めました。

 ここにひとつの物語があった。

 それはわたくしの暗鬱な闇の記憶とゆっくりとつながって参ります。精神の闇とは不可思議なものです。絶対に思い出したくはないと決め込んで生きていると、思い出そうとしても思い出せなくなるのですから。記憶の違った全く別のものが表面を覆い隠して、正確な形で呼び戻すことさえできなくするのですから。それでいて、そうやって完全封鎖していてた筈にも関わらず、まるで別の悪夢になってある時復活を遂げ今まさに<この精神を>侵そうとしているのですから。例えばわたくしは、葉書の消印を見て埼玉県三郷市と書いてあっても、わたくしの過去に照会しませんでした。脳が関連させなかったのです。重要な消印はありきたりな住所の列のひとつとして黙殺されたのです。そのくらい恣意的に過去の事実を隠すのです。その代償として、自分の娘の悪夢が始まりました。ある意識の向かう方角の反作用が、悪夢に関連付けられたとしか思えません。そしてその方角こそがこの河川敷であり、この綾瀬の街並みなのでしょう。そうしてある日、記憶が復活してしまうのです。

 実際にこの場所に来て見ると、やはり違いました。

 記憶は大地に染み付く。人間は土に近い生き物なのかもしれない。



少年A 実名 尾嵜憲剛 ・・・地元暴力団へ

懲役二十年、戸籍は過去通り 現在綾瀬在住。


少年B 実名 山川敬之 ・・・風間正男の戸籍???

懲役八年 戸籍は過去通り 所在不明


少年C 実名 小川慎二 ・・・守谷保の戸籍???

懲役八年 戸籍は過去通り 所在不明


少年D 実名 乾健太郎 ・・・自殺(反省?)

懲役三年 平成十年十二月 死亡 



 事件➖➖。

 その事件は、とある男たちが、<紗千のような年齢の>娘を惨殺した事件でした。昭和六十四年。まだ未成年だった少年四人は、同世代の女子高生を一ヶ月以上にわたり監禁陵辱し、惨殺したのです。その事件から今は既に三十年以上すぎています。わたくしはこの事件の当時小学六年生で直接的な関係は何もありません。

 しかし、この事件とわたくしは前職で、関わることになりました。そしてわたくしは当時の上司である大切な人間をこのことをきっかけに本質的に裏切ったのです。道徳的な反対を押し切って刑務所から出てきた尾嵜という主犯格の男に近づきました。わたくしが記者をやっていた頃にこの四人のリーダー格だった尾嵜と言う男が刑務を終えて社会に戻ったのです。

 彼の通うボクシングジムに入会したのもそのためです。



百六十 続・来庁(銭谷警部補) 


 バーでの金石の横顔を思い出す。

 大きな手のひらで小さく包むウィスキーグラスを揺らして、

「銭谷。まあ聞いてくれ。」

「……。」

「今回の六本木の事件はそう言う重宝的な組織が関係すると思うんだ。」

「雲を掴む話か?」

「まあ、聞いてくれ。」

泥酔した時に限り金石はそう言う話題になった。彼が、わたしに語ったのは、その組織は今も脈々と存在しているという、まことしやかには信じがたい話だった。その諜報組織に関係する人間らは、時には、麻薬を運んでいたり、毒物の作成や混入をさせたり、脅迫や強盗の一翼を担ったり、殺人の片棒を担ぐことさえあるという内容だった。そしてそう言う人間は普通にこの日本の随所に存在していると言う。

「どうだろうな。」

会話の都合上、わたしは反論する役回りだった。そもそも、この日本での「諜報」という存在は終戦と共に役割を終えたはずだ。旧軍部の特務機関やそれに対抗する市井の諜報組織などが、今も脈々と存在しているなどというのは常識的ではない。

 しかし金石の考えは常識(パラダイム)の外にあった。

 常にそうだった。

 バーで酔いが進んだ時にだけ、そのことをわたしに幾度となく語った。わたしは幾度となく反論した。そんなものがあるなら、もっと世の中で話題になるだろう、と。メディアも放っておくわけもないし、もしくは本当に存在するのならば、警視庁で表立って調べるべきだ。個人で動いたりなどしたら、何が起こるかわからない。いや、それは恐ろしく危険なことだ。ミイラ取りがミイラになる。<帰れなくなる>。もしそんな組織が本当にあるというならば。

 わたしの反論に、金石は決まって彼らしくない笑顔になった。

 その笑顔は、巨大なものを前に仲間が道連れになってくれないものを悲しむような、諦めに似た表情だった。

「覚悟の上だよ。」

言葉を提示した後に、左手でウィスキーの氷を鳴らすのが彼の癖だった。

「でも金石。そんなことをしてると、帰れなくなったりはしないか?」

「帰れなくなる?どういう意味だ?」

「仮にそんな組織が、警察本体と同じくらいの歴史で昭和の昔から存在するなら、そんな秘密を暴くなんてことをイチ刑事がすることは危ないのではないか、という意味だな。」

「下手を踏めば、当然そうなるだろう。だから今、全体を一気に捲(めく)るために動いているってことだよ。捜査一課のエースにも参加いただいてな。」

「何もできていないが。」

「そんなことはない。それと銭谷が今喩えたように俺はもう<帰れなく>なってもいいとさえ思ってる。逆にお前はどうだ。」

「……。」

「刑事になる前の銭谷に聞きたいね。」

「どういう意味だ」

「おれはお前に、いま刑事になった最初の気持ちを聞いているんだよ。正義という言葉の響きで、この世の悪い奴らを捕まえるぞと、思った十八歳の銭谷だよ。」

「……。」

「事件は突然やってくるぜ。その場面を選んで生きることなど人間はできないだろう?自分の側で、判断の設計をしておく事が必要なんだ。」

金石の声が内耳に揺れている。



 老刑事はわたしを見ていた。

 わたしは、金石と飲んだバーカウンターの板を撫でるように、警視庁六階会議室の冷たいテーブルに掌を当てた。そのとき、ぞっとする考えが頭の中を回っていた。


(帰れなくなったーー。金石は実際にそうなっているのではないかーー。)


わたしは心の動揺を隠すように、湯呑みを灰皿がわりにして会議室では禁止のタバコに火をつけた。老刑事又兵衛が語るたびにフラッシュバックのように訪れる金石との記憶が、精神の裡に次々と不安定な状態を作る。その状態は一つの事実を暗然と物語っていた。この老刑事又兵衛の言うパラダイムとその外側との間に生じる不安定さなのである。そしてそれは金石の失踪ともーー帰れなくなるという言葉とも重なり合う。

 わたしの精神状態の壊滅を気にもせずに、又兵衛はじっとこちらを見つめたまま長弁舌を続けた。

「……戦前のそういう組織には当然、名前もなく、事務所も銀行口座もなかったんです。エスなどというのも巷で言われたM資金や黒い霧の議論と同じで、非関係者の外部の人間が名付けたに過ぎない。本当は名前なんかなかったのかもしれないです。元々は協力者同志の零細な連結で成り立っていたはずです。いや、見様見真似で、戦前の日本の諜報組織が持っていた隠密の手法を用いたのかもしれない。やりかたは、ある程度想像はできます。

 一例を挙げます。

 本格的な諜報組織というものは基本的に多くの参加者は「部分参加」になります。部分ですからつまり、参加する誰もが、作戦全体を知り得ない存在なのです。仮に暗殺が行われるならば、作業は「部分」に分解されます。目標に声をかける人間、親しくなる人間、毒を調合用意する人間、内容も知らずに運ぶ人間、毒とも知らずに飲み物を用意する人間、死体とも知らずに現場の後始末をする人間などは、全て自分の仕事しか知らない「部分」になっている。つまり、二、三十名の人間が、少しずつ「部分」を担当する、これが諜報組織の基本です。少し前にあった北朝鮮の話も、空港で毒を撒いた人間はそれが猛毒のサリンとは知りませんでした。悪戯と聞いて、その協力金で作業をしたのです。もちろん、そこに暗殺目標とする相手がいることさえ知らなかった。おそらくそれを頼んだ人間もその内容を正確には知らなかったでしょう。パズルのピースと同じで、せいぜい自分の隣接者に関わることができる程度です。全体がどういう絵画になっているのかは知る由もないのです。

 なぜこういう面倒くさいことをするかと言えば、捜査一課の貴方には釈迦に説法かもしれません。そうすることで仮に誰かが敵に逮捕拿捕され裏切るとき、「組織」の被害は最小限になります。拿捕された人間は、拷問を受けても作戦の全体を知らないし、死体を埋めた人間は、その死体が死体になった理由さえ知らない。自分の遂行する部分作戦しか知らないので当然です。

 仮に誰かが捕まれば戦争の時代は当然に拷問となります。それこそ拷問のまま殺すことさえありますから、敵に捕まれば命を引き換えにする「亡命」や「組織」を売ることは想定せねばならない。堂々と国家同士が殺人をしあってる戦時に捕虜などになることが如何に恐ろしいことかは想像できるはずです。拷問の結果、情報を持っている人間からは漏洩が絶対に生じてしまいます。連絡網も、暗号も、全て筒抜けになり組織が壊滅させられかねない。なので、上記のように作業を分割し、命令者以外はこのパーティに誰が参加しているかも、何を成そうとしているのかも判らぬようにしたのが、第二次世界大戦の末期、一九四五年頃の常識ともいえます。もちろんそれから半世紀以上が過ぎ、更なる進化はしていると考えられますが。

 世の中の市井の市民が「そんなものは存在しない」と信じているのは日本くらいのことで、平和な国であればあるほど、諜報組織やそれに関連する出先機関、つまり明ん缶の下請け業者は溢れている。多くの日本人はアメリカのスパイ・エージェントはアメリカ人で、ロシアのそれはロシアの人間だと思い込んでいますが違います。下請け業者は、その国の人間です。つまり日本人がエージェントになります。ここでいう出先機関というのは日本人、日本の中でもありとあらゆる場所に存在しています。時には一般市民かもしれませんが、犯罪者だったり、反社会構成員だったりもするかもしれません。使えればなんでもいい。勿論諜報側としては、官僚や検察警察、政治家、大企業の役員のように権力に近ければ尚更よいはずです。ただ大切なのは日本に存在するどこの国のスパイも全て日本人だと言うことです。諜報組織とはそういうものです。

 彼らは例えば、道に金塊と紙切れを置き忘れるくらいのやり方で、命令を伝達したりもしたようです。伝言相手の名前も知らせぬ特殊な規則で連絡がされるなど、その方法は未だ判っていないのです。まあ、特に命令がなければ五年でも十年でも何もなく過ぎてしまうような組織なんだと思います。基本的に専業の人間はほとんど稀で、副業で行ってると思われます。

 ただ時代が過ぎても、過去にそのような緊迫した作業に関係した人間が、命懸けで記憶した手法や連絡の法則を忘れることは難しいはずです。よって必要な場面が来ればその時の連絡網はものの見事に復古するのは、当然と言えば当然でしょう。おおよそ、諜報員、スパイ、とはそういうものであるらしい。警察官とはまた違うものなのだと思われます。

 戦後、この特殊な「連絡網」は、目的を失いながら、ある形で続かざるを得なかったのだと小生は考えています。昭和史の黒い霧については触れませんが、特に勝共だとか中国や北朝鮮、冷戦時代に実はこの国は各国の諜報組織が入り乱れ存在した時代があるのは、様々な書物が説明している史実かとおもいます。その際に、この戦前から存在してきた秘密結社(エス)がある程度の利用価値を持ったのは、容易に想像ができます。それは喩えるなら、戦時中に軍事費で劇薬や生物兵器を研究してきた陸軍中野学校の人間らが戦後どういう場所に転籍していったかなどを見れば容易に想像できるものでしょう。」

又兵衛は一気にそこまで語ると、呼吸を整えた。

 わたしは表情を微妙にした。話半分で受け止めている、という顔をして斜めの方角の壁を見ていた。又兵衛老人の言葉は逐一、天現寺のParadisoのカウンターを思い返させた。あの一枚板のカウンター(木)を撫でながら聞いた言葉だ。金石が左手で氷を鳴らしながらバーボンをボトルごと飲み干す頃に吐いていた。

「分解されても存在しつづけられるものには、本当の強さがあるんです。」

「……。」

老刑事は話すことを決めた演劇中毒者のように、言葉を続けた。

「戦前には拷問などがあった。権力は拷問を行う。実際にさまざまな人間が殺された。連絡している仲間の名前や顔を知っていると、拷問が成立しそのせいで仲間を殺しかねない。だから家族にも友人にもそういう作業があることは言わなかった。結果として誰が組織構成員かもわからない、不思議な集まりになった。」

「……。」

「でもそれが理想だったのです。その分解された個々が、誠実に過去の命令手法を忘れず、全体を本人たちさえ知らないが故に成り立った。運んでいる金も、毒の理由も、命令されて運ぶ側の末端構成員が知る必要はないのですから。ただ、組織が恐ろしい組織だということだけはある程度は知っていた。だから命令に逆らったり逃げたりすることはできないと信じていた。本人たちも何が全体の目的かはわからずにやっている、そういう組織として、市井に残ってきた。」

「そこまでいくと、陰謀論だな。」

わたしは長弁舌に楯突くように冷たく言った。そのあたりで、一応わたしなりにわたしの所属する組織のパラダイムの限界を提示し、付き合いきれない、という顔を差し込んだ。金石でさえ酒抜きでそんなことは言わない。ましてやここは警視庁の六階である。

 その表情を見て、又兵衛はなぜか、逆に楽しそうに

「そうですね。陰謀論、そのものですね。」

と言ったが、怯むこともなく、

「一つだけ、昔とは違う重要なことがあるのですよ。」

「重要?」

「仮にです。もし本当に見えない組織が存在するならば、この今の時代にむしろ、価値を増しているのです。」

「増している?」

「だってそうでしょう。」

又兵衛はわたしの板の電話を机の上に指差した。

「銭谷さん。全てのインターネットはサーバーにつながり、物理的に監視が可能ですよね?これでは、隠密の諜報作業は溜まったものではない。電話も、メールも通貨の送金も、全て監視が可能な時代になりましたよね。実際に政府はそういう方向に、舵を切っている。」

だが、確かにその通りだ。サイバー捜査、街の中の監視カメラ、口座の電子化も含め、権力側の把握できる情報量は日々増えている。実際に警察権力もそれに便乗している。小板橋あたりが詳しいところだ。

「監視側は常に、犯罪の芽を摘むことができる。いや、監視をするものをさらに監視することさえできる。捜査技術が日々高度になっているのはご存知でしょう?」

足を使って聞き込み、張り込んだ昭和の時代は、遠くに去った。捜査の初動は、所持品、特にスマホとパソコンがどんな尾行よりも情報をくれるのは事実だ。最近では刑事より監視カメラが手柄を立てることが本当に増えた。

「デジタルは日進月歩ですよね、銭谷さん。」

「そうだな。だが、あなたのいう戦前からの組織とはどうつながる?そんなことは関係ないだろう。」

「大いにあるのですよ。」

老刑事は堂々と反論した。

「銭谷警部補。エスのネットワークは戦前からのオフラインですね。つまりデジタルデータにつながっていない。昨今では貴重になったインターネットの届かない空間を、大勢の元諜報員が相手も把握せずに連絡できるのです。金は現物で渡されます。命令にメールなどは使われません。道端で拾ったものを、道端で落とすだけの作業かもしれない。銭谷警部補、お分かりかと思います。オフラインは価値が高まっているのです。」

「オフライン、か。」

わたしはあえて素知らぬ、初耳のふりをした。現金で道端で云々までは金石は話したりまでしなかった。となれば、この老人のほうが、長くその組織を考えてきたのかもしれない。またオフラインという言葉で、もう一つ心の中でとある人物が引っかかったこともあったが黙って過ごさせた。

「指示者なる伝言の構造がある。メモだったり紙切れだったり、時に文庫本だったりする。」

又兵衛は昨夜と違った。酒の勢いではなく、話しながらわたしの前で、興奮を重ねているようにさえ思われた。わたしは何故かチャップリンの独裁者という映画を思い出した。話しながら世では陰謀と呼ばれるであろう論を回しながら、その言葉に勢いが出ていた。この言葉の勢いが、本当の彼なのだろう。そしてそれは金石の泥酔した節回しにどこか似ていた。

「銭谷警部補、あなたは金石とそういう会話もして、何かがあったのではないかと思っていたのですが。」

「……。」

「たとえばですが、この、エス、に興味を持っていると思われる人間がいたりもしたのです。」

「興味を持つ人間?金石以外に?」

「もう五年も前になりますが。そのことは金石から本当になかったのですか?」

わたしは、尚も曖昧に話していた。それはわたしの意固地というよりも、金石と又兵衛刑事の関係を又兵衛の側からしか聴けていないが故の配慮だった。石原の時と同じように、わたしは金石のことについて簡単に人に心を開けなかった。

「まあ、陰謀論と銭谷警部補に言われればそうですがね。この通り、そういう切り口を小生は随分昔から辿ってきましてね。職業病のようなものです。」

「昔から、ですか。」

「まあ、昭和というか、そもそも古い時代は今とは違って、清濁がいろんな場所でつながっていましたからね。この警視庁ビルの上層部だって、ヤクザものと繋がっていたし。政治家にもいろいろありました。」

「……。」

「小生は思うんです。そういう不都合な繋がりに、エスという名前のない組織が正しく機能するなら、これは便利だったのだろうと。その繋がりが、正しい人間同士の繋がりだったなら、わたしはそれもいいと思う。」

「それは意外ですね。陰謀の肯定ですか。」

「どうでしょうね。正しいことをするならなんだっていいんだ。でも、問題は、そうではなくなった時ですよ。組織の罪を隠したり、権力の犯罪そのものに秘密結社が利用されるようになると、恐ろしい。なぜって、戦争の時代でも生き延びる強い組織ですから。最初は正義のためにつくった連絡網が、気がつくと、誰からも見えない支配者のための通信網になっていくってことです。闇の始まりでしょう。」

「ブラックホールですか。」

「はい。ブラックホールの機能を、権力が使い始めた時が終わりの始まりです。」


 老刑事は、ある意味、話し尽くすことが目的だったのかもしれない。

 わたしは自分で継ぎ足した茶をごくりと飲んだ。金石のことを白状しない自分の申し訳なさを喉越しに当てていた。

「銭谷警部補。そこで、わたしの相談のことを思い出せますか?」

「相談。」

「昨日の、埼玉の捜査の件です。」

「埼玉?」

「はい。昨日申し上げたものです。身内で何故か加害をしあう、ヤクザの件です。」

壮大な昭和戦前から続く組織の話から、急に、小さな現実に戻される脱力感があった。わたしは押し黙ったが、老刑事又兵衛は少しも怯むことなく続けた。

「前置きが長くなって申し訳なかったですが説明させてください。今回の彼らの小競り合いには、エスにも関連しかねない、古い因果が絡んでいると思っているのです。」

「あの小競り合いに?」

わたしは少しこじつけのような言葉に非知的な表情で対した。

「銭谷警部補。もし仮に、このヤクザの小競り合いの話が、実は、過去の凶悪事件に関わっているとしたらどう思いますか?」

「凶悪事件?」

「既に解決済みにしている事件です。つまり、警視庁が解決済みにしているども、正しくは解決していない案件です。」

老刑事はすこし気になることを言った。解決済みにしている事件、という言葉が釣り針になってわたしの喉を掴む。それは、わたしには、真実を歪められた犠牲者がいるかもしれないと言う意味でもあり、この五年、太刀川と金石の残像に苦しんでいる構図と相似する。

「ーー過去の事件というのは。」

「ええ。過去の重大な事件です。」

「過去に?警視庁が処理している事件か?」

「失礼しました。あくまで本庁と言うよりも、A署の中では圧倒的にという意味ではありますが。ただ、世間様を騒がしたという意味では全国区の凶悪事件でした。」

「なぜそんな過去の凶悪事件と、今日のヤクザの小競り合いが関係を?」

わたしはわからないものは素直に説明を求めた。雲を掴むような諜報組織の話よりは実際の事件の方が質疑が耳には馴染む。

「小生が暴きたいのは、警察も含めた問題です。」

少し唐突にその言葉がやってきた。わたしは、老刑事のリスのような眼差しを凝視した。

「警察の?」

「はい。その問題に、警察内部の問題が関わっていたとしたら?つまり、このヤクザの痴話喧嘩は、痴話ではなく、原因が、日本全国を震撼させたような事件の問題に端を発していて、その問題とは警察が歪めて解決済みにしたとある事件であるとすると、銭谷警部補はどう思われますか?」

「説明がわからない。その事件に、警察側の問題が絡んでいる?」

「はい。」

老刑事は再び真っ黒く大きい瞳で見つめた。わたしは、沈黙した。重大な事件はその判決まで、全て頭に入っている。A署の周辺でというと、凶悪事件というだけで、わたしはいくつか既に思い当たっている。

「その凶悪な事件に、エスのような組織的な動きが絡む、ということなのか??」

「だいぶ古い事件ですがね。金石やあなたが警察官になる以前の事件です。わたしは、A署でずっとその組織を追いかけ続けていたのです。本業の合間にです。あなたと同じように。解決済みにされてしまった、真実に蓋をされてしまったものをです。」

「わたしとおなじ?」

わたしは少し呼吸を止めて又兵衛を見た。

「ええ。太刀川の件を、権限を失っても、自分の時間を独自に使って追いかけている。」

「なぜそれを」

「顔を見れば分かります。」

「顔?」

「刑事の顔を、ずっと見続けてきましたから。」

年老いた刑事は照れくさそうに言った。

「金石と話したのを思い出したくらいですよ。」

用意した話を尽くしたのか、老刑事は少し満足気にそう言った。

 わたしはたまらず反駁した。

「又兵衛さん。いいですか?金石の話をしたいのなら、無理だ。わたしは奴から捨てられた側だ。期待されても困る。それに。」

「それに。」

わたしは自分が、現在置かれている立場をそこで言いそうになっていた。何故か、この老人との距離が近づいている。しかしそのわたしの脳内の混乱を遮るかのように、老刑事が先に

「銭谷さん。小生は横領とかいう濡れ衣で懲戒解雇になるのですよ。ご存知でしょう。刑事に尽くしてきた人生の最後がこれです。」

「……。」

「今回の捜査は刑事人生の集大成です。小生は修めたいのです。刑事人生をね。ですが、そう力んでいましたせいか、どこかでA署の幹部に幾つかのことを把握されてしまいましてね。若い警官で手伝ってくれる候補はいたんですが。」

「……。」

「結局、組織のやることは人事ってことですよ。人事が権力なんです。金石もそうだったでしょう。」

金石は自分の人事を把握して去った、とわたしは考えている。そういう意味では懲罰人事も見越して動いていたはずだ。

「現在の小生の立場はA署には迷惑極まりない。なぜなら小生が捜査を続けて開示するのは、A署では最も恥ずかしい黒い歴史になるからです。ブラックホールの闇に消し去ろうとしていたものを、暴こうとしているのです。昭和を象徴するようなあの事件で、警察がヤクザに加担していたなどはあってはならないはずです。」

「……。」

「残念ながら、もはやA署内に小生は頼れる人間はいません。」

わたしはそこから長い間沈黙した。無言を誤魔化すように、茶を組み直したり、火のついていないタバコを指で鉛筆のようにわたしはいじった。そうして、やはり太刀川の座ったパイプ椅子に又兵衛が座っていることを象徴のようにながめていた。

「銭谷警部補。いや銭谷さん。わたしはあなたに少しだけ、頼みたいんです。」

長い沈黙の後突然、老人はそう言ってわたしの手を掴んだ。かさついた老人の手が、表面だけ汗ばんでじっと、爬虫類に触れた遠い記憶を思い出した。

「一日だけで、いや半日でもいい。」

 強い握手だった。 

 刑事になったあの頃に未だわたしが正しく持っていた、仕事への夢のようなものが、<手のひらから>戻ってくるようだった。そんな夢を、この老刑事は四十年以上持ち続け、そして、上層部の策略かもしれない懲戒をうけても、刑事の仕事を===世の中の罪を暴くという仕事を諦めずにいる。誰か個人を恨んだりする様子もなく、ただ、刑事の初心の夢に忠実に生きている。

 きっと老人は周囲の誰にも話したことは無かったのだろう。A署での是永の話にもその領域は一度も出なかった。彼は自分の作業を誰にも話してこなかったのだ。

 その構造は、この五年の間わたしが殆どのことを人に話さずに太刀川を追いかけているのと酷似していた。しかし彼は三十年。わたしはまだ五年だった。

「どういう作業があるのだろうか?」

「どういう?」

「又兵衛さん。委細は、別として、わたしが捜査に協力をするとしたら、どういう作業があるのだろうか?」

わたしがこれまでの氷の顔面を割って、言葉を出したとき、老刑事はゆっくりとそれを黒黒と潤んだ瞳で見つめた。

「ありがとうございますーー。」

「……。」

「いえ、なに、簡単です。何もいりません。もう手配は整えていますから。すこしだけ、わたしにお付き合いいただければそれで終わりです。」

「よくわからないが、わたしの時間を使いたいというなら、それは構わない。ご存知かもしれないが、いまわたしは事情があって時間がある。ちなみにいつからですか?」

「それでは、今日この後、いかがでしょう?」

「今日?」

再び、老刑事はわたしを黒目で見つめた。

「さっそくですね。」

「はい。急かすようですいません。何か新しい事件が起きて、銭谷警部補がお忙しくなってしまう前に、と思っていまして。」

わたしはその時ニコチンが切れていたにも関わらず、煙草のことを思い出さなかった。



百六一 墓参  (御園生探偵) 


 軽井澤さんは米田さんに風間と守谷の戸籍を調べさせていた。

 米田さんは軽井澤さんの前職の頃からの付き合いで、さまざまな場面で軽井澤さんをサポートしている。そして今回のような本当に困った状態で頼むのは米田さんなのだと思う。そういう相談は僕には来ない。少し悔しいと思った。でも十年を超えるような仕事の関係というのが僕にはまだ想像がつかない。ひとつひとつの仕事で積み上げていくしかないのかもしれない。

 尾行の二日目と言っても江戸島と言う名前と出会ってまだ三十六時間程しか経っていない。僕は少なくとも昨日より冴えた頭でマツダのキャロルを二重橋に停車させ、パソコン仕事を運転席でこなしながら、江戸島の社用車が地下から出てくるのを待った。銀座でさえ車で行くのだから、どこにいくにもこの出口からくるのではないかと思った。

 夕方も五時をすぎる手前、昨日と同じ一際目立つ役員社(リンカーン)が社用口から出てきた。

 役員車は銀座方面には向かわなかった。皇居から青山通りに入るとなぜか、外苑の銀杏並木を超えたあたりで突然車を停めた。オリンピックのスタジアムは近いけども、辺りには料亭も無さそうな場所だ。車を降り、江戸島は運転手らしき人に手を振っていた。どうやら役員車(リンカーン)を帰してしまったようだった。

 歩き出した江戸島会長は、角を曲がると消防署通りの方に入った。その先は、軽井澤探偵通信社の方角である。と言っても都内の一等地に広大に広がる青山墓地の方角というだけで、我々の事務所のある南のはずれの崖下まで江戸島が歩くとは思えなかったが。

 僕はコインパーキングを探しながら社用車(キャロル)を徐行させ、遠目に追いかけた。江戸島会長は料亭に向かうのではなく、青山墓地の入り口の事務所で花を買っていた。墓参なのだ、と思った。確か昨日調べたが、彼は、秋田の出身である。こんな都内の一等地に代々の墓でもあるのだろうか。花束は立派だった。

 僕は車を消防署近くの路肩に止めて遠目に江戸島会長を追いかけた。彼が墓参したのは、墓地の管理事務所から東側に歩いた区画で、大久保利通の墓所の少し先だった。そのあたりは樹木が少なく遠目にも見渡せた。僕は通行人が偶然に立ち止まったふりをして、墓作業をする彼を遠目に視界に置いていた。江戸島会長はその場所に蹲るようにして比較的長い時間手を合わせていた。

 しばらくして江戸島会長は立ち上がった。そのまま青山墓地に無数にある出口の一つを使って墓地を青山デニーズの側に出ると、手を挙げた。停まったのはリンカーンではない街のタクシーだった。あっ、と思った。何故役員車があるのにわざわざ、タクシーを使うのか?昨夜の不思議な折り返しが脳裏によぎる。僕はキャロルの方角に戻ることを諦めて、急いで江戸島と同じデニーズの通りに出てタクシーに手を上げた。一人での尾行には限界があると思ったが、運良く空車のタクシーが連続してやってきた。江戸島を乗せた車を一瞬見失ったけれども、幸運なことに墓地の南端の米軍基地の前の信号で真後ろに追いついた。後部座席に立派な江戸島の白髪があった。

 江戸島会長を乗せたタクシーは、西麻布から天現寺を抜けて、目黒方面へと走った。僕はタクシーの座席になるべく重心を下げて顔が見えないようにさせながら、前の車を目で追った。



百六二 埼玉八潮(石原里見巡査)


 八潮の駅を降りた太刀川は、住宅街をほぼ迷うことなく歩き、駅からさほど遠くないその家に入った。少し世代の古い宅地で、昭和のころの街だった。いくつかの家は新しく改装されたり新築されたりしていた。太刀川の入った家の前を、変装したままの石原里美巡査が通り過ぎた。表札だけ目で読み取った。

 川田木という表札が読めた。なにか慈善事業をする企業や中規模の団体が存在するような家ではなかった。平凡などこにでもある家に思えた。太刀川の知人や関係者の家なのだろうか。太刀川は福島の出身だが、親戚でもない限りこの埼玉の住宅街は違和感があるように思えた。

 石原はしばらく歩いてから、道に迷った小さな芝居をして、川田木という表札の掲げられたその家を再度確かめて、通り過ぎた。そうしてブロック一つ離れてから、辺りの地図を確認し、少し離れたあたりで別の家の呼び鈴を押した。閑静な住宅街だが、少し高齢化が進み始めている印象の家並みだった。

「簡単なフィールドワークを行なっていまして。」

石原が挨拶したのは、典型的な六〇過ぎの女性だった。

「フィールド?なんですかね。それは。」

「まあ、国勢調査の一種と思っていただければと思います。」

「へー。そんなのあるんですか。今まで経験は無いですけども。」

「はい。ランダムに住所に宛てておこなっています。視聴率調査と一緒ですね。あれも本当になかなかやったことがあるという人も少ない。」

警視庁と言う言葉は強すぎる。また、ここは厳密に言えば埼玉県警の管轄でもある。本当のことを言えばややこしい。

「民間の調査か、なにかなのかしら。」

もちろん知りたい事は、太刀川の入ったへ表札の家が、この辺りでどんな存在なのか、であるが、いきなり直接それを聞く事はおかしい。

 目の前の主婦は少し怪しいものを見る表情だった。同じ女性同士の邂逅がないなとおもったが、石原は自分自身が中年の眉の濃い男の格好をしていると言うことを少し忘れていた。

「はい、そうですね。まあ、皆まで申し上げますと、実は、探偵調査でして。」

「へえ。」

R0224の影響で用意した、簡単な名刺を石原は差し出した。こういう名刺を持つことで安心感が増すのであるが、実際に役に立つとまでは予想しなかった。自分の人格を徹底的に設計せよ、か。

「ご存じないかもしれませんが、都内で探偵をしています。」

「へえ。都内で。」

「はい。実は、この二丁目の界隈全体を調べております。理由はと言うと、資産家というか、旬の金持ちというのはまぁ嫉妬深いかたが多いのですが、この界隈の女性との不貞関係を調べておりまして。」

不貞という言葉を石原は、意図的に置いた。ほとんどの人間が不貞や不倫という言葉の響きには立ち止まる、というのは本当だった。

「本当ですか。」

「ええ。嘘を言いに埼玉まで来ませんよ。」

「まあそうね。この界隈はもう古いので、若い女性はあまり住んでませんけどもね。若い女性はわたし知りませんのよ。」

「いえいえ。年齢と言うのはいつになってもわからないものです。不貞というか、そういう熱情には、むしろ驚いてしまうようなことが多いものですよ。」

「この二丁目十五番地で、でですか。」

石原は、主婦が前向のめりになるのを感じた。

「はい。二丁目で調べてるんですが、まぁレポートは無記名で、もちろん依頼者以外誰にも見せないものですので、自由に話していただければと思います。」

そう言って石原は説明のタイミングで商品券を取り出した。こういうときのために常に取材協力の経費を用意してはいる。これは捜査一課の経費である。

「まあ、でも、そもそも女性はこのブロックだと、みんな高齢で介護に通ったり寝たきりだったりですよ。元気にしているのは私のとこと、山田さんでしょ、あとは、川田木さんのとこもはさすがに良い御年ですから、不倫のイメージなんて全然。」

しめたとおもった。向こうから言葉を晒してくれた。

「まあ、探偵と言うのも世知辛い商売でして、レポート並べれば経費をもらえるものだったりもしますので。気にせずにお願いします。不貞関係に竿を指したいのではなく、レポートを作るためだけですので。」

「なるほど。」

「その山田さんや川田木さんについてでもいいのでぜひ教えていただけないでしょうか。」

「いや、どうですかね。山田さんに会えばわかると思いますけど、その方向は完全にないというか。もうお年ですし、そんな感じはないですね。まあそうです。川田木さん、川に田んぼのたの川田木さんは綺麗にしてらっしゃるけど、でも、もう不倫なんて全く考えづらいよなおうちですけどね。子供みんな東大に合格して近所でも自慢のママさんでしたから。」

「全員東大ですか?」

ふと太刀川の経歴のことを思い出した。東大在学中に起業したのがパラダイム社ではなかったか。子供たちは同級生とかそういうことがあったりするのだろうか、と思いながら

「川田木さんはおいくつくらい、いや、そのお子様はおいくつくらいなのでしょうか?」

「三兄弟ですか?」

「ええ。」

「そうですね、大学がみんな東大だなんて、この辺りじゃあ珍しくで、そんな話題をしていたのは、もう一昔前ですからね。今はもう五十ちかく、とかになっているんですかね。弟さん二人は出世して弁護士と、官公庁にお勤めだったと思いましたけどね。」

嫉妬深そうな主婦は他にすることも話すこともないのか、玄関で茶も出さずに立ち話を続けた。

「ああ、そういう年代ですね。」

石原は、太刀川と同世代かもしれないという勝手な想像を止めた。五十代と三十代では、さすがに関連は考えにくい。

「川田木さんがそんなことするかなあ。まぁあの家も大変だったりするから、いろいろあるのかなあ」

「たいへん?」

「ええ」

「そんな自慢の息子が三人も東大に行ってたらお母さんは幸せでしょうに。」

ふと石原は警視庁にもいる東大法学部出身のキャリア官僚を思い出した。雲上人の人間である。早乙女捜査一課長のさらに上に、若くしてやってくる、我々とはほとんど関係のないような、遠い存在が、東大という言葉の響きと重なった。

「まあ、いろいろわからないものですよね。」

主婦は少し会話に引き出しをつけた。よほど暇らしい。

「実は弟さん二人は良いのですが、その長男が、ずっと寝たきりなんですのよ。」

「ねたきり?」

「植物人間って今は言っちゃいけないんですかね。脳死ともいうんですかね。」

「脳死。」

「ええ。もう人間は死んでいるのに、身体だけ呼吸したり心臓が動いたりはするんですよ。ほら、だから、例えば、臓器移植とかして、若い子供が助かったりするでしょう?」

「臓器、ああ、心臓とかの。」

「そうです。そのドナーになる人ですね。脳死していると、そういう世の中の役に立つ可能性なんかがあるとかで」

「なるほど。」

「東大に受かった人の心臓ですからね。わたしもどうせもらうならそういうのがいいですけど」

「そういう心臓を渡すんですか?」

石原はさほど興味が薄れつつも、他に周辺に手段もないため、適当な質問を繰り返した。そうやって主婦との会話をしながら、別のこと、太刀川が、何故こんな場所にわざわざくるのだろうかを考えていた。つくばエクスプレスにはほとんど人がいなかった。都内を回りがちな太刀川にしては埼玉は少し違和感がある。それは銭谷警部補と話した内容である。彼も違和感を言っていた。だが今日、川田木という表札の家に入ったのは間違いない。

「それがあの人のところは、なんだか、そういう臓器うんぬんは絶対にしないって、話です。まあそうですよね。まだ死んだわけでもない子供の心臓を止めるなんてね。で、病院にも置いておけなくて、自宅で面倒を見てらっしゃるんです。」

「寝たきりなのですか。」

「そうです。もう、三十年前かなぁ。素敵なハンサムでね。三人の長男で、スポーツマンで、現役で東大に受かってすごいってみんなで言ってた矢先に事故になっちゃってね。まぁ弟さん二人が頑張ってお兄さんの分までおんなじ東大に行って、弁護士になってもう一人は官公庁にお勤めですから、よかったんだけど。」

「なんでまた。」

「まぁちょっと私も詳しくは知らないんですけど、誰かに殴られたのか何かいろいろあったんだと思うんですが、当時の不良ですかまぁそういう時代だったんで。」

「……。」

「なのであの家のお母さんが不倫なんて言う事はない気がするんですけどね。旦那さんは建築関係のお仕事しててもうやめたのかな、夫婦とも仲もいいです。寝たきりの子と自慢の子供たちとで、お忙しいですからね。旦那さんもお仕事一筋で真面目な方で仲の良い夫婦ですよ。」

「なるほど、ちなみにその、親戚付き合いとかはいかがですかね。」

「親戚?」

「ええ。その例えば福島の方で親戚があるとか。」

石原はあえて太刀川の出身を会話に絡めた。

「福島?なぜですか?」

「いえ、その。」

「……。」

「その、不貞の相手方の都合でして、守秘義務ですが。」

「なるほど。そうですか。川田木さんの出身は関西の方でした。ご夫婦で学生時代からのお付き合いだとか。福島県という話は聞いたことがないです。関西から親戚の方が昔見えたことがあったようなことはあったと思います。」

「なるほど。」

「いずれにせよ、夫婦とも素晴らしいお方ですよ、わたしがいうのもなんですが、なので、二丁目で不貞だとすると、山田さんなのですかねえ。」

「ああ。山田さんは、もう大丈夫ですよ。」

石原は商品券を封筒に入れ、老主婦に渡した。

「え、もういいんですか。」

「まあ、我々はレポートできれば助かるのですよ。今日のお話でかなり進捗できました。いろいろ情報いただきましたから十分です。ありがとうございます。」

石原は主婦との会話をしながら、川田木と言う家に入って行った太刀川の背中を思い出していた。三人の息子を東大に入れた母親。ごく平凡な教育家庭。その家に、わざわざ複数回通っている太刀川。

(あるとしたら、慈善の話になる、ということだろうか。でも、ほんとうに慈善事業なの、だろうか。)

寝たきりの息子を介護している、と言う。無理やりこじつければ、例の慈善団体の作業の一環といえなくもない。が、石原には太刀川という人間とこの埼玉の住宅地がどうしても重ならないままだった。

「なにか役に立ちましたかね。」

老主婦は、じっと石原を見ていた。

「もちろんです。」

「それと。」

「はい?」

「今時って、おとこのひとも眉毛を描くんですかね?」

「え、これですか?」

「いや、その少し気になって。」

主婦は、まんじりと石原を見た。



百六三 反社行脚(銭谷警部補)


 A署の方面へ向かう千代田線で又兵衛とわたしは無言だった。

 少し前、警視庁の六階で又兵衛刑事がわたしに語ったことを整理していた。


①過去の事件が発端でA署の所轄内の暴力団界隈で、何かが起こっているらしい。


②警察と反社会組織の癒着の問題が存在してきた、と又兵衛は考えている。


③古くからの諜報組織について又兵衛は研究があり金石と近い考えを持つ。




 地下鉄の中、又兵衛の隣の席でわたしは、A署の関連する事件を五十年以上昔から順に辿っていた。

 脳裏に一つの事件を想定しつつあった。

 A署の管轄で起きた事件といえば、その事件を想定してしまうような、嫌な事件である。無論ほとんどの解決済み事件がそうであるように、その事件もすでに時の彼方にある。そもそも又兵衛の指摘するような❷の警察不祥事や❸の諜報組織の類がその事件に絡んでいる気はしない。

 地下鉄の座席に腰掛け、又兵衛は、ほとんど目を瞑っていた。あの動物のような瞳を閉じると、見た目はどこにでもいる老人だった。刑事は歳をとりやすいという言葉をわたしは思い出した。苦労が多かった人生なのだろう。

 西日暮里から北千住を過ぎ、地下鉄がすっと角度をあげて地上に出たところで、突然又兵衛は立ち上がった。次は綾瀬駅で、既にA署の管轄だった。

 綾瀬駅を降りると、特に迷うこともなく、歩き始めた。

 又兵衛老人の脳裏には、所轄の暴力団事務所の住所が入っているらしい。

 わたしは無言で又兵衛についていった。まだ若い刑事の頃、先輩について足で稼いだ時代を思い出した。速過ぎず、遅過ぎず、淡々と足をすすめる。又兵衛は、よく歩いている刑事の足だった。先を急ぐ一定の速度が理想的だった。綾瀬は駅前すぐから住宅が始まる。最初の事務所は、綾瀬川の方に徒歩十分ほど歩いた川近くだった。見上げるような土手から一筋入った何隔てない普通の住宅地に、少し異風に歌舞いた黒塗りの家があった。

 臆することもなく、老刑事はドアを叩いた。

「警視庁です。」

しばらくすると、中からわかりやすいその道の若者が出てきた。

「またあんたか?ちゃんとA署の中でも担当を通してもらいたいな。」

「今日は、少し違います。いつもと。」

「なにい?」

「警視庁のね、本丸の刑事さんもきてもらっていますから。」

「どういうことだ?」

「本丸の霞ヶ関が動いているということですよ。みなさんの身内の私刑の騒ぎについてです。」

「何がだ?」

「なんでもいいんですよ。とにかく茶でも飲ませてください。」

そう言って老刑事はにっこりと笑った。それはなぜか年長のものが街の後輩に優しく微笑みかける様子にも思われた。目尻の皺が深かった。

 又兵衛は端的だった。

「もう一度改めてお尋ねします。こういう写真が警察宛に送られてきている。心当たりはないでしょうか?」

と、彼らの身内の私刑の写真を見せるのである。写真は典型的なリンチの現場で、瀕死の重傷を追った人間の写真である。見るものが見ればこの看板ーーK組の構成員であることはわかるのだろう。決して末端の若者の写真でもなかった。むしろ傷ついているのは高齢のベテラン組員が多い印象だった。

 本来であればそんな写真は警察までは出回らない。もっといえばそんな写真などは撮らないし、抗争や縄張り争いならこんな手順を踏まずに殺すことの方が多いはずだ。それがわざわざ写真にして出回り、挙句、警視庁にまで送られてきている、と言うのが又兵衛老刑事の説明である。K組の人間も、身内の人間が重症を負っている写真なのもあり、一定の興味は持ちながら、何故か表情を曖昧にした印象で、この老刑事を避けている。

「これがA署だけならいいけどですね、こちらの霞ヶ関の本庁にまで届いておると言うんです。それは警察組織としても、少し話が違って参りますから」

と説明を加えた。なるほどーー。

 <わかりやすい>役者を一人置いたということだ。

 すでにA署の正規の組織対策担当者ではない又兵衛が、本庁の論理を使う。こうすれば組織の縦割りで、裏どりを行うことが難しい。少なくともA署の中だけの処理がしづらくなる。そういういくつかの設計を感じる。

「どうですかね。こんな写真を警察に届けるというのは、みなさんらしくないですよね。」

「わかんねえなあ。」

「わからなくはないでしょう。」

「何とでも言えよ。…今はみんな出払ってるんで。」

昨今の暴対法のせいか、恫喝をしてくるようなことはなかった。ひと昔前であれは、こんな訪問でも、気が狂うような罵声を浴びせて息を撒く若手組員がいたものである。近年は、彼らは、ただ、難しい視線で、殺意かどうか判りにくい視線を漂わせるのみである。

「いかがですかね?心当たりや聞いた話でも良いんです。」

「知らねえなあ。」

「あと、前も申し上げたあの件はどうですか?」

「あの件?」

「葉書ですよ。何だか、不思議な葉書が出回ってるとかいう。この事務所にも来ませんでしたかね。」

「葉書?」

「この界隈の組員の中で、そういう噂があると聞いているんですが。」

「知りませんね。」

暴力団構成員の若い男は本当に知らないのか、威勢を張りたいだけなのか、壁のような顔でそう言った。上層部から言葉を禁じられているのかもしれない。茫漠とした殺意か単純な威勢なのか判りずらい表情を我々に投げ返していた。若者の顔面をぼんやりと眺めつつ、わたしは葉書という唐突な言語がそこに置かれたのが気になった。

 一つ目の事務所はそれで終わりだったが、基本的に何か明確に目に見える成果があるわけではなかった。

 ただ、川沿いを歩いて北上して入った次の事務所でも、又兵衛刑事は同じ会話を繰り返した。ほとんどが同じ会話である。

 事務所は小さな家であることが多かった。K組の関連事務所だけを、繋ぐように老刑事は歩いた。次第に綾瀬駅からはだいぶ距離が離れた。綾瀬川沿いを北上して民家の太刀並みの間の細い道を歩いた。河川が多くそれを守る土手が多い。その土手より低い家がほとんどだった。我々は徒歩でいくつかの橋を渡った。

「あの先から、埼玉ですね。」

「もう、こんなすぐですか。」

「入り組んでいてね。川の湾曲に合わせて、県との境があるのでね。」

そう言って、少し高台になる綾瀬川の堤防に立ちながら、老刑事はじっと埼玉の方角を眺めた。


図X 地図X


 我々は県境を越えて、埼玉県の八潮とか三郷、という地域に入っていた。ある一定の間隔を持って、K組の事務所は存在した。埼玉にも多い彼らの事務所を順に扉を叩いた。どこも、似たような風情の人間がそこにいて、似たような眼差しで又兵衛の話を形だけ聞いた。

 最初の綾瀬川沿いの事務所から数えて、五箇所目だっただろうか。

 又兵衛が例によって写真を見せたり説明を始めようとする時に、相手の男が少し違和感のある強さで遮って

「まあいいや。シノゴのはうるせえからさ、まとめるとあなた、何を調べてるんですか?」

と、前のめりに聞いてきた。

 その声と表情は明らかに殺意が丸出しだった。

 どうやら、K組の中でも情報が回ったらしい、とわたしは感じた。声と空気が変わっているのは幹部からある程度の指示が出ている証拠だろう。

 その組員の左手は指が根元からふたつ欠けていた。

 又兵衛は臆さなかった。

「小生もこの通り、刑事を長くやってますがね、なぜか、あまり、みなさんが、落ち着きがないので気になるのですよ。プロの皆さんが身内で私刑なんてのが、ポリスにまで出回ってたりしてね。天下のK組さんが、みっともないじゃないですか。」

「あなたにとやかく言われる事じゃないでしょう。知らんもんは知らんからね。」

「上の人はいますか?」

「なんのことですか?」

「ええ。カシラでも、組長でもいいですよ。」

薬指と、小指のない男は殺意のある目で無言に睨み返した。しかし老刑事は全く怯まない。彼らと同じような、いやそれ以上の覚悟さえ感じさせられた。しかし、指のない男の目の中に一瞬間、殺意が宿ったのは確かだった。

 危険な橋を渡っている。それはわたしにも判った。

「A署には定期的に、ぼくらもお参りさせてもらってるつもりですがね。あんたとは違って、正規の暴力団担当の方にね。」

指を欠損した男は言った。

「そうでしょうね。わたしはもうマルボウではないのでね。いまどきの御作法が判らずでして。まあおそらくあなたたちとよく話し合っているマルボウ担当は、今回のようなことには触れないでしょうけどね。一見、小市民に関係がないことに見えますからね。」

「……。」

又兵衛は、A署では暴力団の正規の担当ではない。ある意味警察組織にも無許可で事務所回りをしているのだ。これが正規軍ではないと理解すると、彼らは堂々と暴力を振るう可能性が高まる。しかしそのことさえ恐れず織り込み済みだという態度を又兵衛は取った。

「とにかく話ができるように対処頂けますと、助かります。これ以上こんな空気が続くのは、あなた方の中では、課題でしょうから。」

おやと、わたしは思った。なぜかその時、わたしは又兵衛が、暴力団の人間たちが身内で私刑を行う理由を知っているように感じた。

 薬指と小指のない男はそこから無言になった。睨み返しながら何かを考えているようにも見えた。思えば、この時に一定の判断がされたのかもしれない。もしくはこの老刑事の絶対的にも感じられる覚悟を彼らが少し恐れたのかもしれない。

 その後も、老刑事とわたしはK組の事務所を回った。

 わたしは、老人の横で次々に現れる反社会の人間たちの様々な顔面を眺めているばかりだった。そのほとんどは、幸せそうではない、わたしのように疲れた顔をしたヤクザだった。

 五箇所目、左手の指が二本ない男のいた事務所の後からは、明らかに組織の上層部が、我々のような訪問者が来ることに対し、なんらかの指示を出した様子があった。わたしがそう思ったところで、又兵衛刑事もおなじことを感じたようだった。

「銭谷警部補、そろそろ、と思います。」

「そろそろ?」

「ええ。少し奴らも状況を変えてきたのはご理解あると思いますが」

「そうですね、少し様子が変わっていましたね。」

「まあ、そうです。」

「ちょっと危険かもですね。」

「いや、わたしは老人ですから大丈夫というか、気になさらないでください。もういいんですから。しかし、あなたは未来ある人ですから。」

「僕のことなんて、彼らはわからないでしょう。」

「いいえ。撮影していたと思います。今のとこは。」

「今の?」

「首検分をはじめています。A署に確認が入ったかもしれない。」

「A署に写真がいっても、わたしとは判らないですよ。まあわたしも、別に何も守るものもないですから。」

わたしは素直に本音が出た。

「いえいえ。そういうわけにはいかない。なんだか、警視庁の大切な人間を、わたしが暇を見つけて利用してしまいました。」

「大切ではない。」

「いえ。ちょっと反省もありますが、もう十分です。お陰様で、 賽は振られたように思います。明らかにね。」

「賽がふられた?」

「ええ。」

わたしは、いまだ、この老人が何を狙っているのかが判らなかった。だが、そのことをあえて訊くこともしなかった。そのこと以上に、明らかに表情と態度を変え始めたK組の様子を危険に感じた。そしてその危険をむしろ前進のように感じている老刑事の興奮が、理解の枠を超えていた。



百六四 背後の男(赤髪女)


 波が埋立地の垂直な護岸を打っている。

 砂浜などなく、切り立った鋼鉄製の埠頭が、いかにも人工的に海を直線で裁断している。その上をカモメがゆっくりと舞っている。

 赤髪女は、昨日の夕方に誰かがいると思った場所に人がいないのを確認しながら、恐る恐る目的の場所に到着した。新木場の駅からここに向かうときも、幾度も後ろを振り返っている。尾行の対策は、あからさまにやる方が良い。

 昨日の場所からまた電信柱一つ海に近づいた場所だった。広大な敷地を使った工場があり、ミキサー車やトラックが往来する。住居はなく、人間の生活の臭いは一切ない。昨日の人影はこの光景の中で異質に思えた。遠目にも人間じみた生臭さを感じたのだ。

 赤髪女は指示者の指定した電信柱の足元近くにうずくまり、昨日、一昨日と同じようにその封筒を貼ると、周囲を見ずに立ち上がった。そのまま駅まで歩く道を戻ろうとしたときだったーー。

 何かが赤髪女を後ろ手でつかんだ。暗い声が背後で、

「前を向いたままだ。」

「……。」

「振り返れば命の保証はない」

ヘリウムの声ではなかった。全身を戦慄が走る。赤髪女は常に、後ろを気にして歩いてきたはずだ。今日はむしろ、誰かに尾行されている気はしなかった。まるで存在を消してきた幽霊が今ここで人間になったような気がした。それくらい非常に高度な尾行の能力を持っていることになる。恐怖が襲った。

「そうだ。黙って答えれば何も起こらない。いくつか聞きたいことがあるが、良いか?」

その声は、赤髪女が一度も聞いたことのない声だった。冷たく暗い声だった。

「……。」

「正しいときだけ、ゆっくり頷いてもらいたい。」

「……。」

「よくわからない金を届けに行く理由を把握してるか?」

女は首を振った。

「正しいときだけだ。筋肉を使うな。正しい時にゆっくり頷くだけでいい」

「届けている相手を詳しくは知らないな?」

女はゆっくりと頭を下げた。

「知らないのだな。」

 もう一度ゆっくり頭を下げた。

「……。」

 赤髪女は恐怖した。

 背中に人間を感じるが、熱がない。

 冷たい。

 ただ、上から抑えられる身長の高さを感じる。力は強いというより、なにか岩石のような不動感が強い。

「この数年間で幾度となく我々は貴殿に仕事を頼んできた。しかし、その最後の仕事はもう一年も前になる。そのことをご存知か?」

「!」

赤髪女はその言葉に動揺した。身体が硬直しそれは背後にいる男に伝わるほどだった。

「正解のようだな。どうやら今回は筋の違う仕事を受けていたようだな。」

たまらず、赤髪女は声を出した。

「どういうことですか?」

「声を出すな。自分を大切にしたほうがいい。」

「でも。」

「わかるだろう。」

赤髪女は全てを理解した気持ちになってゆっくりと、うなずいた。ゆっくりとうなずくことは、許されている。

 そうしてしばらく沈黙があったのに、背後の男がとても小さな声で

「我々は貴殿が他の仕事をしたりすることを特に気にはしない。そう伝言しておこう。」

「伝言。」

「いいか。大事なことはこれからだ。その仕事は一切、我々とは関係がない。今後どうするかは任せよう。しかし、我々の仕事と何らかの混同、ないし虚偽の作為を行った場合は、どうなるか覚悟はしてもらった方がいい。」

「……。」

「言ったことは理解したな?」

「つまり」

「仕事を混ぜるなということだ。気をつけることだな。」

赤髪女は、うなずいた。

「うむ。では、そのままだ。」

「……。」

「後ろを振り返ったり、今後、何かを逆算して調べれば、命の補償はない。」

「……。はい。」

「海の方角を向いてもらおう。」

「……。」

「そのままだ。今から、千まで数字を数えながら、ゆっくりとこの先の突き当たりまで歩いてもらおう。絶対にふりむかないことだ。振り向いた場合、別の人間が頭を撃ち抜く可能性がある。その人間のことも俺は知らないから、止めることはできない。」





百六五 綾瀬の家 (軽井澤新太) 


 綾瀬の駅から、下町風情の静かな土地を歩きました。

 古いその家は、誰かが暮らしている様子がほとんどありませんでした。もう陽も暮れかかるというのに灯はついておりませんでした。わたくしは幾度か呼び鈴を押しましたが家の中に流れる電子音が寂しく鳴るばかりでした。

 ふと女子学生がわたくしの横を通り過ぎて行きました。

「すいません。」

「……。」

「あのう、こちらのお家の方についてお聞きしたいのですが。」

「すいません。わたし、わからないです。」

学生は何のことかわからないという、態度です。その表情はわたくしの質問に対する純粋な対応でした。つまり、この家の持ち主のことについて、知らないのだと思われました。

 実際のところはそうなるはずです。もう遠い昔のことなのですから。

「すいません。ご近所の方でしょうか?」

わたくしは幾度となく、通行者に声をかけました。

「いえ、ちがいます。」

「失礼しました。突然呼び止めて、申し訳ございません。」

また別の学生が礼儀正しく去っていきました。人通りの少ない路地です。しばらくしてまた一人、これは少し妙齢の主婦が歩いてきたので、わたくしは声をかけました。あえて、明確に家の方を指しながら、行く手を遮るように、わたくしが声をかけたときです。主婦は突然、

「雑誌社かなにかの方ですか?」

と、言いながら立ち止まりました。

「いえ。雑誌?」

「その、また何か取材ですか?」

できれば関わりたくないのだというような空気をさせつつ、わたくしをじっと主婦は見つめています。買い物の帰りのビニール袋を左手で握っていました。

「いえ、取材などではございません。この家のことについてわかる事があればお聞きしたくて。」

「……。この家のこと、ですか」

主婦は冷たく目を細めました。

「もう知りません、わたくしは。」

「ご存知なことだけでも。」

「最近はこのとおり。なんにもないですよ。」

「最近は、ですか。この家に暮らしてる方についてはいかがですか?」

「本当にわからないです。申し訳ございません。」

最初に声をかけた学生は何も知らない様子でした。おそらく地元の古い人間ではないのでしょう。しかし、この主婦は違いました。何かを知っています。

「雑誌の方ではないのですか?」

「はい。」

「この家に人が出いりしたり、戻ってきてたりするのを見たりはされましたか。」

「わからないです。」

主婦はその後、わたくしに、<もうおやめなさい>、という眼差しを向けたように見えました。遠い昔の悲劇を雑誌記者の風情で集めることだとすれば、それは、そうなるのでしょう。主婦は明らかに昔からこの場所にいたことがあり、昭和の時代にこの周辺に関わったことがあったのでしょう。もう今更何も生まれないでしょうし、何も解決しませんよね、という言葉が聞こえたようにさえ思われました。しばらくの無言の観察の後、主婦は小さな会釈をして去っていきました。

 わたくしは日没し、誰も通らなくなった後も、その家の前でたたずみました。家には電気はつきませんでした。しかし、人が暮らしていないとも言い難い気がしました。ここに暮らしたはずの人間を確かめねばならないとおもっているのです。なぜならば、あの不気味な葉書はこの家にも投函されたかも知れないのですから。この家を本籍にしている人間宛に。

 外灯も疎(まばら)な古い住宅街でした。わたくしはひとり、張り込みの刑事のようにその家の前で時間を過ごしていました。







百六六 老刑事 (銭谷警部補) 


「又兵衛さん、ひとつ、いいですか?」

わたしは隣を歩きながら直感的に自分の思うことを彼に言わなければと思った。河川敷は海から内陸に向かう風が吹いていた。

「はい」

「わたしを見せ球に使いたかったと言うことですか。」

わたしはあえてそう言う言い方をした。無論、この作業でわたしが何かの影響を受けることに不満を言いたいのではない。

「銭谷警部補。失礼をしました。ただ、ご存知かとは思いますが、所轄の暴走を、本庁に問い合わせになることなどありません。また見せ球というつもりではない。わたしは、あなたに参加して欲しかった。それだけなのです。」

答えはぼんやりとしていた。そしてわたしの求める内容は違っている。

「又兵衛さん。わたしは、不満を言ってるのではない。」

「しかし」

「正義のためにわたしを使うのは、いつどんなときでも歓迎する。本庁の許可を取る必要もない。刑事がすべて結果の勝負である限り犯罪者の逮捕、真実の暴露に向かうことであれば手順などどうでもいい。少なくともわたしについてはそのとおりだ。」

「……。」

「ただ何らかの形で関わるのであれば、わたしはその仕事に対して意見を述べさせてもらうことにしているーー。又兵衛さん。わたしには今のあなたは無防備に見える。」

老刑事は、リスの瞳をさらに黒くしてわたしを見た。目尻の皺が笑っていないのに残っている。

「なるほど。やはり、無防備でしょうか。」

「悪く言えば無計画だ。いや、今日の日まで何年もかけてきた捜査なのであれば尚更と言う意味だ。」

わたしは老刑事の捨て身の作戦を指摘したーー。

「わたしはあなたが、ある戦術をとったのだと理解している。その戦術は、わたしの眼には命の取引に見えている。」

K組もおそらくここまで動けば黙ってはいない。いや、彼らの内部事情は詳しくは知らない。おそらくK組の過去に関わる何かがあり、それを様々な形でこの老刑事が揺さぶってきたのだろう。

「K組もある意味で命をかけて存在している。彼ら反社組織にとって苦しい時代だとかいうことを言いたいのではない。繰り返しだが犯罪があるなら絶対に許してはならない。そしてその犯罪はおそらくあなたが命で取引をするくらいだから、人の命にも関わるような重大事のはずだと、想像する。いま、綾瀬から埼玉の八潮にかけて歩き、あなたは彼らを怒らせ、彼らが何らかの作戦に出ることを企図している。つまり、このまま放っておくなら、情報をばら撒くぞと、いうことだ。

 罠を仕掛けたとも言える。もしかするとそういう罠で彼らが何らかの事件を起こす際にある隙を掴もうとしているのかもしれない。その罠の檻であなたが自分の命を囮にしている理由はわからない。もしかすると、あなたの情報をただ出版社に持っていっても黙殺される可能性をゼロにするため、一度彼らを鉄火場に引き摺り出したいということかもしれない。今の身内の私刑ではなく、小市民である例えばあなたを、攻撃するときに生じる、暴力団らしい不手際や隙を狙っているかもしれない。」

「……。」

「あなたは今日、たしかに、その情報について彼らが下手に動いて潰しにきた場合、A署だけでは収まらないぞ、警察の別班つまり霞ヶ関も動くぞ、という説明をした。そういうボタンを押した。間違っていますか?」

「いいえ、その通り。間違ってませんね。」

「わたしにはやはり、貴方が無防備に見える。」

わたしは静かに繰り返した。例えば途中の指のない男の表情が典型的だ。殺意で冷静さを欠いていた。上層部に間違った報告があがる可能性さえある。個別の構成員の人事やメンツも関わる。やつらは一般市民ではない。勘違いだけで暴挙に出ることもある。

「もちろん、あなたの長い刑事人生をかけた仕事にわたしは何か口を挟むことはない。ただ」

わたしは少し呼吸を整え、言葉の覚悟をしてから、

「喩える例が正しいかわからない。ただ、金石とわたしが陥ったようになって欲しくない。」

気がつくとその言葉を吐いていた。


「ご存知のとおり、わたしは金石と一緒に動いていた。また別の見えない闇というような、あなたが昨日言ったような相手を白天の下に引き摺り出そうと、似たようなことをしていた。しかし、我々は甘かった。」

「……。」

「全て消されてしまった。客観的に見れば作戦の失敗ともいえる。相手の方が、何枚も上手だった。偶然そうなったという考えもあるかもしれないが、わたしはそうは思わない。金石は突然いなくなった。奴が逃げたとか誰かに攫われたとかはまあいい。ただ、揺るがぬ事実として、全てが止まってしまった。」

「……。」

「金石はなにひとつ残しませんでしたから。残してももう一人失踪者が出るだけで、まあ当然と言えば当然なのですが。ただ、そうなってからでは、遅いとも言える。」

「遅い。」

「ええ。そう思いませんか。巨きな闇に向かう限りは必ず、突然、そういう展開は覚悟しなければならない。聞いておけばよかったこと、残しておいてもらえればよかった証拠、文面、など、消えてしまうくらいならば、もっと別の会話もできたとおもう。」

又兵衛はじっとわたしを見つめたままだった。わたしはきっと恥ずかしい人に見せたくないブザマな顔をしていたはずだが構わず続けた。

「でも、あなたが暴こうとしている真実が巨大であるなら、事実を隠し消去したい人間は命を懸けて貴方に向かう。いや、権力者の常套手段として、命懸けの命令を受けた末端の人間があなたの失脚を画策してあらゆる場所に発生する。それがK組なのか、また違う何なのかは知らない。ただ、人間は自分の命や地位の有限であることを設計することは難しい。金石とわたしはそれができなかった。」

わたしはもう恥ずかしい気持ちは消えていた。

「ですから、最悪の事態を想定するべきだ。例えばあなたが一人で明日、死んでみつかったら、あなたが人生を捧げてきたおそらく膨大な作業実体に対し、わたしは何もできない。それではわたしは、今日という一日を永遠に後悔することになる。」

わたしはそう言って、老刑事を見つめ返した。明日死ぬ、という言葉をわたしが自然に使ったことを、老刑事は懐かしいもののように見ていた。そしてなぜか嬉しそうに

「こんな老人が死ぬ時なんて喩えは、もったいないですが。」

といって、少し久しぶりにタバコを取り出して美味しそうに飲んだ。しばらく互いに空を眺めたりして、静寂が訪れた。

「銭谷警部補。言われてみて、その通りかもしれないですね。いやあ、そうか。」

又兵衛は心が整ったような表情で続けた。

「ずっと一人だとね、頭が凝り固まってしまいがちです。全てはこの頭の中か、誰も読めないようなノートに書いてあるだけですが、そうですね、何かがあれば、そんなものは消えてしまうに違いない。」

「……。」

「銭谷さん、少しだけ、待てませんか。なにも全く準備も何もないわけではない。わたしも誰かに伝えたいと思っていたことも少しあるのです。もしよければそれをあなたに見てもらえないかと。」

「わたしに?」

「ええ。本庁のメールはだめですからね。たとえば私用の携帯電話などはお持ちですか?」

又兵衛はわたしがそれを持っているのを知ってるかのように言った。



「 捜査で得た情報を今知りたいとは言わない。いや、あえて言うならあなたは先ほど仰った諜報機関の例えの通り、その情報を言わないはずだ。命に関わる情報であるなら、仮にわたしが今日どこかで捕まり拷問をされた場合、問題が生じてしまう。あなたが人生をかけたかもしれない捜査がそれで全てが終わってしまう判断をあなたはしないと思う。」



百六七 倉庫街 (御園生探偵)


 江戸島会長を乗せたタクシーは、青山墓地から西麻布を抜け目黒から品川へと、更に南へと向かっている。高速には乗らずに下道をしばらく走った後に、羽田より少し手前で幹線道路を曲がると、町工場が金属臭を隠さない埋立地らしい工業地帯に入った。

 僕はタクシーの後部座席に体を埋めるようにして、少しずつ恐怖を覚えた。軽井澤さんの予感が当たったのかもしれない、とも思った。東証一部の会長が、社用車の運転手をわざわざ返してタクシーに乗り換えて向かうのが、会合の場所の空気のない、工業地帯なのだ。昨日の夜も、銀座の寿司店から会食の帰りに自宅のある代々木と逆の東京湾の方角に向かっていた。大田区は神奈川寄りで、昨日の有明方面とは東京湾を挟んで真逆だけれども、海や埋立地ということでは共通している。とすれば、江戸島会長は、昨日からもしかすると、不穏な行動を始めたのかもしれない。昨日からだとすると、我々の早朝の訪問が影を落としているという軽井澤さんの意見が信憑性を帯びている。葉書を見て表情が変わったという意見もそうだし、そもそも、見も知らぬ探偵社の朝のアポ依頼に対応したことからしておかしな話だったのを、僕は反芻していた。

 その時、僕ははっとした。

 タクシーが急に止まったのだ。僕は運転手に予め話したように、自然さを失わないようにそこを通り過ぎさせ最初の角を曲がって停めさせた。追い抜きながら見たとき、江戸島会長はタクシーを降りて、何か、小さな町工場のような場所で人に挨拶をしていた。


図X 東京湾の見取り図。大田区、港区、江東区

 


百六八 歓送迎会(石原里見巡査)   


 石原は虎ノ門の居酒屋に一時間以上遅れて到着した。

 参加者は十数名いたが誰もが既に酒を飲んで酔いが回っていた。テーブルには飲みかけたレモンサワーや日本酒が不揃いに置かれていた。それぞれの席で、それぞれが車座になって酒を酌み交わしていた。顔を赤くしてる人も何人もいた。典型的な警察官の飲み会だった。

「おお、石原。やっときたか。まぁ座れよ。」

と、小板橋が石原を見つけて自分の左手の座席を指した。

「おつかれ。ビールで良いか?」

テーブルには、捜査一課以外にも、交通課や警務など、別のフロアの人間もいた。小板橋はその一人一人を石原に紹介した。こういう会は巨大な組織においては貴重な懇親の場でもある。

「そうそう。まさに石原の話をしていたんだよ。」

「私のですか?」

「まぁ石原と言うよりかは、銭谷さんだけどな。」

石原里美は、はっとした。まさかこの一週間の動きの裏を取られたりしていると言うことだろうか、と思った。しかし小板橋は

「いや、この間、とある大物を取り調べした時の話だよ。ほら。あの少し手伝って貰おうとしてた、例の件。」

とだけ言って、少し酩酊感のある眼差しで石原の方を見た。

「ああ、Tですね。」

「そうそうT。まあ、なかなかあのままじゃ厳しいだろうというさ。なんていうかさ。」

小板橋が語り始めたのは先日の太刀川の追加の取り調べのことで、よくよく聞くと、捜査一課二係のエースである銭谷警部補に自分がこんなことまで言ってやったよ、という平凡な自慢話だった。

「まあ、若者なりに俺も思うところがあるって訳ですよ。銭谷警部補がかつてのエースなのは確かだけどな。伝説的な。」

小板橋は<かつての>、と付けるのを強調した。

「やり方はどんどん変わってきてるからね。あの取り調べじゃあ、なかなか進まんと思ったね。」

いくつかの言葉を石原は胸に飲み込んだ。銭谷はここには呼ばれてはいなかった。本人不在で話したい内容なのだ。

 居酒屋に集まった人間はみな、若かった。三十代前半の小板橋が最年長だろう。

「でもこれもまた極秘だけどさ、あの人は実は、問題を抱えてるんだよ。」

「問題?」

石原は知らぬふりをして、相槌した。

「ああ、早乙女課長がそれで苦労してるらしいんだ」

「捜査一課長が苦労している。」

「まあ、銭谷警部補も次の人事で終わりかもしれないんだ。」

石原はぼんやり聞いたが、むしろ他の人間の方が興味を持っていた。

「ええ?そうなんですか?上に行ける人だとおもうけどなあ。だって実績は申し分ないじゃないですか。警視総監表彰二回でしたっけ。三回かな。それにあの早乙女捜査一課長の元直属の部下ですよね。」

「それが、傾いてるって言うもっぱらの噂だよね。」

誰かがそう言ったときに、場はしんみりとした。

「まあ、警察官は、伸びる人の下につかないとだけどな。」

打算的な人事の話になっている。酔ったせいで、言葉が直球になっている。だれもが愚痴っぽくなっていたところで、小板橋が、

「なんかおれこの間、銭谷さんが、A署で首になった人間と、日比谷にいたのを見たんだ。」

「なんでA署なんてのを」

「ほら俺、そっちの出身で、その人は有名なんだよ」

小板橋がA署の出身であるのは、石原は聞いたことはなかった。

「ゆうめい?」

「公金横領さ」

「へえ」

「白髪で真っ白。太ってて背が低い。名物刑事だな、あの人も。それが公金を横領だなんてのは驚きだけど、なんでそんな人が、今更、警視庁の銭谷警部補と二人でいるのかね。」

小板橋は、銭谷警部補のことをやはり、あまりよく思っていないらしいが、石原には実力ある人間に対する男の嫉妬が混ざっているのを感じた。

「でも石原は銭谷警部補とはよく話してるよね?」

「え?」

「銭谷さんとなにかあるのか?」

小板橋の目は、真っ直ぐ石原を見た。

「なにもないです。どうして?」

「でも、俺が会議室を出た後、話してただろう。」

小板橋が言ってるのは、太刀川との面会の後のことだった。何かの匂いを感じてる様子ではある。石原は落ち着いた表情をしたまま、

「いや、特になにもないとおもいますが。」

「タバコ場で話すくらいか。」

「今タバコも辞めなければと思っているところです。」

「まさか男女の中ではなさそうだな。」

よく見ると、小板橋はかなり酔っているようで、顔色は変えてはいないが目が濡れている。

「冗談は辞めてください。」

「忠告じゃないけど、あの人は気をつけた方がいいぞ」

日比谷でカレーを食べたりしたのは知らないらしい。ましてや上野で一緒に刑事論や、その延長で警視庁のあり方を語らいあい、隠密の捜査を今一緒にやっていることも察知していたりはしない表情だった。

「銭谷さんは独身でしたよね?」

警務部の名前も知らない女性が酔って大きくなった声でそう言った。

「いやあの人は、これかもだから」

「これって。」

「いやあの年で、女性に興味ないと言うかね。あと、前に警察をやめた人間と噂もあった。」

「誰でしたっけ。それ聞いたことある」

この居酒屋での会話はほとんどそんなふうだった。警官達は酔っていた。話題は支離滅裂なくらいの方が楽しいらしい。

「太刀川まさに、この間の太刀川だよ。なあ、石原巡査」

「太刀川?」

「金石警部補ね。」

「金石?」

「あの太刀川の事件で捜査本部を解散させられた後に、いなくなったんだ」

「ああ、いなくなった人いましたよね。元気なのかしら。」

捜査本部まで作られた事件はそれなりに話題が多いようで、酔ってバラバラだった人たちも興味を示して会話に参加した。

「知らないなあ。俺と同じA署の出身なんだけど、A署の人間とも連絡とっていないみたいだからね。」

「完全に行方不明?誘拐とかでもなく。」

「銭谷さんと同じ独り身だったからね。捜査願にもなっていない。」

「親御さんとかは?」

「どうなんだろう。詳しく知らないけど。」

 警察官の仕事にストレスがないと言ったら嘘だろう。仕事そのものもそうだし、人間関係もそうだ。そういう鬱憤を車座になって酌み交わす飲酒行為で、雲散させひとつの塊になっていく。東大法学部卒のキャリア官僚でもない限りは、一般採用の警察官には、永遠に続く現場が待っている。その合間に不思議な経費で飲み食いする時間が救いになるのは、大企業のサラリーマンが経費でシャンパンを飲むのと何も変わらないんだろうと思う。小板橋は上層部に頼み込んで、こういう懇親会の許可を得て、歓送迎会を主催しているらしい。

 結果、必然的に誰かそこにいない人間の話になるのは自然なことかもしれないと石原は思った。警察官はどうしてこんなに定例の人事話が好きなのかと思う。六月が来ればわかることなのに、事前に一生懸命知りたがり、こういう場所で情報を収集したりもする。もしかするとここで集まった現場の声という情報を、経費の出し主である人間に報告するのが幹事の小板橋の仕事なのかもしれない、とさえ思ってしまう。

 石原はこうやって身内で酒を飲み、人事の話をする空気はどうしても好きになれなかった。飲みたくないのではない。仕事の話だけを、話したかった。それには二人か三人で飲む方がいい。どこかで銭谷のやり方のほうに魅力を感じてしまう。

「あの人、御沙汰はどうなるんだろうな。」

小板橋は辞めなかった。各所から集められた警察官(参加者)たちは、エースである銭谷警部補が何やら組織の中で、身動きが取れない、懲戒関連の動きがあるという情報に、酩酊の中で意識を昂らせていた。話題として面白いのだろう。自分より成果に溢れた誰かが、自分より不幸な顛末をむかえる可能性があるというだけで話題としては十分だった。さまざまな質問が飛んだ。それにまるで、手品師がタネを勿体ぶるように小板橋は答えた。

「まあ、金石さんも銭谷さんも同じように、エースだったけども、いろいろおかしな動きをしてるんだろうね。上層部が目をつけているのは確かだから。」

「もったいないですよね。せっかくの実績が。大人しくしていればいいのに。」

「そうなんだ。まあ実績があるから少し有頂天になったとも言えるだろうね。警視総監賞を二回も三回ももらうと、ちょっと慢心するのかも知れない。」

ちがうと、石原は思った。二回も三回も伝説的な解決をすると、更に難しい事件に取り組もうとなっていく。単純にそれだけなのではないか。その中で、相手や肩書きに怯まなくなる。犯罪者が警察組織そのものだとしても気にせず捜査を進めていく。二回も、三回もそういう賞を取った人間は、たぶん、警察の正義を行うことへの自負が芽生えていくのではないか。

「銭谷警部補は慢心してる。」

酔った小板橋がそう言ったとき、石原の脳は二回も三回も反論をしていた。

 見回すと、多くの参加者が酩酊していて我を失うくらい酒を浴びている。石原は庁舎に戻って仕事をしたいと思っていたが、合間を見てスマホで今日の撮影や太刀川の乗る地下鉄のことを思い返していた。しばらく泥酔者らの会話をぼんやりと聞き流しながら、そうやって太刀川の撮影を思い出していた時だった。


(二回も三回も?)


 あっと思った。

 なぜそのことを考えなかったのか。

 思いつく時は大抵そうだが、なぜ、と石原は自分を責めた。

 もし、太刀川が地下鉄を何らかの連絡に使っているのであれば、少なくとも一週間の間などで、同じ人間がそこに二回も三回もいるべきではないかーー。

 酒が運ばれた。煽るふりをしてほとんど石原は口につけず、水を飲んでいた。

 話題は人事話でネタが少なくなったのか、昇格試験の話題になっていた。勉強方法や、試験の対策を誰もが話していた。やはり銭谷のような刑事の現場の話を語る様子はなかった。そうならない人間を小板橋は集めたのだろう。

 石原はもう話題についていくこともせず、太刀川の朝の地下鉄のことに頭が全てになっていた。銭谷警部補の話によると、もう何年も前から太刀川は毎朝地下鉄に乗っている。その行き先が決まっていないにもかかわらず、である。その空間が暗号的な伝達の場だとしたら、当然、そこには同じ人間が二回も三回も、いるはずだ。

 


百六九 金門橋 (御園生探偵)


「江戸島に動きありです。」

御園生くんのチャットが入ったのは、わたくしが五時間ほど待ち続けたとある民家を諦めて、河川敷や下町をぼう然と歩き終えて綾瀬駅までたどり着いた時でした。

(江戸島に?どう動きましたか?)

チャットはしばらくして既読になり

(いま、大田区です。品川から南、京浜工業地帯です。波止場近くでクレーンが見えます。)

(大田区の工業地帯で、江戸島会長が会食ですか?)

わたくしは、思わずそう聞きました。会食で工業地帯と言うのは、大手町二重橋に拠点を構える経団連の重鎮に不似合いだと思いました。昨夜は銀座だったのです。品川の先までわざわざ行くのでしょうか。わたくしはチャットを見たり閉じたりしながら、そのまま他の大勢の人々と同じように千代田線の列車に乗りました。綾瀬の駅は高架で見晴らしはいいのですが周りの景色を思い出せないくらい、スマホの画面だけ見ていました。

(詳しくは後で話します。今はさらに海の方、東京湾の方に向かっています。あとそもそも会社の車ではなくてわざわざタクシーに乗り換えてます。会食ではないと思います。周りはこんな感じですから。)


地図X


チャット宛に写真で送られたのは、今御園生くんがいる場所の地図画面と、冷たい金属が剥き出しに縦横無尽に組み込まれた典型的な重工業地帯の写真でした。まさに東京湾の西側、京浜工業地帯の北端を地図はさしております。

 わたくしは、不気味な気持ちが自分に押し寄せてくることを感じました。昨日は平静を装っていた江戸島という人物の仮面がひび割れて、そこにどうしようもなく汗ばんだ本性が見え隠れし始めたような気がしました。ある程度の想定はあったとは言え、それは恐ろしいことでした。

(なるほど。江戸島は動いた、といえそうですね。)

(はい。軽井澤さんの直感が当たったかもしれません。)

(なるほど。)

実は、東京湾と言っても広いのですが、わたくしはどこかで昨日の銀座からの帰り道、有明、つまり千葉や浦安の方面に向かう江戸島に、葉書との連結を見ていました。湾岸方面に、わたくしの葉書の文字列の想定があったからです。そういう意味では、逆の方角、東京湾では西側に向かった点は、少し、想定とは少しずれています。

 それよりも、なぜ東証一部の会長、経団連の重鎮のような人間が、おかしな葉書への対応や、不自然な行動を連続させるのか、が不気味でした。わたくしは強い懐疑を脳に置きながら、千代田線に揺られて北千住、お茶の水を越えて、東京の中心へと戻っておりました。

(不自然ですね。)

チャットは続きます。

(はい。先刻入った町工場も、およそ天下のX 重工業が連絡するような工場には見えません。)

(町工場?)

(はい。なんだか、タクシーを止めて、入ったのが、塗装関連の町工場なんですが、天下のX重工の下請けとも思えないくらい小さな工場です。)

(なるほど。)

わたくしは考え込みました。塗装関連というのも想像もつきません。あれこれと昨日からの江戸島の様子を反芻しながら、御園生くんとのチャット画面を見つめつつ、一体どことどこが繋がるのかを妄想し続けておりました。江戸島の周辺がどうもおかしい。しかし、それにつながる因果を何一つ思いつかずのままでした。

(それと、軽井澤さん、忘れないうちに、お願いが。)

(お願い?)

(軽井澤さんは、今事務所の近くですか?)

(千代田線でそちらに、向かってるところです。)

(じつはキャロルを江戸島尾行の途中で、乗り捨てていまして。)

(なるほど。)

(鍵ありますよね?)

写メが送られてきました。これも地図の写真です。墓地横の消防署の近く、青山墓地の入り口に停めたようです。

(大丈夫です。拾いにいってみます。それから向かいますね)

(すいません。たすかります。新宿と違って路駐で切符も嫌なので。)

(はい。ちなみに、これは青山墓地ですよね。)

(はい。そうです。そう、江戸島は今日夕方墓参りをしていたのです)

(え?墓参り?)

(そうです。)

(どなたのですか?)

(すいません。追いかけるので精一杯で、墓標を見れませんでした。ただひとりで、花を買っていました。)

そのようなやりとりを、千代田線の車内で、チャットしながら、わたくしは少しずつ、都心へとむかいました。不思議とそういう言葉の連続のせいでそれまでの混乱は一時的に脳裏から離れてもいました。わたくしの心理は、綾瀬の界隈から、埋立地、東京湾の方角へと向かいました。 キャロルを拾うため、乃木坂の駅を降りたところで、御園生君からの電話がありました。

「軽井澤さん、江戸島が、タクシーに乗り直しました。」

「乗り直し?」

「はい。町工場を出て。大通りに出ます。タクシーさん、うまく追いかけて」

御園生くんの必死な声と、タクシーの運転手らしい戸惑う声が重なります。

「さらに海のほうに向かって行きます。」

「海ですか?その先は、出島というか羽田の空港になりますよね。」

「ええと。海だ。今から海を渡ります。」

「海を渡る??」

はっと思いました。御園生くんがチャットに貼り付けた地図にそんな道がないと思いつつ、地図と御園生くんの声を重ねながら、どのあたりを動いてるのかを想像しながら、キャロルの場所に、これもまた地図を頼りに向かっていました。

「右に羽田空港、京浜工業地帯。左にたぶん東京の都心部。」


 図X 東京湾地図


「ああ。軽井澤さん!」

「どうしました?」

「わかりました!なるほど。埋立地がまだ埋め立て中なんです。地図で見ると、海面調整場、となっている。地図が追いついていない。」

「追いついていない?」

「はい。埋め立て途中なんですよ。道もまだ正式にできたばかりで。」

「埋め立て?」

「ええ。まだ地図が最新を反映していない。これからゴミで埋め立てるのですかね。」

「ゴミで埋め立て、ですか?」

わたくしは、背筋に冷たいものが走りました。今朝の喫茶店でとある過去のことを米田さんが<冷たい>と言った言葉を思い出しました。御園生くんは恐らく何も気が付かずに純粋な声で言いましたが、わたくしはその言葉を、通常の会話で受け止めることができませんでした。ゴミで海の向こうに埋めていく埋立地という、その酷く冷たい言葉をききながら乃木坂の駅で凝然としていました。なぜなら、そのことばがわたくしが想定した事件の、象徴そのものであるからです。埋立地に捨てるという言葉。その言葉の切なさ、虚しさについて、わたくしは過去にはっきりと向かい合いをしたことがあったのです。わたくしは鳥肌を立てつつ、その場で蹲るようになってしまいました。

「軽井澤さん、すごいです。」

御園生くんは当然わたくしの情況は知りもしません。

「ど、どういたしましたか」

「これ、新しい橋があるんです。」

「はし?」

「はい。地図にはまだできたばかり、いや工事中と書いてあるものもある。いま、その橋を渡っています。ずいぶん大きいです。ゲートウェイブリッジ。」

「げーと?」

「はい。レインボーブリッジではなく、ゲートブリッジです。知りませんでした。ここから、江東区なんですね。大田区ではなくなります。」

「えっ、江東区?」

わたくしは思わず強めに声を出しました。

「はい。東京湾を渡る橋です。東京湾を羽田のある西側から、千葉寄りの東側に渡るみたいです。ディズニーランドのある浦安の近くにたどり着くみたいだ。」

「東京湾の、東側……。」

西ではなく東に渡る橋が東京湾にあり、江戸島はいま、その橋を渡っている。品川から町工場を経由して。東証一部の会長がわざわざ社用車を乗り捨てて向かっているーーー。

 はっとしました。

 江戸島は我々と違い、年齢だけは、当てはまるものがあるのです。

 まさか、と思いつつ、

「御園生くん、江戸島は年齢はいくつくらいでしたっけ?」

「七十八歳ですね。昨夜調べたんでわかります。」

「その、家族構成とかわかりますか?」

「ネットで見た程度なのですが、奥さんを亡くしている、ことだけわかりました。」

「子供は?」

「子供ですか?」

「はい。」

「いや、何度か探し調べましたが、子供はありませんでした。」

「ネットでは他のことは記載ありますか?」

「いえ、実は、例の風間と守谷の検索の問題があったので昨日から結構パソコンは叩きましたが、江戸島に関してはそのほかには、全く出てこないですね。すべてX重工の公的な人事情報だけです。」

御園生くんはやはりしっかりしていた。わたくしはどこかで担当から遠ざけようとしているのに、自分のできる調査を率先してやってくれていたのである。江戸島が子供がいない、ニュースにはなっていないということを聞いて、わたくしはいったん安心し少し疑惑した<その線>を消しました。

 わたくしは、今朝米田さんにあの残忍な三十年前の事件の四人の加害者らの列を並べてもらった後に、じつは<その線>のことを思いました。そうして一瞬、わたくしが最も恐れる心理構造を江戸島が持っているとすれば、いろいろなことがつながると思ったのですが、事実はそうではないようです。江戸島がまさかあの三十年前の事件で娘を失ったような人間ではない、というのは冷静に考えればわかることです。経団連の重鎮にそんな因果があれば週刊誌やネットが放って置かないはずですから。

 ただ、疑問はまだ残ります。

 なぜ江戸島はこのような意味も不明の動きを繰り返すのでしょうか。

「御園生くん、すいません。もう少し正確に聞いてもいいですか。」

わたくしはいくつか質問をしなおしました。江戸島が墓参りを始め、そしてその延長でタクシーに乗っている、と御園生くんは説明しました。

「墓参りですね。」

「ええ。青山墓地に花束を買っていきました。」

「誰のお墓かは判らなかった。」

「すいません。申し上げた通りです。」

「それから、わざわざタクシーで東京湾を回っている。」

「ええ。一体どこを目指しているのかも判らないです。」

わたくしは地図を見ていました。

 その時すでにわたくしはその場所を想定して見つめていました。

 江戸島の目指す場所です。

 場所が地図の先に地名で記載があるのです。

 それはまさしく、わたくしが二重橋の会長室で葉書を順番に見せた際の意図的なアルファベットの順でした。八月九日に届いた六枚の葉書が、わたくしの脳裏にはっきりと並んでいました。



AASKUW







百七十 河川敷へ (銭谷警部補)


 わたしの私用の携帯電話番号を記録した三人目は槇村又兵衛という老刑事になった。電話ではなく、手帳を開いて手で番号を書いている。作ったばかりのメールアドレスと一緒に、番号の数字を並べ終わると又兵衛は顔を上げた。

「銭谷警部補。あなたのご指摘は了解致しました。説明もないまま、失礼しました。しかし小生の考えを大凡把握いただいていたことに大変感謝いたします。」

老刑事はじっとわたしを見つめた。

「こちらの連絡先が小生に大切なものになりそうです。」

「思うほど、時間はないかもしれない。」

わたしがそう言うと、又兵衛はなんとも言えない感謝を集めた表情をした。じっと川の方角を指を刺して

「河川敷の高台から見ると、中洲や川辺にああやっていくつか木があるじゃないですか。」

「木?」

「そうです。川の本当に流れているすぐそばにね。あれじゃあ、台風が来て大潮になると、水の底に沈んでしまうんです。」

よくわからない話題だと感じながらわたしも合わせて川面の方を見つめた。たしかに、真っ平の河川敷にいくつかの樹木が残っている。

「でもいくつかの木は、ずいぶん長い間、台風で何日も川面に出れなくても、耐えて葉をつけ直すのですよ。小生はそれが好きでね、河川敷を歩く時にいつも、ここまで水が来るとあの草も花も流されるなあ、と思ったりして眺めるのが好きなんです。」

わたしは味わうようにその言葉を聞いていた。関係のない話題だったが自分の知らない場所で何かが繋がる気がした。

「そもそもだけどね、どこかで、金石が最後にこの警視庁本丸で仕事をした人間と関わってみたかったんですよ。」

「……。」

「まあ、正直にもう申し上げますとね。」

老刑事はわたしの私用の個人情報をありがたそうにしまいながら頷いている。

「又兵衛さん、あなたは金石とは。」

「ええ。そうですね。奴が、入った頃からですからね。まあ、その時には小生はもうA署のお荷物だったんですが。小生みたいな人間の下についたから、可哀想なことをしました。」

その言葉には、わたしは、相槌をしなかった。

「ただね、あいつは本当に立派な刑事になりました。A署でも大活躍だったから本庁に抜擢されてね。でも偉くなっても変わらず、懐かしがってくれてね。もうだいぶ昔のことですが。ただ、あいつが最後に仕事をしたのがあなた、だと言うことで腑に落ちました。」

「……。」

「金石もまあ、もっと別のやり方もあったかもしれないという貴方のご意見もあるのかもしれませんがね、どうですかね、敵はそんなに甘くないと思うのです。あいつはまだ、この世の中のために働いてるんだと思っています。そう信じています。警察の本丸からのやり方ではないかもしれないけども、どこにいたって世の中の正義を貫こうと動くことはできる。まあ、それもあいつの人生だから。」

又兵衛はそう言って、話を切り上げるようにした。

「ずいぶん、長い一日になりました。でもおかげさまで、賽は振られたと思っています。あとは、どうなるか楽しみです。ただ、おっしゃったご指摘は尤もですので、このいただいた番号に万が一のものを送らせてください。」

そう言うと、又兵衛は河川敷をわたしの歩こうとする方角と逆向きに向かおうとした。

 別れようとする又兵衛に、わたしは初めて自分の腹の底からひとつの声を出した。帰る前にひとつだけ聞いておこうとしていた質問である。

「又兵衛さん、ひとつだけ、いいですか。」

「……。」

「昨日あなたは、エスについて興味を示した人物が五年前にいたとおっしゃっていましたね。」

老刑事は、帰路につこうとする背中を止めた。

「はい。」

「興味を示した組織というのは、それも秘密結社か何かですか?それとも警察関係だろうか。」

少し力んでいるわたしの声に、又兵衛老人は立ち止まったあと、肩で呼吸を整えたように見えた。

「銭谷警部補、組織ではありませんよ。」

又兵衛はそう言って、わたしの目をしっかりと見つめた。

「組織ではない。」

「はい、組織ではないですね。」

「いち個人が、問い合わせに来たということですか。」

「はい。本庁の六階で申し上げた通り、あの事件の後にわたしのところにとある個人の方から問い合わせがあったのです。」

「それは…。どういう人ですか?」

「貴方もご存知の人物です。本当にご存知なかったのでしょうか?」

「はずかしながら。」

「おどろきました。てっきり把握されているものと思っていました。もちろん隠す意味もないですから。五年前、小生に会いに来たその人物は、太刀川龍一です。」



百七一 埋立地の夜 (赤髪女)



 赤髪女は、背中にいた男が言う通りの千秒を数えていた。

 やはりどこかで気になっていたことが現実になった。つまり、自分に長年指示をしてきた組織と、いまの指示者は全く別だったということだ。ヘリウム声の男は、新参者なのだ。金額は今のヘリウムのほうが大きい。どこか策も細かく若い印象さえある。

 これまでは一切人間の香りがしなかった。最初に社長さんの紹介で始まったとはいえ、赤髪女はその組織の人間に対面したこともないし、会話どころか声も聞いたことがない。だから、今回、岩のような迫力で生身の声を話す人間に背後を取られたのは驚愕だった。気配も出さずに背後取る能力そのものにも恐怖があった。

 質問もしつこくなかった。

 むしろ、指示者のことはある程度調べ済みで、その上で赤髪女に質問しているようだった。

 もうひとつだけ特徴を挙げるとするなら、声の位置がかなり高かったことだろうか。

 身長が高いと思った。それも普通の高さではない。二メートル以上あるのではないか?

 それにしても、どうやって自分の背中を取ったのか。行動を相当長い間に渡って尾行しなければ、この場所にこれない。叫ばれることもあるから街中や、駅ではああいう会話はできない。場所は限られる。さらには赤髪女がヘリウムの声の男と電話をしていることまで、知っている。そこまで把握しているということは、相当な時間をかけて調べているということだ。

 赤髪女はぞっとした。

 そのせいで千秒を数え間違えた。

 数え直しだ。

 赤髪女は後ろ手で男に掴まれた場所から埋立地の突き当たりまで歩いた。まだ一度も後ろを振り返ることはできないままだった。かもめが自由の象徴のようにふわふわと海風に乗っていた。

 これまでの仕事は単純だった。ものを運ぶ仕事、道に落ちたものを拾って届ける仕事、同じように落ちていた携帯電話を拾い、そのメッセージの通りに簡単な作業を行う仕事。そうしてその携帯電話を確実に廃棄したりするような意味不明の仕事。わざわざ夏祭りの焚き火に投げ入れたのを思い出した。

 どれも単純な作業だった。指示があればそれをこなすだけ。途中に変更もなければ当然、連絡もない。相手の人格も分からなければ、一体何が目的で作業をしてるのかも、不明だった。

 それが今回は違う。

 ヘリウムの声とはいえ、会話である。指示が二転三転する。そして命令の量が多い。その変化の理由を赤髪女は、最初は自分の立場が上がったからかもしれないと思っていた。実際に金額は増えている。

 赤髪女は背中を掴んだ男の、凄まじく冷たく強い力を手首に思い出した。重金属のような不動感だった。声は感情のない冷たさだった。

 駅まで戻った時、携帯電話が鳴った。

 ヘリウムの声だった。

「これから、新木場駅に戻り、探偵事務所の方に向かいます。」

「抜かりなく願おう。金を置く仕事の方は、うまく行ったのか。」

「問題ないはずです。」

改めて、指示者の声を冷静に赤髪女は聞いた。ヘリウムの声。一体何者なのか?何故こんなことをしているのか?考えたことなかった。この人間は誰なのだ?なぜこんなやり方をするのか。私の何を知っているのか。

 とはいえ、この人間にも狂気がある。

 忠誠を失えば、何をするかわからない人間であることは、言葉の端々に感じられている。

「尾行が優先でしょうか」

「うむ。」

「今は、探偵の社用車が、なぜか青山の墓地の反対側にありますので、戻って調べようと思います。」

「彼らは、人を追いかけているはずだ。それを調べるのだ。」

「はい。しかし。」

「口答えはいらん。作業ありきだ。作業をしろ。」

「はい。」

「探偵の奴らは何を考えているのかを拾え。なんでもいい。とにかく尾行するんだ。」

赤髪女は、やはり指示者がいつになく感情的なのが気になった。いや、あの背中を掴まれた冷たい重金属のような男の迫力に比べてしまえば、誰しもがそうなるのかもしれない。

「そういえば、昨日の朝の尾行だが。」

「はい」

「江戸島、いや、 大手町のビルの役員室に探偵が行ったと言う話があったが。」

「ありました。」

赤髪女は指示者が意外なところに話を戻したのを感じた。

「繰り返すがそれは確かだな?」

「はい。確かです。」

「うむ。」

指示者はそう頷いてから、長い間沈黙をした。それは指示者には珍しいことだと思った。電話をしていることを忘れてしまうくらいの沈黙が続いたあとに、

「では、今からいうことを覚えろ。」

と、冷たく引き続きヘリウムの声のまま言った。

「少し待ってください、メモを。」

「メモはいらない。覚えろ。」

「はい。」

「それから、今鞄に入っているものを教えろ。」

「カバンですか?」

「質問はいらない。」

赤髪女は少し押し黙った。

「いいか。」

「はい。」

「おまえを安い金で雇ってるとは思ってない。出来ないなら、今後の金についても補償はないと思え。」

恐れていた言葉だった。赤髪女は、上級の覚醒剤の味わいを思い返していた。金を持っていなければ禁断症状でやってくれば、自分は耐え切れるか分からない。



百七二 河川敷の別れ(銭谷警部補)


「……。太刀川ですか。太刀川があなたに?」

わたしは、唖然として空を見た。いつのまにか、河川敷の暗闇に月が出ていた。

「ええ。あの世間を賑わせた太刀川龍一という男でした。彼がこの小生を調べてやってきたのです。」

「太刀川が自分で調べて、あなたに辿り着いたのですか?」

わたしは脳が追いつかないのを感じた。嫌な汗も出た。

「念のため申し上げますが、太刀川が小生に会いにきたのは、金石が警視庁を去ったあとです。時系列が大事です。あなたと金石は捜査本部で、太刀川を調べていた。太刀川の周辺を追いかけ、闇を暴こうとしていた。しかし、世の風向きが変わった。圧力がかかったと言っても良い。その結果、捜査本部は解散され、金石は失踪した。小生はあの事件をそう言うふうに見ています。」

又兵衛刑事はタバコを取り出していた。別れるはずだった我々は再び立ち話になった。

「当たっていますか?」

「時系列と言う意味では、その通りかもしれない。」

「であればまさに、その後です。金石がいなくなった後です。」

わたしは混乱を誤魔化すように頷きながら、又兵衛の言う言葉を噛み締めた。

「最初、小生はそれがA署の人間が、金で何かを太刀川に売ったのだと思っていたんです。」

「買収ですか。」

「まあ太刀川は金持ちですからね。あちこちに話を投げた一つ程度だろう、と思っていました。」

「太刀川が警察になんらかの情報源があると考えた。」

「どうですかね。あれこれ辿ったひとつかなと。」

「しかし、太刀川がなぜ。…太刀川の質問は、どんな内容でしたか。」

「それが、そうやって無理してたどり着いた割には、質問は曖昧なのです。小生がどんな刑事の担当かとか、どういう捜査を今しているのか、程度の質疑です。あとはあの経営者らしい眼差しで見つめてくるくらいです。逆に小生が何を聞いても、何も答えなかった。その点は徹底していた。」

「わざわざ、会ったこともない刑事に会いに来て、ですよね。」

「そうです。小生に会いに来た理由が全くわからない。だから本庁のあなたたち、つまり捜査本部の周辺の人間が、何か太刀川に話したのではないかと思っていました。たとえばそれで金石の教育担当だという理由で調べに来た、とかですかね。貴殿にあった最初、繰り返しですが小生は探りを入れたのはこのせいです。」

「わたしは太刀川とそんな話をしたことはない。」

「とすると、考えられるのは、やはり金石が太刀川に連絡をとったということになるかもしれない。」

「あの二人が?」

「まだわからない。現時点では小生はそう結論だ。この件については。」

「金石が今いる場所と、太刀川が近いと言うこと?」

わたしはどこかで思っていたことを思わず口にした。地下鉄の映像にいた身長二メートルの男の背中を思い出した。

「わかりません。たとえば、金石が外部の諜報組織に転向し、その中で太刀川と何らかの連絡をとった。小生がライフワークでエスのことをいろいろ調べてきているのを探ろうとしたと考えるのは考えすぎですかね。でもそういうことでなければ、A署の小生にまで探りに来ないはずです。」

「……。」

「実は、敢えて言えば、質問は曖昧なのですが、趣味を聞いてきたり、警察以外の活動だとか、なにか少しエスの周りの話を引き出そうとしていた様子もあったのです。いや、これは小生の意識過剰かもしれないので、あまり自信のないところですが。」

「初対面で、いきなり陰謀論の会話も難しいでしょうしね。」

わたしが陰謀論、という言い方をしたところは又兵衛は拾わず、

「いずれにせよ、五年前、あの事件の風向きが変わり、金石がさった後、なぜか太刀川龍一は東京の外れの警察署まで、こんな老刑事を訪ねたのです。相当なリスクを冒していますよ。陰謀論と誰しもが馬鹿にするような情報を、よく知りもしない刑事に聞きに来るというのですから。そこに、なにかありますよって告白しているようなものでしょう。」

 気の動転を隠せなかった。

 わたしの考えでは、太刀川についてはーー「そういう組織」の内部の方に関係しているとばかり思ってきた。もちろんエスとかいう組織が本当に存在するのであれば、という意味でだ。あの風向きの変化も奴が逮捕されずに済んだのも、例えばそういう権力的な眼に見えない力の恩恵だと思っていた。呼称はエスでも何でもいいが、太刀川龍一はそういう権力に莫大な現金を使って現場の刑事たちを吹き飛ばしたのだとばかり思ってきた。

 その太刀川が間抜けにも、事件のほとぼりが冷めた後に所轄に問い合わせに来るなどと言うことがあるのだろうか。それも又兵衛という確かに諜報組織の捜査を何十年と試みてきた老刑事にピンポイントにである。

「諜報組織について教えてくれとは聞かなかったでしょう?」

「どうですかね。恥ずかしながら、会話を細かくは記録しなかったもので。ただ、警察の表向きの仕事以外に色々やってますか、みたいな質問はしていました。その質問を、そう捉えることは出来なくはないでしょう。エスについて知っていることがあるなら少しでもいいから、聞かせろという意味に。」

「しかし、そんな質問をするようでは、太刀川龍一は、六本木事件の首謀者でもなんでもない、ということになる。つまり自分が助かった理由さえ分かっていないので、エスのような組織の存在をあちらこちらに聞き回ったみたいなことでしょう?」

「どうだろう。」

「でなければ、そんなボヤけた質問をしに、あんたに会いに来る理由がない。しかも事件がある意味で収まったあとだ。寝た子を起こすことにもなりかねない。メディアの熱で東京地検が動けば強引な逮捕さえ十分あった状況だったのだから。」

「そうですね。」

「そういう恐怖に再び太刀川が向かうと思えない。」

そうだ。太刀川がその時点で老刑事に会うことはリスクでしかない。そもそも闇の中、権力の中心で作業をしていたならば、そんな質問をしに来る意味が全くおかしくなる。

「おかしいですよね。」

わたしは唐突に自分の考えを告白していた。しかし又兵衛はそんなに焦ってはいなかった。

「まあ、こればかりは小生はこの事件のことは部外者でしかないです。あなたの持っている情報もほとんど知らない。つまり、真実はわかりません。ただね、銭谷さん。昨日申し上げた通り、仮に太刀川が関わったのが本当の諜報組織(エス)だとしても組織図も何も存在しない。誰が構成員かもわからないのです。」

「……。」

「とすると、太刀川には二つの可能性で見るしかない。」

「ふたつ」

「ええ。これはくりかえしですが、小生の仕事でも何でもなく、五年前を思い出して口走ってるだけですから、無責任の意見をお許しください。」

「いえ、かまわない。」

「ひとつは、彼が陰謀の中心で、金を使ってこの諜報組織と関わったと言う場合です。このケースだとすると、あの部屋の出入りに、政治家がいた。芸能界の人間がいた。巨額の金が絡んでいた。過失があった。過失致死だったか殺人だったかわからないが、事故ではなく犯罪があった。だから、なんとかして、女子大生の死亡を単純な事件などにして処理せねばならなかった。そのときに、何らかの組織の力を使った。つまり太刀川が主導して、潮目を変えようとした。」

「……。」

「おそらくこれが、普通のものの見方です。」

老刑事はどこの報道にも書いていない情報の断片を集めて、ほぼ真実に近いことを言っていた。その慧眼にわたしは驚いていた。警視庁は所轄に情報などは一切共有しない。ましてや六本木事件に全く関連しないA署である。ただ、長いものに巻かれずに全て自分で常に裏どりをしながら物事を把握している刑事にはしばしばこういう孤高な慧眼はありえる。

「で、もうひとつは、逆です。」

「逆?」

「つまり、太刀川は一才、諜報組織は権力のことを知らずに、末端だったと言うことです。つまり、彼が助かったのも偶然だったということ、です。」

「偶然?」

「つまりもっと彼よりも強く力のある人間が、六本木のあの部屋にいたのではないか。その大物が六本木事件の罪を隠蔽して逃れるために、さまざまなことを行った。エスとよばれる組織をつかったのかもしれないし、どんな力を使ったのかもわからない。ただ、その中で結果として太刀川は偶然助かったと言う意味です。そのときの抱き合わせの条件で、会社を辞めることや、株を手放し、これまでの人間関係を清算するなどの条件や権力側との手打ちもそこに結果的に生じた。この場合太刀川は、処理の首謀者ではないから、彼が知っているのは部分でしかない。その高度な取引を誰かに仕掛けられ、太刀川には他に選択肢がなく、受領した。」

「末端の構成員として、偶然助かりながら、ですか。」

「はい。結果として司法の恐怖の前で、煮え湯を飲まされた。会社を失うというね。太刀川に関して言えば、あのときのメディアの論調や、特捜部まで動かすぞと言う話があった中では、殺人幇助で牢屋に入るまでの可能性はあったはずです。」

老刑事の指摘はほとんど論理的だった。むしろ長年、陰謀組織を研究している人間ならではのリアリティもあった。ただ、わたしはどこかで想定をせずにきた後者のーー太刀川でさえ蚊帳の外だったという考えをすぐには受け入れられなかった。

「太刀川が、末端ですか。」

「はい。それだと、本丸を知りたくなる。」

「……。」

「もしかすると、六本木事件の高度な着地交渉の中で、自分の思っていた通りにはいかなくなったのかもしれない。本当は会社を失う話ではなかったとか、色々可能性はある。だから、事件が落ち着いた後に、何か会社を取り戻す対策を狙った時期があったのかもしれない。首謀者が見えないのであればそう言う動きに出るのはあり得る。」

又兵衛はじっとわたしを、睨むように見つめ、

「とにもかくにも、そうでも考えないと、なぜ彼が、こんなA署の老刑事にまで話にくるのかはわかりませんでしたから。」

わたしは夜の闇、月明かりの下に黒く屹立する河川敷の干木を見つめた。大雨が来て河川が氾濫してもあの場所で孤独に生き残る痩せた樹木ーー。その樹木だけが本質を孤独に見つめているーー。

「銭谷さん。小生の方から申し上げなかったことを、お許しください。太刀川が小生を尋ねた時、すでに捜査本部は解散していました。金石もすでに退職していた。その時直感で、金石は警察組織ではない場所で仕事を続けることにしたのだ、と小生は考えました。無論、金石は自らその結末を選んで、刑事を辞めたのですから、自分でも別の勝算を計算しているはずだ。金石はそういう人間です。それならば中途半端に触れるのは危ない。これは小生にとってではないです。金石にとって危ないのです。もし本当に困っていれば、金石の方から話に来るはずですから。だから小生は五年間このことについては一切関わらずに、胸の奥にしまったのです。意外だったのは捜査一課、二課は把握されているものとばかり思っていたことはありますがーー。以上です。銭谷さん、太刀川について小生が知っていることは。」





百七三 自問自答(人物不詳 村雨浩之)   (前被りチェック)

 

 男はこれまでのことを回想し整理をしていた。 

 いくつものことが、予定とは違って来ている。

 まるで自分の過去を公然と暴こうと、暗闇から追いかけてくるような、そういう何かの存在を感じる。自分は完璧に過去を消したというのに。

 腑に落ちないままだった。

 自分の過去。

 過去は現実でしかない。

 反して、未来はまだ現実ではない。

 未来をつまらぬ現実の犠牲にするのか?

 それとも現実を超えた夢にするのか?

 全く別の人間になることができるというのにーー。

 自分が求める新しい夢の世界を実現する。

 過去を捨てることで新しく前に進む。

 インターネットが悪い。

 過去のしがらみから抜け出せなくさせる。

 世界にはこれだけ過去を消し去りたい人間がいるのに、その過去を刺青にして消させまいとする。

 それがインターネットだ。

 男はじっと、その袋を見た。

 袋の中に入っている男の歴史を、見つめたと言っていい。

 やはりーー。

 袋の中の男は何も持っていなかったのだ。ーー。

 その日暮らしの生活で、いつもゼロなのだ。失うものも何もない、つまり何も持っていない。逃げたり何かを守る必要はない。だから行動が予想の方角へ進まない。せいぜいネットを検索し、警察の外側の探偵に相談するくらいしかなかったのだ。

 男はさっぱりと、そう結論づけた。

 もうこの人間たちはそれでいい。

 作戦は変更だ。

 大事な変化が起きている。

 そう。よくわからぬ探偵がくだらない動きを始めている。

 慎重に行わなければ、自分にも被害が及ぶ。

 その設計変更については、既に十二分に考え尽くした。

 プランBもやめ、今しがた完成させた最後の作戦で処理をしよう。これでいい。

 世の中が求めている通りにーー。

 簡単なことだ。

 簡単なこと。

 死体にするのだ。そういうことだ。

 それが世の希望のはずだ。

 そうして、世の中はしばらく、満たされる。

 現実を忘れて、観劇に慰められる。

 作戦は想定できている。

 そのリスクも細かく検証した。

 密室が中々いい東京の真ん中にあったのだ。

 男は、ゆっくりと水を飲んだ。

 袋の隙間から風間がじっと自分のことを見つめている。

「意識を取り戻しているようだな。」

「……。」

 風間はじっと男の方を見上げた。

 手足は縛られたままである。

「この顔を見てしまったのでは、死んでもらうしか無くなったということだな。」

 男が開き直っているのを見て風間ははっきりと恐怖した。

 口のテープが外れるかというぐらい顔面を引き攣らせてている。

「うるさいぞ。」

 男はそう言って、風間の顔を激しく殴った。

「まあ、今更、探偵に相談したのも、奴らが江戸島に向かったのも、どうでも良い。お前が馬鹿な判断をしたまでだ。後悔は先に立たん。方針は変更されたのだ。」

「……。」

「アスファルトの通りにただ殺し合っていれば、葉書を設計した人間の希望通りで済んだのだ。お前の嫌いなオザキを殺せばよかったじゃないか。人生を狂わせられたのもアイツのせいだっただろう?それなら少なくとも三人のうち、一人は助かる可能性があったのにな。」

 男はもはやヘリウムの声ではなかった。彼本人の声が、暗い部屋に静かに響いていた。

 無言になると、不気味な暗室はパソコンの光とファンの音だけに暗闇が浸っていた。手足を縛られ椅子にくくりつけられ口を塞がれた風間は、その悪魔を見たような目だけを皿のようにして、何度も獣のように首を振りながら、男を睨み続けていた。



百七四 解凍時間(石原里見巡査) 


 石原は本庁に戻る間、二度三度、という言葉が頭から離れなかった。

 地下鉄車両が何らかの情報共有の場なのであれば同一の人物が、定例の場所にくりかえし少なくとも二度三度、現れているはずだーー。

 まずは、車両の映像をスマホでだけではなく大画面のパソコンで静止画にして画像を複数並べて拡大して見直したい。

 それにはカメラのデータをパソコンに落とし、大画面で確認しなければならない。

 六階は人が疎らだったが、石原は念の為個室に入った。盗撮用の機材をカバンから取り出しパソコンへのデータ転送作業を始めた。秋葉原で買った高性能カメラは撮影したものは超高性能だが、データを転送して取り出すことに時間がかかった。

 単純な待ちの作業になった。

 石原はまた大学ノートを取り出して、ここまでの整理をこの時間ですることにした。



①今週の太刀川尾行


九月十日  本郷三丁目、竜岡門方面へ 見失う

九月十一日 埼玉八潮駅、住宅方面へ 見失う

九月十二日 確認できず

九月十三日 二重橋 大企業ビル

九月十四日 埼玉八潮駅、川田木家へ 


太刀川龍一の行き先は決まっていない。東大生を三人育てた埼玉の母に会いに行くこともあれば、母校の本郷三丁目の駅に行くこともある。大手町二重橋で大企業の人間と会うこともある。少なくともオフィスは持っていないように思われ、目的も散漫に見える。

 埼玉については、三人の東大生を育てた川田木という家に太刀川が通っているのは把握できた。なんでも寝たきりの東大生の支援を行っている可能性があるがまだ詳細は不明である。これは彼が進めている慈善活動に関係しているものと思われる。いくつかの慈善についてはWebで非公式に把握はしているが、こちらも太刀川側が明確に事業として喧伝はしていない。あくまで、参加しているNPO団体などのホームページで太刀川の写真が露見されることがあるという程度である。

 本郷周辺については、太刀川は一体何をしているのかは未確認のまま。本郷の竜岡ビル四階は彼が創業した企業の最初のオフィスを借りた場所だったが、不動産屋によると太刀川本人が一連の騒動の後に買いとったらしい。だがこの部屋をとして使用している形跡はない。少なくともここに人員を集めたりはしていない。また本郷周辺という意味では、この部屋の他に、本郷三丁目駅にある文庫本置き場をなんらかの連絡行為に使っていないかも気になる。とくに携帯を持たずオフラインでの連絡を行う太刀川にとっては、掲示板伝言板をどこかで使わざるを得ないのではないか。




②地下鉄の仮説


 太刀川の目的地は地下鉄の降車駅ではなく、目的地は地下鉄の車両の中なのだと仮説できないかーー。

 結果的にどこに行ったかではなく、毎朝六時半の日比谷線で、暗号的な定例連絡会議を行っている可能性がないか。そう仮説すると幾つかのことが腑に落ちる。毎朝同じ時刻に乗車することや、車両がいつも広尾方面寄りの後ろから二番目であることも、誰かが同乗していて何かを日々伝えているなら合理的であり、日々の連絡を行うのにオフィスもメールもない人間には時間を定めた<空間>が必要なはずだ。

 数百億円の資産で何かの意思がある場合。年利六%で運用したとしても、数十億円ちかい金額を複利で得ている。数百人の人間を雇える可能性がある。太刀川に何か目的があるなら(以前、放送局やメディアを買収しようとしたような)ば、何らかの形で協力者を雇用するはず。インターネットを否定している太刀川なりの設計があるのでは?メールも電話もチャットもSNSもできない場合、実は自分のチームでの情報や命令の共有も難しくなる。

 地下鉄の車両を定例の会議につかうのは違和感はない。オフィスを持てば住所に紐づくことになり組織は公然となる。が、公共の交通機関の走行中であれば、どんな場所にも紐がつかない。現在ダウンロード、転送中だが、十三日と、十四日で撮影した太刀川の地下鉄動画の中に、同じ人間がいる可能性がある。少なくとも「定例会議」なのであればメンバーは何人かは再度乗り合わせる。毎日参加する人間がいてもおかしくない。

 この点は、今後の朝の撮影が叶えば、ある程度データは蓄積されるかも知れない。この動画解析を本庁の科学技術班で行うと、銭谷警部補と石原の作業が庁内で開示されてしまう。やるにしても、もう少し情報を集めてからにしたい。



③銭谷警部補宛に、送り主不明のメールがある


このメールの送り主は、銭谷警部補曰く、警視庁を辞めた金石元捜査二課警部補の可能性が高い。金石元警部補は、太刀川関連の事件で銭谷警部補と組んでいた人間である。



本を読め。本末の転倒。飲みすぎは、やめておけ・・・


孤独。被害者の孤独・・・


文学的に言えば、百の事件には百を被害者がある


郷に入りては郷に従え・・・


不思議な、というか、よくわからないメールである。メールもそうだが、金石元警部補についても不明点が多い。銭谷警部補と五年前に警視庁で最強のタッグを組んでいた。捜査二課のエースだった。独自の取材網を持っていて、銭谷警部補も一目置いていた、などが客観情報である。

 この人物からと思われるメールが、毎回送信してくるアドレスが違っていて、迷惑メールに入るのを、銭谷警部補はわざわざ、定期的に拾いに行く。そこには金石元警部補と彼の間でしかわからない内容が書いてあるという。ただ、具体的に情報があると言うより、過去の二人の間での会話の周辺になんとなく関わっているという。これは銭谷警部補の主張でしかない。

 なぜメールが送られるのか。内容は何かを意味している暗号などなのか。

 この二点については時間を置いて銭谷警部補に問い詰めるべきかもしれない。少なくとも現状はこのメールの内容を共有することに相当難色があった。彼が開示していないいくつかの情報もあるのかもしれない。



④五年前の事実の整理  


 メールは、五年前に、金石元警部補が突然警視庁を辞めた後に始まっているらしい。五年前、金石警部補が辞める直前まで二人は太刀川周辺の事件を追っていた。六本木の事件で一旦捜査本部はできていたが、すぐに解散になった。その周辺に一連の疑獄があることを仮説し、焦点を当てて隠密の捜査を続けていたという。

 その捜査が金石元警部補曰くかなり前進をしてきたところで、なぜか、潮目が変わり、報道の方向も変化があり、捜査は事件性なしの形で解決し、打ち切られた。どのタイミングかは知らないが、金石氏は警察を去ったという。その後の連絡先を銭谷警部補は知らない。おそらく辞めたというより、失踪に近い形だったらしい。連絡不能の状態が続き、そうしてしばらくした後に、一連のメールが来るようになった。

 六本木事件についてーー。

 女性の死亡は事故死で解決済が警視庁の方針。死因は「本人による薬物の過剰摂取」となっている。六本木事件といえばこの事件をさすが、銭谷警部補はこれに加え、二つの不審死を、六本木事件として一緒に捜査定義している様子がある。ひとつは沖縄での会社社長の不審死。もうひとつは六本木での別の死亡事故らしいが、この点は銭谷警部補はまだ、不明点が多く話す段階にはないという。沖縄の不審死も沖縄県警からは早々に自殺と断定されている。

 当初、警視庁本庁は、捜査一課、二課合同の捜査本部を設置し、積極的にパラダイム社太刀川社長をはじめ、不審死のあった一室について捜査を行った。この事件には多くの不明点が確かに多い。六本木ヒルズレジデンスの防犯カメラは、いち早く、映像が不明になっていた。三十七階の一室に一体誰がいたのか、が重要なポイントなのだがこの点は当時太刀川が借りていたこの部屋の鍵は複数の人間が持っていて事実上出入り自由になっていたため、特定がなされなかった。金石元警部補はこの情報を独自のルートで把握していたのかもしれない。

 このほか、居酒屋での情報でしかないが、銭谷警部補が、公金横領で懲戒にあった、所轄の老刑事と打ち合わせをしていたという情報がある。これは本人に聞くべきである。



 石原は頭に入っていることをとりあえず書き続けた。

 ノートに書き出してみると心が落ち着くのがわかった。少なくとも自分の次の動き方がイメージできる気がした。

 六本木事件については、今まさに再度の捜査が始まったばかりだ、と思っている。いや、一度全てが「解決済」になった事件を今から全てひっくり返そうということであるから、簡単な作業ではない。

(しかし、なぜ、捜査本部まで組んだ警察は方針を変えたのだろう。)

石原里美巡査には、強い興奮があった。刑事になって、まさかこんなに早々に、世間を揺るがした事件の捜査の中心の作業ができるとは思っていなかった。隠密とはいえ、若い自分にそんな機会は簡単には訪れない。それも、捜査一課で最も実力があると言われる刑事と一緒に、組めるというのである。

 その時ようやくパソコンが様子を変えた。どうやら無事ダウンロードが済んだ様子だ。石原はノートを閉じてパソコンの方に目を向けた。



百七五 バーへ (銭谷警部補)


 綾瀬の河川敷で又兵衛と別れたあと、わたしは気がつくと金町とは反対の方角の電車に乗っていた。

 霞ヶ関を通り抜け、乃木坂で千代田線をおりると西麻布から広尾方面へと夜風に吹かれながら、歩いた。景気は相変わらず悪く、空っぽの品川行き(バス)が赤い終電灯を揺らして外苑西どおりを疾走していった。行き詰まった捜査の考え事をして幾度も歩いた道だ。わたしは何か閃きが夜空から舞い降りるのを願ったが、夜はいつものままだった。そうして天現寺まで歩き、バー・ニコルソンに入った。

 客は誰もいなかった。

 わたしはカウンターに座って、隣の空席を改めて眺めた。

 その席は金石のいた席だった。

 ここに座る目的は簡単だ。

 あの時と同じ気持ちになって、同じ酒を飲む。そうして又兵衛の話した太刀川龍一周辺の言葉をなぞる。そうすれば、もしかすると金石がその席で語っていたことを、思い出すかもしれない。忘却してすぎてしまった会話を同じように酒を飲むことで、思い出せるのではないかーー。

 気狂いじみた発想だったがいまのわたしにはそれ以外に方法が思いつかなかった。

 おそらくそれにはずいぶんな量のジャックダニエルが必要な筈だった。

 隣の金石のいた席をわたしは無言で見つめた。



百七六 青山墓地(軽井澤新太)


 御園生くんの乗り落としたままのキャロルは、消防署通りの夜の闇の中にありました。墓地の北端はそのまま神宮外苑に通じる細い通りがあり、その通りが消防署の前を通るので消防署通りと言います。手前の道はすべて墓地と続きになっているので桜の時期はたくさんの花見客が陣取る場所ですが、葉桜の後のこの夜は誰一人いない暗闇でした。

 そのとき、です。

 ふと、二重橋で受けたのと同じ感覚がわたくしの背中を襲いました。

 なにかの尾行がある気がしたのです。

 漠然と、わたくしはそれを<女>だと感じました。





百七七 若洲  (御園生探偵)


 金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)を渡ったところに巨大な風車があった。羽田側から登ったブリッジで海を渡り、浦安や新木場のある、東京湾の千葉に近い側に降りていくようだった。橋を渡った先も、いかにも埋立地じみた平らかな黒い板洲のような土地が闇に広がっていた。工場や自動車が出す光が点綴として、そこだけ海面ではないのだと判るのだった。

 江戸島を乗せたタクシーは橋を降りると幹線道路を左折した。折り悪く信号が赤になった。

 往来はミキサー車や、トラックが多く、橋の上から眺めたときよりも広大に思える敷地に巨大な工場が遠く並んでいた。その闇へと目的のタクシーが吸い込まれていく。

「信号を無視して、追えませんか。困ったな」

「無茶言っちゃいけねえよ。」

信号に間に合わなかった我々を置いてタクシーは埋立地の工場の方角へ入って見えなくなっていった。

 ふと僕は、昨夜の銀座の寿司店の後を思い出した。代々木上原という、渋谷や原宿の先の内陸側に自宅がありながら、江戸島会長は銀座から海の方角、つまり埋立地側に向かった。もしかすると昨夜もここに向かいたかったのではないか?

(方角という意味では合っている)

信号がようやく変わると、急加速をさせて我々は江戸島の車(タクシー)を追った。しかし、かなり急いで回ったが江戸島を乗せたタクシーは見当たらなかった。

 タクシー運転手は、申し訳無さそうに謝った。僕が想像以上に落ち込んでいるのを気遣ってくれた。

 しばらく探したあとに、僕は軽井澤さんにメッセージをした。声を出して、電話をする気になれなかった。

(すいません、見失いました。)

チャットはすぐ既読になった。

(一人では難しいです。御園生くん、しょうがないですよ。)

軽井澤さんのねぎらいの言葉だった。

(しかし。貴重な好機でした。)

(いまどちらですか)

(いま若洲というところにいます。)

その言葉が既読になったあと、随分長く返信がなかった。軽井澤さんは僕の送ったいくつかの、写メをみている様だった。

 暗闇がうっすらと月夜のように明るいのは、東京湾の向こう側のまさしく大都会の夜の灯が間接的に埋立地を照らすからだった。工場の高い建物と、ミキサー車の並ぶ広大な駐車場が、闇に暗く広がっている。なんの工場かわからなかったが、とにかく、人間の存在を感じない、全て機械が自動作業だけする場所のようだった。大都市のさまざまな物事を処理し、ただ冷たく動く印象は、どこか尾行してきたものを見失った気持ちと重なるようだった。

 海風が、人のいない平らなアスファルトの上をなでていた。



百七八 バー電話(銭谷警部補)


 わたしは又兵衛の一連の言葉を反芻しながら、ジャックダニエルを静かに揺らし続けていた。丸氷がずいぶんと小さくなりロックグラスが濃い水割りくらいになっている。

 相変わらずバーには他の客はいなかった。

 又兵衛はわたしに、エスという組織については金石と幾度か話したことを言っていた。

 朧げな記憶を辿りながらこのバーに来て、わたしは視界が広がるのを感じる。又兵衛には言わなかったが、このカウンターで、金石はわたしにその、エスという言葉を話していた気がする。酩酊し、酒に溺れた帰り際のバーのカウンターで、奴が語った多くの言葉に、そういう文脈があった。

 私用のほうの電話が鳴った。石原だった。

「資料映像、クラウドで、もう上がると思います。」

「ええと。すまん。クラウド。」

「はい。銭谷警部補が新しく買われたのはアンドロイドではなくてiPhoneですよね。」

知らない言葉が溢れる時代だと思う。知っているやつの方が幸福だとは思わないが、酒のせいでわたしは素直に聞いた。

「すまんが教えてくれ。クラウドというのが全くわからん。アンドロというのはもっとわからない。」

「今、話している電話の画面を見れますか?」

石原は、ゆっくり、わかりやすい形で説明をしてくれた。やさしさが佇む声だった。草原をゆっくりと歩くのと、のどかな夕日を見るのとが混ざったような気持ちで、私は珍しくこの板電話(スマホ)を前向きに捉えることができた。

「…はい。そうです。その右下にボタンがあると思います。」

「この歯車か。」

「はい。その歯車のボタンを押してみてください。」

「うむ。ファイルが並んでる様子の画面になった。」

「いいですね。そこでこの後、映像が見れるようになると思います。」

「よしわかった。」

わたしは若者らしい知らないものを学ぶ子供のような声を出した。

「アップロードに時間がかかっています。もし良ければ、その間に銭谷さん、一ついいですか。少しご報告したいことがありまして。」

「報告はいつでもありがたい。」

ふと、ニコルソンが他の客がいないので、音楽の音量を下げてくれた気がした。

 石原は、自分の仮説をそこで話した。

 理路整然としていた。わたしは石原の説明をまとめるように、

「つまり、太刀川が地下鉄を使って何かの連絡、指示している。もしくは、彼の持っている金を何らかの形で使っている、ということか。」

と言った。少しの間合いの後に石原は、

「ええ。そうとしか思えないのです。もちろん配るのはあの場所ではないかもしれないですが、なんらかの符丁があったりするのではないかと。つまり、あの地下鉄の車両で、直接の会話はしないけれどもなんらかの連絡場所になっているように思うのです。」

わたしも、過去幾度かその可能性を考えたことはあった。たとえば命令の合議だけ確認し、別途現金を封筒に入れて郵送する。もしくは配るだけで何も知らない作業者がいれば事足りる。

「根拠はあるのか。」

「根拠と言うほどではないですが、その可能性として、映像を見ていただきたいんです。」

「わかった。」

「経済には詳しくないですが、太刀川は利子だけで毎年収入が何億もあるという話でした。」

「利子で言えば、複利を考えずともそうだな。年間六億円はくだらないだろうな。」

「だとすると、毎日二百万ドブに捨てなければならない。」

「どぶ?」

「ええ。仮に年間六億円使うには、毎日百八十六万円を捨てる処理をしないといけないんです。使いきれないんです。今の太刀川を見てる限り、そういう生活をしているようには見えないです。夜の銀座や六本木に通い詰めてもいない。」

地下鉄に乗って、街を散歩しているだけではその通りになるだろう。本来はタクシーどころか、運転手付きのリムジンに乗るべき金額だ。

「調べてわかったのですが、太刀川はインターネットアカウントだけでなく、携帯電話どころかクレジットカードも持っていません。いつでも支払いは現金のようです。クレジットカードで払ったりすればいつ誰に金が動いたかは足がつく。」

「……。」

「つまり、警察からすれば、何も情報を盗めない。逆の視点から見れば、少なくともそういう空間を太刀川は作っている。」

「うむ。」

「メールやメッセージアプリを一切、辞めた太刀川です。一見世捨て人のように世間から遠ざかったようにしている。でも、そこにこそ、盲点があるのかもしれません。本当はその逆なのだと。」

それはわたしがずっと直感してきていることだが、自分で言葉にしてはこなかった。

「つまり、あの地下鉄を連絡場所にして、現金(げんなま)を使って何かの組織を運営しているのかもしれない。」

「組織の運営を?」

「はい。毎年数億円です。かなりの人間をやはり雇えます。」

「……。」

「銭谷警部補。五年前に何があったかわかりません。金石氏の隠密領域もあったと思います。しかし、太刀川が警察組織や権力に何らかの形で嫌な思い出があるのだとすると、ーー今までとは別の組織運営方法を太刀川が構築することはありえませんか。」

「……。」

「オフラインは逃避ではなく、ある種の力になります。」

わたしは素直に返事ができなかった。又兵衛が先刻、わたしに伝えた内容と、今の石原の言葉が近づいている。金石の言葉を思い出すために飲みすぎているウィスキーが脳を揺らしている。しかし、頭痛ではなく興奮剤のような感覚でもある。

「現金で、太刀川が今までと違う人間を動かしている。」

「普通の会社を経営するなら、普通に支払えば良い。とすれば、普通ではないことをやってるのかもしれません。」

「普通ではない?」

「私には、そう思えてならない。毎朝六時半。もう何年もですよね。銭谷警部補が尾行をしていた頃からです。五年以上です。」

「……。」

「五年前に会社の株式を失ってから多くの部下を失った。太刀川にしてみれば、次の動き方はいろいろな人間に対する不信があった。」

「奴がいろいろなものが信じられなくなった可能性はあるかもしれない。」

「もう少しわたしの方でも調べたいと思っています。ぜひ銭谷警部補には映像の方をご覧になっていただければと思います。」

「論理はわかった。まずは映像、だな。」

「はい。私ももちろん半信半疑の自分もいます。こうやって仮説を強めに自負する証拠になるかわかりませんが、明日以降もできる限り撮影を追加します。」

「ありがとう。まずは見てみてそれから折り返しでも良いか」

「ありがとうございます。もうすぐクラウドで見れるはずです。歯車のマークです。」


百七九 間諜 (守谷) 


守谷はその白い軽トラックの運転席に座った。

ほとんどその瞬間にまた同じ非通知の着信が鳴った

「守谷さんか。」

「……。」

「運転席の座りごごちはどうだ?」

「ど、どこで俺を見ている?」

「まあ、気にするな。逃げられんということを理解すればそれでいい。」

「……。」

「助かりたくないのか?」

「助かる?」

「困っているから探偵に話したりしているんだろう?こちらの提案の通りにすれば、全てを解決する。その事は約束しよう。」

「信じるのは、難しい。」

「いつまでも逃げるつもりか?」

「……。」

「終わりにさせたくないのか?もう十分長い時間が過ぎた。懲役も終えたんだ。すこしの協力をすれば良い。それで解決する。」

懲役という言葉は電話の中で、冷たく響いた。

「何もあんたは頭を使ったり作戦を考えたりする必要は無い。簡単なことにすぎんよ。もはや逃げていれば結末は見えている。守谷さん。あんたはもうひとつの腕も、失って生きたいのか?」

「ーー何をすればいい?」

「何、簡単なことさ。コンクリートの作り方は知っているよな?」

「…どういう意味だ?」

「作り方を知っているのか?」

「…知っている。」

「では、説明をしよう。撒菱には塗料は塗り終わったのだよな?」





百八十 電話 (御園生探偵)


軽井澤さんからの電話が鳴った。

「いま社用車(キャロル)は拾いました。」

「よかったです、ありが…。」

僕がそう返そうとするのを遮るように

「み、御園生くん、前言っていた、女性というのはどんな人でしたか?」

「女性?」

「唐突にすいません。あの例の事務所の前に居たという?」

「ああ。そうですね、すこし年上だと思いますが。どうしてですか?」

軽井澤さんは少しためらってから

「実はいま、まだそんな人間がいた気がしたのです。この車に、何かつけられたりしてませんよね。」

「車にですか?さて」

「事務所に誰かがつけてるというのは、わかるのですが、青山墓地の北側で今車を拾おうとしたその場所にいた気がしたのです。はい。二重橋の時に感じた女性です。」

「事務所でなく車を、尾行しているということですか?」

「ええ。大手町二重橋も、ほら、キャロルで向かったので。」

「車に何かされているーー?そう言えば、会ったとき、車の下に落とし物をしたとか、言ってました。」

「なるほど。それはすこし怪しいですね。わかりました。ありがとうございます。ちょっと事務所に戻りながら様子を見てみます。」

「了解致しました。」

僕はふと、チャットの流れがあったので思うことがあったけどもそのことは言葉にはせず、

「軽井澤さん、僕の方でも江戸島を追ってみようと思います。江戸島本人は面会をしたがらない様子ですが、明日朝、タクシー会社に聞いてもいいと思いました。」

と自分の考えを伝えた。言ってからこの案件から離れろと言っている軽井澤さんへ少し当て付けた感じになった気もした。

 少なくとも江戸島と一緒に青山から工業地帯を回ったタクシーのナンバーや会社名はメモしてある。それだけは問い合わせてみようと思っていた。おそらく江戸島を乗せた運転手はそれなりに何かを見たはずだと思っている。



百八一 尾行の女 (軽井澤新太)


 その女は、わたくしには不自然に見えました。

 御園生君が乗り捨てたマツダのキャロルをわたくしが探しているときに何故か二回ほどわたくしの視界に入ったのです。一般的に公道で同じ人間を二回見るということは難しいことです。わたくしは、その女に気がつかれないことを確認しながら、キャロルの鍵を開けました。恐らく、御園生くんに申し上げた通り、この車がここにあることを知っているように感じました。死角になる墓地の方角からその女が見ているように思えたのです。そして何より、二重橋で尾行されているように感じたのと同じ空気を醸しているように思えたのです。

 車(キャロル)に乗るとわたくしは、あえて彼女が少し追いかけることのできるくらいの速度で、葉桜を終えた桜並木をゆっくりと南に降りました。一旦事務所の前に車を戻してから、手早く事務所に入り、幾つかの護身用の武器を取り出しすぐに外に出ました。

 わたくしはそこで少し事務所から離れて、あえて自分が尾行者や追跡者ならどこにわたくしを監視する場所を作るかを考えてみました。すると一箇所、崖の上に青山墓地の作業員が物置を置く小屋があります。登ってみると打って付けで、わたくしどもの事務所が見下せる機械置き場がありました。わたくしはあえて、その小屋から少し離れて死角になる草むらに気配を消して蹲りました。夜の闇に、こんな小屋にやってくる人間など普通はありません。あれば、その獣はわたくしを尾行する獣でしょう。

 御園生くんが車を置き去った墓地北端から、ここまでは歩いて十分程です。ちょうどそのくらいして、獣のような影が小屋に入りました。そして凝然とそこに座り込みました。わたくしどもの事務所の方角に体を向けて見下ろしたまま、タバコを吸い始めているようでした。わたくしは事務所の電気だけはつけておきましたので、影はそちらに集中して事務所内の様子を見つめていました。

 足音を消して近づくのは一応、探偵業として心得はございます。

「後ろから失礼します。動くと後悔します。無駄な抵抗はやめた方がいいです。」

わたくしは背後からその影に近寄り、直前に事務所で用意した護身用の電気具をその女の頬に充て、冷たく言いました。

「こちらを見ずに、手を後ろにしてください。抵抗は危険ですよ。」

影は、女でした。暗がりですが、見た目は想像より小綺麗にしているのがわかりました。御園生くんと同い年くらいにさえ見えました。

「……。」

「危害を加えるつもりであれば、とっくにそうしています。聞きたいことがいくつかあります。」

わたくしは、殆ど抵抗をしない様子のその女性を確認しつつ、後ろ手に用意した紐で手早く縛りました。墓地の暗闇から一緒に階段を降りると、ゆっくりと事務所の手前に進み、車(キャロル)のドアをあけ、助手席に座ってもらいました。事務所では外からも丸見えで、前を人が通ると、監禁と言われても困ると思ったからです。

 助手席に女を座らせ、わたくしは運転席に座りました。事務所の前は不安だったので少しだけ車を、人気の更にない墓地の桜並木の方に移動させました。闇の中、車上灯をつけると女性は真っ赤な髪の毛を帽子の下からはみ出しているのがわかりました。

「あなたは、どなたですか?」

「……。」

「なぜ、わたくしを尾行けたのですか?」

わたくしも、自分の方で聞きながら、多少は気が動転していて、どう始めていいのかも分かりませんでした。

「なぜかは聞きません。どうやって、わたくしの居場所を知ることができるのですか?」

女性の顔を見ました。尾行と言っても諜報員のような体を鍛えている風情もない、連絡員のようなアルバイトのような感じです。

「……。」

「先ほど、墓地の北端であなたはわたくしを尾行していた。恐らくですが、この車のどこかに細工をしましたね?」

わたくしは時間と共に少し落ち着き、言葉を上段に構え始めました。

「この車には細工がある。はい。答えなくても構いませんよ。」

「……。」

「我々はいま、とある、葉書の問題や、不気味な依頼人の問題を抱えている。そのこととあなたは関係しますね。」

「……。」

「荷物を見せてもらっていいですか?」

わたくしは彼女の抱えたかばんを取り寄せ、蓋を開けました。どのような環境でも女性のかばんを開けるというのは、嫌なものですが、携帯電話、紙袋に入れた札束、大学ノートらしきもの、などが見えました。大学ノートをまず開きましたが、殆ど何も書いていませんでした。

 携帯電話を見る気にならずに悩んでおりました。するとふとそこに携帯がもう一つありました。今どきの若者は携帯電話も二つあるというのはよくある話です。仕事用と私用が別なのであれば、仕事用だけを見ようと、思いました。

「どちらが、こういう仕事のためのものですか?」

「……。」

「この携帯、二つありますよね。」

「ふたつ?」

初めて聞く女性の声が思っていた以上に透明感があるのを感じながら、わたくしはハッとしました。片方の少し大きい方は実は携帯電話そっくりですが、画面が違う気がしたのです。

「なんだこれ?地図アプリだけなのですかね。」

「……。」

「これは、なんだろう。」 

地図の中に緑の点滅があります。

「これは、この画面の中で光ってるのは、西麻布の、つまり我々の現在地を指していますね。」

わたくしはその時、自分の予感が当たったのを感じました。二重橋でも今もこのキャロルにはGPSが付けられていた。この自分の体ではなく、車にであればーー。

「つまりこの緑色はこの場所を意味していますね?」

「……。」

「あなたは一人?他にいるのですか?」

「……。」

「もう一度聞きます。答えなくてもいい。あなたの仲間は近くにいますか?この状況を見て、なにかあなたのリスクが発生していますか?この状況だとあなたの仲間はあなたに危害を加える可能性まで生じていませんかーー。」

わたくしは目の前の女性があまりにも若く、むしろ幼い年齢なのにどうも会話がうまくできませんでした。これが守谷や風間のような相手であればもっと雑に自分の知りたいことだけを聞けると思うのですが。

「どうでしょうか?」

赤い髪を帽子からはみ出させたまま、女性は空虚な表情のままで何も答えません。

「大丈夫。答えたくなければ答えなくていい。」

わたくしは、しばらく墓地の周りをゆっくりと車を走らせ、その緑の点が同じように動くのを確認しつつ、青山一丁目の交通量が多いあたりで、車を路肩に止めました。ここならば逆に、何かがあっても人目がある。歌舞伎町にいたような人々も流石にここでは暴威は振るえない、と自分に言い聞かせつつ、

「尾行はあなた一人だと考えていいのですか?」

「……。」

わたくしは、彼女から奪ったスマホ風の機材を見ながら、

「この緑色のGPSですね。つまり、この車につけたってことですよね。」

GPSは先ほどの事務所の前から青山一丁目の現在地に移動していました。

「違いますか?」

この車に取り付けたでしょう、という目でわたくしは女性を見つめましたが少し臆してはいるものの女性は焦ってはいません。何を考えているのか判らない、意図の読めない表情のままです。

 わたくしはGPSをもう一度見て、緑色以外にも青の点があるのに気が付きました。

「もう一つのこれは何を指していますか?」

青色のその点は、錦糸町のあたりにあります。

「もう少し、待てば説明してもらえそうですか?」

わたくしはじっと女性を見つめました。

 赤い髪の女性はその時、目つきが少し白目を向くような均衡を壊す表情をしました。痙攣を予感させるとでも言いましょうか。なんと言いましょうか。尾行が失敗してしまったストレスで何か彼女の精神的なものが決壊してしまうような気がしたのです。そうして白目の痙攣を少しずつ増やしたり、その合間の小康状態で切なくも美しい表情を取り戻してこちらを見たりを繰り返しておりました。

 


百八二 車中にて (赤髪女) 


 赤髪女は軽井澤探偵に後ろ手に縛られたが、その縛り方は優しく、正直逃げることも可能だと思った。昨日、埋立地で背中を取られたときとは違った。あのときは、背の高い位置から体が抑えられ、岩のような不動感があった。どんなやり方をしても逃げられない力だった。それと今とは別物だった。

「千秒数えるまで、命の保証はない。」

という冷たく静かな声とは反対に、軽井澤探偵の声は温かいものだった。

 しかしながら、その温かさが逆に赤髪女の心を暗鬱にさせた。

 一体自分は何をしているのだ?という、徒労感が赤髪女を襲っていた。フラッシュバックでいくつかの過去が竜巻のようにくるくると回った。薬物的な禁断も混じってるのかもしれない。

 この探偵の不思議なやさしさのせいで、自分の気持ちが狂うのだ。乱反射する光が脳の中で彷徨って思考が粟粒になって消えていく。この人物の優しさや癒しが逆に不安に自分をさせるのだ。

「この青い点のことをなにかご存知ですか?」

GPSを指差して、軽井澤探偵は聞いた。その青い点は、指示者に追加して見ておくようにと言われたまま、放置していた人間である。新宿の歌舞伎町から、光り始めたのを覚えている。この二日ほどは錦糸町という駅のあたりで点滅して動いていない。もうひとつあった、赤い点、草臥れた茶ジャケットの風間はいつの間にか消えてしまって画面には映っていない。

 優しい言葉を丁寧にかけられるたびに、罪のような気持ちになり吐き気や痙攣のようなトラウマがおこる。自分がおかしい。覚醒剤のせいもあると思う。覚醒剤は善意に化学反応をするのだろうか?赤髪女は茶色い汗を掻くような気がした。

「このGPSでわたくしを、つまりこの車を追いかける理由は、誰かに指示をされたということですね。」

探偵はやさしくこちらを眺めている。

「違っていたら教えてくださると助かります。つまり、あなたは我々探偵と同じように、誰かに雇用されている。しかし、その雇用した人間もは身元を明かすのは危険が伴うから、かなり慎重なはずだ。」

「……。」

「その雇用先について判ることはありますか?着信の履歴だけ見させていただきます。メッセージは残っていないでしょうから。」

言いながら、軽井澤探偵は、赤髪女のかばんから取り出した彼女の携帯電話をこちらに差し出した。持ち主の赤髪女に顔認証をさせたのだ。

「非通知ばかりですね。」

「……。」

「これが指示をしてくる電話ですか?それとも別の方法ですか?」

「……。」

「わたくしどもは数日前に、とある二人の人間から相談を受けました。彼らのは一人は、猫の死体を玄関に置かれたのでびっくりして、なぜか警察に行かずにわたくしどもを尋ねたのです。頼ったとも言える。その方は、先日電話中に音信不通になりました。風間という方です。もうひとりは守谷という人物です。恐ろしい私刑にあい、瀕死の怪我をした人です。この二人は誰かに狙われている。その加害者が、わたくしどもの動きを気にしたかもしれません。でもはっきりと言いましょう。我々を調べたり尾行をしても意味がないです。その加害者に指示されているなら、そう伝えた方がいい。わたくしどもは風間や守谷から何か具体的な情報や秘密を受けているわけでもない。正直何も知らない。」

赤髪女は何も言い出せぬまま軽井澤探偵の胸の辺りを身任せにしていた。声が重なるたびに嗚咽があり、苦しくなっている。

「わたくしを追跡するのは構いません。何も起きませんから、自由に尾行すればいいです。あなたも事情もわからず、尾行をしておけばそれでいいというなら、GPSをわたしのポケットに入れてもいいです。それよりも、わたくしは、そんなあなたに、お聞きしたいことがあるのです。」

「……。」

「つまりその、つまり、こんな金銭をかけてまで尾行を命令するその理由を知りたい。その人が風間や守谷という人間を加害してきた人物なのならその理由もです。たとえばどういう人物か?について、少しでもわかることはありませんか?」

「……。」

「何も邪魔する気はございません。警察等に言ったりしませんし、何かをお聞きしてもそれを転用はしません。わたくしは、ごぞんじ、探偵で守秘義務は心得ているつもりでございます。わたくしどもは、ただ、その結果発生する二次災害を恐れているのです。」

「二次災害?」

赤髪女は、思わず口にした。

「はい、そうです。」

「二次とはどういうことですか?」

軽井澤はその時とても暗い顔をしていた。話したくはないがこのままいくと二次災害が起こるのだ。それは誰も幸せにしない、逆に無実の人を不幸にするかもしれないのだ、と、言葉を真剣にさせながら赤髪女に説明をしてきた。

「そうなんですか。」

赤髪女がかろうじてそう言葉を返した時だった。

 目の前が暗くなり、なにかが見えなくなっていくのを感じ始めた。

 頭を強い金属で叩かれたようなそういう一瞬だった。



百八三 癲癇後 (軽井澤新太)


 どうして闇を感じたのかはわかりません。美しい女性の顔面の中に何かガラスが割れてしまうような予感があって、何か暗い彼女の中の世界のようなものが覗くのです。わたくしがあれこれと追求をする中でーー赤い髪の女性は、時間を追うごとに、観念したという表情を深めた気もしていました。もう少しで、何かを話してくれると、わたくしは感じ始めていました。そう思っていたその時でした。

 突然、白目を剥き意識を遠くしたようにしたのです。そのまま人事不省となるような、痙攣を始めました。

「だ、大丈夫ですか?」

わたくしは焦って、助手席のリクライニングを倒しました。あきらかに、なにかの薬物的なものの禁断症状です。

 わたくしは、彼女の背中を擦り、額を抑えました。できることがなにもないせいで、そうするしかなかったのです。人間が死ぬ顔をするとき、悪魔のようなものが顔の各所に現れます。獣のような白目を剥く彼女にはそれが顕れていました。その表情のまま、突然、口から血を出しました。中毒者はしばしば、舌咬傷を起こし全身の強直痙攣と意識消失をおこなうのです。わたくしは、途方に暮れながら、病院に行くべきか、それとも警察に行くべきか、まさしく右往左往するばかりでした。

 その時ふと、この青山通り(246)の先に、


(守谷のいた池尻病院)


があるのを思い出したのです。池尻大橋は、今車を路肩に停めている青山一丁目からは車で数分です。まともな病院に薬物の中毒者を連れて行けば、すぐに警察沙汰になり、多くのことが身動きできなくなるのは目に見えています。かといって、命に関わればその方が大変です。

 わたくしは相当の速度で車を走らせ池尻までくると、車寄せに堂々と停めたまま、赤髪の女性をおぶり、リノリウムの床の上で車椅子に乗せて、守谷のいた部屋に向かうと、ほとんど常連の風情でわたくしは医者を呼びました。

「昨日お世話になった、守谷の部下のものです。身元は確認してみてください。」

「守谷さんの?」

「はい。すこしトラブルが続いておりまして。」

おそらく当直であろう、若い医者がすぐにやって参りました。医師はさも、こういう癲癇や顛末に慣れた様子で、まるで死にかけているとわたくしが慌てている赤髪の女性に驚きもせず、注射を一本打ったのと、顔面中心になにかマッサージのようにさすりました。

「覚醒剤の過剰摂取による痙攣ですね。」

医者は慣れたようにそう言いました。そうして、何も珍しくないむしろ飽きてるかのような表情で注射を一本用意し、呼吸も整えもせずにそれを赤い髪の女性の二の腕に打ち、

「では、以上です。お大事に。」

とだけ言って、帰ってしまいました。わたくしは余りの速さに呆気に取られましたが、赤い髪の女性はたしかに痙攣が治り、明確に落ち着きを取り戻し眠りなおしたように見えました。



百八四 映像 (銭谷警部補)



 バーで動画を見れるようになったのは少し驚きだった。

 石原の送ってきた動画には、日比谷線の朝の映像がいくつかあった。

 わたしがメッセージで


(見れそうだ。)


と送ったところ、石原は深夜にも関わらずメッセージを重ねてくれた。


(ファイル名はfileattached003とfileattached008です。同じ人物がいるように見えます。)


わたしは、そのメッセージを少しみてから、二つの動画を見比べた。本当だった。風情は変わっているが、わたしの知らない、しかしおそらく同じ人物だと思われる人間がいた。ただ、太刀川とは距離を置いていて、遠近のピントが合っていないせいで明確に顔までがわからなかった。背格好が同一の人物と仮定しても問題はないだろう。だが確信を得るにはもう少しサンプルが必要だ。


(なるほど、同一人物に見えなくはない。)

(はい。ですが、この程度ではと思いますので、明日も動いてみたいと思っています。)

(寝る間を惜しんで、申し訳ない。)

(大丈夫です。体力には自信があります。)

(明日も早い。ゆっくり休んでくれ。)

(了解しました。)


メッセージを終えたわたしは石原への感謝を心に集めてバーボングラスを掴んで氷を揺らした。そのまま動画を幾度か見直していた。こうやって撮影をすると確かに自分のが日常獲れる何倍もの情報量を把握ができる。そうして幾度も再生して見ることもできる。わたしは純粋な気持ちでやはり石原に感謝した。

 そんなふうに最初の動画、つまり今日の朝の日比谷線の動画をもう幾度となく眺めていたその時だった。

 石原が二つの動画で比べさせた人物とはまた別のとある男が、目に入った。その男には明らかに太刀川を狙って撮影したせいでレンズの焦点があっていなかった。ぼやけていた。しかしその男が目に入った瞬間わたしは心に津波が押し寄せるようにすべての精神的な状況を押し流されていくのがわかった。

 その男は太刀川の乗る地下鉄車両の一番奥の扉近くにいた。地下鉄の出入り扉の、扉袋に立っている。焦点が太刀川に合わせてあるため、細長い車両の手前と奥とでぼやけていて、表情は確認ができないが、カメラの側に背中を向けて立っていた。ただその背中はわたしの知っている背中に非常によく似ていたーー。

 バーのカウンターに板電話(スマホ)を顕微鏡でも覗くように目に擦り付けたわたしは、幾度も幾度もその映像を再生し直した。

 髪型や服装はちがうが、奴の二メートル近い身長は、誤魔化せたりはしないーー。



百八五 男 (人物不祥 村雨浩之)


男は若洲の草むらにいた。

計画の通り手配が進む。

少し武者震いがある。

今、世の中が求めていることを実行すると、信じている。そういう方向に向かっていることが自分の背中を押している。

しかしーー。

あの老人ーー。

江戸島の行動は予想外だった。

つまらない動きを追加してくれたせいで、計画に混乱が生じる可能性がある。

だから老人のやることは予想がしずらい。

やはり、そうなるとすぐにでも実行をする必要がある。時間をかければかけるほど不確定要素が増えてしまうからだ。




百八六 出池尻再(軽井澤新太)


 池尻病院の医師は、慣れた様子で薬物の処理を行い、女性の痙攣は止まりました。一旦安定すると看護婦がつくわけでもなく、勝手に帰っていいという空気になりました。先日は右腕を切断した人間が来てもあの程度だった病院ですから無理もないかもしれません。

 わたくしの目の前で、赤髪の女性の電話が鳴ったのはそうやって守谷のいた病室で彼女が少し落ち着き、悪魔がこぼれ落ちたような痙攣の表情を忘れたかのように美しく眠る横顔で静かな寝息をさせていた時でした。

 鳴り響くというより、静かに揺れるその電話の音に、赤い髪の女性は目を覚ました様子でわたくしと目が合いました。

「……ここは?」

「病院です。わたくしの車で意識を失ったのを覚えていますか。薬物中毒の発作だったと思います。舌を噛んで切れています。話す時に気をつけてください。」

「すいません。」

それまで、言葉を出すことも渋っていた女性は、昏倒をきっかけに心を開いた様子もありました。電話は一旦鳴り止みましたが、すぐにまた鳴り直したので、わたくしは女性にその電話を手渡しました。その画面を見て表情がはっきりと変調したのをわたくしは察しました。女性は電話に出ました。

「すいません。」

電話を取った女性は、思いの外明確に答えました。背筋を伸ばし、まるで上司の電話に対応するような空気がそこにありました。舌を切っているというのに、その痛みを忘れて話しているようでした。

「ーーー」

「はい。」

「ーーー」

「はい。」

電話は明らかに、なんらかの指示系統からの連絡でした。おそらく、その指示によって彼女はさまざまな仕事をしているのだと感じました。体調が悪いにもかかわらず、仕事の受注者特有の背筋を伸ばした態度がありました。そうしてひと通り確認が済んだところで電話を切ったようでした。

「この病院は、どこでしょう?」

「池尻大橋ですね。青山から電車で二駅。渋谷の次です。」

「はやく、動いたほうがいいと思います。」

「どういうことでしょうか。」

「ご存知かと思いますが、車にGPSがついています。」

赤い髪の女性はその言葉とともにわたくしを見つめました。美しい赤い唇と髪が白いベッドの上に紅白の対峙をさせていました。

「あなたがそうおっしゃって良いのですか。」

「…とにかく、急ぎましょう。」

「でも体調は。」

「お気遣いすいません。楽になっています。話はその後がいいです。」

わたくしは、協力をしてくれるのか?という質問をしようと思いましたが、女性の方に何らかの配慮があり、まずは従うべきだという直感が働きました。さっそく席を立ち、個室から出ようとドアを開けました。

「会計は?」

「大丈夫です。おそらくこの病院は。」

赤い髪の女性は、不思議な顔をしましたが、わたくしに従ってすぐに自分の脚で立ち上がり、歩き出しました。

「車は駐車場に止めてあります。」

むしろ女性に急かされるように病院のリノリウムの床を滑るように進んで、一階から出ました。すでに深夜で、外には誰一人といません。車寄せの奥に社用車(キャロル)をみつけると、女性は大胆に車の下に潜り込みました。そして予想よりも小さなその器材を裏面から剥がしてわたくしに見せるや否や、

「あなたが取ったことにしてください」

と言って、GPSの発信器を草むらに投げ捨てました。

「壊してはダメです。その瞬間に、再追跡を始める議論になって電話が掛かってきます。電源を入れたままなら、同じ場所にいるのだと誤認してくれる。先程の電話では少なくとも、この病院で休んでいると認識しています。」

「なるほど。」

わたくしはそう言って、ふと、女性の手を縛っていないことに気がつきました。逃げようと思えばいつでも逃げれるはずの女性は、その様子もなく、キャロルのドアの前で

「ありがとうございました。病院まで手配していただいて。すこし、ご協力できることだけ、させてください。」

とだけ言いました。

 我々は、一旦尾行のGPSが取れた車(キャロル)に乗り、病院を離れ始めました。元いた青山、つまり渋谷の方の玉川通りに戻りながら車の中での会話を始めました。

「繰り返しですが、病院をお世話していただき、ありがとうございました。」

赤い髪の女性は丁重にそう言いました。美しいだけでなく声に温もりのある人で、何かの邂逅をわたくしは感じました。そのまま自然な流れで質問の続きをしました。 

「痙攣する前に聞いていたことと同じで恐縮ですが。お聞きした内容は覚えていますか?」

「…はい。」

「そうですか。」

「私からも、お伝えすることがあると思います。」

「お伝えすること?」

「はい。まずその、GPSの画面を見ていただけませんか?」

「画面?」

「はい。ご想像の通り、私は自分に指示をしている人間のことを、目的も含め何も知りません。ただ、この画面の中にいくつかの手がかりがあるのかもしれないと。おそらく関係する人間が動いています。」

「関係する人間?」

「私が尾行していた人間は風間といいます。」

「風間ですか?」

「はい。その人間と同じようにもう一人、このGPSの中に入っているのが守谷という人間です。」

「守谷?なぜ?」

「二人の動きを追跡することが私の仕事だったからです。」

「つまり、その、貴方は風間や守谷を尾行してきていて、この緑の輝点が貴方とわたくしで、この青が守谷ということですか。風間は?」

「風間は以前、オレンジ色で存在しましたが、消えてしまいました。もしかすると自分で気がついて機械を破壊してしまったのかもしれません。」

「見当たらなくなった。」

「はい。」

わたくしを尾行し、そして同じように風間や守谷をこの女性は追跡をしていた、という。それでいて何も知らない。その尾行の理由も何も知らずに、このわたくしに逆に拿捕されている。わたくしは少し女性の危険を感じた。

「あなたは、風間と守谷を知っているのですね。」

「…はい。」

「なぜ、ご存じなのですか?」

「ご想像の通り、特に理由はないのです。」

「葉書のことはご存知ですか」

「葉書?どういう意味ですか?」

「…なるほど。」

「すいません。知らないことは多々あるとは思います。私はただ彼らの名前と光の点として追跡をし、指示があればその作業を行っていたに過ぎません。」

急ぎ、画面を見ると、赤い髪の女性が指し示した青い光点が東京の地図を正に今、動いているのがわかりました。確か最初に見た時は錦糸町のあたりに動かずにあったと記憶しています。それが、東京の赤羽を超えて北上しているのがわかります。すでに埼玉に入っていくようでした。国道沿いを動いていて、あきらかに車で移動しているのがわかります。

「あなたはわたくしを尾行していたがその目的や指示者が誰かもわからない。わたくしは風間や守谷がどうして追われているのか?誰が追いかけているのかを突き止めねばならないのです。」

わたくしがそう言っても赤い髪の女性の言葉をまとめる限り彼女が何かを知っているとも思えません。組織の末端で何も知らずに作業だけさせられている、そういう存在なのだと思われました。 

 わたくしは途方に暮れたような表情でしばらく黙っていました。すると赤い髪の女性が突然

「風間のGPSが消えている今、ここに残る関係者は、彼だけになります。彼、つまり守谷という人物です。今からこのGPSをうまく使って彼を辿り、状況を確かめるのが、私は一番良いと思います。」

と言いました。

「この青い点を、追いかけるべきということですか。」

「はい。」




百八七 K (銭谷警部補) 


「銭谷。お前に提案があるんだ。」

「なんだ?」

「銭谷。お前は上り詰めろ」

「なんのことだ」

「銭谷、いいか、お前は、警察で上り詰めてもらえないか?」

「どうしたんだよ?」

「捜査一課長、もっといえばその上に行ってもいい」

「魔が回ってきたな」

「そんなことはない。なんなら、俺が定期的に銭谷に手柄を渡してやる。」

「本気で言ってるのか?」

「権力に近づくんだよ。そうしないと倒せない闇がこの世にはある。」

「警察の通常の仕事だろう。闇を倒すのは。」

「どうだろうな。」

「……。」

「おれは早乙女も含めて、いろいろな闇に飲まれ出していると思っている。」

「早乙女が?」

「ああ。」

「本気で言ってるのか?」

「銭谷。上に行くってことは、そういう闇とも向き合うってことだ。」

「……。」

「若いうちは真実や正義だけ追求して刑事をやってる。でもみんな年齢を重ね大人になる。家庭を持ち、生活や人生がかかっていく。一般的に、権力に近づく年齢がいちばん、陰謀の片手間をつかみやすいんだ。」

「……。」

「さらに言えば、登り詰めれば、人間的に尊敬もされるが、昇り詰めなければ、負け犬でしかない。人間として価値もない。そういう組織が一番危ない。」

「……昇り詰めなければ負け犬でしかない、か。ひどい言葉だな。」

「警察を見ればわかるだろう。俺には警察官の誰もが肩書きにこだわるせいで、どんどん人間の本質が薄まるように思える。警察が変化していると思わないか?昭和の昔はあちこちに肩書きのないベテランがいて、正義だけのことを話していた。出世なんかより大事なものを彼らは追っていた。刑事の本質だけを追求してな。そういう人が、教えてくれたことはたくさんあった。キャリアのやつなんか、何も知らないようなことがたくさんあった。」

「今はそういう人間に居場所がなくなったかもな。」

「ああ。そうやって、肩書きだけを人間が求め出した時、何が起こると思う?」

「なんだ?」

「外部の人間にコントロールされるようになる。」

「どうやって?」

「想像できるだろう。簡単なやり方がいくつもある。」

「わからないな。陰謀の組織が警察を裏から操ってるっていうやつか?陰謀説そのものだが。」

「なんとでも言えばいい」

ウィスキーが頭の中で血液のように回っている。バーParadisoのカウンターをカジノのテーブルのように撫でながら、金石は泥のように酔っていた。

「悪を追究していくと、理解が進むこともある。」

「どんなことだ」

「俺たちの仕事の、正義と悪魔は単純に二分されない」

「……。」

「例えば今回の六本木の件で、警視総監のような上層部の人間がなんらかの片棒を担いだのだとしよう。」

「……。」

「つまり警視総監が犯罪者だったら、ということだ。」

「それも大胆で無理のある仮定だな」

「ああ。なんとでも言えばいい。」

「金石、気を悪くしないでくれ」

「大丈夫だ。慣れている。」

「……。」

「でも銭谷。警視総監にもなって犯罪などに関わる理由は、普通はないよな?」

「ああ。全くない。というかありえないだろう。」

「裏を返せば、そうせざるを得ないどうしようもない理由が必要だ、ということだよな。」

「どういう意味だ?」

「なにかの、誰にも言えない事情が生じた。」

「……。」

「警察より上の権力があったら、それはありえるんじゃないかな。」

「警察より上?」

「当然、警視総監なら、命懸けの判断をしているはずだ。」

「警視総監においては、警察の象徴だ。ありえんだろう。」

「俺もそう信じたかった。」

「……。」

「ただ、そういう特殊な力が発生しないで、今回の六本木の太刀川周りの変化は生じない。」

「……。」

「捜査二課で作業をしてる俺の考えでしかないがな。上場企業の上層部なんてのは嘘がたくさんある。」

「……。」

「もちろん、突然役員が嘘をつき始めたわけではない。会社の嘘がずっと続いていることの方が多い。まあ事実は藪の中ってやつだけどな。おれは、警察の上に嘘があるはずで、今回はそのことも含めて暴かなければならないと思っている。でも、そういう判断をした上層部の罪を暴くってことは、例えばその警視総監らと命懸けの対峙をするってことになる。そんなことをやろうとしている現場などがいたら、おまえがその警視総監の立場ならどうする?」

酔狂めいた言葉の所々は強い口調になった。金石は次の酒を要求した。

「人事異動だな。もしくは濡れ衣の懲戒だ。」

「六本木の事件には、そういう臭いが溢れ出している。」

「警視総監は違うだろう。違うと信じたい。なんのために俺たちが働いてるかわからなくなる。」

「まだ個人を特定していない。上層部、権力者の誰かが、と言う意味だ。」

「そんなのは陰謀だ。」

「どうだろうな。」

「……。」

「ただ、真実としてーーおおきな悪意が起きる場合、俺たちは常にそういう場所にいるってことだよ。」

「……。」

「陰謀の闇を調べれば調べるほど、そういう情報が増えていく。」

「警視総監、いや警察の上が絡む闇か?」

「ああ。権力の側が世の中に言えない調整をする闇の場所だ。この闇こそは絶対に暴かれなければならない。それを中途半端に止めることなんか俺にはできない。」

「やはり陰謀か。」

「ああ。いつもの陰謀だ。」

「……。」

「だからこそ、その本当を確かめて欲しい。」

「確かめる?」

「ああ。銭谷警部補が上り詰めて、そこに本当に犯罪があるのかを確かめてもらいたい。」

「俺にそれは無理だ。」

「そのために、俺はなんでもする。嫌でも定期的に手柄を渡してやる。」



百八七 追跡 (軽井澤新太)


 わたくしは青い輝点の動く方角を目指して運転していました。赤い髪の女性は無言のままずっと座っています。

 女性の説明通り、おそらくこの青い点が守谷にちがいないのでしょう。青点は埼玉を秩父の方角に向けて移動していきました。下道を通り夕食でもとるのか時折止まったりしながらしかし、方向を変えることなく進んでいます。池尻、つまり渋谷をこの社用車(キャロル)が出たのは深夜の二時頃だったでしょう。もうすぐ夜明けが来るのを東の空が感じさせてはじめています。青い点はGPSの画面の中秩父山系の中の国道に入って行きました。

 辺りの景色が明らかに東京とは違う、間延びした暗闇になりました。信号も間延びし、おそらく秩父の森が黒々と眼前に立ちはだかるようでした。


実験番号#2329 


 僕の大学の受験は面白かった。僕が母と家族を喜ばせることができたのはそれだった。

 勉強は最初は、負けん気ではじめたものだけど、途中から面白さに変わっていく。物理と化学の論述問題は、僕が受験した東大の理科一類には必須で、ごまかしは聞かない。ひとつの方程式が私の中で物理と数学という一見別の論理を重ねたのだ。ひとつはEアインシュタイン博士の開発した相対性理論。これにはさまざまな革命があるけども、ぼくは、原子爆弾という方向に向かったことは忘れてはならないと思っている。E=Mccという方程式が、こんな短い方程式が、原子力爆弾の設計の基礎なのですから。つまり重さを、エネルギーに変えられるなら「光の速さを二回も掛け合わせた」数のレベルで、エネルギーになる。つまり、爆発が起こるということです。実際に原子爆弾の材料は、普通の火薬とは全く違う量なのですから。

 これが物理の教科書を読み進んでいくと、どんどん教えられていく事実なのです。宇宙のコペルニクス展開、パラダイムシフトを初めて、ニュートの万有引力と、マクスウェルの方程式からアインシュタインの相対性理論までは、僕にはまるで探偵小説のような、仕掛けにも見えました。僕には世の中は長い探偵小説に見える。科学の中にも人間のプロットがたくさんあって、それを辿ることで今に向かっていく。核戦争にむかっていく。

 そうして、このことを知ると同時に、物理だけではなく、化学というのも同じように面白くなる。こっちもこっちで探偵小説なんだ。一番のミステリーは、すいへいりーべぼくの、ってやつ、でした。水がH2O。二酸化炭素がCO2 になるのは、このすいへいりーべで始まる、物語が全て入っているのだから、びっくり。こちらのほうも探偵小説そっくり!こちらは野球かサッカーの背番号が謎解きプロットになる。水素が背番号一番です。酸素は八番。そんな単純な背番号で、物質が全部できているなんてことを想像しただけでミステリーそのものだ。目の前の机もパソコンも、テレビも空も、太陽も、地球も、全部、その背番号の選手がつくっている。それも種類はさほど多くない。これだけ世の中に複雑に物が溢れているのに、番号で言うと一番から十八番までで、もう世界の99.9%が表現されている。

 そうしてその背番号がたとえば109番とか108番のような物質に何が発見されたか?Eアインシュタインの予言のとおり、重さがエネルギーに変わる、放射性物質が発見されたわけだ。すでに自然界で起こっていた、核分裂が起こることがわかり始めて、これが広島と長崎の爆弾になっていったーー。八月六日。八月九日。これは人類にとって凄まじい一日なのだ。不可逆性の道に向かった戻れない事実。そうだ。ミステリーと同じなんだ、殺人事件も、探偵が発見するヒントも一度、文章にして開示して仕舞えば戻れない。

 僕は、受験勉強は興奮した探偵小説の殺人犯探しのような物だと思っている。学んで前に進むことは本を読み進めるのと同じだ。


百九十 朝焼け(銭谷警部補)


 浴びるほどウイスキーを飲み続けたのはビデオに映ったその巨漢の男のせいだった。

 浴びたウィスキーがわたしをどうにもなりようのない過去へと繰り返し押し戻していた。

 わたしは石原の撮影したビデオを繰り返し再生した。映像の中、後ろ姿に辛うじて映る横顔や、体格は金石そのものだ。二メートル近い巨漢の足を切断するわけには行かない。佇まいや少し動かす体の使い方の全てが金石に見えた。だが、もし金石だと明確に確信があったなら何杯もジャックダニエルを飲まなかったはずだ。映像は不完全だった。撮影者である石原は別の太刀川という人間を追っていて、この巨漢には一切焦点(ピント)は合ってはいない。

 敢えて言えば顔の印象が少し違う。帽子とマスクのせいなのかメガネをしているせいか、顔の確認が完全にはできない。

 わたしは食い入るように板の電話の画面を睨み、何度も何度も再生し続けた。そして中毒者のようにウイスキーを無言で煽り続けた。金石のような、巨体がそこにいる。しかし顔の表情が見えない。マスクと、メガネと、帽子が計算された曖昧さを残している。また、もう一度、酒を飲み直す。ニコルソンは何か病的なものを察したのか、最後の客になった私を放置していた。わたしはウィスキーで潰れるまで飲もうとしていたが、どうやら潰れなかった。

 なぜかスマホの中の時計が四時になっているのを見た時、あと二時間で六時になるのだと思った。わたしは最後の一杯を一息に飲み干すと、思いついたように会計をした。ニコルソンはいつもと変わらぬ表情で、

「またぜひ。」

とだけ言った。ドアを開けると夜はもう終わりで朝が東の空に始まろうとしていた。

 外苑西通りはトラックばかりだった。天現寺から西麻布の、六本木ヒルズの影の街のような坂の下の一角のあたりまで歩いた。交差点近くに恐らく外国人向けのカプセルホテルがあった。客は誰もいなそうだった。六時まで、今から二時間だけ眠ってみよう。そしてもし二時間で目が覚めたなら、太刀川のいる六本木駅の地下鉄車両を目指すことにする。酒の勢いを借りて、万が一二時間で目覚めるのなら映像では確認できなかった巨体の男のことを確かめに行く。そうとだけ決めてわたしは狭いカプセルの中にそのままの格好で眠りについた。

 逆に、わたしは目が覚めないことを祈っていた。

 二時間後に場合によっては金石に会うかもしれないーー。

 こんな体たらくな自分を見せたくはなかったが、では逆に酒も飲まずにそんな場所に行けるかと言われれば、自信はない。わたしは深い眠りが少なくとも日中まで続くことを祈った。






殺人の当日 (九月十五日) 

百八九 朝の地下鉄 (銭谷警部補)


 カプセルホテルに冷たい音(トーン)が響いていた。それが現実だと気がつくまで、かなりの時間がかかった。前向きと後ろ向きの精神が、半々くらい。アルコールはまだ気分良くわたしを浸している。目が覚めてしまったのは確かだった。さっきまでバーにいたままの格好で、わたしは目を覚ました。本当は眠ったままの方が良かったと思いながら、わたしはカプセルホテルを出た。汗がひどかった。

 六本木駅へは西麻布赤のれんの前の坂を上がるだけだ。寝たままの身なりで起きて、何も考えずに歩く。

 念のため石原がいるかもしれない喫茶店の前は通らず、駅にじかに向かった。朝の六時半過ぎに太刀川が地下鉄に降りる入口は知っている。視界を確かめながら、六本木通りを渡ったみずほ銀行の角でタバコに火をつけた。わたしが目的とする人間が通ったところで、ゆっくり駅に降りるつもりだった。

 ジャックダニエルの残る喉にタバコを当てる。眠気の中、太刀川ではなく別の人間を探している自分が分かる。それゆえか、六本木ヒルズの方から、太刀川が姿を現したのを遠目に見ても何も興奮はなかった。むしろその周辺を凝視した。歩いていればわかるはずだ。あいつの身長だけは、誰にも隠せたものではない。

 太刀川は端然と日比谷線の入り口へと降りていった。わたしは合わせて六本木通りを挟んで反対側の入り口を降りた。階下で太刀川は自動改札に吸い込まれるところだった。わたしは目立たぬように周りを見回した。しかし、二メートルの男は視界にはなかった。朝六時の地下鉄の入り口は閑散としていて、人はまばらだった。


 もはやわたしは太刀川に存在を確認されても構わないと思っていた。日比谷線が滑り込んできたので太刀川の方角に近づきながら、隣の車両にちょうど乗った。まだ朝も早く、乗降客はまばらだった。ふと、昨夜尾行参加を宣言していた石原がいない気がしたが、変装して尾行しているのだと思い、探すことは辞めた。 

 列車が走り、次の神谷町に向かうところでわたしは太刀川のいる車両へと歩いた。車両の連結部の扉を開ける時に少し目立つ音がした。わたしを視界に入れた太刀川は、さほど驚かずに「またか。」という顔をした。

「嘘の隠居はもうやめにしたらいいぞ。」

その朝、わたしの声は滑らかで自然だった。まだ余韻を残す酒の力を借りられたようだった。

「嘘と言うのはどう言う意味ですか?」

「ああ。連絡先を捨てたとか、ネットから身を引いたとか、などいう虚言で、引退を演出してる、と言うことだよ。」

「ほう。これは、随分新しいものの見方ですね。古いとも言うけど。」

太刀川は、わたしを見てもまったく驚きもないようだった。もしかすると、こちらの手の内をすべて知っているのか、とさえ思った。

「銭谷警部補。あなたも面白い人ですね。どうですか?最近の警視庁の方針には合わなそうですが。」

「どういう意味だ。」

「言葉通りの、個人的な意見です。まあいい。繰り返しますが、我々、国民としては、税金の費用対効果もあり、他の捜査を優先することをお願いしたいですね。世の中にはたくさん、人々の目に見えもしない犯罪がありますよ。もっとも、あなたは、単に、担当を外された過去の犯罪が許せないから、私を追っているのかも知れないですが。」

「珍しい。罪を自分で認めたようなものだな。過去の犯罪か。」

「違いますよ。あなたの物の考えの、論理構造を指摘申し上げているのです。組織の、隠蔽された悪。そういうものを、あなたは暴きたい。ホームランを打ちたい。ずいぶん古いバットで。そういうことでしょう。」

「隠蔽された犯罪に関わったかのような言葉選びだ。それを指摘しているのだが、伝わらないか?」

「伝わっています。その上で、問題はあなたの性格だと言ってるんですよ。あなたは組織のつまらない問題を気にしてしまう。理想が高いのでしょう。」

「組織だろうがなんだろうが、悪いものは逮捕するまでだ。」

「まあ貴方の性格なのでしょうね。こうやって、組織が解決済みにした過去を、いまだに上司にも内緒で捜査している。五年も経ち、部下もついてこない季節になってもね。誰が見ても明確なことを、私は真っ直ぐに言ってるだけですよ。あなたは、大丈夫ですかと。」

「なんとでもいえばいい。」

「で、今日は何の用ですか?」

太刀川はそこだけ、しっかりと聞くぞと言う目で、わたしを見上げた。

「ただの偶然さ。」

わたしはそう言って睨んだ。睨みながら、わたしの両眼は何ひとつ太刀川のことを見ていなかった。黒目の見つめる外側で、身の丈二メートルの人間がこの空間にやってくることだけを待っていた。

「そんな訳無いでしょう。あなたの住居は霞が関より東側です。この路線にこの時間に乗るのは無理がある。別宅でもあれば別です。」

「おれの住所をなぜわかる?」

「しつこいからですよ。」

「まあ、インターネットに載ってはいないがな。大金を持ってるといろいろ、やれることがあるようだな?どう言う人間を雇っている?」

「繰り返しですが引退していますから。」

「売却した現金は家に置いているのか?」

「……。」

電車は次の神谷町に止まった。誰も乗ってこなかった。やはり今日は金石らしき人影はこの車両にはなかった。

 私は金石のことを聞かなかった。万が一、金石とこの男(太刀川)がつながっていてもいなくても、重大な迷惑を金石本人にかける恐れがあるからだ。

 想像をしたくはないが、例えば整形手術などをして顔を変えて、どこかへの潜入を試みているかもしれない。もし顔を変えたなら、それは奴も命がけだ、と言うことでもある。わたしは話題を変えた。

「では、要望に答えて、質問をするとしよう。槇村又兵衛という刑事を訪ねたことがあるようだな。」

「……。」

太刀川は一瞬聞こえない様子をした。

「とぼけるのは構わない。一方的に言っておこう。何か、槇村又兵衛という刑事に聞きたい情報があったのではないのか?」

「はて。誰のことでしょう。」

太刀川の表情は夜の湖のように暗く冷たかった。

「A署の刑事さんだよ。わたしより、ひと回りは齢をとっている。あんたが尋ねたはずだがな。」

「日々、いろいろな人間と話していますのでね。なかなかお顔とお名前を一致させるのは難しいのです。」

「そうだろうか?記憶力は随分良いと聞いているが。」

わたしは太刀川の顔面を凝視した。何を考えて何を目指しているのか。分かりずらい顔だ。

「すっとぼけてるようだな。」

「どうでしょうかね。」

「まあいい。こちらにも考えはある。」

わたしは、さほど自信のない自分を悟られないように、ゆっくりと間合いをとった。

「六本木の事件の話をしてもいいか。」

「あれは、事件ではなく、事故ですよね。」

「我々は、事件と呼んでいるんでね。あの事件で、あなたはとある組織に関わった」

「ほう。心当たりはありませんね。」

「とぼけるのは構わない。ただ、ある組織が動いた。そのせいで、なぜかいくつか不思議な変化があった。それは認めてもいいだろう。」

「変化の意味がわからないです。」

「あまりに事実を認めないと、そこに急所があるのが逆に露わになるがな。まあいい。誰がどう動いたかは知らない。しかし、事実として、あの8月、夏の終わりから警察の方針と、NHK以下、民放全ての報道の方針が変化した。明確にだ。」

「警察の方針は知りません。それはあなたたち身内の話ですよね。報道の方針は各社が決める物でしょう。ジャーナリズムですからね」

「ほほう。既存の横一線のジャーナリズムに不満があったから、メディアの株を買ったりしたんではなかったのかな?パラダイム社は。」

「覚えていません。」

「とぼけるところは、気をつけた方がいい。明らかに知っている事を知らないと言えば、警察は逆を想定するぞ。」

「過去を思い出しても、現実に縛られるだけなんですよ。わからないと思いますが思考する場所を変えていくのですよ。未来を変えたい人間にとってはね。」

「面白いな。未来を変えたいくらい、強い願望があるらしい。そして、過去は嫌いらしい。」

「ぼんやり生きていないんですよ。いろいろやっていましてね。銭谷さん。繰り返すようですが慈善事業に興味ありませんか?あなたみたいな人は、ちゃんと実際に未来を変える物事を考え、経験した方がいい。こんなことよりよほど、未来を変えれますよ。薄汚く歩愛した組織はね、中から変えるなんて無理なんですよ。外から象徴的な事件や劇を設計しないと、人間の群れは方向さえ変えられない。いや、変わりたくても何もできないんです。」

「未来や綺麗事の理屈の前に、そもそも犯罪者は、犯した事件の被害者を救うことから始めるべきだろう。わたしにある言葉はそれだけだ。人の命を失わせた人間をわたしは許さない。単純なことだ。」

「事件ではなく、事故です。それよりーー。」

「被害者は常なる過去と向き合わざるを得ない。いいか。未来を勝手に語るな。」

「被害者を軽んじる気持ちはありません。ただ過去だけでは生きられないという事です。」

「話を逸らしたいようだな。」

「言いたいことが最初からあっただけです。」

「あの夏の終わりに、各社の報道が変化したんだ。スポンサーや代理店程度の力では動かない。警察やメディアの頂点に向けた、話が必要だ。」

わたしは、酒に乗せて

「そういう力に、お前はすがった。その端緒が見つかりつつある。そろそろ覚悟をしておくがいい。」

考えようによっては、手の内を見せる言葉だった。いやはっきりと勢いに任せた失言だった。必要なのは完全なる証拠であり、証拠を掴む可能性があるという予告は、ただ、相手を逃げやすくするだけなのだ。だが、わたしはそれでいいと思った。太刀川が逃げ出すなら、むしろ好機がやってきたと思えばいい。

「まあ、任せますよ。捜査令状かなんかを持参いただいた時にその話はまたしましょう。」

太刀川はそれでも余裕だと言う態度は変えずに、微笑さえ湛えていた。





百九十 悪夢 (軽井澤新太) 


 わたくしは、大勢の男に監禁をされていて、部屋から出入りさえできないようにされています。そうして、全身を縛られていて身動きは取れませぬ。相手の男どもは、風間や守谷のような、凍てついた恐怖ある目だけを、目出し帽の中から覗かせています。無言で人格の見えざる複数でした。若く、まだ体力に溢れているのは体つきでも判りました。

 目出し帽の男たちは、やがて、私刑をはじめます。

 わたくしは叫びます。

 辞めてくれ、辞めてくれ。

 凄まじい力で、わたくしの身体は押さえられ身動きは取れないばかりか、不都合に動いた場所には容赦のない鉄パイプなどでの殴打が入ります。骨を打つ音と、激烈な痛みが夢でありながら全身に伝わります。吐き気がきます。ああ、もう駄目だ、意識が消えていく、というような。

 それらの悪魔の時間が続いていくうちにだんだんと最初は夢か何か冗談だと思っていた自分が、ほとんど現実にこれが行われているのだと言うふうに変換していくのか分かりました。殴られ犯されるひとつひとつそれぞれが、現実の信憑性を高めていくのでございます

 そこで、おかしいと思うのです。

 夢であるということ以上に、この場面を何故か、わたくしは何処かで見聞きして知っているのです。知っていてそれでいて何か蓋をした記憶のように脳のどこかの抽斗に片付けてあるのを知っていて閉じている。身体中を縛られ、目隠しをされると大勢の不気味な男が代わる代わる、わたくしに、タバコを押し付け、棒で殴り、服を破り、言葉では書けぬようなことをして、わたくしを凌辱していきます。

 夜が訪れ、また朝がくる。日中がくる。そしてまた夜が来る。

 食える物を食えず衰弱します。

 幾度も朝と夜が繰り返されます。

 そうして、ふと自分のことを鏡で見れることに気がつきます。

 自分が何かの力学でそちらに抜け、脱出できるような妄想を持ちます。

 窓の近くに鏡があり、うまく体を捻ればそこに、抜け出せるようなのです。まるで自分の体を置き去りにして、幽体離脱して部屋から抜け出るような感覚とも言いましょうか。

 そうして、元いた自分の身体を見つめ直し、わたくしは唖然とするのです。

 リンチを受けている人間の姿は、恐ろしいことに私では無いのでございます!

「紗千!何でお前が??」

恐ろしいものをわたくしは見させられるので御座います。この陵辱され、私刑され続けるこの身体がよく見ると美しい少女で、さらによく見るとなにか、その遠く窓ガラスにうっすらと映るのです。窓ガラスの外には誰か、陵辱されているこの少女自身を愛して止まない誰かがいて、その人が、人間とは思えぬ形相、顔面でこちらを見ています。まるで分断した国境線の金網の向こうで、自分の娘の処刑されるのを慟哭にしがみつく、人間の父親、それが、なんと、このわたくしの顔面ではありませんか?凌辱されてたはずのわたくしの側が外にいて、わたくしの娘の紗千が私刑を受けているのです。そしてその紗千の父親であるわたくしは何も出来ずに叫んでいるのです。その阿鼻叫喚の苦悶の表情の、恐ろしさと言ったら……。

 わたくしは、あのように恐ろしい人間の顔面を見たことはございません。

 それが他ならぬこの自分自身の顔面と知りながら、恐ろしくて見ることもできないのです。

「殺すなら、この俺を殺せ!彼女を解放しろ!早くしろ、殺すなら俺を殺せ!!」

その鬼の形相をしたわたくしは、怒鳴り続けます。夢の中のはずですが、自分でもわからない。わたくしは何もできません。ばかりか、逆に犯罪者たちは囁くのです。

「この手順にお前は覚えがあるだろう?」

目出し帽の男達は嗤いながらそう言うのです。わたくしの過去の失策を指摘するように声をはっきりと大にして、

「こう言う事件があったのをあんたは知っていただろう?」

「……。」

「知らぬ存ぜぬではなく、第三者ではない当事者になる。そのことで、本当の理解が叶うんだよ。」

その目出し帽の声は、わたくしにそう語るのです。黒いフェルトの中の目玉がこっちをみて、

「そうだろう?テレビで見てどこかで聞いて理解でもした気になっていたのだろう。」

「……。」

「娘を殺されたりする気持ちを取材だと?ふざけるな。お前の心の中のどうしようもない部分をおれはしっているぞ。」

「……。」

「恐ろしい人間だ。おまえは。ならば実際に、自分の娘を本当に殺されてみるのがいい。そうして初めて、貴様は理解できるだろう。この世のおかしなことを、実際に被害者になり遺族になって、毎朝の地獄がはじまってから、もう一度自分の意見を言うがいいーー。」


百九一 朝の本郷(太刀川龍一)


 太刀川は、御茶ノ水を過ぎ次の本郷三丁目駅で丸の内線を降りた。

 酒臭い銭谷警部補のことは、驚くほど脳裏になかった。

 組織に苦しむ人間は酒に頼り、そしてああいう姿勢になる。それは太刀川自身にはありがちな組織人たる人間の通常の現象でしかない。多くの優秀な組織人が、組織の都合に耐えられず酒で自分を癒している。それがこの世だと思っている。あえていうなら、泥酔でもしてる人間の方が元々はまともだということだ。

 銭谷警部補にはもっと別の物事を追いかけて欲しい、と、太刀川はある程度素直な気持ちでそう言ったのである。ほとんどの人間にそういうことは思わないのだがーー。

 改札を出ると、いつものように本郷文庫を眺めた。

 いつものように活字を背負った背表紙たちが、並んでいる。

 作家らが命を込めて並べた文字列である。

 地下鉄の多くの駅にこういう青空文庫があった時代は遠く去りつつある。全ての物事はネット中心になった。文庫本を無料で誰でも借りられる事よりも、手荷物にならない電子書籍のほうが良いらしい。

 太刀川はやはり生の本は電子書籍とは違うと感じている。

 紙で見る文字は湿り気を持って脳に入っていく気がする。

 地下鉄の路線図や地図図面を味わうことと同じように、背表紙の並んだ書架を眺めたりする記憶はその日の陽射しや匂いのような体感とも重なる。人間と出会うように、本と出会うのだ。今朝の銭谷警部補のように出会い頭で罵り合うこともあるだろう。知らぬ間に隣に座るように、ポケットに入っていたのでもいい。むしろ出会うこと自体が人生の貴重な体験の一つだ。画面を通してばかりの記憶は、果たして体験といえる価値があるのだろうか。

 駅舎を出ると、初秋の日差しが美しかった。赤門を入った辺りの法文関連から図書館や講堂などを散策しよう、と太刀川は思った。銀杏の緑がまだ最後のつよさで並木を彩っている季節が太刀川は好きだった。


百九二 本棚写真(石原里見巡査)


 六本木駅でいきなりの登場をした銭谷警部補に石原は驚いた。無論、中年の主婦に変装している自分から話しかけることはできなかった。銭谷警部補は太刀川の車両に乗り込み、何やら自分から話しかけている様子があった。何の目的だったかはわからないが、しばらく会話を続けていた。霞ヶ関も過ぎ、日比谷を越え銀座まで行ってやっと太刀川が車両を降りたので会話がようやく終わったようだった。石原は太刀川に合わせて車両を降りた。

 車内に銭谷警部補の背中を乗せたままの日比谷線は、ドアを閉めるとそのまま北千住築地方面に流れていった。

 石原は中年主婦の姿勢のまま太刀川を追った。丸の内線の池袋方面に乗り換えた太刀川は、最初の日の尾行と同じ本郷方面に向かっている。石原は気づかれてはいない自信をもって、隣の車両に乗り、鞄の穴から覗くカメラだけを向け、自分は何もないように席に座った。淡路町、御茶ノ水、と過ぎる間、太刀川は戸袋にもたれたまま、考え事をしている様子だった。

 初日と同じ本郷三丁目駅で、再び太刀川は降りた。

 細々としたホームは大手町とは違って、東大の大学職員風情のする幾人かが歩いていた。まだ朝の一限には早いと思われた。階段を上がって改札を通るときに、太刀川の背中が改札の外で立ち止まっているのが見えた。石原は咄嗟に力む体を悟られまいと、そのまま真っ直ぐ商店街の方へ歩き抜けた。太刀川は改札の横の例の<本郷文庫>の本置き場の辺りにいた。

 駅から本郷通りに出る商店街の途中にタバコ場があった。石原はそこで太刀川を待った。四、五分待ったところで太刀川がここを歩くのだと思った。が、不思議なことにタバコを三本吸っても通らなかった。駅の方に戻ってみると太刀川は既にいなかった。どうやら狭い反対側の出口から出たらしい。

 石原の視界の先に、さっき太刀川が立ち止まっていた文庫置き場があった。達筆の毛筆で「本郷文庫」という紙が貼られていた。駅の改札を出たすぐ横だが、学生含め誰も立ち止まったりはしない。東京大学の最寄駅とはいえ昨今、本を読んだり古本を手に掴む人間はもう多くないのかも知れない。電子書籍は重さもなく何冊もどこにでも持ち運べるのだ。

 石原は念の為、太刀川の視線の先にあったその本棚の写真を一枚撮った。

 地下鉄の映像だけでなく、彼の見た眼差しも集めておくほうが良いのはいうまでもない。

 乗降客が過ぎたあと、ひんやりとした初秋の朝の風が頬を撫でた。

 


百九三 産廃の山 (軽井澤新太)


 …毎度繰り返すいつもの悪夢からわたくしは目を覚ましました。

 寝落ちしたのは一瞬だと信じたかったのですが、時計を見ると朝の七時を指しています。すでに三時間ほど過ぎていました。わたくしの隣では同じように眠りに落ちたらしい赤い髪の女性が小さく寝息を立てていました。 

 昨夜わたくしは、助手席の赤い髪の女性と一緒にこの社用車(キャロル)でGPSの青い点を追いかけました。恐らく守谷であろう青い光点は東京を北上し埼玉に入りました。GPSが動きをようやく止めたのは、埼玉の秩父山系の山道に入ったあとのかなり奥地でした。周囲は山しかない一本道の国道に青い点がとまりました。我々はそこまで急ぎました。ようやく恐らく青い点が動きを止めた場所にたどり着き、道の先を確認すると闇の中に車があります。赤い髪の女性と相談し、減速せずそのまま横を通り過ぎました。その刹那に運転席を盗み見ましたが一瞬でそれが守谷であることがわかりました。闇の中で守谷はどうやら仮眠を取っているようでした。こんな山奥で何をしようとしているのか、ゾッとしながらもわたくしとしてはとにかく夢中でそこに起きている現実を把握しようとしておりました。

 守谷の車は軽トラックでした。車上灯も消して道端に停まっておりました。我々は念の為、守谷の視界を外せるところまで車を出し、停車しました。そうしてしばらく守谷の車の周辺で動きが始まるのを待ちました。しかし車で追い越した時に見た通り運転席に守谷は眠っていたのです。そうすぐには動きはないだろうという空気が赤い髪の女性とわたくしとの間に漂いました。

 おそらく、そこがその日の緊張の限界だったのだと思います。

 闇に動きのない軽トラックを遠くバックミラーで見つめながら、朝まで少し待とうと話すなかでわたくしは寝落ちしてしまい、そのまま失神いたしました。そうしていつもの悪夢を繰り返したのです。

 木々の間から輝く朝陽が強制的に夢を寸断してくれなければ、またいつものように昼過ぎまで布団から出れない苦しみが続いていたのかもしれません。嫌な寝汗が身体中を覆うのを手で拭うようにして、目覚めたわたくしはすぐさまバックミラーを確認しました。守谷の軽トラックが見当たりません。

 わたくしは大急ぎで、車を切り返しました。

 昨日間違いなく守谷が軽トラックを停めていた場所まで戻ってもやはり何もありません。

 車窓から外を見やりますと、青空を遮るように深い緑の木々が鬱蒼としておりました。辺りを見回そうと、窓を開けたとたん、大自然の景色からは想像のできない異臭が激しくいたしました。少し先の森の中に巨大なゴミの山があるのがわかりました。それも自然の山ではない。銀色や白、灰色のいかにも人間じみた廃棄物のゴミが、堆(うずたか)く積み上げられ、おりからの朝陽に矛盾した銀光を返しておりました。人間がこの地球を汚すその廃棄場が目の前にありました。ちょっとやそっとの山ではありません。粗大ゴミから工場の金属部品までごちゃ混ぜにして、随分と広大に広がっているのです。

 産廃物が廃墟のように積み重なっているその手前に入り口らしき門があり、おそらく守谷が昨夜軽トラックを停めていたのはまさにその場所でした。すでに守谷のトラックはありません。トラックが停まっていたあたりをよく見るとその入口の門が廃棄物の積み重ねで竜の如く背を伸ばしておりました。あたかも、錆びた銀の龍が病みながら踠き苦しみ天に向かう地獄絵図のようでした。

 異臭は朝陽を受けてさらに酷く、人間さえいなければこの森はどれだけ美しくあったのかと思いつつ、わたくしは車の窓を厳密に閉めました。赤い髪の女性は薬物で嗅覚を悪くしているのか、異臭には頓着なく助手席で寝たままのようでした。

 その時になってようやくわたくしは例のGPSを見ればいいことに気がつき、急いで守谷の車の位置を探しました。

 この付近には既にいないようでした。しまった、と思いましたが、地図画面を指で広範囲にするとすぐに青い点がみつかりました。おそらく、少し前に出たのだと思います。青い点は元きた山道を降り埼玉県内の平野部に向けて東南に向かっているのがわかりました。

 わたくしは追跡を開始すべく車をアクセル全開にしました。

 その頃ようやく、赤い髪の女性の寝息が止まりました。

 女性は目を覚ましたようでした。


百九四 密室 (人物不詳 村雨浩之)


 男はその一室の鍵を開けた。誰ひとりたりとも知らせてはいないが、念のため<この部屋も今日で最後にする>のである。今日のこの「荷物」がそこにあり、またこの部屋の特殊なパソコン機材などを整理しなければならない。地味で意味のないゴミは全てこれから東京湾にもっていき、錘をつけて沈める。まあ数十年は浮かんでは来れないだろう。一部の世の中向けの設計以外は見えなくすればいいのだ。

 ネット環境に繋げれば、今の警察は全てを把握する。

 たとえば情報を抜かれた反社会集団のような組織は全て警察の奴隷だ。サーバーを通過した過去の会話や資料を辿れば、全ての人間は丸裸だ。だれでも逮捕できるし組織ごと潰すこともできる。

 だからこそ、この部屋が大事だった。

 この部屋は最新のネット環境には接続がない。過去にIPアドレスもない頃に作られた回線が亡霊のように残っているだけだ。そのせいで特殊な環境が存在することができた。個人情報を使わず、IPアドレスが不確定のまま作業をすることができる。特殊なVPNを海外経由で設置するこの形は、警察では把握ができない。中国大陸でGoogleを使うときは一時期このやり方が重宝された。権力に無記名(アノニマス)で把握されない、無免許のラジオ短波無線のようなものだからだ。

 多くの人たちは知らないうちに全てを把握されているーー。

 iPhoneのメモだろうがGoogleのDocumentだろうが、全て警察が監視できているのだ。すべてのインターネット企業が警察に情報を収めている。そのことも知らない。知ろうともしない。すべての世の中の組織は警察の管理下にあり、何をしても全て丸裸なのだ。

(だからこそ)

 男が使ってきたDocumentは安全だった。

 過去もっとも古いテキストアプリであり、文字を書くことくらいしかできない。最新の機能はないが、誰にも察知されない、メンテナンスもされない、年代物のパソコンだった。ネット情報を繋がず、アップデートも行わずサーバーも経由せず、大昔のワードプロセッサーのような存在ともいえる。男の計画は全てこのDocumentの中で更新されてきた。何度も書き換えて来たが、その内容も時間軸も、警察を含めてほかの誰にも把握はされていない。

 男は文書の後半を見直した。

 計画を大幅に修正した後半、である。

 そこにはこのあと、自分の計画の結果、警察とメディアがどうどう動くのかを中心に整理してある。

 自分には経験があるーー。

 世の中がこの「事件」にどう対応するのか。

 男の考えた「犯罪劇」をどうとらえるのか。

 つまるところ、世の中はどう「事件」を消費するのか。

 メディアが喜ぶ事件というのは何なのか。

 わかりきっている、と男は思っている。

 群衆はわかりやすい悪魔を求めている。

 わかりやすい設計が必要なのだ。

 そうして設計の中で、悪魔退治をしたいだけなのだ。

 実際に自分の手には関係ないのに、悪魔退治に参加した気分になりたいだけなのだ。

 その際、悪魔はわかりやすく単純で憎むべき悪でなければならない。

 見た目も歴史も態度も、大衆が嫌悪するものであるべきだ。

 悪魔退治ほど楽しいものはない。

 物語をご用意するのだ。

 世の中にとってこの上ない、楽しみがやってくる。

 テレビは全体の視聴率があがるだろう。

 目の前の退屈で平凡な毎日を忘れさせてくれる悪魔退治が始まるのだ。

 ネット上では正論反論含めてさまざまな言葉が踊るだろう。

 正義に飢えた大勢が、実は暇でしかない大勢が、自信満々の言葉を並べ、悪魔を罵倒する。

 そんな正義の輩がまともとも思えない。

 どっちが本当の気狂いなのか

 男には自信があった。

 書き溜めた計画を<今夜実行する>。

 同時に、この年代物で愛おしいパソコンも、海の底へと消える。

 男にとって、長い一日が始まろうとしていた。



百九五 矛盾考 (石原里見巡査)


 石原は改札を抜け、丸の内線本郷三丁目のホームでスマホを久々に見た。

 まだ午前九時である。大手町方面に戻る地下鉄は通勤ラッシュだった。人々は押蔵饅頭の中でも懸命に顎近くにスマホを置いて各々の時間を過ごしている。まるで蜂の巣の幼虫かサナギのように地下鉄の車両に並んで詰まっていた。その中に石原は身を預けるようにして乗り込んだ。

 その時であるーー。

 それは、ふとした間合いだった。

 石原は焦った。空気が強く全身を打ちつけたような感覚に襲われた。

 なぜこれまでそのことに気が付かなかったのかーー。

 自分を責めることはしなかった。が、よく考えれば、わかることではなかったか。


 取り止めのないメールが、くる。


 それは銭谷警部補の言葉だった。

 しかし、である。

 それではおかしくないか?

 つまりーーー。

 情報の管理が命取りだと、事件のあった五年前の捜査で繰り返したのは金石警部補だ。だから銭谷警部補にも捜査の内容さえ共有を積極的にしなかった。何故なら情報は恐ろしいものだからだ。情報は誰かを命取りにしてしまうーー。では、そういうことが口癖だったような人物が、警視庁のメール宛に、「取り止めのないメール」を送ることがあるだろうか?

 情報の貴重さを誰より知っていて、周囲に与えるリスクを最も慎重に考えていた、その当事者である。メッセージを送ることにも送られることにもリスクがある。ましてや相手は自分が毎晩あの事件の捜査本部で最後まで組んでいた人間、かつ、まだ警視庁にいる銭谷警部補である。メールは全て監視されてる可能性が高い。

 石原は満員の丸の内線の中で唾を飲んだ。

 金石元警部補は、ある情報を持って警察を辞めた可能性が高い、警察や権力には不都合な情報を含んだからこそ不自然に警察を辞めたはずだというのが先日の銭谷警部補の長い説明だった。そして銭谷警部補の言葉を信じるなら、彼はまだその捜査を継続している。所属はわからない。組織かどうかもわからない。しかし銭谷警部補曰く、金石元警部補と言う人間は簡単に諦めたりはしない、物事を途中で済ますことなど絶対にない人間だという。そんな人間が命をかけて掴んだ、警察に不都合な情報を持ったまま行方をくらましたのである。

 果たしてそんな人間が「取り止めのないメール」を送ったりするだろうかーー。



百九六 セメント(軽井澤新太) 


 我々より二キロほど先の守谷を指し示す青い点が埼玉南部の、国道十六号沿いで一度止まりました。

「朝食か、何か休憩でしょうか?」

わたくしは、信号待ちの合間にそう話しかけました。赤い髪の女性は、

「食堂やコンビニではなさそうですね。スマホのGoogleマップでも調べてみますね。」

と答えました。体調は戻っている様子でした。

「ありがとうございます。」

「少し地図を拡大してみますね。」

運転してる間は目を覚ました赤い髪の女性に、守谷の追跡を手伝ってもらっていました。思えば不思議な状況でした。昨日までわたくしを尾行していた人間がいま守谷を追跡する手助けをしているのです。女性は、昨夜の癲癇は何もなかったかのように静かに目覚め、一旦は落ち着いていました。

「ホームセンターですね。なんだろう。でも上手くいけばここで追いつけそう、ですね。」

GPSの青い点が停止していた場所は国道沿いにありがちな巨大なホームセンターだとのことです。

「こんな早朝から営業をしているのですね。」

我々はしばらくしてGPS上の青い点滅に追いつきました。国道から地図で想定していたホームセンターの入り口に滑り込みました。視界の遙か先にまだ早朝、車のない駐車場にポツンと昨夜暗闇で見た守谷の軽トラックが停まっていました。

「ん?あれはなんですかね。」

少し近づいていくと、守谷の軽トラックには、昨夜と違い後部の荷台に青いシートが掛かってます。軽トラックの小さな荷台に青いシートで縛られて何かの物体らしき塊が設置されているのです。昨夜からの明確な変化にわたくしは強く違和感を覚えました。

「なんだろう。」

わたくしは軽トラックに向けてマツダのキャロルをさらに近づけました。運転席に人がいないのを確認し、守谷が遠くホームセンターの建物の方まで見当たらないのを目視しながら更にゆっくりと車をすすめました。ゾッとしたのはそのときでした。青いシートで覆われた隙間に、とあるものが見えたのです。

「なんですかね?」

「ドラム缶、ですね。」

わたくしが青いシートで覆われている物を正しく確認できたのと、赤い髪の女性が呟いたのは同時だったと思います。

「ドラム缶?」

今度はわたくしが呟きました。そうして車をもう一度出口の近くに戻してから、重いため息をつきました。

(軽トラックの荷台に、ドラム缶ーー。)

このドラム缶という存在には恐ろしい来歴があるのです。ドラム缶と守谷という象徴的な組み合わせをどこかで覚悟していたものが現実に浮き出て、そのまま脳の中の冷たい恐怖がわたくしを断続的に襲っているのが判りました。

 どれくらい時間がたったか判りません。

 今度はホームセンターの入り口から車へと戻る守谷が歩いてくるのが見えました。腕がないのを目立たせないように何やら服を嵩張るように着せているのが判ります。その残された右腕の方で、何か袋のようなものを乗せた台車を転がしてきます。

「あれは何ですかね?」

「何かの袋に見えます。」

「なんだろう。」

守谷は軽トラックの青いシートをまくると、その台車から持ち上げた袋を次々と片腕で荷台に載せていきました。

「セメントですね。コンクリートかなにかを作る粉ですね。」

赤い髪の女性がそういう前後から、わたくしは言葉を失っていました。それはそのまま唇が冷たく凍りつくかのような恐怖でした。顔面が引き攣るのがわかりました。

「いったい何をしてるのですかね?」

赤い髪の女性の声の横で、わたくしは、その時、十四枚の葉書のことを思っていました。そして、その葉書が、わたくしの脳裏に二つの言葉になって並んだのが判りました。八月六日分が八文字。九日分が六文字。です。


OCCEETRN  ・・・六日消印

AAUKSW    ・・・九日消印


その言葉は、どこかでわたくしは想定していた。でもどこかで全部を否定して自分で見えないようにしていた、そういう記憶とも絡みました。想像したくない現実がひとつの結実としてわたくしの目の前で、堂々と真実なのだと暴れます。


 そこで女性の電話が鳴りました。 

 電話でも鳴らなければ、わたくしはその場で違う行動を起こしていたかもしれませんでした。。。



百九七 別れ  (赤髪女)


 赤髪女が電話を終えても、軽井澤探偵は無言だった。

 ホームセンターで軽トラック車両に再びおいつき、その積荷を見てから明らかに軽井澤の表情が変わった。何か守谷とは別のものを恐怖しはじめたように赤髪女には思えた。何かの真実を見つけてしまったような表情にも思えた。

 守谷は軽トラックの積荷にコンクリートの粉らしきものを載せ終え運転席に戻った。国道へと戻りしばらく走った。追跡しながらも軽井澤氏は無言だった。ただ明らかに積荷ーー風に吹かれ青いシートがはためき、合間からドラム缶が見えるたびに顔面が引き攣るような気配があった。明らかに不自然な変化だったのが赤髪女にも伝わった。

 トラックが突然信号を左に曲がったのは東京に向かう国道17号に入ってからしばらくした交差点だった。てっきりまっすぐ東京へと戻ると思っていたが意外な左折だった。守谷が車を止めたのは埼京線の与野本町という駅だった。

 駅前には何もない車のロータリーがあるだけだった。

「なんだろう。電車に乗り換えるわけもないだろうけど」

軽井澤氏はそう言った。特に電車に乗ろうと言うのでもなく、しばらく守谷が動かないので駅前ロータリーを回りながら遠目にトラックを見ると、守谷は運転席で眠っているようだった。

「なるほど、休憩のようですね。」

「休憩?」

「あの片腕で、参拝の山からドラム缶を拾うのを一人でやってきた。つまり疲れたんだと思います。」

なるほど、たしかに、軽井澤氏のいう通り流石に徹夜の作業の疲れなのかもしれない。次の作業に向けて眠ろうとしているようにも見える。

「つかれて、眠る、か。」

軽井澤氏はそう呟いたまま、こちらも軽自動車のキャロルをロータリーの端に停車させしばらく沈黙しました。


 幾分かの時間の後、軽井澤氏が

「ここでお別れするのがちょうどキリがいいかもしれませんね。」

と突然言った。それは随分唐突で赤髪女は少し焦った。焦ったのを悟られまいとするように

「ここで、ですか。」

と言って運転席に座る軽井澤氏を見つめ返した。

「この駅なら東京までもすぐです。この後守谷がどう言う動きをするか読めません。昨夜のように山奥に向かうかもしれない。そういう意味ではこのGPSを引き続き使わせてもらえるのであれば、もう大丈夫です。もしこれがどうしても必要なら後日、事務所に来ていただければお返しいたします。昨夜のことでわかる通り、わたくしは警察には行きませんので。」

「でも」

「あなたは、わたくしを尾行していたと思います。でもあなたはわたくしを知りもしない他人です。誰かから頼まれたのだと思います。頼まれただけなら、いつまでもわたくしと一緒にいるのは危ないと思います。わたくしと何らかの接点を持ち指示をする人間の思惑の反対に動く可能性もあると思うのが普通でしょう。いちおう車を運転しながらずっと後ろも気にしてきましたがこの車への尾行はなさそうです。もっともGPSで位置は把握されているかもしれませんが。」

「……。」

「このままお別れして、もう二度と尾行はしないでください。そうですね、もし今度尾行をすれば違う対応をしますので、どうか辞めていただきたい。」

「……。」

「昨夜の痙攣も含め、あなたは何かの薬物、つまり覚醒剤などの問題があるのかもしれませんが、そのことはわたくしがとやかく言うことではないと思います。ただ、まだ若いのですから、ぜひ人生を無駄にしないで大切に使ってほしいです。」

「……。」

「これ以上一緒にいるのはやはり、あなたのために良くないですから。」

軽井沢は淡々とそう言った。

「ちなみに。」

「はい。」

「あなたはおいくつですか?」

「に、二十六歳です」

「ああ、そうですか。」

その言葉が赤髪女は、突発的になぜか切ないものを感じた。例えるなら

「自分の娘も生きていたらそれくらいの年齢だったんです。」

という言葉を軽井澤が言ったように聞こえた。いや確実にそんな言葉は聞いてはいないのだが、なぜか軽井澤が目でそう伝えたように感じたのだ。だから、大事に生きて欲しい、というような意味合いで。

「ではここで、お別れしましょう。」

「はい。」

いろいろすいませんでした、という言葉が今度は赤髪女の心の中で集まって声になろうとしていた。けれどもその言葉も出ずに終わった。

 それらの無言は、何秒間くらいだっただろう。会話にはならず言葉も適切に出てはいかないけども、赤髪女には何か暖かい風が脊髄に吹くような不思議な感覚があった。それでいて昔の社長さんのように去りゆくものの優しさや悲しみを含んでいた。この世界から去っていく時間がきた誰かの気持ちを何故か思った。赤髪女を見て別れを告げている軽井沢の表情は、幻でも見てるかのように微笑んでいた。

 


百九八 重体 (銭谷警部補)


 地下鉄車両での太刀川との口論の間ずっとわたしは目の淵で金石を探していた。太刀川が降りた後もその車両に金石がいるかもしれないと思って探した。しかしわたしより身長の高い人間でさえいなかった。

 どこをどう歩いたのか思い出せない。気がつくと日比谷公園と皇居の間の道を歩いていた。夏を名残る、紅葉前の充実した街路の緑が、奇跡のような風にゆっくり旗めいている。

 警視庁のビルが見えてきたのと、わたしの私用の携帯電話が鳴ったのは同時だった。朝から何の説明もなく尾行を混乱させた石原だと思って、詫びる気持ちで出ると、違った。わたしは、私用の携帯電話の番号を教えたもう一人を忘れていた。

「銭谷か。たいへんなことになった。」

いつも朗らかな是永の声が、冷静ではなかった。

「いいか。落ち着いて聞けよ。槇村又兵衛刑事に事件があった様子だ。」

繰り返しだが、是永は警察学校の同級で、別々の配属だったが、又兵衛刑事のいるA署にいる関係で、いくつかの調査を頼んでいる。

「事件?」

わたしは、はっとした。昨日のK組との記憶を辿る。危険を感じていたことだが、まさか、と思った。

「情報は、表に出さないことになってる。」

「表に出さない?」

「警察として発表しないってことだ。」

「どういうことだ。」

「又兵衛刑事は、顔面を切られ、舌を切られ、手足、特に指をやられているらしい。」

「……。」

「意識がない。いわゆる重体だ。」

「まさか、酔っ払って、転んで自業自得だっていう話ではないだろうな」

「勘がいいな。」

「……。」

「おおよそ、そういうことだ。でなきゃ、メディア集めて犯人を探す記者会見をするはずだ。警察官が何者かにやられてるならば。」

「なぜそうしない?」

「発見した警官がいち早く本人の警察手帳を確認し、すぐに署内で検討をしたようだ。それは交番経由で聞いた。」

「……。」

「強めの緘口令が敷かれている。要するに一見、何者かに襲撃された様子があるのだが、無理やり自殺未遂のように整理したんだ。」

「自殺未遂?どうして顔面を切られ舌や手足を自殺でやるんだ?A署はそれでいいのか?」

「わからんーー。ただあの人は特殊だ。絶妙なタイミングでもある。」

「絶妙?」

「例の処分だよ。懲戒解雇の。」

「……。」

「そのことついては前回話した通りだ。警察組織には上意下達がある。とにかく、そのせいであの人はすでに、現役の刑事でもなくなっている。」

「すごい屁理屈だな。」

「そうだな。」

「そもそも、警察に命を捧げてきた人間だろうが。」

「……。」

是永に突き付ける台詞ではないのはわかっていた。でもわたしはそういう言葉を言わずにはいられなかった。

「是永は、舌を切られてるのを何故知ったんだ」

「噂は回るんだよ。少しの良心を心の奥に持ちながら、本当の意見を言えない人間が溢れているってことだ。みんなちゃんと見て知って、そして見てない振りをしてるんだ。」

「で、今どこにいる。」

「病院の名前だけは完全に伏せられている。又兵衛さん、独り身だからな。」

まるで、独り身だから、こういうやり方もありだった、という響きだった。わたしは自分の思ったことを言葉にしなかった。

「あの人、反社周りを捜査していただろう。まさか虎の尾を踏んだのかもしれん。舌を切り付けるって、常識ではない。通りすがりの通り魔ができる芸当を超えている。つまり、脅しとも取れる。」

「脅し。」

「口は災いの元、だということだろう。問題は誰が誰を脅しているのか、ということだけどもな。」

わたしはK組の周りの自分の知っていることを言わなかった。金石が言っていたように、情報は相手に責任を渡してしまうからだ。是永にそこまでさせたくない。

 又兵衛刑事との最後の会話を思い出しながら、いくつかの後悔の気持ちが自分を襲った。それは間違いなく、金石との連絡を取れなくなったあの日と同じ焦燥だった。

「まずは、病院を調べてくれないか。できればでいい。是永にも迷惑をかけられない。」

「重体は確からしいぞ。意識を出させては困ると言うことなのかもしれんが。本来は、殺したはずが、奇跡的に生きてしまったのかもしれない。」

「そうかもな。」

又兵衛刑事は、昨日わたしとK組の作業を進めた。なぜ、あそこまでヤクザに対して、結論を迫るような確信的な態度で望んだのかはわからない。もしかしたら懲戒解雇で焦ったのもあったのかもしれない。今となっては昨日別れずに全てを会話しておけばよかった。いつかは話す、と言いながら大切な情報は保存されることが少ない。悪魔が口封じをするとすれば、尚更だ。

 わたしは金石の時と同じ、全体が真っ白になっていく感覚を再び味わった。

 二度と味わいたくはない記憶だったはずなのに、なんでこんなことをーー。



百九九 発見 (石原里見巡査)


「すまん。大事な電話中だった。」

銭谷警部補は珍しく電話を取らずにいたが、三度目の着信になってようやく、電話に出た。めずらしく幾度も電話をかけていた。

「すいません。」

石原さとみはしつこさを詫びた。

「いや。丁度、わたしからも連絡をしようとしていたところだった。」

「すいません。先に私からでもよろしいでしょうか。」

「ああ。申し訳ない。何度も着信をもらっていた。先に話してくれ。どうした?」

「すいません。先日、金石元警部補から、いや元警部補と思われる人物からのメールの話をしていただいたと思います。本郷からお茶の水を歩きながらだったと思います。」

「ああ。もちろん覚えている。」

「いくつか、文面も見せていただいたと思います。その、本を読め、とかで始まっているのものを少し写真で撮らせて頂きました。今勿論、この手元にあるのですが。」

「ああ。」

「メールは、厳密にはいつころから来るようになったのでしょうか。」

「いつころ?」

「はい。」

「すまん。少し質問の趣旨を知りたい。」

石原さとみは銭谷の切り返しに言葉を凝縮させた。

「失礼いたしました、仮に、金石警部補が送ってるならば、いや、銭谷警部補が金石氏のメールだとそう確信があるなら、ひとつ仮説が成立しうると思ったのです。」

「どういうことだろう?」

「銭谷警部補が、取り止めもなくメールが来るとおっしゃった点についてです。そもそも、金石元警部補は、捜査の重要段階で突然音信不通になった。現在に至るまで連絡方法はないし、もちろん具体的な接触も何もない。これは事実ですよね?」

「……。」

「いかがでしょうか。」

「…その通りだ。」

「警察を嫌になって辞めて、金石警部補が引き篭もっているだけ、ということが考えられますか?引きこもって、あのようなメールを送付しているだけということです。」

「うむ。」

銭谷警部補は言葉を詰まらせた様子があった。

「……。文面だけを見て、どこかでそんな風に思い込んでいたが、実際にそんなことは考えにくいかもな。」

「そう思ったんです。私も銭谷警部補からお聞きしただけですが、金石さんは警察の中での肩書きやポストを気にするよりずっと、捜査の中での真実の追求に積極的だった印象があります。」

「それは、その通りだと思う。」

「だとしたら、刑事を辞めたくらいで作業を停止するでしょうか?むしろ違う形で追いかけ続けているのではないか。銭谷警部補。生意気ですいません。僭越ながら私にはそう思えてなりません。」

「……。」

「仮にそう言う状況で、警察の後ろ盾を捨てて潜入捜査を続けるのは相当なリスクです。例えば誰かと本名で会ったりしてもそれでさえ金石さんが生きているという新情報になる。重要な情報を持って消えたならば、生きている情報というだけでリスクですよね?」

「……。そうだ。」

「伝えたいことがあっても、連絡手段がない、という状況かもしれない。」

「仮説を最後まで聞こう。」

「はい。ありがとうございます。つまりです。金石さんが、もし通常ではない危険な環境下にあるとすれば、連絡は非常に重要で危険な行為になります。なぜなら連絡をしたということが存在証明そのものだからです。」

「……。」

「むしろメールは最もありえない。言わずもがな、メールは双方に多大なリスクがあります。当然銭谷警部補への警視庁のメールは監視されている。それなのにメールを送ってくる。その状況で暇な遊びや、過去の同僚への戯言を送るでしょうか?つまり、これらのメールが、ぼんやりとした感情で送られてるとは、思えないんです。」

「……。」

「先日お見せいただいたなかで、少し気になることがあったんです。銭谷警部補。お手数をおかけして申し訳ございません。もう一度、受診のメールを、日付を順番でならべて、時系列で、読み上げてもらえませんか?日付順です。内容はメモしてあるのですが、順番を伺いたいのです。」

「わかった。この間見せたもの、つまり今月に入ってからのものでいいか。この迷惑メールに振り分けられたものは、半年単位で消えてしまうのだ。誠に恥ずかしい話だが、保存をしていない。」

銭谷警部補は面倒だという空気を微塵もさせずに、むしろ情報を保存しなかったことを詫びた。石原の指示のままに本庁の携帯のメールボックスを探し直している。メールが見つかると、一つ一つを時系列に読んだ。

「これだ。まず一つ目だろう。いいか。」

「はい。」

「本を読め。本には答えが書いてある。というのが7月15日 4時15分。朝のだ。」

「ありがとうございます。」

「次がええと。」

銭谷警部補はどこかで歩きながらなのか、車の通る音や、通行人がすれ違う時の声が漏れた。

「今はどちらですか。」

「日比谷から新橋方面だ。考え事と電話で今日はこの辺りを歩いている。次のメールは」

「はい。ありがとうございます。」

「郷に入っては郷に従え、というのが九月十日 二時二十五分。」

石原は、それを聞いて、自分の予想があたったかもしれないと思った。

「その次もお願いします。もしかすると、次のメールは、」

「同日三時三十九分。文学的に言えば、うんぬん。」

「わかりました。その次が、『今度からは、』で始まるメールですね?先日見せていただいたのはこの四つでした。」

「そうだな。」

「銭谷警部補、一旦電話を切ってよろしいでしょうか。今から丸の内線に乗りますので、電話ができるところですぐに折り返します」

石原は霞ヶ関で本庁に戻るつもりがそのまま地下鉄の入り口に戻ることにした。心臓が高く鳴っている。

「仮説が成り立つような気がしています。メールは画面を撮影させていただいたものもあるので、もう一度、よく読んでみます。」

「進みそうか。」

「わかりません。でも、少し待ってください。すぐに、かけ直せると思います。」

興奮しながら電話を切った。

 電話を切った後に石原は、銭谷警部補が最初に話し出そうとした会話を自分が遮ったままだったことを思い出した。



二百  秘書室 (レイナ)


 二重橋の江戸島会長秘書室の電話が鳴った。

「佐島恭平と申します」

​​江戸島会長担当の秘書は嫌な顔をした。また会社名を名乗らぬ人間である。秘書室でもベテランの女性秘書は、先日の探偵を繋いだことを後悔しているのである。よくわからぬ訪問客を素直に繋いだことで、重要な面会の時間を圧迫してしまった。ただでさえ、会長は日中忙しいのである。

「失礼ですが、既に江戸島の方でご挨拶させていただいておりますでしょうか?」

女性秘書は「言葉」を設計した。こういう基本的な言葉を駆使して壁を作るのである。上場企業の会長ともあれば、面会の拒絶も丁寧に、賛同を得ねばならない。

 案の定電話の向こう側で、言葉が詰まる様子があった。また、あれこれと捻じ込みの設計が言われるのも困るので、秘書はそのまま電話を切りにかかる。録音されどこかに持って行かれないように言葉を慎重に使い回しながら。

 ところが、電話口の佐島という人物は想定もしないことを言ったーー。

 ベテランの女性秘書はその内容に心当たりがあった。古くから江戸島会長はこの秘書を変えずに使っている。そのため秘書は江戸島の私的な環境について熟知していた。

 この点は先日の探偵の二人とは違っている。探偵は明らかに、脅迫的に釣った言葉があった。殺人事件の週刊誌沙汰に巻き込まれる可能性を、自分達と話すことで払拭したいと言う説明である。女性秘書はその通り江戸島会長に繋がざるを得なかった。会長はそれでも無視して良かったはずなのだが、即応で早々に時間を作ったのである

 今電話口で佐島と名乗る人間はその「やり口」ではなかった。全く別の言葉を言った。

「なるほど、つまり佐島様は、失礼ですが、江戸島とは古いお付き合いになると言うことですね?」

「はい。まあ、直接とは言いづらいですが、そうなります。佐島という名前で、つながるかわかりません。ただ、これまで、面会をお願いしてはきませんでした。もしできれば、急ぎ、お会いすることは可能でしょうか。」

「佐島さまが、当会長室に来られるということでしょうか?」

「いえ。お仕事とは関係のない小生が会長のお部屋には申し訳ございません。できれば、別の場所がいいのです。そのほうが江戸島会長もよろしいかと存じ上げます。」

「場所はどちらで。」

「はい。今から申し上げます。そちらは江戸島会長もご存じの場所ですので、今から申し上げる住所をお伝えいただければ、意味は伝わるはずです。よろしいでしょうか。港区南青山の、」

秘書はメモを用意した。佐島が伝え始めたのは、秘書もすぐ認識できる、細かい説明はいらない場所だった。



二百一 私用電話 (銭谷慎太郎)              


「リスクのある中、最も記録の残りやすいメールをぼんやり送付するはずはないと思います。」

石原は電話口でわたしにそう言った。その通りだ。言われてみればなんの反論もない。むしろわたしは金石のことでは感傷的になりすぎ、客観行為が出来ないのだろう。石原の言う通り、あの金石がリスクを気にせずにぼんやりと幾度も感傷語句を送るはずはないのだ。何かあるはずだ、と思ってメールに向き合ってくるべきだった。

 金石を捜査の相方として失ったことに執着しすぎていた。散々早乙女を馬鹿にしながら、独断に執着したのは自分であった。わたしは握り拳で、頬と顎を幾度か殴って、改めてメールを見つめ直した。迷惑メールは今回だけではない。もう五年も前からきているのである。保存さえして来なかった自分が恨めしかった。手書きで残すこともできたのである。殴った自分の顎が想定より痛んだ。頭が少し脳震盪を起こしているそのときに私用の方の電話が鳴った。

「石原か?」

「すまん、違う。その名前は私ではない。」

その声は女性警官ではなく、同期の警察官だった。

「是永か。すまん。別の電話を先ほど切ったところで、勘違いをした。」

「忙しそうだな。」

「申し訳ない。今、A署からか?」

わたしは心からの感謝を言葉に込めたが、声は普段の声とさほど変わり映えしなかった。

「A署の外だよ。まさか中からは電話ができない。」

「すまんな。」

「気にするな。俺も気になってるんだ。で、病院はわからんのだが、襲撃現場は目星がついた。」

「どうやって?」

「上層部は、交番勤務の若手に緘口令を敷いたのだが、そこから漏れ聞きさせた。交番ってのはご存じ交代制だからな。」

「なるほど。」

「もうアスファルトの血痕は、洗い流してるらしいが、又兵衛は柴又の帝釈天近くの河川敷を降りる階段で見つかった。早朝だ。夜の河川敷でやられ、朝方まで放置されていたのだと思う。」

是永は又兵衛の今朝の状況をいの一番に伝えてくれた。そうして続報までを得てこうやって同期を心配して連絡をくれている。

「河川敷でやられた?何故そんなところに?」

「わからん。誰かと会おうとしたのかもしれん。」

「殺し切らずに、生かしたつもりか。」

「どうだろうか。重体は確からしい。この後死ぬかもしれない。」

「暴力団の仕事か?」

わたしは、思わず犯行は反社会の人間だという言い方をした。

「まさか。銭谷は何か知ってるのか?ヤクザなのか。」

「又兵衛刑事は、K組といろいろあったはずだ。」

「例の捜査の件か。最近はあの人は、横領の話でしか話題がなかったが。まあ冷静に考えればそういう線もあるのか。」

「……。」

「拳銃の摘発の伝説を思い出したよ。昔マル暴だった頃だ。だいぶ内部に入り込んでいたはずだ。担当も離れて随分経つというのにな。なんで今さら。」

わたしは是永に、又兵衛が独自に追っていたK組の作業のことを言わなかった。今回の私刑の周りの一過性のものではなく、彼の刑事人生に近いものがそこに賭かっていたことも、その事務所を何らかの理由で直接脅すために昨日一日かけてこのわたしと歩いたことも、言葉にしなかった。わたしは、あの覚悟をしたような又兵衛刑事の横顔を思い出していた。

「川で、つまり河川敷でやられたのか。」

「そうだろうな。帝釈天の裏から上がったとこだ。」

「それで、なぜ自殺になるのか。いや、自殺という結論を所轄は選ぶ?」

「わからん。交番の人間は、病院に届けたと同時に、身分照会で意識のない又兵衛さんを触ったところ、警察手帳を見つけて驚いたらしい。若手で、彼のことを知りもしなかった、と言うのは残念だがな。もう少しベテランであれば違う上げかたもあったかもしれない。」

ふと是永の言い方には、刑事人生の後半の寂しさのようなものに触れる響きがあった。

「それで、何も知らない若手が署の上に上げて、いろいろな指示が始まった。」

「わからんが、又兵衛刑事の周辺に何かがあるのならば、上層部は慎重な手順をとるだろうな」

「ヤクザと警察の上層部が直接ではないまでも、利害一致をしていたりしたら、大変なことだからな。」

「銭谷。いまどき、警察の上層部が反社会の人間と絡むのか?」

わたしはその声を聞こえないふりをしたまま、

「帝釈天、であれば、病院は限られそうだ。片っ端から当たってみた方が早いかもな」

と言った。今から動けばまだ間に合うかもしれない。ところが、

「銭谷、ちょっと待て。」

「どうした。」

「やめておいた方がいいぞ。」

と、是永は突如強く言葉を吐いた。

「なぜだ。このままじゃ、重体と言って殺されるのを待つようなものだろう」

「そうだ。だが本当に殺したいなら既に殺されてるはずともいえる。もっと他のやり方があるはずだ。」

「しかし。」

わたしは反論を試みた。是永のいうことも一理あるが、わたしは当事者として責任を感じていた。その沈黙に、是永は息巻いた。

「銭谷。いいか、いま、お前はどこにいるんだ?」

「日比谷だ。」

「場所じゃない。警察の中での地位だよ。お前がいるのは警視庁の六階だろう?」

「……。」

「警察官で生きていれば不自然なことなど腐るほどあるんだ。その六階だって多かれ少なかれそういうがあるはずだ。せっかくそういう場所にいるお前がこんなところに関わっていれば、上層部にマイナスをつけられるリスクが増えるだけだろう。」

「しかし。」

「いいか。エースで捜査一課っていう仕事場は大切にした方がいい。場所を失えば、刑事人生でやれることは限られる。」

「……。」

「俺を見ればわかるだろう。刑事の仕事をしたくてもできない部署など<ごまん>とあるんだ。銭谷。これ以上言わせるな。」



 是永の電話を終えた後、わたしは呆然と皇居の周辺を歩いていた。  

 嫌な汗というのは、このことを言うのだろう。

 老刑事の槇村又兵衛が突然死に瀕している。

 その事実に打たれたまま、わたしは警視庁のビルに入る気にもなれず、かと言ってどこにいくこともできず、立ち止まることもできないまま、呆然と歩いていた。

 火をつけることもできないタバコを改めて空虚に口に当てた時、浅草で酒を酌み交わした時の又兵衛の言葉をなぜか思い出した。


…罪は川を上流から下流へと、水と共に流れていくのです。そうしてやがて海へと降るのです。人間が見たくないもの、ゴミは海へと、大勢の人間の罪を集めて流れていく。いくら浄水場を使っても汚水やゴミが本当に飲み水になると思いますか?見たくないものは人から毛嫌いされながら目に付かない場所へと薄められていくだけなんです…。


 何度も語ってきた言葉なのかもしれない。又兵衛刑事が河川敷でやられた、という是永の言葉がその場面に重なるように追ってきた。帝釈天と金町は歩いて十数分の距離である。わたしは自宅近い金町周辺の病院について、いくつか想像ができた。いま、そのどれかに又兵衛はいるはずだ。A署が重要参考人などと言い訳をつけて、面会を謝絶させてるくらいなら警視庁だと言えば突破もできる。もちろん後先のことを考えれば謹慎中の身でそれをするのは非常に良くないのだがーー。

 昨夜の槇村又兵衛刑事の仕事にはある達成へ向けた流れが確かにあった。わたしには詳細の説明は無かったが、明らかに又兵衛は何かを進捗させていた。その進捗のために彼自身は警察官としての立場を差し出していた。自分という体を剥き出しにして暴力団の指のない男たちに裸で晒していた。ある意味命懸けだという意味合いでも、それは彼の長い捜査の最終章にふさわしいものだったはずだ。どういう設計があるのかは知らないが大胆にも暴力団の複数の事務所に、危険を承知で、脅迫行為に出たのである。

 その又兵衛が、今、意識不明で瀕死だという。

 自殺のわけがない、と思うのは、金石が逃げたわけがないと感じたのと同じだ。五年前と一緒だった。又兵衛も金石も、非常に重要な独自の捜査をしながら、ある一定の成果が見えてきたところで、作業が止められたのだ。金石は音信不通だ。又兵衛は重体だという。

 金石は、いつも言っていた。全てを一斉に暴かない限り、潰されると。だから情報は完全でなければならない。その開示方法も警視庁の幹部に逐一報告していれば、逆に権力の側に把握され潰されてしまう。無論警視総監が誰にも、支配されておらず首都権力の正義だけを行っていれば問題はないが、これだけの人間がいる中で、全員が正義でいられることなどありえない、と。数字で計算するまでもないだろう、と。

 又兵衛も、金石と同じように警察の暗部を捜査していた。

 その暗部ーー恐らく警察署と反社会性力の両者に関わる問題ーーで決定的な何かを掴んだ。

 それを小出しにはできない。やるならば全体がひっくり返るように全ての証拠をまとめて一括開示でやらねばならない。それをもみ消しに入った警察や暴力団の焦った失策も混ぜ込んで開示せねばならない。もみ消しのされることのない信用のできる方法を使ってやらねばならなかった。

 恐らくその計画の一部は、何らかの形でA署の中で漏れたのだろう。

 でなければ、上層部が彼を濡れ衣の横領で、懲戒解雇をする理由がない。

「もうすぐだ。もうすぐ全部が繋がるんだ。」

金石はバーでいつも同じことを言った。そしてその内容を誰かに話すのは今は銭谷に対しても危険だとも繰り返した。明確な証拠を掴むまで自分の独自捜査を開示せずにいることが、わたしの目の前を通り過ぎた二人とも共通していた。

 又兵衛は襲撃された。

 金石はいなくなったままだ。

 わたしは、胸が圧迫された。

 タバコをつかんだ自分の手のひらを寒々と見つめた。その手を握りしめてそのまままた、自分の顎を殴った。目の周りに星が出て、脳がふらふらと揺れた。

 なんとブザマな話だろうか。同じじゃないか。全く同じ話を、繰り返しているじゃないか。せっかく自分の周りの人間が最高の仕事を仕上げようという場面にいながら、なんてざまだ。

 最悪極まる気分だった。

 このわたしにもう少し何かの能力があれば、違う結果が訪れていたのだーー。

 わたしはいても立ってもいられず、一番近い地下鉄への降り口を探していた。日比谷公園と皇居の間の東京メトロのマークの階段を降りるとそこにはこの辺りにありがちな広大な地下の空間があった。少し歩けば何らかの地下鉄に乗り込むことができる。その中に緑色のロゴを掲げた千代田線のシンボルが見つかるのには時間はかからなかった。わたしは金町方面行きを確かめて、千代田線の車両に飛び乗った。



二百二 追跡 (御園生)


 翌日僕は墨田区のタクシー会社にいた。

 タクシー会社に電話を入れ、昨日夕方から夜にかけて、青山墓地から東京湾を回った客だという話をして、運転手を調べてもらい会いに行ったのだ。会ってみて、本人と違うので運転手は驚いた。

「なんか、あったんですか?」

「いえ、警察ではないですよ。こちらつまらないものですが」

僕がお金の入った封筒を提示すると、浜島と名乗った運転手は表情を変えた。

「いや、そんな、そういうつもりではないですけどね。」

朝から僕はX重工に行った。江戸島は面会謝絶で何度頼んでも駄目で、しつこくすれば警察を呼ぶような話になりかねず、次の策としてこのタクシー会社にきた。

「何かわからんのだけど。」

浜島という運転手はサングラスをかけた東北弁で、

「あの方って、つまり、その年配の役員風情の方だべ。ナンデモ知り合いが、道路さ汚しちまったのを、掃除しなくちゃいけないと。それで、わざわざ知り合いの工場があるからと、羽田を回ったんで。へえ、何だか偉い方のようには感じましたが、そんなケーダンレンの方とは露しらず。」

「あの工場ではなにをしてたんですか?」

「工場?ああ、品川のですかね。」

「はい。そうです。」

僕が明確にそう言ったので、浜島運転手は捜査か何かだと感じ始めていた。東北弁が標準語に変化した。

「何かトランクに積んだと思います。手伝おうかと言ったら手が汚れて悪いから、運転席にいていいと言われました。私はてっきり、糞尿みたいなものを洗ったりするのかと思いました。はい。そのかたは、ちょっと汚いからごめんと繰り返していました。」

「なるほど。」

僕はそこで追加の封筒を差し出した。

「浜島さん。運転手さんにひとつお願いがありまして、今日このあとお付き合い頂けないですかね?」

僕はそこで昨日の道のりをもう一度、走ってもらうお願いをした。景気の悪いであろう運転手は目を輝かせた。

「私もできることはいたしますよ。ちょっと会社に話してきますね。捜査関係って言っていいですよね。」

「任せます。」

浜島ドライバーは昨日江戸島の乗っていたタクシーに僕を乗せ、墨田区から首都高に乗り大田区の方面へ向かった。

「湾岸高速で良いですかね?それとも、青山墓地からなぞりますか?」 

「いや、工場からにしましょう。」

僕は、尾行していたとまでは言わず、浜島ドライバーの運転で、江戸島がタクシーを降りた最初の工場へと向かった。

 工場の担当者は年配の男で、

「X重工の関連の方からの依頼だったのですが、特に何かを喋るなとも言われませんでしたがね。」

と、むしろ開けっぴろげだった。江戸島は、自分の会長という立場を言わなかったのだろうか。この程度の町工場にそんなことを言えば、社長の対応になるだろうし、何かを喋るのも気を使うだろう。

「いや、除光薬が欲しいって言うので、用意しておいて欲しいと昼に電話があったんです。X重工で、以前お世話になったものだと。勤務中に伺うから、名前はすいません、とのことでした。どんな方が来るかって思ってたんですが、多分ご本人だと思います。まあまあお歳の方だったので少し驚きましてね。除光薬品は、あんな感じの缶缶ですよ。」

「これは何か塗料みたいに塗るものですか?」

「塗料じゃないです。まあ、消しゴムというか、その薄め液ですよ。」

「薄め液。」

「よく、落書きとか、あるでしょ。スプレーとかで壁に。ああいうのを消す薬品です。ああ、それと、手ぶらだから、そのブラシも使いかけでいいので買い取らせてくれというんで、あげましたよ。」

「ああ。」

「それが、結構なお金を渡されたので逆に驚いちゃって。」

「そうなんですね。」

工場の担当の中年男は、そこで嫌な笑い方をした。

「まあ、話としてはそれくらいです」

昨日江戸島に渡された大金のせいか、工場の男は特にこちらに礼金を求めもしなかった。サングラスの浜島運転手は僕が戻ると、スマホでゲームをしているようだった。

「何か、わかりましたか?」

「いえ、特に。ただ、タクシーに乗り直した時、ブラシのようなものを持ってましたか?」

「今思い出しました。何だかフクロのようなもの持っててね。そこにブラシが入っていましたよ。ちょっと汚しちゃったんでね、と聞いてもないのにおっしゃったんです。」

「なるほど、ですね。」

僕は工場の担当者とタクシーの運転手の言葉が一致したのを確かめると、タクシーに乗り直し、昨日江戸島と辿った道をそのまま再走してもらった。沿岸の工場の並ぶ羽田界隈を抜け、一旦内陸に戻っていく。そして切り返すようにして名前もよくわからないトンネルに入った。昨日は夜で気が付かなかったが、東京港臨海道路と書いてある。トンネルの坂道を下って海の底のさらに下へと入っていくトンネルは、さほど長くもなく、すぐ地上に上がった。今度は埋立て途中の更地に道が一本まっすぐ、例のゴールデンゲートブリッジ(金門橋)へと続いていて、橋へと登っていくにつれて道路からの視界が開けた。左にお台場越しの都心のビル群、右に東京湾ごしの太平洋が広大に広がった。

 ふと昨夜は気が付かなかったが、東京湾の沖合側に向けて巨大な生簀(いけす)のような区画がずいぶんな範囲に広がっている。一眼見てもお台場や有明などのどころではない面積に生簀が広がっている。

「あれは何ですかね」

「ああ、あれね。」

運転手は少しうんちく風に、

「たまにこの道を羽田へのお客さんで通るから聞かれるんだが、あれは処分場ですよ」

「処分?」

僕は耳慣れない言葉を聞き返した。

「地図なんかじゃあ海面処分と書くんだけどね。意味がわからんまま、そう呼んでるんだが、ようするに東京で出るゴミを処分して、あそこに埋めてるんです。」

「ゴミを?」

「そうです。まあ、何年か後に、立派なお台場みたいなビルが立つんですよ。」

恐ろしく広大な敷地が海に、外枠だけ防波堤のように伸びて、台形の生簀に区切られている。その中の「海面」は、海水と違い少し緑を帯びていて、何か濁っている。確かに外枠近くのあたりから少しずつ土が見えて、埋め始めているのが判った。

「どこかの山を削って土を持ってくるのではなく、人間の出したゴミで埋め立てるのですね。」

「まあね。人間が出すゴミが多すぎるんでしょう。山奥でも産業廃棄物とか問題だっていうけど、海も同じで。東京都が随分勝手なことをやってるんで、都会のゴミは、海とか山の遠いところに、とりあえず処分する。とりあえず、行き当たりばったりでね。遠い未来のことなんかお構いなしなんで。」

浜島運転手は東北弁のイントネーションを所々に戻しながら、叙情的な言い方をした。それはさほど僕には嫌味には伝わらず、若干詩的な気分のまま車は橋を渡り終えた。

「その角ですね。あの信号から入って左の海側の道です。そういえば、明確にどの道を曲がるかもご指示されてましたよ。」

「江戸島が行き先を細かく指示してたんですね。」

「もちろんそうですよ。私はこんな埋立地に詳しくないです。タクシーはみんな幹線道路を通っても空港の送り迎えですから埋立地で右折や左折はしません。曲がった先の埋立地そのものの土地には詳しくない。この信号の先を若洲っていうんですが、殆ど住んでる人がいない。飲み屋もないから日が暮れたら無人ですよ。」

金門橋を渡り、降り立つのが若洲という島だった。真っ平で、工場のような建物以外なにも見えない埋立地だった。

 タクシーが進むと。駐車場と言うには広すぎる広大なアスファルトの平面に、ミキサー車や数トントラックが一定の整列をしている。人間が機械に何かを預けた後の時代のような、冷たい虚しさがあった。

「この辺りだったと思います。この辺りで、その江戸島さんは、タクシーを止めさせてね。その薬品かなにかとブラシを持って降りたんです。で、すぐ終わるから向こうで待ってておくれと。ただ、この後代々木まで帰るから、待っててほしいともおっしゃってね。まあ、代々木まで新木場からはまあまあ有難いので、当然お待ちした次第です。」

「では、彼が何をしてたかは、見ていない?」

「それが、その時はなぜか、ゲームの気にならなかったんで。遠目にですが見ています」

「ほう」

「なんだか、多分、一生懸命、アスファルトを擦っていました」

「アスファルトを?」

「多分ですよ。遠くだったからアレですがね。わざわざ距離を置いて降りたので、多分見せたくないんだろうと思って近づいたりもしませんでしたから。」

「夜にでしたよね?」

「はい。この辺りは、夜は真っ暗なんです。だからちょっと変な気はしましたよ。まあご立派な老紳士さんですからね。真っ暗闇で一体何をしてるんだろうって。人もいない。あの先の道路だったと思います。」

僕は、一昨日、会長室での江戸島の表情を思い出していた。僕の目には判らなかったが、軽井澤さんは表情が変わったことを指摘していた。そういう変化は、この場所での奇妙な行動と何かつながる気もした。

 浜島運転手のいうアスファルトのあたりを僕は歩いた。

 夏の終わりの日差しが夕焼けに差し掛かっていた。西の空は美しく都心のビル群に切り取られ、その手前に東京湾が狭かった。僕がいたのは若洲という島の海沿いの西端だった。

 東京の都心部とはずいぶん目と鼻の先なのだが、寂しい場所だった。この場所が陸の終わりだと判る行き止まりがあった。電信柱と電線がそこで終わりだった。信号もない行き止まりに横断歩道が地面に白く書かれていた。駐車場なのか、空き地なのかわからない場所をフェンスが延々と囲んでいた。フェンスには雑草が溢れていていかにも放置された土地だった。

 そのとき、ふと、その道の行き止まりに、小さな、観音像が置かれていた。聖母なのか何か宗派かはわからないが、石でできた観音像が雑草の中でひとつ顔を出していて、じっと海の沖合の方角を見つめていた。その観音像の見つめる先のアスファルトあたりがまさに、浜島運転手が指摘した江戸島が何かをしていた場所だった。

「ああ、これですよ多分」

「……。」

「その一通り終えてからだったと思うんですが、そのこの辺で、何か合掌してたような気がしたんだな。」

「手を合わせてたのですか?江戸島会長がですか?」

「まあ、なんか、あくまでそんな気がしただけだけど。観音様があったのなら、そうだったのかもしれないな。でも夜で見えたんですかね。真っ暗だったけども。」

僕はその観音像を見つめた。

 小さな、子供向けとまではいかないが、観音像はこの工業地帯の埋立地の先に寂しげに佇んでいた。普通に歩いても存在に気がつかないくらい草むらの中に佇んでいた。観音像の見つめる先は西向きでちょうど、アスファルトが行き止まる場所だった。

 明らかにこの場所に不自然だった。僕は学生時代に読んだ詩の一節、


 石は消えない

 人間より遥か遠い未来に向け

 旅を続ける


をなぜか思い出した。山々に神が眠るこの列島で、埋立地の神はどういう歴史があるのか、ふと考えさせられた。


「あ。ほら」

と、運転手が僕を呼んだ

「ほら、やっぱりここに落書きがあったんだ。これを消していたんだと思います」

「落書きを?」

アスファルトを見つめた。文字はほとんど消えていて、何が書かれているかはわからなかった。ただし、何かが書かれていたことはわかった。

「どういうことだろう。わざわざこの場所の文字を消しにきたのですか?彼が。」

「何か見られたくない文言が書いてあったのですかね。」これを消したくて、タクシーで回ったんだな」

 文字は確かに書かれていたようだった。

 二、三行の詩のような文字列に思えた。

 そして、その文字が何かわからなくなるまで、江戸島会長はそれを消そうとした。でも時間をかけるわけにもいかず、急いでタクシーで戻ったのだと思った。いくつか残る、文字の後がその忙しなさを感じさせた。



二百三 再千代田線 (銭谷慎太郎)


 又兵衛と二人でA署の所轄へと向かった昨日と同じ千代田線だった。

 隣にいた老刑事が今はどこかの病院で死に瀕していることは大きく違っていたが、地下鉄は何も変わらず東京の地下を北東の方角へ走り続けた。

(自分にもっと能力があったなら、こうなっていなかった。)

その言葉に繰り返し頭を打たれるのはきつかった。ても何も動かさずにいると吐き気がしそうで、わたしは無理に手を動かしたくなった。混み合った車内でカバンからノート類を開くわけにもいかず、わたしはスマホを取り出して指でいじった。興奮したまま電話を切った石原の着信が最後にある。

 メールフォルダをもう一度開くと、やはり半年以上も前のものは全て消えていた。この数日で送付されたものだけをとにかく見つめ直した。石原はああは言ったが、まだ全てを確証できたわけではないはずだ。人任せにせず自分でも頭で考える必要がある。又兵衛の発見された河川敷ーーA署の所轄でも最も千葉よりの河川敷である江戸川ーーまではまだ少し時間がある。せめて自分なりの仮説もまとめたかった。

「理由もなくメールをする訳はない、と思ったのです。もし仰る通り警察組織と関係がある犯罪の捜査を続けているならば、それは危険な連絡になる。銭谷警部補にも危険だし、金石元警部補にも危険です。そんなことを<理由もなくする>でしょうか。」

石原の言葉が戻ってきた。

 メールをいくつも見直した。

 何よりぼんやりとこれらの文字列を見過ごしてきた自分のことが許せなかった。

 


ToZ


文学的に言えば、

百の事件には

百を被害者がある


一つとして同じ事件はない


また、

加害者にはまだ未来があるが

殺人被害者には、永遠に未来はない。


言ったはずだ。




ToZ


本末の転倒。

飲みすぎは、やめておけ。

若者に迷惑をかけないようにしろ。 




ToZ


孤独。

被害者の孤独。

そのとなりに自分がいるのか?

ましてや、被害者と加害者の、その対立構造などを作っている奴らに加担してはならない。

     



ToZ


段々とわかってきただろう。 

海の先に、人間は、ゴミを集めて大地を作る。

嘘の大地を作る。




メールを見つめ、そして地下鉄の走る窓の闇を見つめ、目を閉じるのを繰り返した。これまでの何年間と同じく、言葉を並べただけでは、何も気がつくことはなかった。恥ずかしながら、やはり毎回と同じく、この文言を書いたであろう金石の横顔だけが脳裏に来てしまう。彼がいつものように左手でウィスキーグラスを掴んでタバコを吸っている姿が言葉の手前に消えない。なんならその時の会話の方が思い出せるくらいである。

 そうやって地下鉄はお茶の水、湯島を過ぎた。都心を離れ、川の多い所轄に向かいつつある。

 何一つ前に進む発想が出ないまま千代田線はJRの常磐線に直通する地上へと登り始めた。

 列車が地上に出たとほとんど同時に石原からの電話が鳴った。流石に人の多い車中で電話を取れず、次の綾瀬駅の扉が開くところでわたしは電話を取った。

「銭谷警部補。説明をさせてください。」

珍しい。声が強い。

「ああ。頼む。」

「はい。メールは文面だけを読むと、金石警部補が銭谷警部補にアドバイスや、当時の漠然とした意見を繰り返しているように思えます」

石原は前置きをした。その前置きは語気を強めながらも、彼女らしい優しさを含んでいるように思われた。

「そのせいで、内容に常に目が行きがちなのですが、実は内容は関係がないと、すると腑におちる仮説がある気がしたのです。」

「メールの内容が関係がない?」

わたしは形式だけ反論をした。メールの内容だけを何度も見てきた自分としては、そう言うしかなかったのかもしれない。

「はい。内容は最初から一切伝えるものではなかった。」

「伝えたい内容がない?」

「はい。」

「しかし、では危険を冒してメールを送る意味は?」

「メールの内容ではなく、メールが金石元警部補から銭谷警部補に宛てたものだということだけが、わかれば良かった。僭越ながらメールの文章は、お二人にしか判らない、捜査の周辺で感じた言葉などを並べてあると思います。もしくはバーで話していた言葉など、第三者的にはよくわかりずらい曖昧なものですが、一つだけ明確なことがあります。それは金石元警部補が銭谷警部補に宛てて送付している、という外側の事実です。本人の認証、だけはなされている。」

「う、うむ。」

「その上で、内容は一切関係ない。言葉の内容を読んでしまうと、壮大な迷路に入ってしまう。しかし、内容に関係のないところにその伝達物がある。」

「内容に関係のないところにーー。」

「頭文字です。」

「頭文字?」

「メールの頭文字を並べる。この本文の頭文字だけを拾うと、文章になると思ったのです。」

「頭文字だけを並べて?偶然ではないのか?」

「わかりません。それで、今、本郷の駅に着いたところです。」

「本郷?」

「はい。」

「本郷とだけ読めるのか?」

「いえ、<本郷文庫>、まで読めると思います」

石原はそう言ってToZのメールのいくつかの冒頭だけをそらんじた。

「本郷文庫?それが何かの暗号になると言うのか?すまん。わたしにはそもそも本郷文庫というのは唐突に思える。」

「普通はそうだと思います。ただ、関係が全くないとも言えないんです。太刀川は実は今日も本郷三丁目、つまり東大のある駅で降りました。先日に続き、二回目です。」

「本郷の、駅?」

「先日ご一緒させていただいた、本郷三丁目駅です。」

「もちろん覚えている。あの駅か。」

「そうです。あの駅の改札を出たところに、学生向けの無料古本貸し出しがあるのを一度お話させていただいたと思います。その名前が、本郷文庫、というのです。」

「……。」

「実は太刀川が今日も、その文庫の前で立ち止まって暫く見ていたのです。」

「太刀川が?」

わたしは少し声を荒げた。

「まだわかりません。ただ金石さんのメッセージと、太刀川が何か繋がるかもしれない。そう思ったのです。さらには、携帯電話やインターネットを排除している太刀川という人間にとって、ああいう場所は連絡を行いやすいかもしれません。」

「本郷の文庫がか?」

「はい。あの本郷文庫は、自分が読んだ本を無料で誰かに貸せるんです。誰でもそこにおいてある本を回し読みできる。本を回覧しているともいえる。」

「……。」

「今、本郷三丁目の古本貸し出し、本郷文庫の前につきました。とりあえず端から順に何か仕掛けがないか調べさせてください。」

わたしは何一つ反論がなかった。

「そうか。頼む。」

「あと」

「なんだ。なんでも言ってくれ。」

「金石元警部補の写真はございますか?」

「写真?」

「私は、金石元警部補の顔を知らないのです。」

「ああそうか。」

わたしは金石の写真は持っていなかった。表彰でもなければ刑事が二人で写真を撮るようなことは少ない。むしろ金石は写真を避けていたかもしれない。

「すまん。写真は、撮ったことがなかった。ただ、奴の特徴は明確かもしれない。」

「特徴?」

「身長が二メートルある。いや正確には測ったことはないが。」

「身長が二メートル、ですか。わかりました。顔写真はなしですね。」

「ああ。」

「それと、先ほどはすいません。」

「なんだろう?」

「お話を遮ってしまって。」

石原は覚えていた。まだ気を遣われているのだと思った。

「金石さんの仮説に焦っていて、随分強引に話を止めてしまったので。失礼しました。」

「いいや。会話は重要なものの順で構わない。」

「すいません。」

「謝ることではない。しかしこちらも、少し重いので頭出しをしておく。とある老刑事が濡れ衣をかけられている。」

「ご年配の刑事の方ですか?」

「ああ。」

「その方が、A署の老刑事であれば、噂で存じております。横領で懲戒があった。」

唐突に石原はそういった。

「謹慎中の某警部補が、何故か会っているA署の刑事がいると。その刑事は懲戒免職の疑惑のある方だと。」

わたしは素直に驚いて、

「ふむ、ずいぶん詳しいな。」

「先日小板橋巡査部長の主催する懇親会がありまして。話題になっていました。小板橋さんが元A署で詳しいみたいです。」

「ああ、そういう偶然か。」

「……。すいません。そんな話があったことはすぐに言えばよかったかもしれないです。」

「噂などはいちいち報告は不要だ。捜査に関係があるものだけでいい。」

わたしは自分に否定的な噂が出ることにまるで興味もなく悔しくもなかった。それよりも、又兵衛という素晴らしい刑事と邂逅し分かり合えた時間の方が愛おしかった。たった二、三日の話なのだが、わたしにはそれが自然な感情だった。ただその老刑事との時間が激しく瓦解しようとしている。そのことが問題だった。

「わたしの噂話を報告しないことなど、何も問題はない。」

「承知しました。」

「わたしからの頭出しは、その老刑事が昨夜自殺未遂をした、となっていることについてだ。」

「自殺、となっている?」

「噂話はある程度正しい。事実、わたしは老刑事と昨日ずっと一緒にいた。」

「……。」

「刑事の勘で申し訳ないが自殺はありえない。事件に巻き込まれた可能性が高い。もっと言えば、横領についても不自然だ。冤罪かもしれない。」

「本当ですか?」

「万が一亡くなれば、死人に口なしとなる。」

「まさか。この令和の時代にそんなことが。」

「昭和の時代でも平成の時代でも、犯罪を隠したい大人は消えたりはしない。思い込みが一番闇に飲まれやすい。」

「……。」

「ただ、この件について石原に何かやってもらおうとは思ってはいない。幾つかあるのだが、一点だけこのチームでの共有がある。」

「はい。」

「この又兵衛刑事に、太刀川が五年前にコンタクトを取っている。」

「太刀川がですか?」

「ああ。加えてこの又兵衛刑事は、金石とA署で上下だった。」

「ほんとうですか?」

「ああ。だからわたしと、会うことになった。本庁に来たのはそのためだ。」

「……。」

「今から時間を見て、A署に、いや正確には槇村又兵衛警察官のいる病院を探しに向かうつもりだ。」

「なるほど。」

「それともうひとつ。金石の写真だが、今朝もらった動画に、一度だけそういう身長の男が乗っている。昨夜見たのだが、確信が持てず石原には伝えないままだった。」

「えっ。太刀川の地下鉄にですか?」

「わたしが混乱したためだ。すまん。ただ体格が似ているだけで、顔は確認できない。」

「それは、何かがつながりますね。」

「身長は整形手術はできないだろう。」

「そう思います。」

「実は、これに驚いて、今朝の太刀川の地下鉄に飛び乗ってしまった。そのことも謝る。」

「ありがとうございます。私は今からこの文庫本を全部調べてみます。一旦お時間をください。あと一点だけ。」

「何点でもいい。」

「迷惑メールは此の四つ以降にもありませんか?」

「四つ以外?」

「はい。」

「数えたことはなかったが、もう少しあると思う。」

わたしは、電話のために無理やり降りた駅のホームで追い込まれた勤め人のように電話をやっと切った。そしてもう一度、又兵衛の見つかった河川敷ーー綾瀬の次の亀有、金町の方面へと向かう列車を待った。



実験結果#2329 

 

 蛍光塗料の歴史はおもしろい。

 二十世紀初めに夜光塗料が発明された当初は、毒性の強い放射性物質ラジウムが使われていた。

 夜に文字が読めるというのは、まだ電力がいまのように張り巡らされていない時代だから、非常に価値と可能性があった。工場では毒性があるにも関わらず、もしくは毒性などを検証するようなコストを掛けたりせずに労働者は働かさせられた。時計の文字盤を暗闇でも見える塗料で塗るのはヒット商品だったからだ。ラジウムの被害は各所で労働問題になった。一九六十年代からは放射線量が少なく、より安全なプロメチウムやトリチウムに代わったけれども、毒性の問題は完全に処理されてこなかった。

 夜の闇に怪しく蛍のように光るーー蛍光塗料と日本で説明されたその塗料の開発を世界で最も安全にこだわって進めたのは日本の科学者らであった。ただ、彼らはほとんどが大企業に所属し、その特許を主張しなかったためその栄誉ある功績は、世の中に紹介されてはいないようだ。驚くことは彼らは、これまで放射性に頼ってきた夜光塗料において、放射性物質を使わない新商品を開発したのである。


 すいへいりーべ

 すいへいりーべ


僕が大好きだった、元素番号の歌は一般には十八番のアルゴンまでしか歌わない。元素番号が増えて、陽子と、電子の数が増えて九十番を超えるあたりから、物質の原子核は不安定になる。ウランが九十二番。プルトニウムが九十六番。分裂した物質はアインシュタイン博士が予言したように、放射能エネルギーになっていく。エネルギーは質量に光の速さを二回掛け合わせたくらいに莫大なのだ。光の速さって、一秒間日休を四周するんだ。それはそれですごいことだけど、そのせいで、八月六日と八月九日に原爆が落とされた。

 同じ発明でも、ぼくは蛍光塗料の安全を開発した、無名の科学者たちを尊敬する。

 科学の知識を持つものは、いや、知識を持つものはその将来の安全性にまでの責任があるのではないか。

 そういう意味で彼らは、アインシュタインよりも偉大だ。


二百四 再本郷(石原里見巡査)


 本郷文庫の前で石原は立ち尽くしてしばらく並んだ古本の背表紙の列を身任せにしていた。

 金石元警部補が銭谷警部補に送ったメールの頭文字を時系列に並べると

「本をよめ

「郷に入っては

「文学

「孤独

となる。そしてこの場所で、太刀川はいくつかの古本を手にとっていた。少なくとも数分間の時間をかけて、今石原が見つめている文庫書架を同じように見つめていたーー

 ここで一体何をしていたのか。ここが太刀川龍一どその協力者との連絡の場所なのか?インターネットを使わないアナログの伝言板としてこの場所を使っているのか?金石元警部補のメールと太刀川龍一がなぜここで重なるのか?銭谷警部補が今電話で言った、自殺未遂?している老刑事が双方に関連しているというのはどういうことなのか?

 小さな震えがきた。

 銭谷からメッセージが来ていた。

 石原は画面を見て少し驚いた。

 銭谷はスクリーンショットを使ってメッセージを送ってきている。いや、よく見ると、本庁のスマホの迷惑メールの画面を、私用のスマホで撮影したものをわざわざ送ってくれていた。

(今確認した。すでに見てもらった四つのメールの他のものは以下。)

(はい。)

(メールは順番はこの通りで、四つのメールの後に三本ある。)

とメッセージが入っている。

(驚きました。)

とメッセージを思わず返した。

(おどろき?)

(はい。メッセージアプリと、スクリーンショットを使いこなしている。)

(そうか。ありがとう。)

石原は少し助かった。もちろん、会って話したり電話で話す方が早いことも多い。しかし情報という意味ではメッセージとスクショの方が助かる時もある。特に何度も見直したい場合はスクショが助かる。

 石原は本郷文庫の前で、改めて追加された3本のメールのスクリーンショットを一枚ずつ見直した。それらは時系列順には、



ToZ

ニヒリズムとかではなく、しっかりと実現をしてくれ。

ニーチェを読んでみるのもお勧めする。




ToZ

段々とわかってきただろう。 

海の先に、人間は、ゴミを集めて大地を作る。

嘘の大地を作る。




ToZ

滅多なことを言うものではない。ご遺族の毎朝は地獄なのだ。




思わず、メールの本文の内容のほうに何かを見てしまう。しかしそれこそが金石氏が弾幕のように設計した誤謬への誘導のはずだ。石原が見つめたのは、本郷文庫の四文字のさらに延長での頭文字の流れだった。  


ニヒリズム

段々と

滅多な



だん 

め 


(本郷文庫二段目)


石原は小さく、唖然とした。そうしてスマホから視線を上げて、目の前の本郷文庫を見つめた。本を幾段にもして並べているではないか。

(この一段目、二段目を指しているというなら、意味がつながる。)

本郷文庫は、元々駅の壁を窓のように繰り抜いた本棚だ。木の枠で、上から、一段、二段、と並んで合計三段の古本が並ぶ。石原は、その真ん中の二段目を見つめた。古本の背表紙が隙間なく並んでいる。

 二段目の文庫本を、一つ一つ手にとって、元に戻す。中に何か挟まっていると思って見てみる。石原は一冊ずつすべて見ていった。いくつかの本には、各々の読者の書き込みのようなものもあるが、特にメッセージや関連性は感じなかった。この二段目全ての本のどこかにメッセージがあるとなると、かなり時間がかかるが、一旦警視庁に持ち帰るのが良いだろうか?と悩んだ。しかしこれらをまとめて持ち帰ればここでの「連絡」は今後絶たれるだろう。

 石原は改めて並んでいる本の背表紙を二段目から見つめ直した。「今昔物語」「柳生忍法帖」「レ・ミゼラブル」「硫黄島に死す」「Yの悲劇」「自由からの逃走」…。特徴の言いずらい、ありがちな本の列だった。古本の並びらしく、ジャンルも何もなかった。幾つかの本をもう一度手に取ってみる。紙切れでも挟まれているとかあるのかもしれない、と一冊ずつはじからゆっくりと順に開いたが、何もなかった。古本特有の湿気った香りが広がるだけだった。

 石原は二段目を諦めるように、一段目や三段目に目をやった。


一段目は、


「ドグラマグラ」夢野久作

「刺青」谷崎潤一郎

「ムーンパレス」ポールオースター

「獄門島」横溝正史

「銀河鉄道の夜」宮沢賢治

「地獄変」芥川龍之介

「芽むしり仔撃ち」大江健三郎


・・・


という本が並んでいる。三段目は、


「ヴィヨンの妻」太宰治

「砂の女」安部公房

「こころ」夏目漱石

「ゼロの焦点」松本清張

「用心棒日月抄」藤沢周平

「雪国」川端康成

「はだしのゲン」中沢啓治

「ブエノスアイレスの熱狂」ホルヘ・ルイス・ボルケス

・・・


と本が並んでいた。肝心の二段目は、


「今昔物語」岩波文庫 

「柳生忍法帖」山田風太郎

「レ、ミゼラブル」ヴィクトル・ユゴー

「硫黄島に死す」城山三郎

「Yの悲劇」エラリー・クイーン

「自由からの逃走」フロム

「満州アヘンスクワッド」門馬司

・・・


である。

 本によっては、汚れているもの、マジックで書き込みがあるもの、カバーが残っているもの、茶色の裸で剥き出しのものなどが、乱雑に並んでいる。しつこく本を手に取り中を確認する。落書きや線を引いてあるものも逐一見直すが、何も頭に浮かばないままだった。文庫本と、ハードカバーのものが背の高さも顧みずに並んでいるし、題名でわかるように、純文学もあれば、歴史小説もあり、探偵小説もある。新書や漫画もある。

 ふとそのとき、石原は前回この駅を通った時に太刀川を追って、この場所を撮影して残したのを思い出した。

 スマホを開きその時の写真を見てみた。何か時間軸の仕掛けがあるのなら写真はいいはずだ。つまり、二日前に撮影した本郷文庫の写真と今現在とを比べることにしてみた。首を上下させながらスマホと文庫棚と交互に見比べて行く。

 一段目も二段目も三段目も並びはほとんど変わらなかった。本郷文庫の古本たちは二日の時間を経ても同じように並んだままだった。つまるところ昨今は、たとえ無料の本が並んでいても手に取ることが少ないのだと石原巡査は思った。東大の学生まで含めて電子書籍で読めば十分だ、ということなのだろうか。

 少しだけ変化があったのは、二段目だった。

 二段目は、二日前のものは、右から


「レ、ミゼラブル」ヴィクトル・ユゴー

「硫黄島に死す」城山三郎

「Yの悲劇」エラリー・クイーン

「自由からの逃走」フロム

「満州アヘンスクワッド」門馬司


と並んでいる。

 それらを眺めていたのちに、突如石原は、固唾を飲んだ。もしかするとと思い、もう一度、二日前の写真と、今現在の本郷文庫を比較し直した。そうして、ある一つのことに気がつくと、今度はそのことが脳を離れなくなった。やがて、石原は、とある文字列を幾度もスマホの検索窓に並べて打ち込んだ。ある一定の結果が出た。固唾を飲んでその結果を見つめると、今度は地図のアプリを出した。そして再び検索をしたその言葉を文字で打った。胸を打つ動悸が消せなかった。手の指が震えて、焦る自分を抑えながら、でもとにかく急いだ。なぜなら、その言葉がもし正しい仮説なのであれば、今すぐに動き始めなければいけないからだ。石原は首を振って改札の外の本郷の空を見た。すでに青空は初秋の夕焼けをどこかで始めようとしていた。その空の色がーーもし石原の想定した仮説が正しければ、何らかの事件が起こるまで時間が残されていないーーということを示していた。

 


二百五 GPS (軽井澤新太) _


 わたくしは、尾行をしてきた赤髪の女性に幾つかの理由を説明して、その埼玉の駅で降りてもらいました。

 ただ一点、GPSだけは預かりました。いつかお返しするという前提で赤い髪の女性に連絡先を尋ねましたが、答えずに俯きましたので、詮索はせず、この一連の追跡が済んだら返すから、もし困るなら青山墓地の事務所に取りに来てくれとだけ言いました。

 守谷のトラックが止まったのは埼京線の与野本町という駅でした。ふと、突然あれと思いました。どこかで見たことがある景色だと思いました。遥か昔、前職の駆け出しの頃わたくしはこの駅に来たことがあるのです。報道記者の先輩である御園生さんと待ち合わせたのがこの駅だったと思います。駅は二十年以上も前とほとんど変化はなく、高架をいく埼京線らしい線路下の一ヶ所だけの改札で、駅前に商店街はなくタクシー乗り場にタクシーが一台だけあるだけでした。その少し先に守谷のトラックが駐車しています。追憶と偶然とに混乱しながら、わたくしは守谷の軽トラックを、ゆっくりと遠巻きにロータリーを一周して運転席を盗み見るのも定期的に繰り返しました。その度に軽トラックの運転席に、もたれたまま眠る彼の横顔が見えました。昨夜から一睡もせずこのドラム缶やらセメントやらを運ぶ重労働で疲れ果てたのか、意識を失ったかの様子で眠っておりました。

 わたくしは悩みました。今守谷の胸ぐらを掴んで問い詰めても、シラを切るのは目に見えています。のらりくらりと歌舞伎町や池尻の病院であったことの繰り返しになるでしょう。そもそも目的なくドラム缶やトラックは用意しないはずです。目的に近づくまで、もう少し泳がすべきだとわたくしは覚悟しました。

 尾行をしていた赤い髪の女性が帰り、残されたのは手元のGPSと守谷のトラックと微妙な追憶だけになりました。時間が空いて仮眠でもするものなら、またあの苦しい映像が網膜に再来する気がします。なにかに焦ったわたくしは、昨日電話の途中になってしまったままずっと気になっていた御園生くんに電話をかけました。

「もしもし、軽井澤です。」

「軽井澤さんですか?」

「何度も連絡をいただいていました。大変失礼しました。」

「心配しました。」

「…本当に申し訳なかったです。」

「いえ。なんとかこちらは進めています。はい、今日は江戸島は会ってくれなかったんですが、彼を昨日乗せた運転手さんと一緒に、同じ場所をたどっています。」

こちらの都合で電話を無視したにも関わらず、いつもと変わらず快活な声で御園生君は話します。

「今まさに動いていることはですね…。」

御園生君は、改めて電話口で今日一日の調査のまとめを話しました。彼なりの仮説も混ぜながら要点を言葉にします。その説明には、わたくしは驚きを隠せませんでした。的確な調査が、誰の指示も受けることなく進められていました。

「ありがとうございます。本当にここまで進めてくれて申し訳なかったです。本音を言えば、この怪しい風間や守谷の作業には御園生君をそこまで関与させたくなかったのですが、江戸島についてかなり進んだのは御園生君のおかげです。そうか、やはり江戸島は関係者であることは間違いなさそうですね。御園生くんーー。ここまで、本当に、ありがとうございます。」

「いえ、軽井沢さん、僕はそんな負担になってないです。むしろ自分でも気になったので調べたかったんです。」

「そうですか。」

「大丈夫ですよ。軽井澤さん。普通の仕事です。むしろ僕が調べた中で気になったことはありませんか?」

わたくしは幾つかのお礼と労いの後、御園生君のかなり長い説明の中で最も気になった点について質問いたしました。

「ご説明いただいた中で言いますと、つまり、江戸島は昨夜、その埋立地の道路に書かれたと思われる何かの文言を消しにきたのですね。」

「はい。それは間違いないと思います。葉書と何の関係があるかわかりませんが、我々が二重橋を訪問した後の外出から江戸島会長には奇妙な動きがあります。訪問した最初の夜は、今思えば、この埋立地の方角に一度向かったのです。銀座で寿司を食べた後に晴海通り、つまり銀座からこちらに向かう真っ直ぐの大通りを、有明まで向かいました。その先にこの埋立地があるのです。そうして何故か有明の手前で引き返した。そこで今思うのは、その時は役員車でしたが、翌日は青山墓地でタクシーに乗り換えました。もしかすると会社の車で、この埋め立て地に向かいたくなかったのではないかと、考えさせられます。」

「なるほど」

「軽井澤さん、僕が今いる場所を正確に、GoogleMapで送りますね。場所は江東区の海の上というか埋立地です。電車で来るには有楽町線か臨海線で、新木場まで出なければなりません。駅から歩くには少し遠いです。とにかく海の方角へ、東京湾の沖合に向けて埋立地を突き進むとでも言いましょうか。ほとんど埋立地の終わり近くになります。と言っても砂浜もなければレストランもない、何もないんです。工場に向かうトラックや作業車の駐車場が広大に場所を取ってて、あとは工場ですかね。見てください。電信柱がここで終わっています。」

御園生君はそういって、今いる場所の地図や、周囲の写真を何枚かメッセージで送ってくれました。写真で見てもわかるくらい、人間の気配のない寂しい夕闇がそこにありました。人間の生活らしい光があるのは遠い海向こうの新橋や銀座の高層ビル群の照明ぐらいでしょうか。

「軽井澤さん、恥ずかしながら僕は分からないと言いましたが、やはり、江戸島は間違いなくあの日から、様子を変えていたんだと思います。行動に違和感があります。その上でこんな異様な場所にきて、アスファルトに書かれた何かを薬品で擦って消していたのです。身内の車では見られたくないが故に、タクシーに乗り換えまでして。そのまま同じタクシーで代々木上原の方面まで乗りましたが、用心してなのか、自宅の前ではなく駅前で降りたようです。」

 御園生くんの自主調査は素晴らしいものでした。

 ただ、わたくしは新しい情報を有難いと思う反面どこかで、御園生君にはもうこれ以上関与をしないで欲しいという思いだけを強くしました。むしろ、会話の途中からは上の空にさえなっておりました。上の空というのは聞く意思が無いのではなく、むしろ自分がこの数日間悪夢に侵されたのと同じく、精神が現実に定まらず別世界に持っていかれ目の前を掴めない感覚になっていく、というのが正確な表現です。

 わたくしはそこまで動いてくれた御園生君に辛うじての礼だけを振り絞って述べると、結果的には言い訳を並べて御園生君の電話を切りました。それは御園生君という人格に対しいかにも失礼であり非常に自分勝手な対処だったと思います。



 江戸島は何らかの形で関わっている、というのは実はある切り口では辻褄が合います。というのもこの復讐劇にはどう考えても、金がかかっているのです。GPSもしかり、赤い髪の女性も然り、守谷や風間に対しても人間が複数動いています。そういう作業には金が必要なはずです。そして金が前提となる方向性は二つしかありません。

 ひとつは、命をかけてお金を用意した場合です。お金を持たない人でも命ーつ、つまり死を前提として金を用意するなどの最期の手段を取ることはできます。その場合の覚悟は相当のものになることは言うまでもありません。

 もうひとつは、富裕の人間が行う場合です。金が余っているような人間なら、命を賭けずに何でもできます。後者の場合江戸島という存在は条件を満たしているかもしれないのです。

 わたくしは江戸島がアスファルトの文字を消していたという場所をGPSと携帯電話の地図両方で見比べていました。今駅前で仮眠をとる守谷の位置が動かないのを確認しながら、その地図をいじっておりました。

 そのときでした。

 ふと、わたくしは手でいじっていたGPSの機材の方で、とあることに気がつきました。

 このGPSは実は時間軸が設定されているのです。なるほどと思いました。時間を遡る逆再生ボタンがついていて、天気予報の画面が時系列で雨雲を過去に移動させるように、GPS上でそれぞれの追跡対象のいる場所を過去に遡れるのです。一見その時間軸ボタンが見えないので気がつきませんでした。簡単な操作で赤や青の光源がその位置を時系列に戻していきます。

 追跡対象は青、緑。青は今目の前にいる、守谷です。緑は、マツダのキャロルにつけていたもので、今池尻大橋の病院の草むらに点灯を続けています。

 時間を遡っていきますと、守谷を示す青い光源は埼玉の奥地を経由して昨日へと戻っていきます。昨日より以前はずっと錦糸町にいた様子があります。その錦糸町の前を遡ると、GPSが点灯を始めた時刻が、今から八日前の早朝になっております。それ以前は青の点灯がございませんーー。そしてその点灯が始まった場所が新宿の歌舞伎町でした。正に我々が訪れたマンションです。そこから青の光源は点灯を開始します。わたくしの嫌な想像が当たりました。おそらく切断した右腕を縫い合わせてあったあの縫い目に、GPSを入れ込んだのではないでしょうか。

 マツダのキャロルに付けられた緑の光源の方は、青山のわが探偵事務所の前から始まります。我々の社用車の動きそのものと画面での履歴はピッタリ一致致します。

 そして、問題はもうひとつのオレンジの点です。

 昨夜、赤い髪の女性は、

「風間のGPSは消えてしまっています。」

と、わたくしに言っていました。そのことを念頭に時間を遡っていくとある時点からオレンジの点が点灯するのです。今現在の画面にはオレンジの点は存在しません。しかし、時間を遡るとある時点で光源は「青(守谷)」「緑(キャロル)」「オレンジ」の三つになります。GPSでの尾行は三ヶ所、つまり三名に行われていたことがわかります。

 このオレンジの光源は実は一番開始が古く、十日ほど前まで遡れます。細かく見ますと、わたくしが風間宅に向かった九月八日に、オレンジの光源は西馬込にあります。まさに彼の猫の死体が玄関に置かれた部屋と一致します。その後、南青山の軽井澤探偵社の周辺を明らかに徘徊している時があります。それは十四枚の葉書の残りを風間が届けた九月九日の朝と一致します。風間が携帯電話の電源を切り、猫の死体から逃げていた時間もGPSはしっかりと彼を追跡しています。逃げようとしていた風間の努力は実は全く無駄だったのです。そして気になったのは風間がわたくしと深夜に公衆電話した時刻です。あれは九月十一日の深夜です。オレンジの光源は都内の各所を彷徨いいながら埋立地の、新木場の幹線道路沿いにあるのです。いやよく見るとその場所にその前日も前々日も何度もこの周辺を訪れているのです。そして驚くことにーーいや最早わたくしにはある確率で予想されたことにーーまさにオレンジ色の点が彷徨うのは、御園生君が先ほどメッセージで送ってきた江戸島のいた場所の近くなのです。この広い東京の地図の上で、こんな偶然があり得ますでしょうか?電話の向こうでトラックの通過音が激しかったのを思い出します。拡大をするとその光源の滞留する場所に電話ボックスが確認できました。

 そうです。このオレンジの光源が風間を指し示していることは疑いないでしょう。そしてまさに、九月十一日の、翌十二日の早朝の四時五十五分、に消えるのです。四時五十五分ーー。そうです。忘れもしません。風間の電話が不自然に切れてわたくしが時計を思わず目にした時刻が四時五十分。まさにわたくしとの電話が終わった時間の直後に消えるのです。わたくしは再び不気味な気持ちになりました。いや、あの電話の最後の終わり方、一回目の電話と違い、明らかに電話が繋がったまま、風間の声が聞こえなくなったあの場面が思い出されるのです。


 わたくしは、呆然とオレンジ色の輝点を眺めていました。

 彷徨う風間の背中が目に浮かびます。風間や守谷が葉書を前に、どこかで逃げようとしていた表情も思い出されます。

 結論から申し上げます。

 風間、守谷はある事件の関係者だった。

 かれらは幼馴染だった。

 そうしてとある、恐ろしい事件に関わった。

 このことは間違いがないと思います。

 その事件があったのは、今からもう三十年以上も前、昭和が平成に改元された頃のことです。まだわたくしは小学生でした。報道記者になることなど露にも想像していません。ぼんやりとテレビで、事件の報道を眺めていた記憶があります。女子高生が殺された、ということや、子供ながら戦慄するその内容に、世の中にこんなことがあるのかと恐怖した記憶が存在する程度です。ただそれは、他の多くの日本人が経験したのと同じように、わたくしの目の前を、一つの遠い出来事が通り過ぎただけのことだったと思います。

 わたくしがこの事件に関わることになったのはずっと後のことです。事件から二十年以上経ち彼らは刑務所から出所しました。残虐極まりない事件でありながら加害者の人間ーー四人は極刑は言い渡されず、それぞれ刑期を終え実社会に戻りました。その時期、わたくしはテレビ局の報道記者という立場でした。

 殺人犯の社会復帰は、逮捕時とは違い誰も報道しません。あくまで受刑者の人権観点もあり報道は稀です。大事件を犯した殺人犯は実はこの世の中で静かに社会復帰をしていることが多いのです。

 わたくしはその四人の中の主犯格である元少年A、本名尾嵜憲剛に報道記者として接触を試みました。わたくしは生涯後悔するその作業を、さほど全体のことを考えずに着手しました。そこにあったのは報道記者としての正義というよりも世の中でこの映像は売れるという直感です。売れれば会社の中で良い立場が得られます。わたくしはそういう計算を、さほど考えずに行いました。サラリーマンとして記者生活を続けていた私にはそういう計算が自然で、計算せずとも身体が動くほどだったのです。脊髄の反射のように取材に向かったというのが本質です。そしてその本質の中にこそ知らなかったふりをしている悪魔は存在します。そうです。本当の悪魔は無意識だったと芝居する精神性の周辺にあります。自分に悪気はなかったんだ、悪意などないのだという無意識こそが悪魔なのです。そして、わたくしが脳裏でいまだに避けようとするものも、同じ出自の悪意なのです。


 本当はあのとき、四人全員をひとりひとり取材して映像に収めようとしていました。しかし結局わたくしは、少年A、主犯格と言われた尾嵜だけにしか辿り着くことはできませんでした。

 理由は簡単です。四名のうち、少年Bの山川、少年Cの小川はどう取材しても親兄弟含めて絶縁状態で連絡先もわかりませんでした。少年Dと呼ばれた乾(いぬい)健太郎という人物はすでに死んでいました。罪を後悔して自殺をしていたのです。なので、少年Aだけが、地元の暴力団に関わったりしながら、堂々と実名の尾嵜憲剛で暮らしているだけでした。

 少年B、少年Cは、どうしても行方が判らぬまま、わたくしはその取材自体を途中で断念することになりました。この二人は、尾嵜のような生活を選ばなかったし、少年Dのように自殺もしませんでした。おそらく不退転の気持ちで家族との縁も切り、過去を断絶する方針を選んだのです。それぞれ風間、守谷という別の名前を名乗り、つまり別の戸籍を買取り、別人格になり、過去と決別した人生を新しく歩んでいました。

 風間との最後の電話を思い出します。

「あんたはもう既にわかってるだろう?」

彼は電話の終わりに、偶然にもそう言いました。そうです。わたくしはわかっていたのです。葉書が四人に送付されている可能性や、そのうちの一人が既に死んでいること、残りの二人がどうやら過去に決別して別の名前を名乗っていること、その葉書をなぜ風間が内容まで話したくはなかったか、などのことを。

 彼ら四人は、若洲という当時の埋立途中の土地に、女子高生の死体をドラム缶にコンクリート詰めにして埋めました。その恐ろしい事件は今でもネット上で悪魔の象徴のように語り尽くされます。永遠に消えることない事件です。

 風間、守谷を名乗った二人の元少年ーー少年B山川、少年C中川、の二人は、十四枚の葉書を見て、稲妻に打たれたようにアルファベットの文字が並んだのだと思います。人間の死に関わった過去は消せないと言います。彼らなりに過去を無かったことにするために必死ではあったでしょう。でも名前を変え、戸籍を買っても、それは外側にすぎません。どんなに誤魔化しても人間の死に関与した過去は心の奥で消えなかった。誰にも言えない過去。誰かの死に関わった悪夢と責任は、自分の命を失う日まで消えない。いや命を失っても消えないかもしれないのです。人間の死に関わる、とはそういうことです。

 葉書はそういう文字列だった。

 一度並べばもう二度と他の乱数的なアルファベットに戻ることはなくはっきりとした単語の画面となって眼球に張り付き続けることになった。風間と守谷は、葉書を見て恐怖しました。思い出したくもない記憶が、繰り返し襲ったと思います。その結果としてなす術はなくなり、葉書の示す場所に幾度も来ざるを得なかったのだと思います。わたくしの手にあるGPSの上で、時間を遡ると、オレンジと青の輝点が幾度も幾度も、同じ場所を彷徨います。その場所が、三十年前の若洲の事故現場であることはもはや疑いようがございません。


  



二百六 祖師谷 (赤髪女)


 昨夜は一晩中家に帰れなかったから、産業廃棄物のような変な臭い含めて体中の汚れを流したかった。赤髪女は軽井澤と埼玉で別れた後、真っ直ぐに祖師ヶ谷大蔵の部屋まで戻った。突発する薬物的な不安は一旦消えている。家に着くと心が少し落ち着いた。シャワーを浴びているときは禁断症状が起こりにくい。目を瞑り、ただ脳天から熱い湯を浴びた。滴る水流が気持ちを癒しながらぽたぽたと頬から落ちた。

 浴室から出ると、赤髪女は部屋のいつもの壁にもたれた。

 昨日、軽井澤探偵の尾行の途中で指示者が言った言葉は強烈だった。

「わざと捕まるのですか?」

「そうだ。」

「なぜですか?」

「質問はしない約束だ。」

「しかし」

「とんまな尾行をすればいい。探偵も気がつき始めている。時間の問題だ。」

「捕まった場合は。」

「尾行をしたくらいで、警察に連れて行かれたりはしない。まずは捕まればいい。むしろ探偵の側も、今お前から情報を取りたいと思うはずだ。」

「……。」

「その中で、今持っているGPSをうまく、奪われるようにしておけ。」

「GPSを?」

「ああ。人間は、そういう情報に振り回される傾向にある。それを使う。」

「しかし」

「簡単だ。尾行して、捕まり、荷物を奪われればいい。できれば穏便に済ますために、相手になんでも協力するとかいう小芝居を打ってもいい。いや、それがいいだろう。」

「でも、そんなことをしても。」

「あの連中が、お前に危害を与えると思うか?」

「……。」

「様子を見て逃げればいい。仕事としてはそれだけでいい。」

赤髪女は、かろうじて小芝居を打った。指示者の言う通りに尾行を勘付かせ、自ら軽井澤に捕まった。そしてGPSを軽井澤探偵に奪われた。GPSに興味を持つようにカバンを開けさせ、情報を小出しにしたのだ。これはうまくいった。軽井澤探偵は明確に興味を示した。GPSの情報をもとに情報を追うようになった。そして、あの機械の使いかたも覚えた様子だった。

 うまくいったのは確かだが、それにしても指示者の細かい言葉ーーたとえば軽井澤からの信用を得るために、元あったマツダ車のGPSをはずせとか、自分から見せずにカバンは相手が見るまで開示するなとかーーは異常だった。しかし、そのことで軽井澤から信用を得たのも事実である。

 それにしても指示者は勝手だ、と赤髪女は思った。

 あの探偵が悪い人間なら、埼玉の奥地で何が起こったかわからないではないかーー。

 たまたま好人物だったから助かったに過ぎない。むしろ逆で自分が癲癇を起こしたのを病院に連れて行ってくれたりするほどの好人物ではあった。どうも作戦が秀逸というよりも結果的に、どうにかなったという印象が否めないでいる。

 やはり違う。

 変わった。

 以前の長閑で、ほとんど修正のない命令系統がーーあの埋立地で後ろ手を掴まれたあの男のような冷たさが背後にあるとはいえーー赤髪女には合っていたのではないか。いまの指示者は小賢しく計画が綿密だが、その綿密さが見透けて感じてしまう。

 赤髪女は、部屋の壁にもたれたまま、タバコに火をつけた。

 いずれにせよ、二つの仕事は分けて考えねばならない。あの岩のような背後をとった男は言っていた。

「仕事を混ぜるな。誰か別の人間がお前の脳天を撃ち抜くかもしれない。」




二百七 令和島へ (銭谷慎太郎) _




「霞ヶ関か新橋のあたりで合流させていただけないでしょうか。すいません。どうしてもお願いします。」

もう一度千代田線に乗ったわたしに幾度も電話を着信させた石原は電話に出るや否やそう言った。その声は冷静な彼女とは思えない熱と興奮を帯びていた。いや少し叫んでいたかもしれない。

「今日、それも今すぐではないとダメなのか。」

「はい。」

「……。」

「もし先ほどの仮説が確かならば、今夜東京湾で殺人があります。」

「それを金石が?」

「わかりません。しかし本郷文庫というメールの伝言とその延長で、の仮説です。」

「仮説?」

「こんや、令和島で殺しがあると。令和島というのは東京庵の沖合の埋立地です。」

石原が霞ヶ関本庁から車を出すと突然言うので、わたしは綾瀬に向かう千代田線を無理やり降り、都心部に戻った。日比谷まで戻り、地上に出てその車に乗った。かなりの速度で晴海通りから第一京浜を南へと走り出す。

 石原が突然言い出した「令和島」は、交通機関がまだ届いていない東京湾の沖にあるらしい。恥ずかしながら、少し前、紙の地図帳で調べた東京湾にはそんな島がなかった。こういう時のためにわたしは刑事の私費で最新の市販の地図を持つようにしている。だが東京湾をいくら沖合まで見つめても、その地図に令和島と呼ばれるものはなかった。

「私も実は最初は驚きました。日本全国の島という島を検索したんですが。」

「検索、か。」

「はい。結論から言うと、令和島はまだ島ができている途中なのです。道路も海岸線もほとんどの地図には反映されていない。」

「場所はわかるのか。」

「Google Mapには海面最終処分場という記載の部分があります。その処分場が令和島という名前なのです。要するに島がまだこれから完成する場所、まだ土地としての帰属がどこにも認められていない場所と言う意味だと思います。住所も設定されていない。」

「GoogleのMapか。」

「はい。幾つか地図アプリを見たのですが、Google以外は、記載がまだです。」

わたしは会話をしながら自分の手持ちの地図を鞄の奥に入れた。この国の最新情報を海外の企業が持っているのも残念だったが、わたしが最後まで愛用した日本の地図を作ってきた人間のことも悲しく思った。彼らは死んだのか、もしくは死に近い恥辱の中にいるのだろう。

「お台場の先になると思います。とりあえずレインボーブリッジを渡りますね」

「令和島、か」

「ゴールデンゲートブリッジ、という橋が台場よりさらに先の沖合にできていて、その更に沖合の区画みたいです。まだ誰も住んでいない、住所も所属区かもわからない。海面最終処分場とだけ書いてあります。」

石原はそう吐息を漏らすように言った。ずいぶん強引にその場所を目指している。クルマが速度に乗れたところで、わたしはようやく質問を始めた。

「本郷文庫であったことを質問しても良いだろうか?」

「はい。もちろんです。A署の方もあるのに、すいません。」

石原はハンドルを握る指に力を入れ直すようにしてから

「金石元警部補なのか、他のだれなのかわかりません。ただ誰かが意図的にその言葉を並べ、銭谷警部補に伝えようとしたのだと思います。」

「……。」

「もともと頂いていたメールの頭文字を並べると、ほん・ご・う・ぶん・こ、つまり本郷文庫になる。そしてご連絡いただいたその後のメールも、に・だん・め になる。」

石原は文字を覚えきっていて、ゆっくりと言った。

「つまり、本郷文庫の二段目、という意味になる。」

「偶然だったりはしないのか。」

わたしは思っていたことをまず言った。

「おっしゃる通り、実際に並んだ言葉を見て、最初は偶然かもしれないと思いました。それが本当に意味を持つ言葉なのか?意識のしすぎではないか?とも、考えました。でも人工知能を含めていくつかの研究も調べてみました。ランダムに並べた文字列が意味をなす可能性は、かなり稀です。基本1パーセントもないかもしれないです。」

人工知能という言葉にわたしはまた、呼吸を乱したが、我慢して質問を続けた。

「1パーセントもない?」

「ほぼゼロに近いと思います。」

わたしは堪らず反論した。

「そうだろうか。たとえば、「あ」という文字の後に、あいうえおの順にしても、愛(あい)、会う(あう)、会え(あえ)、青(あお)、と言うふうに、どれも意味をなすように感じるが。」

「はい。ただこれは、あいうえおだけが、特殊なのだと思います。たとえば、逆さまに読めば、いあ、も、うあ、も、えあ、も、おあも、日本語で明確に意味があるかと言われると難しいです。ただ、二文字は偶然も多いです。三文字、四文字と並べてみると相当難しい、意味を持つ確率がかなり低いことだとわかります。」

「……。」

「全く文面にならない事ばかりになります。ためしに新聞や小説の文字列を縦横変えて読むとわかります。文字が乱数的に並ぶときに文脈になる確率はほぼゼロです。人間が文字を並べて話せばほとんど意味を持つというのに、文字列の方で並んで意味を持つのは、奇跡だということを人間は知らないんです。」

石原は、芝浦の倉庫街に入るとアクセルを強めに踏んだ。お台場へ渡るレインボーブリッジが視界に見えてくる。

「今回は二文字や三文字ではない。「ほん・ご・う・ぶん・こ・に・だん・め」まで意味が発生している。本郷文庫、までは私も偶然をある程度は意識しました。しかし二段目まできて確信が高まりました。」

「なるほど。」

「……。」

「ではもう一つ、よいか?」

「勿論です。」

「その類推のなかで、突然それが今夜になった理由はどうなる?まさに今、焦りながら、その海面処分場の沖合の島に向けて急ぐ理由を知りたい。」

わたしはようやくその理由を聞いた。何故、今夜なのか?何故、東京湾沖合のまだ海面を半分残すような埋立地なのか。質問をしながら槇村又兵衛刑事の

「罪を全て川から海へと流すのは人間の業です」

という言葉が突如脳裏に再来した。今日、わたしにはもう一つ重大な事が起きてしまっている。そこにも明確に人間の命が関わっている。だから石原が<なぜ今夜なのか>は大事な会話になる。

「説明します。」

レインボーブリッジまでもう少しと言うところで車は信号で止まった。石原は、彼女の板電話(スマホ)を差し出した。

「先ほどメッセージに写真を二枚お送りしました。」

「ああ。写真は見た。」

「この二枚の写真で気がつきました。もちろん金石元警部補と思われるメールがメールの本文の頭文字を恣意的に並べたという仮説がきっかけです。」

わたしは板電話(スマホ)で言われたままに写真を見た。二枚とも本が並ぶ駅の改札の壁面の書架の写真である。わたしは幾度となく見つめながら

「これが本郷文庫の写真だというのは、理解しているつもりだ。」

と言うのが精一杯だった。

「そうです。本郷三丁目の駅の改札の外にある、一見学生向けの無人古本貸出しです。」

「……。」

「申し上げます。本郷文庫二段目という言葉が、もし何らかのコマンドだとすると、いくつかのことが収斂するのです。つまり、金石元警部補のメールはメールの内容ではなく、むしろ内容に関係のない冒頭の文字がキーだった。」

わたしは無言で頷いた。

「同じことがこの文庫本でも言えるとすると、銭谷警部補、その二段目の、右端から並ぶ本の題名を見ていただきたいです。一枚目の写真をまずみてください。」

わたしは写真を見た。各段を埋め尽くす形で本が並ぶ。典型的な古本屋の体裁で、本は種別も作者も関係なく雑然と並ぶ。わたしはその二段目を見た。一番右は、「レ・ミゼラブル」ヴィクトル・ユーゴー「硫黄島に死す」城山三郎「Yの悲劇」エラリー・クイーン「自由からの逃走」フロム、と並んでいる。並んでいるといえばそれだけである。

「一応、眺めたつもりだ」

「ありがとうございます。一枚目が、二日前にわたしが最初に撮影したものです。」



「レ・ミゼラブル」ヴィクトル・ユーゴー

「硫黄島に死す」城山三郎

「Yの悲劇」エラリー・クイーン

「自由からの逃走」フロム

「満州アヘンスクワッド」門馬司



「もう一枚は、今日です。」

もう一枚は、「今昔物語」岩波文庫、が一番右端である。その隣が「柳生忍法帖」山田風太郎。その次に、また「レ・ミゼラブル」ヴィクトル・ユーゴー「硫黄島に死す」城山三郎「Yの悲劇」エラリー・クイーン「自由からの逃走」フロム、と言う順が続いている。つまり、二冊だけ差し込まれている。


「今昔物語」岩波文庫  

「柳生忍法帖」山田風太郎

「レ・ミゼラブル」ヴィクトル・ユーゴー

「硫黄島に死す」城山三郎

「Yの悲劇」エラリー・クイーン

「自由からの逃走」フロム

「満州アヘンスクワッド」門馬司


わたしは、二枚の写真の違いを見つめた。

「この後に続く列が、つまり「満洲アヘンスクワッド」の隣が、「さようならオレンジ」岩城けい「ツラトゥストゥラはかく語りき」フリードリヒ・ニーチェ「1984」ジョージ・オーウェル」

「そうか。」

わたしはそうとだけ、言った。

「二枚の違いが、気になったんです。二日前には、右側の二冊がなかったのです。つまり、この二枚目、今日撮影した写真と一枚目の<間にも>文脈が発生しているんです。」

「!……。」

わたしは、ようやく、そのことに気がついた。気がついた瞬間は、我々の乗る車は巨大な木馬のようなレインボーブリッジを渡るところだった。夜の暗闇の下に台場の光が瞬いていた。東京湾が無言に広がった。湖のように暗く平らかな海の沖合が、恐らく我々の今目指している場所だ。

「つまり二日前に「れ・い・わ・じ・ま・さ・つ・い」だったものが、今日になって「こん・や・れ・い・わ・じ・ま・さ・つ・い」という言葉になっています。メールと同じく頭文字がです。「令和島殺意」です。金石元警部補の言葉として、今夜、令和島に殺意があると言うことになると、今すぐにでも向かうべきだと思ったのです。そして、昨日警部補は金石さんに似た人間が地下鉄にいたかもしれないとおっしゃいました。この本郷文庫に何らかの作業をした可能性において辻褄があう。」

わたしは金石に似た人間が地下鉄の映像にいたことを思った。早朝の本郷三丁目の駅にぼんやりと揺られてやってくる、文庫本を持った巨きな人物。それが脳内の幻覚とは思えなかった。

「令和島というのがどう言う島か、少しわかったりするか?」

「はい。適切な情報かはわかりませんが、調べただけのものですがよろしいですか。」

「情報はあればあるほどいい、今から、なんらかの殺人がもしあるなら、時間を争う。今夜は、あと二時間もない。」

石原はわたしの「殺人」という言葉に大きく息を吸ったように思えた。アクセルペダルを踏み続けたまま誦じるように恐らく既に調べていたものを説明を始めた。

「ありがとうございます。まずは、地図を見た説明になるのですが」と言って石原はアプリではなく旧来の地図に手書きの赤い点線を書き込んだ地図を差し出した。



★地図




「東京湾の埋立地は、昭和から平成、令和にかけてゆっくりと沖合へと南下していきます。佃、晴海、台場、豊洲、有明、若洲そして青海までの埋立地は昭和以前のものです。古くは山を削り砂を運んで土地を埋立てました。近年は山を削って土を積むわけではありません。基本的に再生処分、つまり莫大な量の東京都のゴミで埋め立てます。昭和時代は夢の島と名付け、ゴミにハエが大発生して江東区では訴訟が起きています。新木場や若洲がそのあたりでしょうか。現在は廃棄物の毒性を限りなく排除して海面処分する形になりましたが、その土壌がどこまで健全かは政治を信じるしかありません。いずれにせよ埋立地はそれぞれの歴史を重ねながら、少しずつ、東京湾を沖合に伸ばし続けています。平成が終わり、あたらしく名前がつけられることになった「9号」海面処分場が、「令和島」となります。この島が言わば、最新の埋立地です。」


「よくわかった」

「はい。この最新というのがポイントだと思います」

「どういうことだ」

「お台場を見てわかるように、東京湾の埋立地は東西南北に道路が走ります。人が先に住んだ下町とは違い道路交通が優先的に設計されるからです。しかし、この島はまだ出来てもいない。それゆえに特殊かもしれません。」

「特殊?」

「島にはまだ接続する道路が殆どないんです。」

「なるほど」

「この今、埋め立てを進める最先端の令和島には一箇所だけ、おそらくこの地図の一本の道路、ゴールデンゲートブリッジの幹線道路から降りる一本だけの道になります。つまり、もし殺人がこの島で発生するなら、袋小路の密室のような場所の中で起こることになります。」

歴史まで噛み砕いて長い説明が「いま」必要だった理由がよくわかった。つまりこの島に入る、その入口から我々には覚悟が必要になるのだ。「今夜の令和島の殺意」が本当なら一箇所しか入り口のない孤島は密室とも言える。密室への入りかたを間違えば事件は深刻な悪化をしかねない。

 わたしは石原の説明を聞いて、彼女の差し出した地図をもう一度見た。石原の言った言葉にはほとんど反論はなかったが、ただ一点、なぜこの令和島での殺意を、金石が暗号まで用意するのかが、解せぬままだった。

 金石の性格ならーーもし奴が本当に追っている事件ならこのやり方はしない。この暗号を私が見逃したときに、次の手が打てないし、そもそも奴が自分の捜査してきたものをこういう形で人に渡すとは思えないからだ。わたしは金石が何をしようとしているのか想像ができぬまま、もがくように過去の記憶を辿った。茫漠と巨大な体躯の男が左手でバーボングラスを揺らしながら、Paradisoのバーカウンターで好きな言葉を繰り返している。酩酊の中、陰謀論を無責任に語り、日中に見せない笑顔で自分勝手に時間を奏でるーー。


(銭谷、お前は警察の中で昇り詰めろ。)


一旦浮かぶとそれは本郷文庫の文字列のように脳裏にしつこく張り付いて、取れない言葉になった。随分と、不自然な言葉だった。そんなことを金石が本当に行っていたのかどうかもわたしには怪しく思えた。

(銭谷、お前は警察の中で昇り詰めろ。)

しかし、バーで左手でウィスキーを煽りながら、泥酔した金石がその言葉を繰り返している。その映像が脳裏に驚くほど明確に、再現されている。わたしは嫌な汗が滲んだ。

(金石、どういう意味だーー。)

思わず独り言を言ったかもしれない。声に出ていたかどうかはわからない。

「警部補、どうしました?」

わたしの目に、石原の運転する横顔が入り直した。そこはバーなどではなく、夜の東京湾を沖合に向けて疾走する車中だった。

「いや、すまん。大丈夫だ。」

「……。」

「うむ。」

「…銭谷警部補、金門橋が見えています。もうすぐ中央防波堤です。その先が令和島になります。」

石原は再び強くアクセルを踏んだ。辻褄の合わなくなった会話を忘れさせるように強めたのかもしれない。もしくは気の迷いのあるわたしを宥めたのかもしれない。



(銭谷、お前は警察の中で昇り詰めろ。)


再びその言葉が脳に淀んだ。顔面神経が、波立つように震える。ただ、その言葉を含めても金石らしくないやり方に思えてならなかった。こんなやり方は、やはり金石、お前らしくはないじゃないかーー。

 その時、電話が鳴った。





二百八 青山墓地  (江戸島) 


「佐島さんでしょうか?」

「はい。」

江戸島はじっとその男を見た。化粧をしている、と思った。いや、正確に言えば、そういう趣味がある人間なのだろうが、何かの乱れで、うまく化粧できていない様子がある。

「あなたですか?妻とのことをおっしゃったのは。」

「いえ厳密には私ではありません。しかし、そう捉えていただいて構わない。」

「なるほど。」

「……。」

「どういう用件でしょう。この場所でなければなりませんか?」

江戸島は少し嫌な表情をした。じつはこういう風に妻の過去の関係者から連絡を受けることは初めてではない。江戸島はすこし、否定的だった。

「このお墓は、季節ごとに様々なお花が飾られます。」

佐島と名乗る男は江戸島をあまり見つめずにずっと墓標の方を見つめている。そうして花を一つ手に触れた。

「月見草ですね。故人はこのお花が好きでした。」

「……。」

「夕暮れから花を咲かせますね。」

「よくご存知ですね。佐島さん。」

どういう関係か、などは江戸島は聞かなかった。おそらく、妻の関係者ということは、ある程度のことは想定ができるからである。

 しばらく黙っていると、佐島と名乗る男は、

「この青山墓地は建国の志士らの墓標もあれば、無縁仏もあります。墓にも寿命があり、時を重ねれば故人を偲ぶ時間は少しずつ減っていくのでしょう。ただ、この辺りで、一番お花が多いのはこのお墓かもしれません。」

と言った。

 基本的に江戸島はこの墓に一年に何回も訪れはしない。あくまで妻の亡くなった桜の季節に訪うくらいである。これまでも、普通の墓より花が多いのは大企業の会長という立場の自分に幾つかの取引先が気を遣ったのだと思ってきた。実際に妻の葬儀は盛大に行われ、随分のひとが参列していた。

「いつ来ても、どんな季節に来ても、誰かが、それぞれの季節の花を捧げていただいて。季節ごとに訪れた人が花を変えるのを繰り返しています。もう随分の時間が過ぎたというのに。」

佐島はそう言って墓標を見つめている。

「あれからもう、何年も過ぎました。節子さんには本当に……。」

よく見ると横顔に涙が流れているのに江戸島は気がついた。自分の過去の記憶のとある区画を、懐中電灯で照らすような気持ちになった。

「あなたは…。」

「失礼しました。節子さんとの、私の思い出というか、はい。自分が混乱しています。すいません。ちょっとだけ、失礼します。佐島恭平、だとか申し上げましたが、すいません。少し時間をください。実は今、あなたと、話をさせて欲しいのです。」

その声はどこか、それまでの男の声とは違い、女性的だったーー。



二百九  最終地点 (軽井澤新太)


 少し前、わたくしの追う守谷の車は埼玉から東京に戻り、都内を南下しました。隅田川沿いを降り、新木場を超え、埋立地である若洲に入りました。わたくしは、若洲という土地に入ったときに、既に強い覚悟をしておりました。

 ところがその予想を裏切り、守谷の軽トラックは若洲を素通りしました。GPSを持ったままわたくしは、地図を見ました。御園生君が説明していた若洲の海沿いにある観音像の場所を、確かに、素通りしている。昨夜、江戸島が徘徊した場所には近づかないーー。

 守谷の車はさらに東京湾を南へ向かいます。

 その時は、一日の終わる最後の陽射しが車のボンネットを熱しておりました。わたくしは西陽に目を細めながら若洲から次の埋立地の方へ巨大なゲートブリッジを駆け上がり羽田空港方面に向かいました。橋の最上部を通過する時、ふと東京湾を一望できます。空港や京浜の工業地帯が地図のように並ぶその先に、まだ埋立が途中の生簀のような区画が夕陽に少し色違いの海面を輝かせて見えます。GPSの地図には映らぬその区画は半分ほど埋立が進んでいる様子です。わたくしの心情を知りもせぬ長閑で美しい夕焼けの先に、守谷の軽トラックはありました。

 守谷の車が左折したのはまさにいま橋の上から眺めていた、地図の表記のない埋立地の方角に入る交差点でした。左折は、つまりお台場の逆、海の沖合の方角になります。東京湾の最も沖合の出島のように伸びる方角へ、守谷のトラックは進んで行きました。

 わたくしは一旦、島の入り口で車を止め、いくつかの地図アプリを調べました。というのもゲートブリッジの上から見た記憶では、明らかに出島は袋小路の行き止まりであり、行き止まりのあの島に尾行を走らせれば、すぐに目につくだろうからです。つまり密室のような行き止まりの袋小路に、ドラム缶にコンクリートまでを載せた守谷の軽トラック車を追いかけるのには少し準備ーーむしろ覚悟が必要だと思ったのです。

 わたくしは地図をいくつも調べました。

 不思議な島です。埋立地になろうとしている、海でも陸でもない場所です。見る限り、やはり、この島の入り口はどうやらここ一箇所だけのようです。そもそもまだ島を作っているような状態ですから、複数の道路を作って出入りする必要はないわけです。

 追いかければ守谷の軽トラックと鉢合わせになるでしょう。入口が一箇所一本道の出島です。この道路はおそらくゴミ処理の車両や島の建設を預かる工事車両の通行路です。守谷の軽トラックはその一本の道を迷うことなく進んで消えていきました。いつしか夕焼けは終わり、闇に飲まれ始めると街の光もない沖合は驚くほど暗くなりました。守谷の行った工事関係車両用の細い二車線は照明もほとんど少なく沖合の方角は暗く、まるでどこから海になっているのかもわからぬようでした。場合によってはそのまま海に落ちても誰も判らないようなそういう恐怖がありました。

 守谷をリンチした集団を思い出します。

 万が一このトンネルの先にそう言う人間が集まっていれば、安全なわけがございません。

 守谷は一体、何の目的でドラム缶を埼玉の山奥に探し、ホームセンターでセメントを用意したのかなど思いながら、わたくしはGPSと地図に釘付けになって、さまざまなことを思案しました。出島の入り口のその場所でまんじりとした時間が過ぎました。守谷のGPSは島の奥でまだ輝いています。地図上では海の上の沖合にまで進みました。やがて、そこに止まったまま動かなくなりました。

 随分長い時間待ったとおもいます。守谷は一人で何をしているのか。ドラム缶やセメントの粉を何に使うのか。まさか誰かを殺して再びそこに埋めようとしているのかーー。そんなことを妄想していました。しかし誰かを殺すも何も、彼はただ一人でこの道を奥へと向かったのです。

 あたりは、建物も何もないせいか暗くなるのが早いようです。明るいのは海の向こうの都心部の高層ビルや、空港の照明の輝きばかりで、足元は漆黒の闇となっていきます。まるで海面のように地上の生物の香りがない。わたくしは、闇に覚悟を迫られたようにして、車のアクセルを踏みました。地図にない交差点から島の中へと進めました。地図の上では陸が消えるその沖合に向けてしばらく走りました。入ってわかったのですが、島はかなりの広さがあるようでした。

 しばらく行ったところでした。

 狭い車線に蛍光色の何かが広がっていました。嫌な予感がして、車を停めてアスファルトの闇に光るものを見てみると、そこには、車のタイヤを破裂させることを目的に尖らさせられた夥しい数の撒菱が、星屑のように闇に広がっているのです。

 嫌な予感がしました。

 わたくしは、明らかに意図を感じるその夥しい数の撒菱を眺め、その先の島で何が行われているのかを想像し、恐怖を具体的にしました。

 守谷や風間を名乗る彼らが三十年前に起こした誘拐事件も、最後は埋立地に辿り着きました。あの若洲がまだ地図の上では海だった時代に起きた事件。少年たちが、当時、海面調整中の埋立地の土を掘り、死体を隠そうとした、あの時の心理と何か同じものが今まさに始まる気持ちがしました。ドラム缶に入れた死体を、コンクリートで隠して埋めようとしたあの心理と同じように、守谷が再びドラム缶を用意してコンクリートまでも用意している。その作業の時間をかせぐために、一本道に撒菱を撒き、誰もが通行出来ないような設計までを行なっているーー。

 わたくしは急ぎました。

 車がタイヤで通れるように重たい撒菱をどかすのに時間を取られました。よく見ると蛍光色の塗っていない撒菱も大量にあったのです。車のライトを下に向け直し、私はただ焦りながら、冷たい鉄の撒菱を拾っては脇道へ投げ、辛うじてキャロルの車幅だけ通れるようにすると、ようやく島の中へと車を進め直しました。

 恐怖と、何かが始まってしまう悪い予感に苛まされながら、車上灯を小さくし、漆黒の闇のなかをすこしずつ車を進めました。

 青ざめた自分の頬が硬く冷たく頬骨に張り付くような感覚でした。

 闇に目を慣らしながら進みます。うっすらと見える視界の中、どうやら、守谷の軽トラックは島の埋立地の一番南のあたりに止まっているのが見えてきました。わたくしは灯りを強めずに、幾度か小分けにしながらアクセルを踏みました。少しずつ守谷のトラックに近づきました。

 どれくらいの時間が経ったのか自分でもわかりません。もう既に、こちらの気配もわかるほどになっていました。守谷がそこにいるならこちらに気がつくでしょうから、最悪の場合、すぐにバックで逃げれるようにギアを意識しながら、少しずつ近づきました。

 あたりには人間の気配は一切ございません。

 もうはっきりと守谷の軽トラックは視界にありました。

 わたくしはそこで車上灯を強くしました。

 既にドラム缶は下ろされ、軽トラックの少し横に置かれているのが見えました。

 守谷は見当たりません。

 わたくしは車を降りました。

 ちかづいてトラックを探しましたが守谷はいません。私はキャロルの車上灯(ライト)をトラックの方角に当てなおしてから車を降りました。トラックまで歩み寄りその周りを調べ、何もないのを確認してから、今度はドラム缶の方に移動しました。

 ドラム缶は蓋が空いていました。

 守谷の姿はどこにも見えません。

 空にはすでに星が見えました。夏の終わった夜空は静かでした。人間のいる陸の喧騒から離れた沖遠い海の上では、星がいくつか瞬くようでした。対岸の京浜工業地帯では御園生君の送ってくれた写真にあったような鉄の剥き出しの工場が夜間も稼働を続けるようでした。それは人間が機械に任せた街並みでした。手前の海路をタンカーやらの海上輸送がずいぶんゆっくりと航行しているのがその時になって気になりました。

 全てはこういう場所から始まったのだと思いました。御園生先輩が言葉が闇の空から降りてきます。

「人間がもう見たり触れたりしたくないものに蓋をするときに、さまざまな方法がある。その一つが海に隠して捨てようとすることなんだ。都会の喧騒や人混みの街から溢れた出た悲しみを、川へと捨て、やがて海の沖へと遠ざける。海の底へと見えなくする。それこそが多くの人間がみな根源に持つ悪なのだ。」

 守谷はトラックにも辺りにも見当たりません。

 残すのはドラム缶だけになります。

 強く深呼吸を幾度かすると、わたくしは改めてドラム缶の方を見つめました。


二百十 無題 (太刀川龍一)

 太刀川は深々と呼吸を整えていた。

 集めて作り上げてきた文書が、いよいよ形になる。

 達成感、作業の完遂、というものはいつの時代でも、なにものにも変えがたい。

 金をいくら稼いでも得れない恍惚がそこにはある。

 面白いことが、進むだろう。

 随分長かったーー。

 そうしてまとめ切った後に、なぜか、とある刑事のことを思い出したーー。


二一一 背中 (銭谷慎太郎)   


「銭谷か。」

是永か?と言おうとして、言葉を飲んだ。信用しているとは言え、無駄に今隣に座る石原の前で名前を出す必要はない。

「そうだ。」

「動きがあった。」

「ありがとう。こんな深夜まですまない。」

「銭谷は、金石を覚えているか?」

覚えているのも何もむしろ、是永からその名前が出ることが意外だった。

「ああ。もちろんだ。」

「この所轄から本庁捜査二課に異動した。栄転したのに警視庁を五年ほど前にやめているはずだ。」

「そうだ。一緒に仕事をしたこともある」

隣で石原が聞き耳を立てたのがわかった。

「そうか。ちなみにその後、あいつと会ったりしたか?その、金石が刑事をやめてからだ。」

「…いいや、ない。」

「実は、今日おれは、奴のことを二回ほど見かけたんだ」

「何、見かけた?」

わたしは思わず声を強めた。

「いや、知っているならわかるだろう。あいつは、二メートルの巨体だ。顔は見えなかったがなんとも言えない、あの後ろ姿を見た気がしたんだ。顔までははっきりとわからなかった。十年以上も昔だからな。すこし別人のようにだいぶ変わった気がする。でもあの巨体は変わらない。あの風情を感じたんだ。」

「署の中でか?」

「ちがう。一度は、署の駐車場。もう一度は、とある病院だ。」

「病院?」

「河川敷、帝釈天の裏の江戸川で重傷を負ったら、どこに向かいやすいか?」

「金町病院だな」

「そうだ。一見そうだ。」

是永は意味を含んだ言い方をした。

「一見は、そうだがーー。」

「もし、意図が働くなら少し場所を変えるか。とすると、亀有病院だろうか。」

わたしは想像していたことを言った。

「そう。俺が見たのは亀有病院の前でだ。」

「……。」

「奴は、病院の前から堂々と入っていった。あの時間、人はほとんどいない。捜査には最も適さない体格だが、警備を突破するのにはもってこいだ。」

 わたしは信じられない気持ちの中に何か、新しく興奮する気持ちが混ざっていくのが分かった。初めて迷惑メールが来た時と同じだ。それは金石という人間が生きているという証左を用意した時にだけわたしに訪れる、非常に特殊な感覚である。

(金石が槇村又兵衛の救出に向かっている?まさか?)

 又兵衛の状況は深刻なはずだ。

 ただ、金石が動いているなら、わたしが動くよりいいーー。

 わたしの脳裏にそういう言葉が悲しくよぎった。

 奴が動いて駄目なものはわたしでも同じく駄目だろう。それが実力だ。わたしは結局、組織での立場を選んでいる弱い人間だ。地位を捨て自分の実力を信じ仕事を進める金石に叶うわけがない。

「銭谷、大丈夫か?」

わたしの怨念を打ち破るように是永の言葉が電話の向こうで響いた。

「あくまで金石については確実な情報ではない。もう少し調べてみるから待ってくれ。場合によっては、俺ももう一度亀有病院に行ってみるかもしれない。」

「すまない。是永、無理はしないでくれ。」

「無理などしていない。」

「しかし」

「いいか、これは、俺が好きでやってるだけだ。そのことは忘れないでくれ。」

刑事の血がうごめく言葉だった。良き友を持っていることをわたしはほとんど知らないで生きてきていた。

「是永、すまん。なんと言っていいかわからない。いま、こちらは、別件の現場に向かっている。実はそちらもかなり重たい。」

石原がこちらを気にしているのが分かった。

「別件の現場なのか。この時間に大変だな。まあエースにはエースの仕事がある。そっちがまず大事だろう。わかった。動きがあり次第連絡する。」

「ああ。」

わたしは電話を切りながら、殺意の島に向かう目の前の現実の景色に戻った。金石からのメールや伝言はこのまま埋立地へ向かえと言っている。それに反して金石と思われる二メートルの巨漢が埋立地ではなく、河川敷の上流の槇村又兵衛のいる場所を探している。

「罪は川に流し、遠くの海に捨てたくなる。それが人間なんだ」

わたしは、もう一度、又兵衛老人の言葉を思い返していた。





第二部(終章)



一 御園生氏による事件当日の朝の説明


 僕は結局事務所に泊まった。なんだか不安が強く、軽井澤さんが事務所に戻ってくる気がしたのだ。そうして例によって放置したままの通常の業務の対応をした。僕はずいぶんな速度で処理を進めた。この一週間が異常すぎたのもあり、日常の仕事がとにかく簡単に思えた。

 深夜の何時だっただろう。電話が鳴った。僕は軽井澤さんだと思って出た。

「警視庁です。」

女性の警察官は、突然そう言って自己紹介をし、僕の身元を電話越しで確認してから、なぜ電話しているのかを説明した。

「所長の、軽井澤氏が逮捕される可能性があります。」

衝撃的な言葉は時として意味が伝わりづらい。

「どういうことですか?よくわからないです。どういう意味ですかね。」

「逮捕、というのが唐突かもしれませんが、非常に危険な状態と言えます。いやこの際、時間もないですから、単刀直入に申し上げましょう。軽井澤氏は現在、とある殺人の事件の最重要参考人になっているのです。平たく言えばこのまま何もしなければ、容疑者となりますし、殺人罪で起訴される可能性もあります。」

「殺人で起訴?」

「そうです。」

とにかく協力をしてほしいと。心当たりを教えてほしいというのがその石原と名乗る女性警察官の話だった。おかしな話だった。逮捕されて重要参考人なのなら、警察は淡々と進めればいいじゃないか。

「軽井澤さんが、なにかの殺人を自白したんですか?失礼ですが、軽井澤さんは人を殺したりすることとは最も遠い人間です。正直信じられません。警察官だということですが、お会いして説明をお聞きしたいです。」

僕がそう言ったとき、事務所の前に、赤いランプを屋根につけた車が停まり若いスーツの女性が暗闇に躍り出た。事務所の入り口の方まで足をすすめながら、電話とおそらく同じ声で、

「御園生さんですね。電話は私です。警視庁捜査一課石原と申します。」

といった。



「三人も?」

女性の警察官は休む間もなく事務所前で手持ちの地図を広げました。どこで、何が起こっているのかを僕に説明を始めました。

「今湾岸署の管轄地ですが、死亡が確認された三名の目の前に軽井澤さんはいました。この島は、つまりこの埋立地を島と呼んでいるのですが、海面最終処分場と言って、まだ建物を建てたりする前の盛り土を持っている程度の状態です。つまり誰も居住者がいない平地になります。そこに死体と、軽井澤さんだけがいたのです。」

「一体でもなんで、そんなところに。」

僕は頭を抱えたが、正直先日からの軽井澤さんの特殊な状態を考えるとなんとも言えなかった。あの病的な表情を思うと、何か人に言えない事情の中でそういう場所に向かう結論に至ったのかもしれない。あの不気味な葉書の怨念と、三人の人間が殺されているということ自体が、何かつながりを感じもした。

「いくつかお聞きしてもいいですか?」

石原と名乗った女性警官は、僕を見た。用意している質疑があるらしい。

「軽井澤さんは、元テレビ日本ですよね?そして、彼と、あなたのお父さんも、同じ元テレビ日本にお勤めだった。今回の件について何かご存知ですか?」

唐突な質問だった。父が関係する?警察は一般の国民の個人情報をどこまで把握してるのだろう。

「父のことは知らない、です」

僕は、戸惑いながらそう返した。

「軽井澤氏のいくつかの事情については、ご存じでしょうか。」

「事情?」

「はい」

「知りません。前職で父が一緒だったことさえ、ほとんど知りませんでした。軽井澤さんがテレビ日本をやめた理由も、プライベートなことも会話したことがないです」

「ご家族のことも?」

「そうですね。さほど。」

「娘さんのことも?」

「ええ。一緒にボクシングをしているくらいなら」

「昔ですか?」

「いえ、最近もだと思います」

そのとき、石原と言う刑事は僕をじっと見つめた。

「先週もいきましたよ。」

僕は、その時、少し投げやりに答えた。このような状況ではじめて、悲しくなるほど軽井澤さんのことを僕は知らないのだと思った。家族のこと、といっても娘の紗千さんや奥さんには会ったことはない。ただ話で聞いていただけだ。女性警察官は、

「そうですか。」

とだけ言って、煙草を吸いたそうにした。僕は灰皿をと思いながら警察官を事務所の中に案内していつも軽井澤さんの座る席に彼女を座らせた。

「ここ数日の所長のーー軽井沢氏の様子を聞かせてほしいです。例えば、日常と何かが違ったか?など。混乱がありましたか?明らかに?様子がおかしいとか?」

「おかしい、といえば。そう思うことはありました。」

「なるほど。」

「ただ、軽井澤さんがおかしかったというのではなく、実は、そうなってもおかしくない奇妙なことが連続したのが原因だと思います。つまり内的というより外的な。」

「外的なこと、ですか。」

「ええ。」

僕はそこで、この一週間にあったことを正直に全て話した。なぜなら、全て話すことが、真実に警察を向かわせることだと思ったし、事実が明らかになれば、軽井澤さんの殺人などというありえない誤解を解消できると思ったからだ。三人も死んでいると、女性警察官は言っている。

「軽井澤氏のご家族のことは本当にご存じないのですね?」

「一人娘さんを大切にしている、ということくらいですかね。」

「……。」

「それくらいです。」

女性刑事はなぜか家族のことを繰り返して聞いた。ただ、伝聞程度でしか僕が軽井澤さんのプライベートは知らないということを理解すると、話は事件の話題に戻った。

 話すべきことはたくさんあった。猫の死体に困った風間という男が問い合わせてきたこと。守谷という人間が片腕切断の状態で私刑されていたこと。そこに絡んだ葉書があったこと。葉書は彼らには暗号か何かのようで、彼らなりに苦しんでいる様子があったこと。その中でこの二人が共通して話題にした(レイナさんの手前、検索語句を調べたとはいえなかった)事柄として、とある人物ーーー江戸島という上場企業の会長がなぜか存在したこと。軽井澤さんと僕でその人物に会いに行ったこと。その際に、僕にはわからなかったが、軽井澤さんはある事実を見たと言ったこと。その事実は今でもわからないが、江戸島という人間の、葉書への反応についてだったこと。さらにはその江戸島を探偵として僕が尾行をして、明確に違和感ある動きがあったこと……。などを事実を早く警察に刷り込む一心で話した。

「その葉書が、これですね」

勘のいいらしい女性警官は壁に僕がコピーを貼り付けて並べていたのを指差した。

「そうです。この十四枚がその二人の男に送られていたのです。」

そこで石原巡査は少し、何か思うことがあるような顔をしたが、しばらく躊躇した後、

「江戸島というのはX重工の江戸島会長のことで間違い無いですね?」

「はい。そうだと思います。」

「江戸島会長に明確に違和感ある動きがあったというのは?」

と質問を重ねた。

「埋立地で少し不自然な動きがあったのです」

「埋立地に?」

「はい。不思議な動きでした。若洲という場所で。」

「若洲。」

そう言って、女性警察官はもう一度地図を広げた。

「軽井澤容疑者が、いや失礼。軽井澤氏が発見されている現場は、ここです。」

「海の上ということですか?」

「いえ、ここはこの紙の地図上では海になっていますが、いまは海面調整場といい。」

「埋め立てをしている途中の区画ですね。はい。タクシーで江戸島会長を追いかけていたときに金門橋から見えました。」

「そうです。ここに昨夜軽井澤さんはいたのです。」

「またなんで、こんな場所に。」

僕はそう言いながら、昨日電話で江戸島の尾行の説明をし、若洲の辺りの話をしたのがなんらかの遠因ではないかと自分を責めたりもした。

「わかりません。」

「……。」

「ただ、この島から金門橋を越えるとすぐに若洲ですね。」

「はい。そうですね。」

「江戸島会長、が気になりますね。」

地図を見て話しながら時間を焦っているのか、石原巡査は時計を何度も気にして、今度はどこかに電話をかけた。上司らしき人と、いま僕と話したことの要約を凄まじい説明能力で僕の半分以下の時間で報告をしている。

「はい。探偵事務所で部下の方と話しております。」

「え、いきなりですか?捜査令状もなしですか?はい。任意で。同行まではせず。はい。了解致しました。」

石原捜査官は僕を見つめた。その時に初めて気がついたのだが、あれ、と思うくらい美しいまなざしの警察官だった。

「これからX重工で、江戸島という人に会いに行きます。ご一緒ねがえますか?」

「僕ですか?江戸島会長とは面会謝絶でしたが。」

「今お聞きした話も含め、一度お会いされている時の葉書の話などもあると思います。とりあえず、行ってみましょう。」

真っ暗だった空が少しずつ青みを重ねていた。時計を見ると六時を超えていた。

「大企業の経営者ですよね。朝は早いかもしれません。少なくとも秘書には会えるはずです。全ては軽井澤さんのためです。」

女性警察官は再び美しい眼差しでそう言い切ると、乗り付けたままの車の方に歩いた。

 僕はその覆面パトカーの助手席に乗せられ、まるで逮捕者のように朝の六本木通りを二重橋前まで移動した。

 あの赤煉瓦のビルに再度入ると、女性警察官に指示されるまま僕が受付で面会を求めた。江戸島会長の秘書は、最初、取り継がない様子を見せたが、捜査関係者まで連れてきたこちらの様子を感じ取ったようだった。





二 石原巡査の説明  



 令和三年九月一五日夜、東京湾の埋立地で、殺人事件が起きた。

 厳密には海面処分場と呼ばれる、まだ行政の登録も、帰属する管轄区も曖昧な埋立て最先尖の人工島において、である。

 私石原は警視庁捜査一課の警察官であり、この事件の第二番目の発見者である。別件の隠密捜査の最中にとある「情報」があり、捜査一課銭谷警部補と私は死体らに対面した。死体ら、と複数形で言うのはこの殺人事件の被害者が一人ではなかったのである。

 合計三名の死亡が確認された。三つの死体は埋立地に唐突に置かれたドラム缶の中に折り重なっていた。いや厳密には折り畳まれた死体はひとつしかない。残りの二つは生首であった。つまり全身の遺体が一つ、首より上の頭部だけのものが二つ、ドラム缶の中に置かれていた。

 我々より先に、この三つの死体を確認した人間、つまりこの事件の第一発見者がいた。私立探偵の軽井澤新太氏だ。氏はドラム缶の縁(ふち)に両手をかけ、自分の乗ってきた古い軽乗用車のドアも開けっぱなしにして、死体なのか地面なのかわからぬ辺りを見任せにし、呆然としていた。言葉を失ったもぬけの殻、という表現がとくに正しかったと思われる。氏の他には、おそらくドラム缶を運搬搬入したと思われる軽トラックが一台、ドラム缶の周辺にはセメントか何かの材料になる砂と砂利の袋が何か作業の途中のような形で落ちていただけである。見渡す限り広大な埋め立ての途中で、少し先まで行くと海面である。闇の先に、おそらく海水の場所だけが少し水面らしき光沢が揺れている。

 有り体に言えば、この軽井澤という人物が、殺人の容疑者であるはずだった。というのもこの人工島、本当の名前は令和島、は東京湾にまだ登記もされていない巨大な廃棄土の塊のようなもので、真っ平の地面と海面処分という名の埋め立て途中の海水面があるだけなのだ。埋立計画の都合上、島の外枠は最初に仕切りの護岸壁ができていてその区画の中に次々と東京中のゴミ処理物が投げ捨てられていく、そういう、海が大地に変化変質するような場所である。

 この令和島への入り口はひとつしかない。つまり、たった今、この私石原と銭谷警部補がやってきた中央防波堤方面からの一本の道だけ。これ以外、島に出入りする術はないのである。草木さえない平べったい埋立計画地に、軽井澤探偵の車と、我々の車、そして誰のものかは判らぬ軽トラックと、ドラム缶に入った三つの死体があった、という状態である。

 ものの見方によっては、この令和の埋立地は密室とも言えたから、我々が死体の現場に辿り着いたときに、すでに先着して呆然と立っていた軽井澤という男が容疑者になるのは当然である。そうして銭谷警部補が役割に準じて話しかけ問いただしたところ、すんなりと、

「それならば、まず自分を逮捕してください」

と申し出があった。このため、早々にこの事件は三人の人間が生首など含め残酷極まる形で亡くなられるという非常に凶悪な殺人事件でありながら、幸いにも容疑者もいち早く逮捕という、短絡的な結末を迎えるものと思われた。

「銭谷警部補、おつかれさまです。まずは、本庁に連絡いたします。」

わたしがそう言った時だった。銭谷警部補が

「ちょっと待ってくれ。」

と少し余所行きの声で言った。そのまま、しばらく無言になったまま容疑者の探偵をじっと見つめ続けていた。私が混乱というか、よくわからない予感をしたのは、死体を見た時よりも、むしろその時からなのである。わたしは埋立地の冷たい海風を頬に受けながら髪の先が唇に絡むのを気にもせず、ただ、呆然としていた。

 銭谷警部補はこの事件を、まず、本庁に報告することを拒否した。殺人の現場で、鑑識を呼ばないなど前代未聞である。ばかりか、この探偵に手錠を形だけは嵌めながら、いくつかの少し長閑な質疑をはじめた。その質疑は、容疑を固めて、現行犯逮捕を進める目的とは言い難いものだった。つまり、ちょっと世間話のような感じなのである。



 …銭谷警部補と私石原がこの島に到着したのは九月十五日の深夜、二十二時半頃である。新橋で乗り合わせた警部補に、半ば強引な私の金石元警部補による暗号の仮説に従って同行してもらった。実は銭谷警部補はある別件、所轄の槇村又兵衛刑事の失踪に絡む案件で、重要な状態であったがこの件を無理に優先してもらった。まずは、私の仮説の金石暗号を元に優先作業を行う。この島に何もなければ、所轄、つまりA署の槇村又兵衛刑事への殺人未遂行為に対する対応をするつもりだったのだ。

 しかし予想に反し、いや厳密には一般的な確率論に反し、この令和の埋立地には既に死体となった人間が複数、しかも無残極まりない形で発見されたのである。

 時間の順に説明したい。

 二十二時半、この島の入り口より我々は侵入を試みた。

 この島(海面処分場、もしくは令和島)に入る道路は、廃棄物関係の車両が通るだけの細いものが一本あるばかりである。この入り口の道路に突然、闇の中に地面で光るものがあった。蛍の大群かと驚きながら、かなりの速度で進んでいた私は急ブレーキで車を止めた。降りて見るとそれは、蛍光塗料を塗られた金属片、正式には撒菱と呼ばれるものである。撒菱というのは鉄条網に巻きつけられるような棘を持つ金属部品で、鉄の爪の三角錐である。かつては忍者が人の足の裏を刺すように作った。これが車のタイヤをパンクさせようと道路に撒かれているのである。車を降りてよくみてみると、一部の物は蛍光塗料が塗られているがそれ以外にも素焼きのまま見えなかったものもあり、車が走ればタイヤが割れるように道にばらまかれていた。

 つまり遅れて島に入るものをこの鉄の剣山で牽制したのである。本当に入らせないのならば一部にだけ蛍光を塗る手間は取らないだろう。恐らく時間を稼ぐために、手の込んだ蛍光塗料の作業までして、ここに仕掛けを撒いた可能性があると言えた。

「普通じゃないな。」

銭谷警部補は助手席でそう静かに言ってから、私石原と一緒に撒菱を退かす作業を行った。車一台分ほど通れれば良いと考えて地面で作業を開始した。しかし良く闇の中を見ていると、既に撒菱が退かした狭い二本筋がある。つまりその二本筋こそが、恐らく軽トラックか、探偵の軽自動車かどちらかが先に入った車輪の跡だったのである。いずれにせよ、我々は先に侵入しているものがあることを、この時点で警察官らしく覚悟をした。

「銭谷警部補。中に進みますか?」

「もちろんだ。」

「承知致しました。少し車輪幅が違うので、念の為もう少し撒菱を退けますね。」

埋立地と言っても広大である。恐らく羽田空港を超えるくらいの広さの海面を埋め立てていこうとしている。闇の中に照明などはないが、京浜工業地帯や羽田空港の照明灯が月夜のように照らすせいで海面がゆらめくのが感じられた。反対に海面処分場は、水面の動きのない土が広がって真っ暗な闇となって本当に何も見えないほどに黒々としていた。

 私は殺意がこの島にあるという暗号の仮説を思い出しながら、視界の覚束ぬ無人の闇を進んだ。殺人者がどこかにいて今にもこちらに向かってくる、という恐怖があったのは言うまでもない。

 かなりの距離を闇の中進んだ、おそらく島の真ん中を過ぎて来た辺りで小さな車が車上灯だけを点けているのが見えた。そしてその少し近くに人間が立っているのが見えた。これが私立探偵の軽井澤氏であった。氏はドラム缶に手をかけて、項垂れるように呆然としていた。そして、そのさらに隣には軽トラックと軽自動車とがドアも閉めずに開け放してあった。軽トラックの方は灯が全て消えていて気がつくのに時間がかかった。

 銭谷警部補と私はゆっくりと彼に近づいた。どこまで接近しても彼、つまり軽井澤氏はこちらを見もしない。ドラム缶の淵に、両手を乗せて呆然としている。

「大丈夫ですか?」

銭谷警部補がそう声をかけても、軽井澤氏は何も反応がなかった。たまらず私はその先のドラム缶の方を見つめた。蓋らしきものがされておらず中に、中に座っている人間の頭が見えた。しかしよく見るまでもなく、それは明らかに息絶えた死者の暗い顔だった。


 こんやれいわじまさつい

 今夜令和島殺意


 自分の想定した暗号の通りに目の前に現実がやってきたのを私石原はまざまざと感じた。そうしてさらにドラム缶の中まで目を進め、生首を含めた恐ろしい連続殺人を確認したのである。反射的に 本庁への連絡をしようとする私に

「ちょっと待ってくれ」

と銭谷警部補が言ったのは先述の通りである。

「なぜですか?」

私はたまらずそう聞き返した。しかし銭谷警部補は聞こえもしないという空気のまま、重要参考人いや、殺人犯かもしれない軽井澤氏を立たせたまま逮捕もせずに粛々とドラム缶の中に目をやっていた。やがて、軽井澤氏に「ちょっと良いですか?」と告げると、手袋を取り出してドラム缶を羽田空港の方角に横倒し、中にある死体を動かしながら、

「石原、懐中電灯」

と言った。

「鑑識の前にですか?大丈夫ですか?」

殺人事件である。鑑識班の作業の前に場を荒らし重要な情報を毀損してしまえば、取り返しのつかない初動ミスになる。言わずもがな、殺人を扱う警視庁捜査一課では特に初動作業が重要視される。現場の刑事の鑑識の前での勝手な行動は許されない。ただ、それは実際に現場で一刻を争ったり、逮捕に相当の自信があれば別なのだが、昨今はそういう強引なやり方は流行らない。

 そういう会話は、銭谷警部補には通用しない気がした。銭谷警部補は、死体を見た最初から、何か少し確信めいたような、空気の変化があった。それまで眠っていたのが目を覚ましたかのような変化でもある。

 金石元警部補と思われるメールを読み解き、この「令和島」に向かった我々の特殊な事情も少し考えたが、三人もが死んでいる殺人事件である。やりすぎではないか。しばらく私が納得のいかぬ顔をしていると、気がついた様子で少し諭すように

「納得しずらいか。」

「正直に言えばそうです。」

「すまない。どんなことがあっても石原の経歴に傷はつけない。例えばだが、この銭谷が、石原を脅迫して捜査に参加させた。石原はむしろ被害者だった、ということにするのも構わない。それではダメか?」

「脅迫?」

「ああ、もし万が一のことになったら、三人もの死体を前に手柄を焦った銭谷警部補が脅迫的に命令をした、ということでいい。」

と、投げ槍のような台詞を、まるで詫び相談のような言い方で警部補は言った。

「あと、大前提がある。ここに来た理由ーー金石のメールについては、警視庁の誰にも言えない。これは、判ってもらえると思っている。」

「そのことは、理解しているつもりです。」

海の夜風が冷たく乾いていた。潮の部分だけ水気を感じる不思議な風だった。私石原はそう言うのが精一杯だった。言ってから、さすがに無言になった。

「もう少しだけ、我慢してくれないか。」

「……。」

結局、少し沈黙を延長しただけで、私は言われた通りに懐中電灯を持ってドラム缶の周辺で銭谷警部補に協力をした。死体は、警察学校で学んだものとは全く違う現実の血の臭いがした。手袋をしてドラム缶から死体を一つずつ取り出す。はっきりと人間が死んでいた。すなわち最初に視界に入った座状の全身遺体だけでなく、生首が二つ、合計三名の死体がそこにあった。

 銭谷警部補はあきらかにこれまでの空気と違った。長年現場を重ねてきた刑事の迫力が明確にあった。生首や死体を前にしても全く動じない安定感があった。

 さらにそのとき私はドラム缶の横にいる軽井澤氏を見て驚いた。

「銭谷警部補。」

おそらく、怒り気味に言葉を発したはずだ。

「手錠も、しないのですか。」

「ああ。」

「しかし」

「石原は、そう思うか?」

銭谷警部補はそこでこれまでで一番、譲らないという顔をした。

「直感が大事だ。犯人というのは、それなりの論理の中にいる。論理のない殺人はない。」

多くの捜査本部で自説を押し通してきた銭谷警部補の迫力がそこにあった。強い言葉を使っているわけではない。ただ有無を言わせない、という壁が恐らく本人にも無意識でそこにあった。私石原は何も言い出せることがなかった。

 しばらく沈黙していると、少し筋道を変えた言い方で、

「石原、警察組織の話を、この数日幾度かしたと思う。」

「はい。」

「おおよそ、その都合だと思ってくれ。」

「その都合、ですか。」

「ああ。警察は一度判断すると、後ろに戻れない。特に今の六階の空気では、やらかす可能性が高まる。」

「やらかす?」

「みんな手柄が欲しくてしょうがないからな。出世や昇格の試験に必死だろう。」

私石原は、小板橋が太刀川の取り調べにだけ参加したのを思い出した。

「現場の直感を磨くのに、昇格試験の問題を幾ら解いても意味がない。」

「……。」

「三人を生首にするような人間だ。警察官みたいな人種が出世だけを目指して捜査を始めるとき典型的に一定の過ちを犯すことになる。今回のはまさにその象徴たるケースだ。」

「……。」

「人間は自分の立場が重要になると一定の過ちを犯しやすい。今ならだれしもあの探偵を黒だと決めつけてしまうだろう。」

銭谷警部補は、タバコに火をつけず指で回した。自白があるのだから当然ではないか?という反論を私石原は唇まで用意していた。強引で若者から否定されがちな銭谷警部補の噂話が脳裏をよぎった。

「いいか。これは凶悪な犯罪だ。一線を超えた犯罪だ。それをできる人間は、それなりに狂っているんだ。」

「しかし。」

「直感ではあの軽井澤はありえない。それが現場でのわたしの直感だ。でも経験が浅かったり、試験勉強とデスクワークばかりでは、生首を見て焦るだろう。一番逮捕しやすいところに向かってしまうはずだ。」

「……。」

「石原。随分分かりやすく、軽井澤が設定されていると思わないか?」

「……。」

「いいか。殺人事件での冤罪逮捕ってのは刑事にとって極刑以下の恥晒しだ。だが、冤罪が最も恐ろしい恥辱であるがゆえに、警察組織は一度その方向に走り出すと、止めることが出来なくなる。」

「しかし、警部補。」

私石原は、そこでもこの第一容疑者を手錠にもかけないことはおかしい、と言いたかったが、

「いろいろ、調べることは必要だ。ただ、逮捕は公的な判断になる。判断には、まだまだ情報が必要だ。もう少し時間の許す間、やれることをしたい。石原の求める逮捕はそれからでも遅くない。」

銭谷警部補は別人のように明確で端的な言葉遣いでそう言った。少しも普段のドモリがなかった。

「まとめて全てを端折ると、どういう意味かわかるか?」

「……いえ、すいません。」

「いまから、忙しくなる。」

「いそがしくなる?」

「ああそうだ。別の真犯人を探さねばならない。」

「別の犯人を?」

「ああ。誰もが逮捕しがちなこの軽井澤ではない、本当の殺人犯が他にいる。それを、他のあらゆる人間がこの島にたどり着く前に確保するんだ。」

圧倒的な迫力で話を進める銭谷警部補にほとんど言葉を返せぬまま、私石原はやむなく先ずは軽井澤以外の殺人犯がいる可能性を前提に、この島のことを客観的に見つめ直した。

 実は、先ほど島の入り口で撒菱を拾っていた時に私は監視カメラが一つだけ電信柱に設置されているのを確認していた。おそらく産業廃棄物などの不法投棄を取り締まるものだろう。そこに銭谷警部補への単純な反駁の方法がある気がした。

「すこし、島の周辺を見てみてよいでしょうか。あと、純粋にこの軽井澤氏のデータをとってみます。」

「容疑者としてではなく。」

「もちろんです。既存の情報だけでいいはずです。それと、島周辺を回ってみます。」

私がそういうと、銭谷警部補は少しだけこちらの目を見てから、

「十五分でいいか?」

とだけいった。十五分は随分短いと思ったが私は一旦了解した。

 車に戻るとまず、私は本庁のサイバー班に、事件のことに触れずに、別件で軽井澤という探偵の照会を申し込んだ。同時に、紙の地図を広げた湾岸周辺を指で追った。スマホで見た海面処分場の点線を東京湾の埋立地の実際に重ねるように赤線で書き込んでいく。台場や、青海がある(六号)埋立地の更に外側に巨大な中央防波堤があり、その外側に、出島のようにこの令和の人工島の存在が赤く記された。


地図X


 やはり、人間の生活圏ではない。

 立ち入る人間も埋立工事の関係者だけだろう。

 島の東には新木場や若洲に連なるゴールデンゲートブリッジが高くあった。西には羽田方面へ向かう海底トンネルがある。これらを貫通するのが東京湾を東西にまたぐ東京港臨海道路(仮)である。この道が湾を東西に走っていてそのちょうど半ば辺りが、先ほど通った令和島に入る唯一の道路だった。と言っても、注意信号が闇に点滅しているだけで、地図にもまだ何の記載もない。

 私石原は時計を確認した。深夜のゼロ時を回ったところだった。十五分という警部補の言葉を反芻した。

 手袋を外しても、先刻の死体の手触りが残っている。生首の二つは固く物質的だったが、全身の遺体は違った。まだ新しかった。死後人間の体は一時間に一度ほど体温を下げる。実際に死体に触って冷たく感じ始めるのは、丸一日以上経ってからだ。唯一胴体のあった死体はまだ冷たくはなく、硬直さえ進みきっていない印象だった。硬直は死のおよそ二時間後に始まり八時間ほどで足の先まで硬くなる。つまり殺されてまだ、時間がさほど経っていない。反対に生首の方は少し死後の時間を感じた。

 死体のことを考えつつ令和島の入り口に近づいたところで車を降り、地図を見ながらゆっくり元来た場所を検証した。道は暗く電灯は随分まばらだった。目を凝らして、ひとつずつ、<電柱>を見ていく。

(あった。)

撒菱のあった場所まで戻ると、警備会社の設置した防犯カメラがあった。丁寧に会社名と連絡先は書いてあり、電話をかけ、丁重に、入り口付近の防犯カメラについて状況を聞こうとすると、逆に

「ああ。すいません。そうですよね。」

と言葉を焦って返してきた。さすがは防犯会社で二十四時間の対応はしているのだが、もう少し別の文脈を感じる。

「すいません?」

「いや、昨日からカメラの調子が悪くて、そうです、今、整理対応の準備しています。何せこんなこと滅多にないことでして。多分ケーブル誰かのいたずらですかね。」

と、担当者らしき人間がこちらが聞かぬのに一方的に弁解した。

「カメラの映像が停滞しておるんですよ。」

「いつからですか?」

「一昨日からです。」

「え?一昨日から、このカメラは止まっているのですか?」

「はい。」

私はハッとした。島の入り口の防犯カメラを先んじて処理するという行為が、先ほどの軽井澤という無防備な人物に似つかわしくないのである。

「こんなことはよくありますか?」

「いや滅多にないんですが、ちょっと最近続いてまして」

「え?最近、続いている?」

「いや、ここではないんですが、別のお台場のカメラでも故障がありましてね。」

「いつ頃ですか。ちなみに。」

「いや、二週間前ですかね。滅多にないことが二度も続くものだと、話していたところだったんで。」

「本当ですね。」

「はい。珍しいって言うか、その。」

まさか、復旧がどれくらいかかるかの下実験までしたということだろうか。だとすると更にあの人の良さそうな探偵には似つかわしくはない。私石原は呼吸を荒らした。

「どれくらいで復旧するのでしょうか。」

「前回のようにコードが切られてるとさすがに弊社も労働問題あり、技術外注の関係で最速で翌朝からの作業にさせていただいています。ちなみにお台場の復旧には一週間かかりました。」

「なるほど」

「前回も、朝方に問い合わせがあって、その後もいつ復旧したかと幾度か問い合わせあったので。」

「ちなみに、それは、男性の声ですか?」

「いえ、女性でしたね。」

犯人はこの防犯カメラを意識した。そこで同じ警備会社の別のカメラを断線させ、その復旧の具合を見た。この入り口たった一つを起点として密室となるこの令和じまの中で犯罪を犯すための計算と下準備を犯人は行った。そういう計算と計画がある殺人だとなると、あの呆然として殺人現場に残っている軽井澤という人物が関係者とは考え難い。計画があればあるほど、犯罪者は綿密に逃走を設計する。軽井澤氏の逃走をせず自首する心理に、防犯カメラの事前処理という準備はそぐわないーー。

 軽井澤氏は犯人ではないという銭谷の直感が迫力を増して襲ってくる。それと同時に、それでは一体誰があのような三つの死体をこの島の中に持ち込んだのかの、想像が全くつかなかった。

「真犯人を探すために忙しくなる。」

と言った銭谷警部補の言葉が思い出された。

 私は島の入り口から、元いた殺人現場まで戻った。銭谷警部補は蹲る軽井澤の横で地べたに座り話しを続けていた。

「銭谷警部補、ご報告が。」

「今話している。少し待て」

「でも、警部補」

「いいから少しまて。」

銭谷警部補はその後もしばらく、軽井澤氏と話していた。私は痺れを切らし、ドラム缶のある場所から風下に行ってタバコを吸った。三本くらい吸った後になって、銭谷警部補がこちらに歩いてきた。

「どうだった?」

銭谷警部補はそう質問した。

「どうだったと言いますと?」

「カメラは壊されていたか?」

「カメラ?」

「監視カメラだ。この令和島の入り口にあっただろう。それを見に行ったのではないのか?」

「……なぜそれを。」

「そういう表情をしている。」

銭谷警部補は、普通のことでしかないというくらいで表情を変えなかった。私は頭から焦って青ざめる気がした。

「焦らなくていい。」

事件現場から風下、東京湾の沖合方向に二十メートルほど歩いたところが我々のタバコ場になっていた。流石に鑑識もここまで離れれば文句はないはずだ。。

「石原は最初に、あの男が犯人だと直感していないとおもう。」

タバコが真夜中の沖合で二つ揺れている。

「どうでしょうか。正直言えば、わからないです。」

「三人の人間の、ああいう死体があれば、普通刑事は心を急がせる。だから直感を疑ってしまうか、直感した脳の記憶を忘れようとしてしまう。」

「しかし。」

「あの軽井澤という人間が、三人をああ言う風に殺害して自首すると言うのを不自然には感じただろう?」

私石原は言葉を詰まらせた。銭谷警部補の言うことは、それはその通りである。犯人に似つかわしくない、という空気は確かにある。ただその不自然さも、人間三人の死体という現実を前にしては、そこに立ち止まるべきでもないとも感じる。刑事の最大の義務である容疑者確保最優先という言葉が、脳裏に鳴り響くからだ。

「焦らなくていいんだ。」

「……。しかし」

「繰り返しで済まないんだ。組織は一度判断をすると、その答えの正当化だけに神経が集中する。これは、恐ろしいことなんだ。そうなる前に、まだもう少し時間はある。焦ってはだめだ。」

「……。」

私は黙るしかなかった。

「これはわたしの経験則でしかないが、猟奇殺人をする人間には一定の異臭がある。あのドラム缶には生首が二つあった。いいか。首を切断するには、殺してから、ハンマーやノコギリが必要だ。殺した人間の顔を真横におきながら、だ。石原がどう思うかは是非聞きたいが、わたしにはあの軽井澤はそれを出来るような顔には見えない。そういう頭のおかしい臭いがしない。」

「……。」

「つまり、殺人犯でないのに自首をしている。おかしいだろう。そんな人間はいない。そこに、<ねじれ>があるんだ。捻れるところに、真実が見え隠れする。普通、犯人でない人間は、自首などするわけがない。殺人罪だぞ。人生が終わるんだ。」

「……。」

「少しだけ待ってくれ。一応こう見えてもわたしも焦ってはいる。夜が明けると流石に状況が変わってしまう。そうなる以前に、石原にもいくつか協力をしてもらいたいことがあるんだ。」

そう言った後、銭谷警部補はいくつかの確認を私石原に行い、先ほど取り寄せた軽井澤氏に関する概略のデータを頭に入れ直していた。

 ものの七、八分が沈黙のまま過ぎた。

 そうして最後にタバコを吸い終えると

「では、行こうか。」

「どこにですか?」

「軽井澤氏と話す。」

「……。」

「今から軽井澤氏にわたしなりに最後通牒を行おうと思う。石原が懸念している通り、我々にはもう時間がない。」



三 実験結果 #55489


 お母さん。

 僕がこうなってしまったことを、本当に申し訳ないとおもいます。

 お母さん。

 僕を本当に大切に育ててくれてありがとう。

 お母さん。

 いつも申し訳なかったと思っています。

 頂いた命を、粗末にしたと言われればそうだったのかもしれない。

 しかし、男として勇気のないまま姑息に生きることは僕には難しいことだったのです。

 逃げ回ることには僕は納得ができなかった。

 現実に目を曖昧に背け、本当は自分の手で未来を変えられるかもしれないのに、漠然と周りがやらないから自分も見て見ぬふりをする。そんな風に物理的には逃げていないように見えて、ただただ臆病に目を背けて逃げているような生き方を僕はできなかった。

 いや、時と場合によっては、臆病に生き延びることも何処かで大切だったのもわかる。そんなことはわかっていました。幾度も、あの冬に僕は幾度も悩み、考えたのです。

 結論から言えば、僕にとってはそういう現実以上に、ただただその人が大切だったのです。

 許せないものは許せません。

 人間は簡単に犯罪者になる。

 今日まで、こうやって言葉を伝えることさえできずにきた日々のなかであなたは、一度もわすれることなく僕を愛し、植物人間と呼ばれる僕を、今までと何も変わらずに支えてくれました。本当にご苦労をかけました。

  今はただ、親不孝の三十年をどうにかして取り戻せないか、と思っております。



四 石原巡査の説明


「軽井澤さん。わたしの仮説を言います。」

銭谷警部補はそう軽井澤氏に向かった。軽井澤氏はほとんど今までと態度を変えずに、銭谷警部補を無視の状態のまま耳だけを傾けているかどうかさえ曖昧なままだった。

「刑事をやってると、よく起こることだから、わたしの仮説、というのは思い込みと思ってくれればいいです。」

「……。」

「まず最初に、軽井澤さん。この葉書ですが、心当たりありますよね。ドラム缶の中に落ちていました。宛先は都内A署管轄の綾瀬在住の尾嵜さんという人です。合計十四枚です。尾嵜さんというお名前に心当たりはありませんか?この葉書、何かの暗号ですかね。よく見ると、消印の日付が二種類ある。差出人の場所は埼玉県の八潮市です。」


八月六日消印 O C C N E E T R

八月九日消印 A A U W K S


突然確信めいた口調で、そして例によって殺人を前にしてから、恐ろしいぐらい明晰で、わかりやすい言葉使いで、銭谷警部補は言葉を始めた。

「普通に見たら、全く何のことかわからない。アルファベットがこう言う風に並んでも、何を意味するのか?意味を持っているのか?含めて、送付された側は、ぽかん、として終わるのが、ほとんどだと思います。」

「……。」

「ですが、これは乱数などではない。意味のある文字になると言うことですね。まず、この枚数の少ないほうから行きましょう。六枚ですね。八月九日に六枚の葉書が送付されている。これを並べて文字列にしましょう。そうですね。これは、WAKASUと並べることができそうです。」

「!」

「つまり、これはワカスですね。若洲というとここからも近い。同じ東京湾のこの先の江東区寄りの埋立地になります。続いて消印がもっと前の、八月六日のほうについて。こちらには、Cという文字がある。これは日本語ではなくて、アルファベットだ。少し飛躍するようですが、これはCONCRETE、つまりコンクリートという意味になると思います。軽井澤さん、合ってますか?」

軽井澤氏はその銭谷警部補の言葉に、それまでの茫漠とした捨て鉢の態度から一転、横に向けていた身体を直角に向きを変え、爆発物でも見るような眼差しで警部補を見つめた。ほとんど明確に、驚愕していた。

「なるほど。さほど間違ってはいないようですね。」

「…でも。…なぜ、、」

軽井澤氏は驚きを隠せぬまま溺れる魚のように口を痙攣させたように震えさせた。

「いや、もう遠回りは辞めましょう。時間がないのです。今申し上げた意味の葉書が死体の隣に並んでいたのは現実なのです。これがわたしの仮説の通りに、


CONCRETE WAKASU 


という文字列の並びだとすると、わたしのような殺人専門の刑事はこのドラム缶の中にあった死体の顔をもう一度見直してしまいます。つまり過去のとある事件を想定しながら検証し見つめ返さざるを得なかったのです。長い説明は一旦端折りましょう。

 よいですか、軽井澤さん。このドラム缶の中にいた三人は凶悪な殺人事件の加害者、つまり人間を殺した殺人犯だった。コンクリート、ワカスという言葉に紐づく、殺人者だ。」

私石原はまるでトリックを見せられている様で、前後の文脈がわからなかった。軽井澤氏は驚きの表情をで口を開けたまま銭谷警部補を見つめていた。

「どうやら間違ってはいないようですね。」

「どうして、どうして、」

「後ほど説明しますよ。あなたがちゃんと協力をしてくれたなら、です。」

「……。」

「続いてあなたが、今時点でわたしに心を開かず、何故か自分の罪でもない殺人罪を被ろうとしている点についてです。いえいえ私も刑事を二十年以上やってます。殺人現場など嫌というほど見て参りました。どうか、何一つ誤魔化せないと思ってください。つまりわたしは、あなたが犯人でないことくらいはわかります。」

「……。」

「あなたが犯人ではないことはわかる。しかし何故、自分の罪でもない殺人について請け負うのかは、どうしても腑に落ちない。論理的に確信ができないのです。なので、ここからは私のかなり思ったままの想像で申し上げます。よいですか?まず、最初に質問させてください。」

軽井澤氏は黙ったままというより声を失った人のようだった。驚きで開いていた口をやっと閉じた程度で、表情は驚愕を連続させたままである。

「軽井澤さん。少し唐突に申し上げます。よろしいですか?」

「……。」

軽井澤氏は小さくほとんど確認できないくらいに頷いたかもしれない。

「唐突ですが、あなたはこの三人を殺した真犯人について本当は何も知らない。いくつかのことは関連づいていて気にはなっている。葉書のことや、もしかすれば尾嵜と言う人間、残りの二つの死体についても想像ができてはいるのだが、この三人を殺した人間が誰かという意味においては、実はむしろ想像さえつかないのではないでしょうか。」

「……。」

「いかがでしょうか?」

「……。なぜですか。」

「いやね。もし知っていれば、シンプルだからですよ。その名前をわたしに言えばいいからです。それが一番早い解決なのですから。心当たりがあればそれでもいいのです。」

「……。」

「しかしあなたはそれをしない。いやできないでいる。そうして逮捕するなら自分を逮捕してほしいとまで言っている。おかしいでしょう。つまりあなたは真犯人を知らないのではないかと思うのです。」

「……。」

「じつはこのことが重要なのです。なぜか。真犯人が判らないとーー真犯人が判らない、という現実が生じてしまうからです。真犯人がすぐに捕まってくれないとこの三人の惨殺体が埋立地でドラム缶に入って見つかったという恐ろしい事件が世の中に出てしまうからです。」

「……。」

「犯人がわからない場合どうなるか。ここまで話せば、あなたはピンときているのだと思います。わかりますよね?つまり三人の惨殺や生首という言葉が着地点の見えない暴走を起こします。つまり真犯人を探す大騒ぎが世の中で始まってしまうんですよ。そしてその大騒ぎこそ貴方は恐れているのではありませんか?」

私石原は、音を出さないように唾を飲んだ。少し、話が逸れている気がしたが銭谷警部補は殆ど明確に論理を重ねようとしているように見える。

「つまりあなたは、自分とは関係もない殺人事件が、純粋に大騒ぎになることが途方もなく嫌なのだ。ある意味それだけの理由で、殺人犯の身代わりになろうとしているのです。これは奇妙としか言いようがない。ただ、あなたのことを整理して調べさせていただきましたが、これはもしかするとそういう理由もあって然るべきなのかもしれない。」

銭谷警部補は淀みなく言葉を続けた。

「普通ならば非常に奇妙なことです。三人の人間が生首を含めて出島の先で死体になった。その三人をあなたは殺したと言っている。百歩譲って、自分の親族の誰かが殺人犯人で、それを匿いたいのならわかるかもしれない。だが、繰り返しですがあなたは真犯人を知らないのです。知らないが故に、途方に暮れ、そして知らない殺人犯の身代わりになろうとしている。実に奇妙にねじれている。」

「……。」

「軽井澤さん、結論を急ぎましょう。先ほどわたし銭谷は殺人が専門と申し上げましたが、この日本の全ての殺人事件について記憶するのを日課にしています。警視庁管轄の殺人事件についてはさらに細かく、全て記憶するようにしてるのです。まあ職業的な病というやつですが。今回、実はそんなわたしでも最初は分かりづらかった。なにせ三十年も経っていて、殺された死体がーー当時は未成年の人間がもう五十歳を過ぎているわけです。さらに少年法の関係で彼ら自体が少年Aや少年Bのアルファベットで表記をされていた。実名を全て記憶してきたわたしとはいえ、アルファベットで混乱もしました。そういう例外的な事情もあり、客観的な把握に少し時間がかかってしまいました。

 ですが今は明確にわかります。この葉書の尾嵜という宛先で思い出しましたからね。そうです。少なくとも殺された三人のうちの一人は、いまから三十年以上も前に女子高生を惨殺した事件の主犯格の尾嵜、尾嵜憲剛という名の男です。そして残りの二人の顔も、恐らくですが、少年B、少年Cと名付けられた人物、名前は山川、小川という人間です。余談ですが、もう一人、少年Dと名付けられた乾(いぬい)という人間は出所後社会復帰に苦しみ自殺しています。つまりですね、この三人が死んだことで、加害者の少年四名が全て死んだということになるのです。」

銭谷警部補が言葉を止めて、沈黙が訪れた。その言葉や内容がおそらく正しいことは軽井澤氏の表情である程度は感じられた。

「そうです。軽井澤さん。そしてこの加害者が全て死んだ、という状況があるからこそ、まさにあなたが奇妙にもこの三人の死体の殺人の冤罪に甘んじることも厭わないのか?という理由が見えるのです。」

「……。」

「通常、三人の生首含めた死体が東京湾で見つかれば、ヘリコプターが上空を争う大事件だ。それだけではない、この殺された三人の生首ふくめた死体は、あの昭和最大の残虐事件の加害者少年A,B,Cだったーー。となれば、今日この今から世の中に何が起こるか?当然、世の中や警察も含めた大勢の興味関心がどこに向かうか?この三名を殺したい、復讐したいに違いない存在に向かうに決まっている。もっといえば、テレビの放送としてはその犯人探しそのものがドキュメンタリーだ。その時に、どういう人間がどのように、世の中に消費され、過去の不幸を蒸し返され絶望を思い返させられるかも含めて、あなたはご存知ですよね?元テレビ日本報道局報道部、軽井澤新太さん。」

夜の闇は変わらず、漆黒の埋立地を遠くの工業地帯や空港の灯りが遠目に照らしていました。

「……。」

「申し訳ございませんが、このような事件です。我々はあなたの職歴を調査させていただきました。あなたは、現在探偵事務所をされているが、その前はテレビ日本に勤務されていた。部署は報道局ですね。つまり、この事件がこの後どういう展開をするのか、ということが恐らく日本中の誰よりお詳しいのではないでしょうか。警察も含めた誰よりもです。

 釈迦に説法かもしれませんが、警視庁に詰めている全ての記者はこの令和の埋立地に争って向かうでしょう。朝三時からヘリが飛ぶ。四時の早朝のニュースから一斉に全局で報道競争が開始される。記者クラブでは警察刑事を新聞テレビの報道記者が特落ちの恐怖の眼差しで二十四時間体制で追いかけることを始める。途方もない鉄火場になるでしょう。ただ、それだけではない。取材班が先を争って津波のように向かう、記者クラブではないもう一つの場所があるーー。」

「……。」

「その場所こそが、あなたが恐れている場所のはずだ。」

そこまで言って銭谷警部補はタバコを手に取った。

「だが、その場所には犯人はいない。いやあなたはその場所に犯人がいないと確信もしている。」

「……。」

「以上が、わたしの推測です。」



五 御園生先輩とわたくし

1

 御園生先輩は、怒っていました。

 テレビ日本ビルの六階の報道部の作業フロアです。常時社員も取引先含め数十名が出入りする鉄火場の奥の役員席に向かって

「被害者を実名にする、個人情報を開示する。その意味はなんですか?」

「御園生。黙れ。意味を考えて実名なんだ。」

「あなたは意味を考えてませんよ。柊城センター長。」

御園生先輩が噛み付いていたのは、執行役員報道センター長という役職にある、柊城さんと言う人物です。

「考えているか、考えていないかは、御園生、お前の問題じゃあないだろう。この私が決めることだ。」

「いいや。あんたが考えてるのは視聴率。そうじゃないですか?風俗関係で実は働いた過去がある、っていえば、視聴者はチャンネルを離脱しないかも知れない。」

「その部分だけの話をしているんではない。物事を総合してだ」

「屁の理屈ですよ。編成にでも言われたんですか?」

「わたしの判断だ」

「編成ですよね?早川専務ですか?」

「御園生、いいかげんにしろ。決定事項だ。」

「編成に決められた。なるほどわかりました、あんたはもう記者じゃあない。報道で世界を正す記者ではなく、個別企業の収支を計算する編成マンだ。そう理解すればいいですか。」

六階の柊城執行役員といえば、泣く子も黙る報道部門の出世者で、将来は社長候補のひとりとも言われていました。その人間に、衆前で文句を言う社員など一人たりともいません。いや、普通の人間、例えばあの当時のわたくしのような入社間もない若造がやれば、その月末にはどこかの地方局か、営業の窓際に異動になり、早々にテレビ局員人生が終わるのが目に見えております。

 だからこそ、御園生先輩と柊城役員のその場面は異質でした。社員や関係者の大勢を前にする報道フロアでの怒鳴りあいですから。例えばわたくしが入社以来所属した営業部門ではそんなことは一切あり得ません。上司が飲めといえば汚物でも飲み、食えといえばハンバーガー百個も口に入れた、そういう時代で御座います。それくらいわたくしの直属の上司の御園生先輩は特殊な人でした。

「軽井澤、いくぞ。」

散々怒鳴り終えた御園生先輩は、黙って外出するのが嫌だったのか、そういう捨て台詞をフロアに吐いてわたくしを連れて場所を変えるのを毎度の常としておりました。わたくしは刑事部の記者として、駆け出しで、御園生先輩の下についていました。一事が万事、この勢いでしたから、御園生先輩は、多くの同僚社員だけでなく、他局の記者からも恐れられていました。いや、恐れるというより、畏敬を持って特殊な存在として見ていたというのが正しいでしょう。

 そうやって、役員だろうが編成だろうが、誰にでもモノを言うのには幾つかの理由が当然あったわけですが、営業局から異動したばかりだった当時の若いわたくしには、そんなことを知る由はありませんでした。


 新宿歌舞伎町のビルで火災があり四十四人が亡くなったときは特に御園生先輩は止まりませんでした。いや、これがこのわたくしにとっての、一番最初の御園生先輩の、最も激烈なる場面だったと思います。自分が夏の定期人事異動で営業局から報道部に配属されたその夏の終わりのことでした。

 新宿の歌舞伎町入ってすぐの雑居ビルで、火災が未明に発生しました。

 麻雀荘の廊下で火が出てその上の飲食店にも煙が上がりました。このビルの持ち主は後に消防法違反で長い裁判をすることになりますが、非常時の逃げ道というのがほとんど用意がなかった関係で、四十人以上が一瞬で亡くなったのです。燃え盛る下の階とは対照的に、大勢亡くなった五階の最上階は火災は発生しませんでした。下階から出た一酸化炭素で四十人以上が亡くなったのです。死体はまるで眠ったままのようだったと言われました。戦後最大のビル火災の一つとなりました。

 夜中の一時頃だったと思います。NHKが最初のスクープを行い、次の民放の打ち手が大切な局面でした。まだ報道のルールも知らないけれども、わたくしは異動する前の営業部門で

「放送局員たるもの、どんなことがあっても他局に負けてはいけない」

という教育を受けていたので、報道で何をすべきかは何となく覚悟はしておりました。他局に負けることは、民放において最悪というのは、身に染みていたのです。

 緊急連絡メールで知らされ、わたくしはひとりタクシーで歌舞伎町に向かいました。現場に着くと、御園生先輩は既にそこにいました。

 恐らく一般人が携帯電話で撮影した映像を、NHKが内密に買い取ったのが最初でした。ガス室のようになった密室の雑ビルの出口のない四階と五階で、文字通り人間が死んでいく。断末魔の叫び声をあげる。密閉された窓や扉を叩く音。その現場は異様なものでした。ビルは歌舞伎町によくある、入り口の見えづらく奥を謎めかした構造の五階建でした。

 わたくしがついた頃には、消防が鎮火し、被害者を運び出す段階でした。黄色い規制線が敷かれ、その奥にはブルーシートが被さっていました。記者らは各々カメラを回し与えられた場所で背景にビルを映しながら、伝えうる情報を伝えていました。既に我がテレビ日本は遅れをとっていました。その時、突如わたくしの側にいた御園生先輩が凄まじい勢いで電話で怒鳴り始めたのです。

「他局はどうか?知りませんよ。他局がやればそれでいい?自主判断ないんですか」

「ーー」

「役員が?関係ないでしょう?四十人以上の命ですよ。」

どうやら、先輩は、激しく社内の内勤デスクと電話をやり合っているようでした。先輩の言い分は凡そ以下のことでした。

 亡くなった方々は、どのような状況だったか?なぜ脱出できなかったのか?どうして一酸化炭素中毒がここまで発生したのか?ビルの防災の問題は?死亡者数など戦後最大級のビル火災だという事実などは、報道を競って先に行うことで良いけれども、この火災で亡くなった人間の名前を出す意味が無いーー。

 実はビルは風俗関係の店舗もあり、犠牲者や遺族に不名誉な影響を及ぼす可能性も当然ありえたのです。

 遺族は家族が死んだという事実でさえ地獄なのにテレビがその先に追加の煉獄を与えてどうする?それも、自社が脚元遅れたからと言って、視聴率欲しさに別の禁じ手を使うのはジャーナリズム以前に人としてあり得ないーー。

 おおよそ、御園生先輩はそういう論理で怒鳴り続けていました。

 亡くなった人間の中には、テレビ的に色のつけやすい歌舞伎町の飲食店での関係者の若い女性がいました。雑居ビルの火事というより歌舞伎町の風俗的なビルと嘘でも報じればテレビのチャンネルに立ち止まる人間が多いのは私でもわかりました。当時はまだ報道記者には、報道する内容に矜持があり、視聴率の匂いのする報道と、ジャーナリズムとしての成立は常に葛藤していました。当時のテレビ報道にはそういう不文なる「べき論」の壁があり各々の記者はその中で何を伝えるかに悩んだのです。御園生先輩はまさにそういう葛藤の最前線にいた報道記者でした。


 放送局は大きく分けると、編成と、制作・報道、加えて、営業に分れると思います。加えて営業、というのが少し強いニュアンスを持ちます。何故なら誰も放送局に就職するときに営業などを希望したりはしないからです。しかしこの営業こそが、民放としての特徴を持ちます。わたくしはこの営業に新人配属され五年目の異動で報道にまいりました。

 放送局とは何か?あえて言えば、まずは、編成があり、制作(ドラマからニュース、バラエティなどを制作する、いわゆるテレビらしい部署になります。プロデューサーとかディレクターと呼ばれる人々はほとんどここに存在します。)があり、それから最後に、営業になります。

 この三つの組織はじつは目指すものが別々に存在します。

 編成は視聴率を上げて、経営するのが仕事です。例えば予算のかかるタレントを使って視聴率を求めたり、営業が売れるスポーツ番組の放送権を買ったりするのも編成です。ニュースの開始時刻や番組の順番、同じ内容で翌年も継続するかを決めるのも編成です。

 制作は少しわかりずらいのですが、実は編成から許可を得て、番組を制作しています。言わば命令を受けて始まります。当然視聴率をとれば会社のスタープロデューサーになりますし、編成や幹部も気を使ってくれます。営業だって視聴率が取れれば、スポンサーは喜びます。視聴率の取れる制作プロデューサーは神様と言われるのはそのせいです。視聴率をとるのは本当に才能が必須で、企画からキャスティングを全て行い同時に時代の波も読まなければなりません。

 実はこの制作の中に、報道機関であるニュース番組も内包されています。そうです。ジャーナリズムとはいえ、民放局の報道にはスポンサー受注の事情が色濃くあります。ドラマや、バラエティと同じように、報道も、実はおおよそこの視聴率を取れるプロデューサーを神と崇めることになります。(このこと忸怩たる点については、後ほど申し上げます。)

 最後にそうやって作られた番組をスポンサーに売るのが営業になります。これはラジオでも新聞でもインターネットでも同じように番組の間にある広告を人間が売るのです。言わばビルの看板や電車の中吊り広告を売る営業マンと同じようなことを実は放送局でも行っています。

 編成、制作、営業。それぞれの組織がそれぞれの正義を持ちつつ、事業として成長をしてきたのが民放だとも言えます。ちなみにこの設計はもう五十年近くかわってはおりません。

 経営の中で視聴率が重要なのは判りやすいと思われます。どんな番組も視聴率が半分になれば、CMの売上も半分になります。当然そんな番組はいくら正義世論を語っても打ち切りです。この打ち切りを判断するのが編成になるわけです。視聴率は何よりの判断基準です。

 なので、制作側は視聴率のためにさまざまな努力をします。ドラマやバラエティの視聴率がいかに大切かは、わかりやすいものだと思います。制作者にとっては会社人生の死活問題となります。番組が打ち切られればプロデューサーは社内失業そのものです。次の企画を提案するにも過去の失敗実績が色濃く残りますから。

 そして報道です。

 組織として「報道」には特別な事情が発生します。ここが難点です。なぜなら視聴率が良いことは編成や営業は、手放しで祝杯ですが、報道においては、単純な論理にならないからです。あえて言えば、視聴率を取るためにいろいろな細工を始めると、報道番組そのものが怪しい影を持つからです。そして、そのことの典型が、新宿の歌舞伎町の四十四人の命が失われる現場だったと思います。御園生先輩が怒鳴り声をあげていたのは、まさにその部分の問題になります。


 報道の真ん中には、ビジネスの前にジャーナリズム精神の聖域があります。少なくとも、その聖域が報道記者の中に存在するのは否定できません。それは性善説的で、みんなが良識を持って大切にしている報道現場の熱のようなものです。そんなものを失って、報道番組は成立しないだろうという、常識的なこと、とも言えると思います。この聖域は、報道の場面では常々意識されるものなのです。

 もちろん、報道の世界でも、民放である限り、視聴率は重要なものさしです。

 安易に想像できると思いますが、どのニュースを選ぶか、の判断は常に存在します。明らかに視聴率を取る下世話なニュースと、視聴率的には厳しくとも世の中にとって非常に重要な意味のあるニュースと、を、限られた番組の中で、どちらを選ぶのかは、常々戦いになりますし、選んだニュースをどう報道するのか?多少過激な言い方をしたり、色物を拾ったり、タレントのスキャンダルを煽るような細かい視聴率獲得の技術なども存在するのは事実です。

 もちろん、それら小細工に頼った報道は世の中の信頼を失います。あの報道番組は何をどう報道するか。それらは常に何千万人もの眼差しに曝されています。誰もがこのような事情を理解した上で、それぞれの取材先や立場のなかで、喧々諤諤と議論を続ける。それが報道フロアの熱気だったと思います。そういう議論がある意味では健全に取締役の人間まで含めて衆前で議論されていた、とも言えます。

「遅れてないですよ。民放は横並び。NHKだけ早かっただけです」

「……。」

「それを、そうやって取り返すって言ってたらキリがないでしょう」

「……。」

「じゃあ、他のやつを担当させてください。俺は嫌ですよ」

 歌舞伎町の事件においては、この力学が実はすこし御園生先輩には劣勢で始まっていました。それは、NHKの特ダネが先に入っていたからです。

 編成はどうやら、別の手、つまりNHKでは報じなかった「雑居ビルの風俗店の周辺情報」を出せと現場の御園生先輩に対して指示をした様子でした。同じことをやってても視聴率で勝てないのです。明日の朝のワイドショー周りに下ろすには、ちょうどいい情報が目の前にあります。

 しかし、報道の本質からそれらがズレるのは明確です。繰り返しですが犯人逮捕や、火災の原因の追及が本来は世の中に必要な優先事項だからです。ただ、視聴者はそんな生真面目な情報よりも下世話な風俗関係の方が、立ち止まるのも事実です。歌舞伎町という言葉にそもそもそういう含みがあるともいえます。

 デスクに御園生先輩が繰り返し反論していたのはその禁じ手の是非でした。もちろんNHKよりこの現場に到着するのが遅かったのは、自分たちの責任なのですが、先輩の言い分としては、遅れたらすぐさま禁じ手を使うという論理は、受け入れ難いということでした。

 この雑居ビル火災は二十年近く経った今も、実は未だ犯人も捕まっておりません。いや、放火か失火か、すら分かっておりません。が、少なくとも民放各局は、被害者はただ火事にあったのではなく、風俗に近い印象場面での事故としての報道をしたのです。万が一放火ならば最優先されるべき容疑者の捜査や、ビル自体の安全管理の問題こそが、メディアとして伝えるべき大切なものです。それらが無かったとは申しません。しかし、現実の報道の場面では、歌舞伎町という土地柄や、風俗的な言葉の響き、密室感の方が、この事件の印象として優位に立ったのです。考えすぎかもしれませんが一億人の人々に、容疑者や建物の重要な問題よりも、大勢死んだ男女の風俗店という印象が多く伝わったのが、いまでも犯人が逮捕さえされない理由になったのかもしれません。

 御園生先輩はそういう未来まで想像していたかは不明ですが、彼なりの直感の中で柊城執行役員にむけて盾突いていたのです。

 恥ずかしながらわたくしは最初、激しい剣幕で怒鳴る御園生先輩の、大人気なさのほうが、気になっていました。営業的にいえば会社は共同体で、大人びた同調が重要です。会社の中の人間関係で、救われたり、喜怒哀楽を共にしながら長い時間を共にしていくわけですから、御園生先輩のやり方は常に、驚きというか、異常というか、まあ、少なくともわたくしには若干自己中心的に写っていました。


 この歌舞伎町の事件があったすぐ直後に、ニューヨークのマンハッタンで旅客機が二機、世界貿易センタービルに飛び込みました。このニューヨークのテロも、報道フロアを一気に忙しくしました。歌舞伎町の事件から一週間しかたっていません。

 しかし、御園生チームの取材は主に国内でしたから、どちらかというと、日本政府の対応だとか、日本人被害者の報告の補佐に絞られました。現地の報道はニューヨーク支局にいる人間の職掌でした。そして、世界はそのままあの、湾岸戦争へ向かっていきました。わたくしはその速度の速さに面食らいました。歌舞伎町で亡くなった大勢の命の事は、報道フロアから一才消えてしまいましたし、自分自身、地球規模で起きる事件の数々を把握することで精一杯で、テレビという仕事の変わり身の速さに圧倒されるなか自分を見失いそうになるような感覚に飲み込まれていきました。報道番組と言っても一時間の番組の中にスポーツのコーナーもあればCMの時間もあり、実質は、四十分もありません。視聴者は次々と生まれる新しい最新のニュースを求めていて、その移ろう速度は大変なものです。朝と夜では世の中の興味が変わってしまうことさえあります。その速度に合わせて真実なのか視聴率なのか秒速で判断する報道フロアの熱をまさに言葉よりも先に身体で体験しながら、わたくしの報道記者人生は開始したと思います。



 それはいつものようにぼんやりと社員食堂で御園生先輩と夜のニュースの前に食事をしていた時でした。

 出会って最初の頃、御園生先輩はわたくしが話しかけてもほとんど無言でした。仕事の合間はもちろん、二人きりで食堂にいる時でさえ、何も言葉もなくご飯ものを掻き込んでいました。営業出身のわたくしは、スポンサーの会食で会話の抽斗を用意するように教育されてきており、また会話にも多少の自信がありました。それに対して御園生先輩は無言で構わないという態度で、二人きりでいます。あの頃、沈黙がとても苦しかったのを覚えています。そういう、会話の材料に困る毎日のなかで、ニューヨークのワールドトレードセンタービルに旅客機が二機激突しました。連日、全てのテレビ局が従来の番組を中止して各社それぞれに報道を行っていました。旅客機が追突する場面と、しばらくしてそのビルが崩落していく場面は、まさしくテレビの映像でしか見ることのできないものです。

 わたくしは食堂にあったテレビ映像を眺めながら、

「すごい映像ですよね。映画みたいな感じがしてしまうというか。」

と、ポツリと言ったのです。それは営業的な沈黙回避の言葉のひとつだったと思います。前後の会話は細かくは覚えていません。

 夕方の社員食堂は、人がいなく、わたくしのその声は静かに響きました。やはり沈黙しながら食事を取るのが好きではないわたくしは、話を投げたのに堂々と無視をしている御園生先輩に、少し不快になりもう一度

「映像はやっぱり最大のちからだなあ。」

と今度は独り言のように、少ししつこく繰り返しました。

 わたくしは、幾度と繰り返される番組内の貿易センタービルの大崩落場面を指して、テレビの報道の凄まじさを思っていました。そこには、これは新聞ではできない、新聞社じゃなく、テレビ局に入ってよかったというニュアンスが含まれます。当時はまだメディアといえばインターネットなど黎明期で、テレビと新聞が覇権を争っていました。実は本来のジャーナリズムという意味ではむしろ新聞記者の方が上位に立つことが多かったのです。かくいう我々の番組にも、新聞社の論説委員などがしばしばご意見番のように出演していました。わたくしはそう言うメディア論の周辺の意味合いを込めて、テレビの報道の力を語ったつもりでした。ある意味、自分の属する組織への自己肯定的な言葉、とでも言いましょうか。なので、そういうわたくしの言葉に対して、かなりの沈黙の後に、

「お前の言ってることって、馬鹿らしいな。」

と、御園生先輩が言ったとき、カチンとなりました。

「バカ?ですか?」

「ああ。馬鹿らしいよ。」

「どういう意味ですか」

ほとんど無視されてきた自分が気を遣って会話を差し向けたことに対し、何の配慮もなく、更には馬鹿だと面と向かってきたことに対し、さすがに私は躊躇いつつ、明確に睨み返したのを覚えています。

「どういう意味でしょうか?」

「バカと言われる理由を聞きたいか?」

「どういう意味かは聞きたいです。」

ふうん、という間合いで御園生先輩は初めてわたくしの目を見つめました。睨んだとも言えたと思います。その眼差しはとても強かったのを覚えています。

「あのビルの崩落は、すぐに使えなくなる。あんなものを凄いなんて言ってるのはそもそも報道の本質から遠ざかってるんだよ。」

「遠ざかる?」

「GRP(視聴率の合計のこと)が気になっていくとそうなるな。」

百階建て近い、世界貿易センタービルが一瞬で、跡形もなく崩落していくのですから、その大迫力を紙面では伝えずらい。動画の迫力が素晴らしいことなど含め、テレビ報道のまさに象徴ともいえるはず、です。ある意味、新聞ではできない、テレビの報道の花形とも言うべき場面で、新聞記者では伝えられない事件を自分たちの会社が報道していることを誇ることに何の問題があるのか、という気分で、わたくしは、少し面食らいました。

「あの映像が、使えなくなる?本当ですか?」

「使えなくする。当たり前だろう。」

「当たり前ですか?各局最も使いたい映像だと思います。新聞の一面でもこの現実を伝える事はできないと思います。」

「お前は、まだ、何もわかっちゃいないな」

「なにも、ですか」

「ああ。」

その後、目の前のカツ丼を無言で、御園生先輩は掻き込みました。我々の間に不穏な相互の不理解そのものの無言が漂いました。かくいうわたしも、もう社会人になりたての若造ではなく、営業でそれなりの賞も取ってるくらい仕事には誇りを持っていました。ですから、さっさと報道のことについて教えて欲しくて、こういう食堂の時間でさえ無駄にしたくなく、無言でいるよりさっさと細かく知るために会話を増やしたかったのです。そもそも無言で説明もなくては江戸時代の寿司屋の丁稚と一緒です。さっさと言葉で説明してほしい、早くかいつまんで内容を教えてほしい、という元々の我慢もあったので、少し不快に

「なんだか、わかりませんね。」

と嫌味を言いました。

 我々は結果、再び沈黙しました。

 しばらくして、飯粒一つ残さず食い終わった御園生先輩は楊枝を歯に当てながら、

「軽井澤。いいか?」

と言って、おそらく初めてに近い形で、わたくしを睨みました。

「あのビルの崩落のあの一瞬で二千人死んでるんだ。」

といいました。あたりまえのことです。死者など1名単位で記憶していつでも答えられるようにしています。

「もちろん理解してます。」

わたくしはそう反論気味にいいました。しかし御園生先輩は、首を斜めにしたまま、

「いや理解はしていない。じゃぁ質問を変えよう。遺族はどう思う。例えばだ。お前ビルの窓から自分の赤ん坊を投げられるか?」

「あかんぼう?」

わたくしは当時紗千が産まれたばかりでした。

「あかんぼうを投げられるか?」

「……。」

「きいてるんだ」

「どういう意味ですか?」

「意味もクソもない。そう聞いてるんだよ。」

「……。」

「自分の。胸が張り裂けてるぞ。」

「……。」

「あの映像はそういう場面だろうが?違うか?お前の言っているテレビの力ってのは。窓から死んで飛び降りる迫力こそが伝えたい報道なんだろう?新聞でできない、映像の力として。」

「……。」

「視聴率は取れるかもしれない。新聞より営業も売れるかもしれない。しかしだ。映像を繰り返すたびに、そういう二千人が、自分の愛するものを八つ裂きに失う場面が使われている。ハリウッド映画のようなコンテンツとして、世の中に消費されている。映像を酒でも飲みながら夜のニュースで消費するだけの視聴者へのエンターテイメント程度にだ。一体何故あのような事件がおき、人類にとってこれはどういう問題があったのか、は置き去りだ。ある意味で他人事でホラー映画でも見たいだけの視聴者を集めてるともいえる。ほとんどの場合視聴者は考えることをやめて思考停止に陥っている。これはそういう事件報道だ。」

「……。」

「助からずに、飛び降りる人の姿はお前のいうとおり、新聞紙では伝わらんかもな。でも俺は、むしろその命の一つ一つは新聞の文字の方が伝えられることが多いかも知れないと思う。」

「……。」

「軽井澤、これは現実なんだ。背中に炎が迫り、耐えられずに、人生の最後に飛び降りたんだ。それが自分の父親や息子だったらお前はどう感じる?いや、今後の人生をどう整理して生きていく?」

ゴクリと茶を飲み干して、

「炎の中で、家族との最後の会話もできずに、死ぬとわかって飛び降りた娘の映像のようなものは、既に今でさえ、流しすぎなんだ。取材してる先が海外担当の奴らで、俺が取材源じゃないから俺はコメントは控えさせてもらうがな。俺がニューヨークにいたら、また違う取材を試みるだろう。未曾有の事故でパニックしてるとはいえ海外の記者も、そろそろ気がつかなきゃいけねえ。報道が扇情的な商品になり下っていることをな。こんな映像を流し続けるのはジャーナリズムじゃない。ただの恐怖訴求マーケティングだ。つまり、その結果世の中が向かう方角は怪しくなる。」

御園生先輩はわたくしを再び睨みました。御園生さんらしい意見の言葉が、断続的に並ぶ中で、私はどんどん自分がみすぼらしくなるのを感じました。彼は、ただ不機嫌に黙っていたのではなく、わたくしがどういう姿勢で物事に取り組むのか?についての本質を言う場面を探していたのです。

「おい、軽井澤。いいか。テレビで報道をやるってのはそう言うことだ。自分の判断ミスがいつでも、誰かを殺すほどの怨念を生む。もしくは大勢の人の思考を停止させ、怪しい方角に向かわせてしまう。」

「……。」

「とんでもない不幸な人間を生み出してしまうこともある。もしくは本来必要のないはずの怒りや熱を発生させ、世の中の世論を間違った方角に向けることさえ出来てしまう。ああ、それはお前の言う通り新聞を超える物かもしれないが、それに奢っていれば、回り回って、それは自分を殺すことになるぞ。覚悟しろ。」






2


 報道班で働き出して一年が過ぎた頃のことです。御園生先輩の強烈な迫力は相変わらずでしたが、実はああ言う場面以外では、ほとんど穏やかなと言うか、言い方悪くすれば報道フロアで見境なく怒鳴ることで全て嫌味や臭みが消えてしまったかのような、非常にさっぱりとした人物でした。営業は、年功序列そのもの、仕事についての細かいこだわりを毎晩の居酒屋で酒に飲まれた上司の下で説教が常にあり、その上タバコの買出しから面倒な若手の義務のような作業が溢れて当然でしたが、御園生先輩の報道班ではそう言うものは皆無でした。もとより役員にも噛み付く御園生先輩は、理屈で文句は言えども、年功序列で後輩を使うことは一切ありません。タバコを買ってきてもらうのも嫌いでしたし、意見が違っても年次を使って押し通すようなことは一切しません。報道の姿勢だけは鬼神のようなこだわりがありましたが、それ以外で何ひとつ力むことはありません。むしろ取材方針は記者それぞれの自由ということで、仕事の進め方や時間の使い方も任されていました。取材の手順や方法は自由で、結果だけ感想や助言をくれると言う形でした。箸の上げ方から細かく指導され、時として上司の駒使いになりがちな営業とは大違いでした。

 そういう姿勢で、御園生先輩自身も自分で独自に取材を進めます。記者としての先輩の個別の取材場面を、直接わたくしは一度も見ず、見様見真似でこなしているに過ぎませんでした。そうして一年ほど経った時に、その機会が訪れました。

 今思えばどこかで、わたくしが表情に不満を漂わせ続けていたのもあり、御園生先輩が配慮をしたのかもしれません。普段自分の個別取材先には同行させない御園生先輩がその日一度だけ、わたくしを連れたのです。

「一度くらいそろそろ俺の記者の現場も見せておこう。明日空いてるなら、ここで待ち合わせよう。朝がいい。そうだな。経費で果物か何かいいのを用意しておけ。取材経費だ。」

そう言って地図にペンで指したのは、埼玉の与野本町という駅でした。よくわからなかったし、取材用の車を出すわけでもない。埼京線という池袋からさらに先に行く、電車の駅でした。果物だけ買って駅で待ち合わせると、時間の五分前に御園生先輩は現れました。しかし何も説明をせず

「見てればわかるから。」

とだけ言って、スタスタと歩いていくのです。十五分ほどタクシーにも乗らずに無言で歩きます。土産を少し重く嵩張るメロンにしたことを後悔したのを覚えています。

 随分と古びた戸建の前で立ち止まり、先輩は呼び鈴を押しました。

「こんにちは!」

日常で聞いたことない御園生先輩の朗らかな声にわたくしは驚きました。すぐに玄関が開いて、妙齢の夫人が出てきました。何故か直感で、一人で暮らすには少し戸建てが手広いのではないかと感じました。

「ご無沙汰すいません!」

「ご無沙汰なんて、とんでもない。先日はお手紙もありがとうございました。」

「いえいえ。ちょっと仕事が立て込んでたもので。じゃあお邪魔します。」

御園生先輩は靴を脱ぐそばから夫人と仲良く話しだしました。お茶もいただき、我々はなんでもない季節の話とか、川沿いの河川敷では最近どうだとか、ワールドカップのサッカーがどうとか、至って取り止めのない話をしていました。

「こちら、若手の見習いで、ぼくも部下ができたんですよ」

「へえ御園生さんに。よかったじゃないですか。会社じゃあ、首になる寸前だっていつもいってるものねえ」

「はい。いえいえ。僕は、純粋に、世の中への恩返しですから。」

よくわからない会話でした。かつ、手紙のやりとりまでしているという目の前の夫人と御園生先輩との関係も掴めず、わたくしはぼんやりしました。後で、御園生先輩が本当にたくさんの取材関係者に手書きの手紙を毎日のように書いていたのを知りましたが、この当時はそんな想像もありませんでした。

 少し台所に戻っていた夫人は、わたくしが差し出したメロンを切って出してくれました。

「せっかくだから。一人で食べ切れないんで」

「ああ、冷やした方がいいんですよ。」

「いいのよ。ぜひ。冷えるまで待って一人でいただくよりもみなさんと一緒に食べさせてもらった方がおいしいから。」

メロンは残暑の陽射しを受け生ぬるくなっていました。わたくしは、メロンに楊枝を刺しながらふと、自分が報道に来てちょうど一年が経ったなどと改めて感傷的に思っていました。というのも御園生先輩と夫人の会話は、ぼんやりしすぎていて目的も見えませんので、当時それなりに忙しくしていた自分の脳細胞の中で、時が止まるような感覚になったのを覚えています。

 話題はあれこれありましたが唯一、気にかかったのは、そういえば、ニューヨークのテロからもう一年ですね。という言葉でくらいした。御園生先輩はとにかくその場で明るかったのです。普段の食堂で見せる会話下手なあの人物がどこでこんな好青年のような態度になれるのかと言う程で、間合いがとにかく良かった。メロンは美味しい、軽井澤もセンスのある買い物をしたとか、軽口を叩きながら夫人にあれこれと話を続けました。三十分くらいほとんど、ずっと絶妙に、かつ一方的でもなく、相手の言葉も引き出しつつ楽しませる会話でした。まるで、一流の営業の先輩の接待会話を思い出したくらいでした。かれがそのままクライアントに行けば直ぐにでも受注が決まるくらいで、わたくしは段々と聞き惚れる気分さえして、少し悔しくなったのも覚えています。

 そうして突然、発言した、

「もっともっと、よくしないといけないんですよ」

という御園生先輩の言葉が今ひとつわからなかったので、わたくしは頭をぼうっとさせたままに、ふと奥の部屋の襖の少し空いた先を見遣りました。それまで気がつかなかったのですが、仏壇があるのが目に入りました。

 その仏壇が何を意味するのかが脳天に落ちてきた時のことを、今でも思い出せます。全く世の中が忘れ、そうしてわたくしも殆ど思い出してもいなかったことでした。

 それは、歌舞伎町の事件で亡くなった、二十歳ほどの、女性姉妹、だったのです。幾度となく報道で顔写真を出されていたあの写真でした。

 その場での幇間のようにおどけて、太陽のように語り、ひまわりのように言葉を繰り返す御園生先輩は、つまり事件から一年の時間を経たという意味合いでご遺族に会いに来たのでした。いや直ぐに焼香をしなかったのが示すように、一年ぶりにきたのでもなく、毎月毎週のように通ってこういう、とりとめもない会話を続けていたのだと思いますがその一年の節目にわたくしを同席させたのです。

 何かを取材しなければ手ぶらで帰ったら怒られるから、だから質問をするような新米記者のわたくしのような神経は少しもない。真逆です。姉妹二人を失った遺族夫人のせめてもの1日を明るくしたいという一心の気持ちだけがそこには溢れてました。取材などなにもいらぬ。いや、遺族が自ら語らないものを取材する気などないのだ、と横顔が言っているようにさえ思われました。 

 日本全国、いや世界中の人間の脳細胞までを映像で鷲掴みにしたあのニューヨーク・テロの一周年という背後で忘れられた歌舞伎町の火事のことを取材した御園生先輩の特集は好評でした。あの日、怒鳴り声をあげていた、御園生先輩の論調までには強くは語られませんでしたが、淡々と繋ぐ言葉とおそらく一年を通して撮り溜めをしてきた映像を厳選した画角(カメラ・アングル)は映画のように叙情的で、この家にまで通って見つめた御園生先輩でしか切り取れない悲しさと人間愛を含んでいました。子供を亡くした親の塗炭の苦しみを報道は救ったのか、同じ事件を二度と起こさぬために我々ができたことは何だったのか、というその特集の中で控えめながら語られた事件報道の反省すべき点という部分に、多くの報道記者が畏敬の念を持ったのは、確かなことでした。


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 与野本町の駅の日からまた一週間ほどして、

「今日は、飲みにいくか」

と御園生先輩に声をかけられました。我々の仕事は夜のニュースが終わるまでですから二十三時からになります。それでも担当によっては夜明けまで反省会をすることもありましたが、この点も御園生班は強制などなく自由でした。なのでその時間からにも関わらず誘われた時にわたくしは、素直に嬉しかったのを覚えています。

「だって、お前の一周年だろう」

と御園生先輩は言いました。

 思いつきで声をかけたのではなく、わたくしの一年を思い出してくれていて、そういう配慮の上、後輩の一日をもらおう、という姿勢でした。そうです。御園生先輩はあの与野本町の夫人にもそうだったように、誰に対しても最初から気持ちの配慮を失わない人でした。いや、会社組織に入ると多かれ少なかれ年功や仕事の序列で若い人間や部下に鷹揚になるものですが、御園生さんは違いました。

 言葉を変えれば、そういう御園生先輩の人格こそが、誰よりも取材先やご遺族、メディアの被害者と深く関わることになった気もします。そうして被害者と同じ目線の気持ちになるが故に、あの激烈な編成部への抗議が生じるのです。誰もが目を逸らす、世の中の矛盾に立ち向かってしまうのは、処世術や社内の手順とは全く別で、その純全たる優しさこそが御園生先輩の本質だったのだと思います。

 思えば、その頃から、わたくしは、御園生先輩のことを、好きになって行ったのです。

 会社組織的なバランス感覚の中ではまだ全てまでは納得しませんでしたが、彼の言わんとすることを、少しずつですが受け入れるようになりました。たとえば、テレビで見る人間の死と、実際に触れる取材先の死にある、大切な差異を考えさせられるようになりました。彼のこだわる、

「報道とは何をすべきか?どうあるべきか?」

という巨大な問題意識について、自分でも悩んだりもするようになりました。無論、まだまだ営業出身の自分には、会社全体のことを思えば、御園生先輩の強引さには少し不満も残してはいましたが、同じチームで仕事していく中で、人間としての好感は増えていくばかりでした。

 その日連れて行ってもらったカウンターバーのレストランはとても素敵な店でした。高級感の漂う一枚板の肌触りのいいカウンターに御園生先輩は座るとお決まりの赤いマルボロを置きながら、ふと、大切なものを鞄から出すようにして、

「まあ、こういうのも見せておくか。先輩だからな。」

といって、御園生先輩が小さな大学ノートを机に置きました。普通より一回り小さいサイズのノートを開くとそこには、所狭しと御園生さん特有のあのバビロン王朝の象形文字のように並んでいました。

「なんですか?これは。」

「見りゃわかる。」

それは御園生先輩の取材メモでした。

 御園生先輩が柊城執行役員に怒鳴り込んでできた数々の事件を含め、民放が主軸となって報道してきた事件が大見出しで並んでいました。ですが、その内容は平凡な記者のメモ、例えばわたくしのメモとは違います。何が違うかと言えば根本が違うとしか言いようがないかもしれません。つまり、取材の量も質も全く違うのです。

「こ、これは謝絶というか取材拒否の宛先ばかりですねーー。」

「自分の取材ネタを自慢したくて、お前に見せてるわけじゃないぞ。」

「こ、これ全部書いてあるんですか?」

 ノートを読むと、御園生先輩のインタビューに答えた人たちは、御園生先輩を取材記者のようには見てなかったのがわかります。埼玉の夫人のことを思い出すときに、その理解は深まる気がしました。

「あなたのような悲劇をこの世界から絶対なくしたい。自分ができることを最大限やりたい。」

たとえるなら、そういう前提でおそらく取材先の懐に飛び込んでいるのです。会社の名札を下げた報道記者でもなく、視聴率の映像を撮りにくるカメラマンでもなく、取材先の都合だけを考え、取材先の苦しみを代弁するために幾度も幾度もやってくる存在。

 そういう信頼の結果、あのノートに書き連ねられた取材内容は語られたのだと思います。もしそれが視聴率のために一言だけでも衝撃的な材料をくれと言う空気があれば、遺族は二度と会うことはないでしょう。それは被害者遺族への恐ろしい裏切りです。こういう取材先との関係を前提として、御園生先輩は”記者としての取材”を続けていました。そうしてこの論理のなかでどうすても納得ができないものだけを柊城役員に怒鳴り込んでいたわけです。


(追加) 見せてもらった取材ノートは実は、カメラを回したり音だけのインタビュー窓も存在していましたが、御園生先輩として当然の考え方があり、安易に報道フロアに持っていかなかったのです。


 会話を遮らない間合いでいくつかの料理が出てきたのを我々は楽しみました。店内は素敵な照明で、時間が愛しく流れていました。わたくしは幸福な気分を味わっていました。御園生先輩という稀代の報道記者と、この職業の最も面白い議論をさせてもらいながら飲んでいるその時間が素直に嬉しかったのです。放送局に入社して、最も幸せな夜だったとも言えるかもしれません。

 ふとその時、

「この言葉見れるか?」

と、少し調子を変えた言葉で、御園生さんがノートの一枚をわたくしに見せました。


できることなら、この手で殺してやりたい


御園生先輩の筆跡でした。その殴り書きは、線のところどころに、震えを感じるものでした。無論その言葉は御園生先輩が取材した時のメモです。聞くと、とある事件で息子を殺された母親の取材をした時のもので、母が背骨から絞り出したような叫びでそう言ったのを記録したのだとのことでした。

 ウイスキーソーダを机に置いて、そのノートをわたくしに見せながら、御園生先輩が語りました。

「この手で殺してやりたい、という言葉、は強い。」

「……。」

「諸刃の剣のような言葉だがな。人間を立ち止まらせる。人間を立ち止まるもの、はビジネスになる。視聴率を獲得し、番組の価値を増やす。それはテレビの人間として美味しい、という気分になるよな。」

「はい、ある程度わかります。」

「そう。まあ編成は興味を示すだろうな。」

「そうかもしれません。」

御園生先輩は灰皿を手前に引いて赤いマルボロの火をつけました。

「だけども、その強い言葉は、被害者の一時の感情かもしれないんだ。いや、俺の経験だとこういう言葉は、感情的な時にだけ出る、失言的な言葉だ。」

「……。」

「自分の息子を殺した犯人を、母親が許せないのは当然だ。誰にとっても永遠の恨みだ。復讐で殺しても帰ってこないと判っていながら、時としてはこの手で復讐してやりたいと言ってしまうこともある。でもな軽井澤。ほとんどのご遺族は、そんな殺人を自分で犯そうとは思わない。なぜかわかるか」

「なぜですか」

「殺人をするような人間と同じ人間になりたくないんだよ。」

「同じ人間?」

「人間を殺すような人間になりたくないのが普通だと思わないか?自分の息子を殺した、どうしようもない人間が存在する。自分も復讐をすれば、そっち側になるんだ。同じ穴のムジナ、ともいうかな。だからご遺族は本当は復讐はしない。殺すことで息子が戻ってこないのは明確なんだ。だから殺したいほど憎んでいるけども、殺人を犯すような悪魔を自分の中に存在させたくない。何故ならその悪魔こそが息子を殺したものだからだ。それが被害者の真実だ。」

「……。」

「でも、犯人を殺してやりたいくらい恨んでいる。だから言葉として、そういうインタビューを記者がある程度誘導すれば拾うことはできる。長く何時間も何日も会話をし続ければ、当然、拾うことができる。復讐する悪魔になどなりたくないって思っている遺族を誘導し、感情が昂った時の一言だけを切り取り、何千万人もが視聴するテレビで流して視聴率を稼ぐことはいつでもできる。」

「……。」

「テレビってのは、そういうことが出来てしまう恐ろしい道具なんだ。一度映像が出てしまえば歌舞伎町の火事のように永遠に人々の心の中に印象操作されてしまう。印象が人間を決めつけると言っていいーー。

 息子を殺した犯人を殺したい、と発言した映像をテレビで流せば、ご遺族のお母さんは人を殺したいと言っていた人、となる。もはや二次被害だ。息子を殺され生きるだけで毎日が地獄の被害者に、苦しみを被せるそのことで視聴率が増える。」

御園生さんは、赤いマルボロを深く吸い込みました。

「でもテレビはそういう言葉を使いたいんだよ。なぜなら、本当の理解者を集めるより、衝撃映像でわかってもいない立ち止まるだけの人間を集めた方が、視聴率を取るからさ。そういうビジネスなんだ。

 だからちゃんとしないと、テレビの世界に被害者の失言を意図的に拾う奴が現れる。意図的に人間の一時の感情を映像にして拡散させる。その映像が、世間中を回りながら被害者にブーメランのように帰ってくる。そうしてスレッドが立つ。殺されたら殺しても良いのか?被害者ぶって、あんたはそう考えるのか?みたいな、まるで関係ない議論になる。そもそも、息子殺されてる人間の感情がいかに特殊な状況かなんてのは、前提から消えてしまうんだ。」

「……。」

「切り取りで視聴率を狙うなら、報道は終わりだ。いや、その前に俺たちは本当に恐ろしい爆弾を背負って生きているんだ。ぼんやり生きていると大変なことを犯してしまう。」

「……。」

「でも、殺された側は、そういうことじゃないだろう。」

「はい。」

「テレビはその全く罪もない被害者を利用するんだよ。哀悼しているようで、事実は逆になる。遺族によっては、報道で触れてほしく無い人間の方が多いんだ。テレビを見なくなる遺族も多い。忘れるなよ。あの与野本町のお母さんの家に、あることに気が付かなかったか?」

「なんでしょうか」

「テレビを置いていなかっただろう。」

「……。」

わたくしは釘のような針が、胸に刺さるのを感じました。

「被害者の人生を、狂わせるなら報道は死んだほうがいい。お前にはそのことはわかってほしい。」

そう言って、御園生先輩はノートから「殺したい」と書かれた紙片を破るとライターで灰皿の上に火をつけました。優艶な炎がバーカウンターで一瞬煌めいた後、娘を殺され我を忘れる母の怒りの一瞬のようで、燃え尽きると黒く力を失っていきました。




 その日以来、幾度か御園生先輩とは二ヶ月に一度くらいでしょうか、飲みに行きました。いくつかの会話の順序は覚えていません。大抵はジャーナリストとしての「べき」論を語らい合うことが多かったと思います。いわゆる物語を語るように話す御園生先輩の語り口がわたくしは本当に好きでした。

 報道記者としても最大の尊敬をしていました。尊敬するが故に、御園生先輩の理想が簡単ではないことも理解しました。日常聞けない話だったのもあり、ゆっくりと話す御園生先輩の言葉をいつも緊張をしながら無心で頷きながら聞いていました。自分の方から話題を出せるようになるまで二年くらいかかったと思いますので、以下の会話は報道にきてそれなりの時間が過ぎた頃のことです。

 いつものように、赤いマルボロの箱から一本取り出すと、御園生先輩は鉛筆のように幾度となくそれを回したりしながら、最新の事件についての感想を話していました。ふと話が尽きた頃にわたくしは、ひとつ気になっていたことを思い出して、

「御園生さんは、手紙を書いたりすることは多いのですか?」

「誰に?」

「与野本町の会話をふと今、思い出して。」

「ああ、あの時そんな会話したっけ。」

「お母さんが、手紙のお礼を言っていました。」

「バレちまったか。」

ようやくつけた煙草をゆっくりと吸いながら

「まあ、自分を納得させるために書いてるだけだけどな。」

実は、御園生先輩は多くの関係者に手紙を書いていました。手紙を書くことで、報道の結果によって個人的に苦しんだかもしれない被害者や、時には取材先にもなった加害者との溝を埋めようとしていたのです。

「加害者にも書くのですか?」

「まあそうだな。」

「被害者の取材とまたちがいますよね。」

「俺は、犯罪が生じること自体が、世の中による犯罪だと思ってるんだよ。ニューヨークのテロも、どこかの殺人事件も、もちろん、加害者が悪いんだけどな。でも加害者が犯罪者になっていく場所は世の中、だからな。」

「どんな手紙を書くのですか?」

「別に、何か説教じみたことを書くんじゃないさ。もし自分に何かできることがあれば、いつでも相談してくれと書いているだけだ。俺は、会話もしていない相手のを一方的に断罪するのが苦手なのもある。」

「なるほど、そういうことですか。」

「どうだろうな。人ぞれぞれやり方あっていいんだと思うが。軽井澤は軽井澤らしくやればいいさ。」

実はその手紙を女子高生事件の加害者の人間にも送っていたことや、獄中にいた風間も守谷にも幾度となく送っていたのだということをその時のわたくしは一切知る由もありません。つまり、被害者に寄り添うのと同時に加害者側にもさまざまな形での御園生先輩は処していたのです。親兄弟も絶縁していることも多い殺人犯罪者の人生に届く御園生先輩の手紙はもしかすると彼らの心の中で何か強い支えになったのかもしれません。もしくは突然追い詰められ困った二人は、江戸島でも軽井澤でもなく、知りもしないその過去の手紙の主の名前、御園生健一郎を検索したのかもしれません。

「手紙と言っても、大それたものじゃないさ。むしろ自分への慰みに書いているに等しい。それくらいしないと、自分が許せないこともあるんだ。」

「そうなのですか。」

「まあ、書くことで気持ちが整理されることもある。もちろん犯罪は許せないし、被害者にとって絶対に許すことの出来ない加害者の肩を持つ気もない。そう言う整理とは別なんだ。」

ふとその時、わたくしは気になって言葉を深追いしました。

「御園生さんは、そう言う手紙は全員に書くんですか?」

「……。」

「関与した全員に書くとなると大変ですね。」

そこで御園生先輩は少し変に沈黙しました。沈黙が少し長いなと思った頃に

「いや、全員ではない。なかには書けない相手もある。」

「書けない?」

「ああ。書けない、人があるが故に、書いているとも言える。」

「複雑そうですね。」

そのときはその会話はそれで終わりました。マルボロのタバコを取る様子が何故か落ち着かない様子にも見えたのもあり、話題は他にも数多あるのもあり自ずと他の流れに向かったのだと思います。

 ただ、今思えばその時の微妙な間合いは当然だったのです。手紙を書けない人がいるという、凄まじい残酷な事実がそこにあったことを、わたくしという鷹揚な人間は何も察することはありませんでした。わたくしは、その時の深追いの質問がいかに残酷だったか、そしてその質疑にいかに配慮というものがなかったかを後日知ることになります。それこそが自分に欠落した、周囲の人間への無神経なのだと定めます。無配慮の行動の記憶がわたくしを悩ましく後悔させます。そうしてこういう後悔を消そうとするが故に、いくつかの記憶を自分が存在しないことにして、その方角の喜怒哀楽を幽閉しようとするのだと思います。











3


 三年目を過ぎた頃から、御園生先輩の多くの言葉は自分の中で徐々に消化され、報道記者としての仕事に馴染むようになりました。御園生先輩に大筋の支援を受けた形でありつつ、自分の仕事が採用成立されることも増えます。

「この案件は、軽井澤のこれまでの取材が実りました。」

と、御園生先輩は必ず担当の名前を全て出しながら会議の度に説明をしてくれました。実質は、御園生先輩がいなければ成り立たない取材でも、社内会議ではそういう発言をするのが御園生さんのやり方であり御園生班の文化でした。記者としての姿勢や結果のアウトプットには厳しくても社内会議では誰よりも守られているのも御園生班の特徴だったと言えます。

 少しずつわたくしは記者の仕事に慣れ、報道センターの人間になっていきました。営業の頃にあった感覚も徐々に薄れ遠いものになります。異動して五年目も過ぎる頃には、つまり営業にいた年月よりも報道記者の時間が多くなる頃には、営業判断という自分の持っていたバランス感覚が消え、逆に報道として営業に口を出されたくない、という感覚が芽生えました。例えば交通事故でありがちな、スポンサーの車が映っていることをカメラのアングルで処理できないか、などと営業在籍時代なら当然まず第一に優先していたことよりも、事故の理由や車の機能の問題をスポンサー配慮抜きに先ず取材整理を行うようになりました。自動車は巨額予算を持つトップクライアントですからこの考え方の変化は、相当なものです。


 報道フロアは日々鉄火場になります。事件のない平坦ない日でさえ限られた番組放送時間を大勢の社員や関係者が奪い合います。オンエアされないものは結局、議論の対象にもならないし、仕事にもなっていないのです。誰もが特集で自分の企画や取材が採用されることを夢に見ます。それには日頃からの取材の奥深さや正確性、取材の実績や制作した映像の質の高さが常に重要な基本です。申し上げた通りこの点においては御園生班は群を抜いていたと思います。御園生さんが基本姿勢を明確にし、彼自身が自分にも厳しく理想を追求した結果だったと思います。そういう思想的な基軸があったからこそ、フロアで年長者に怒鳴り返すこともある意味例外的に許されてもいました。


 そのころわたくしは、少しずつ自分の報道内での立場も変化をし始めていました。実は”珍しくあの御園生の右腕として動いている記者”として周囲が認識を始めていました。というのも私より以前に御園生さんの下についた人間は、ことごとく彼との仕事がうまくいかず、担当替えになるのが常だったのです。私は珍しい種類であったのを後から知りました。この点だけ見ると私は御園生さんに最も愛された後輩だったともいえます。もちろんその当時はそんな自覚もなく目の前の仕事を必死にこなすのに精一杯だったのですが、そうやって御園生先輩の右腕のようになってくると御園生さんに質問しにくいことや純粋に彼の意見を知りたいだけのような問合せが本人ではなくわたくしにくることが増えるようになりました。どこのセクションにもある秘書的な御用聞きのようなことでしょうか。実際に、誰より御園生先輩と一緒に仕事をしているわたくしでしたから、どう答えるかはほとんどわかります。いうなれば、自分の意見はほとんど御園生先輩と被りました。忙しい先輩を呼び止めて質問するよりも、わたくしが答えてしまう方が圧倒的に早いのもあり、また後で御園生先輩に気づかれても、くだらない質問なので先輩の回答を想定して返しておいたと言えば済みます。思えばそんな代返も勝手に行っていたので、すこしずつ報道フロアでの自分の立場は高まっていたかもしれません。

 小笠原敦夫という編成の報道担当がわたくしに話があるというので、六階から階段を降りて編成のある五階フロアに行きました。小笠原さんは、社内でも手広く仕事をしている人で編成にいながら営業の人間とも顔がきくバランス感覚に優れた、ちょうど御園生先輩とわたくしとの年齢で間くらいの人です。三年前まで報道で記者をしていました。

「久々だね、元気?」

「どうしたんですか、突然。」

「いやさ、いつものパターンで、御園生さんからダメ出しがあってさ」

わたくしが何となく予想していた話題でした。

「御園生さんがダメなものは僕もダメですよ」

「そういうとは思うんだけどな。」。

そう言って笑った小笠原さんは、あれこれと編成で報道に通したい企画があるんだと、話を始めました。唐突な打ち合わせで、わたくしも余り聞く耳を持たないというか、ピンと来ないような状況です。どの話題にも興味が持てない顔をしていると、小笠原さんはふと、六月の定例人事のことを話し出しました。

「報道フロアと他のセクションとの人事異動交流を柊城役員が始めてるのはしってるよね。」

わたくしは唐突なのを理由に笑いながら

「これは、おどしですか?」

と、切り返しました。小笠原さんは、少し焦った顔をして

「まさか。この俺にそんな権限があるわけないし、そんな噂の真相も知らないよ。」

「……。」

「まあ、火のないところには煙は、ってやつかもしれないけどな。」

「そうですかね。」

「俺の話はしごく現場のことさ。視聴率をさらに求めたい編成部としては報道番組の中で色々なことやろうって話があるのは聞いたことあるだろう。テレビ的にいくつか面白い企画もあるんだよ。そういうのをあれこれ狙ってる人間もいる。広告代理店も賛同しているんだ。でも御園生さんは反対するだろうって、みんな手を出さないんだ。まあ、かくいう俺も含めてみんな御園生先輩が怖くてな。」

「怖くないですよ、あの人。」

「でも通してはくれないだろう?」

「意見を安易に変えたりはしないと思いますね。」

わたくしは小笠原さんの話をそこまで聞いて、更に耳を閉じてしまいました。視聴率を取るための編成企画は、御園生先輩どころかたいていの報道記者には許容し難い仕事に決まっているはずです。

「内容は聞かないでおきますよ。内容に個人的に反対したってなると微妙ですから。」

わたくしはそう言って小笠原さんの話題を切り返した。そうしてしばらくあれこれと立場論的な応酬が続き、議論も飽きがきた頃に小笠原さんは観念して、

「まあ、わかったよ。ではさ、いちおうお前にただ断られたってのもあれだから、飲みにいったことにしてくれよ」

「飲みにですか」

「ああ。俺の方でご馳走するさ。白金にいいホルモン焼きがある。まあ、編成の悩みもたまには聞いてくれよ。御園生班のエース記者、天下のジャーナリスト軽井澤様はお忙しいかもしれないけどさ。」

「そんなんじゃないです。」

「まあ。日にち候補メールするからさ。どこかで頼むな。俺もちゃんと説得したのかって上から言われるのだよ。右腕の軽井澤と酒まで酌み交わして頼み飲んだけどダメだった、と言えれば、取り敢えずはいいんだ。」


 結局そういう理由で、我々は飲みに行きました。

 小笠原さんとの飲み会は、報道に来てから忘れていた社内の飲み会そのものでした。

 御園生さんと時間を共にするとき常にある仕事への緊張感や報道とは何かを確認しあう種類の会話と違い、小笠原さんと飲む酒には打算的な会社の会話が印象的でした。完璧には出来ないものを、酒で擦り合わせる営業の飲み方にも近かった。基本は愚痴や笑い話、社内の裏事情や男女関係などを延々と話します。話題は常に打算的で報道に関わるような議論は一切ありません。

 小笠原さんは酒を飲みはじめてしまうとだらしが無く楽しいというか、ただ酔っ払う人でした。どこにでもいる楽しい人ともいえます。編成という権限を持っている割にはそのことを感じさせず細かいことも言わないのが新鮮で、わたくしは意外と心地よく飲んでしまいました。

 当時のわたくしは、その飲み会がまさか編成部の経費でまかなわれ、経費の利用費目が、御園生班へのコミュニケーション対策費用だなど知る由もなかったのです。

 わたくしは鈍感を越えてその手の狙いごとに無能無神経だというのが正確なところです。人間の機微がわかっていない、と言ってもいい。さほど出世に興味も持っていなかったせいかもしれません。そういえば爽やかで快活な人間のように聞こえますが、正しく言えば周りの人間を一定の軽薄さで処理していたというのが本質でした。いやそういうマイナスの言い方が正しいのです。とにかくその無神経のせいで小笠原氏の持つ深い意図を認識することなど一度もありませんでした。


 そういう馴染みがあってから半年か一年に一度くらい、小笠原さんはわたくしを誘いました。彼から連絡が来るタイミングは本当に絶妙でした。御園生先輩とわたくしの間でもさまざまな現場のやり合いがあります。意見を交換するときも激論にもなりますし、側から見れば喧嘩か不仲にも見えるでしょう。どんな意見を交わしてもそれは記者同士の胸の借りあいのようなものでして、御園生さんの仕事の仕方もわたくしも含め、仕事に後腐れはありません。言い合いの後の一日くらいは不満を引きずったりもしますが、後に引きずることはないのです。

 そのたった一日しかない不満足あるタイミングで大体、小笠原さんからメールがきます。編成は別フロアで報道の日常などは誰も知らないはずですが、タイミングは絶妙としか言いようがない。そして決まって居酒屋に飲みに行こうとなるのです。

 小笠原氏は典型的な編成マンでした。報道記者の頃より、編成に異動したあとの方が向いているようにも思えました。御園生先輩が命をかけた報道記者だとすれば、小笠原さんは社内の調整に特化しきった典型的な仲介型の人間でした。子供が四人で大変だ、が口癖で、居酒屋で酒に酔うと、

「何かいい儲け話ないかな、儲かるならいつでも会社辞めるんだけど、なかなか民放を越える食い扶持がないんだよね。」

と冗談めかすのがいつもの決まりでした。

「そうですかね。編成は楽しいっていう人も多いですよね。」

「まあやることは調整だけだよ。スーツ着て会社にほとんどいるんだ。でも出世しやすいからな。出世が好きだといいんでないかな。」

「柊城役員みたく?」

「そうだろうな。あれが、ゴールとすると、記者だけやってちゃダメだけどね。」

「……。」

「相変わらず、御園生班はいそがしそうだね。」

「そうですか?日々やらねばいけないことに追われてるって感じですよ。」

「なんで、そんなにスクープを取れるのか、教えてほしいね。」

「どうですかね。」

被害者への愛情や、被害者を知ることで、事件の本質を学べなどという言葉は、小笠原さんは言いませんでした。その分、大学生の時の酒の飲み方に似ていて、会社のことや仕事の憂さを忘れて酒を煽るだけでした。ただそういう時間を楽しくないかと言われれば、そんなこともなく、わたくしなりに楽しめたのもあります。営業局時代の飲み会に似ていました。報道にきて、そういう場所がなくなっていた中で、小笠原さんとのそういう時間は、自分には懐かしい営業の頃を思い出させるような、そういう飲酒行為の場所になっていきました。


 幾度か飲むうちに、酒量は増えていきます。さらに言えば心も打ち解けだすせいか、話題も生々しくなっていきました。ある時のことです。確かあれは、二軒目のスナックのような店でだったと思います。

「でも、軽井澤さあ、お前を評価している人も多いよ。」

「どういうことですか。」

「お前を買っているってことよ。いつまでも人のコピーでいいのかってのもあるね。」

「僕が、コピーですか。」

「ああ」

「全部オリジナルで取材していますよ。」

小笠原さんにそういうことを言われるのは心外でした。自分なりに、独自に取材もしていたし、御園生さんのコピーだなどと一度たりとも思ったことなどはありません。むしろ彼のやり方に賛同することもあれば、賛同できない事もあるのです。

「いやそういう意味ではなくてな。」

「どういう意味ですか。御園生班だからですか?」

「そうだ。少なくとも周りの評価はそうなるぜ。」

「御園生さんが大きいから。」

「まあそうかもな。ただ、俺が言いたいのはそこじゃないよ。」

「どこなのですか?」

「つまりさ、御園生さんが完全に会社の中でマルかって言えば、賛否両論当然あるってことさ。」

「……。」

「人によっては、御園生さんのことは絶賛だとは思うけどな。でも会社の主流じゃないやり方かもしれないぜ。少なくとも軽井澤はそういう一つの枠の中で、日々手柄を作ってるんだ。」

「そうですかね。御園生さんは記者としては一歩抜けてる感じはありますけどね。」

「まあ、俺もいい仕事だとは思ってるから、一般的には素晴らしい報道記者だってことだけどな。そこを否定している訳じゃない。」

小笠原さんは酒に酔って少ししつこく語りました。

「何が問題なんですかね。」

あれ、という目をして小笠原さんはわたくしを見つめました。

「だって、あれだけ役員に切りかかってるぜ。」

「……。」

「報道記者様の正義も大事だけど、営業や編成の切り口だって大事だぜ。報道が全てじゃない。民放だぜ、テレビ日本は。」

「でも。」

「俺が言ってるのは、その方針をやめろっていうんではないさ。お前もオリジナルで何かやってみるのがいいんではないかってことを言ってるんだ。」

「例の企画の件ですか。その、視聴率を狙って代理店も一緒の、営業的なやつ。」

「ずいぶんな、言い方だな。」

「まあ、すいません。御園生班ではそうやって見てしまいますよ。」

小笠原さんは、そこで大笑いをしました。時折見せる、元来彼特有の、間合いの取り方でもありますが、幾度か飲み会を重ねるうちに、わたくしはそれが意外と好きになってもいました。

「その後どうだ。忙しい中だから動けていないかもだが、軽井澤が乗ってくれるなら面白いはずだよ。夜のニュースの中で特集は組めるぜ。編成も後押しする。ネタはたくさんあるんだ。」

前述の通り、小笠原さんと飲む日は、大抵は御園生先輩にドヤされた夜か翌日の絶妙なタイミングでした。酒も入った私は、多分そこで少し興味を示したのだと思います。

「わたくしは何をすればいいんですか?例えばですが。」

「そうこなくっちゃ。企画を聞くくらいはタダだろう。とあるネタがあるんだ。」

「ネタ?」

「それが、視聴率の塊なんだ。赤身の肉と、人間の号泣は視聴率の塊だっていうけどな。そういうレベルのやつだよ。」

視聴率と人間の号泣、と言われた時に、わたくしは少し嫌な顔をしました。その二つを掛け合わせるのは、御園生先輩と多分、ハレーションがあります。

「別に御園生先輩の邪魔でもない。純粋に軽井澤のスクープをしていけばいい。」

「そんなもんですかね。」

「そんなもんさ。そもそも自分独自の取材企画を成功させていけばいいだけだ。言ってるだろ。コピーじゃないぞっていう仕事を作るべきなのさ。」

確かに、他の班では編成と記者とで組み合った企画で視聴率を取ったりすることもありました。それは時としてスポンサーの最新工場を取材してみたり、スポンサーの社長に新商品の話を聞いたりというような少し意図のある目的が入っていることもあり、御園生先輩は真っ向から無視や否定をしていました。それでも自分より若い記者が社内表彰を受けたりすることがあり、わたくしは少し悔しい気持ちになったりもしたことはありました。

「スポンサーは関係ないものにしてください。わたくしは以前に営業にいたもので、そういうのはちょっと断らねばなんです。照れるというか。」

「もちろんだ。そういう配慮は得意なのさ。軽井澤に頼みたいのはスポンサー関係ではないんだ。それは他のやつに頼んでる。」

「……。」


「どんな企画ですか?」

「ちょっと遡るのだけどもな。軽井澤は、綾瀬の女子高生殺害事件知ってるだろう?」

 


 小笠原さんの出した企画は、過去に起きた重大事件の加害者らの追跡取材でした。加害者が当時少年だったためテレビでは実名報道がなされぬまま、殺人罪の割にかなり短い懲役を終えてすでに社会復帰をしている。その人間らを取材しないかというものでした。御園生班のような独自取材を続けると面白いはずだと。

 何故そんな事件でもないものを取材させるのか、わたくしには不明でした。当の小笠原さんも、もしかすると本当はわかっていなかったかもしれません。今思えば誰かから言われて、何かを分断するためにそういう指示があったのかも知れません。

 何も知らぬ私でした。

 実は、小笠原さんとそうやって酒を飲む日は御園生先輩と議論をやり合った日の直後ばかりでした。(このことは純粋に偶然だとわたくしは思っていました。)その頃、御園生先輩と意見をやり合うくらい自分も記者としての自負のようなものも既に持つようになっていました。つまりわたくしは記者としてちょっと驕っていたのです。自惚とも言えましょう。そういう自分はどこかで独自の取材を持ちたくもなっていました。御園生先輩にも班の仲間にも共有しないものを内心求めていたのです。加えて報道の取材と言う意味では、加害者より被害者との接点が多かったのもあり、小笠原さんの提示した、加害者側の理屈というか、元少年の殺人犯の言い分について少し純粋に興味を持ったりもしました。わたくしは、なんとなく仕事で嫌なことなどがあると、時折小笠原さんの企画のことを考えたりもするようになりました。

 最初は偶然時間が空いた時だったとおもいます。わたくしはふと綾瀬に向かいました。理由は特に覚えていません。社会人をしているとどこかで、現実とは別の場所に自分を漂わせたくなることがあります。その一瞬の迷いというようなものと、御園生班らしく現場を足で歩くことが混ざったような感覚だった気がします。

 駅前の交番に聞くだけでその当時はすぐに、元少年の住所を教えてもらえました。とくに当時の少年Aである尾嵜憲剛という男が今も地元で暮らしていて、河川敷のボクシングジムに通っているという話を聞きました。その日はそれだけで帰ったと思います。

 その後も忙しい報道取材の作業の合間にふと時間が空く時があると、わたくしは一人で綾瀬の方角に向かいました。実は趣味といってもほとんど何もないわたくしでしたが、ボクシングと言う言葉に直感的に感じるものがありました。河川敷のボクシングジムに、少年Aは通っている。自分はボクシングに純粋に興味がある。そんな掛け合わせだったと思います。元々、体を動かすことが好きだった私は会社に入ってからほとんど運動というものを放棄していました。少年Aを普通に取材しても面白くもないのではないかと勝手に思い、自分でもやってみたかったのをいいことにボクシングを始めようと思ったのです。尾嵜と同じボクシングジムに入会して、たとえば彼とリングの上で向き合うなら、撮影する映像は単純ではなくなります。そういう編成的な思いつきもありました。

 河川敷のそのジムに入会した最初の日に少年Aが誰かはわかりました。

 ジムはほとんど若者ばかりでした。未成年の時に逮捕され、懲役二十年を経ればーー四人のうちの主犯格の彼は最長二十年の懲役でした。既に四十歳近くです。わたくしとその男以外に、四十近い人間はほとんどいませんでした。なんとなくその顔の輪郭にはかつて週刊誌を賑わせた少年の面影がありました。髪型などは全く印象は残ってはおりませんでしたが。ただ、外見よりもわたくしには印象に残ったものが別途ありました、それは彼のボクシングに対する姿勢のようなものだったと思います。

 何故だか理由はわかりません。

 彼ーー元少年A、尾嵜と思われる男はかなり真剣に練習をしていました。ほかの暇つぶし参加もある若者とは違って必死でした。古い狭いジムでした。十人もいれば、練習しづらくなるような小さな場所で、サンドバックを打つにもリングに上がるにも順番を待つことが多かったため、誰がどういう姿勢で練習をしているかはすぐに把握ができたのです。彼だけは休む間を惜しんで、サンドバックが自分の番になるとまるで狂気を滲ませるように激しい練習を行いました。そうして休憩もせず次のトレーニングに黙々と励んでいくのです。

 思えば尾嵜に対して、そのことだけには共感を持てたかもしれません。ボクシングというスポーツには元来、人間の動物的な課題に対してなにかの悟りを用意するような感があります。どんな悩みも、人間同士対面して殴り合うスパーリングの後には前提が雲散するとでも言いましょうか。そういう孤立させあった、いや本来孤立した精神同士がリングに上がって対峙する時に、全く日常にないかたちで人間の持つ深い問題が解決するーー。そのような特殊な邂逅がリングの上にはあるのです。

 わたくしは仕事で時間が空くと、せいぜい二週間に一度くらいでしたが、この東京の東の外れの河川敷まで通うことになりました。見よう見まねで練習を重ね半年もするとそれなりに形ができていきます。おりを見て「マス」と呼ばれる表向きには寸止めで行う簡易スパーリングをジムの中にいる若者などに申し込むようになりました。そうして最終的には少年Aこと尾嵜と思われる男ともスパーリングを行うことになったのです。

 小さなボクシングジムです。ほとんどお互いは会話をしません。スパーリング希望者はリングの横で無言で、対戦を待てばいいだけです。その流れで、知りもしない相手と特に会話もすることなくいきなり殴り合うことになるような仕組みでした。わたくしはリングの中で彼と二人きりになりました。

 相手は表面上は隠しているとはいえ殺人犯です。

 そのことはわたくしだけが知っています。(尾嵜は過去の自分の来歴をジムの誰にも語っていません。いやそういう噂が出たなら尾嵜はこのジムに通うのはやめていたでしょう。)人を殺した人間と、リングの中で二人になっている恐怖ーーその種の迷いが少しだけありましたが、やはりそこはボクシングです。人間が拳だけで向かい合うと、全ての前提は消えて、ボクシングだけになっていきます。いやあえていえば、何か前提を考えながらボクシングをすることなどできない。人と殴り合う瞬間に相手の来歴などを考えてる余裕などないのです。人間は闘争においては非常に動物的なのです。ボクシングの恐ろしいまでの単純さがそこにありました。

 尾嵜はボクシングにおいて相応の努力をしていました。才能がすごくあるとまでは思えないけども、練習を続けなければできないガードやフックの回転、ジャブの出し手の戻しなどは一定の経験者のものでした。対面してスパーリングを始めると彼の細かい努力が感じられました。我々はしばらく初対面のスパーリングらしく軽いジャブを応酬しながら狭いリングの中に二重の円弧を描きました。

 そうして拳を重ねて回ってる中で、一点違和感をおぼえました。わたくしが気になったのは、尾嵜が試合中に全く対戦者の目を見ないことでした。これまで同じジムで練習をしてきたとはいえ、尾嵜とわたくしは目があったことがありません。恐らく意識的に他者の目を見ないのだと感じていましたが、リングに上がっても全く目線を重ねないのは奇妙でした。というのも普通に人間同士が殴り合う場合、目がどこをみているかは非常に重要な情報になります。プロボクサーなどはその目線で駆け引きをしますし、視線ほど重要なものはないのです。あれほど必死に練習をしている尾嵜が、時折ではなく、何度対戦しても最初から最後まで目を見ないのは戦術として矛盾があります。尾嵜とわたくしは幾度となく、時には一日に二回スパを行いましたがやはり彼の目がわたくしの目をみることは、リングの内外含め、ありませんでした。

 そうして多分三ヶ月以上過ぎた頃だったと思います。ある時、わたくしの左のジャブが軽く、尾嵜の頬に当たりました。そのパンチは意表をつく形で当たったもので、彼が首を振って避けようとするのとわたくしが当てるつもりなく空白に放った拳が偶然当たったのです。これが当たった瞬間、尾嵜は驚きました。そうして意図せずしてはじめて我々は目が合ったのです。そのときーーわたくしは全てをその時になって理解しました。

 その目はとてつもなく冷たくーー殺人犯の狂気そのものがそこにあったのです。わたくしはその冷たさにリングの上のスパのさなかで驚きました。そしてその驚きは尾嵜にも伝わったのがわかりました。

 尾嵜の眼差しは特殊な凄まじさを持っていました。人を殺した眼差しでした。そういう目だから彼は頑なに人の目を見ないようにしていたのです。それがボクシングという特殊な場面によって殻を破ってしまったのです。人間を殺した人間は、目が変わってしまうーー。その言葉の通りに自分の顔を意識し、それを隠そうとしている一人の男がわたくしの目の前にいました。


 ほどなく尾嵜はわたくしとジムの中で会話をするようになりました。 

 彼がその後もわたくしの目を見て話すことはありませんでしたが、偶然とはいえ、目線を一度晒したせいで、わたくしと少年A尾嵜との間の壁はすこしだけ壊れました。恐らく他ではない現象として、尾嵜とわたくしは練習の合間にカタコトのような会話を交わすようになったのです。

 会話といっても、どこに住んでいるとか、その程度です。しかしわたくしは、その会話の中で、すこしずつ、編成の小笠原さんの狙っているものに近づくことができているのを感じていました。いや、ありていに言えば、どこかで編成の企画に対し自分の企画も重ねて前向きにもなっていく気もしました。人間は自分でしか得られない情報を持つ時に興奮があります。ほとんど誰とも話さない尾嵜ですが、ジムでわたくしとだけは話します。記者としてではなく、ボクシングの相手としてです。やはり、独自の取材をしているとき記者は楽しいものです。番組に卸すのならばどういう映像にしようか?自分とのスパーリングの映像を使うのがいいだろうか?御園生さん含め誰にも何も意見されずに、自分が最終的に用意する特集映像のことまでを自由に想定したりする時間は自分を癒すのがわかりました。


 自分が綾瀬で行っている作業が御園生先輩の方針とは矛盾するのは感じていました。元よりわたくしが綾瀬に通うのは視聴率が欲しいという編成からの論理で動いているだけです。編成の企画を会社員として実現する、という主題はどこかで御園生班の基本である報道記者的な思考を停止しなければ何も進みません。会社の経営に最も近く、ある意味出世コースである編成部の意見を聞き、会社で求められることをしているという漠然たる正義の気分ーーこの気分が報道記者的思考を止めさせる、ともいえます。そういう葛藤は多忙さの中に、連綿と(点綴と)存在します。タイミングを見て誘われる小笠原さんとの酒を飲んだりする中で、

「まあ前向きにいこう」

となどと、雲散に語り合うことで、御園生先輩への説明を一旦保留するように脳が動くのです。尾嵜という過去の事件の片面の掘り下げでしかないことを気にしないばかりか、視聴率をとれれば最悪いいのだという気持ちさえ芽生えます。御園生先輩なら当然検証するはずの、尾嵜が殺した遺族のことを取材しようとも思いません。時として、

「すでに尾嵜も懲役二十年を終えているのだ。」

という便利な言葉で処理をし、その事件の裁判記録さえ目を通してはいなかったのです。会社の中では前向きという言葉で思考を停止し、同調圧力に身を委ねつつ、記者にとって絶対不可欠である、自分に都合の悪い場所を検証することを放棄しているのです。

 言い訳をすれば、綾瀬の取材が思ったよりも面白かったのもあります。すくなくともボクシングジムで眼にする尾嵜は、禁欲的に汗を流しているように見えました。いやボクシングはあらゆる人間を物凄く単純にします。三分間、アマチュアでは二分間しかないリング上では、人間は純化します。言うなればそこでは、社会性も人間の過去のすべての経緯も「排除」できます。尾嵜もその事がわかってボクシングジムに通っていたのかも知れません。リングの上で強いかどうかだけが全てになる場所は、過去の経緯を複雑に持つ人間には、恐らく他にはない束の間の幸福を与えるとも言えますから。

 もう時間も過ぎている。懲役も終えている。何より今、尾嵜は努力を重ねて生きている。そう自分に言い聞かせたりもしました。そもそも懲役まで終えた犯罪者を永遠に許さない訳にもいかないはずです。全員を死刑にもできない。ーー思えば浅はかな、ジャーナリズムの末席にもおけぬような自己整理でした。実のところ今言葉を並べて判るのはーー少しの不安があったわたくしはそういう議論の道具を集めて、万が一の御園生先輩との議論で勝てるように対処準備をしていたのです。本当の本質についてはどこかで目を伏せながら、言い訳で武装して綾瀬に通っていたのです。正しく取材すれば矛盾が起きることは知っていました。その証拠にいつまで経っても女子高生事件の調書は読みませんでしたし、裁判記録も追いかけていません。何より、被害者遺族の周辺の情報に意図的に目を伏せていました。それらを集めれば、きっと自分自身もこの企画を進めることはできなくなるであろうことも薄らと予感していたのです。過去の事件の本質を見つめず、ただ、尾嵜という昭和を震撼させた犯罪者、少年Aが人知れず社会復帰しているという異常事態を、少しボクシングなどの色をつけた映像に収めることで、きっと視聴率を取るだろうという編成の指示の受注に甘んじていたのです。そこには報道記者としての見解など何一つなかったのです。



 小笠原さんとは幾度となく飲みました。

 わたくしは綾瀬の取材は少しずつだが進めていると伝えると、

「ほんとうか。さすが軽井澤だな。」

と、素直に喜んでくれました。

「期待してるよ。色んな意味で前向きに考えてもらっていい」

誤解なく言えば、この飲み会と、綾瀬のボクシングの時間が自分の犯罪未遂の全てとも言えます。しかし未遂かどうかはどうでもいい。むしろ未遂でもそういう心を持った時点で人間の罪は始まっているのです。自分には恥ずるべきものがありました。明確に自分だけは人事的に助かろうという保険をかけてもいたし、そのために報道記者としてではなく、視聴率のために自分を動かしていた。視聴率といえば美しく民放では聞こえるかもしれませんが、わたくしが使ったのはバラエティでもスポーツでもなく、殺人事件の周辺の人間の興味本位です。

 結局二年ほどの間、わたくしと小笠原さん、御園生先輩との関係は何も変わりませんでした。

 小笠原さんが酒の席で毎度話したような人事異動はなく、御園生先輩は変わらず報道部門で活躍を続けましたし、わたくしも御園生班で報道記者を続けました。綾瀬の企画については、何かを表向きで語ることもありませんでしたし、小笠原さんに継続して取材していることも言いませんでした。

 仕事の時間が許す時、半分は息抜きの趣味として、残りの半分は個人取材の気分でボクシングジムに通い、二回に一度は会うことになる尾嵜こと元少年Aと、彼の本性を知っていることは隠したままボクシングをしていました。わたしの取材の方針はつまり、一緒のリングに立ち、元殺人犯と、拳を交わす環境から始めて通常では得難い映像を撮ると言うことでした。繰り返しですが報道記者ではなく編成企画を根拠にしてわたくしはジムに通い、幾度となく彼とリングの上でスパーリングを行いました。 

 拳を重ねていく中で多くのことを考えさせられました。相変わらずあのたった一度以外は尾嵜は誰の目も見ませんでした。ただ会話はします。彼も殺人犯である過去を話す訳がありません。お互い自分の本性を語ることなく、ボクシングを通して時間を重ねました。少しずつ近づく尾嵜との距離の中で、どこかで自分の正体を明かし、独占取材をすることはいつでも可能になっているという自負もありました。その切り口は他のどの報道記者も持っていない、独自のものになるでしょうし、取材した映像も視聴率を稼ぎ、編成部からは表彰される類のものになると思われました。

 その頃の自分はーー、自分の狡猾な方針を言語化せずにいました。

 万が一御園生先輩が人事で異動したら、この企画を使おうというくらいに思っていましたが、まだそれを残酷な処世術のひとつだとは意識をしていませんでした。小狡い気持ちで編成に取り込まれて綾瀬に通った、そのことを自分の中で言語化しないでいたのです。言葉にしてノートに書き出せば、自分という人間の悪質さが目で見えてしまうのが分かっていたのだと思います。だから言葉にしなかったのです。

 御園生先輩がこの世界にいなくなったいま、明確にいえます。わたくしは意図的にやっていたのです。報道記者として真実を追求すれば、編成部から嫌われる。そのままではサラリーマンとして危険がある。そういう自分の立ち振る舞いの罪状を隠しつつ、編成のいうことを聞く御園生班員には珍しい存在として、片面では御園生先輩の右腕であると印象付けながら裏では、不器用に真実を無骨に追求する御園生先輩の気持ちを裏切り、社内特に編成に話のわかる人間なのだという立ち振る舞いをしてきた。そういう罪のある処世術のような感覚がそこにあったから、わたくしは御園生先輩に元少年Aの取材の話を一度もしないままでした。そうしてそのまま永遠の別れを迎えるに至ったのです。



4 


 その年の定例株主総会で、柊城役員は執行役員から取締役に出世しました。

 そのお祝いが都内のレストランで半分立食で行われました。報道局の人間や取引関係社が中心に百名以上集まりました。会社主催の会だったのもあり、普段飲みにも行かない柊城役員のお祝いに御園生先輩が顔を出すことになり、わたくしもついていきました。

 御園生先輩とわたくしはかなり遅れ、仕事も忙しいので顔だけを出すという空気で居酒屋に到着しました。繰り返しですが、夜の帯番組が終わるのは二十三時です。会食場に入ったのは深夜の零時を超えていたと思います。

「おそいじゃないか」

衆前での、柊城役員、いや新取締役の最初の言葉はそれでした。

「遊んでたわけじゃない。大事な現場の仕事ですよ。」

御園生先輩はその場でも臆することなく言葉を返し、着席しました。

その後は、お決まりの言い合いでした。酒に酔っていた柊城役員はテーブルを回って歓談をしながら、幾度となく御園生先輩の近くに来ては食ってかかりました。周囲から見ても自分の出世も決まりさらに強気になっているのが分かりました。強気になってる理由は酒だとはいえ自他共に認める出世主義者の柊城役員にとっては取締役への昇任はよほど嬉しかったのだと思います。会自体は深夜ひとしきりしてから柊城新取締役が社用車で帰宅したところで中締めになりました。御園生先輩とわたくしが来て、まだ小一時間でしたが、おそらく夕方から飲んでいた柊城取締役は、御園生先輩がくるのを待って、言いたいことだけ言って帰ったような印象さえありました。


 昇格祝いも終わり、テレビ日本の報道局員は散り散りになっていましたが、御園生先輩は珍しくわたくしを誘って飲み足りない酒を飲むことにしました。

「新取締役も、かなり酔ってましたね」

「まあ、ごきげんだったな。」

「御園生さんに対しては、今日は随分な言い方だったと思いますが。」

わたくしはそんなふうに、御園生先輩の肩を持ったのを思い出します。おそらく、柊城体勢が強くなることはいろいろやりにくくなることを意味します。小笠原さんに言わせればこの後に新取締役になった柊城の考える、現場の人事異動があるぞということです。

「あの人は、報道取材について、どう考えてるんですかね。いつも編成に右に倣えな気がするけど。編成の担当の役員ならわかるけど。」

「どうかな。」

「今回の人事で、編成も報道も両方見るってことですよね。」

「会社の上ってのは、そういうことだろ。」

「でも、どうかと思うことが多いじゃないですか。」

わたくしはそこで酒の勢いで、柊城役員の姿勢を愚痴りました。しかし会社が選んだ取締役ですから、その愚痴が本当に酒の肴にもならないことは分かりつつでした。

「御園生班的にも、やりにくくなったりしたら嫌だなと思うんです。」

その時わたくしは、人事の話題で御園生先輩と二人で少し愚痴りたかったのかもしれません。小笠原さんのいくつかの予言めいた言葉が心のどこかに過るのがわかりました。わたくしは幾度となく嫌悪感のある言葉を重ねました。

 しかしそう言う言葉をいくつか吐いたのにもかかわらず、御園生先輩からの賛同のような相槌はありません。その方面の会話は盛り上がらず、かちりと音を立てる旧式の例のジッポに火をつけて、真っ赤なマルボロをゆっくりと飲み続けるばかりでした。

 そうしてひとしきりした後に、御園生先輩はわたくしのほうに少し体を向けて、

「柊城のやつもやつで、誤解されやすいところもあるけどな。」

と言いました。それらは、わたくしの批判的な発言に対処した言葉だったのですが、少し意外な切り口でした。

「誤解ですか?柊城役員が、誤解されている?」

「ああ。」

「本当ですか?」

わたくしは、少し食い気味に反論のような調子の言葉を返しました。御園生先輩は小さく頷きながら、マルボロをゆっくりと吸って

「軽井澤、いいか。」

「はい」

「俺は人前では喧嘩するけど別にあいつが憎いわけではない。意見交換があればそれでいい。柊城だって、その辺り馬鹿じゃないぞ。そっちのやり口のスペシャリストだ。」

「そうなのですか?」

「ああ。やつと俺が飲みに行ったり、個人的に話したりしたことはあまりないけどな。でもあいつも取締役になって報道も編成も経営する訳だ。そういう状況では、俺みたいな変な輩がいないと逆に困るはずだ。本当の経営者はイエスマンなんていらないからな。」

「どういうことですか?」

わたくしは本当にわからないという声だった。

「ああやって、報道フロアで大声でやり合うのを今お前は心配だって言ってるんだろ。」

今までその場面を繰り返し見てきたわたくしは、意外にも、御園生先輩本人からその言葉を聞くのは初めてでした。わたくしは少し照れました。

「いやまあその。」

「代わりに、営業でよくやるみたいに俺と柊城で小部屋に入って相談してほしいか?」

「いや、そういう意味では。」

「いや、すまん。失礼だったな。営業には営業の小部屋の使い方があるかもしれない。俺は営業のことは知らない。」

「……。」

「編成にも編成のルールがあるだろうしな。俺がそっちのルールに不案内なのはもちろん認める。軽井澤は部門最適って言葉があるのを聞いたことがあるか。会社の経営方針だ。」

「部門の最適?」

「ああ。大きな売り上げを上げる会社ってのは、それぞれの向き合い先が別になるって意味合いだ。それぞれの部門によって民放は向き合い先が全く違うだろう。営業は売り上げを求めてスポンサーと向き合ってる。編成は経営と向き合って視聴率を追いかけている。報道も同じように、視聴者や取材先と向き合って、他局よりも上質な情報を集めて編集しようとしている。」

「それはわかると思います。」

「だとしたら、編成も報道も営業もそのどれが抜けても株式会社テレビ日本が存在できないのもわかるだろう?それぞれの部門がそれぞれの部門で頑張らない限り成立しないって意味だ。どの向き合い先を無視しても、会社は成り立たない。営業にはクライアントがある。編成には視聴率を上げて他局より売れるものを用意する必要がある。そして報道には報道の正義が必要だ。」

御園生先輩から、ここまで明確にスポンサーや編成を配慮するような言葉を聞いたのはその時だけだったと思います。

「だから、それぞれの部門がある。それぞれに正義があっていいと思うんだ。むしろその正義は部門ごとに、真剣に追求されているべきだ。」

「……。」

「それぞれに正義があって、その正義同士でぶつかり合うから健全になる。ぶつかり合うのが社内だっていうのは俺は素晴らしいことだと思ってるんだ。それは最も会社にとって大事な判断だ。だからああ言うふうに、報道フロアで俺はやってるんだ。」

「……。」

「なあ軽井澤。」

「はい」

「報道の正義みたいなことを、密室でやると人間は分からなくなると俺は思うんだ。」

「密室だと、わからなくなる?」

「正義がどこにあるか、がわからなくなるんだ。もっと言えば、俺と柊城の意見が合わないことほど大事なものは俺はないと思うんだ。」

「……。」

「皆んながいるとこでよく議論しないと正義ってのは見えにくい。でも報道の正義ほど重要なものはないんだ。だから柊城も俺も、老耄はその持論や議論をこれからの人間にも見せて行くべきだと思う。そうすることで人も育つし、何を議論すべきなのか、どの正義に命がかかっているかが伝わるはずだ。ああいう議論は広場でちゃんとやると、人間は意外に間違えないんだよ。でも密室でやると逆に向かう。これは人間の謎だ。」

「……。」

「意見が複数あって良いんだ。部門ごとに求めるものは違う。大きな売り上げを上げる会社はある程度はそうなる。それぞれが絶対に譲れない事情を持つのを曲げなくていい。それをぶつけ合えば良い。ぶつけ合っているうちは会社は成立している。俺と、柊城は意見が合わない。あいつは会社の売り上げも担当する取締役になりたかった訳だ。俺は取材先と向き合い、報道として何を世の中に伝えるかが仕事だ。意見が合わないのは当然だ。それでいいじゃねえか。意見が合いだしたら気持ち悪いと思わないか?あいつが自分の意見に従うイエスマンを集め出すだけの人間ならとっくに俺は報道にいないさ。」



 新取締役が就任した後、編成の小笠原さんからまた夜の誘いがありました。

 小笠原さんは明らかに雰囲気が変わりました。これまで御園生班への気遣いの用のものが薄まっているのが口調にも出ていました。

「例の件すすんでいるかな?」

「すすんでいる?」

「おいおい。わかるよな。編成企画の件だよ。」

「いや、その取材作業の合間で良い、という話でしたよね。」

「軽井澤、わかってないな。状況は変わっているんだぜ。」

「どういうところが、わかっていないのですか?」

わたくしは少し照れたようにそう言いました。

「柊城取締役、だからな。」

「でも。」

「いよいよ報道にも人事がくる。だいぶ時間は経ったけど時間の問題だよ。今年はまだ様子見るかもだが、来年はしっかりやる。」

「そうなんですか」

「間違い無いだろうな。」

どこかでわたくしは、小笠原さんの言う人事に恐怖しました。会社の駒として営業にいた時のことも思い出しました、御園生先輩の下で働いてきた時間は本当に理想的で、報道的な正義を追求していればそれでよかった。でも記者である御園生先輩が人事で地方局やそれこそ営業に異動で出されるとなると、状況はかなり変わるはずです。自分はおそらく、いる場所がなくなります。それらを勘案して小笠原さんは言っていました。まさに人事ということです。

「そうですか。」

「そういうことさ。」

わたくしは例によって自分の中を言語化せずに、ただ、言葉がないので酒を煽りました。思えば小笠原さんとの居酒屋での酒が増えていたと思います。酒を飲むことで自分の矛盾を誤魔化そうとしていたのかもしれません。

「ではーー。」

「うむ。」

「それでは、少し時間をかけます。実は、元少年と同じ綾瀬のボクシングジムは、まだ通い続けてるんです。」

「そうなのか。まだ動いてはいたのか。」

「はい。」

「そういうネタをお前なりに持っていれば、編成も応援しやすい。独立して軽井澤班を作ればいいわけだ。」

小笠原さんはそう言って日本酒を煽りました。絶妙に御園生先輩と自分が言い合ったその日に誘いがあるのは以前とかわらずでしたから、その日も少し御園生先輩とは意見の齟齬がありました。逆に小笠原さんの言葉は少し甘く自分の胸に刺さるようでした。

「報道部軽井澤班。悪くない響きだろう?」

「そうですかね」

「いいか軽井澤。社会人は、人事的生命力も大事だぜ。」

四人の子供を育てる小笠原さんは彼本来の生命力を感じさせる強い声で言葉を続けました。

「御園生さんみたく正義と理想で飯が食えれば、それに越したことはないけどな。俺にはそんなのできないね。会社なんだから。」

わたくしは、綾瀬の取材を引き続き続けることを約束し、それがきっと面白いものになることも説明しました。ただ、御園生先輩には自分からちゃんというので、逆流はしないでくれという姑息な手順だけ確認してその日の帰路につきました。

 記憶では、小笠原さんと話したのはそれが最後だったかと思います。

 わたくしにとって前職での後悔というのはここまでのことです。その時の自分の判断と、その後の行動を、どう評価するか、というのは世間的にも社会的にも色々な可能性があるかもしれません。しかしわたくしと御園生先輩の間にあった時間と、その時に犯した致命的な仲間への裏切りにはどこまで行っても何一つとして救いがないのです。罰(ばち)が当たるのは当然でしょう。いま、自分自身をどう思うかということで言えば、その時の自分の判断ほど欲深く軽蔑に値し薄気味悪いものはありません。自分だけ助かる船を確保して、長年の仲間を海に投げ捨てること。毒の飲み物をどれか知っていて、仲間に毒を勧めること。そういうことをわたくしは小笠原さんに提案したのです。


5

 それはわたくしが、娘の誕生日で、とある休みを申し出た時でした。記者に休みなどないと言うくせに、御園生先輩は、あの当時から彼らしい一貫性や先見性で、部下の家族とのプライベートの時間には配慮がありました。

「そうか、軽井澤のとこのお嬢さんは幾つになった。せっかくだから、当日はゆっくり休めよ。その代わり、前日はお祝いを渡したいから、仕事終わりに俺に付き合わないか?」

二十三時のニュース終わりにまた麻布十番のはずれのいつものバーに行くと、カウンターにはワインレッドのリボンをつけた、ぬいぐるみの贈り物がありました。

「仕事は無事終わったか?急に悪かったな。」

休み慣れてない私は翌日に向けていくつかの仕事をまとめることになり、結果、御園生先輩よりその店に到着するのが遅れてしまいました。

「紗智ちゃんだったよな。おめでとう。」

誕生日のお祝いをいただいた流れで、その日は自然と家族だとか娘とか息子の可愛らしさについての話題になりました。恐ろしく忙しく仕事をしていてもやっぱり家族は良いものだという御園生さんの言葉が今も残っています。ぬいぐるみはくまのぬいぐるみで、どこにこんなものを買うセンスがあるのかと微笑ましく思いながら、いつになく長閑な会話を始めたのを覚えています。

 思えば、御園生さんはその日は最初から、ゆっくりと二人でする最後の会話になることに定めていたのです。鷹揚なわたくしは御園生さんの深い決意や配慮を気にしていませんでした。いつもの通りの会話をいつもの通りにすることしかできませんでした。

 会話の冒頭の記憶はうろ覚えですが、途中で

「お前は俺のせいで社内、敵ばかり増やしちまったよな。そういえば、その点は、この通り、ちゃんと謝りたくてな。」

と突然御園生さんは言いました。

「どうしたんですか?」

「いや、なんでもないけどな。」

「まあ、民放だからしょうがねえよな。売れなきゃ、どんな本書いても死んだ後に売れてじゃ、子供を育てて生活なんて、できんわな。」

「どうしたんですか」

「まあ、良いんだよ。」

その後、なぜか、好きな花の話をしたのです。自分は特に花を定めてはいないかなあ、と言う話をして、その中であえていえば、花見が好きで、東京は意外と桜の咲く季節が一番好きだというと、

「偶然だな。もっと早く話しておけばよかった。」

「どう言う意味ですか?」

「俺は一番好きな花が、桜なんだ。」

「そうですか。」

わたくしは当時は、そこまで桜に思い入れなどありませんでしたが、御園生先輩は、

「なんだか、冬には葉っぱも全部落として木の枝だけになるだろう。必要とされる時だけ大胆になってさ。この辺りを歩いていても、桜の時期以外はほとんど存在さえ感じない。でも一年に一度だけ必ず満開になる。人間に春を知らせる。なんだかそれが好きでな。」

「……。」

「軽井澤のところはお嬢さんか。娘、というのは本当に可愛いだろうな。うちは男だけだったからな。」

そうして、遠くをじいっと見つめていた御園生先輩は、突然、何かが乗り移ったように、言葉を繋ぎ始めました

「つまらん話をしてもいいか?」


 実は、この大事な話の時に、わたくしは少し別のことに鳥肌を立てていました。それは、小笠原さんに編成企画を持ち込まれ御園生先輩に報告なく動いてきたことについて、どこかで詰問されるのではないか、という不安でした。自分が独自取材を始めている尾嵜との時間や取材が編成部から漏れていたらと思ったのです。それを突然ここで御園生先輩から直に言われれば自分は立つ瀬がありません。御園生さんの表情は明らかにそれまでの長閑さを失っていて、さも言いずらいであろうことを決意して喋ろうとしていました。

「つまらん話をしていいか?」

という前置きがまさにそのことを予感させるものでした。わたくしは心の中で、どういう言い訳をいうべきかなどを必死に考えつつ、知らないふりをする演技も忘れまいと必死に取り繕いを行っておりました。

 その日にわたくしに語った内容と、おそらくあえて言葉にしなかった内容との両方に溢れていたのは、御園生先輩の優しさでした。御園生さんの人間への愛こそがわたくしのそう言う狡猾な全てを包み、そしてこの日の言葉を結集させたのだと思います。今思えばあの時はすでに御園生先輩は自分の覚悟も決めていたのだと思います。その中で後輩たるわたくしや多くの人間たちへの愛情を、集め用意してくれていたのです。わたくしの一人娘の誕生日を語るうちに、偶然話がそうなったのではないのです。実は死を覚悟していた御園生先輩は、誕生祝いという弾幕で隠しながら、どこかで言おうとしてきたことを、自分は知ったぞという生々しい言葉にせずに、後日への気づきも配慮する中で丁寧に包んで置いたのです。おそらく、わたくしの小笠原や編成との動きや尾嵜の取材も全て知っててあえて触れないことが死を前にした御園生先輩の優しさだったのだと思います。

 御園生先輩と酒を飲んだのはこの日が最後になりました。

 しかも思えば、酒を良く飲む御園生先輩がほとんど酒を口につけていなかったのです。末期癌で体調も良くなかったにも関わらずその話題にも触れず、おそらく自分の最期を目の前にして、自分とは違う生きる道へ向かう後輩の気持ちも最大限に尊重しながら、このわたくしという不束者に、愛情を持ってただただ最後まで接してくれた。それが御園生先輩という偉大な人間でした。





「…俺がまだまだ若かった頃だ。今のお前のように経験を積む以前、大学を出てすぐの頃だ。新卒で報道に入った俺は、とある事件のーー娘さんを誘拐された父親さんに関わることになった。関わることになったというか、自分なりに独自取材を試みて色々もがいている頃が記者稼業の最初には誰でもあるだろう。俺はとにかくまだ駆け出しの小僧だった。でも、小僧なりに記者としての気持ちや理想は今以上に持っていて、必死にテレビ日本の報道という世界で勝ちたいとおもっていた。もちろん新卒の若造だ。人脈など何もないし、先輩より先に事件現場に駆けつける情報網も何もなかった。だから、新聞の地味な未解決事件を細かく調べて映像記事として意味があるものを探し、自分なりに独自取材を重ねていた。そこで出会った幾つかの取材先の一つが、父親ーー娘さんが行方不明になった父親だった。

 父親、いやお父さんはいい人だった。実の娘がそんな誘拐の事件に巻き込まれたようだ、と言うのに、わざわざ俺に茶を出して座布団まで出して毎回対応してくれた。古き良き日本人だろう。こんな若造の俺にも敬語だった。素敵な、日本人の標準的な人が持っていたあの敬語だよ。埼玉から東京に通う、真面目なサラリーマンだった。

 もちろん、お父さんは会社勤めだから多忙だ。でも週末や早く帰れる平日はほとんどずっと、食事もそこそこに駅前でビラを配ったり、警察署を回ったりしていた。娘さんを失うっていうのがどんな状況になるか、軽井澤も娘さんがいてわかると思うが、尋常な精神状態じゃない。そういう状況のお父さんと俺は出会った。出会ってからもちろん、お父さんの娘さんが見つかるようにといろいろな協力を始めた。それは当然の自分の良心などあったかもしれないし、記者としても報道の力で娘さんを見つけ出せるのではないかと思ったりもしていた。

 実は娘さんが行方不明になってから、警察の捜査は全然進まなかったんだ。これには少し理由というか今となれば言い訳に過ぎないけども事情があった。

 昭和天皇が崩御をされた昭和六十四年の正月って言ってもわかりずらいかもしれない。娘さんが家に帰らなくなったのはその正月の手前の冬の初めだった。世の中では昭和天皇の危篤の報道が続きーーと言っても伝わらないだろうな。昭和天皇、まあ六十四年続いた昭和の時代の天皇陛下なんだが、その昭和の最初が第二次世界大戦で、戦争の時代だったのも知ってるだろう。もっといえば戦前は神様だったとか色々ある。つまり俺たちの父親やその上の世代には神様だった人だ。その天皇陛下がどうやらやはり人間で、体調が悪く危篤だという報道がその秋に始まった。皇居の前には毎日のように何万人という人間が記帳に並んだようなそういう時だった。すでに亡くなってるんではないかというデマを流す人間もいたり、まだ生きてるのにエックスデーも語られ始めるようなとにかく情勢の落ち着かない頃だった。まさにその正月を迎える二ヶ月ほど前に、埼玉でお父さんの娘さんの女子高生が誘拐され、行方不明になったんだ。そういう時代の混乱の中だった。

 俺がそのお父さんに取材を最初にしたのは、まさにそういう昭和の最後のゴタゴタの頃だった。初めてお父さんに会いに行ったのが十二月十日だった。それから毎週末は埼玉のお父さんに会いに行った。一緒にビラも配った。自分の中では報道で取り上げてもらうためにデスクに上げる企画書を書き込んでいた。テレビで報道すればまた違うはずだ。今以上にテレビの力が絶大だった時代だ。そういう準備と取材をまとめ、俺は年明け早々に企画書をデスクにプレゼンするつもりだった。その年の瀬も企画書を書きながら、お父さんと一緒にビラ配りをしていた。


*警察は誘拐されて監禁された時間が一ヵ月もあったにもかかわらずその女子高生にたどり着くことができなかった。けども俺はそれだけが理由ではないと思う。  



 ところがその年明けの七日に昭和天皇が亡くなった。

 報道部はそれどころではなくなった。

 ご存知の通り、レギュラー番組は全て休止、広告も全て休止、NHK以下全局が昭和が終わったという報道特別番組に切り替わった。官房長官が新しい元号を発表するだとか、昭和天皇の亡くなるのを死去ではなくて崩御と表現するとか、二月まで待って行う葬送は大葬の礼だとか、それまで知りもしない言葉が報道フロアで飛び交った。そもそも天皇陛下が死ぬなんて事は六十四年ぶりだったわけだ。昭和六十四年が平成元年。そのことだって知らない人ばかりだ。みんな、報道の大先輩達も誰も経験がないんだ。そもそもそれが民放が始まる前の、つまり民放始まって以来初めてのことだったんだ。わかるだろう。大正時代が終わって昭和が始まった時はテレビはまだない。とにかく初めてのことばかりで大変そうだった。世の中は埼玉で娘が失踪したお父さんのことなど知りもしない。ただ誰もが言葉の説明と時代の混乱と、多忙の合間に過ぎ去ってゆく昭和を感傷していた、報道する側も皇居を守る警察も含め脳内はそれだけになっていた、というのが俺の見立てだ。繰り返しだが、昭和天皇が崩御されたのは年明けの一月七日だった。俺はこの日にちを忘れられないままだ。

 まあ軽井澤も予想できるかもしれんが、記者になったばかりだというのに俺は既に明確にその改元の空気が好きじゃなかったんだ。もっと言えば秋からの天皇陛下のご病状ばかり懸念する頃から嫌だった。そんな歴史とか言葉の確認なんてどうでもいい。それより目の前に起きている事件や実際の問題の方に常に目が行ってしまうのが俺の性分だ。昭和が終わっても殺人事件がなくなるわけではない。誘拐事件は誘拐のままだ。まだ新人で今のようには持論までは打たなかったが、今と似たような反骨の気持ちを既に持っていた。だから自分なりに上層部が見ていない事件を探していて、この埼玉の女子高生失踪を含めたいくつかの事件を独自に取材に力を入れてたとも言える。まあ当時から自分はそういう組織に面倒な人間だった。

 まあそういう上層部的な報道に寄ってる時代だった。若手記者としては時間に少し余裕がでる。そのお父さんに取材にというか、俺はとにかくそういう人の通っていない事件の現場に通った。通うことでテレビが昭和の終わりに奔走して見失っている事実に近づこうとした。正直、今言ったように警察だって足元浮かれていて、皇居の方ばかり見ていた。まあ皇居前に何万人って人が記帳に並んでいたからな。そっちの警備もまあ、尋常ではなかったとは思うけども、埼玉の女子高生の行方不明はすでに事件なわけだ。そっちにもちゃんと捜査人員を配置しても良いのに、あの時明らかに警察署を回って頭を下げても殆ど対応はなかった。小市民の命の相談が交番から先に何も進まなかったんだよ。例によって家出のケースが結構あるとの一点張りだった。

 そもそも彼女は家出などするような女子高生じゃないんだ。親と喧嘩なんかしていないし、駆け落ちするような相手もいない。だから、きっと不良少年か何かに誘拐か何か事件に巻き込まれたかもしれないという直感を俺は持った。こういう性格だろう。取材しながら犯人にたどり着く何か情報があれば自分でも突破してやろうと思ってたりもしたわけさ。まだ若かったから、警察にも負けないつもりだった。警察署にも行ったけれども、やっぱりほとんどの警察官は、皇居周りの仕事にかり出されていて、手が回ってなかった。だったらーーテレビの報道記者が真犯人を捕まえてやろうって意気込んでいたってわけだ。

 だからと言うわけではないが、俺はおそらくお父さんに誰よりも信用を得た。一番の相談相手になったし、とにかく昭和天皇周りの報道特集が収まり次第、テレビニュースで人探しの告知もしてあげるつもりでいた。いや自分の若さなど気にせずに報道特番中だけども、一般ニュースの中に死ぬ気で通せば企画は通ったかもしれなかった。年末、忙しさを理由に徹夜をして書けばいいのに年明けにしようと自分で勝手に定めたことが俺の永遠の後悔となるとは思いもしない。

 この俺がお父さんと出会った時は、お父さんは何らかの形で娘さんが帰ってくることを当然望んでいたし信じて疑っていなかったはずだ。俺も楽観視することも大事だとも思っていた。家出少女が一ヶ月して戻ることなんてのはよくあるはずだ。

 お父さんとは幾度も話した。お父さんの勤め先の近くの喫茶店で会うこともあった。いつもは楽観的に前向きにいようとするお父さんだけども、話題の方角によっては、涙を滲ませたり、すいませんと、言いながら背中を震わせてうずくまって咽び泣くこともあったんだ。俺は、その震えるお父さんの頭のつむじをまだ忘れられない。こんな若造を前に頭を下げて震えて、涙をこらえるような人じゃないんだ。そういう人をそうさせる。俺はもし誘拐ならば絶対に許せないと思った。いつしか俺はお父さんの仲間になっていた。なんとしても娘さんを取り戻してあげたい一心だった。

 お父さんも俺に対しては心を開いてくれてなんでもしゃべってくれた。素敵な人格者だったよ。いや言葉を恐れずに言えば日本のあらゆる場所にしばしばいてくれる本当に模範的で、それでいて標準的な日本の男性の一人だった思う。この国は、こういう誇り高い市井の人たちに支えられてるとおもった。みんな我慢強い。美しいほどに耐えている。

 しかし娘さんは見つからなかった。

 お父さんにとってはその日々が地獄だったのは言うまでもない。


 そうして一月と二月はあっという間に過ぎた。二月の末ころに昭和天皇が墓所まで向かう大喪の礼が終わるまでそういう混乱だったと思う。世の中にその間に他の事件がないわけではない。だがその時期に通常の報道などは簡単ではなかった。まずは昭和に関するものが優先だったし、もちろん実際に皇居に何万人と記帳に並ぶ日本の国民のほとんどが六十四年ぶりの年号の改元と、日本という国のーー昭和天皇が現人神であった戦前から、敗戦、そして占領から復興、高度経済成長に至ったーー昭和という時代を幾度も映像で振り返るのに精一杯だった、そういう二ヶ月だったのだと思う。

 俺はますます、埼玉に通う時間を増やした。家出ではない。誘拐だ。だとすると誰が?噂では類似した誘拐事件、誘拐未遂事件が、悪評のある暴走族の周辺で起きているという。実際暴走族を始めとする不良少年が高度経済成長する日本の反作用のように市街地周辺に増えていた。そういう少年らのアジトなどに俺は取材を試み始めていた。実際に埼玉やJRの駅などで取材も行った。暴走族周辺に取材を組んで、その企画を通そうと俺は思った。実際に、いつまでも天皇陛下の報道をし続けるだけでは困るため少しずつ、レギュラー番組も復帰していた。大喪の礼が終わる予定を目指して、俺は暴走族の取材企画を狙ってそれをデスクに懇願し始めた。俺がそんな奇妙な取材をまあまあの熱量と情報量でやっていることがデスクや上に伝わり出したのはその時だった。そして俺はもちろんその暴走族の取材の中で、その先に彼らの誘拐事件、監禁事件などを暴こうという裏目的を持っていた。暴走族にはテレビ日本の取材ということで少しずつ上層部の人間を遡り始めようとして、そうして三月になった。


 三月になって、事件は急展開をした。

 ひとつの理由として、二月までかかった大喪の礼が終わり、昭和の報道にも飽きた世の中が次のことを求め出すのがちょうどこの三月だったと言ってもいい。警察ももしかすると、皇居に駆り出されるのも終わったので、仕事の溜まった捜査現場に戻ったのかもしれない。本来そんな理由だとすれば許し難いことだけども、三月になってお父さんの娘さんのことが急展開したのは本当だった。

 俺はといえば、年明けの昭和天皇の崩御で企画書を通す作業を止めてしまっていた。だから遅ればせながら企画を通そうともう一度躍起になっていた。実際に少しずついくつかの事実に近づき始めていた、そんな時に、事件が急展開した。

 自分にとって、それは青天の霹靂だった。

 突然、容疑者らが、捕まったのだ。

 それまで事件としても扱っていなかった警察が突然この件に忙しく対処することになった。なんでも別件で逮捕されていた暴走族の少年らが、お父さんの娘さんについての監禁の供述を始めたというのだ。

 その供述は、目を覆うくらい悲惨なもの、悪夢そのものだったと言って良い。軽井澤、今ここで話させるのは勘弁してくれ。とにかく、容疑者がゲロったと聞いて、あの時所轄の警察署に俺は飛び込んだ。だが、一切その情報は得られなかった。というのも容疑者はすでに別件で捕まっていた不良少年で、未成年なんだ。別件の取り調べの中でその事件への関与を供述したというものだったが、当時はまだ報道関係で、未成年の名前は御法度だった。その供述は当初、娘さんを拉致し監禁していたというものだった。

 報道は一気に動き始めた。昭和が終わり、平成が始まっていた。二月に大喪の礼が終わった三月だ。年号の仕事が終わり、日常が始まり直している。報道フロアは昭和のことなど忘れてしまったようにまた激務を始めた。警察の情報では、どうやら容疑は間違いない。三ヶ月前に女子高生を拉致したと、別件で逮捕された容疑者が供述を開始しているらしい。どんな奴がと、聞いていくうちに、もともと最初から噂であった不良メンバーの仕業だったことが判ってきた。まさに俺が取材を仕掛けようとしていた奴らだ。いや最初から、お父さんも俺も怪しいと睨んでいた、綾瀬や埼玉界隈に屯する暴走族の人間たちだ。だから言ったじゃないか、と警察署で俺は不満を息巻いたが、時すでに遅しだ。むしろテレビ日本だけの取材ではなかった。警察署で犯人が供述を始めていた段階で、もう、それは悲劇を未然に防ぐ場面ではない。悲劇は起きてしまったのだ。多くの報道記者は事件の解決のためではなく、実際に起きてしまった凄惨な事件の取材のために警察署に集結していた。そうだ。誘拐監禁事件ですまなかった。娘さんは無惨にも殺されていた。そうして死体を若洲の埋立地にコンクリート詰めにされて埋められたのだ。事件は誘拐事件ではなかった。誘拐殺人死体遺棄事件、だった。

 俺は、驚きとともに、銃弾のような勢いの何かが頭に突き刺さるのを感じた。それは、もはや戦友のようになって帰りを待っていたお父さんとの間で、目指してきた約束が消えてしまった、この世から神様が消えてしまったような衝撃だった。戦争で頼むから生きて帰ってきてくれと信じた自分の子供が、何の説明も会話もなく、何段階も飛んで、お骨にもならずにテレビを通してニュースで、「あなたの子は死にました」と言われたようなことだ。

 しかし、戦争ならまだ、名誉の戦士か、くだらないが少しは美しく聞こえる話はあるか、もしくは息子の最後の場面の苦しみを知らずに済む。太平洋の彼方で命を失った息子の、餓死か拷問か墜落かも知らず、ほんとうの苦しみは見ないで済むかもしれない。ただ天皇陛下万歳と言って名誉に死んだ息子のいる天国を見つめられるかもしれない。

 お父さんはそうはならなかった。

 むしろ死亡の確認から最悪の事実は遡り始めた。

 拉致から何があったか?

 娘さんが彼らに何をされたか?

 男たちは何をしたか?

 今俺がここで口にもできないような内容が、詳細に一言一言、まるで無神経にメディアは警察から取材して開示をし始めた。挙句裁判でも繰り返された。


 事件は耐えられないどころではない。この世で人間のできることじゃない。どんなことがあっても許されないことを、そう言う地獄絵図だ。そしてそれらの供述を全てテレビ局が先を競って放送した。とんでもない事件だと怒りながら、その合間にCMも流して売り上げを上げながらだ。

 テレビ日本の社員としてそれは悲しいなんてものじゃない。テレビの力、報道の力で事件を救えた可能性のある俺が、今度は、殺されてしまった娘さんの報道もされたくない情報を、垂れ流すわけだ。


 軽井澤聞いてくれ。

 俺は今、天皇陛下が亡くなったのは一月七日だと言ったよな?

 お父さんの娘さんは一月の四日に亡くなったんだ。

 行方不明事件は十二月に起きた。その日に拉致が行われた。そうして娘さんが事絶えたのは、一月の四日だ。昭和天皇が亡くなったのは一月七日。俺が企画書を書いていたのはその年末なんだよ。行方不明の娘さんの手がかりを全国放送で告知することを含めた、全国の行方不明の人間に関する取材企画を、デスクにどう言えばいいか所詮社内の手順を迷いながら企画書に文字を並べていたのがその年末なんだ。

 俺がもし、企画書を通していればーー新人だからとかいう自分に甘えた言い訳もせずに無理にでも通していれば、娘さんの状況は変わったかもしれない。世の中の報道になりふり構わず、会社を挙げて取材をさせていたなら、娘さんの命は救われていたかもしれないんだ。昭和天皇が亡くなる前であればーー。


 事実はその真逆になった。テレビがやったのは実家の周辺の映像からご近所のインタビュー、なにからなにまで撮りたい放題に重ねてだ。すべて、お父さんになんの許可も得ず伺いも立てずにだ。俺は、幾度も訪ねていたお父さんのあの声をふるわせてうずくまって号泣する背中と「つむじ」を思い出さずにはいられない。こんな伝えられかたないじゃないか。テレビで突然、行方不明の娘が実は殺されていたとかが伝えられる。犯人は別件の強姦で供述したという。当時は異臭騒ぎで問題になっていた埋立地に遺体をコンクリート詰めにして埋めた。そんなことまで、全ては、テレビの画面からお父さんに何の事前の手順もなく伝わったんだ。


  


 以上が、最悪の話だ。

 この時点ですでに最悪だった。ただ、さらにそれよりも悪くすることが、もうひとつ生じた。それはこの俺という人間がこの世に存在したせいで発生したものだ。

 俺が、記者として変わったやつで、この全放送局が注目する事件の遺族に既に通っていたことは報道部内で噂になっていた。会社の上層部からも、実は俺みたいな若手が、この遺族の父親とかなりしっかり取材ができていることを讃え、会社の誇りだと語られることもあった。この仕事に関しては他の同期より評価で前に出た気がしていた。言葉悪く言えば少しだけ記者としては横並びより杭として出た感覚だ。勿論事件を未然に防げなかった自責の念は強かったけども、多分俺は若かった。だから、当時の報道デスク長からわざわざご指名で呼ばれたときは心のどこかでは嬉しかったんだ。事件の結果は許せるものでは無かったし、自分が出来なかったことに対する後悔もあったけども、逆に報道記者の作業として足繁く通って作った自分の世界については先輩含め他の記者たちには何も負けていない、と思っていた。

 デスク長はベタ褒めだった。よくやった。会社の上層部も非常に喜んでいる、と繰り返した。そうして当然、具体的にはどういう取材があったのかとか事件との時系列だとか、過去に遡る内容を確認してきた。デスク長としてはもちろんテレビ日本の社員として通った訳だから成果物があるだろうな、という言い方だ。

 そんなものはあるに決まっている。元々俺は行方不明の娘さんの告知を全国ネットの企画で通そうとしていたのだ。撮影もしているし新聞記事にしても恥ずかしくない形で言葉も書いている。だから、オフレコと言う前提だったけれども、自分なりにデスク長を信じて、これまであったことを時系列の順に年末からぜんぶ、お父さんと過ごした時間や会話してきた文脈を話したんだ。

 それは、今思えば編成的には最高の取材内容だった。各放送局がとくダネを何としても取りたい一大事件報道が目の前に発生している。取材ができない被害者の父親がいる。できないというより、悲劇が生じ恐ろしい現実が次々と暴かれる中で、もはや平常ではなくなっている、その状況に放送局の記者が押し寄せてカメラで映像を追いかけ続けていた対象があのお父さんだった。軽井澤、今俺がここで事件の内容を話すのは勘弁してくれと言っただろう。そういう事件だったんだ。その当事者のお父さんが、事件のお葬式も終わらぬ直後に、何でも話せる言葉があると思うかーー。

 俺がデスク長に用意できた映像は、無言で涙を流すだけしかできない女子高生のお父さんの完全な独占スクープに結果としてなっていた訳だ。

「まだ娘が家に帰ってくると思っています。」

「毎日それを待っています。」

そういう悲劇をまだ知らない場所で語られたお父さんの映像がいくつもあった。当然それらは編集的に悲劇の前後で印象がいくらでも作れる。インパクトのある映像がだれでも編集用意のしやすい素材なのがわかった。加えてノートには三冊近く膨大な量の会話が俺の筆記で記録されていた。

 お父さんの映像の価値が高かったのは言うまでもないだろう。事件の後になってからはもう二度と見せることのない笑顔がそこにはあったんだ。天国と地獄。そういう言葉遊びだよ。でも言葉遊びは視聴率を取るんだ。

 言い訳になど一切ならないが、俺は若かった。報道デスク長を信じきっていた。いや報道デスクのような人間はあの頃、そういう判断をちゃんとしてくれる人間だと頭から思い込んでいた。まさか自分の手柄のために何かを見失ったりする大人が会社にいるなんて想像もしなかった。俺は、自分の三ヶ月かけた仕事をさらに褒めてもらえる可能性をいいことに、そのノートや録画をそのまま上司に渡したんだ。もちろん、何を放送するかはこの俺に相談をすると信じて、だ。当たり前じゃないか、あのお父さんがどういう精神状態にあり、どういう悲しみのどん底にあり、もしかしたら明日自殺してしまうかもしれないほどの状態にある中で、お父さんに関わる映像やそのノートを、取材者である俺の許可もなく使ったりすることなんてあると思えないじゃないか!


・・・


 デスク長は俺のビデオテープを役員とも話したい、お前の手柄をちゃんと説明したいから、とだけ言って借りていった。そして、忘れもしないその夜だ。その夜のトップから、そのまま俺に相談もせずに報道番組の中で使ったんだ。いや、報道だけではない。全社的な展開もさせた。ワイドショーでしつこく、編集も色々な形で煽りながら勝手に使わせた。その映像が流れるたびに視聴率が分単位で上がったからだ。そうだ。軽井澤。人間は人間の最悪な状況を見たいんだよ。そういう映像で視聴率が取れて俺たちはボーナス金一封が貰えるんだ。表向きは俺は社内で表彰ものだとか色々上層部は語ったけども、お父さんと三ヶ月向き合ってきた取材記者はその時死んだんだ。人間として悪魔以下の最低なものになった。それを守るのが最低限の常識だ。どう考えても俺ほど最低な人間はいなかったはずだ。

 しかし裏切りは、それだけでは終わらなかった。

 誘拐されて事件が明るみになり途轍もない事件の内容までテレビが勝手に報じ、やがて自分の娘の、変わり果てた姿に対面したお父さんに向けて、上層部は平然と、追加の独占映像を撮ってこいと言い出した。世の中が昭和とか平成だとか言っているときに、たったひとりで埼玉の家までお父さんに会いに行って重ねてきた取材の時間があるならば、お前はきっとその父親にさらにスクープが聞けるだろうとそういう上層部の意向があった。会えないなら、葬式の合間でも映像をとってくるんだ、取締役報道局長が、新人のお前に期待しているんだぞ、という言い方だった。そうだ。会社にはそういう、誰か上層部が期待しているぞ、という言い方を使う奴は常にいるんだ。

 お父さんに会わせる顔なんてない。会ってくれることもないだろう。いや、どの面を下げて何を話せと言うんだ。俺は勝手に撮影した映像を使って金を稼ぐ悪魔なんだぞ。一連の事前取材が使われたことのお詫びさえできていない状態じゃないか。犯人を捕まえるため、娘さんを取り戻すため、と言って、俺はお父さんと向き合ってきたんだ。その中では幾度も、メディアのあり方について語ってきた。メディアとしてテレビ日本の御園生として俺はお父さんの味方をしたいと繰り返してきた。なんとしても娘さんをこの手で取り戻そうと話してきた。言ってることがあべこべじゃないか。

 埼玉のあの家では、何日もの間、多くの報道カメラマンが道路を塞いで脚立を囲み、上野動物園のパンダの檻を囲むような異様な状態を作り出していた。家から一歩も出ることができない状態で、誰かが買いものに行くだけでも大勢の記者がハイエナのようにどこまでも追いかける。そんな状態で俺だけが話をするなんてことができるわけがない。そもそも俺はもうこの件で会社に映像や取材物を用意する気はもうなくなっていた。取材現場でも放心して何もできないままだった。ただお父さんを搾取して使った映像を用意した若手として、対して仕事もせずにその場でぼんやりしていることを許されていたようなものだ。

 そうして娘さんの葬儀が、多くの事情があってようやく執り行われた。

 お父さんに取材は絶対にできないし、できなかったと会社には言おうと決めて、葬儀にだけ行くことにしたんだ。

 おれは娘さんの遺影など見れなかった。人殺し、と言われている気が今もしている。なぜ助けてくれなかったんだ。なぜテレビの力で救ってくれなかったんだ。そう言われている気が今もしている。目を伏せてそうして遺族席を通って挨拶をしようとした時だった。当然ご遺族代表としてそこにいるであろう、お父さんを探した。

 あの幾度も話をした家の玄関の横にお父さんが俯いて屹立しているのを見た時、俺は緊張をしたまま声も出ぬままお父さんの方に近づいた。そして、お父さんと目が合った。

 軽井沢、教えてやろうか、人間にとって一番恐ろしいものが何かを。

 俺は、未だそれを自分の言葉で表現が出来ない。ただお父さんは、冷たいどこまでも冷たい、人間のいる世界を諦め終わってしまった表情をしていた。怒りも恨みも通り超えて、あらゆるものとはもう二度と関わらないと決め切った、永遠に閉じてしまった心。それが俺と言う最悪最低の人間をお父さんが視界に入れたときの姿そのものだった。俺という悪魔のせいで、かつての温かい心が何も無くなってしまった、氷のような憎悪がそこにあったーー。俺はその時知った。一人の善人の心を滅茶苦茶にすることほど、恐ろしい人間の罪はないのだ。それは悪魔などという言葉より余程恐ろしく網膜に消えぬものだ。いや、俺の感じた事はどうでもよい。事実として俺がこの世に存在したばかりに、、一人の人間がああいう表情に変わってしまったんだ。軽井澤。その時のお父さんを俺は毎晩忘れられないんだよ。忘れることができない。全く忘れられないんだよ。


六 石原里美巡査  


 令和島を出て南青山にある軽井澤探偵通信社の御園生氏と合流したとき、私石原は銭谷警部補の指示に従い、大手町二重橋に自社ビルを構えるX重工にむかった。その会長である江戸島氏に面会をするためである。

 じつは私石原は別の意味で驚いていた。

 なぜなら四日前の九月十一日の朝、同じく大手町二重橋で地下鉄を突然降りた太刀川龍一が向かった面会相手は<江戸島>という耳慣れない名前のX重工の会長だったのである。つまり、予期もしないところで唐突に太刀川龍一が絡んできたのだ。

 私石原はX重工の江戸島という未だ知らぬ人物のことを思う前に、むしろこの一連の令和島の殺人事件に太刀川龍一という存在が加わったことが混乱となっていた。令和島に我々を仕向けたのは、金石元警部補の可能性が高い。その金石元警部補が警視庁捜査二課時代に銭谷警部補と一緒に追っていた事件が太刀川龍一の関係する事件群であった。いま、令和島で三名もの死体を発見し、その関係者に会おうとしている状況で、全く別の角度から太刀川龍一という名前が入り込んできたのである。

 そもそも令和島の事件には違和感しかない。

 三人もの人間が殺された。その殺人に関係する奇妙な探偵ーー何かを守ろうとして冤罪までを覚悟する不思議な人間がいた。その軽井澤と名乗る探偵が突然名指しをしたのが東証一部の大企業の会長である。部下の若手ーー今隣に乗っている御園生氏も同じ意見だった。まさにその人物と数日前に太刀川龍一がなぜか面会をしているのである。

 太刀川はメールどころか、電話番号も持たない。そう簡単には江戸島会長とのアポが取れるとも思えない。いったいどういう関係なのだろうか。むしろ元々の関係がないというほうが不自然にさえ思える。

 二重橋到着。

 朝の六時という早朝にもかかわらず、すでにベテランらしい女性秘書は出社していた。

 女性秘書はあからさまに困ったような表情をしていた。

「会長は不在です」

「不在?」

「はい…。少し困っておりまして。」

曰く、通常だと毎朝七時から夕方まで江戸島会長は予定が断続的に続くらしいが、じつは昨夜遅くに本人から連絡があり、全て本日の予定はキャンセルになっているのだという。

「今日はお休み、ということですか?」

「はい。」

私石原は明確な防御の姿勢をとっている女性秘書に対して、ありきたりの説明をした。捜査の守秘義務があるということを伝えつつ、最速で江戸島会長に会う必要をかなり強めに繰り返した。ベテラン秘書は、人間が死んでいるというこちらの迫力に負けた感があった。問い詰めたところ、江戸島は昨夜から青山墓地にいる、と説明した。

「昨夜から、青山墓地?」

「はい。昨夜からずっとかは計りかねますが、今朝方電話を受けた時も青山の墓地にいると、そのように申しておりました。」

「青山墓地には何が?」

「……。」

「誰かのお墓があるのですか?」

言葉ではお互いに丁寧なままだったが私は殆ど暴力的な迫力で声を発していた。時間がない、ということが強く頭にあった。

「誰のお墓がありますか?」

私は声を大きくした。秘書は何かを了解したようにしたあと、

「…江戸島会長の奥様のお墓があると思います。」

「奥さんの?」

「はい。そうです。」

「昨夜から、ひとりなのですか?」

秘書はこちらの剣幕に、観念したようにして

「いえ、奥様の知人を名乗る方から昨日連絡があり、待ち合わせ場所に青山の墓所を指定されたのです。」



 実に奇妙だった。

 東証一部上場、いや、日本を代表する企業のトップが予定を全てキャンセルして亡き御婦人の眠る墓地にいるという。事態を飲み込めないまま、我々ーー御園生氏と私石原は車に戻った。時刻は六時十五分をまわっていた。

 時間がないーー。

 すでに一日が始まってしまっている。

 殺人事件が三件もおきているのである。

 鑑識を差し置いて死体に手をつけ、また捜査一課の誰にも報告さえしていない。とんでもないことだと言っていい。捜査一課、いや警視庁の中で許されるには、銭谷警部補のいう通り本当の犯人ーー軽井澤氏ではない、別の真犯人を何としても確保しなければならない。限界は午前中だろうか。いや、もう二、三時間しかないかもしれない。

 真犯人は何故三人を殺したのか?銭谷警部補は犯人は軽井澤氏でもないし、遺族でもない、と断言している。そのことは理解はしたつもりだ。しかし真犯人への情報が少なすぎる。午前中などの時間軸でこの事件を本当に解決することができるのか。

 時間がないーー。

 三つの死体ーーー令和島を離れる前に細かく確認したが、生首はひとつはまだ体温が残り、一つは冷たかった。つまり二つの生首には、殺人の時刻に時差がある。もうひとつ、全身の死体には片腕がない。片腕は腕の根元から切り取られ、縫い合わされてもいる。この身体もまだ生暖かく、死後硬直をまだ始めていなかった。

 女子高生コンクリート事件の少年三名が殺された事件が明るみになれば、どうなるのか。銭谷警部補の結論を聞かなくても明らかだろう。メディアふくめて国民全体の注目が津波化して、各所に押し寄せるのは間違いない。そうして最も罪のない存在ーー女子高生の遺族へもその矛先は向かうだろう。

 私は銭谷警部補が軽井澤氏に語った言葉を反芻した。 


<世の中が、軽井澤氏が恐れる状況へ向かってしまう。>


やはりこの殺人はそういうふうに計画設計されているように思えてならない。つまり、真犯人は意図的に、警察とメディアが暴走してしまうように設計しているーー。

 まず、三人の死体が大胆に発見される。

 その死体たちは三人ともコンクリ殺人事件の加害者、つまり昭和を震撼させた殺人事件の犯人だった。かつ発見された場所も”同じような”埋立地なのだ。

 三十年前の事件。

 昭和の事件が、令和のいまに蘇るのである。

 それだけでメディアが殺到するのが明らかだ。

 そしてその現場の惨殺状況からはどう見ても復讐という文字が生まれてしまう。生首。腕をもぎ取られた死体。彼らを脅す手書きの大量の葉書。CONCRETE WAKASU。三人をこの世の中で最も許せない存在は、誰か?ここまで残酷に人間を殺したいと最も思うであろう存在はどこにいるのか?世の中は勝手に思い込むことができる。一見すればそうとしか思えない。つまりそういう設計をしている。このままメディアに流されれば、世の中が求める映像は明確だ。世の中が求める映像の通りにテレビの人間たちが動く。

 つまり、それが真犯人の狙いに思えるーー。

 銭谷警部補の脳裏にはそういう想定がある。私石原も、その想定に違和感はない。しかし、肝心な問題が、解決しない。軽井澤氏もご遺族も違うというのなら、誰なのか?

 真犯人は誰なのかーー。


 イヤホンをしてハンドルを握ったまま私石原は再び銭谷警部補に連絡を入れた。

 報告というより、細かい状況を共有しておかねば、一瞬の選択を誤りかねない。

「もうすぐ、江戸島と会えるはずです。秘書から青山の墓地を指定されました。」

「墓地?」

「今朝は早朝から墓地にいるのだとのことでした。」

「早朝から?こんな朝に?」

車は青山通りに入った。

「いや、江戸島会長の秘書によると、昨夜からプライベートの事情でどうも、青山墓地にいるようです。」

「昨夜から?」

「はい。昨夜からずっとです。」

「そうか。」

銭谷警部補はそう単調に言ったが、落胆はあったかもしれない。その秘書の説明が事実だとすると、令和島に江戸島が出入りしたということは難しくなる。ただ逆に言えば、徹夜で何かをしていたと言えなくもない。

「一旦、わかった。まずは江戸島と会えたところで連絡を待とう。十分気をつけてくれ。」

「はい。」

私石原は緊張した。気をつける、という意味に、殺人犯と対面する可能性が含まれていたからでもある。

 赤坂見附の陸橋をすぎると、秘書の指定した墓地(ばしょ)はこの先の銀杏並木を曲がってすぐである。あと五分ほど時間はあるかもしれない。私は呼吸を整えて、自分が気になっていることを言葉にした。

「銭谷警部補、少し良いですか。」

「もちろんだ。」

「金石元警部補は意図がいったい何なのかが、引っかかったままでして。この一連の令和島からの動きにおいて気になっています。本質と遠くなりますか?」

「いや、本質と逸れたりはしない。わたしもそれは考えている。」

「はい」

「やつがこの令和島を、なぜ指示をしたのか?あいつが、それなりの危険を冒してまで、なぜ、こんな場所に行けと言ったのか、についてだろう。」

「はい。」

「まだわたしも気になる点は整理できていない。ただ、話すと整理できるかもしれない。中途半端で悪いが、喋ってみてもいいか?」

「もちろんです。」

「私はそもそも令和島の事件が、金石が追いかけている事件なのかどうか、が気になっている。」

「金石元警部補が追いかけているかどうか?」

「むしろ、偶然知ったから対処として、我々に展開しているという直感さえある。」

「偶然?」

「ああ。本当は別の作戦作業がある中で、偶然、この令和島の殺人計画を知ってしまったような可能性、とも言える。それには少し理由がある。」

「理由ーー。」

「ああ。もし金石にとっての本線の作業であれば、こういうやり方はしない。つまり奴は本丸を誰かに任せたりはしないんだ。自分の追いかけている事件を人任せにすることは、絶対にない。」

「なるほど」

「だとすると、考えすぎかもしれないが、三つのことがある気がする。」

時間がないーー。銭谷警部補は言葉を手短にしようと必死だった。

「はい。」

「ひとつは、金石が自分ではどうしても動けない状況だということ。何かの組織の中で動いている場合、その可能性は常にある。」

「組織ですか?警察を辞めた後に?」

「わからん。ただ、組織の中で捜査目的で隠密に動く場合、表には絶対に出れない事情が発生することが多い。」

私石原は少し混乱した。銭谷警部補は申し訳なさそうに続けた。

「すまん。この点はもう少し時間が欲しい。金石がいまどこで何をしているのか、どこの組織にいるのか、などについてはわたしも自信がないままなんだ。」

「了解致しました。」

「もう一つ。」

「……。」

「これは、わたしなりの疑問だ。」

「疑問。」

「ああ。暗号の作業手順について不自然に思うことがあるのだ。石原、一つ教えてくれ。あの暗号、つまり「令和島殺意」という文字列は、何日も以上前から本郷文庫に並んでいた。いや、正確にはメールが来た日からずっと並んでいた。ーーそう考えるのが自然だよな?」

「はい。私もそう思います。」

「とすると、我々に連絡をした金石と思われる人間は、少なくともこの殺人計画をもっと前から把握していたとなる。」

「はい。」

「恥ずかしながら、わたしは石原に指摘されるまでその連絡に一切気がついていなかった。」

「……。」

「ここに疑問がある。つまり、わたしがいつまでも間抜けにも気が付かなかった時、金石はどうしたのか?」

「……。」

銭谷警部補は語気を強めた。

「少なくともわたしの知っている金石は人間の命が三つも関わっている場面で、そんな雑なことをしない。たとえ自分の本丸の作業でないとしても、だ。」

「なるほど。」

「もうひとつ。我々はそもそも順番が逆だったのかもしれない。」

「逆、ですか?順番とは?」

「ああ。つまり、先に本郷文庫があったのではないか。」

「先に本郷文庫が?」

「ああ、我々はむしろ後付けなのかもしれない。」

「後付けですか。この一連のメールから始まった事件がですか?」

「わからない。もともと金石は、本郷文庫が何かの掲示板のように使われていることをわたしに教えようとしていた。」

「……。」

「そこに、事件が発生した。結果として逆に本郷文庫を掲示板に使った。」

「……。」

「もちろんなんとなく使ったわけではない。奴にできる唯一の選択肢だったのかもしれない。繰り返すが、奴が組織の中にいるとすると、情報を動かすことは非常に危険になるはずだ。」

「……。」

「当初わたしはこう考えたーー。金石は、何かの諜報作業をする中で、つまり警視庁を辞めた後も六本木の事件を追う中で、とある別件殺人の計画情報を得た。どこで得たのかは知らない。ただ少なくとも自ら想定していないところでその情報を得た。」

「はい。」

「計画情報には、三人の殺人が綿密に書いてあった。いや、もしかするとあの生首の一つはすでに殺されていた。見た通り硬直に差がある。」

私石原の言おうとしたことを既に銭谷警部補は把握していた。

「程度はわからない。ただ一定の情報を知ってしまったーーあの埋立地で殺人を計画している人間を知ってしまった。もっと言えば、その計画のさきで警察やメディアがどう動くかまでを計画しているような綿密な情報を得てしまった。」

「……。」

「そうして突然今夜、正確には昨夜、作戦の実行を知った。」

「まるほど。」

「おそらく、別の作業の実行の最中に、だ。」

「はい。」

「我々はそういう順番だと、当初、考えた。いや思い込んでいた。」

「はい。」

「ここが逆かもしれない。」

「……。」

「つまり、順番が逆で、金石の所属する組織が、本郷文庫をもともと自分の連絡手段として使っていた。ネットが総監視されている。諜報機関は、よりアナログな連絡手段を設計している。本郷文庫はそれにはうってつけともいえる。つまり、我々ではなく、もともと金石は別の都合で本郷文庫を使っていた。」

「……。」

「もしくは似ているがこうも考えられる。あの本郷文庫を連絡網にしている組織があって、それを金石は内偵していた。その中で令和島で殺人の計画を知った。そのことを我々にも伝達しなければとおもった。」

私石原はようやく自分の電話したかった理由の周辺に銭谷警部補の話題が行ったのを感じた。別の組織。そう。本郷文庫に関わるもう一人の人間がいる。その人間が江戸島にも関わっている。

「すまん、石原。言葉にしてみたが、どうしても自分の中ではやはり腑に落ちない。」

「そうですか?私はむしろ。」

「いや違うんだ。」

「しかし、銭谷警部補。」

私石原はそこで自分の意見を言いたくなった。相当大それた意見をいう前に呼吸を整えたが、

「いや、違う。」

銭谷警部補は強い語気を緩めなかった。

「やはり、金石においてはあり得ない。」

「ありえない。」

「ああ。金石が遺族をこういう風に使うことはないんだ。」




 私石原が、銭谷警部補との電話を一旦切ったのは若い探偵の男と一緒に車を降り、朝の墓地で、墓標を前に佇む人物を見つけた時だった。東の空が明るくなり始め、墓石の列を照らしていた。

 電話の中で、銭谷警部補が幾度となく述べた金石元警部補の言葉の中で、私の考えが向かった先は一人の人間だった。その人間が江戸島に会っていたことは間違いがない。そして本郷文庫を見つめていた横顔は今でも思い出せる。彼はいったいいまどこにいるのだろうか。

 広大な朝の墓地には誰一人人がいなかった。ただ秘書の指定したあたりの区画に若い男性が遠目に見える。私はゆっくりと歩いた。念のため拳銃について相手には悟られぬ距離の時点で指で位置を確認している。

 若い男性は我々が来ることを予感していた様子だった。こちらを威嚇してくるような殺気はない。その点だけはほっとした。ただ油断はならない。御園生探偵と目を合わせた後、ゆっくり近づいていった。

「警視庁捜査一課の石原と申します。」

「お疲れ様です。」

そう言って、その人物は私石原と目を合わせ、そうしてから御園生氏のほうも見遣って小さく会釈をし、

「江戸島会長はどこに?ちなみにあなたは?」

「私は佐島と申します。佐島恭平。IT関係の仕事をさせていただいています。」

「あなたが、江戸島会長を呼ばれた人ですか?失礼ですが、なぜこちらに?」

「いろいろ事情がありまして。」

「彼を呼び出してこちらに?」

「そうです。昨夜から江戸島会長と私はここにいました。」

つまり、犯行の重要な時間帯では、江戸島会長は令和島や東京湾周辺にはいなかったということである。実際この人物がアリバイを証明するとまでは思えなかったが、私は小さく頷いた。拳銃を出すことは辞めておくことにして辺りを見回した。

 明治の元勲の墓所をふくめ広大に広がるその中に目立って花をたくさん集めた墓標があり、そのすぐ横に佐島という男は佇んでいる。ふと見ると、封筒に入れた書類のようなものを大きく抱えている。

「それは?」

私は指摘した。封筒はずいぶん古いもののように思われた。

「ああ。これですね。実は、この封筒の中のものが、私の知り合いと江戸島会長との共通の思い出だったりしましてね。なのでそのことについてずっと語っておったのです。はい。」

夜を徹して、墓地で書類を見ていたという異常性を告白しながら、佐島恭平という人物は、どこか落ち着いていた。何かある種の強迫状態から、そういうものから解放されたかのような空気だと私には感じられた。

「それで、江戸島会長はどこへ?」

私石原は改めて秘書に向かった時と同じような迫力の声を出した。しかし、佐島という男は落ち着いたままの声で、

「わかりません。どうだろう。会長は今、別の場所にに向かわれているかもしれない。」

「別の場所?」

「はい」

声が男性的ではなく、私は何故か芝居掛かっているような不調和を感じた。変装という言葉を想像した。自分を忘れ、騙し、自分とは別の誰かになろうとする。そういう空気が佐島という男にあり、そしてその空気が不完全に均衡を崩した様子があった。男装をしているのかもしれない、と思った。

「逃げた?」

「会長の名誉のために申し上げますが、逃げたりはしません。必要あらば警察署に出頭される、とのことでした。」

そう言って佐島恭平なる人物は携帯電話を手のひらに載せて、こちらに差し出した。

「会長と繋がると思います」

私はこの墓地を何故江戸島会長は離れたのか?どこに向かったのかなど、逃げた人間がなぜ電話にわざわざでるのか、すべて解せぬまま電話をとった。

「江戸島会長でしょうか」

「はい、江戸島です」

太刀川龍一と彼が会っていたことが脳裏によぎる。

「会長、秘書の方に御連絡差し上げた通り、大事件が起きています。」

「申し訳ないことです。」

「今すぐ会ってお話は出来ませんか?」

「はい。勿論。しかし少しだけお待ちいただきたいのです」

「時間がありません。今から、なぜ我々が急いでいるのかを手短にもいう仕上げます。捜査の守秘義務に関わることも無視して申し上げますので、どうかその点も勘案して、ご存じの情報について是非ともいち早く、供述いただきたい次第です。」

「はい。勿論です。ただ手順ですので、もしよければ私に出頭を要請する理由などあればお聞かせ願えますか。」

「もちろんです。ただ、とても急いでいます。」

江戸島会長はこちらの言葉にはさほど驚かずに事件のあらましを聞いていた。コンクリート若洲、という葉書の並びをやはり彼は知っている、と感じた。そうして、私石原は事件のあらましを話しながら、この状態で江戸島会長は一体どこに向かっているのか?だけが問題だった。

「…以上が、理由になります。江戸島会長。いまどこにいますか。」

「申し訳ないです。少しだけお待ちいただければ幸甚です。」

「しかし。」

私は苛立つしかなかった。電話を切られれば、なにひとつ連絡の手段もない。GPSでの追跡など、想定しているにちがいない。逃亡の恐れはないと言いながら急ぎ、江戸島会長の向かう場所を追跡するにも誰も警視庁の人間を使うことができない。一人の人間をどうやって追いかけるのか。そして、一人の関係者さえ追いかけられない自分に、令和島で三人を殺した殺人犯を捕まえることなどできるわけがない。

「約束しましょう。昼前には警視庁に伺います。」

「江戸島会長、我々は急いでいます。何故貴方は自分がどこに向かっているのかを開示しないのですか。」

「……。」

「なぜですか。」

しばらく、間合いがあった。目の前の佐島と、御園生氏が心配そうに私を見ている。

「昨夜、その場所で妻と話しました。私なりの結論なのです。どうか、わがままをお許しいただきたい。」

江戸島会長が想定もしない言葉を言った、その時だった。私石原の携帯電話が激しく音を立てた。

 銭谷警部補からのものだと思って、ちょっと待ってくれと言おうと思ったところ、そうではなかった。銭谷警部補ではない。それは緊急連絡のメールだった。早乙女課長名義で小板橋から捜査一課二係全員にメールが発信されている。

「東京湾で殺人事件が発生との通報あり。極秘だが被害者は昭和六十四年の女子高生コンクリート事件の実行犯ら、の可能性あり。直ちに対応可能者は…」




七 銭谷新太郎

 

石原からの着信だった。

「銭谷警部補、警視庁のメールを見ましたか?」

声は、焦っていた。わたしは何かが起きたのを予感した。

「どうした?」

「捜査一課現場各位に、小板橋巡査部長から一斉通達が入っています。都内の埋立地沖合にて重大な殺人情報。それも、女子高生コンクリ事件の関連とーー。」

「なんだそれは?」

「私もわかりません」

「どういうことだ。」

「考えられないです。」

「……。」

「まさか、金石元警部補は、我々が暗号を見つけられない時のためにこう言うやり方をしますか?」

「金石が?」

わたしは押し黙った。混乱ですぐに正しい言葉が出ない。

「最終的にはこういう手段を取ったりする人間か、という意味です。」

ありえない。それでは金石の人格と矛盾する。警察が暴走して遺族に向かい、メディアも遺族を材料にする。そうやって向かう世の中の方角は金石のもっとも嫌うものだ。ありえない。そんなことはないはずだ、と言いながら、わたしには否定する言葉が出ないままだった。

「あ、待ってください。小板橋巡査部長です。彼からの電話です。銭谷警部補、一回話を聞いてみます。こちらのことは一切話さないつもりです。」

石原は一旦電話を切った。沈黙が訪れ、冷静になろうと努める。一体これはどう言うことだ?

(まさか、金石が?)

わたしが暗号に気が付かないときのために?石原が今指摘したように、つまり最初からメールを捜査一課宛におくるつもりだったのだろうかーー。

 いや。

 ありえない。

 わたしは自分に言い聞かせた。ありえない。

 遺族をメディアの道具に使うことなどは、金石においてありえない。

 すぐさま再び石原から電話が鳴った。

「どうだった?」

「小板橋さんから応援要請がありました。」

「うむ」

「夜勤で今はまだ動けない、と誤魔化しました。」

「夜勤じゃないことは知ってるだろう。」

「でも、いまこの場を抜けることは無理です。」

「……。」

「たぶんかなりの人数に動員がきています。」

「そうか。」

「小板橋さんは、すでにご遺族に向かっているようです。課長から特命があったと。女子高生コンクリ事件の被害者遺族を、はれ、と」

「馬鹿が。やりやがった」

わたしの隣にいた軽井澤氏が顔をこちらに向けたのがわかった。

「メディアに入るのは時間の問題かもしれません。」

「しかしどうして?タレコミは誰からきたのだ?」

「小板橋巡査部長に聞きました。特定不明のメールからのようです。」

「特定不明のメール?」

「捜査一課の複数名にメールがあったのだそうです。」

「なんだと?」

「特定不明のメール、は一人一人別々にアドレスを変えて送付しているそうです。」

わたしはその言葉をそのまま金石のメールが毎回アドレスを変えて送られてきた私宛のメールの事実に重ねた。

「金石元警部補ですかね?」

「メールは誰宛に、いつ送られたんだ?」

「わかりません。小板橋巡査部長含めた捜査一課の人間複数名に送られているようなんです。そのメール自体は私にはきていません。」

その時だった。

 わたしは画面を疑った。

 早乙女という文字が着信画面に表示されている。

「すまん。早乙女からだ。」

「早乙女捜査一課長からですか?」

「やはり、小板橋と奴は近い。朝から動いているんだろう。」

「なるほど、了解致しました。一旦課長との会話を優先されてください。こちらを切りますね。」

登録が残っていたことさえ、忘れていた。何年振りの直接の電話だっただろう。わたしは呼吸を整えてから緑色のボタンを押した。

「銭谷か、いまどこにいる。」

冷たい冷静な声だった。

「……。」

「銭谷。聞こえているか?」

本当の譲れぬ命令を下す時にはそういう呼び方と立場を強調した口調になる。それが官吏の特徴であり、わたしがこの世を去りたくなる理由である。人間の虚しさの典型がそこにある。

「コンクリ事件の加害者、つまり当時の少年三人への殺人宣言があった。いまから動く。かなり急ぐことになる。各捜査員の中で動ける人間が必要だ。今回特別に謹慎中だが、特例的に…」

「動くのは待った方が良い。」

「なに?」

「今はまだ、動かない方が良い。」

「待てとは、どう言う意味だ?この電話はお前の意見を聞くためにかけたわけではない。」

大事な場面で高圧的な言葉になる。普段のあだ名で部下を呼ぶような、臆病を演じた配慮のある態度が消えている。

「何か知ってるようだな。おまえまさか。」

「メディアに入れるな。」

「どういうことだ?繰り返しだがこの電話はお前の意見を聞きたくてかけてるわけではない。」

「メディアに入れれば、どうなるかはわかりきっている。」

「それはメディアが決めることだ。」

「ちがう。警察側でメディアの向かう方角はある程度はコントロールできるはずだ。」

「ずいぶん強引な発想だが、おまえは今の自分の状況を理解しているのか?」

わたしは言葉を一度止めた。そして細かい説明をするのをやめ、

「遺族はそんなことはしない。」

とだけ言った。その文言で早乙女はある程度はわかる。実際に遺族と会ったりその涙に触れたりはしない男だとしても、こちらの意図する最低限の意味は理解できる。

「警察史上に残る恥をかくぞ。」

「どうだろうな。こんなメールを送られて、動かずに時間を過ごした、という手順のほうが、見た目は悪い。」

警察内部の見た目の問題で、三十年も前の遺族の傷口に塩を塗り直すのか?という言葉が脳に落ちた。埋立地特有の朝の風が冷たく強く吹いた。視界にある東京湾と脳の中の突然の会話が自分を分断させている。軽井澤氏が非現実のような顔をしてわたしの会話を見つめていた。

「遺族への配慮は?」

「銭谷。勝手な真似は許さんぞ。」

「質問をしている。ご遺族への配慮は?」

「あくまで重要参考人としてだ。死体は東京湾第八号埋立地、通称令和島にあるという。いずれにせよ、あの事件の少年ABCDが殺されてるなんてなれば、メディアは抑えきれん。」

そうだ。お前はそういう手配をする。

 だが早乙女、お前のその情報は、お前の目ではなく、メールで得た程度だろう。そのメールを信じて大量の警察官に暴走させ、自分では動かず、メディアの現場にも歯止めをかけず、遺族の声など聞いたこともないまま、ただただ自分の見た目と立場だけを守ろうとしている。その中に欠けているものがあるのが何故わからない?ひとりの被害者の人生を、お前のつまらん権力維持のために使うこと、彼らに塗炭の苦しみを再燃させることになぜ気がつかない?

 何故気が付いてくれないんだ、気が付いてくれてもいいじゃないか、という言葉を集めながらわたしの自意識はもがいた。しかし、無念な結論がそこに落ちた。


 そうだよな。

 早乙女課長。

 お前は最初からそういう人間だったよな。

 人間は変わらないってことだろう。

 そういう考え方を持っていたから出世したんだよな。

 お前みたいな人間が力を持つ。

 そういう世の中だからな。



 その時に直感が頭を小突いた。

 なぜか、脈絡なく金石の言葉が落ちてきた。わたし以上に警察に不満があり、誰よりも警察を愛していた男の言葉だった。


(地雷ーー。)


金石の言葉だった。いや、シラフでは聞けない、泥酔の最後の、朝焼けの頃、店の出口でわたしに浴びせるいつもの言葉だった。


(俺がおかしな奴らに地雷を撒いてでも銭谷を出世させる。)


 地雷?

 地雷を、撒いているのかーー。つまり、早乙女を嵌めようとしているということか。そんなことまで、お前は考えているのか。いや、これはわたしの考えすぎではないだろうか。そもそもどうやって地雷を作る?


「銭谷、きいているのか?」

早乙女の官僚らしい現実的で冷たい、命令だけの声が受話器に響いている。

「……。」

「銭谷、すでに殺人の宣言が来ている。東京湾の埋立地、第八号。通称ーー」

「その島なら知っている。」

「どういうことだ」

「別の垂れ込みがあった」

「まさか、報告もせずに、単独行動をしたのか?それは懲戒ものだな。大事な時だと言っただろう」

「……。」

「銭谷。死体があったか。」

「今確認中だ」

「貴様。銭谷。お前、単独行動は許さんと言っただろう。」

わたしには、電話口の早乙女の声よりも、五年前の金石の言葉の方が響いていた。


(地雷を撒いてでも銭谷を出世させる。)


混乱がひどい。そんなことを思い出している暇はない。今わたしに最も必要な言語能力は、この早乙女が遺族に向かわせた小板橋を止めさせることだ。早乙女は感情では動かない。何かの必須条件を突きつけてその判断を変えさせる必要がある。しかし多くの情報が散乱しながら、五年前の言葉まで折り混ざるわたしの脳髄は、単純な言葉をため息のように吐き出すことしかできなかった。

「早乙女、遺族はやめておけ。」

「それはお前の決める職掌ではない。あくまで重大事件の捜査だ。可能性のあるところには手を打つ。もし初動で遅れて行方不明になったら目も当てられん。」

「思う壺だぞ。」

「誰のだ?」

「遺族はやらない。なぜそれがわからない?彼らの平穏を乱すのは許さん。」

「銭谷、口の聞き方に気をつけろ。殺人の宣言が警視庁に届いている。三人を最も恨んでいる人間は明確だ。」

「ちがう」

「なにがだ」

「なんどもいう、被害者と殺人犯の論理を並べるな。人間の基本的な尊厳としてだ。被害者と加害者は最初から最後まで人間の来歴が違うんだ。現場で血の匂いを嗅いでいれば、そんなことは誰でもわかる。なぜ罠だというのがわらない?」

早乙女は無言になった。しばらく無言にした後に

「銭谷。後悔することになるぞ。」

とだけ言って電話は切られた。


 

 目の前の現実が、わたしが信じてきたものとは違っていた。

 金石の本線は、最初から捜査一課への一斉メールだった。少なくとも本郷文庫のようなやり方ではなく、明確な直接のメールで警視庁捜査一課複数名あてに、令和島の事件を入れたーーつまり本線は、早乙女以下を動かすことだった。

 金石が警察を辞めることにまでなった、六本木事件周りの首謀者である早乙女への怨恨がそこにある。そう、つまり冤罪を早乙女に食わせることができる事件に偶然出会ったーー捜査一課の人間が先を争って遺族や軽井澤氏など誤認逮捕に向かいかねない事件に偶然出会ったのではないか?

 地雷を食わせられる。

 とんでもない誤認を早乙女以下の人間たちが行う。

 世の中の震撼させる大事件の初動が、大間違いを犯す。もちろん動きはメディアにも漏れる。後戻りなどできない。

 ただ、やはり、大きな矛盾は消えていない。

 金石は遺族をそんなふうに使ったりすることはしない。ありえない。いや全ての警察官の中で最もそういうことがありえない人間なのだ。そもそも六本木事件の遺族の横で涙を流していたことも、これまで語ってきた全ての言葉も、毎晩のように泥酔までしてわたしに伝えていた内容も全てが矛盾することになる。ありえない。金石という男はそんなことはしない。

 わたしは違和感が拭えなかった。たとえば、確実に遺族は真っ白だという証明でも用意しているのか? いいや、無理だ。どんな証明がなされ、早乙女に泡を食わせられたとしても、捜査員をああやってメールで煽ってしまえば、遺族の暮らす場所にカメラが虫の大群のように押し寄せることまでは止められないはずだ。お前はそれだけが嫌いだった筈だ。


(銭谷、おまえは上り詰めろ)


 夜の言葉が何度も降りてくる。

 本当に金石なのか?

 そもそも違う別の人間なのではないのか?いいや、あのメールの頭文字はともかく、内容は絶対に金石でなければ書けないはずだ。

 しかし、金石。

 遺族はどうする。

 お前の最も大切な哲学を壊してでも行うのか?

 わたしは改めて、時計を見つめ直した。

 朝の七時を過ぎていた。

 もうすぐ、お台場を越えて、捜査一課の何名かがこの令和島へと辿り着く。

 わたしにはできることが、殆ど無かった。






八 御園生探偵


 竜岡門ビルというそのビルを、警視庁の女性刑事は見上げた。

 石原巡査ーー本郷に至る車中で彼女は上司と思われる人間と電話でいくつか激論を交わしていた。彼女はその会話の中で、太刀川龍一という言葉を幾度となく用いた。

 会話を盗み聞きするのは好きではない。

 だが乗用車の運転席と助手席では、片方が電話を続ければ話は筒抜けだ。僕は自分なりに状況の把握を試みざるを得ない。軽井澤さんが大変な状態になっているのだ。殺人の第一容疑者となりかねない状況だという。ただ何故だか判らないのだが、この石原巡査と、電話の向こうの、銭谷警部補という上司は、それを頭から阻止しようとしている。つまり軽井澤さんとは別の犯人を探そうと動いている。そしてどうやらその作業がうまくいっておらず、別の問題が警視庁内部で起こってしまっているらしい。

 軽井澤さんの無実解放のため相当な尽力をしている女性警官に、僕は全面協力をしたい。ただ、一刻を争う捜査作業を、素人の僕が邪魔するわけにもいかず、結果として言葉を断片的に拾うことしかできない。その中である言葉が気になった。

 太刀川龍一ー。

 そうだ。軽井澤さんと僕がX重工に行った時にまさに待機室で待っていたのがあの男だ。数年前にパラダイム社を立ち上げ、一世を風靡した東大生。若い経営者。メディアを買収しようとしたり、いわゆるこの国の利権たる人たちと対決姿勢を取っていた若い学生起業家。ただ、太刀川龍一は最近ほとんど名前を聞かない。どのメディアも取り上げもしない。あれだけ世の中を騒がせたのだから、SNSなどで自分で発信することもできる時代なのに、その様子もない。

 X重工の役員控室ーーそこで僕は久々に太刀川のあの顔を見た。数年前、テレビで見ていた時と変わらぬ、堂々とした、少し生意気と思われるような態度の人物がそこにいた。

 この人物が何故か石原巡査と上司との間での会話になっている。

 車に乗ってからも、つまり青山墓地から本郷に向かうのだと言って、車に乗ってからも女性警官と彼女の上司との間で議論は続いていた。女性警官ーー石原巡査は太刀川龍一が関係している場所に向かいたいと主張をしている。本郷の竜岡門にあるマンションの一室の重要性を一貫して語っている。しかしどうも、上司である銭谷警部補が反対をしている。

「しかし、いま、江戸島会長に関して追跡と言ってもできることがございません。」

強い口調で女性警官はその言葉を繰り返した。そして、この議論は少し前の青山墓地から続いていた。石原巡査は時折上司との電話を切っては、江戸島会長の携帯番号に電話をかけ直すのだが、先方は既に電源を切っているらしく、音信は不通だった。


 おそらく石原巡査が手配した不動産会社員が、そのビルの前に立っていた。竜岡門ビルディングは、四階建、蔦が片面を覆った古いビルだった。

「朝からありがとうございます。」

「どうしたんですか。太刀川くんに問題でも?」

「一応念のため、のことでして。鍵はありますか?」

「はい。ただオーナーは彼なのでまだこの鍵が使えるかわかりませんが。」

エレベーターのない古い建物を一階ずつ女性警官と僕はあがった。不動産屋と佐島氏はビルの下で待たせたままにした。蔦の階段を登る。

「待って。電気がついている」

「電気が?」

「いつも人はいないはずだ。」

石原巡査が緊張を高めたのがわかった。

「誰かがいるってことですか。」

僕は軽井澤さんと歌舞伎町の一室に踏み込んだ記憶を思い出した。恐怖がはっきりと全身を覆った。深呼吸を音が出ないように行う。相手の想像はできない。しかし、三人の人間を殺した人物がそこにいる可能性が、少なくとも高まっているから、石原巡査は緊張をして声を絞ったのだ。

 鍵は問題なく差し込まれた。

 石原巡査は拳銃を胸から取り出した。

 僕はその鍵を回してドアを開ける役割になった。

 ドアは外開きなのがドア枠でわかる。素人の僕は鍵を回して思いっきり引っ張れば、その瞬間に石原巡査が拳銃を持って中に入るということだ。

 深呼吸をして、僕は鍵を回すと同時に大きくドアを引っ張った。

 石原巡査は無言で室内に駆け込んだ。

 拳銃を発砲する音は聞こえない。

 応援するつもりで僕は数秒後に追って室内に入った。

 広めのワンルームだった。

 部屋は日中だというのにカーテンが遮光で暗かった。

 人の気配はしない。

 石原巡査と僕はゆっくり呼吸を整えた。石原巡査は落胆の色を隠せなかった。彼女は僕に対し言葉にはしなかったし、上司にも言わなかったが、この部屋に、生首と切り離された胴体の方が残されているのではないかと、想定していたのだと思った。そんなものは何もなく、ただ、テーブルの上にはパソコンさえなく、不自然なほどの膨大な紙の資料があふれていた。

「なんですかね、これは。」

「なにかの実験の資料ですかね。よくわからない。」

「#実験0839って書いてありますね。」

「こちらもだ。#実験0231。なにかの論文でしょうか。」

「#実験083233? これも全て実験の論文?」

「一体何の実験をここで?」



九 槇村又兵衛の手紙


…万が一わたしに何かがあればこの手紙を読んでほしいと伝えましたから、近々この文章を読んでいるとすれば、何かがあったのではないかと思います。そうではなく、かなりの時間が過ぎて、貴殿の刑事の人生の終わりの頃、暇ができて、過去の人間の手紙を思い出して、ようやく手にしただけの場合は、少し古めかしいでしょう。もっともその場合はここで記載している問題について小生自身の手ですでに解決しているでしょうから、恐らく説明がしつこいかもしれません。

 本当のことを申せば、貴殿に直に時間をお願いし、小生の物事が解決したのを見て、ゆっくりと酒でも酌み交わしたいとも思います。芝居めいたものではなく何の策略も無く語り合いたい。そうすればこの手紙の内容は、居酒屋の談話で語りうるかも知れません。もしかすると明日以降そんな日があれば、この手紙は無用の産物となっていることでしょう。

 ただ貴殿がご指摘されたように何一つ残さないままであれば、大きな喪失のリスクがあります。ですから本当は面と向かって語り合いたいと思いながら、やはり小生としてはこれまで行ってきた単独の作業について文章に残すのは必須のことである、多少説明がしつこくても余すところなく書かねばならないと思っております。そうして万が一に何かがあっても、この手紙で貴殿にお伝えする事ができれば、酒宴はなくとも、小生には、むしろ十分とも思います。小生はもう相応の年齢でございます。老兵には若い人に託し去るべき時がきます。この自分の悩んできた解決しきれぬ世界の一角を貴殿に託すような気持ちがあります。貴殿という若き存在が、小生の刑事人生で叶わずにしてきたものを、拓いて解いてくれる予感がございます。

 思えばそういう誰かを求めて、貴殿に警視庁まで会いに行きました。貴殿は想像通りの人物でした。刑事でございますよ。顔を見ればどういう人間で、どういう刑事なのかはわかります。肩書きなどはむしろ見透かされてしまいますから。最近では課長だ署長だと聞いてがっかりするような人物も多くなりました。警察官人生四十二年、人間を見て、人間の真実を先読みし見極めをすることばかりを仕事として参りましたから。人間というものの心の変化には老害があれこれと思うことがありますのはどうかお許しください。

 小生のことを多く語るのはやめましょう。

 貴殿には本日、綾瀬周辺でK組の仕事にお付き合いいただきました。その中で私に万が一何かがあり、私という警察官の積み上げてきたことが引き継がれなければ警察組織にとっての痛恨であるとの、身に余る光栄なお言葉をいただきました。更には、この痛恨について貴殿と金石元警部補との警視庁時代においても、類似する後悔があるのだとの説明も頂きました。

 組織に認められずとも真実を追い続ける種類の古参の警察官を小生は幾人か見て参りました。そういう先輩は仕事に素晴らしく情熱がある反面、唯我独尊、経験があることを良いことに、その先人固有の捜査方針に驕り、後進に何かを残そうという意識に欠けがちになります。かくいう小生もそういう頑迷な刑事の一種類ではありましょう。また小生の知る限りあの金石にもそういうところがありました。自分の仕事に自信があり、組織内の調整手順よりも真実の追求を重心に動いているのです。時に誰よりも情報を集めますし、真実にも近づくのですが、やはり組織の都合というものと対立を起こしがちではあります。

 銭谷警部補、貴殿がおっしゃる通り、そういう独尊型の刑事に、万が一の事故遁走失踪の類があれば貴重な情報が大量に失われます。我々公僕は血税で成り立つ生活者です。この小生といえども作業を重ねてきたものを何一つ残すことなく頓死するならば、それは頂いた税金に申し訳が立ちません。つまり、そういうことでございます。小生、貴殿のお言葉をお聞きし恐怖いたしました。いまペンを取れたのは貴殿が強く指摘していただいたからです。誠にありがたい事です。

 殆どの内容は頭の中に既に完成してあります。それはいつか書けば良い、書かなくとも解決すれば伝わるから良い、という意識で自分の奥に放置されてきたのです。貴殿に指摘されこうして筆を持つと、小生の中にあった驕りが若干の収処をします。自らを反省する気持ちも芽生えます。そして心に覚悟ができます。一晩でどこまでかけるかわかりません。しかし、明日万が一、何かがあるかもしれないと思うと、不思議と筆が進みそうな予感がします。

 さて、どこから書くべきかを自分と相談します。

 貴殿は小生そのものをご存じない、ほとんどを知らないと思います。なぜ小生が少し変わった警察官人生を歩むのか。K組のような担当外に出入りをするのか。公金横領だなどというケチがついて追放まで受けた身で何を曰うのか。今、小生が貴殿に伝えたい内容について、その前段たる来歴を開示せぬままでは、本末が転倒する恐れがあります。恐れと記載しましたのは、人間は多くの場合、ご自身の常識感覚と合わない情報には耳を塞ぐからです。常識的なパラダイムを転覆させるような言葉には、脳が拒否する可能性もあるからです。

 伝えたい内容ーーこの手紙の末尾に同封あるものは多くの証拠物の複写です。これらはA署にまつわる重大な情報であり、提出する場所を選べば大変なことになる内容であります。しかしもしかすると、前段もなくお渡しすれば、この証拠物の意味が正確に伝わらないかもしれない。長年時間を共にした署の同僚や仲間を売り飛ばすだけの、サモシイ人間と見えるかもしれません。部分を切り取れば、正義が悪魔にもなる。これが情報や真実の難所でしょう。ややもすれば正反対の誤解さえ伝えることになることもあるのではないでしょうか。

 ですから、少しだけ遠回りして、小生のことについて、少しだけ触れさせていただきたいのです。そうしてから全体をお伝えできれば小生はこの証拠物の意味が正しく伝わり、万が一の場合には命懸けで貴殿が扱ってくれるものと信じます。

 こうやってペンをとり、言葉を書いていると、感無量になります。小生はこれまで自分の仕事を自分の脳裏だけで完結してまいりました。こうやって文字にして誰かに読んでもらったことはないのです。言葉は残ります。書いた人が死んでも残ります。そのことに少しの興奮があります。小生は、貴殿にお会いする以前から、こういう風に文言を心の中で集めていたのでしょう。自分でもわかりません。言葉が、次々と書いてくれと自分の脳で暴れます。どうか余すことなくお伝えできれば、それで幸福だったのだと思ってください。


 小生は本日、貴殿とK組の事務所を回りました。

 その中で、一度「葉書」と言う言葉が、彼らとの会話の中で唐突に出たのを覚えているかも知れません。実はあれは偶然出た言葉ではございません。偶然どころか、言うなれば十年、二十年を遡る理由を持ちながらあの場に言葉にされたものなのです。

 彼らの中で、幾人かの人間にこの葉書が送られています。送り主の名前は書かず、住所と氏名のある表面の宛先と、裏面にただアルファベットが一文字あるだけのものです。これが一人当たり十四枚送られています。

 意味が不明の葉書です。

 しかしこの葉書は或る設計がされていて、ある過去の殺人事件に紐が付いているのです。その事件は、複数の関与者がたった一人の女子高生を殺した、非常に無残な事件だといえば長く殺人課に所属し勉強家でもある貴殿にはすでに想像がなされるかもしれません。

 事件の象徴的な言葉として並ぶアルファベットを一文字ずつを裏面に記載し、表面は宛先だけという葉書です。十四枚並べても何のことだかわかりません。しかし、それを受け取った人物が、あの時の殺人に関係した人間であれば、恐らく十四枚をある一列に並べるというものなのです。犯罪者は必ず、殺人の現場にーー最も関わりたくない現場にしばしば戻ろうとします、いわば、このハガキはそういう性質も含めて、犯罪者に向けてある種の宣言をおこなう機能を持っているのです。

 この葉書を書いて送付したのは私です。

 正確には二十年前に一度、今回二度目で同じことをしています。

 ただ、この葉書と伝言の設計をしたのは小生ではありません。葉書を書いたり、その結果誘導する地点のアスファルトに蛍光の塗料で文言を書いたりしたのが小生の仕事でした。

 なぜこんなことをするのか。

 それは、とある人物との約束なのです。名前は、川田木圭一といいます。当時は二十歳にも満たぬ青年でした。この人物と小生の間で簡単ではない事件があり、小生は彼との約束を守るために葉書を送ったり幾つかのことを実行しました。

 実は、小生がこのような頑迷な独尊頑固の刑事になったのは、なにか天性の性格でもなく、使命感でもなく正義感でもない。純粋に自分が出会ったこの川田木圭一という名の若者に起因するのです。そして結論から言えばこの葉書を当初、つまり二十年前は四人にだけ出したものを今回、思うところがあり、K組の人間も幾人か加えて送付したのです。後者は小生の独自の判断による追加です。一見、何かの雑な思いつきのように思われるかと思いますが、これが小生が青年との約束をより強固に守るために二十年かけて考え悩み抜いた結論なのです。

 銭谷警部補殿。

 貴殿は途方もない壁を前にして、どんな作戦を考えますか?途方もない壁がこの世界には存在します。

 古来剣術の基本作法のなかに、一瞬の間隙を用意するというものがあります。小生が設計したのはそういう類です。資料にはその映像の保管場所も記載されていましょう。そうです。小生に何かがあったとすればそれは小生が用意した罠を敵が食ったということです。小生はその設計を昨日行い、そして罠をかけた。隙を大胆に用意した。敵が行動を起こす時がその最大の機会です。その映像は別の手順をとり用意をしていますから、うまくいけばいい武器になりましょう。

 そういう壁に向けて、小生は本日作戦の最後を行ったとも言えます。貴殿の指摘通りやがて小生は何かの危機に瀕するかも知れません。しかしそれも含めて小生には途方もない壁を打ち破るための小生が設計した布石だと思ってください。決して偶然そうなったのなどとは思わないでください。そしてその途方もない壁に最初に向かった人物がこの川田木青年でした。他ならぬこの種類の作戦を小生に授けたのが、川田木圭一という青年なのです。

 青年との出会いは、小生の刑事人生を変えた端緒であります。そして彼との約束は、思えばもう三十年もの時を超えて小生の脳裏には常在してあったということだと思います。

 唐突に、葉書だ過去の事件だ、と申し上げたせいで何のことか、と混乱されたかも知れません。これらを詳述する前に、まず川田木青年に小生が出会うに至った経緯を説明させていただきたいと思います。


 小生が警察官最初の配属を受けたのは昭和五十二年の赤坂警察でした。皇居のお堀からすぐ、豊川稲荷や赤坂御所の目の前に堂々と屹立する赤坂署は配属されて気分の良い場所でした。自分がどういう警察官になっていくのか。当時人気のテレビ番組なども見たりしながら大都会の真ん中で胸を躍らせていました。

 最初に配属されたのは交通課でした。交通課という組織自体が警察にあるというのも、初めて知ったくらいでした。てっきり、難事件の捜査に拳銃を片手に新米刑事として躍り出るくらいの気分でいた小生は、面食らってしまいました。やることといえば、毎晩青山通りに検問を立てて酒気帯び運転の抜打ちの検査です。

 とはいえまだ若い自分です。組織の先輩警察官の下で忙しく仕事を始めました。時は昭和の時代で、今と違って飲酒運転が非常に多く社会問題にもなっておりました。毎晩飲酒運転の事故があり、しばしば死亡事故にもなりました。警察はどの所轄も飲酒の検問を行いました。当然やるからには各署一定のノルマがあり交通課は限られた時間で毎月ある一定の人数を飲酒酒気帯びで検挙しなくてはなりません。運転席を遠目に見ては可能性のありそうな車を停車させ、逐一車中の酒気を嗅いだのを思い出します。

 こんな単純な仕事とは言え、慣れてくるといくつかの変化が当然あります。

 例えば、ずいぶん早い時間にノルマを達成した時には心に余裕が出ます。ふと明らかな飲酒運転を見逃すこともありました。当然、罪を免れた相手は神でも崇めるように感謝します。これは気分のいい場面でした。気分もいいし、自分にある一つの権限のようなものを思うことが出来ます。というのも、呼気検査をするかどうかは警察官の主観に委ねられており、新米の自分にさえ裁量があります。例えば美しい女性が困っていれば、助けてあげることもできる訳です。逆に、鼻につくような中年男であれば、まずは検査をしてやろうとか、自分の気分でいろいろと処罰の結果が変わったのです。そういう場面を重ねるとき、自分にある権限というものに少なくない満足があったのを記憶します。

 とある夕方に車両検問した時のことです。目立つ高級車でした。小生が車を止めると男は随分面倒臭そうな態度で窓を開けました。一緒に同乗した二十代の若者が三人。明らかに酒を飲んでいました。あろうことか、缶ビールを車中に忍ばせ、飲みながら運転をしていた様子さえありました。聞くと、ゴルフの帰りだと言います。三人とも酩酊までは行かぬまでも、まあまあ酒臭く、これは飲酒運転として切符を切ることは間違いないと思い手順をしておりました。すると、

「すいません。昼から切符は勘弁してもらえますか」

急に助手席にいる若者が、唐突に言い出したのです。

「昼からというのは?」

「普通、取り調べは夜でしょう?こんな真っ昼間からは。」

「昼でも飲酒運転が罪なのは一緒です。明らかにお飲みになっていますよね」

小生はムッとして冷たく言いました。平日の昼から、流石に飲みながら運転している同世代の人間にイラッとしたのもあったとおもいます。これは小生としては一番厳しく飲酒の切符を切ってやろうと検査器を用意しようとしたときです。

 一瞬、睨むような視線でこちらを助手席の若者が見たのです。その視線は、非常に差別的で高圧的でした。

「あんたキャリアじゃないよね?」

「どういう意味ですか?」

小生がそう問い返すと、これもまた差別的な表情をしました。

「そういう意味だよ。」

そして、当時は珍しい車についていた車内電話(まだ携帯電話もない頃でした)で、どこぞかに電話を始めたのです。おそらく、親族か何かに話している様子でした。

驚いたのはそれからです。ものの三分とかからぬうちです。小生と一緒にいた警察車両の方で休んでいるだけの上司の無線が鳴ったのです。赤坂署のかなり上層部からの連絡でした。交通課の課長より上の所謂キャリアの方だったと思います。上司は少し長い間喋っていましたが、

「槇村、ちょっとこっちに来い。」

「はい?」

「今回、その車はやめておこう。」

「え?」

「一旦、解放だ。」

「どういうことですか?」

一旦も何も、交通違反の切符は現行犯のみです。何のことか、理由もわからぬまま、生意気なその四人組のスポーツカーを解放しました。まだ新人でわからずただただ気分が悪い日でした。本来は現場で違反者への処罰権限があるはずの自分がそれを行使出来なかったことも理由にあったのかもしれません。

 のちに周囲から漏れ聞きましたが、その時助手席に座っていた人間が、とある有名な政治家のご子息でした。

 ただの一度なら、このように記載はしなかったかもしれません。実は、こういうことは、しばしばありました。口利きという、その作業の名前までありました。

 なぜ、こんなことを貴殿にいきなり申し上げたか。早々に川田木という青年を説明すべく先を急ぐべきに思うかもしれませんが、この警察の中でのいくつかの経験が、青年との事件に関わるのです。交通課時代、こうやって切符を切らずに見逃した例がいくつもあったことは、小生に一つの影を落とします。政治家のご子息だけではありませんでした。ある時は、あろうことか有名な暴力団の会長のご子息のこともあったのです。なぜそんな界隈から警察の中に連絡指示が回るのか、意味がわからなかったのですが、小生はまだ警察官になったばかりで、このことの真実を理解したのはずっと後になってのことでした。その当時はただぼんやりと、末端の自分にも警察の権力という優越感がそこにあり、しかしながら上層部の人間がその権力を小生以上に利用する連絡ルートが警察内に存在するのだということを、あまり見つめたくない真実として、朧げに理解したまででした。


  昭和六十二年の夏に赤坂署からA署への異動がありました。

 所轄間の異動はこの時だけですから、その後、三十年以上をA署で過ごすことになります。四課、通常マル暴と言われた、暴力団担当への異動でしたが、交通課とは違い、いよいよ刑事ドラマのような拳銃を片手に、捜査の最前線に立ち会う自分を想像できる場所にきたと、興奮をしておりました。

 しかし、ここでも予想を裏切られました。四課での最初の仕事はテレビドラマのような世界では一切なく、暴力団の抗争に対処するわけでもありません。小生が最初に担当したのは拳銃の押収という一見地味な仕事でした。

 当時多くの暴力団は、さまざまな発砲事件を起こし一般人にも被害が及ぶこともありました。この拳銃の密売ルートを挙げるというものです。

 赤坂署からA署に来たばかりの小生は、まずは仕事の中で周囲より秀でたいという必死な時期です。年齢も二十代後半に差し掛かり、まさに誰にも負けたくないと業務に邁進していましたから、一見地味な仕事とはいえ何の躊躇もなく努力を開始しました。

 実はA署はこの拳銃の押収の作業では全国でもトップレベルの成績を上げていました。特にとある先輩刑事が本当に優秀で、幾度も摘発を成功させていました。若い小生はこの先輩の仕事を盗もうと、事あるごとに、この先輩に関わろうと思っていました。その先輩は幾度も表彰を受けていて署長の覚えも良かったのです。当時、この拳銃の押収量を、各県警や所轄が争っていました。暴力対策課の横串になった競争でもありました。ここで実績を二十代で出せれば更に自分の求める仕事の幅が増えるのは間違いありません。

 しかしです。検挙押収は、言葉では簡単に言えますが、そのやり方は想像もできませんでした。暴力団の事務所に行っても、相手も真剣ですからどこに隠しているかなど教えるわけがありません。そもそも事務所に置いてあるわけもありません。正直、いくら考えてみても、どんなやり方で捜査をしていいのか想像もつきません。現場調査、などと言いながら、明らかに時間が無駄に過ぎていくのを感じる毎日でした。

 焦った小生は、先輩のやり方を学びたいと思って、幾度となくその人に相談しましたが、いつもニヤニヤと笑って相手にもしてくれません。まだまだ早い、というようなことを言って相手もしてくれないのです。

 この暴対課の先輩は仮にFさんと記載しておきます。

 業を煮やした小生は、正面突破は諦め少し別のやり方がないかと模索しました。思い切ってこのFさんが夜飲んでいるような場所に偶然居合わせて、そこで話を聞くというアイデアを考えました。Fさんは酒好きだというのは、周囲の間でも有名でしたし、毎晩、人脈作りのために色々な人と飲んでいるということでした。

 自分が非番の日を選び、Fさんが夕方から飲みに行きそうな日、小生は、A署の前でそれとなく待ち構えていました。すると早速初日から、署を出て綾瀬の駅の方に急ぐFさんが見えました。遠巻きに追いかけ、駅のあたりで追いつくと案の定、Fさんは南口の飲み屋街のあたりで居酒屋に吸い込まれていきました。流石に同じ居酒屋に入っても、お客様もある所にはまぜてくれないだろうと思い、一軒目はやり過ごし、ほろよく酔った二軒めに向かう時に偶然を装い話しかけようと思い、居酒屋の入り口が見える喫茶店で時間を潰しました。

 小一時間もすると、Fさんは友人三名ほどで上機嫌で出てきました。小生はそこで声を掛けるため喫茶店を出ようと思ったのですが、ふと違和感を感じました。と言うのも、Fさんが一緒に歩いて行く友人がどうも、明らかに不自然なのです。不自然というのも、一緒に居酒屋から出てきたのは明らかに暴力団員の様子なのです。

 小生はそこで怖くなったというより、見てはいけないものを見てしまったような感覚に陥りました。当然マル暴ですから暴力団員との面識はもちます。場合によっては、話し合うこともあると思います。ただそれは、あくまで警察と犯罪組織という向き合いの中でのことです。つまり立場も違うし、明確に線引きがある世界です。しかし、Fさんが居酒屋から一緒に出てきた時はその線引きに違和感がありました。明らかに友達のような笑顔で楽しそうに歩いて出て行ったのです。

 そのことがあってから、小生はFさんに、簡単に質問ができなくなりました。何か見てはいけないものを見たせいで、Fさんを直視することさえ苦しくなりました。

 引き続き、最優先事項である、拳銃対策は続きました。しかし当然、新米の小生が何かの端緒に出会うわけがありません。せいぜい先輩の作業について行く程度でしたが、全てが空振りです。時には暴力団事務所のガサ入れに参加することもありましたが、事前にある程度の暴力団側との折衝があるため、拳銃の押収などありえないのです。

 元来手柄を求めたい性格の自分は不甲斐ない気持ちでいっぱいでした。せっかく第一線の刑事になったのに、末席のままでは意味がないわけです。

 勘のいい貴殿ならここまでの説明で殆どを理解されたことでしょう。

 要するにFさんは、ヤクザ者と繋がっていたのです。あろうことか、警察側の裏金で作る調査費を大胆に使って、ヤクザと取引をしていました。つまり何十万円という金を払い、拳銃の原価を越える現金で接待をしながら、やくざに拳銃のありかを聞いていたのです。

 しかもこれは実際の拳銃の取引の場面を検挙するものではありません。ヤクザも、自分達に足がつかないように工夫して、どこぞの場所に拳銃を意図的に置き忘れるというやり方です。彼らにとっては、適当な場所に拳銃を置き忘れさえすれば警察からそれ以上の現金の見返りがあるわけです。申し上げた通りA署は摘発全国一位を争う優秀な署でした。所長もFさんが調査費を請求することに対し、次々追加予算を用意したのです。

 正直いえば、最初、綾瀬の居酒屋でのことだけでは、それはわかりませんでした。しかしその後の摘発が成功するのを見ながら、小生は自分の予感を強めていきました。もっと言えば、Fさんだけの作業なのかもわからなくなりました。課長もその上の警部も本当に知らないのか?実際にFさんは幾度か尾行してわかったのですが、ほとんど捜査などしていません。殆ど毎日居酒屋に行って、明らかにその筋の人間と飲んで、ハシゴ酒をしているだけです。ひどい時は二日酔いで酒の臭いを激しくさせながら、署の会議室を締め切って鼾をかいていることさえありました。それでも引き続き、定期的に、検挙が続きます。不思議な作業でした。どこか北海道や九州で摘発があると、翌月にA署でも摘発があるのですから。



 そうして、昭和六十三年になります。この年の秋に、小生は川田木青年と知り合うことになります。その夏、昨年七月のA署への異動から、一年が過ぎていました。日々雑用をこなすばかりで引き続き捜査四課での成果など何もない小生に、突然の声がかかりました。それがF先輩でした。

「飲みにいこうか?」

純粋に声をかけられたことは嬉しかった反面、当然その飲みは何を意味するのかは、何となく小生にも予感がありました。F先輩は小生の尾行を一切知らないらしく、

「一年間、地道にお前は頑張ってきたからなあ。」

などと言って、小生を居酒屋に誘いました。今思うと組織にはこういう仕組みがあるのかもしれません。何も仕事を与えず、長い間見習いだけをさせ、従順になったところで餌を与えるような作法です。

 まだ夕暮れもしていない、早い時刻でした。

「まずは勉強からだな」

おそらく調整費という裏金でFさんの行きつけの居酒屋に行きました。警察官の給料には少し高そうな居酒屋です。Fさんはノンキャリア、五十前後の警部補でしたが、殆ど仕事の話はしません。テレビで巨人戦がどうとか、あの歌手は歌がうまいとかそんな話ばかりです。居酒屋でひとしきり呑むと、二軒も、三軒も店を変えます。バーや、スナックが多かったけども、どこもFさんを常連として迎えます。小生も三軒目のスナックあたりになると酒も入り気分も良くなりました。優雅なものです。税金で飲むというのは。

 おそらく予想の通りの人間が合流してきたのは、確か自分がFさんに言われてカラオケを歌っていた時でした。小生のことを見定めるような顔をした、壮年の首筋と二の腕に刺青がわかる人間が二人、Fさんの隣のテーブルに陣取りました。そしてFさんに挨拶をしています。以前綾瀬駅で見た人間でした。

「おお、槇村も挨拶しておけよ。」

「…。はい。」

「こちらキタムラさんとコバヤシさんだ。」

差し出した手に小指がないのがわかりました。そういうことを知って紹介してるのか、Fさんは自分の水割りを飲みながら隣にいる女性と話しています。

 小生は、別に初対面の人間に差別的な対応などはしません。むしろ快活にその場を楽しむほうで、キタムラさんにもコバヤシさんにもそういう態度はおくびにも出さず、むしろどこかで予感をしていたせいで、ずいぶん自然体に話したのを覚えています。心地よく酔ってもいました。逆にFさんはどこかで小生を度胸の据わった人間だと思ったはずです。キタムラさんもコバヤシさんも恐らくその組織ではちゃんとした人なのか、礼儀も正しく、どこどこの田舎の出身だとか昔話や芸能の話などをしていました。

 その日はそれで終わりました。

 すると、Fさんは翌日からことあるごとに小生を可愛がってくれるようになりました。今までどんな質問をしても無視を決め込んでいたのを、署内で何かというと声をかけてくれるのです。飲みに連れてって楽しく話せる後輩が欲しかった、と本人も言っていました。でも配属されて一年しないと声をかけちゃいけないルールなんだ、とも言いました。最初小生はそれが何のことかさえ判っていませんでした。

 Fさんは結婚して子供もいましたが成人していて、夫婦仲は既に失敗していて、家に帰ってもつまらないと言っていました。悪い人ではありません。一軒目では話すことがないせいで彼の高校時代の野球の話から、巨人が好きなヤクザを選んで飲んでいるとか、家族がいかにしてうまくいかなくなるかなど、毎回同じ話を聞きました。実際、一年間、大した仕事も与えられずウズウズとしていた小生には、夕方から酒も飲め、かつ四課のエースであるFさんと、現地調査をしていることになっており、悪くない状況が一ヶ月ほど続きました。

「今度、槇村にも手柄をわたしたい。」

いつものスナックでかなり酩酊し、隣界隈に暴力団のキタムラさんや、コバヤシさんも同じ店にいたときに、突然そのことを言いました。

「手柄ですか?」

小生がそう聞き返した時に、キタムラさんが聞き耳を立てたのがわかりました。

「そうさ。いま、いろいろ仕込んでいるところだから」

「しこむ?」

「ああ。もちろんその、調べてるのさ。」

毎晩、飲んでいるだけ、昼は会議室で昼寝をしているFさんが、いつ調べることができるでしょう。そして、その話をした時の、あきらかなキタムラさんの表情の変化が小生の当初からの予想の通りでした。

 その時はすごく悩んだのを覚えています。

 Fさんを個人的に嫌いでもありませんし、当然、このキタムラが隠す拳銃押収物を、彼に指示された場所で見つけ出せば、A署内で評価が一気に上がります。でもそれが、途方もないインチキなのは言われなくともわかります。異動して丸一年、ほとんど何一つ成果もない末端捜査員です。若い頃ですから同期に負けたくないとか様々な気持ちがあります。今のまま肩書きの上がらない生き苦しい警察人生を歩むより、ここでFさんの下で手柄をあげ、役職を上げ、大勢を顎で使って、公金で豪遊できる気分のいい時間がすぐその先にあります。悪くない、というか大勢がこの道を通ってあちら側に行くのだと思いました。その夜は下宿に帰っても一睡も出来ずに悩みました。自分という警察官の存在意義にも関わる夜でした。多くの言葉が自分の頭に回ってはズキズキと脳を針で指すような、そういう夜でした。まあ、貴殿と似ているかは知りませんが、小生は生真面目だったのだとおもいます。

 翌日、Fさんに

「担当を離れたい」

と言いました。その一言で、Fさんは小生が何を思ったのかを察したと思います。特に理由もないし、酔っててこの一ヶ月のことは覚えていない、誰と会ったかも思い出せないですが、自分に向いていないと思う、そういうことを言ったと思います。

 Fさんは少し悲しそうな表情をしました。個人的にこういう出会いでなければ、Fさんの話も好きだったし、何より飲んでて楽しい時間が多かったです。気遣いもあり、人誑しなFさんは他の警察官よりずっと小生に楽しい時間を与えてくれる人でした。恐らく定年前に自分の作った利権を、気の合う若者に引き継がせようと思っていたようにも感じました。一ヶ月も毎晩飲んでいた訳で、情も感じていました。しかし、小生はやはりこの点は譲りませんでした。

 自分が断った後の翌日もその次の日も小生はFさんに呼ばれ続けてはいました。Fさんが一度だけ「お前の将来のためにもうんぬん」と言ったのを覚えています。また「ちょっと署長とも相談しなくてはだな。」とも言いました。

 違和感がありました。この作業が仮にFさんだけの設計と罪なのであれば、署長は、用途不明の経費を出しているだけで、被害者です。あのスナックでの談合も知らないはずです。とすれば、小生がここに一ヶ月参加して、その後、うっすらと内容を知った後に、拒絶したという事実は、さほど重要ではないのです。ところがそういう感じではありませんでした。実はその後も、まあまあ時間をかけてFさんは小生を口説いたのです。それどころか、四課の課長やその周辺の人間も、小生とよくわからない面談などをすると言い出したのです。

 この時、小生の脳裏にある記憶が甦りました。赤坂署の交通課にいた時に、ものの三分で、政治家ご子息から署の上層部への電話が回ったあの記憶です。もしそれが、一過性の、現場などの単独行動が基本であれば、警察署の中の作業は三分では成立はしません。突然前例のないところで

「犯罪をもみ消せ。」

という伝言はさすがに簡単ではないのです。知らない人間は、突然驚いて、拒絶するに決まっています。しかし幾度も繰り返して口利きの実績を作っている場合、三分で無線連絡が入るのは腑に落ちます。

(拳銃応酬の談合が、Fさん単独のことではないのではないか?)

と小生は直感しました。むしろ、Fさんが作ったのではなく、脈々とこういう担当者が存在し、拳銃だけではない色々な調整がそこにあったりするのではないかと、直感したのです。

 ただ、結果として小生はFさんの件は全て断りました。

 何も知らなかったという態度を貫きながら、特に多くを語ることなく拒絶をしました。

 あの当時の警察組織でそんなことをする人間などいなかったとも思います。

 そうして小生は、四課の中で明らかな閑職とも言える場所に追いやられました。それがまさに、昭和六十三年の夏から秋が過ぎ初冬を迎えた頃でした。四課からすぐに外に出すこともされなかったのはさすがに、情報の管理があったのだと思います。担当替えのような人事が目立たぬように行われ、四課の末席から殆ど臨時バイトのような席に回され、どうでもいい事務作業をするだけ、現場とは名ばかりの刑事失格者として、定例人事の次の夏まで何もすることがないような仕事が与えられたのを覚えています。

 まさしくこの時期に川田木青年と小生は出会うことになリました。

 業務上、干され気味であった小生は、当時A署の三階にあった捜査四課の蛸部屋に落ち着けなかったのはいうまでもありません。何一つ仕事がないばかりか、人間関係もギクシャクとしていました。一日に何度も、何かの言い訳を作っては外の空気を吸いに署の近所に出ていました。そうしてその時、ほぼ毎日のように署にやってくるその青年に気付いたのが、最初でした。

 川田木青年はいかにもの受験生で参考書のたくさん入った鞄を肩から下げながら、いつ見ても誰か人を待つようにしつつ、参考書に目を通していました。受験勉強の赤い参考書には警察署ではキャリアの署長しか行かないような大学の名前が記載されておりました。

 その頃、閑職に置かれた小生とは逆に、実は警察署はとある事情で忙しくなっておりました。貴殿もどこかで聞いたことがあるかもしれませんが、この時期は昭和六十三年なのです。幾度も青年が署にきているのを知っていながらA署の人間が放置して相手にしていなかった理由の一つは、まさにその年の瀬が昭和の中でも特に特殊な年末だったのもあったのです。昭和六十三年。まさにこの年の秋から冬にかけて昭和天皇のご容体が悪化しておりました。陛下は喀血し重篤説が流れておりました。皇居周辺では記帳に溢れる何万人もの長蛇の列で、警視庁の各所轄に応援要請が、皇宮警察から出るようになりました。また、万が一陛下が崩御された場合、どうなるのか、などの議題で上層部はかなり忙しくなっているのが明らかに分かりました。 

 当初は次の夏の人事まで暇だろうと鷹を括っていた小生も、様子が変わる気配がありました。皇宮警察側からの要請があり次第、その対応があるから準備をしておけ、という署長説明が課長を飛び越えて出ておりましたし、テレビの報道では皇居前に設置された記帳に向かう国民の列が何千何万人という数で延々と続く映像に重ねて、多くの左翼活動家などの言動が息巻いておりました。多くの意味で天皇陛下の重篤は国民に強い影響を与えておりました。命の終焉の話でありつつ、日本国民全体が象徴的な状態にあったのです。まさにそういう歴史的な局面において、日本の首都をどう警備するのかという、警視庁の役割の議論がかつてなく真剣だったのは確かです。

 あの冬、多くの人間は間違いなく昭和という時代の六十年余りを漠然と振り返らざるを得ませんでした。いやまだ二十代だった小生がそうだったというよりも、多くの大人たち、自分の父母の世代や、A署で言えば上層部、まさに戦争を経験した昭和世代の人間がそうでした。昭和十年代、太平洋戦争の時代から一連する、真珠湾攻撃に始まり大東亜防衛圏を失い本土決戦、東京大空襲から広島長崎の原子爆弾ののちの敗戦。国が滅びたと言われた状態から、奇跡の復興をとげた日本という国の、まさにそこに生き延びた日本人の全ての思いを詰め込んだ時代が昭和であり、その昭和が終わるのです。おおくの日本人にとって、おそらく言葉にできない時代の極限がそこにあったと思います。自分の祖父などは天皇陛下万歳という言葉の最果てのビルマ戦線で亡くなった兄の話を忘れられず、夏が来るたびに涙を浮かべてしておりましたが、その祖父も、満州国からシベリアに生き延びた旧日本兵でありました。そういう戦争という切り口、大人は誰しもが一様に、先の戦争と自分自身を切り離せなかったように思います。その戦争が一体誰が悪くて、何が間違っていたのかも判らないまま、敗戦となり、今度は貧困の中その日の生活に困りながら必死に生きてきた、そういう大人たちが世の中の大多数でした。小生にとっての大人とはそういう、戦争時代を色濃く通過したもしくは戦後直後の焼け野原に生み落とされた昭和の人々でした。その昭和という時代が終わるという言葉の重みは少なくとも尋常のことではありませんでした。警察署も署長以下、課長もFさんも含め天皇陛下の病状を気にしていましたし、若い自分にもどうやら大変な事の終わりが始まるのだ、ということは理解できました。警視庁の人間として、そこで非常に重要な首都警備の仕事がある、その意識が高鳴るのはごく自然のことでした。

 川田木青年がA署の一階を毎日のように訪れていたのはまさにそのような時でした。そういう署全体が忙しさに溢れるA署でしたが、やはり閑職に飛ばされて仕事もなく外に出ては戻ってくる事があった小生と青年が会話を始めるのにはさほど時間はかかりませんでした。

 目が幾度か合った中でその青年が訴えるものを感じた小生は

「どうしたのですか」

と思わず話しかけました。先輩に楯突いて警察官として居場所を失っている自分が何もできる訳はないですが、何か藁にもすがる眼差しで小生を見つめた青年の表情にその言葉が自ずと出たのだと思います。

「あなたは刑事さんでしょうか?」

「はい、まあそうですが。」

そう言った時に青年の目の色が変わりました。おそらく外部の人間からすれば警察官は第一線の刑事も、干された刑事も、同じ刑事なのです。

「刑事さんですか。お願いがあるんです。調べて欲しいんです。」

青年はそう言って物語りました。

「一体警察はどうなってるのですか。何度も相談しているのに、みなさん忙しいの一点張りです。」

「なるほど、いつ頃からですか?」

「もう二週間になります。」

「いまは、警察署全体が大変でしょう。」

「…はい。」

「一応、小生も警察の人間ですので内容だけはお聞きしますが、今は、ご期待に添えるかは、わかりません。」

「是非お願いします。」

とある女性が行方不明だという話で、心当たりがあるところを捜索してほしい、というのが青年の相談でした。警察が失踪届けを受理した後に具体的に動いてくれないことに不満を持っていました。

「なるほど。」

話を聞いて、小生はすぐにこれは家出だとおもいました。家出、失踪だと大騒ぎして実は恋人の家にいたという不良少女の例が多くありました。

 また青年の話では少女は埼玉の女性だということで埼玉県警との問題もあり、なかなか警視庁が作業しずらい案件なのはわかりました。小生は一回難しい顔をしたまま、まずは川田木青年の話を受け止め、しかし実のところ殆ど何もせずにその場を過ごしました。

 とはいえ青年は毎日のようにA署にきます。

 青年は小生を視界に入れると

「その後どうですか。」

と言ってきます。そう言われても、自分が刑事だとは言いましたが、日常の仕事でさえ与えられていない小生には何も出来ません。慰めに声をかける以外ほとんど出来ることも無かったのです。ただ、青年は受験勉強の合間を縫ってほぼ毎日のようにA署までやってくる。行方不明は埼玉だというからこの近所だけでなく多くの警察署に行っているのか、とにかく青年が必死なのを印象として強く感じるようになりました。しかし繰り返しですが小生が青年を見かけるのは決まって四課のあの末席の空気が苦しく、息抜きに署の玄関を通るときだけです。正直に言えば自分が刑事だと言ったことも後悔をしました。

 しかしそんな状態も長く続きませんでした。天皇陛下がいよいよではないかとなった年末頃には多くの上層部や先輩がそちらの仕事にとられるようになり、小生にも雑務とはいえ仕事が増え、青年の来訪する署の玄関に顔をだす回数そのものが減りました。


 年明けの一月七日未明、昭和天皇はお隠れになりました。

 崩御という用語が誰もわからずにニュースキャスターも不慣れな古語のような言葉をいくつか使ったのを覚えています。その日からテレビは全て広告を取りやめ全ての番組が報道特別番組になりました。何日もの間、皇室の伝統的な手順説明と恐らく用意してきたであろう昭和とは何だったのかという報道などが続きました。三日もすると内容を繰り返すしかなくなりましたが、それでも番組は戻りませんでした。

 東京の夜は暗闇になりました。上野や新宿の繁華街は照明を暗くし日本の国民は一斉に喪に服しました。警察官は、予めの予想の通り、各所轄から皇宮方面に臨時召集されA署はがらんどうとなりました。皇宮には警視庁の人員だけではなく、全国の警察官が集められました。陛下の崩御の後には殉死を遂げる人間も考えられました。殉死が爆発物と一緒になれば平常ではありません。その観点からも警備は非常に重要で、異様な緊張感がありました。

 警察官誰もが想像を絶する、人生に一度の警備作業を行ったのは確かでした。崩御の後は、いったいこの後に何が行われるのか、誰も予想ができていなかったと思います。警視総監でさえ、慌ただしく業務に邁進せざるを得ず、また、前例主義の多い仕事の中で、誰もが何の実績経験もなく半世紀以上を遡って、日本古来の伝統的な神事を、陛下が神様だった時代と人間に降り立った時代とを調整しながら、大喪の礼と呼ばれる儀式に向かったのです。

 小生が青年に再び会ったのは、大喪の礼の前に久しぶりに所轄に出た時でした。

 川田木青年は変わらず署を訪れては幾人かに最新の情報を聞きにきていたのです。

「ああ、まだ解決していないのですね。」

「はい。刑事さん、進展はないですか?」

「そうですね。今、警視庁全体がそれどころではない状態だから。」

そういう言葉の一つ一つも小生は自分を恨めしく後悔させます。何が刑事だ、警察だ、という言葉が自分の喉を針で刺します。

「刑事さん、彼女は絶対に事件に巻き込まれています。どうかお願いします。」

すでに一ヶ月も過ぎています。忙しいとはいえ、流石にもう失踪してからかなりの時間がかかっています。ここまで彼が動いているのに、署が対応していないのはどうもおかしいです。

「埼玉県警も、警視庁も、警察はおかしいです。」

青年は強く言いました。

「家出ではなく失踪や誘拐だとわかっているならすぐに対応されるはずです。親御さんは対応していないのですか。」

「家出じゃないです。拉致です。それを拉致ではなく家出かも知れないと処理するのです。」

「捜索願が出てるなら、それで対応しているでしょう。」

「埼玉で探していることになってます。でも僕は都内で誘拐されたのだと思うのです。」

「うむ。どうしてそこまで確信できるのですか。」

「理由はあります。」

「どんな理由ですか?」

それは、彼がまだその女子高生と会っていた時節にその周囲にいた不良青年たちを見たと言うものでした。不良青年は都内の暴走族関係者だった、自分はその人間らを綾瀬の駅の近くで見たことがある。わざわざ埼玉までスクーターで来て女性の誘拐をしていたグループがあったはずだと、細かく言いました。

「埼玉の警察にはそのことを言っているけど一向に話が進まないんです。」

小生は県警と警視庁にある作業の狭間のことを思いました。警察にはその成果や責任をどこに置くかについて非常に強い縦割れがあります。いわばそう言う責任が壁を越える場所の作業は優先されずらかったりします。小生は、少し忙しくなったと言っても皇宮の対応程度で相変わらず刑事部屋では何一つ権限もないままでした。引き続き、話を聞いても誰に何を掛け合える事もないのが真実でした。

 青年の手には例の赤本と呼ばれる難関大学受験の参考書が常にあります。目を合わせて答えられない時に小生はその参考書を幾度か虚しく見つめたのを思い出します。一月の後半で、いわゆる共通一次試験が終わった頃だったとおもいます。何か自分の中で、これを無視できないという気持ちが落ちてきました。大喪の礼の準備で所轄にはしばらく出なくなることを思い、

「わかった。今から資料作りがあるので、よければ今日の夕方に、一度ちゃんと話を聞くよ。」

そう言いながら三階の部屋に青年を連れて行くのは人の目があり、

「綾瀬駅のどこか喫茶店でもいいかい。」

と伝えました。


夕方を少し過ぎた日没前、小生は綾瀬駅に向かい喫茶店に入りました。

「中学が同じ学校でした。」

「それで別々の高校へ?」

「はい。」

「彼女とはどういう関わりですか。」

「どういうって、その。」

そんな会話をコーヒーを飲みながらしたのを覚えています。

 その時、彼は明確には言いませんでしたが、男女の、つまり恋人かそれに近い関係なのだと想像しました。言うなれば誰かに恋人を奪われたみたいなことかもしれない。ただ、親御さんから失踪届けも出ております。聞くと、毎朝父親は埼玉の地元の駅でビラを配っていると言います。

「きっと彼女はブルースペクターに拉致されたんだと思うんです」

ブルースペクターというのが唐突な言葉でした。ブルースペクターはこの綾瀬界隈では問題を幾度も起こしている不良少年が多く参加する暴走族でした。都内から埼玉千葉にかけて広がる非常に広域なものでその本部が綾瀬にあるのです。スペクターという言葉の前にレッドとか、ブラックとか名前をつけて他県でも存在していました。典型的な不良でした。ただ、暴力団担当の警察の現場からすると、暴力団の周囲にある未成年の幼稚な組織という感じでした。警察としても暴力団のように事前の対策をすると言うより、何か事件があった後に徹底的に取り締まるか、彼らが行う暴走行為の道路交通法的な取り締まりの方が優先的でした。

「どうして、ブルースペクター?とわかるんだ?」

「失踪する前、埼玉の河川敷で、彼女を見て奇声を上げていたんです」

「その日に?」

「いや、行方不明になった日ではありません。もっと前です。」

「奇声を?」

「僕がいうのもなんですが、彼女が素敵なので危うい言葉をかけようとしていたのです。」

彼が見たというのが埼玉の川沿いで、警視庁の管轄外でした。小生は話を聞くたびに、そんなことばかり言葉を集めていました。

「あれはきっと埼玉じゃなくて、綾瀬の人たちです。」

「どうしてわかる?」

「スクーターのナンバーが足立だったのと。」

「うむ。」

「綾瀬で、あのとき奇声を上げていた人間に似た人物を幾度か見たことがあるんです。」

「他人ではないかな。あのての人間は似ていて間違いやすい。」

「僕なりに毎日調べてるんです。」

青年はそう言って小生の目を強く睨みました。

「どうして動いてくれないんですか?」

「いや、今動こうとしてこうやってーー。」

「彼ら暴走族になぜ、警察は躊躇するのかがわからないんです。」

「躊躇してるかなあ」

「してますよ。」

どうして警察は躊躇するのだ、という言葉が強く静寂を作りました。

 正直いうと、こういう話は今という時代と、昭和の時代と少しニュアンスが違います。単純には、治安が全般的に悪かったとも言えますが、家出少女が本当に多かったのは事実です。恋人が他の男に取られた程度で大騒ぎする少年も多かったのも事実です。

 小生は激しい剣幕に押されながらも、少しずつ青年の言葉を飲み込みました。

 ただ、やはり正直自分にはこの材料で、埼玉で対応しているものを、県警にまで跨いで捜査動員し、スペクターを捜査せよという指示を発動する権限はありません。ましてや、現場で暇を出されているところです。少なくとも四課で本業の仕事でさえ、干されている自分には何の権限もなかったのは事実でした。

 今すぐにという空気を出す中、話が進まない様子を感じるたび、少年は肩を落としました。

 喫茶店での議論はずいぶんしましたが、どこかで小生に実力が不足することや警察組織への絶望的な感覚が、青年の中で増幅したのがわかりました。小生は困ったことがあれば電話をしろと言って直通の電話を渡すのが精一杯でした。


 その夜、小生は再び眠れませんでした。

 青年の眼差しに何一つ対応ができない自分のことを思いながら、今ある境遇についても後悔のような気持ちがやってきます。あの時、Fさんの話を断っていなければ、今頃は拳銃押収の手柄を繰り返す中で、署長クラスの人間とも会話ができたのかもしれません。であればこの青年の相談もできたかもしれない。捜査員の相談をしたり、青年のいう暴走族界隈に警察として動くこと程度は可能だったでしょう。あのとき小さな正義心で全てを断ったせいで、権力という意味で何一つもない自分がそこにいました。あのときの自己満足の結果、つまらない小さな正義は貫くことはできたけども、ひとりの困った小市民さえ救いもできない自分がいます。であればFさんの言うことに従って過ごした方がよほど良かったのではないか。幾度となく目を閉じて眠りにつこうと頑張っても、そう言う言葉が脳裏にうるさく、加えて川田木青年の眼差しが必死に何の迷いもなく自分を照らすのです。

 可能性はかなり厳しかったとは言え、翌日から小生はこの件に、掛け合う努力をしました。

 まずは四課の上席に一度話をしました。昭和の最後で忙しいときでしたが、上席は、意外にも普通に対応をしてくれました。捜索願はA署にも届いており、対応は形式上あったのだと説明がありました。ただ、一通りの会話の後は、杓子定規に戻り、

「そんなことより、明日また、皇宮警備の要請が出るから対応しろ。最重要案件は国体の警備だ。」

とはなりました。そのほか、幾人かの先輩刑事にも話をしましたが、同じような答えでした。

 そもそも小生はその当時時代の混乱の中だったとは言え、四課で暇をだされている若者です。ましてや、自分の言い分を強引に通して、川田木青年の主張する捜査を行うことなど難しい。とはいえ、川田木青年のあの眼差しが今夜も自分を不眠にするとおもうと、引き続き粘って先輩に相談をしていました。

 そのときです。

「あの暴走族の周辺は、触れない方がいい」

と言う言葉が帰ってきたのです。むしろそのニュアンスは

「お前は触れない方がいい」

というニュアンスです。この発言をした先輩の名前は末尾の証拠資料の中に入っています。先輩はすでに鬼籍となった方ですが、実はここに小生の申し上げねばならずにきた、本質が見え隠れしているのです。その時は一切気にならなかったが、後々それが恐ろしいことだと気がつくに至ったのです。小生はその時、それらの言葉に立ち止まって考えることはできませんでした。しかし、この言葉は後々小生に追い打ちをかけます。むしろ、拳銃のFさんのことや、政治家の息子を見逃していた口利きなど、あらゆる問題に通底するなどということも、この時はほとんど脳裏に及びませんでした。

 

 天皇陛下の大喪の礼が始まりました。

 上司の協力は得られぬまま数日が過ぎていました。自分でなんとか青年の件の捜査をできないかと模索しているうちに、再び、慣れない皇宮実務に忙殺をされていきました。お隠れになった天皇陛下の、葬儀である大喪の礼、というものが二月の末に執り行われることが発表されたのです。今の時代からは想像しづらいかもしれませんが、崩御が一月七日で、およそこの手順は二ヶ月に渡ったと言うことになります。小生は、青年の表情は心にひっかかりつつも何一つ手をつけられぬままその慌ただしさの中に入っていきました。

 署長は挨拶で、大喪の礼については史上最大の警備になること、各国の元首・弔問使節及び国内要人等約一万人が来日し、また新宿御苑から赤坂御所までの沿道には恐らく数十万人が集まること、全国の警察が一同に会する大事業になることなどを、かつてない神妙な面持ちで説明しました。二月の二十四日に向けて、ほぼそのこと一色になっていきました。この頃には、Fさんも小生の上司である四課長も過去の拳銃周りのやりとりなど忘れたように、警察組織一体となってこの大喪の礼の警備準備に入っていきました。


 二月二十四日当日になりました。

 小生は懐かしい偶然にも赤坂見附付近の警備に当たりました。

 昭和天皇の棺を乗せた車、霊柩車に当たる轜車が、皇居から新宿御苑まで都内を走るその街路が三十万人を越える国民で埋め尽くされておりました。沿道に日の丸の国旗を振る雨の中の人々の中にテロを警戒し爆発物の対策警備をする。入り口がある訳でもない国道の沿道で持ち物検査をできる訳でもありません。壮大な責務を前にその時警察は一つでした。Fさんも、交通課も、四課も、上層部の癒着もなにもない。ただ警察官になった最初にあっただろう純粋なる国家の重要な業務に全員が邁進しておりました。

 当日に至るまで、極左暴力集団は「大喪の礼爆砕」を主張し、さまざまな暴発予告のビラがばら撒かれておりました。それらを完全なまでに対処処理を繰り返し、冷たい雨の降るあの日を迎えたのです。

 天皇制反対を唱える青年二名が葬送の列に飛び込んだのは小生が警備にあたった赤坂見附とは目と鼻の先でしたが、それ以外は大きな事件と呼ばれるものもなく、奇跡的に大喪の礼が無事終了した時に、ひとつの感動さえあったのを覚えております。そしてーーそういう達成感の後に小生の精神的悲劇は起きたのです。



 青年に渡した番号に直通電話で連絡があったのは、久しぶりに小生がA署の自分の部署に出た時でした。

「槇村又兵衛さんですか?直通の電話を何度かかけたんですが」

「申し訳なかった。ご存知、大喪の礼というのがあってね」

電話口で話しながら、小生にはまだ巨大な任務の後の達成の気分がありました。しかしそのことに青年は一切興味も示さず、

「……。今日このあと会えませんか。」

「今日か。了解。わかった。その後どうですか?」

「進展はないです。」

「そうですか。少し落ち着いたから、自分も時間をとって対応できると思っています。」

「いや、いいです。警察はもう諦めました。」

「諦めた?」

「諦めるという意味がよくわからないが。ここは警察署だよ。」

「警察を諦めたけど、あなたに個人的に話したいんです。」

「個人的に?」

その言葉は少し唐突でした。しかし脳裏には再び青年のまっすぐな眼差しが浮かびました。

「わかった。また綾瀬の駅前の同じ喫茶店で良ければ、夕方には大丈夫だとおもう。」


 喫茶店で再会した青年は、驚く姿をしていました。

 どこから見ても進学校ではなく不良少年の格好をしていたのです。参考書など持っていた様子など微塵にさせず、当時の城北の暴走族がみんなしていた裏地の、髪の毛はずいぶんなデップでオールバックにしています。

「どうしたんだ?」

「どうしたって、潜入です。」

潜入という言葉を非常に奇妙に思いました。要するに青年は、恋人を奪還するために、単身でブルースペクターの内部に潜入を始めたと言うのです。

「進学校の人間が、暴走族にぼんやり入って、大事な犯罪情報をもらえると思いますか?槇村さん。僕はもう命かけてるんですよ。警察が何も動いてくれなかったから。」

命懸けという言葉に小生はハッとさせられました。無意識の焦りが生々しく小生に油の汗を滲ませました。彼は受験の合間を縫って、服を着替え、不良らしい服装をして暴走族の内部に侵入し続けていたのです。それでも内偵を続けているのです。事態は小生の想像を遥かに超えて深刻なのかもしれません。誘拐だけではないと言う、言葉が会話に出るようになりました。

「どうしてそこまで?」

それが愚問であることを、喫茶店のテーブルで目の前に座る、不良の芝居をした青年の眼差しが物語っていました。

「槇村さん。警察は命に関わるかもしれないのに、どうして放置できるんですか?これまでずっと放置してきて。そもそも警察は、先んじて市民を守る気持ちこれっぽっちもないじゃないですか。国の事業であれだけ大勢使い、管轄署ごとのメンツだとかには頑張るけど、それは警察の保身ですよね。そう言う大人の事情ってみっともないと思いませんか?子供でもわかりますよ。目の前の命より大切なものなどあるのですか?」

青年は初めて小生に噛みつきました。

「一刻を争うんですよ。今なんです。今日、いや、今この時間の一刻を争うって。わかりますか?」

「まあ、時間がかかったのはすまなかった。いや、言い訳はできない。すまなかった。」

「いや、もういいんですよ。ブルースペクターの中で、どんなふうに言われてるか知っていますか?」

「警察が?かい。どんなふうに言われている?」

「もういいです。僕は既に警察そのものを諦めたんですよ。」

若者が警察を諦めるというのは、いちおう、警視総監まで含めた侮辱とも感じるものです。小生はあまりに頭ごなしに来るので少し反論的に、

「ちょっと待って。でも、ようやくだが自分も時間を取れるから、A署のなかでもなんとかしたいと思ってるんだ。」

と言いましたが、青年は何か心を決めている様子で、不良そのものの変装をした格好の迫力のまま、

「もういいって言ってるじゃないですか。お願いは別にある。むしろそっちをお願いしたいんです。そのために今日、槇村さんに来てもらったんです。正月から二ヶ月、ぼんやり指を加えていたと思っているんですか?警察など信じられないから、色々やってるんです。」

「……。」

「わかりましたか?槇村さん。今日は警察はどうでもいい。あなたに相談に来てるんです。」

そこまで話して、川田木青年は態度が変わりました。警察への不満の言葉は消え、むしろ個人的な事情を、小生にすがるようにして覚悟をして考えた内容を話し始めました。

「いまブルースペクターの人間たちを一人一人詰めているんです。」

「詰める?」

「いや、向こうも人間です。命がけで脅せば、口を割る人間もあるんです。」

「それで、済むのかい?」

「すむ?」

「いや、潜入している事がバレるのではないかも」

「はい。そうなると思います。最後は決闘するという事です。」

「決闘?ちょっと待って。」

「待つのは無理です。時間がないんです。」

「……。」

「決闘をしたいわけではないですが、今夜呼び出してあるんです。」

「呼び出しって、君が?大丈夫なのか?」

ブルースペクターは凶器を準備していろいろな事件を起こしていました。非常に危険なはずです。

「もう決めました。そのことは決断したことですしどうでもいい。で、今日は槇村さん、あなたに、個人的にお願いがあるんです。」

まさかその決闘に参加しろということかと疑いましたが、違いました。むしろその場所に来られたら困るというのです。

「あなただけです。この三ヶ月で私のことを聞いてくれた警察関係の人はあなただけなのです。なので少し面倒なことなのですが、槇村さんにお願いしたいことがあるのです。」

決闘という言葉を口に出してから、明らかに青年は格段上の精神の勢いの中に立っていました。これまで何を頼まれても警察組織の都合を、しかも末端の都合で何もできずに右往左往をしているだけの小生は、その迫力を前に項垂れるしかありませんでした。

「槇村さんに決闘に参加されても困ります。心配しないでください。話し合いですから大丈夫です。僕が今、お願いしようと思ってることには、槇村さんには何もリスクはないですから。」

青年は出会って初めて、少しだけの笑顔を見せました。大切なお願い事に笑顔を添えるのを忘れない本当の好青年だったのです。それでいて、ため息に混じって出た悲しい本音が忘れがたい、そんな微笑みでした。

「今夜もう一度、時間をください。ここで待ち合わせてください。お願いができるなら、渡すものを用意をしますので。」

「渡すものを用意する?」

「はい。万が一にどうするかなどを記載したものです。だいたい、できてはいるのですが、間違いがあってはならないんです。ちょっとわかりやすく紙にしたほうがいいかなと思って大体できてるんですが。今からもう一度まとめなおします。」

「ものを受け取ればいいだけ?」

「はい。その中に相談事があります。もし万が一のことがあったら、それをお願いしたいのです。」

万が一という言葉が気になりましたが、小生は、これまでの青年との会話の流れもあり、おおむね了承し、この喫茶店にまた来ると告げました。

 約束が成立して少しほっとしたのか、はじめて川田木青年は喫茶店でアイスコーヒーを口にしました。すでに氷は溶けていて、上澄は薄い水だったのを三十年たった今でも思い出せます。先月にはまるで受験生に見えた川田木青年の命をかけたその変装と、豹変ぶりに再び目を奪われつつ、コーヒーを吸う姿はやはり未成年の青年でした。残りのコーヒーを一息で飲み干すと、我々は夜の八時に再開することを約束して一緒に喫茶店を出ました。



 二十時に待ち合わせた喫茶店には入りませんでした。

「もう時間がないので。この中を読んでもらえればわかりますから。」

青年は少し大きな封筒を小生に渡すと、青年は河川敷を歩こうと言いました。

「少し時間がないので歩きながらでお願いします。」

「これは何?」

分厚いノート幅の封筒を指して小生は訊ねました。

「保険です」

「保険?」

「大丈夫です。迷惑になるようなことは書いていない。でもどうしても槇村さんにお願いしたいんです。他にいないから。」

「他にいないのですか。」

「親に頼むようなことでもないんです。ええ。できれば警察の人がいいんです。」

「よくわからないが、まあ、了解するしかないね。約束をしたから。」

小生がそういうと、川田木青年は改めて感謝の表情をして、

「ありがとうございます。ただ注意点があります。」

「注意点?」

「はい。」

「どういう注意点なんだい?」

「絶対に十年間見ないでください」

「十年?いきなり唐突だね」

「万が一、なにかがあった場合の保険なんです。」

「万が一って、危ないことはしないだろう。」

「いえいえ。万が一です。まんがいち、僕に何かがあった場合の話です。十年後にも成り立つように設計してあります。」

「設計?」

青年はその言葉には答えませんでした。しばらくして

「槇村さん。今少年院に入ると人を殺しても二年で出れるって本当ですか?」

さっと、話題が緊張感を帯びました。殺す、という非現実な言葉が目の前で揺れます。

「どうだろうな?そんなことはないし、だから人を殺しても良いわけではない。そういうことなのか?」

「僕は殺さないですよ。だから少年院に入るのは僕じゃないですよ。まさか殺したりはしない。それでは別の問題になる。」

「……。」

「でも、未成年じゃ殺しても懲役は十年は行かないでしょう。ましてや、喧嘩してその結果で相手が死んだくらいじゃ」

「……。」

「槇村さん。警察はもっと暴走族を取り締まるべきです。ほとんど暴力団と一緒ですから。いや、未成年、というせいで余計たちが悪いんです。」

「それは一理あるかもね。」

「はい。なので、まあ十年でお願いします。それまでは開かないで大丈夫です。お願いします」

「どういうことだい」

「潜入していますから、諜報員のようなものです。なにをするか、されるかは一応わからない。だからこういう保険を打つんです。数学の確率です。」

「頭がいいと言葉が複雑でわからないな」

「春から大学生ですからね。頭は使わないと損です。」

「へえ。合格したのか。おめでとう」

「ありがとうございます。でもまあ、大学受かっても意味ないですよ」

「そんなことないだろう。人より出世できるよ。」

「意味ないです。何ができますか?人間の本質として。誰か周りに学歴を披瀝するくらいでしょう。こうやって困ってる人間になにひとつ手を差し伸べられもしない。」

青年は再び暗い顔に戻った気がしました。ただ眼差しだけは誰よりも強く、小生の目玉の裏まで睨むようでした。

「なんとか、お願いしますね。男の約束です。槇村さん。」

「わかった。男の約束としよう。この封筒の通りにする。何書いたかわからんけど、約束をしよう。」


約束が成り立った後、川田木青年は小生の隣で最後に立ち止まってすこし思い悩むような表情をしました。

 実はそれは途方もない覚悟と、目の前に今から自分が確認しに行こうとする現実とに苦しんだ表情だったのです。いやその時の横顔こそが小生の脳裏に入れ墨のように美しい迫力で永遠に張り付いているのです。永遠の後悔を作るものが目の前にあるとも知らず、鷹揚な小生は、年長者の気分のまま

「どうしました?」

と尋ねました。青年が何かを言いそうだったから。

「いえ、その」

「なにか、言い忘れてるか?」

「最後に質問していいですか。」

「質問?もちろんだ」

「槇村さんは恋をしたことがありますか?」

小生は、突然驚いた。恥ずかしながらなかなか、答える言葉もなかった。自分の過去にそういう季節が、然程なかったかもしれません。

「恋くらいは、したかもしれないが」

「それは実りましたか?」

「成就はしていないですかね。まだ独り身だから。」

「そうですか。そのお相手は同級生か何かですか?」

「そのようなものかな。」

「その時の気持ちを思い出せますか?」

小生は足が止まりました。青年は、自分の恋心については何も言いませんでしたが、質問をしていながら、自分が恋というものの中にいることを告白していました。おそらく行方不明の相手がその対象なのでしょう。

 何を自分が言葉にしたのかは思い出せません。打算的な、署へ戻ります、という言葉が小生の彼に言った最後の言葉だったと思います。


「恋をした、その時の気持ちを思い出せますか?」


 そういう言葉を残して、川田木青年は河川敷の暗闇の方へ去って行きました。小生が川田木青年を見た最後がその背中になります。



 その翌日、A署の管轄内でとんでもない事件が起こりました。

 正確には他の事件で逮捕されていた暴走族の少年らが、驚くべき自供を行ったのが事の始まりでした。

 人間を殺して、コンクリートに詰めて埋立地に捨てたと言うのです。世に、女子高生コンクリート詰め殺人事件、と呼ばれるその事件は、A署の管内でおきました。おそらく、戦後人間が起こした事件として最も残虐極まる監禁、殺人死体遺棄事件です。何の罪もない女子高生当時十八歳の殺人の容疑で起訴されたのは、四人の未成年でした。

 貴殿にはこのような全国を震撼させた殺人事件が起きた時にその所轄がどのような状態になるかは説明の必要もないでしょう。署長以下、警視庁の上層部と合同捜査本部を設置し連日の記者会見が始まりました。大喪の礼が終わったすぐ後に、再びあらゆる作業が止まってしまうほどA署全体が忙しくなりました。既に逮捕されている少年の取り調べから、少年らが被害者を監禁した民家の捜索、遺棄された死体が若洲の埋立地で発見されてからの鑑識、現場検証…。A署正面玄関には大勢のテレビカメラが並び、下手に出入りすれば何を聞かれるかわかりません。上層部以下混乱を極め、様々な作業の皺寄せが現場末端まで降りていきます。殺人は捜査一課の仕事とはいえ、二課以下刑事の現場以外も含めA署全体が沸騰するような忙しさになりました。

 ただこの沸騰は、実は本業の仕事でつまづいたばかりの小生には少し違う意味合いを持っていました。目の前に寝る間もなく仕事が来て、上司らから処理を期待される、膨大な作業に必死の対応が必要な時、組織の上下はある種の信頼が成立します。仕事が未熟な若者でも徹夜の作業をする事で上司から熱い感謝を受けられます。平たくいえば小生にはそれが生じました。四課の中の問題で仕事を外されていたところに猫の手も借りたい、A署をあげての一大事がやってきたわけです。無論小生が、最前線で殺人犯や被害者の周辺を調べるなどはなかったけども、銭谷警部補には言わずもがな、殺人発生の警察署には官僚的な作業が無限にあります。紙に書き、報告書を残し、一つずつ作業、確認していく作業が大量に発生していました。とくに少年加害者を四人に絞るまでもずいぶん工数がかかる作業でした。四人の少年らは取調べにも毎回毎回説明を変えるくらい不安定でもあり、どこまでが共犯で実行者が誰かなどは日々の取り調べを総合的にまとめねばならない有様でした。にも関わらずメディアは騒然としていて、間違った情報でも開示すれば一瞬でA署にとって命取りになるのが目に見えていました。

 恐ろしいことに、殺人の前に監禁が一ヶ月は続いており、また監禁場所となった部屋には大勢の若者が出入りして、関係者は非常に多かったので、二課から四課まで若手を中心に大勢が常時待機、徹夜輪番での作業対応をとっていたのです。言わずもがな、小生にはそれは失地回復の絶好の場面でもありました。この時、誰よりも積極的に雑務をこなしたことがその後、A署で多くの場面で役に立ちました。槇村はいい奴だと言ってくれる人が少なからず増えました。組織にいる限りはそういう雑用などの場面での感謝は意外と人は忘れぬものです。ある意味自分の四課での問題が、雲散するかのような至福もありそれまでの鬱屈が晴れるかのようでした。

 ただ、その浮かれた気持ちの中で、小生は何よりも重要なひとつのことを見落としていたのです。


 女子高生事件の混乱した忙しさが峠を越えた頃です。人の噂も七十五日、とはよく言ったもので、どんな熱のある出来事も、三ヶ月ほどの時間を過ぎると少しずつテレビやマスコミでも全面を独占するようにはならなくなります。三月に始まった女子高生殺人事件の混乱も、夏に入ると中国で天安門事件が起き、秋にはベルリンの壁が崩壊と、ずいぶんな世界的な事件の前に報道は少しずつ変化しました。A署の玄関前に毎日のようにやってきた報道陣が少しずつ数を減らしていきます。徹夜での激務も減り、暇ができるようになりました。泊まり込みの作業が続いた小生も少し落ち着いたのをきっかけに金町の寮に戻ろうと綾瀬駅に向かった時です。ふと川田木青年と話した喫茶店の前を通りました。

 そういえば、毎日のようにA署に来ていた彼をその後一度も見ていないのです。小生は彼と最後に会った日に貰った封筒の重みを思い出しました。あの日以来ずっと署に泊まり込みの作業が続いており、封筒のことさえ忘れていました。喫茶店の前を通る時その封筒の重みと手触りが思い返されました。少し嫌な予感がしました。

 川田木青年が助け出そうとしていた人間は女性でした。名前は聞きませんでしたが、話の中では恋人のようでしたから、もしかすると相手は、女子高生のような世代なのかもしれない。いや確か女子高生でした。そして何より、今回女子高生殺人事件で逮捕された四人の少年は、暴走族に所属していました。A署周辺の暴走族、つまりブルースペクターの人間でした。そして事実として毎日警察署に来ていた彼をあの後一度も見ません。そう思ううちに、嫌な汗が背中一杯に集まるのを感じました。自分は致命的な見逃しをしていたのではないかと、不気味な言葉が脳裏を掠めました。

 青年は「自分の身に、何かがあった時」といっていました。あのときの表情を思い出します。子供じみた言い方に見えて、目には凄まじい迫力がありました。恋人を奪還するという映画のような言葉にも覇気がありました。そこまでの覚悟です。ということは、もし、そんな作戦がうまくいかなかったのならば、またA署にくるはずです。警察が嫌いでも、小生への直通の電話を鳴らすことができるはずです。

 漠然とした恐怖のなかで、寮に帰るのをやめて署に戻ると、小生は彼と最後に会った日まで遡りA署内で起きた事件について調べました。すると、あの河川敷で別れた日のその夜に発生した、とある不起訴事件の調書がありました。


暴走族内部の喧嘩・不起訴


「不起訴?」

小生は、ふと声を出していました。それはつまり、事件にもなっていない事件なのです。すぐにその不起訴案件を調べました。そこには、女子高生事件で問題視されているブルースペクター(暴走族)内部で喧嘩が発生したことが記載されていました。拉致や監禁は関係せず、今回の女子高生事件とは関係せず、と記載がありますが、日時はまさに、小生が青年と最後に会ったあの日の深夜です。そして、その翌日が、少年AとBが女子高生コンクリート事件について供述を始めた三月二十九日になります。まさにA署が史上最も多忙を極めることになるあの日、前夜です。

 不起訴事件の喧嘩に参加した暴走族複数名は、実は早々に警察に出頭しました。各メンバーは「相手が凶器を持っていたから、正当防衛した。殺されると思った。」と口を揃えました。正当防衛の結果、一人の暴走族メンバーの少年が意識不明の重傷を負いました。そもそもこの身内喧嘩のきっかけ、呼び出しは、その意識不明にされたひとりの少年だったため、また少年は懐にナイフも持っていたため、暴走族複数名側の正当防衛だと判断されたのです。これが不起訴の理由です。つまりこの事件は呼び出した側のひとりの少年がナイフを持っていた、それに対する正当防衛をした多勢の方が結果的に加害者になってしまったものであり、当然加害者側は不起訴無罪となった、というものでした。逆にナイフを持っていた青年は重篤な意識不明の原因となる大怪我を頭部に負う被害を受けたのです。

 その呼び出しをしたひとりの少年ーー重篤な被害を受けた暴走族員の名前は、川田木圭一という名前でした。


 小生は目の前の調書が真っ白になる目眩を覚えました。この「河川敷での暴行事件」は全国的に報道された「女子高生死体遺棄事件」の影で一切報道どころか注目もされません。それどころか女子高生事件の捜査があったせいで、殆どA署の中でも一瞥もされずに不起訴となった印象さえあります。誰もが最優先に考えるのはあの全国を震撼させた恐ろしい女子高生事件であり、周辺で起きた暴走族の一見ありがちに見える身内の喧嘩は軽んじられました。

 小生はそのまま夜を徹して調べはじめました。少なくとも「河川敷の事件」ではまだ誰も死亡には至ってないことを確認し、不起訴になった加害者らに当たるよりもまず、川田木青年に何があったのかの現実を知りたいという思いもあり、徹夜のままの夜明けに、彼の自宅の記載がある、埼玉県八潮に向かいました。まだあの頃は、筑波線ができていない頃で金町から始発のバスで埼玉県境を越えて向かったのを覚えています。その家についた時、玄関で彼の母親が出ました。警視庁のものです、と挨拶し、川田木青年との面識があり、できればお会いしたいということを伝えました。すると、母親は凄まじい剣幕で、

「警察の人は、帰ってください!」

と怒鳴りました。明らかに、眼差しに殺気さえあり取り乱しています。あなたに会わせることはできない、出来るわけがない。警察はさっさと帰れ、二度と近づくなの一点張りなのです。

 小生は、そう言われてもそれも譲ることができません。怪我のお見舞いだけでもさせてくれと、どうにかして頭を下げ続けました。一度扉が閉じられても玄関前に立ち続けました。一時間に一度くらいだけ呼び鈴を押し、応答がなくともそのまま立ち続けました。夏の日差しが随分強くなっても小生はそこを離れることができませんでした。始発のバスで来てから、昼をすぎた頃になって何回目の呼び鈴を押した時だったでしょうか、涙を目に溜め切って顔が変形したように泣き続けたであろう母親がーー川田木青年のお母様が、扉を開けてくれました。


 この後の順番は正確には思い出せません。

 お母様に案内をいただいた川田木青年の部屋は、受験生の典型的な勉強部屋でした。昨日までずっと読んでいたように溢れた参考書類が机に並んでいました。それらの赤い参考書などはA署や喫茶店でも目にしたものでした。その部屋はまるで、大学受験を終えたその日から時間が止まっているかのようでした。その横で眠っているのが川田木青年でした。明らかに様子がおかしい表情でした。顔の表情が、もう既に変わっていました。事件からおよそ一ヶ月の間、目を覚ますことがなかった青年は、生死の合間を彷徨い、ようやく命だけが安定したということを顔を壊すように泣きながらお母様がぽつ、ぽつと話しました。しかし、医者からはこれ以上の回復は難しい、というのを結論的に言われていました。既に一ヶ月も立ち、ここに至る様々なことがあったはずであることは、お母様のやつれ果てた表情ににじみ出ていました。あの夜、川田木青年は恋人を奪還するために命をかけて河川敷に大勢の関係者を呼び集めました。結果ブルースペクターの私刑にあい、重体になりました。意識不明の重体、寝たきりで意思疎通もできないまま、一時は命も危ない状態が続きました。

 実際の順番は思い出せません。

 結果だけ申し上げれば、川田木青年が二ヶ月かけて毎日のように捜査依頼をA署に嘆願していた女性が、女子高生コンクリート事件の被害者の女性だったということがわかりました。つまり、川田木青年が、小生に幾度となく、行方不明だから助けたいとくりかえしていた女性こそが「女子高生コンクリート事件の被害女性」だったのです。

 川田木青年は、もしかしたら助かっていた女性を救うために、受験勉強の合間に、試験の合間も縫って、まだ彼女が生きていたはずの昭和最後の年末から捜査をA署で懇願していたのです。それを殆ど、A署は対応せずに、更には小生も末端の刑事であることを理由に対応せずに過ぎたのです。目の前の命を救わず、別の大人の事情でのみ動いていたためです。若い尊い命は失われました。そればかりか、警察として当時明らかに、横暴の限りを尽くしていた暴走族を野放しにし、川田木青年の言葉を借りれば

「もう警察のあんたらに頼んでも意味がない。」

という言葉まで言わせたほど、何一つの対処もせずに過ごしたのです。

 小生と最後に会ったあの日の深夜に、彼は命の覚悟をして、ブルースペクターの幹部を集めました。おそらく、何らかの脅迫できる情報を掴んで大勢を集めたのでしょう。殺人を犯した人間が逮捕もされており、まさに自白を始めたのがその翌日です。川田木青年は、女子高生の居場所を教えろと、暴走族の幹部らを集めて逆に脅しました。しかし結果として多勢に無勢、彼らの組織にありがちな私刑にあいました。まさに命懸けとはこのことでしょう。結果として、夢と希望に満ちた青年の未来は失われました。


 ひとりの刑事にとってこれが途轍もない闇となり、病となってしまったことは、他ならぬ銭谷警部補ならご理解いただけるでしょう。これが小生という刑事の暗い過去です。この過去がある限り、自分は常にこころが落ち着くことがありません。三十年間、不眠症だとも言えます。当然でしょう。小生のおかした失策が一人の人間、女子高生も含めれば何人もの人間の不幸を軽減できたはずだったのです。あの時何かの対処をしていれば、現実は違ったのです。そればかりかどこまでも曖昧に対応し命をかけて犯罪者に立ち向かう青年に味方さえせず、さらに悲惨な現実を作り出してしまったのが、警察官として税金をいただくこの自分なのです。

 例えば、小生が警察組織の都合など気にもせず、あの河川敷に一緒に行っていれば、違う結果が起きていたはずであることが、全てです。ほんとうに。

 たった一人であるいていく青年の背中が、河川敷に今も揺れます。

 彼はなんの後ろ盾も取らずに、ただ正義を貫く最大の勇気を胸に悪に立ち向かったのです。自分は警察組織という場所にいながら、それを目の前で素通りさせたのです。そうして一人の青年の人生を台無しにしました。

 人間としての敗北がそこにあります。その敗北は永遠に、消えることのない敗北です。取り返すことなどできない敗北というものが人生に存在することを小生は知りました

 私はなぜあのとき、彼を追いかけて行かなかったのか。

 人間は勇気を失った記憶を忘れることはできません。何も、勇気は、崖から飛び降りる勇気だけではない。犯罪に立ち向かうことだけでもない。組織を前に、間違いをただしく、問いただすことも勇気です。おかしなことがあれば、疑問を持ち自分を信じて調べることも勇気です。警察署全体がやるなという空気だからやらないというのは勇気とは真逆の逃避です。小生は小生自身をいつになっても許せません。この先も許すことはないのでしょう。


追記あり







封筒(抜粋) 

「…多くの警察の方が一切取り合わない中、親身になって話を聞いていただいたこと、ありがとうございます。思うことは多々ありますが、今回僕はある方針をとることにしました。それはつまり、戦うと言うことです。命をかけて戦います。

 ただ命というのは失って仕舞えば、無論そうはならないように最大の対策はするとは言え、何もその後の手が出せなくなります。もとより、そんな偶然に身を任せるつもりはありませんが、万が一、命を失った後にも自分には次の作戦が効果的に設計されているのだという保険があれば、戦いに集中ができます。そうです。僕は作戦を盤石にすることだけを考えてきました。その中で、自分が敗北した場合の設計をするとき、僕が頼りうる人間は一人だけ、槇村さんしかいなかったということです。もちろん、槇村さんに迷惑はかからないように考えましたのでどうかよろしくお願いします。

 この作業には複数名の追跡作業が必要なのもあり警察関係の貴方にお願いしたいのです。あなた以外に自分は頼れる警察関係者を知りません。どうか、お願いします。

 前提があります。

 自分に何かあっても「彼女が生きている場合」はやらないでください。別途記載させていただいた女性のことです。生きていれば、たとえ僕がこの世にいなくても、彼女には次の人生があります。僕とは全く関係のない幸せを彼女が手にいれるかもしれない。生きていればそこに幸せが存在する可能性がある。それならば僕は、この手紙に書いた作業を望みません。そうではなく、もし彼女に最悪の結末があり、この世にない場合だけこの手紙を生かしてください。

 言葉を変えるなら、彼女が命を失い、危害を加えた人間たちが不公平にも生を続けているのであれば、この手紙の内容を槇村さんの判断で進めていただきたいのです。仮に逮捕されていなくても警察の中で調べることはできると思います。少なくとも今、ブルースペクターの中では色々と情報が漏れ出しています。新参の僕にも情報がきたくらいですから、警察も少しずつ重い腰を上げざるを得ないでしょう。

 場所は若洲です。コンクリートという言葉が符牒のように繰り返されています。隠蔽のために彼らの中でも恐ろしい手段を使ったということです。絶対に言うなという声で、少しずつ漏れ始めています。CやWというアルファベットの符牒の秘密扱いで会話をされています。所詮、暴力団ではなく、まだ高校生中学生のような人間の集まりです。早晩に警察も辿り着くのではないかと思います。しかしそれでは時間切れでしかありません。この冬、僕が最初に警察に行った時に動いていれば違ったはずですが、だからと言ってそんな不満を滔々とすることも意味がないし、時間が過ぎた今だから諦めるなどということもできません。時間は常々どんなことがあっても過ぎてしまう。僕は何としても今夜、全てをやり切ります。

 槇村さん。僕は胸が苦しいです。

 彼女が死んだりすることなどは思いたくない。申し上げました通り、僕は彼女に恋をしました。これまで勉強をしたのも何かを頑張ってこれたのも彼女の存在に打たれたからです。彼女に出会ったことで、僕には精神的な感動と、言いようのない感謝があります。彼女の数少ない言葉、眼差しの中には、僕の高校時代を支えたものがいくつもあります。多くの努力や真剣さを僕に与えてくれたのです。僕は感謝を返さねばならない。後のことは今は考えられません。ただ僕は今、それだけが必要なのです。

 信じたくないが、奴らの言葉を繋げていくと、若洲の沖合の埋立地に埋めたのだという可能性が浮かび上がってきます。そんなことは到底信じられない。でも万が一真実なら、いますぐにでも出してあげたい。警察のような悠長なことを言ってられない。事件になるまで動かないというのですから。冷たく固いコンクリートにうずめられ、街からも外れた海の沖に捨てられるなど、どんな地獄なのか。奴らは悪魔なのか。人間はこういう悪魔を許すのか。いいや今、警察は許しているじゃないか。何よりも早く、だから、今夜僕はブルーの幹部を集めました。警察に全てを話すぞという脅しをつけて集めました。そこで全てを話します。いきなり暴力はしません、まずは、話します。でも奴らは話さないかもしれない。僕の口を封じに来るかも知れない。

 だから、もし何かがあったら、この手紙の後半に詳しく記載した通りのことを、どうかお願いします。葉書だ、アスファルトだ、プロメチウムだと複雑に思えるかもしれませんが、簡単です。囚人のジレンマという言葉をご存知でしょうか。概要はそういうことです。犯罪を犯した人間たちの心を、解放せず、どこまでも許さないということです。

 槇村さん。

 警察官のあなただから、あえてここに記載させていただきたいことがあります。僕には明確に、許せないことがあります。それはブルーの中に入って初めて知ったことでしたが、あなたのA署にも関わることなのでここに記載しておきます。

 関東近郊で最も危険な暴走族だというのが売りなのが、このブルーです。実際に様々な犯罪を繰り返してきているのは、A署としてもご存知だと思います。知らなかったとは言わせません。少年、未成年の犯罪だから捜査は甘いのかもしれないと思ったりもしましたが、小生はこの中に入って、恐ろしい犯罪の数々に愕然としました。誘拐事件などは氷山の一角です。違法な薬物を売り買いしたり、ほとんど、暴力団とやっていることは同じです。いうなれば、学生・未成年の不良の青田買いなのです。その証拠に、あらゆる場所に何故か二十代後半の大人が存在します。ブルーには階級のようなものがあり支部長だなんだと呼ばれていましたが、支部長や幹部の後ろ盾のように存在するのがその大人たちでした。

 この大人たちがK組と言う地元のヤクザでした。つまり、暴走族ではなく犯罪組織であるヤクザが、ブルーという若手をある意味所有し、後ろ盾しているのです。

 それだけなら、まあ、よくある話の程度なのかもしれません。どこの暴走族ももしかすればそういう設計なのかもしれない。ただ僕が何より今ここであなたに申し上げたいのは、彼らの「口癖」です。いいですか?彼らは、常々自分たちの、権力や迫力を説明する時に、肝となる言葉、決めセリフを持っています。それは「K組」がバックにいるというようなものではありません。ちがいます。本質が違うのです。それは、

「俺たちは警察のトップと繋がっている」

という言葉です。驚きました。ブルーの人間は上層が警察につながっていることを語るのです。末端まで皆自慢するのです。言ってはいけないという言い方ですが、喧嘩などで威力を誇示するときには常に出る言葉でした。自分達の上の人間は警察のトップとつながってるんだと。だから捕まらないんだ。実際に見てもわかるだろう。これだけやってるのに、逮捕されないだろう。

 立派なことにそれには名称もありました。警察に「口利き」ができる、というのです。

 言葉が人間を作ると思いませんか。

 別に強いカリスマ的な人間などがブルーにいるわけではありません。殆どは自信のない、学校や従来の居場所でうまくいかなかった人間です。彼らに、

「俺たちは権力と繋がっている」

というような、そんな言葉がどんな魔法の粉になるかは想像に容易いことだと思います。向かう結果は火を見るよりも明らかだと思いませんか。実際に、強姦しても無罪だとか誘拐してもいいとか、人を殺しても少年院で一年で大丈夫だと言う言葉が独り歩きし、まるで暴力行為が勇気かのように語られました。犯罪をすることが武勇伝で自慢話でした。みんな高校を辞めたりするのは、うまくいかない事や将来への不安や悩みがあります。そういう理由で不良になります。でも、その心理を巧みに拾うのが、

「自分達は正義の頂点である警察とも繋がっている」

という不思議な言葉でした。

 恐ろしいことです。

 ブルーの中でしばしば警察署の署長の実名が出るのです。僕が調べるとその名前は幾度も一致しました。ここまで書けばわかると思います。警察が犯罪を見逃すようになっているという確信がさらにブルーの若者たちに残虐な行為を推進させていたのです。

 彼らはことあるごとに、「俺たちは気合いが違うんだ。本物なんだ。びびったりしねえんだ」と繰り返していました。でも僕からすれば、警察がバックにいるから威張っているだけの弱い犬にも思えました。支部長だという人も尊敬には一切当たらなかったし、もっと言えば、プロのヤクザだと言って、暇あれば綾瀬に来ている人間も尊敬に値しませんでした。二言目には、自分のバックの話でしたし、酒を飲んでは女を連れてこいとかそういう話ばかりしていました。無論、女性の話になるたびに、僕は顔が引き攣り、その度に殺意がみなぎりました。幾度もその場で殴りかかる気持ちを抑え、こうやって作戦だけを考えて、今日に至ります……。」



 貴殿へのこの手紙に、川田木君の手の全ての内容を複写することはご容赦ください。

 ただこの箇所は証拠物としても使うものですから、ここに記載をいたしました。

 小生は川田木青年本人から、口頭で十年後にという指示を受けました。十年後、と言われておきながら、封筒を開くのを十年待てた訳ではありません。凄惨極まる事件と、彼の致命的惨状を目の前にした小生は受け取ったままの紙袋を前に唸るような眠れぬ夜を繰り返しました。封筒を前に、川田木青年との綾瀬の喫茶店での会話を幾度も思い出しました。彼の「作戦を盤石に練った」という言葉が胸に幾度も甦りました。あの冬、警察組織に絶望を感じた青年は、自らの命を前提の作戦を考案しました。小生とはまるで逆の勇気を浴びて信念の中へと向かいました。そうして絶望的な結果となりました。

 小生は封筒を見るのも恐怖でした。中の見えない、封じられた文書に恐怖を抱き続けました。封書を視界に入れる度に、あの埼玉の彼の勉強部屋で再会したときの彼の変わり果てた横顔は、ひとときたりとも小生の脳裏を去りません。

 この封書の中の作戦は命に変えても実行せねばならない。とはいえ川田木青年の、十年待ってください、という言葉もあり、封書を開封することが出来ず睨むように封筒を見つめる時間だけが過ぎました。

 三年後、四人の受刑者のうち最も早く少年の一人が刑務所を出ることになりました。あれだけの罪を冒しながら三年ですでに刑期を終え、次の人生を与えられたことは想像を絶しました。十年ではなく、たったの三年です。

 ここで小生は、たった三年という、川田木青年が予想をしないことが起きた可能性もあると捉えました。もっと以前に封書を開いておけば良かったのだ、と言う後悔だけはしたくありません。仮に開いて、何が書いてあっても行動を十年目まで待てばいいと自分に定め、封書を開く決意をし、中身を読むに至りました。

 手紙の前段は既に記載があった通りです。後半に、細かく作戦の記載がありました。小生は、そこに殺人犯たちへの具体的な復讐、つまり「四人を殺害してくれ」というような犯罪の依頼もあるかも知れぬと、覚悟して望みましたが殺人の依頼のようなことはありませんでした。川田木青年の依頼はそういう種類のものではありませんでした。とある環境の設計をし、殺人を犯した人間たち、あるいは何らかの罪を冒した人間の心の奥に、消えない烙印を植え付けるような、そういう作戦でした。彼らがそこから逃げ、自由になることだけは許さぬ設計です。肝心の葉書をどう送付するか、その場所にどういう文言を書くかなどの記載のほかに、四人は改名や戸籍を変更する恐れがあるので、これらを正しく追跡する必要があり、その意味でも警察官である小生に頼んだことなども、記載がありました。 

 作戦の実行について、十年と記載したのは実は川田木青年は自分で調べ、この事件の殺人犯がその程度で懲役を終えるだろうと考えたからでした。結果として最速のものはたったの三年、長い人間は二十年となりました。小生は手紙の指示通り、最初の葉書の送付実行を、事件から十年たった、まさに平成の十年に行いました。

 この時、まだ刑務所に残っていたのは主犯格の一人だけでした。三名は既に刑務所での生活を終えていました。小生は四名全員にハガキを送りました。彼らが女子高生を埋めた若洲のその場所の目の前のアスファルトに特殊な蛍光色のペンキで記載したのも小生です。川田木青年の手紙にはペンキを夜でしか見えない触媒を使うという細かな指示がありました。これも犯罪者は日中ではなく夜に人目を忍んで現場に戻るという心理を想定してのことだということなのかもしれませんが、実際にアスファルトに記載して文字を確認した時に、若洲の夜は暗く人の気配もなく十年前にこんなところに遺棄された少女の悲しみが眼下に横溢するようでした。十四枚の葉書は当時彼らが使っていた符牒で、肩書きと、集合場所を意味します。


CONCRETE WAKASU


つまり、コンクリート関係者、若洲に至急集合せよ、という意味です。いや符牒どころか当時このアルファベットが暴走族幹部の重要な秘密連絡になっていました。この文字列はブルーのなかでの命令そのものでした。犯罪を犯した四人はこの命令に明確に反応するーー川田木青年はそれを知って設計したのです。

 若洲には彼らにとって死体を埋めた場所以外は関係する場所などありません。彼らが若洲で行くべき場所は一箇所だけ、まさに女子高生の死体を埋めたあの場所です。小生はその場所の目の前のアスファルトに、川田木青年の指定した蛍光塗料で、


殺順

逃亡者殺ス

傍観者殺ス

仲間ヲ私刑許ス

仲間ヲ殺ス許ス


と、封筒の中にあった通りの言葉を記載しました。言葉は、仲間を一人でも殺せば復讐はやめる。仲間を殺さず逃げる限り、どこまでも殺しに行く、という意味だと思います。その場所には海風に吹かれ観音像が俯き加減に小さく置かれておりました。どうか安らかに眠って欲しいと祈ったご遺族の誰かが置かれたものだと思います。川田木くんの残した言葉を書いてみて、ああこの言葉はきっとこの場所にあった魂を慰めるためのものかも知れないと思いました。雨が降れば何度でも色を補いに再訪しましたが、その言葉を筆でなぞる度に、川田木青年が悩み、恋人を思い、孤独の中苦しみ、考え続けた時間を思わされました。一月の四日に埋められた御遺体は三ヶ月の間この場所にあった。もし魂がこの場所に蹲っているのであれば、どうか天国へ登って欲しい。そのために絶対に彼らを許さないから、どうかそのことだけは理解して欲しい。そういう風に設計された言葉に思えました。小さな膝丈ほどの観音像の眼差しの先に小生は幾度も


殺順

逃亡者殺ス

傍観者殺ス

仲間ヲ私刑許ス

仲間ヲ殺ス許ス


という文字をなぞりました。

 殺さねば殺すーー。

 あの事件の犯罪者少年らが頭を悩ませたのは確かでしょう。

 自分の手で殺した死体の記憶は永遠に網膜から消えないと言います。精神のトラウマがある一箇所に幾度も人間を引き戻すように、過去の罪へと彼らを連れ戻す。そのような恐怖が永遠に持続することこそが川田木君の狙いだったのかもしれません。殺される、という曖昧な恐怖の中での生活は最低限でもしてもらう。忘れたいと思っても忘れさせはしない。その上で殺人犯罪者同士の自意識過剰が設計されている。注意を怠ればいつその誰かに殺されるかわからない恐怖。少なくとも一度は人を殺した人間が、自分を殺しにくるかもしれない。実際に殺されなくとも常にその不安が消えることがない。そういう状況を彼らに義務付けたわけです。

 十年目に小生に託された作業は以上でした。

 川田木青年はこれに加えて、昭和の次の時代、つまり始まったばかりの平成の時代が終わるときに、同じことをもう一度してほしいと記載がありました。昭和から平成へと変わりゆくあの日に、多くの日本人が過去を忘れていきました。それが昭和という時代の終わりでした。であれば平成の終わる頃に、また同じように忘れることを、川田木青年は避けたいと思ったのではないでしょうか。犯罪者が過去を忘れることを許され、気ままに生き、忘却して暮らしている。そんなことは絶対に許されない。平成の終わりにもう一度、という記載を見た時に、小生は川田木青年の確固たる信念を感じました。

 川田木青年の予想した通りに、日本全国を恐怖に陥れた女子高生死体遺棄事件は過去のものになっていきました。まだ収監前や、四人の少年が裁判をしていた頃には多少の報道がありました。しかし彼らが懲役を開始し、一年、二年と過ぎ、やがて一人ずつ出所して行ったころにはほとんど完全に世の中は忘れました。多くの事件と同じように、人間は次の出来事に心を奪われました。警察も新聞もテレビもみな同じです。また次の残酷な事件がやってきてはそちらに目が行くのです。人間は思い出せる物事に限界があるのかもしれません。事件の遺族には何も変わらぬ地獄の季節が繰り返されるというのに、世の中はまるで悲劇は消費するべき刺激物の一つに過ぎないように思います。



 川田木青年の封筒の中の文書には、強く小生を揺さぶった記述がありました。抜粋します。

「警察までが悪魔とつながってる。警察の上層部と暴走族の幹部がつながっている。そんなことを聞いた悩みある若者、高校を中退したような若い人間が、どういう気持ちで自分の行動を描くかを、大人の人には考えていただきたいです。」

警察官としてこれ以上虚しく悲しい言葉はないでしょう。小生の刑事人生がその後どうなったかは容易に想像できるかと思います。まさに致命的な失態をし、さらに所属する警察署の中に途方もない闇があることを、知らされたーー小生には朝起きて警察署に向かうことさえ塗炭の苦しみであったことは、貴殿ならば想像していただけることと思います。 

 最初は、この川田木青年の手紙をもとに、告発をしようと思いました。

 しかし私は、同時にこうも思いました。今ここで大騒ぎをしても、警察組織は典型的な対策を始めるだろう。小生はこの手の組織悪の本を貪るように読み続けました。結婚も子育てもしませんでしたから時間はあったのです。その中でもっとも上手くいかないのが、安易な告発であると考えました。そもそも正義を失った組織には何をただしても無駄なのです。歴史が物語る通りです。正義に勝算などないのです。

 自分に何の権限もないなか告発を今すれば、まるで部外者のように組織に殺され、何も情報を取れなくもなるでしょう。情報をくれた正義の側の人間にまで迷惑もかけてしまうかもしれないし、実際に罪のないものに罪が被せられかねない。必要なのは証拠なのです。なんとかして確固たる証拠をつかむしかない。そのためには、警察の中でどんな謀議があっても知らぬふりをして暮らさねばならないのではないか。

 小生の長い復讐は、そうやって船出をしました。

 それは自分自身の失策への、つまり自分自身の過去への復讐でもありました。

 小生は静かに、しかし一人一人狙いをつけて裏の捜査を集めていきました。そしてどこかで、それを公開する時間を計画しておりました。思えばあの日から二十七年もたったことになります。



 事件の後、五年もしたあたりのことです。Fさんが定年を迎えました。 曖昧な精神的な別れをした後も、同じ警察署で、近しい部署にいれば顔を合わせることもありました。実は小生は、個人的に送別会と称してFさんを誘ったのです。

 最初は喜びながら飲んでおりました。酒飲み話はやはり一流でFさんはやはり誰からも愛される人でした。すでに彼は四課の現場を外れ、管理系の部署にいました。引退の寂しさもあったと思います。小生は警察官の間尺に合う質素な居酒屋を手配していました。

 小生は、川田木青年の受けた不幸や、手紙の事は伏せつつ、女子高生事件の周辺で起こった幾つかの悲劇として、とある若者が植物人間になったのだという話をしました。その母親の苦しみを正確に説明し、いかに苦しい毎日を過ごしているかを説明し、そうしてその原因は警察とヤクザとの癒着にあるのだという断言をおりまぜました。

 Fさんはほんとうは純粋な人でした。

 Fさんが、居酒屋の目の前で、小生の話を聞きながら、自分ごとのように胸を苦しめているのが分かりました。そうです。動機は別として本当の悪質な警官などいません。地位の向上や役職への希求が、いつの間にか、ああいう仕事をさせてしまうのだと思います。

「Fさん。僕は二度と同じ苦しみを世の中に生み出したくないんです。それだけなんです。K 組との最前線にいたあなたなら知っていることがあると思います。自分も覚悟して聞きます。実際はどうなのですか。」

 しかし、Fさんは何も話しませんでした。ただ、以下のような言葉を繰り返しました。

「俺も、殆ど家族は不成立だが子供もいる。これ以上、家族に自分の不評を伝えたくないんだ。今後の引退後の人間関係もあるんだよ。」

僕はその会の後半は少しずつ苛立ち、

「違いますよ。この告白こそが、家族の誇りになるのですよ。僕が説明してもいい。かならずいつか理解しますよ」

と繰り返しましたが、どうにもなりませんでした。Fさんとは苦悶の表情で、別れました。送別会は台無しだったと思います。

 交通課での裏口利きに始まり、拳銃摘発における暴力団との癒着、しいては警察署自体の犯罪組織との連絡など、多くの矛盾が小生の目の前には存在しましたが、それらは全て、警察官の地位や出世競争が、警察の外部にもわかりきっているが故に作られているかもしれません。表彰制度や昇格競争がなければ、F先輩はあんなことをしたでしょうか。署長はFさんのまぐれで怪しい摘発を鵜呑みにしたでしょうか?警察史上最大の警備だと浮かれて一人の人間の命を放置したでしょうか?若き日の小生が交通違反の切符を切る時に感じた、甘い権力の香りを何倍にも濃くしていく、その先にまさしく多くの間違いがあったのだと思います。


 引退から十年も経ってから、最近になってからFさんから連絡がありました。

 刑事を引退して十年、Fさんは離婚ののち、病気で一人暮らしをしていました。

 赤羽のアパートまで行ったのを思い出します。まるで孤独死を待つような部屋で、小生が持参した日本酒で乾杯をしました。見た目はもう八十歳近く、死が近づいている印象が強くありました。小生は、この時は最初から前回聞きそびれた話を要求しました。

 Fさんは、最初は、世話になった警察の幹部やまだ仕事をしている人間に迷惑はかけられないと言いました。それはわかります。みんなで仲良くなれば、「仲間を助ける」という言葉が出ます。でも仲間に犯罪があれば、それは組織的隠蔽になる。それでは警察の正義が保てない。

 まさにFさんは、そこに悩んでいました。

 しかし、おそらく連絡をくれたのは、最初から決意があったのだと思います。しばらく黙った後、初めて固有名詞で説明を始めました。驚くことに、あの事件のあった周辺の関係者が誰だったのかをほとんど澱みなく語ってくれました。小生はこのときばかりは三十年近くのあいだ堪(こら)えてきた涙が滝のように流れました。Fさんの目の前で、川田木くんにもすまなかった、被害者にも申し訳なかったと声を出して泣きました。Fさんも同じように泣きました。

 この時のFさんのおかげで、末尾の資料は一段と情報を増やしました。Fさんがくれた情報で最もありがたかったのは暴力団内部のこの話を聞きにいくべき人物でした。長く彼らと飲食を時間を共にしたFさんには、暴力団の中にある様々な人間関係を誰よりも見抜いている情報があったのです。我々と同じように、暴力団の中にも立身出世のために途方もない嘘をつく人もいれば、古き良き彼らの中で正しいやり方を続ける人もいたのです。共通しているのは、それらが時代とともにゆっくりと変わっていき、何か別のものを目指すことになったと言うことでしょう。あの時代、Fさんとまるで同じように暴力団の中で出世を目指し、肩書きに翻弄され、自分の正義を見失い、どこかの後悔の中で人生を無念に終えていく人たちが多数あったのだとだけ申し上げます。そういう現役を退いた人々に小生は会いに行きました。彼らの人生の最後に一つ一ついただいた言葉、録音にこそ、人間の希望があるーー小生はいつしかそう思うようになりました。

 川田木青年の指摘の通り、あの事件の四名の背後にはK組は存在していました。

 じつは、あの事件は、多くの暴力団から非難されていました。女子高生コンクリート事件の関連の罪が、暴力団にも余罪があるという事実が世に出れば、ヤクザ業界そのものを揺るがす大問題になりかねなかったのです。

 そもそもあの事件においてはヤクザ界では暴走族との関係において多くのことは言われていたのです。K組へは強く非難があり、任侠堂にあるまじきことだとされてもいました。K組の関係者が責任が強く問われたのは事実でした。場合によっては、暴力団そのものへの解散命令も世論から出かねない状態でした。古い暴力の世界の人間にとって、末端の人間が少年を集めて未成年の少女を暴行したなど、言語道断、その主軸に、暴力団がいたなど、ありえないことだったのです。

 だから彼らも、必死だった。小生には見えなかったが。警察に圧力して自分達の関与が一才ないようにとしたのです。あの女子高生を監禁した部屋に出入りした人間に、間違いなくK組はいました。また未成年の暴走族が連れてくる女性を喜んでいた組員も多くいました。ブルースペクターの背後にいて利益を預かった人間、川田木青年の手紙には実は、その周辺の個人名がいくつも記載ありました。小生はこの手紙の名前を全て裏どりをし、証言を集めました。

 恐ろしいことです。

 警察がその気なら逮捕者は四人ではなかったのです。K組からもっと出たはずなのです。警察は庇ったわけです。手打ちがあった。警察と反社会勢力の談合です。警察上層部と暴力団の幹部の密約があつたのです。それは、女子高生事件においては暴力団が背後に存在したことを、無かったことにするという取り決めでした。その条件を警察はーーA署は飲んだのです。いや、飲まざるを得ないようにまで癒着した上層部がそこにあったのです。

 



 同封する書類が、過去のA署の所長以下、複数の人間が、K組に関わった証拠物になります。また人物は一人でなく、署のOBや、既に故人となった方もあります。警視庁本庁まで含めた問題となるであろう刺激的な文書ではございますが、小生の三十年をかけた作業の沈殿物であり、ご苦労はおかけしますが、小生が信頼に足る出版社の人間を以下に幾人か記載いたしますので、万が一の際にはどうか小生の名前で送付いただければと思います。事件を少年四人だけの関与のみと必死に証拠の隠蔽を設計したこと、それらを更に癒着先だった警察組織をも巻き込んで行った証左も合わせて添付いたします。

 恥ずかしながら小生、これだけあれば十分だと思っております。



 ただ、一点だけ、追記します。

 お会いした際に幾度かお話させていただいたことについてです。エスと仮称させていただいて紹介したものについての表現は証拠類に一歳削除、もしくは割愛しております。小生は、この諜報的な名前も知られぬ組織には実は二つの可能性があると思っています。これについては戯言と貴殿はお笑いなさるかもしれませんが、小生が長い時間をかけてついに捕捉しきれていないことでございますが、曖昧さを回避していえば、かのような組織には希望も絶望も混濁すると申し上げたいのです。 

 今一度、申し上げます。

 媒介者という存在自体が「どういう思想にも染まりうる(ルビ)」と思うのです。諜報員が何か世の中をより良くしようとする作戦を持てたならば、そこには無限の可能性さえあると思うのです。いやすでに、そういう覚悟で何かをしている末端の諜報員がいないわけがない。組織のどの位置にいようとも、それぞれの人間には人生があり心があります。そこには正義は存在しうると小生は信じるのです。個々の人間が正義であるか悪魔であるかは把握できません。あらゆる組織にはそういう媒介者もしくは潜伏者が存在するはずです。かくいう私もよく考えれば、警察という組織に三十年間存在した反対分子そのものと言えるかもしれません。

 今回の開示は、A署とK組上層部にかつてあった連絡手法と、蜜月とも思える金銭授受、そうして女子高生コンクリート事件における、メディアへの設計までの証拠物までのみとし、それ以外の情報は一切割愛いたします。

 それ以外のものについては、おおよそ小生の職掌を離れると一旦は判断しました。

 もしできれば、銭谷警部補には、その箇所を継続して着目いただきたいと思うところです。例えば小生に会いに来た太刀川しかり、また金石の行方も含め、貴殿のような人物に追い続けて頂きたい気持ちがあります。そこにはいくつかの真実が見え隠れするのだと思っておりますし、小生では窺い知れないできたさまざまな課題があるのだと思われます。

 権力や巨大資本との対峙が生じ、危険極まりないことでもありましょう。諜報員をいくら探しても、おそらく永遠に正体は掴めず、何も告白されないでしょうし、かの組織の基本として、個々の細胞者が全体を把握しておらぬのはお話しさせていただいた通りですから、いつまで経ってもトカゲの尻尾を掴み続けるかもしれない。また暴露の時点で命に関わる断絶や残酷なる排除も経験させられるかもしれない。捜査は正しく刑事一人の一生をも奪い取る可能性さえあるのでしょう。しかし、だからこそ貴殿のような眼差しを持った人間にしか叶わぬ作業であるはずです。

 この点に加えて、金石のことについても若干だけ、追記申し上げます。

 彼はなんらかの理由で、警視庁本庁捜査二課を去りましたが、理由は貴殿とも確認した通りいまだに不明です。一体なぜ、金石は警視庁を去ったのか。本当に自分の意志だったのか。もしかすると誰かに拉致などされた問題のある理由だったのか。申し上げた通り、太刀川が金石と何らかの連絡があるのかなどは知りません。あるのかも知れないし、ないのかも知れない。関係があっても何か、直接ではないニアミスのような組織周辺のことかも知れない。ただ、今申し上げた通り、どこにいても正義があれば、仕事はできるはずだというのが小生の勝手な結論です。どのような組織であってももはや組織である限りは正義が完全であることは難しいのだと考えます。それがこの三十年の小生の結論です。犯罪組織でありながらも、その女子高生事件を暴力団としては絶対に許せぬと怒鳴った昭和の親分衆に正義があったとも言えるかもしれませんし、警察組織の中の小さな「口利き」に巨大な悪魔の萌芽があるのかもしれません。そう思えば、金石が今どこにいるのかは小生には重大ではありません。彼ならどこにいても正しい仕事を追求しているに違いないと、確信できるからです。スパイは相手の国に最も染まった時に、最大限の情報を取ることができると言います。敵国の政治家や官僚になったスパイも歴史にはあるでしょう。今ある政治家にも何人かはそういう人もいるのかもしれません。そのことは人類において常々起きる課題なのかもしれませんが、まずは、個別に生きる人間の中に正義があるのかが、最も重要なことなのだと思います。この点だけは刑事として最後まで小生がこだわった点でございます。

 小生の仕事としてはここまでとなります。

 また、もし時間が許せば、貴殿と語り合いたいと思います。小生も時間の許す限り、次の仕事として、さまざまな真実の解明に参加できれば、この上のない喜びです。金石のことについては、今朝も白んでまいりましたのでまた明日以降余白が許せば記ささせていただければと思います。




十 江戸島昭二郎の手紙


…貴方が分裂症人格(こころ)の苦しみを持つ中、今回貴重なる情報をいただきましたこと、誠に御礼申し上げます。並びに、貴方のご配慮によって、私は妻についていくつもの事実を知り、妻の人生を知ることができました。すでにこの世のものではなくなり、十三回忌も過ぎた妻のことで、自分がまだ知らずにいたことに巡り合えたことは感動以外の何ものでもなく、またそれらをこのような形で知る自分という人間の課題にも深く考えさせられます。第三者からお聞きする恥ずかしさもありながら、自分では辿りつかなかった妻の横顔を、また一つ、また一つと、まるで新しく会話をしたかのような、まだ見ぬ彼女をを理解するようなそういう時間、貴方より妻のお話を聞くことができた時間を、心から幸福に思います。

 人間は二度死ぬと、聞いたことがあります。一度は肉体の最期を迎える。しかし、本当は、実はもう少し後に二度目の死がやってくる。つまりこの世界で、誰もその人物との出来事を思い出しも語りもしなくなった時にもう一度、本当の最期があるということです。墓地にある無縁仏を見て、誰もその人物を思い出せはしないように、実際にその人と会って会話をした人が世に消えれば、何も語りようが無い。土に帰るとは、正にこのことをいうのでしょう。そういう意味で、妻は、まだ生きていたということです。いや貴方の言葉をお借りすれば、まだしっかり溌剌と、随所に妻は生きているのでしょう。貴方は仰いました。血はつながらなくとも、江戸島節子を心の母として生きている人間がこの世にいるのだと。如何なる言葉にも代え難いものです。

 かくなる私も、経済界の仕事だ、なんだと申しながら、サラリーマン労働者の一つであり会社の持ち主である訳でもございませぬ。塵のように消えていくことを思い始める今日この頃に、まさか今この世に話すこと触れることも叶わなくなった我が妻の、まだ見ぬその生きた証に触れることができたこと、このことにまず、心からお礼を申し上げます。そもそも肩書きばかり集めてきた鷹揚な私でございますから、誰も面倒な個人的な接触はいたしませぬ。当初は太々しい態度をとってしまって申し訳ありませんでしたが、それにもめげず、幾度も接触を模索していただきましたことに強くお礼を申し上げます。

 この度、貴方より、多くのお話をいただきました。そして、この私の方でも妻のことを思い出せる限り語って欲しいとの言葉をいただきました。貴方の言葉によれば、妻と貴方とは実の母と子のような気持ちの時間を過去に過ごしたのだとのことでした。故に、亡くして十五年以上を過ぎたいまでも、まるで実の親を失ったような悲しみの中にあり、いつでも少しでもいいから話がしたくなるし、願いが叶うなら一度でも会って手を繋ぎたい、体に触れたいのだ、というお話をいただいた際には、私は心が震える思いでした。自分の愛するものを失った時、少しでも、あと一言でも会話をしておけば良かったという感覚は誰しもにあるものでしょう。そういう気持ちを亡き妻に貴方もお持ちなのだということは強い驚きでした。

 我々夫婦はこの世に一対のもので血のつながった子供さえなかったわけですから、妻を亡くしたのち、私は妻を回想することも実のところ孤独のひとつでした。写真が好きだった妻は多くの写真を残しました。そういう思い出を眺めながら妻の死に一緒に涙を流せる自分の子供がいたなら、どれだけ有り難かっただろうと恨むこともありました。私は妻を失った悲しみを誰とも共感することができなかったのです。そのような私に、まさか、妻のことを思い出しては胸を痛め、私と同じように思い出の涙を拭っている人間があったのは本当に衝撃的だったのです。

 私の拙い表現でいささか恐縮であり、かつ、どこまで伝わるのか分かりませんが、是非、妻とのことを思い出せる限り思い出し、申し上げたいと思います。もちろん、この書面だけで叶わなければ何度でも繰り返すことを約束申し上げます。ただ同時に、じつは、その結果、私はある種の告白をすることになります。なぜなら妻と私の過去にあった出来事を説明する中で、避けて通れぬ事が幾つかあるからです。その過去が今回のいくつかの事件にも関わります。どちらかといえば私の問題である告白をこの文章に混ぜてしまうことを少し申し訳なく思います。ただこれを省略すればおそらく私が描く妻の映像もぼやけます。嘘が混じります。嘘を伝えることは貴方に失礼になりましょう。また、貴方の仕事関係の人物が今回の事件に多くの接点があったということも含め、貴方が、本来誰にも開示しない多くの事を私に話していただいた今、私の言葉に嘘が残るのは本望ではございません。


 実は、もしかすると貴方との出会いがなければ、今頃も私は、手を尽くして自分を誤魔化し、何らかの隠蔽を行っていたのかも知れません。その証拠に、警察やら探偵の方々が当初喧しく私に接触した際は、まさしく隠蔽に近い態度を私は取ったからです。おそらくそれは、妻の最も望まぬ形になりえたでしょうが、私はこれまでそう言うふうに自分を処世する生き物として自らを訓練して生きて参りました。言葉を変えればそう言う処世術に長けたからこそ、今の地位肩書きを得たのかもしれません。そしてその処世はどこかで、貴方を包み込んだ妻という人間の温かさと並ぶには、不適切なものだったのです。そうです。妻の成したことと私の処世世界とには、深刻に双方相入れぬものが存在していたのです。

 思えば私の人生は会社という就職先での自分の立身出世に焦点されたものでした。それらを終えようという今となっては何をしたかったのかわからなくなることもあります。勿論、国家的な受注にも関わり産業を育成してきた自負もあり、仲間と多くの難題を解決したり、その巨大な規模によって多くの人に喜びを与えた様な場面は少なくありません。仕事は青春から円熟期までさまざまな季節があり、会社に入り四十年以上も努めてきたわけですから、それらは当然、一言で表現できるようなものでもありません。妻と出会ったのもX重工でしたし、人生の殆どを社に捧げてきた私は多くの上場企業の役員と同じ様に年末年始の挨拶から土日休日を過ごすのも、一切X重工の仕事の関係者しかありません。会社に身を捧げたといえば美しく聞こえますが、仕事関係以外に平坦に付き合う人間がいないというのも事実です。当然そこには、今回のような凄まじいことを相談できる人間などいないのです。

 あえていえば、そんなものを仕事の関係者に相談しているようでは数万人の代表者はつとまりはしません。そういう孤独は当然です。会社での優越的な環境でその寂しさを常々誤魔化すしかありません。出社すれば全員が私に忖度をし全員が私に頭を下げますし、何をするにしても従ってくれます。その優越が私の孤独や懊悩を一旦は癒すのです。権力的な、優越的な気分とはそういうものなのです。しかしながら、欲しかったのはこの優越だったのか、と思う時、何故か、妻の笑顔が思い出されます。そういう忖度とは真逆にあった妻の眼差しが私を優しく包みます。妻は文句など一切言わない人ですが、私にそういう苦しい矛盾があれば、優しく無言で寄り添ってくれ、ただ理解をしようと努めてくれました。孤独な気分に寄り添ってくれることで私は救われたのです。思えば、X重工で得たもので、最も貴重な私の財産はこの妻だったのでしょう。

 実際に今回の私の顛末、いや転落が始まっても、X重工には誰一人私に追従するものはないでしょう。それは当然のことで、そのことに秋風を思うわけではありません。表向き最低限対応しても、社員らの心の奥では次の社長は誰だろうかと、海の魚群が一斉に転向するように、激しい忖度の宛先変更が始まる。それは大企業には当然のことです。登り詰めた私の権威は露と消えるに違いありません。


 私の孤独を逐一申し上げても愚痴ですので、早々に本題に踏み込みたいと思います。上記はあえて言えば、私という人間を誤解なく紹介するための前段でございます。そうです。私は典型的な人間なのです。そしてあえて言えば、妻だけはそういう典型には相容れない存在だったと言えるでしょう。

 今回、この妻のことで私には、思いもよらぬ事態がやってまいりました。とある人間が、過去から私に向かってやってまいりました。その人物に関わる事件も私に向かって過去から追いかけてまいりました。ただそれは、どこかで予想したものでもありました。妻の存命中の約二十年前の平成の時代に実は今回のことが発生する理由があったのです。

 その人物が私の会長室にやってきた時、私は明確に妻への当時の不満を思い出しました。このことは後ほど詳細を申し上げますが、二十年前、私はほとんど申し分のない妻にたった一つだけ不満があったのです。その不満は自分が原因で発生したことでもありました。のちほど、妻との思い出の中でそのことは語らせていただきますが、その不満がある種の因果となって、その男は過去からやってきたのです。

 この夏のことです。

 会長室にその人物がやってきました。

 その男が会長室にいることは、reputation riskの観点からは、大変良くないことでした。私は何よりも早々にこれを極秘裏に処理せねばならないと思いました。問題が発生した時の私の対応はいつも同じです。とにかくいち早く処理をするのです。

 少し話が逸れるようですが、X重工の経営に置いては私は火消しの専門でもあります。早々に火を消す手順をすることで問題を拡大させない技術というか、そういう姿勢を上司に常々喧伝し、実績を積みました。江戸島は問題は起こさないし、多少の問題は解決させる、という安心感を醸造して自分の地位を上げてきました。トラブルは兎に角揉み消すのです。一切なかったことにする。その為に金でも政治でも、手段が必要ならなんでも使う。その周辺が私の得意分野でした。

 いわば、この見境なく「火を消す」という方針そのものがX重工における私なのだと思います。他に何か技術があるわけでもなく、とてつもない実績があるわけでもありません。過去に大きな問題を、処理した、火を消した、ということがあるだけです。ただそういう理由で出世をしたが故に、何か問題が起これば、まずは火を消すように急ぐのが、私のやり方なのです。

 その男が二重橋の会長室にやってきたのは、八月六日頃だったと思います。かいつまんで申し上げれば、男はいくつかの過去を頭出しさせながら、あれこれと言い訳をつけて金銭的な支援を私に請求しました。この時も、ああ問題が発生しようとしているな、と思った私は早々に「火消しの江戸島」としての処理を試みました。彼の請求する金額の倍に当たる金を提示し、その代わり今後一切、連絡を取らないようにと話を設計したのです。ただでさえ吹っ掛けた金額を提示していた彼には、青天の霹靂だったかもしれません。最初はぼんやりと、私を眺めていたのを思い出します。その眼差しは、金額を単純に喜んではいなかったようにも思いましたが、私にはその対処の仕方で火を消すことしか思いつかなかったのです。彼の眼差しの奥にどんな心情があるのかなどは、一切想定しませんでした。不満を金で、通常の倍額を用意することで解決するという、過去の成功体験を私が踏襲したに過ぎません。そうやって問題を処理することが、まさしく私なのです。そしてこのやり方と妻の生き方は、真逆でした。

 その人物は、本当のところは私を頼って来たのではありませんーー。亡くなった妻に頼ろうとしたのです。二十年前、この人物は、私ではなく妻を頼っていました。その妻がこの世にいないがため頼れる宛のない男は、無理やり私を訪問したのです。

 妻は、私のようなやり方で物事を処理しません。金を要求する相手の人間がどういう状況にあり、何に悩み、何を間違っているのかまで、しっかりと会話をし、とにかく人間と向き合います。金を渡すとしても、具体的に何をしようとしているのか、どういう事情があるのかを聞くでしょう。要するに問題を起こした人間と同じ空間に入り、生活まで共にしながら解決策を模索します。

 私はそうなりません。権限と金銭を持って自分の周辺に問題が近づくことを避けるために、金で処理をします。金は関係を切断するための道具です。問題に首を突っ込んだり事実を聞いたりもしません。妻のように、問題がある人間にふれあい、手を繋ぎ、彼らの人生の中に参加していくことはしません。

 実は二十年前、この同じ人物に関して、全く同じ齟齬が妻と私との間にありました。妻のやり方と、私のやり方には天地の違いがありました。あの時も同じように私は問題と距離を置きました。美しく言えば、それによって自分の関係者に迷惑をかけたくない方策だともいえます。ただ本質を言えば、ただ自分は問題の起こらない場所で、問題ある人間とは関わらない事で自分の地位や評判を確保したかったのです。

 今回、賛否両論あるにせよ、人間の尊い命が三つ失われました。もっと早く、つまりあの会長室に面談を求めてきた八月の段階で、この男の内情や金の使われ方を問い詰めていれば違う結果があったでしょう。私の当初の判断が間違っていた事は、結果が証明していると思います。自分に火の粉が降りかかるのだけを恐れて、持ち金でなんとかその男との距離を離そうとした。そのせいでおそらく事前に止めることが出来た惨劇を止めることもせず、あろうことか手切れ金のつもりで結果として金銭的な支援まで行われたことになったわけです。ですから責任が私にはあります。三人もの人間がいや正確には合計四人もの人間が亡くなった事には私が確実に関与したのです。

 それにしても私は恐ろしい人間です。

 この人物が私を尋ねてきた時に初動で妻を恨んだくらいですから、私は二十年前と何も変わっていなかったのです。世の中的には、ただの社員が部長から取締役になり常務だ専務だと登って行くのですから、人間が立派にでもなったかのような評判があります。しかし、実際はどうでしょうか?

 貴方はここまでの説明で分かると思います。私という人間の愚かさを。私は妻とは真逆の人格の持ち主だと言うことを。私はこの世界の問題の本質的な解決と言うものにほとんど興味がないのです。表向き社会の地位ある人間として、正論はいくらでも吹聴できますが、実の本心はただただ官僚的に問題や責任を遠ざけるだけなのです。問題への対処能力がないどころか、問題を見つめることさえできない人間なのです。そうして最後までやり方を学ばずにきたのです。私の今回のやり方に、妻が生きていれば猛反対もしたでしょう。


 妻と私の出会いは、X重工の中でした。妻は私が中心となって動いたプロジェクト関連の取引先会社に勤めておりました。すぐに人づてに連絡先を得て、交際に至りました。会社でよくある出会いです。特に特別な物語はありません。

 いたわりや、心を何に動かされるかなどの、実に仔細な部分にまで、結婚前には想像しなかったほどにこの私の肌に合う、妻はまさにそういう人物でした。生活を共にすればするほど愛しくなる、そういう妻でした。

 繰り返しですが、いま思えば、会社に勤めて私が得た唯一のものはこの妻だったのだと思います。妻と出会ったことこそがX重工で得た最大のものです。大勢の前で歩く時は地位や役職が良いかもしれませんが、例えば一人代々木上原の自宅で自分と見つめ合うときには、それらはほとんど何も意味を成しません。むしろ肩書きを失えば自分から去っていく人間関係の逆説に恐怖さえあります。まさしく妻はそう言う変化のない条件で私を支え、最大の配慮を重ねて応援を続けてくれた、世界で唯一の存在でした。

 結婚生活はとても順風満帆だったと言えますが、一点だけ、問題がありました。我々は結婚してしばらくしても、子供を授かれませんでした。病気や体の問題などではありません。それは私の問題でした。

 言い訳がましくなりますが、三十代から四十代にかけては日本の企業はどこも激務に見舞われます。夜は終電車に近い時間まで会社にいるか、取引先の会合かの二択の生活でした。終電車の前に私は帰宅したことがありません。週末も溜まった仕事を処理するためにどちらかは会社に行き、もう一日はゴルフにでもなれば、下手をすると一週間ほとんど

「お疲れ」

「行ってくる」

程度の会話でしか接点がないこともありました。激務に疲れすぎると深く眠れない私のために妻は寝る部屋を別に用意してくれました。結婚してから夫婦の間での時間はほとんどないまま三年四年という月日が過ぎました。

 サラリーマンが仕事を最もするのは三十代かもしれません。競争熾烈な職場で「江戸島はなかなかやるぞ」と、社内外に売り込んでいる時期でした。誰にも負けないという意識だけで日々の業務に邁進していました。

 そういう生活の中で、子供を授かる最も大切な時期を後回しにしていったのは容易に想像できるかと思います。そろそろ子供が欲しいと心ではわかっていながら激務で酒も飲んで帰宅する深夜、妻は何より私には早く寝て欲しいと気を使いました。男女である前に共同の生活者としての暮らしがありました。仕事に追われる私は仕事ばかりを優先しました。そうして稀に子供を授かろうと試みてもなかなかうまくいかないことがゆっくりと妻と私を包むようになりました。

 あれは結婚してもう十年も経った頃、私はすでに四十代、妻も三十代の後半に差し掛かっていた頃です。実のところ遅ればせながら不妊治療など含めた努力も始めておりました。その結果、三十代も終わろうとするその頃、ようやく私と妻は初めて子供を授かりました。妻はほんとうに喜びました。ここまでの笑顔は見たことがない、それくらいの喜びで妻は早速子供が出来たら何を着させて何を持たせるなど準備をしていました。中でも得意の裁縫で赤ん坊が手で握る団子をいくつも作ったのを思い出します。フェルトに針を通しながらお腹を気にする妻の満たされた様子がありがたく、我ながらこんなに喜ぶのならなぜもっと早くしてやれなかったのだと思ったものです。その瞬間は本当に幸福でありました。

 しかしこの子供が五ヶ月で流産をしました。

 ほとんど会社に電話のない妻が、あの時だけ電話をしてきたのを覚えています。

「天国にいっちゃった。」

この言葉を聞いた時の人間の気持ちを、貴方はまだご存じないかもしれません。しかし、すでに三十代も後半の最後の頃に差し掛かっていた妻のその言葉は、言葉では言い表しようのない絶望的な意味も多く含んでいました。さすがの私にもその痛みは妻と同じようにわかりました。授からぬものを求めて努力したこの数年は私にも妻ほどではないとはいえ苦しい時間でした。長い努力の結果、ようやく授かった命が、一瞬の間に失われました。努力をもっと早く始めていればという後悔が、氷の矢のように何本も繰り返し胸を切り裂く。たとえようのない悲しみが二人を襲いました。

 このまま負けてはいられない、そんな感覚だったかと思います。天国に行ってしまったのちは、どんな忙しさの中でも我々は子供を授かるべく努力を続けました。しかし結婚からすでに十年以上の時間が経った現実が、冷厳と我々に立ち塞がっていくのが分かりました。毎月、その確認の時が来ても、残念ながら子供は授かりません。そればかりか、ついには一ヶ月ごとに四十歳に近づき、ついにはその年を越えていく妻の、女性的な期限に苦しむ様子が隠しても隠せぬように私には伝わりました。かくいう私にも、

「天国にいっちゃった。」

というあの日の電話の声が、毎月、毎月、反芻するようになりました。私以上に妻は苦しかったに決まってます。妻は、最初から子供が好きだったのです。私の想像を絶するくらい子供を求めていたのです。そして私の仕事に打ち込む姿を尊重しながら、配慮ある妻は仕事に忙殺され寝る間も惜しみ休日も会社に捧げる私の気持の方を優先しました。私の結婚生活は当初本当に快適でした。しかしそれは妻の、自分を犠牲にさえした献身的な配慮の上に成り立っていたのです。その配慮の結果、少なくとも妻は人生で最も子供を授かりやすい時期を失いました。女性が永遠に子供を授かれる体ではないことなど、私も知っています。知っていて会社の仕事を優先したのは他ならぬこの私です。

 不妊治療は長引きました。ご経験ないこととは思いますが、授かれぬたびに毎月、自分と妻それぞれが何かの能力を欠損した気持ちになります。街を歩いても子供を見るたびに何故か心が辛くさえなるのです。嫉妬があるわけではなく、ただ自分達が人間誰しもが得れるものを得れないという気分が暗然と漂います。毎月の結果が進まぬ都度、暗い気持ちは増幅し、ときには二人で外を歩くのも悲しくなるのです。私でさえそうだった訳ですから、妻はもっと辛かったと思います。五年以上病院に通い、毎月の結果を待つようなそう言う生活になりました。もっと早く始めておけばという言葉は毎日のように我々に漂い、そして気軽に口にすることのできない話題になっていました。

 四十も過ぎてしばらくしてからの頃でしょうか。妻からの提案で、子供を諦めようという話になりました。

「もう十分頑張ったから、後悔ないから。ありがとう。」

妻はその時、本当に満点の笑顔で私にそう言いました。申し上げた通りの妻です。その日は二人で美味しいワインを飲み(妻は五年ほどお酒も控えておりました)、どこかで晴れやかに、また昔の通りに二人で気楽にやろうと話しました。私も同じく限界を感じてはいました。毎月の結果を待つ辛さに耐えられなくもなっていました。妻さえそう言う表情になってくれるのならば、と私は提案を受け入れました。かくいう私は、また次の朝から会社のことで頭が一杯になれます。いろいろなことを忘れやすいです。子供が出来ない悲しみについて私はいずれ気が紛らせられることは想像ができました。しかし妻は仕事もなく何で忘れるかといえば容易ではなかったはずです。その点は私は少し不安でもありました。

 そうして二、三ヶ月を過ぎた頃のことです。

 妻から、突然、自分も時間が余るから、家でやることがないので仕事を見つけようと思う、という提案がありました。もとより、深夜に帰ってくる、ほとんど外食を済ましてくる私の相手など平日には本当にやることは少ないので、何か仕事をし直そうか、と言う話はあったのです。私はにべなく賛成しました。

 実は妻はすでにやることを決めていました。

「恵まれない若者の、再出発を応援する仕事」

という言葉を、妻から聞きました。それは正確には保護司という、聞いたことのない職業でした。私も少し気になりましたが妻が艶やかに瞳を輝かせてその仕事の概要を語ったのもあり、ぜひ頑張ってと、応援の言葉を告げました。

 ただ、一瞬間だけ、火消しの江戸島としての嗅覚として、保護司というのは相手によっては犯罪者を相手にする場合もあるのではないか、という言葉が脳裏をよぎりました。そういう犯罪者が自分の家に来たりするのだろうか。若しくは考えすぎとは思うが、そのことが週刊誌のような下世話な場所で拾われたりしないのかということは少しだけ感じましたが、妻の快活な輝きを取り戻したかのような説明を聞く中で自分ではあえて口には出さずにいました。

 しばらくして、妻は熱意を持ちその仕事を始めたのがわかりました。

 もちろん、X重工(部長、当時)の私の家内であることが最優先です。その点は妻も心得があったと思います。しかしこれまでと違い、自ら社会に出て何かのやりがいを達成させるために努力邁進する、そういう姿勢に変わったのが明確にわかりました。管理職を長くやると、人間が別の展開を始める時というのは、一定の熱を感じるものです。妻にはまさしくその熱がありました。唯一の希望であった子供を授からせてやれなかったこともあり、私は妻の保護司という仕事を応援をすることにしました。


 妻が仕事を始めたのちも、保護司の話題はほとんど出ませんでした。

 自分もさほど興味もないので細かくは聞きませんでした。仕事はどうか、と聞けば、いろいろ作業が多いけど順調だ、という妻の笑顔があるだけでした。妻もどこかで積極的には話題にしませんでした。私は保護司の仕事の守秘義務のようなものがあるのかもしれない、という程度にも思っていました。それがまさか、妻の側での配慮、おそらく私の火消しの性格への気遣いで話題を避けていたなどとは、考えもしませんでした。

 その頃は、まだ自分が役員になる手前で、部長として現場の陣頭を取っていた最後の頃のことです。当然自分の社会人人生においても緊張感もあり、非常に大事な頃でした。

 当時妻と私は毎朝最寄りの代々木上原の駅まで送ってもらっていました。駅まで歩く道は意外にも下町風情で、季節の移ろいや日々の微妙な変化が楽しめるのと私たち夫婦にとっては貴重な何気ないお互いの確認と言うか、会話のできる場所になっていました。思えば子供の件で挫けそうになっていた頃はこの朝の道で、互いを励ましあったものでした。

 そういう日常の中で、ふと、妻の表情の変化を強く感じることがありました。

 妻が輝きのようなものに溢れるのが判るのです。単純な女性美の取り繕いではありません。心の内面からくる輝きです。そういう前向きな女性の輝きを妻が発するのです。たとえば、過去にあった子供がないことへの後悔のような空気や、何か後ろ向きな思考の中に蹲るようなものとは真逆で、毎日が新しい発見や問題の解決で忙しく、その朝の送迎の後も、仕事に向かうのだという熱がしっかりとあるのです。たとえば笑顔一つ、会話ひとつとってもどれも健やかに思われるのです。

 私はそれらの一連もふくめて、自分の判断に満足をしていました。保護師の仕事を変に詮索せず、事実を確認などせず、妻のやりたいようにやらせている自分の方針に満足しました。まさかそれが、全くの自分の無知蒙昧の中に成立していることなど想像もしていませんでした。



 それは子供のことを諦めて、三年もした頃だったと思います。ちょうど、妻が保護司の仕事をはじめてからそれくらい経っていました。妻が困ったことがある、と言い出したのです。それは保護司に関する相談でした。

 妻が私に保護司の仕事で相談をしたのは後にも先にもこの一度だけのことです。

 朝の駅までの短い時間で妻は説明をしました。

 更生者についての相談でした。

 とある人間が、不思議な葉書をもらって悩んでるというので相談に乗ってほしいというのです。最初は何が問題なのか全くわかりません。葉書で困ることなどあるのかと思い私は首を傾げました。妻も相談を伝えづらいと思ったのでしょう。その週末にでも、一回その更生者に会って説明を聞いてほしいというのです。

 毎週末、さすがに五十代を迎えた私は週末の土曜か日曜の片方はプライベートに宛てていました。妻と私は日帰りの小旅行をしたり外食に出かけるなどして夫婦の時間を共にしていました。その時間つまり、週末の計画は妻が決めていました。妻に任せてる時間ですから、何かを頼まれればその時間が無理とも言えません。直感的には気が乗らなかったのですが、保護司の相談も初めてだったのもあり、私は安請け合いをし、その週末に妻と更生者と私の三人で会うことになりました。私は当初、スリか万引きの更生程度に思っていましたから面談を少しで終わらせて別れてから、二人で改めてどこか食事に出かければいいと言う程度に思っていました。

 場所はJRの川崎駅でした。なんでも彼の自宅がその周辺なのだということでした。後々知りましたが通常保護司は保護司の自宅に更生者を呼びます。妻はそうせずに彼らの自宅や施設などに通っていたようです。恐らく、私が代々木上原の自宅をそう使うことを嫌がると考えて配慮したのです。

 その青年と会ったのは川崎駅のロータリーにあった喫茶店でした。

 青年と言ってももう三十歳位だったと思います。

 一見、割と普通だなと思いました。犯罪者だという空気は感じませんでした。年相応のブルゾンにジーンズのような格好をしてる彼を妻が案内しながら席に着いた時に、一点だけ明確に違う、と感じるものがありました。それは彼の目つきでした。

「乾健太郎くん、です。」

妻からの紹介を受けたその時、私はどんな時でも挨拶の頭につける自分の立場も名前も言いませんでした。役員手前の熾烈な出世争いをしている自分には彼の目を見た瞬間、彼が犯罪更生者だということに警戒の電源が入ったのです。彼の特徴的な目が私を躊躇させました。その目にある冷たく暗いものが異様に不気味に感じました。目つきが悪い、と一言で言えばそれまでですが、そう言うものではないのです。目が何かとてつもない過去を語っていてそのせいで身動きが取れないのです。とにかく目を合わせ続けると疲れるような、そういう目でした。

 乾青年は、テーブルに持ってきた葉書を広げました。

「これはなんですか?」

「葉書です。」

「それは、私もわかるけど。」

テーブルには十四枚の葉書が広がっていました。表面には川崎の住所と、乾の名前、裏面にはアルファベットがなぜか一文字ずつ書いてあるのです。全ての葉書は住所含め手書きです。

 今から二十年も前の川崎の喫茶店はまだタバコが堂々と吸えました。私は葉書を見ながら丸々一本ほぼ無言で吸い切ったのを覚えています。

「これは何かの復讐だよね」

私がそういうと、妻も、乾青年も沈黙しました。

「一枚だけじゃなくて、十四枚。それも全部手書きで、寸分の狂いもなく書いている。裏にはよくわからない暗号のような文字。一体どんなことを過去にしたんだい?そんなに君は恨まれているのか?」

乾青年も妻もその点は答えませんでした。

「ふつうの犯罪じゃないと思う。この怨念はすごいよ。」

殺人の復讐ではないか、とまでは言いませんでしたが、それに近いことは言ったと思います。

 妻を見ると、珍しく下を向いていました。

 当初わからなかったのは、妻が私に頼む理由です。こんな葉書に自分が詳しいわけではない。多くある犯罪者更生の中でなぜこの時だけ妻は相談をしたのだろうか、と。ただ、その場でそのことを聞くわけにもいかず、

「なぜこんな葉書が貴方に送られるのですか?」

と私は乾という珍しい名前の青年に問い詰めました。復讐のような怨念が詰まっていて、それでいて奇妙な謎解きになっている葉書にどんな心当たりがあるのか。

「全く心当たりもない訳はないだろう。」

「……。」

「なんで、アルファベットが十四文字も送られてくるんだい?」

するとしばらくして青年は

「あんたらは俺を知らないだろ。」

とだけ、言いました。そうしてぷいと、また沈黙をしてしまいました。

 私は何も言えませんでした。

 なぜなら青年のことを知らないどころか、ほんとうは知りたくもないのです。彼の過去に触れるとその近隣の一員になってしまうような嫌悪感があります。罪を許せないというより、関わりたくない感覚です。やはり何より会社での立場が気になりました。こんな葉書を受けるような人間、恐ろしい恨みを買っている人間に関わっている人間が、役員になれるようなX重工ではないのです。熾烈なネガティブチェックが常にあります。元殺人犯かもしれない人間を養子のように世話している、と噂を作られれば一巻の終わりです。私と似たような出世の候補者は無限にいるのですから。

 私は妻を幾度となく見ました。その時の私は、明らかに、「お前はこんなものの更生まで相手にしているのか」と言う表情で妻を見つめていた筈です。しかし妻はただ俯くばかりでした。妻の保護司の仕事が万引きの少年や非行の修正程度と願っていたものが、まさに私の目の前で消えていくのがわかりました。

 喫茶店で無言が続いたあと私が痺れを切らしたのを見てようやく、乾青年は葉書を六枚と八枚に葉書を分けて、六枚の方を並べました。


WA KA SU


私と妻はぼんやりしていました。

「これはどういう意味なんだ?お湯でも沸かすのか?」

恐れながらその時は何も、想像できず、その程度の対応をしていました。

「地名ですよ。」

「地名?」

「若洲と言う場所です」

「どう言う意味だ?」

「わかりませんか」

「わからない」

「本当ですか。」

「八枚の方も意味があるのか?」

「わかりませんか?」

「八枚の方も並べてくれ」

「並べないでもわかると思うんですが」

「並べないでも?」

「はい」

「並べないと私には全くわからない。この八枚に何か意味があるのか?」

「……。」

「並びが決まってるのか?」

問い詰めましたが、その場では、乾青年は八文字の方は言いませんでした。ただCと書いてある葉書を意図的に私に見せて、

「これでわからないですか?」

という誤魔化しのような話し方をしました。私はそういう小出しに、不快感をあらわにしました。しかし、乾青年の方もこちらの対応に不満があったのかまた、ぷいと無言になってしまいました。

 結局その後の会話は平行線で、その日はそれで終わりました。


 こうして、今から二十年前のあの夏、不妊治療を諦め、保護司という仕事を始めた妻が最初に私に仕事のことで相談した人間、乾健太郎という人間についての課題が妻と私との間に発生しました。

 その翌週の週末、妻とはいくつかの議論があった中で結果として、我々は、WAKASUの意味を持つ、若洲という江東区の新木場の先の埋立地に向かうことになりました。葉書のことを妻に聞いても答えませんし、普段は論理明晰な妻が、とにかく会ってやってほしい、一緒に話してほしいということを繰り返したのもあります。結果、まずは葉書の示す若洲に行くことだけはしてみようとなったのです。

 代々木上原から車を出し、新橋で乾健太郎を乗せると、若洲にはあっという間に到着できました。

 暑い夏の日でした。青空に雲ひとつなく、窓を開けると汐の香がドブ臭く漂っていたのを覚えています。乾青年が指し示す通りに、信号を曲がり、そのまま埋立地の行き止まりの方へと車を進めました。この先は海だという場所まで行ってから、車を降りました。

 その場所は埋立地の行き止まりでした。あたりにはコンビニどころか建物もまばらで、空き地が広がるばかりでした。乾青年は首を捻りながら、辺りを見回していました。最初は何かを妻と私に見せたいと思っていたのですが、それが見当たらないという様子でした。挙動は不審そのものでした。時折、アスファルトをじろじろと眺めていたのを思い出します。何かを探すように、それでいて逃げ出すような、不思議な間合いで彷徨っているようでした。そうなった理由は、アスファルトに書かれた文言が蛍光塗料で夜にしか見えない工夫がされていたからなのですが、その時の私はそんなことを知る由もありません。

 小さな事件がその時に起きました。

 そのような時間をしばらくさせた後のことです。

 埋立地の行き止まりの場所の歩道沿いの一角に草むらかありました。雑草が二十センチ位の高さで海風に煽られながら伸びていました。そこになぜか雑草らと同じような背丈の小さな観音像が唐突にあるのを私は見つけました。

「これは、なんだろう。こんな場所に仏様がある。」

私は何気なくそう言い、乾健太郎や妻のいるアスファルトの側を振り向きました。というのも、生活者どころか人の通行もない行き止まりの草むらの中にある仏様が、あまりに違和感があったからです。

 振り向いたその時、乾の顔が目に入ったのを覚えています。いや、正確にはそれを見てしまったと言った方が適切かもしれません。

「仏様がある。」

と私が言ったときです。人間の顔が稲妻のように粉砕する表情とでも言うべきでしょうか。しかしそういう表現をしても足りないくらいに、乾青年は凄まじい表情をしたのです。悪魔が人間に注入され皮膚面の裏側で暴れている顔とでも言いましょうか。観音像を私が指差したときの乾は、そういう顔をしていました。いや、その観音像を彼が本当に見たのかどうかさえ未だわかりません。

 後々知ったことですが、実は乾は日中にここに来たのは初めてだったのです。人目を忍んで夜にしか来たことがなかったのです。だから、真っ白い観音像が雑草の中にあることは知らなかったのです。

 私は小さく黙祷を捧げたまま、不気味な葉書や、彼の眼差しなどを含め、多くのことを整理しました。そうして重い声で乾健太郎に向かって

「おい。この場所がそういう場所なのか」

と尋ねました。

「お前の過去とこの観音像を置いた方々が関係するのか。」

「……。」

乾の背中は震えていました。どこかで小さく頷いた気がしました。

 視界の続く限り、人間の暮らしを感じない埋立地でした。対岸のどこかの埋立地には高級マンションが立ち並び、生活の場ができているのに、こちらにはミキサー車や工場トラックばかり、あとは倉庫が並ぶだけでした。日中歩く人はなく、コンビニもない。私はこの埋立地が怖くなりました。懲役を経たとはいえ、この場所がいま隣にいる乾青年の殺人の現場なのだという直感が降りてきました。そう思うだけでゾッとしたのを覚えています。それらを見過ごすように草むらの観音像が表情を変えずにアスファルトの道路の行き止まりの方角を眼差していました。

 乾青年の顔はひきつったままでした。妻も異変を感じていましたが、ただ俯くばかりでした。雑草が、海風に揺られていました。

 我々は数分の時間も過ごさずに、車に戻りました。青年は、割れたような顔面のまま、車の後部座席で蹲るようにしていました。妻も私も、何も声をかけず、そのまま川崎近くまで車で送って、別れることになりました。



 その翌週の平日のことです。妻が私よりも遅れて深夜のかなり遅くに帰宅しました。結婚生活の中で、そんなことは一度もないことでしたから、少し不安になりました。玄関でどこに鍵があるかわからず困ったのを覚えています。いつでも妻は呼び鈴を押せば玄関をあけて私の帰宅を待っていましたから。

 見るからに憔悴した妻は、困った、困ったと独りごちながら、テーブルにつきました。私は乾健太郎のことで何かがあったのだと直感しました。

 もう一度若洲に乾と行ったのだ、と妻は話し始めました。

 帰宅が遅れたのはそれが原因でした。実は、日中は何も見えなかったのですが、乾と相談し、あの若洲の場所に二人で夜に行ったのです。なぜなら乾が日中は見えなかったが夜に見えたものがあったと言ったからです。タクシーを乗り継いだようでした。あたりは恐ろしい暗闇で、観音像どころか道路も見えずらい有様です。

 同じ場所に妻と乾青年は辿り着きました。

 そしてそこに、アスファルトに書かれた文字を見つけたのです。

 妻はわかっていませんでしたが、それはプロメチウム系の薬品で作る蛍光塗料を用いたものでした。二十年の後、まさに私はそのことを思い出しプロメチウムを消しやすい薬品を探して対処を思いましたが、要するにその事件の現場のアスファルトに、乾健太郎ら犯罪者に対する文言が蛍光塗料で記載されていました。

 犯罪者は殺人現場に戻ると言います。乾青年は必死に過去から逃げようとしながら、さまざまな過去の場所に密かに足を運び続けていたのです。CとかWというのが昔の仲間内での符丁があったのもその理由の一つかもしれません。葉書は、事件の現場に戻ることを命令していました。そうして私に運転もさせたり妻を伴ったりしながら、幾度となく過去の場所へ訪れました。そうして、葉書を送付した復讐者の書いた文言に辿り着いた訳です。


「加害者たちを絶対に許さない、加害者同士で殺し合え、殺し合わなければ誰かを殺す。逃げれば絶対に許さない。」


肝心の文言の内容は妻がメモをとっていました。無視をすれば全員を殺すということです。加害者を殺人現場に呼び出して、闇の中の文字でそのことを見せているのです。助けて欲しいなら、過去の共犯者を殺せと言葉を添えて。

 少なくともそれだけで、葉書の送付者の復讐の心が尋常ではないことがわかります。

 私は、代々木の自宅の居間でおおよその説明を終えた妻を前に黙りこくっていました。

 妻は憔悴しているのがわかりました。

 二人の間に沈黙が訪れました。

 貴方に申し上げる必要があるのはこの時の妻と私、二人の情況でしょう。妻と私の沈黙にはまるで違うそれぞれの意味がありました。妻と私を並べて語る時、もっとも大事な場面がその時の沈黙だったと思います。残念ながら、妻と私は、全く違うことに悩んでいました。

 私は、まず最初に「如何にこの不気味な状態から離脱すべきか」を考えました。そもそも、あんな乾健太郎のような人間に関わる必要などなく、すぐにでも保護司の仕事を辞めて、もしくは一旦休職でもすればいいと思っていました。なんなら、金でも払って絶縁するなども想定しました。

 しかし妻は違いました。レイナさん、貴方なら私以上にわかるかもしれません。全く違うのです。妻は、いかにして、この乾健太郎を無事にこの状況から回復させるかが全てでした。妻は保護司の仕事を、調整や業務として行っていないのです。更生者の引き受けの前に、私では想像のできないほどの覚悟を既にしていたのです。こういう状況になったから困ったから切り離す、という選択肢など一切ないのです。むしろ自分がどんな犠牲を負ってでもこの乾健太郎を助けたい、というそういう種類の覚悟なのです。

 やはり、妻は私とは全く別の次元にいました。

 妻の覚悟をあえて言葉にすれば、それは「人間の命を引き受ける」ということです。養子を頂く覚悟に似てるかも知れません。いや、実は、もはや保護司を始めるといった最初からそうだったのかもしれません。妻は、口には出しませんでしたが、恐らく更生という仕事を始めた最初にこういう場面を覚悟していたのでしょう。

 犯罪を犯した未成年をこの社会で本当の再生をさせるには、生半可な覚悟では無理です。ちょっと支援してあげるなど全く意味をなしません。妻は最初から、何があっても逃げずに支える、どんな罪であっても許し、前を向かせる、そう言う覚悟だったです。世の中ではこれを一般的に、実の母親の覚悟と呼ぶと思います。そうです。彼ら更生者の本当の母になる覚悟で妻は保護司の仕事を始めていたのです。いや、言葉を選ばずに言えば、血の繋がる子供を授からなかった妻は、保護司の仕事を通して、世の中に存在するあらゆる子どもたちの血の責務を負う覚悟のなかで保護司の仕事を始めていたのです。それは、単純な仕事や作業とは違います。誰かの評判を意識した会社の出世とも違います。目の前の現実の子供を育てるという全責任を通じて、世の中の全ての罪を犯した更生者と向き合うという、途方もない覚悟なのです。

 そう思えば、川崎の喫茶店でのただ下を向く態度も、一連の状況でどこまでも乾の側に立つ理由もすべて繋がります。どの場面でも私の会社の火消しの都合など及びません。乾の前で、妻は、実の子供を救うのに犯罪さえ犯すかもしれないような、そういう気持ちだったのでしょう。自分の子供のため、子供を救うためにはなんでもする。母親とはそういうものを最初から持っているのだと言わんとさえするような、そのためにただ悩む、そういう姿勢なのです。

 代々木上原の自宅のテーブルで長い沈黙が続きました。その時は、そこまでの覚悟ともわかっていない私は、

「これは、でも相当な復讐だし、下手すればこれから事件が起きるぞ。」

「……。」

「そんな事件を幇助したりなどしたらどうなるかわかるか?」

などと、思えば程度の低い言葉ばかりを並べておりました。妻は何も反論しません。ただ下を向いているだけです。当然でしょう。妻は最初からそういう相談をしていたわけではないのです。

 その時の妻の無言の時間ほど長かった記憶はありません。

 平日の夜でもあり、深夜の十二時を過ぎての帰宅です。私は酒も入っていました。明日もあるから、と結論の出ぬまま話は一旦終わりになりました。



 翌日から妻と私は元通りの生活に戻りました。週末に若洲に行くこともなく、さらには話も途中のままのでしたが、妻はもう乾のことは翌日以降話題にしませんでした。実はあの夜のテーブルでの会話が妻と私の間で乾健太郎についての議論をした実質的な最後となりました。

 いや、もっと言えば、保護司の仕事について、妻が私に相談を行うことは二度とありませんでした。当然と言えば当然です。答えが出る見込みもない議論をしても何も進まないことぐらい、賢明な妻が分からぬわけはないでしょう。

 ほとんど乾健太郎のことなど脳から消えたという頃、つまり数週間経った頃に、私の方から一度だけどうしたかを聞いた記憶があります。妻は然程強い言葉も使わずに、問題は多分解決するから心配しないでいい、実は戸籍(住所)を変え引っ越すことにしたんだ、とだけいいました。大丈夫になったので心配ない、もう大丈夫だから気にしないで、とだけ繰り返しました。その言葉には、あの深夜の並行線の議論を再発させたくはないから、もうその話題はやめようという妻の気持ちが溢れていました。

 そうして保護司の仕事に関して唯一の相談であった乾青年のことについての話題は全て終わりました。


 今、貴方と出会い、貴方が妻と過ごした時間、更生のなかの場面をいくつか紹介してくれた後に、私は一つ、思ったことがあります。

 私は、彼女を母にさせられなかった人間です。そのことのせいで過剰に思ってしまうのかもしれませんが、他ならぬ貴方ですのでこのことも申し上げます。 

 妻はあのとき、なぜ乾健太郎のことを私に相談をしたのか。

 ほんとうに相談だけをしたかったのだろうか。

 じつは貴方といくつかの会話をする中で、あの時の妻の相談は、そもそも相談と呼ぶべきものではなかったのだ、と思うようになりました。もっと言えば、私は自分は大切なものを見落としていた、大馬鹿者だったのではないかと思うようになりました。それは生前一度も妻の保護司の仕事を褒めてあげることさえしなかった自分への悪夢と重なって脳裏を圧迫します。そのことについても少しだけ、貴方には申し上げさせてください。

 賢明な妻は、知らない訳がありません。私の立場を鑑みる中で、保護司のような過去の犯罪者とのつながりが、X重工での会社人生に幾つかのリスクがあると知らない訳はないのです。ですから日常では保護司の実務をほとんど話題にもしませんでしたのは申し上げました通りです。

 でも妻は上記の通りほとんど命をかけてその仕事をしていたのは間違いありません。そうやって妻のことを思う時、実はあの時、ただ私に見せたかったものがあったのではないのか、と気がつくのですーー。相談などではなく、乾健太郎というきっかけを通して、妻は保護司という自分の仕事を見て欲しかったのかもしれない、と思うのです。夫に相談などしては困るだろうという、そういう事実を賢明に配慮した上で、一度だけ、母親代わりになって面倒を見ている自分の愛する子供たちのことを少しでも見せたかったのではないか。

 そう思うときに、浮かび上がるひとつの妻の言葉があります。それは、乾健太郎について妻が文脈を抜きに声にした言葉でした。

「彼は今度、子供ができるの。」

私はその言葉に強く違和感をおぼえました。なぜなら妻との間で不妊治療を諦めてからは、子供についての話題は妻と私の間では本当にご法度だったからです。子供をさんざん願って、諦めた我々には、だれか第三者の子供ができたというのでさえ、表面ではお祝いを送ってはいたとしても、心の奥底では胸が澱んでいたのです。私たちは街で乳母車を見てもどこかで自然と目を避けていました。子供が騒ぐような場所には行きませんし、子供づれの人間と会うような会合にも参加しません。それくらい、子供を諦めた後の、我々の会話の中にはそういうトラウマのような回避がありました。

 その妻が、「乾健太郎に子供ができる」と突然話したのです。

 私は最初、妻が間違ってその言葉を選んでしまったのかとさえ思いました。

 だから恐る恐る、妻の顔を見つめ直しました。

 しかし意外にも乾の子供の話をしている妻の表情は、晴々としていました。我々には重々しくなっていた話題に触れているにも関わらず、そんなものは忘れたのだとでもいうような清々しさがありました。いやむしろ、これから生まれてくる命への純粋でまっすぐな期待さえ感じました。

 私にはその時の妻の感覚がわかりませんでした。ですが、貴方とあの夜いくつもの会話をさせていただいた結果、ひとつ思ったことがあります。妻にとって、更生させ育てた子供たちが、大人になり、そして家庭を持つのだ、子供を授かったのだと言うのは、もしかすると、「孫を持つ」と言う感覚だったのかも知れない。例えばレイナさん、妻に実の娘のように愛された貴方が子供を授かったことを想定すれば、わかりやすいでしょう。そういうことになったら妻はどうなるか。愛する娘が親になる、という場面を江戸島節子という人間がどう思うか。素直に、途方もない喜びだったのではないか。だから、葉書の問題が起きた時に、私への相談と同時にある意味自然の流れの中で、自分の更生させている人間に家族が増える、命が増えるという場面を紹介したかったのではないか。乾健太郎をあの川崎の喫茶店で私に会わせた時、じつは妻はそういうことを思っていたのではないか。

 本当に苦労が日々あったのだと思います。妻は一度も言いませんでしたが、重罪を犯した若者を、なんら色眼鏡も使わずに裸眼で見つめ、毎日毎日繰り返し会話することで少しずつ心を開いてもらい、反省を促し、新しい命に変えていくことが簡単なわけがないでしょう。時には愛情で殴らざるをえぬこともあれば、更生そのものが失敗し罪に戻っていく若者もあったでしょう。無念にも見守るしかなく時間を過ぎさせ、出産の陣痛のような痛みを伴う時間がきっとある。そういう全てを母なる覚悟で乗り越えた日々だったのでしょう。だからこそ、更生が少しでも叶ったのなら、若しくは更生者のこころが、本当の意味で罪を改め、良い場所に向かおうとしているのなら、それこそ凄まじい喜びなのではなかったか。乾はそういう更生と回復の途中にあったのではないか。過去はどうあれ、その乾青年が、更生の結果として、新しい命の父親になるという場面の前で、なんとしても彼と彼の家族を支えてあげたい、と妻は思った。言葉は違うかもしれないが、孫を授かるようなとてつもない気持ちだったのではないか。そしてそういう場面だから夫である私に見て欲しかったのではなかったかーー。


 妻が少し痩せたと思ったのは、亡くなる二週間前だったと思います。入院も、最後の二週間程度でした。痛みはないと妻は話していましたが、そんなことは無かったはずです。最期まで私にはX重工の仕事を休まないでいい、仕事を優先して欲しい、と繰り返していました。大丈夫だから、少ししたら良くなるからと何度も言う、そういう妻でした。

 結局、そのまま病状が悪化して帰らぬ人となりました。

 妻は私に癌であることを告げずにいたのです。


 当時のこと、妻の人生については、また別の機会で貴方とはお話をさせてください。

 今日は、今回の事件のことについてまず申し上げたいと思います。

 私はたった一人になりました。他に何もすることもないため、仕事の出世に邁進したとも言えますが、誰にも相談できぬ後悔と心の苦悩を十五年以上抱えて今日に至ったとも言えます。家での唯一の趣味は、妻と出会った日にまで遡って眺める写真でした。妻は写真が好きで、たくさんの写真を残しました。そのアルバムはテーブルに何冊も美しい装丁で置いてあるので、二人で旅行をした思い出や長い結婚生活が時系列に並ぶ写真たちを毎日のように見返しました。それは思い出を懐かしむというより、妻が亡くなって消えてしまった脳の空白が、時として病むのを誤魔化すために必死に棺桶に花束を詰め混むような作業だったと思います。もっと会話をしたかった、そういう後悔が日々やってくるのに打ち勝つために、なにかの単純作業に必死になる。ある意味でX重工での仕事もそういう趣旨があったのかもしれません。

 家での唯一の趣味であるアルバムを眺めることにさえ、後悔が内在しました。心のどこかに棘が刺すような感覚が今思えば静かに生まれていました。家での唯一の趣味というか、一人の自分が過ごす貴重な過去の走馬灯の中に、とある棘が時折と、歪(ひず)みを投げてくるのです。

 それは、妻の笑顔の写真の中にありました。

 妻の笑顔を並べると、実は一枚ずつの写真では分からぬ、ゆっくりとした変化が見えるのです。長い人生のなかで妻の笑顔は変遷します。言うなれば笑顔の美しさが 長い結婚生活のなかで最初にとある方向に向かい、そうしてとある時点で転向して一定の回帰をし、また別の笑顔を始め直すのです。ーーアルバムの最初は、若い結婚したばかりのあふれる笑顔があります。しかしその後、子供に苦しんだ時期の苦しみの中で必死に咲こうとする笑顔の季節があります。私がもっとも記憶に深く大切にしている妻の笑顔はその時期の笑顔です。ただ、そういう一定の季節をすぎたあとに、実はそれまでにない不思議なほど強く朗らかに咲く笑顔が始まるのです。

 その笑顔の理由が始まったのは、妻が子供を諦めた後です。

 その強く朗らかな笑顔の理由が、保護司の仕事によるものなのはいうまでもありませんーー。



 二十年ぶりに見た乾青年は既にどこにでもいる五十前後の人間でした。

 乾は秘書に無理を押し通して会長室にきました。

 そうです。令和になった今年、この八月六日ごろに私の会長室にやってきた男、というのがまさにこの乾健太郎です。

 会長室のドアを開けて、部屋に入ってきた乾健太郎を見て、目の前にいる年齢を重ねた乾のことよりも、私の脳裏にはまず最初に、あの若洲でのことや、いくつかの会話、アスファルトに記載された復讐の文言や、観音像を見て表情が瓦解したときの乾青年のことが思い出されました。またそのことに関連して会話した妻との記憶を思い出しました。ただ、二十年という月日は恐ろしいもので、その瞬間には、いまこうやって書いて振り返ったような言葉が正確には思い出されたりはしません。言葉にならないというか、なにかそのころにあった諸問題を超越するような、自分でも定まらない感情が右往左往したとでもいいましょうか。誰もが私の地位にある程度恐縮して座る会長応接室で、乾はぶっきらぼうに出てきた茶を啜りました。無理やり訪問してきた割には、自分から気を遣って話を始めないのも二十年前のままでした。

 普通ならすぐにでも追い返そうとするのがX重工の江戸島です。

 しかしです。

 なぜだろうか、やはりここにも不思議な感覚が少しあったのです。

 自分でも定まらない感情がいくつかある中で、とあるひとつだけが明確に私を捉えましたーーどこかで、この乾を経由して妻との思い出が蘇る気がしたのです。妻がある意味、命をかけて見つめたものがそこにあるのではないか。あの写真立てにある、自分では及ばなかった笑顔の理由がこの男にあるのではないか。この男は妻に育てられ更生をしてきた人間なのだと言う言葉が私を追いかけ始めるのです。そうです。この男は、妻が作り上げた、ひとつの大切な作品であることは確かなのです。

 私は貴方とお会いしたときに、貴方を通して語られる妻との記憶に、無限の愛おしさを感じると申し上げましたが、乾についても似たことが起きていました。妻が我が子のように守ろうとした乾健太郎という人間を、火消しの気持ちで追い返せなかったのです。もちろん、会長室で、元犯罪者が何をするのかというX重工江戸島らしい職業病は生じてはいましたが、それに勝るほどの勢いで、亡き妻が愛した、いや世の中の全ての世論に反駁してでも、更生させようとした乾健太郎という存在が私を包むのです。

 二十年前に私が人殺しの目だと定めて恐怖した乾健太郎の眼差しが、五十の大人になり少しだけ落ち着いたようにも思えました。無論その奥底には変わらず冷たいものがありましたが、どこかでこの乾にも二十年で変わったものもきっとあるのだと思うときに、妻の仕事の成就をそこに見る気もしました。

 加えて、全く別の事なのですが、もう一点、彼に決定的な変化がありました。

 右腕が義手になっていたのです。

「腕はどうしたの?」

「これですか」

「ああ。少し気になってしまって。失礼だったらすいません。」

私のその言葉に、乾はすこし唖然としつつ

「江戸島さんは、本当に知らないんですか。」

と、言いました。二十年前に聞いた言葉と同じ台詞だったと思いつつ、私はまるで知らないことを告げると、乾は、またしばらく黙り、その後に幾つかのことを語り始めました。

 曰く、自分に娘ができた時に江戸島節子という女性は本当に喜んでくれた。自分は過去を後悔していたけども娘の顔を見ると前向きになれた。あの時初めて、娘に恥なく生きたいと思ったのは江戸島節子さんのおかげなんだ、と語り始めたのです。

 私はほとんど知らない事実でした。それでいて妻を失って十五年以上、どこかで予感もあった内容でもありました。あの優秀な妻が通り一遍の仕事をするわけがない、はずなのです。

「貴方に見せた葉書を覚えていますか。」

「……あの十四枚の葉書のことですか。」

「二十年前に送られてきた時、まさに自分に娘ができた時でした。あの葉書はどう考えても復讐の葉書です。あなたもそれはわかっていたと思いますが。」

と乾は語りました。「こういうことがいつかは起こるのではないかとも思っていました。殺人罪で刑務所から出てきた時に一番思うのは誰もがそれだと思います。裁判などで救われるのは加害者の側だけですから、なんの解決もしないご遺族が自分を殺しにくるのは自然な気がしていました。」

私は返す言葉もなく聞いていました。

「でも、江戸島さん。あの川崎で葉書を見せたあとに、私は少し違う感覚になったのです。それは子供の顔を見てから、自分の娘の顔を見てからです。わかりますか?」

「……。どう違いましたか。」

「はい。全く別のことなのですが。」

「どういうような、その、違う感覚になったんだい?」

「自分でも復讐するだろうと思ったんです。」

「自分も復讐?」

「はい。この赤ん坊の娘を殺されたのなら、自分も絶対に犯人を殺そうとするだろうと思ったんです。」

乾はそう言って茶を再び啜りました。

「その時初めて、自分は自分の罪がいかに大きなものだったかを知ったのです。その気持ちを、節子さんに相談しました。節子さんは、どんなときも涙を流すことのなかった節子さんがその時に一緒に泣いてくれたのを覚えています。よかった、と節子さんは言いました。よかった、その気持ちがわかったのが、よかった。ありがとう。そう、貴方はそういう罪を犯したのだ。でもそのことを本当にわかることができた。死ぬ前にそれができた。そのことをどうか感謝して欲しい、そう繰り返しました。涙を流したままこんな私を抱きしめてくれたあの時を、生涯忘れることはないと思います。」

そう言って乾はしばらく無言に俯きました。なにかを思い出して涙を流している様子もありました。ただ、しばらくしてから自分に言い聞かせるように

「だからこそ、いまは、私は娘の未来を守らねばなりません。」

と、今度は今までにないはっきりとした口調でそう言いました。

「娘さんの?」

「はい。おかげさまで、二十歳になりました。」

二十年の時がそこに過ぎていました。

「娘にはなんの罪もないです。また、乾健太郎とは別の名前で私も生活しているので、父親が犯罪者であることも知りません。私はこの娘を、どんなことがあっても絶対に巻き込みたくないのです。」

そう確信して自分に言い聞かせるように話すと、乾健太郎は感情を冷静にさせながら、

「二十年前この腕を使ったのです。」

「腕を?」

「あの時、葉書を設計した人物が遺族であるかないかは別にしても、きっと本当にどこまでも追いかけてくるのだと思いました。だから、節子さんと相談し、戸籍を変えたのです。とある市場で戸籍を買いました。ただ、変えるだけでは追跡もあるだろうということで、自分で考えて、腕の切断を思いつきました。節子さんは反対しましたが、自分は何としても娘に今回の葉書の問題が、関係するのだけは避けたかったのです。腕を切断し、遺体の一部のようにして遺書も残せば、自殺を信じて死んだことにしてくれるのではないかと考えました。もともと、そういう作戦を考えるのは刑務所の独房が多かった関係で好きになっていたのです。このことによってアスファルトの復讐の文言はどこかで追跡も終わるのではないかと信じました。実際に、戸籍上で乾健太郎は死に、その代わりに、新しい別の名前の男が川崎に発生しました。いや、生じたというより、既に行方不明になってしまった人物の戸籍が、誰かに知られることもなく、突然再活動を始めたようなことです。」

乾健太郎は、二十年前のその話に続け、彼なりの来歴を言葉を選びつつ話しました。刑務所を出てからはそもそも偽名で生きてきたこと、彼の伴侶も最初の乾健太郎という名前は知らない、そういう詮索をしない素晴らしい妻だったとも語りました。生活は今はうまく行っていて、この二十年は本当に、節子さんのおかげで幸せだった。とりわけ子供を育てた時間、娘が大人へと育っていく時間はかけがえがなかった。子供の成長をもっと節子さんに見せたかった、父方の祖父母を知らない娘には祖父母だと伝えていて、事情があり苗字は違うが、青山墓地には娘と一緒に季節ごとにお花を届けにいっているなどという話をしました。

 そういう会話をひとしきり終えてから、突然の文脈で、乾は私に金の請求をしました。

 少し前の話で生活はなんとかやっているし、娘も成人したと言っています。金に困る様子はないにも関わらずです。

「生活に困ってもいないのに、金の無心もおかしいだろう。」

私が問い詰めると、乾は、しばらく理由を言わずにいましたが、とうとう、

「実は、また困ったことになったのでお金が欲しいのです。」

「困ったこと?」

「江戸島さん。じつは、二十年前と同じ葉書が来たのです。」

と白状しました。

「でも戸籍を変えたし名前も今は乾ではないのになぜ葉書が?」

「わからないです。でももう三回も引っ越しているのに新しい住所宛に葉書が来たのです。」

「乾の名前宛で?」

「いいえ。」

「……。」

「新しい方の名前宛で、あの葉書がきたんです。」

そう言って、彼は懐から、葉書の束を取り出し、会長室のテーブルの上に置きました。

 私は、川崎の喫茶店で妻と三人で十四枚の葉書を見た時を思い出しました。あの徹底的な復讐心に溢れた手書きの文字のことを思い出しました。筆跡は、遠い記憶の中のそれと一致していました。恐怖が私にも来ました。

「戸籍を変えて、幾度も引越しまでしてきたのに、お前のことをまた見つけてきたのか」

「そうです」

「二十年も経って、二十年ぶりに見つけたということなのか?」

「わかりません。引っ越しは何度もしてるのです。」

妻が隣にその時にいれば、また違うやり方をしたのかもしれません。ですが私は二十年ぶりに、十四枚の葉書と聞いた瞬間、X重工の江戸島らしい例のスイッチが入りました。瞬時にX重工の立場になり、火を消すことで処理をしたいと、なっていました。脳よりも先に脊髄から反射したかのように言葉を返していました。少し妻のことを考えればわかるであろうに逆をいくのです。職業病とは恐ろしいものです。

「だから、金で処理をしたい、ということか。」

火消しの江戸島は、滑らかに語りました。

「はい。」

「金で処理できる見込みはあるのか。」

「自分も色々仕事をしてきました。お金があればうまく処理できると思います。それが一番ご迷惑をかけないように思います。」

三十分の面談の時間は限られています。他にも処理をしなければいけない物事は溢れます。

 火消しの江戸島にとっては、幸いにも乾が求めているのは金だけでした。何か首を突っ込んで助けてくれということでもない。そもそも何を彼がしようとしているのかも触れたくはない自分には、最初から都合の良い条件だったとも言えます。そうして金額も、大した金ではないのです。私はその場でいつも机に置いている現金を取り出し、乾の要求する倍以上の金額にして直接手に渡しました。そうして残りの金額についてもある程度用意するとだけ告げました。

 このお金が全ての過ちだったことは、いま貴方はご理解頂けると思います。



 佐島さん、いやレイナさん。

 あの日私は、貴方にお願いして理由も話さずにあの場を去りました。突然のことで大変申し訳ありませんでした。ただ、事情を話せば貴方にも迷惑が掛かることでしたので、何も説明せずにしたのです。

 私は、乾健太郎本人に会いに行くためにタクシーに飛び乗りました。私は、乾に次のお金を用意する時のために交換した連絡先に連絡をしました。しばらく連絡に出ませんでしたが、ようやくつながり、川崎にまで会いに行くと話をしました。

「時間がないので会えない」

乾は冷たくそう言いました。私はその時まだ乾が逃亡でもすると思っていますから、丁寧に話をこめて

「一瞬でいい。金の部分も含めて、話があるのだ。」

と有る事無い事をいい、無理やり彼と最初に会った川崎の喫茶店で待ち合わせました。二十年前、妻と一緒に初めて彼に会ったあの、喫茶店はまだ駅の近くにありました。

 私はすでに秘書からの連絡で女子高生事件の三名が令和島で殺された話を警視庁の警官からお聞きして、乾健太郎が何らかの関与があると、感じておりました。さらに青山墓地まで来られた女性警官、石原巡査の説明により詳細をお聞きして、乾健太郎は何かをしたのだと思い込んでいました。最悪の場合、罪の隠蔽に絡めて、自分に殺意が降りかかることも想像もしました。ただ、私はあの時だけは真面目でした。火消しの江戸島ではありませんでした。火を消すために乾に会いに行ったのではなかった。まず何より、妻の人生を捧げた乾健太郎という人格が、罪悪をさらに重ねることだけを少しでも食い止めたかったのです。妻の残した大切なものの暴走を止めたい一心でした。何故そんなことを私がしたのかはわかりません。ただ貴方と出逢い、妻とのことをお話しさせていただいたことで、私はようやく、真面目になれたのかも知れない。貴方と夜を徹して語らった幸福こそが、あの朝私を乾健太郎に会いに行かせた理由なのです。他に理由はきっとない。火消し男が火に飛び込むようなことをする訳がない。

 私は乾健太郎になんとしても妻の人生を汚してほしくなかったのです。親不孝者になってほしくなかった。本人に、会ってただただもう一度、妻の気持ちを伝えたかったのです。

 二十年前と同じ窓際の席に乾は座っていました。

「なぜここまで追ってきたかわかるか?」

「……。」

「いま、警察は私のところに来ている。ハガキに関する殺人が、令和島、若洲に近い場所で起きたんだ」

「……。」

私はそこで、女性警官に聞いた、あらましを伝えました。そうして、どう考えてもその殺意の周辺に、乾という人間が関わることを言いました。これから警察がお前にもくるに違いないと。お前は、何かをしたのか?と、そう、私は聞きました。今にもナイフでも持って私に歯向かってくることも覚悟しながらです。その時は私は必死でした。妻の人生のために、乾健太郎が罪を犯すことだけは辞めろと言いたかったのです。

 父親の気持ちだったと思います。私は幾度も問いました。どうするのだ、と。家族は、どうするのだと。すると乾は

「もう節子さんには話しました」

と唐突に言いました。

「何を?話した?」

「天国の節子さんと話したんです。」

「……。」

「自分がいけないことはわかっています。しかし、他に方法はなかった。」

「おまえ、もしかして途方も無い罪を犯していないか?」 

「もう覚悟はできています。」

「覚悟?」

「心配なさらずに大丈夫です。今から警察に行くので。」

「そうなのか?」

「はい。全ては終わりにします。」

「終わりに?」

私はその時、その終わり、という意味が全く想像などできませんでした。

「一つだけお願いがあります」

「……。」

「余計なことはしないでください。」

「余計なこと?」

「今から、この乾健太郎が警察に行きます。」

「どういうことだ?」

「自分の、この川崎の生活については、一切関係がないということです。」

「……。」

「警察関係の方から連絡を貰いました。」

「警察の?」

「乾健太郎として、出頭する話をしたのです。」

「どういう?」

「ここに警察を呼んでいます。」

「ここに?」

「はい。もう出頭すると決めました。」

「そうなのか。」

「お世話になりました。ご迷惑もおかけしてしまいました。」

「……。」

「江戸島さん。自分には守りたいものがあったのです。」

「守りたいもの?」

結果としてそれが、私との最後の会話になりました。しばらくすると乾の説明通り、警視庁の捜査員らしき人物が喫茶店に顔を出しました。いかにも捜査一課のエースらしい筋骨隆々とした背の高い刑事が一人、乾を連れて車に乗せて去りました。

 喫茶店で別れる時に、彼からは丁寧に私の支払った金の残金を封筒に入れて戻しがありました。


 乾健太郎という二十年前、片腕を残して行方不明となり自殺をしていたと思われた人間が実は生きていた。そして、長らく恨みを持ってきた当時の仲間の少年三名を殺害するに至ったことは、乾本人がA警察署に出頭し自白しました。乾健太郎は、私の金で借りた部屋を、自分の住居だと説明しました。更にそれまでは住所不定無職だった、その日暮らしだったという説明を行いました。そうしてその夜のうちに留置所で自殺をし、帰らぬ人となりました。

 そうです。今回全ての罪が隠しきれぬことを理解した乾健太郎は、警察署に出頭したその夜に自殺をしました。二十年前とは違い偽装ではない本当の自殺でした。

 私が会った時には、すでに彼は出頭の覚悟をしてい、最初から死ぬつもりで出頭したのです。その遺書は、私の金で借りた部屋で彼の死の翌日に見つかりました。遺書には、前日の自白以外の細かいことが証拠物として記載がありました。そこには彼しか知り得ないはずの情報が細かく記載されており、警察も前日の自白と合わせ、彼の単独犯行に疑いのないことを確認しました。その遺書はまるで、誰か警察官が書かせたかのような証拠物として明快なものでした。色めきだった多くのテレビ関係者もせいぜい上場企業会長である私が金銭的な関与を乾にしたことを報じる程度だった

 無論、自白にあったような、三人を許せなかったのが殺人の動機だというような自己中心的な妄言は許されるものでありません。どういう恨みがあったのか、彼にしかない人生への不満や、未成年で殺人を犯した後の人生には、我々の想像しずらい鬱屈があったのかも知れません。

 ただ、私はこの遺書においては一点だけ、真実はあったと祈っています。すなわちそこに繰り返された、三十年前のご遺族へのお詫びの言葉に、嘘は無かった、そのお詫びだけは彼は私に言っていた通り、自分の心の本心に生じていたのだと信じます。



 最後にです。

 私は彼が出頭したあの日から、それまでどこかで見るのを避けてきた保護司に関する妻の遺品に、少しずつ目を通すことをはじめました。この遺品は長らく私の家の二階の押入れの中に段ボールで置かれたままにしてまいりました。既に申し上げた通り、保護司としての妻の仕事に反対をし続けたため、私はこの遺品も同じように見て見ぬふりをしておりました。しかしこのような事件の起きたことと、貴方に出逢い妻の保護司の仕事についてもっともっと知りたい、知ることで妻とできなかった会話を埋め合わせたいと思うようになったのもあり、恐る恐るではありますが遺品をの一部を見ました。⭐️

 一部というのは几帳面な妻は保護司の作業を行なった更生者それぞれに、面会の記録や自分の考えをノートに段ボールで六箱もあります。私は今回まず乾健太郎について三冊あるそのノートを手に取りました。

 刑事事件としては既に解決をした事件ではありますが少しだけ、このノートを読んでからわたしは事件に思うことがございます。レイナさん。このお手紙の最後に、改めて、乾健太郎が何故、三人もの人間を殺害し、それに反して突然早々に出頭をしたのか?について、私なりの見解を申し上げます。ある意味このことでもう少しだけ、妻との思い出を語ることになるとも思われますのでお付き合い頂ければとおもいます。

 妻は多くの犯罪者を分け隔てなく更生するために保護司になりました。妻の実家は東京の城北にあたる、葛飾でした。保護司を管轄する法務局というのは地域で分割があります。妻は、城北区担当として、この綾瀬金町周辺の広大な場所が基本的な担当でもありました。結果的に、この地区の不良少年、などを多く見ることになりました。その大勢の更生者の中に、綾瀬の女子高生事件の実行犯らがいたのです。

 彼らは事件当時は典型的な不良少年でした。ただ彼ら典型的な不良にも一つの不幸があったかもしれません。あの当時、少年法を盾にとり、何をしても少年院なら一年で出れると言われたという種類の子供たちは多いのです。不良が犯罪を犯す迫力付けとして、しかも少年院を一年で出れるという悪魔の囁きが煽られる中多くの若者の勇気は犯罪に向かいました。言葉を恐れずに言えば、不良たちの間では、高校を卒業する学歴と同じように「少年院上り」という言葉が存在さえしていました。

 子供は大人を見て育ちます。競争や蓄財に明け暮れた高度経済成長期の大人たちのように、不良少年も同じく身内での競争や立場の争いを常に行いました。不良の肩書きを上げるためには武勇も必要で、少年院出身になることはその迫力を作る行動でもあったのです。企業人が会社の中で肩書きを上げることに必死になのと同じように、不良少年らも競争的で打算的な場所にいたのです。ましてや未成年で子供です。犯罪が勝利で、権力への近道だと聞けば、どこまでも少年は悪くなれるはずでしょう。

 多くの少年犯罪者がそういう過去に後悔を持っている様子があります。暴走族だ、不良だと言っても彼らも少年です。妻の遺品には一人一人の更生者ごとに細かくそういう記載があります。誰しも、本当になりたくてなったのではない。自分の居場所や、自分がいられる場所に辿り着いてみたら、その場所がそういう設定だった。貴方に申し上げたい。どこかこの私と似ていると思いませんか?人間社会のどこにでもある競争の中で本質を見失う組織人とどこか似ていませんか。企業内の立身出世のために妻との本質を見失った私が、未成年たちを責めることはできないのは当然ですが、そもそも視野の狭窄する大人たちの中で育った子供たちが、似たように視野を失って、犯罪に染まっていく時、我々大人はそれを少年法を盾にして自らの責任と切り離せるのでしょうか。妻が保護司をする中にあった根源の問いが、ここにあると思います。

 妻は言うでしょう。少年を作ったのは大人なのです。我々成人たる大人の社会が、子供を作り社会の中で子供が育ち、やがて少年になるのです。その少年が残酷なのであれば、社会のどこかにとても残酷な因果が存在するに違いないのです。

 妻はそういう責任に対処する意味での保護司の仕事に向かったのだと思います。まだ彼女の残した膨大な文書を読み始めたばかりですが、そういう信念はすでに感じています。

 更生を行うあらゆる人間を分け隔てなく引き受けようとした一連の行動こそ、まさしく節子らしい。本当にそう思います。妻は議論だけでは終わりにしなかったのです。そればかりか、保護司の仕事を越えて、すべての子供達の母であろうという姿勢を持ちました。貴方がまさしく私に教えてくれたように、社会全ての罪という罪を、母親の気持ちで背負おうというのです。今となっては、この覚悟に対して私の立ち回りがいかに滑稽だったことかはいうまでもないですが、妻のこのような能力を私は、凄まじいものと思います。ありていにいえば、こんなふうに誰かを尊敬したりしたことがありません。

 無論、再び犯罪を犯した乾健太郎に同情の余地などはありません。むしろ、命をかけて更生を願った妻に対する侮辱です。短絡的に火消しの目的で金だけを渡した自分も許せませんが、乾健太郎についても妻のノートは三冊もあります。ここまでして更生を願った妻の気持ちを思うと、私は憤りを覚え無念にさえなります。ただ、憤り続けるうちに、私に天から言葉がおります。今妻ならば乾になんというのだろうか。「全ての更生者の母」になる覚悟をした妻は、どんな表情をするのだろうか。ノートにはそういう自問自答が溢れます。怒って怒鳴りつけるのは簡単なことなのです。刑罰も簡単な処理なのです。問題は自分の子供に正義がない時なのです。おそらく、

「それでも彼の心を入れ替えさせたい。」

と、妻はいう気がします。もし生きていれば妻は、再び殺人者となった乾健太郎に対しても留置所、刑務所にまで通って、罪を悔い改めてもらおうとしたかもしれません。このことについても妻も、そして乾健太郎本人も鬼籍に入った今となっては想像の言葉でしか繋ぐことはできないのですが。

 警視庁によれば、乾は、少年Aこと尾嵜憲剛(実名ママ)をあの夜計画的に呼び出した若洲で殺害し、用意した自分の小型船に乗って、海路を令和島にはいりました。袋には別途、数日前に殺害済みの少年Bこと風間正男(本名;山川敬之)と殺害したばかりの尾嵜憲剛の生首を持ち、小型船で進みました。尾嵜の胴体は、その船に用意した錘を付けて海に沈めつつ、令和島の、予め見出していた護岸岸壁のない場所に、小型ボートを接岸しました。

 令和島には、嘘の情報で助かるという嘘を信じた少年Cこと守谷保(本名;小川慎二)が、軽トラックにコンクリートの用意をしてやってきている。丁寧に、入り口に、マキビシを巻くのも忘れない。こういう守谷の性格を乾健太郎は熟知していたのでしょう。もしくは三十年前にそう言う役割だったのかもしれません。

 令和島で落ち合った後、守谷も殺害し、そうして彼の持参したドラム缶に全てを投げ入れました。この時点では乾健太郎は自分の犯罪に酔っていたのかもしれません。その感覚は、どこかで世の中の求めることをしたではないか、という気分かも知れない。ネットの掲示板に書かれた殺意の数々を見つめ続けた乾には、世の中の憎む犯罪者が晒し首になることを世の中は望んでいるだろうと感じるものもあります。実際に妻のノートにもそういう不満を涙を流して語る乾健太郎との更生の時間が長くあったことは記載が幾度もあるのです。私はどこかでこの三人の殺人はこの三十年の鬱屈した犯罪後の刑務所からの生活が産み出したものに思えてなりません。三人まで殺めた理由のどこかに、我々では計り知れぬ過去への後悔やかつての共犯者への恨みは深くあったのかも知れません。

 また、そこに係累させられた探偵の軽井澤氏まで罪を被せようとしていたかどうかも、わかりません。ただ、この三名を追跡していた軽井澤探偵事務所のことは認識していた様子もあります。探偵方面からの追跡が焦りの一つになっていたのだとすれば、なんらかの殺意はあったのかもしれません。

 乾は、三体目、守谷保(本名;小川慎二)を殺害しドラム缶に入れると、そのまま海から来た道へと足跡のつきにくい草むらを選んで帰り、島の沖合の秘密の入り口から小型船で去りました。


 乾健太郎は、殺人を犯しました。しかし、最後の最後で、何故こんなことをしたのか。ただ三人が憎かったのか?ただ、葉書から逃げる恐怖があったのか、殺される恐怖を恐れていたのか。私はどうもまだ、腑に落ちないことがあります。乾本人が死んだ今、警視庁の発表含め、遺書以外のことは多くは推測となります。ただ私にはやはり殺人の動機、「三人が許せなかった」という彼の自白に違和感があり、長くなってしまいましたが、一点だけ最後に申し上げてこの手紙を擱筆いたしましょう。

 そもそも三人を本当に恨んでという、単純明快な動機があるのであれば、何故三十年も経った今になるのでしょう。刑務所を出た後すぐの方が余程憎しみも残っていたでしょう。何故令和の今だったのか?私はやはりこの殺人の動機は、葉書にあり、アスファルトに書かれたあの文言が怖かった、生きた心地がしなかったのが、最初の起因であるとおもいます。むしろそういう起因を隠すために、世の中には判り易い「三人を許せなかった」という動機を意図的に用いたように思えるのです。

 ただ、そう解釈してもまだ納得しづらいことがあります。乾健太郎は本当にアスファルトに書いてあったこと、つまり誰かを殺さねば、誰かに殺されるという、ことだけが恐怖だったのか。つまり、乾健太郎は自分の命が惜しかったのか、という点です。私には、乾健太郎が、自分の命が助かるために殺人を犯した、というのにも違和感があるのです

 自分の命欲しさに殺人の計画を立てたとすると、そのあとの彼の行動が幾つも矛盾するのです。彼は留置所ですぐに自殺しています。何か捜査の結果の間隙を狙って生き延びようという意図さえ感じません。また、二重橋に来た時の表情もそうです。葉書が再び来たと言って相談と言っても、二十年前とは違ったのです。表情を総合しても、私は彼が自分への命の復讐を恐れたりしていたようには思えない気がするのです。

 無論、二十年前のころにはアスファルトに書かれた復讐の恐怖があった筈です。しかし二十年の時間を経て、どこかでその恐怖は希薄化し、ある別の恐怖が生じたように想像します。そしてその新しい恐怖は、どこかで妻が努力して作りあげようとしてきたものに関係したのではないか、と思うのです。

 ここからは私の仮説です。

 彼は自分が殺されることを恐怖したのではない。

 彼が何よりも恐怖したのは、自分が殺されたり事件に巻き込まれることで、過去の自分がもう一度世に出ることだったのではないか?当初は自分は片腕を残して死んでいるから大丈夫だと思っていたけれども、どうやら、そうではない。全てが晒される。自分を殺して戸籍を変えて生きたことや、自分が三十年前に女子高生コンクリート事件を起こした人間だということが実の娘に開示される。このことに最も恐怖したのではないか。つまり、彼が最も大切に隔離しておきたかったのは、二十年前に生まれ、いままさに二十歳になったひとり娘だったのではないでしょうか。彼の一人娘がこのことに巻き込まれないようにするには、どうするか?それこそが乾健太郎の全てだったのではないでしょうか。

 この事件がどういう顛末を迎えるかを別として、仮に川崎で父親をする自分がコンクリ事件の人間だとばれたら、娘は人生の多くの可能性を失うことが判っています。きっと就職も結婚も容易にできない。いや、人生そのものが終わってしまうことは、そういう人生を歩いてきた乾には誰よりもわかったでしょう。

 そこにもはや、最後の計画があったのではないか。

 つまりこの、過去から追いかける葉書が存在する限り、自分たち四人の罪には既に逃げ場はない。逃すまいとする葉書の送付者はいる。その存在がある限り、何か事件が起きて仕舞えば、警察はさまざまな捜査を行う。何か分からない事があれば必死に警察は捜査をする。そうすれば、いつかはこの自分の川崎の生活する場所に警視庁の捜査員がやってくる可能性がある。そうして自分が最も恐る過去についての暴露が行われてしまうかもしれない。

 だとするとどうすべきなのか?自分の問題が、娘と家族に及ばなくするにはどうすべきか。そのことを求め、当初は三人が殺し合ってくれればどうにかなると願っていたものの、途中でその作戦自体が不完全と思うようになった。結局は葉書の送付された四人、自分も含めた四人への追跡が始まるのではないか。そういう風に突き詰めた結果、彼の作戦が急転直下、三人を殺して自殺をすると言う方針に変化したのではないか。もちろん、それまでに私が資金の提供などもしなければ、あのような部屋も借りず、尾行や諜報関係の人間も雇えませんから責任の全ては当然わたしにあることは言うまでもありません。しかし、乾健太郎だけのことで言えば、娘をなんとしても守りたいという大前提のせいで、別次元の覚悟が生まれてしまった思うのです。

 貴方もご存知の通り、警視庁捜査一課からの発表は、彼の昔の乾健太郎の名前でなされました。

 戸籍を買って過ごした、彼の直近二十年の別の名前、つまり今の娘さんの苗字との連結はされませんでした。このことについては事件を担当した銭谷警部補の判断があったのか、それとも一切感知せずに単純な発表だったのかは私には知る由もありませんが、このことで、彼のこの二十年間の生活を共にした娘と妻には、乾という秘密は隠されることになりました。

 二つの人格ーー前者乾健太郎は、三十年前に殺人を犯し、懲役を経て社会復帰し、過去を隠して生活しました。乾なる人物は二十年前に、自ら右腕を切断し自殺の遺書も用意し、戸籍上死んだように見せかけましたが、人知れず住所不定で暮らしてきました。過去とはつながらない場所で生きて暮らしたため、誰も彼の三十年を知りません。そうして、この夏から秋にかけて殺人を計画し、三人の過去の共犯の人間(元少年A、B、C)を殺しました。そして自ら自首して拘置所で自殺しました。この乾健太郎が、かつての少年Dでした。乾健太郎が自殺をしたとして二十年前に受理された虚偽の死亡届は法務省により修正され、今回改めて、もう一度死亡したことになります。我々が、世の中が一般的に目撃した事件は以上になります。ただ、この収束はよく見ると少し違和感があります。乾健太郎は一体二十年の間どこにいたのか?何をしていたのか?については一切不問なのです。警視庁はこの点はあくまで乾健太郎という戸籍の範囲の中で事件を処理したように思われます。

 二つ目ーー乾ではなくもう一人の人格ーーは、全く違う名前で生きていました。二十年前に子供を授かり川崎で家族と転々と引っ越ししながら暮らしました。彼は過去については家族には殆ど語ることのない男でした。妻でさえ、結婚する前に彼がどこに暮らしたのかも知りません。親族身寄りもなく、過去の写真などは持っていません。もちろん、過去を語らないのは、すなわち、その戸籍と名前が、どこぞの紹介者から買ったものだったからでしょう。戸籍を購入することで新しい人生を始めた、二十年前に作為で生じた人間でした。この男は、若干目つきは悪かったが、仕事は至って真面目で懸命に働いたため、家族は幸せだったようです。交友関係は驚くほど少なく、唯一の趣味は釣りだった。小さな釣船を借りて一人で釣りに出るのが好きだったと家族は思っています。その船で釣りに出たまま、先日つまり、三名の殺人があった翌日から行方不明になっています。名前は村雨浩之、といいます。

 この乾健太郎と村雨浩之が同一人物であることは言うまでもありません。

 ただし今回の事件で、この二つの人物は結びつかないままです。事実は少なくとも、現時点ではそうなっていません。つまり「村雨浩之」という戸籍には、「乾健太郎」が犯した、過去の殺人も、今回の殺人も紐づいていないのです。村雨浩之は、どこにでもいる平凡で平和な父親であり、ただ小型船舶を借りて、海に釣りに行って、行方不明になっただけの人物に過ぎないのです。

 まさかとは思いましたが、これが乾の最後の作戦だったのかもしれません。

 逃げて、生きながらえば、もしくは裁判が進んで仕舞えば、さまざまに誤魔化した自分の過去が明るみになり、自分の新しい名前を過去の乾という名前が追いかけてくる可能性がある。そうなることより、三人を殺して乾として自首し、留置所で早々に死ぬことが成り立てば、娘への悪影響が場合によってはゼロにできるのではないか。そういう計算は一応成り立ちます。留置所で死んだ犯罪者と、釣船で行方不明になった父親を一切別人だとさせるには、まさにいち早く、乾健太郎として逮捕され、すぐに死ぬ事が最善の策だったのです。仮に逃亡を続ければさまざまな捜査が進む。いずれは乾健太郎と村雨浩之が結びつきます。けれども乾健太郎が自らの名前で自首し、全ての罪を遺書に自白して死ねば、捜査のしようがないのではないか、と考えたのです。

 村雨浩之と名乗る男は、川崎の家から「海に釣りに行く」といって出ました。その船は東京湾で沈没したまま見つかっています。勿論令和島に向かったものとは全く別のものです。一見これは典型的な船の沈没事故にしか見えませんし、事実、村雨浩之の身体は見つかりませんでした。

 東京湾からその男の死体が見つかるわけがありません。恐らく村雨は意図的に船を沈没させ、泳いで陸に上がり、そしてそのまま乾健太郎の名前で一連の殺人の罪状で出頭したわけです。

 以上が私の違和感に対する解決です。

 これは私の仮説でしかありませんし、万が一真実だとしても、おそらくは過去を知らぬ彼の妻や娘のことを思えば、私の脳の奥の藪に放擲をしたいと思っていますので、どうかご理解ください。ただこう解決させることで、私には少しだけ妻との会話が叶ったようなそう言う心の邂逅があるのです。

 警視庁とは少し離れた、村雨が行方不明となった釣り船の沈没を捜査した神奈川県警によると、村雨浩之という男は、大学に通う娘をその朝に呼び寄せ、昼から妻と一緒に家族で食事をしたのだそうです。いつもと変わらず父は常に楽しそうな笑顔だった、と妻と娘は神奈川県警の捜査員に述べています。その後、大好きな夜釣りに向かい、帰らぬ人となった、行方不明のままになったと、妻と娘は信じています。

 村雨にとっては最後の家族会だったのでしょう。自分が生きていれば、警察がこの川崎の家にまでやってくる。警察の職務として過去の全ての嘘を暴くことが徹底され、その結果自分の人生だけではなく、妻と娘の未来の全てを奪うことを始めてしまう。そうなれば娘の人生が自分の過去に紐づく。自分と同じように戸籍を買って、本名では生きられない人生になってしまうーー。

 そうなることだけを恐れ、自分が死ぬことを決意しながら、その表情をおくびにも出さずに家族と最後の食事をしたという、村雨浩之、いや、乾健太郎の心を思うときに、私の妻が育てた大切なものがそこにあるように思えてなりません。

 以上です。


追伸

 川崎の喫茶店で私に別れを告げた後に、乾は彼が呼んだと思われる警察車両に乗ったのは申し上げた通りです。この点、神奈川にまで警視庁の車が来ているのかと、不思議に感じたのを覚えています。何故捜査員が一人で来るのかも今思えば、少し違和感があります。あの時は状況に冷静にはいられなかった私ですが、今思うとやはり、少しおかしいことがあります。と言うのも、神奈川県警の話の通りなら、村雨浩之という人格が家族で食事をしたのは、この時私と喫茶店で別れた後なのです。時系列が合わないのです。

 思えばあの時、警視庁の刑事はとても背の高い人物でした。大きな体を狭そうにして車に乗り込むと、乾に手錠もつけずに助手席に乗せました。そうして私の顔も確認せずに猛スピードで東京方面へと車を走らせましたが、あの車が向かったのは、東京の警視庁ではなく、一旦村雨の妻と娘の生活する川崎の自宅だったことになります。やはり矛盾があります。この点は私は不自然というか矛盾として定めるところなのですが、ただ万が一この疑問を掘り下げる事で、一旦の解決を見たこの事件がまた世に戻る事は避けたいと思っております。


十一 前略 銭谷警部補どの 


 今回の事件決着、逮捕おめでとうございます。おおよその予想を裏切り、メディアも粛々とだけ報じた点が、良かったと思われます。これも警察の担当者の尽力でしょう。わたくしの言葉など何もありがたくないとは思われますが、貴殿の独特の捜査方針が成功したのでしょう。さて本日は、わたくし、以前から申し上げておりました慈善事業についてある一定の成果をえ、ここにお手紙申し上げました。川田木くんについては今回の事件で警視庁関連に照会があったと思われます。そうです。A署の又兵衛警部補が三十年以上の時間をかけ取り組んできた、女子高生コンクリート事件の重大な関係者になります。実は別の事件で襲撃され、瀕死の重傷を負った、当時の高校三年生。正確には卒業後の大学への進学を決めていた方です。東京大学理科一類、といえばわたくしの先輩にだったかもしれない人物です。残念ながら川田木さんは一般的な学生生活は送れなかったのですが。

 貴殿の仕事や警察の方針にとやかくいう気はありません。またご指摘いただいた金石氏のことも知る由もございません。まあ、金石氏が警察官を辞めどう言う状況にあるかなどを鑑みえれば、万が一仮に本当に知っていたとしても、何をどう説明するかなどは、推して知るべしでしょう。この点についての妄想は引き続きお任せしましょう。そのことより、あなたを前進させるべき私の意見として、繰り返しではございますが私は今、この慈善事業の成果をお伝えしたいのです。川田木という青年についての成果でございます。

 私はこの川田木様の置かれている状況、いわゆる植物人間と呼ばれる、臓器の移植においてさまざまな議論のあった人物のある特異な状況について、慈善的に研究を私費で行っております。慈善とは、多く、世の中で間違って解釈されておりますから明確に申し上げれば、自分のが得た資産を喜んで世の中に献じるということです。投資や節税になっているような一部のオーナー経営者のよくやる慈善とは性質は異なります。何かを得た人間が何かを社会に還元するということ、これは古来地球上で行われてきた人間の特質です。いやあえて言えば人類がかろうじてまだこの地球に君臨しておるのはそういう還元精神が重要だったのだと私はおもうのです。私はまさにいま、自分の原罪を学んでおるのです。注意を補足しますが、ここでいう罪とは貴殿が暴こうと探しております、個別の犯罪ではなく、人間元来の罪ともいうべきものです。私が毎朝、早くに起き、この街を散策するのも大方この原罪に関わる理由です。

 この文章は、実は又兵衛刑事との出会いをきっかけに本日まで作られる運びとなりました。彼はこの川田木青年の家族に唯一認められた警察関係者でもあり、また直接ではないにしろ、彼と一度お会いしていろいろ相談の場を持ったという経緯も、

私が今回のさまざまな実験を行う初動では、大変役に立ちました。残念な誤解とはいえメディアをいくつか賑わせた私ですから、お母様初め家族の方のご協力がなければ、このようなことはできません。私が又兵衛刑事と一度お会いしているという言葉が、この事前研究に相応の効果をいただきましたことをここに強く申し上げましょう。

 我々の研究については細かいことを申し上げますまい。実際にもうこれからその成果たる文書をーー今回の事件に関わる文書についてをご用意しましたので、ぜひご高覧ください。いくつかの文書については警視庁が無断で踏み込まれました竜岡門の研究室に資料がございましたからすでに既読されているのではないでしょうか。ご覧の通り川田木青年は、不慮の事故に遭遇した人間と一見何一つ外部にコミュニケーションができないように思われてきました。しかし、立派に脳が機能している。下手をするとよほど、五体満足の人間よりも明確に言語中枢を活躍させている。この証明が確実なる成功を収めたことは、明確なものかと思われます。

 最後に、又兵衛刑事は同じように不遇の事件にあった、もしくは警察の中で何かあったやに噂されておりますが、彼がどこかで悔いていたこの川田木青年の議論において、青年と同じように又兵衛刑事自信が昏睡者となっていることは一つの象徴のように私は考えます。無論、彼にも同じようにこの成果に関することをいつか行う所存です。彼が見てきたもの、伝えようとしていたことも、どこかで私の目標する方角と類似する気がしております。こうして、わたしの行うべき仕事は、まだまだ存在するのだということを思うときに、身の引き締まるものです。もちろん、貴殿は全く別のことを私に想定して引き続き妄想され、捜査に動くのだと信じますが、それはそれ、お互いに、信じるものに邁進できることが、ありがたく生きる理由ではないかと、今日この頃思うに至ります。

 では、貴重な資料でございますが、ご送付申し上げます。







実験番号 CW556


天国ってあるのかなって

どうして?

私天国に行けるかな

僕は、焦った。

でも、焦りをを見えずに、

もちろんだよ。なんで?

だって、ひどいことがあったから。

そんなことは関係ない。もちろん天国に行けるに決まっている。

ほんとう?

嘘を言うわけがないよ。

ほんとう?

ああ。絶対だ。



実験番号 JHC15


 それまで何年も僕は彼女のことを知っていて、彼女はきっと知らない。僕にとって彼女は小学校、厳密には中学校時代まで続く初恋の相手であった。もちろん会話どころか目を合わせた事も殆どない片思いである。

 恋とは罪である。誰にも言えぬような様々なことを思う。思うがゆえに人には言えないような言葉もやってくるし、想像もしてしまう。誰かを思うことは罪悪のように、なる。しかしこの恋と言うものがなければ、この人類は存在するに値するだろうか?


実験番号 JHC16


 中学校の頃最もその人と近づくことがあった。あれは理科室で別のクラスとの授業で僕が勘違いした時だ。僕はトイレに行ってから少し遅れたと思って理科室に走った。理科室は第一と第二があって、僕は第一に飛び込んだ。室内は閑散として誰もいなかった。そこにその人がいたのである。広い教室に人間が二人だけになった。彼女は多分僕と同じように第一と第二を間違えたんだ。

「あ。」

彼女は、なにかを小さく呟いた。僕は彼女が扉を開けた時にすぐにその人だと気がついた。逆にその人は僕のことを一体誰か知らない。こちらを見つめることができず、あわてて理科の教科書を開いて机を見つめていた。僕は数秒して静かにその部屋を出た。会話するきっかけがあってもよかったのだが、できなかった。そんな勇気を持っていなかった。ただ僕はそれでも興奮していた。ほんの数秒だけだが、僕はその人とたった二人で空間を共にしたのだ。


実験番号 GWU23128


 運動会は、重要だった。僕たちの中学校は、ひと学年十五クラスもある巨大なものだった。教室の中にいても、その人のことを僕はしばしば考えがちだった。しかし日常でその人に出会えることはなかった。僕が教室に入ればその人のクラスの体育は外でやっている。僕らが外にいればその人は教室にいた。

 だから年に一度の運動会で、クラスの垣根なくグラウンドにみんなが出る時は貴重だった。群衆する生徒の中で、僕はいつもその人を探した。僕は運動会のリレーの選手に選ばれて、走った。部活に打ち込んだせいで体力には強く自信があった。最初その人のクラスは、B組で、僕はH組だったから、つまり、十五クラスあるのでO組まであったのだが、ぼくはクラス対抗のリレーで何番目かを走った。運動会は校庭に楕円形のトラックが設けられ、応援席はクラスごとにアルファベット順に並んでいた。僕の走る第三コーナーのちょうど曲がるあたりに、B組の応援が並ぶ場所があった。僕はバトンを受けて必死に走りながら、そのB組の群れの中にその人を探した。最強の動体視力を持つボクサーは試合をしながらその向こうにいる観客を見れると言うけど、実はその時僕は幸運にも群衆の中にその人を発見したのである。自分の動体視力のおかげなのか、その人の輝きのせいかは判らなかったが、猛然と最大出力で走る自分の身体の中に何か稲妻のように輝くものが燦爛した。僕はそのまま他の生徒らを牛蒡抜きをした。


実験番号 GWU43228


「中学時代、その人と僕は結局、一度も同じクラスになることは叶わなかった。僕は運命を恨んだ。」


実験番号 GWU46128


 ある時から、僕は他の人間が届かぬ高い目標こそがその人に見合う自分になると思うようになった。恋とはそういう自己定義を迫るものである。

 その人がこの世界に唯一無二のものの存在だと確信していく。唯一無二のものに見合う自分になるには運動会だけでは駄目だ。全ての勝負で僕は勝たねばならない。そう思い込むようにした。僕は部活でも誰よりも走った(サッカー部だった)。残念ながらサッカーの世界で勝ち続ける程にはならずだったが、逆にスポーツで勝てないのなら何で勝つのか?と自問自答した。結果、部活を終えた後、三年の後半は受験勉強に邁進した。なんとなくその時は予感で、スポーツで勝てないなら成績で勝つしかないと言う程度の目標設定ではあったが、無事都内の進学校に合格し地元から都内に通うことになった。

 恋は人間にある一定の力学をかける。僕の場合はその人の美しさに自分の間尺が合うように真面目に努力をすることだった。殆ど何も接点はなかったが部活も勉強も僕が全力をかけて禁欲的に努力するその原因がその人だった。そうして脇目もせず、努力に身を捧げている時に、一つの純粋さが自分に天から降りてくる。その透き通った天の水滴には、その人と僕が同じ方角に向かわせる権威があった。純粋に美しいものに並ぶ為には、僕のような穢れた人間にはそう言う努力が必要なのだと、強く思われた。


実験番号 GRU43245


 彼女は隣の市の八潮の高校に行き、僕は都内の高校へと別れた。受験と、卒業と、慌ただしさの中での卒業だった。結局、中学時代、僕はその人に想いを伝えることは出来なかった。


実験番号 JHC23


 いつも彼女と話をしたいという欲望に駆られた。何の用事もないのに声をかけるようなことを僕はできない。恋することと行動ができることは違うと思いたいが、本質は勇気がなかったのかもしれない。幾度か計画はしたのだ。しかれど、告白をすることどころか、その人を呼び止めることさえできなかった。  

 ただ、話すことさえできなかった初恋の結果が、全て無駄で何もなかったということではない。僕はその人のおかげで勉強も部活も頑張れた。クラスも違う、学校が同じだけどの自分だけど、学年で一位になるくらい頑張れば、自分の活躍が届くと思ったのだ。部活を頑張ったのもそのひとつだ。受験勉強を誰よりも頑張れたのもその人を思ったことが理由だ。僕を前向きに走らせるものは全てその人が動力源であった。例えばその人と廊下ですれ違うたびに自分は何か熱を帯びて努力をするのだった。

 自分という人間をいつ紹介しても恥ずかしくないようにしたかった。



実験番号 HSC3438


 普通にしていれば、それで終わり。僕の人生と彼女の人生とが重なり合うことは確率としては万に一つも乏しいものだろう。つまり、青春の記憶の中の一つになるだけだったはずだ。

 そういう意味ではある奇跡を得たと言って良い。

 僕がその人と再び会ったのは、じつに二年と半年を過ぎた、高校三年の夏のことだった。思えば二年半もの間、一度たりとも忘れることのなかった彼女が僕の目の前に突然現れたのだ。僕の人生を決定づけたのはあの夏だ。あの夏がなければ今の僕はない。

 江戸川を挟んで、千葉側と東京都側、埼玉とが一緒に行う花火大会は何十万人という人が溢れる界隈で最も賑わう夏の風物詩である。街の祭りではない。地元の小学校があつまるというのでもない。もはや、茨城埼玉、千葉東京とあらゆる近隣から人が集まる何十万人規模の花火大会である。僕はその夜、弟二人を連れて既に大音声をあげて打ち上げ始めた花火の見える場所を探しに奔走していた。

 実にその花火大会の群像の中に、僕はその人を見出したのである。

 久方ぶりに見た彼女は見事なまでに大人の女性になっていた。それでいて小学生時代から存在するあの美しい奇跡的な所作は変わらない。蕾が蕾の美しさを失わぬまま咲いた花のようだった。何十万分のひとつでありながら、大勢の人たちの象徴として存在するかのようだった。見出したのは必然的にさえ思えた。ほかの全ての女性は僕には目に入らなかったけども、彼女の光だけがこの僕の目に届いたと言ってもいい。そういう表現が正しかった。

 しかしそれにしても尋常ではなかった。どうして一体これはどういうことだと思って見つめてその後に、彼女の浴衣の眩しさがその理由だとわかった。そういう順序だった。

 僕は呆然と見惚れてしまったのだ。

 見とれたあまり大胆であった。芸術であれなんであれ感動は理解というものを超越して人を大胆にする。だから執拗に見つめた僕の眼差しはその人に届いてしまったのだ。彼女の眼差しはまだこちらに返されずだったが、意識が揺れたのがわかった。僕の思いは伝わってしまうかも知れない。花火の強烈な大音声がその時ばかりは消えて大勢の群衆も祭りの屋台も全て僕の耳には沈黙した。その人の浴衣の白や赤の色彩だけが提灯の明かりに照らされてうつくしく、その人だけがまるで色調を持つ神か何かのようだった。

 彼女がようやくこちらを見つめ返すかという刹那、僕は必死に現実に戻った。弟たちが、手を引っ張るのに焦って再び動きをさせた体が、金魚救いで取った金魚を落としてしまった。砂地の上に金魚が複数転がり茶黒く砂がついたまま、ピチピチと跳ねていた。恥ずかしくなって必死に金魚を拾ううちに、肝心の彼女はいなくなった。あの時の気の利かない金魚のざらついた手触りの中の滑りを今も思い出せる。

 世界で最も美しいものが今そこにあった。あらゆるこの世界の美しいものに勝るひとりの少女の美しさがある。この世界にこれ以上美しいものが存在しないのだ。それが恋が盲目にするこの眼差しと脳の誤謬かは知らない。ただ科学が明かさなくてもいい。僕はただしく確実に、感じたのだから。


実験番号 HSC008

 夏が終わった。

 僕はどうしても諦めきれなくなってしまった。毎日のように夏の花火の夜の記憶が脳裏に暴れる。

 あの時、その人は女性の友達と来ていた。一度何かに微笑んだ気がした。金魚に焦ったせいで自分の視界はとても狭窄した。ただ、その視界の淵の辺りで、彼女は何か和かに笑ったような印象があった。まさかそれが僕の方を見てのことであれば、どんなに幸福だろう。恋の成就というものを僕は夢想した。これほどまでに自分を前向きに溌剌とさせる可能性を、僕は知らない。

 花火の夏のあと、最初僕はその人を想う心を中学時代と同じように前向きに変換していた。高校三年になり部活動も終え大学受験がはじまっている。再び彼女に見合う自分になろうとする努力をしなおした。そのことで自分を落ち着ける。当面の受験で最高の結果を出すことだけに集中をする。彼女に見合う自分になるのだ。

 そういう人間を前向きにさせる循環がやはり恋にはあるのだ。悪く言えば僕は自分の努力のために彼女を使ったのかもしれない。しかし、前を向いて生きることに使ったのだから、誰に文句を言われる必要もないだろう。


実験番号 HS5408


 夏の花火で見たその人の美しさが、夜毎僕の心を抑えきれなかった。前向きに受験勉強を努力するだけでは当然限界があった。どうしてもまた会いたいのだ。純粋に会いたいだけでなく、嫉妬も生じた。ああまで美しいものを誰か他の人間が放っておくだろうか。雑踏で彼女が埋もれたりはしない。いつまでも路傍の花のように人知れず僕のためだけに咲き続けるとは思えない。普通に考えると時間は有限なのだ。自分ではない誰かのものになることを考えるだけで恐怖だった。

 何か行動を起こさねばならない。何か方法はあるだろうか。

 そもそも論として、彼女の高校への通学路に僕の生活圏がない。つまり通常生活をする限り僕とは永遠に出会うことがないのだ。にもかかわらず、僕はずっと花火大会のような奇跡を信じていた。とんでもない神頼みだった。当然九月は無為に過ぎた。このまま十月も、いや今年も過ぎ、来年も過ぎるに決まっている。

 そう考えると居ても立ってもいられなくなった。行動を起こそうと思った。まず接点を作らねばならない。永遠に交差することのない現状を打破するのだ。だからと言って、道を待ち伏せすることはだめだ。待ち伏せで声をかければ不気味な追跡者に思われかねず、そんなことで嫌われるのは最も避けたい。しかし何かの作戦がなければ、このまま永遠に海をいく藻屑のように、未来永劫関わりを持つことができない。

 悩んだ結果、彼女の通学路のどこかに僕の生活を重ねるということを思いついた。たとえば喫茶店で受験勉強をするでもいい。塾の帰り道を遠回りするだけでもいい。その場所が偶然彼女の生活動線の上にあるというのはどうだろうか。何か帰納的な間接的な接点を狙うのだ。目的は別にあるが結果的には二人が出会う確率を増していくような何かだ。

 そうやって調べていくうちに、彼女の自宅方面から(僕は正確には彼女の自宅を知らないのだ)おそらく彼女の通う高校へ行く途中に喫茶店があるのを地図の上で僕は見出した。R公園の手前でテラスがひらけており前を歩く人間と店内との接点が発生しやすい。僕は学校の帰りにその喫茶店を勉強場所として使うということにした。目的は一見勉強でありながら、複眼的に別の設定を持たせたのである。

 まずは週に二回、僕は予備校の休みの日を使ってその喫茶店で勉強をした。

 しかし、彼女はなかなか通らなかった。実は後で知ったのだが、彼女はバイトをしていて、勤務のある日は全く別の道を経由していた。バイトの理由は卒業旅行のお小遣いを集めるというものだった。このバイトは週に五日深夜九時までだった。方角も違えばそもそも喫茶店の営業時間をすぎており、実は接点の設計は不十分であった。

 ただバイトが休みの日だけこの前を通ったのだ。最初の週は僕はあろうことに、勉強に集中して彼女が通ったことを見逃した。(それは後日彼女に聞くに至った。僕は受験生で時間を焦って勉強をしていた。)そうして二週目になって、ぼんやりと物理の問題の考え事をしながら通りを見ているとき、彼女が喫茶店の前を歩いたのだ。網膜に火花が散るような音がした。花火の時と同じである。彼女は浴衣ではなく高校の制服で、随分大人びて見えた。

 ぼくはやっと自分の計算が役に立ったのを感じたが、彼女はこちらに気がつく風情は一切なく、何も知らずに通り過ぎた。僕はその時、声をかけることもなく、もちろん歩いて過ぎた彼女を追いかけることもなかった。ただ、この喫茶店の前を通ることがあるということ事実に遭遇できただけで十分だった。翌日から時間の許す限り僕は受験勉強の場所をその喫茶店に置くことにした。

 

実験番号 HSC6508


 それは僕が知る限り彼女が通った三回目のときだった。すでに二回僕は彼女が通るのを声もかけずに過ごしていた。

 その日、僕が勉強している時に、ある視線が僕を刺すのを通りの方から感じた。僕は思わず参考書から目を上げてその視線を見返した。驚くことにそれが、彼女だったのである。

 ぼくは、大学受験で理科系の(考えるのが難しいというか)時間のかかる問題を解いていた。数学や物理が得意だったが、理科系の設問は東大の本受験では二時間に四問程度しかない。どれも長い論述問題だ。つまりひとつ問題を解くために三十分使う。当然模擬試験を練習するにも、一定の集中力で三十分近く没頭する。他のことを考えない。三十分無心に考えても中々答えに辿りつかない問題ばかりである。そうやって参考書を睨んでいる時に、目の前に制服のスカートがあった。

 あまりに突然だと、人間は計算を失って勇気だけの単純さを身につけられるのかも知れない。僕は唖然としたまま、彼女を見て、ずいぶん自然に会釈をしてしまったのだ。明確に頷いてしまった。

 その会釈に、その人も気がついた。出会いというものは、ある程度の偶然を含む奇跡である。

「**中学の川田木くんだよね?」

彼女は僕の目と机の上に広げられた複雑な方程式の書き込まれたノートとを交互に見やった。

「勉強中だったかな、ごめんね。」

「いやこれは、その。」

「すごい、これ全部数学?」

僕は驚いて何も声を出せないのを誤魔化すように、ゆっくりと頷いた。

「いつもここで勉強してるの?」

「ああ。」

「そうなんだ。」

「……。」

「これってもしかして大学受験?」

「ああ。」

朗らかに目を丸くして彼女はコトコト笑った。奇跡のように思い描いてきた場面がそこにあった。

「全然わかんないや。数学かあ」

「これは、ちょっとその、面倒なやつなんだ。」

「すごいね、**大学を受験するんだね。」

赤本には難関の大学名がいくつも記載されていた。

 本当に純粋に言葉を話すのだと思った。ものごとに素直に感動してその感動と同時に意図なく言葉を話せる。そういう爽快な風が吹く。あれこれと思索に耽り、躊躇して言葉という行動に進まない僕とはちがった。

「ここによくいるの?」

「あ、うん」

「私も元々ここが通学路なんだけどね」

知っている。僕は多くの計算を行ってここにいた。しかし彼女は何一つの計算もなくそこに美しく咲いていた。




実験番号 ASY67008


 僕らは待ち合わせの約束をしなかった。不思議と僕はあの喫茶店で週に二回は予備校のない日に勉強をする。そこにバイトのない日の彼女がとおる、そのことが良かった。ぼくは彼女が通ると、勉強の手を止めて、

「ちょっと休憩しようかなと思っていた。」

と小さな嘘をついた。最もあながち嘘でもなかったかもしれない。彼女とそうやって会える可能性があるだけで他の時間の集中力は増していた。実際に勉強は捗っていた。

「青空が高いね」 

彼女がそう言った日に、僕は思わず机の上が散らかってるのを理由に、

「荒川の方まで歩いてみようか。天気もいい」

と言った。

 結果として、一緒に散歩をしたのだ。

 喫茶店から公園を抜けて荒川の河川敷があった。遠くまで見渡せるその場所を歩いた。と、隣同士で歩きながらになると口下手の自分でも自然に言葉が出るのを知った。

「アルバイトは忙しいの?」

「週に五回も入れちゃったんだ。卒業旅行に行こうって友達と言っていて。」

「卒業旅行か。」

話をしたいことはたくさんだった。小学校の頃から知っていて、中学校の理科室で一度二人きりになったこと。運動会のこと。廊下で目があったように思えてそれだけで幸せな一ヶ月を過ごしたこと。いまこんなふうに努力をして、体も鍛えて、大学を目指せてるのは、貴方のおかげであること。伝えたい言葉は無限にあった。でも全てを話し始めたらどれだけ間抜けだろう。ぼくは全てを話すものは何も伝えられないという、哲学者の言葉を思い出した。そうして考えていることの、一割でさえも言葉にする事ができないでいた。


実験番号 HS78608

 

 進学校は秋が深まると大学受験を理由に学校の授業は午前で終わりか、強制力のないものになった。僕は午前に高校を出た後は殆ど独学した。集中は強く高まっていて、何をやっても捗った。


実験番号 HSC87008


 とある日に、不良のグループがヘルメットもせずスクーターで複数台群れを成して河原を走っていた。その腕には刺青があった。目は明らかに攻撃的な様子だった。

 僕は目を逸らした。

 胸の鼓動が高鳴るのがわかった。

 彼らは蛇のような目線で、目が合うと喧嘩をふっかける。

 綾瀬の南口では財布を取られた同級生の話を聞いたこともある。その同級生は交番を頼ったが結局財布は取り返せなかったらしい。

 不良たちが、世の中で大きな顔をしていた。相手をすればどこまで何をされるかわからない。彼らもその恐怖感情を利用して、恐怖を看板に商店街やゲームセンターを根城にしていた。

 あるとき僕は彼女といる時、奴らが向かってきたら守れるのか不安に思った。幸い、そういう場面はなかったけども想像をしただけで僕は不良たちに強く憎しみを持った。それはどこかで勉強に没頭してる自分が暴力能力として弱いことの反作用だった。奴らが動物的には勝者のように思わされる風潮さえある。それは嫌なことだった。

 高校で、そういう不良少年が都内の各所で犯罪をしているという説明を聞いた。都内の取り締まりが厳しくなったせいか、埼玉や千葉に遠征したりするとも聞いた。まさにその翌日明らかに不良の人間たちがヘルメットもせずスクーターで埼玉の河川敷を走った。僕が彼女と待ち合わせる喫茶店と目と鼻の先だった。かれらは都内の暴走族なのだった。彼らは誘拐や拉致もするぞという噂さえあった。

 その日は、彼女は喫茶店には来なかった。

 来ないでよかったと思った。二人で河川敷を歩けば危険があると思われた。


 僕の通う予備校は綾瀬駅にあったのだ。綾瀬駅はじつは南口がそういう人間の溜まり場だった。ぼくの予備校は北口だった。南口には行かないようにしていた。

 あるとき、明らかに暴走族とわかる人間が近づいてきた。

「川ちゃんじゃない?」

最初僕は無視をしたが、あまりにしつこいので振り返った。

「やまだ?」

中学時代、少し仲良くしていた山田だと気がつくのに少し時間がかかった。

「おお、元気かよ、かわちゃん。久しぶりだな。」

驚いたのは山田の格好だ。どう見ても暴走族のそれだった。

「元気にしてたのかよ。」

僕は、比較的コンプレックスが多く泣き虫でサッカー部でも補欠だった山田が、なぜか、強気になって胸を張っているのが気になった。

「元気だよ。」

「川ちゃんは勉強ばっかしてたもんなあ」

まるで、勉強する人間がバカだみたいな言い方だった。そんな上からの言葉を言ったので

「急に、何か変わった?」

と冷たく言ってみた。すると

「今俺ブルーにいるんだよ。」

と、勿体ぶるように山田は言った。

「ブルー?」

「知らないのかよ。暴走族の中では一番だぜ。」

しばらくそんな上辺の会話そしてからやがて山田は白状して

「いや、俺は勉強もできないし、運動もだめで。それで、高校辞めちゃったんだ。偏差値あんなに低い学校行っても意味ないから。それでブルーに入ったんだ。拾ってもらった感じかな。」

と言った。ブルーというのはブルースペクターという暴走族の名前だった。

 話すと山田はぽつりぽつりと本音を言った。自分という人間を変えたいんだと、語った。ブルーは中に入ったものの、命令とか色々あってつまんないとも言った。ただ、こういう格好をして駅で喧嘩を売ると、進学校の人間とかに強く出れるし、暇の気晴らしにもなる。カツアゲで金も儲かるんだと言った。まさに僕が高校の指導で気をつけろと言われたその対象だった。

「暴走族は、もっとモテるとおもったんだけどな」

山田はつまらなそうにそう言った。




実験番号 HSC88008 


 僕は恋をしていた。自分とはまるで違う、それでいて小学生の頃から恋慕してきたものがそこにあるだけで全てが感動的でありがたかったのだ。

「だいぶ日が短くなったね。」

僕らは喫茶店にカバンを置いたまま、河川敷を歩くようになった。他に客がまばらだったのもあり、店員は常連になっている僕を許した。

 ほとんどは僕が口下手で、女性をリードして話すことなどできなかった、無言で歩くばかりだった。それでも僕らは少しずついろいろな会話をした。並んで歩く時の方が言葉が出やすかった。何を会話しても、会話ができていなくても僕はどこかで探していた記憶を遡る幸福の中にあった。実はあなたを探しつづけたのだとは言わずに、脳裏に都度咲く花束のような喜びを楽しんだ。


実験番号 HSC88008 


 僕らは一度だけ手を繋いだ。

 あの時の記憶はいまもぼくの指先にある。

 とっさだった。

 河川敷に登る道で、車が勢いよく通った。危なかった。僕は彼女を守ろうとしたのだ。その結果、本来僕には存在しない大胆さで、彼女の手を握りしめた。

 優しい手だった。その柔らかさを優しさという言葉で、記憶している。

 僕はまだその感触を覚えている。

 あの時の記憶はいまもぼくの指先にある。

 僕が彼女に触れたのは一度だけ、その時だけなのだ。


実験番号 HSC88008 



 十一月になった。

 僕はとうとう、大胆に告白した。

 いつまでも何も自分の態度を明らかにせずにいることが耐えられなくなっていったのだ。

 その告白は、理由として、自分を自分で追い込んだものだった。

 告白する勇気もないのは自分でも嫌だと思った。関係を曖昧にして、責任もなく存在することが嫌だと思ったのだ。それは唐突だった。いや唐突だったが故に実現されたのだと思う。

 この時のことを、僕は、自分の行ってきた行動の中で、もっとも美しく誇らしいものとして記憶している。

「付き合ってください。」

「……。」

「ずっとそう思っていえなかった。」

言葉は唐突だった。前の会話を用意してとか、場所を考えてとかするのをしなかった。僕は素直に、いきている喜びを語るように言葉を、目の前に置いた。

「ごめん。勝手なことを言って。大学を受かったらでいい。ぼくと付き合ってください」

僕はそう言ったのだ。

 僕はこの言葉を大切に過去の光景の中の映画の一つのように愛している。真っ直ぐにそう言った自分を誇りに思ってもいる。

「ありがとう。」

「……。」

「うん。ぜひ春になったらどこかに連れて行ってね。」

「ほんとうに?」

「うん」

「ありがとう」

「うん」

「かならず、頑張るよ」

相手の気持ちを確認した興奮と恥じらいとで、僕は手持ち無沙汰になった。先日のように手を繋ぐこともできず「ありがとう」に似ている意味の言葉を探して声にするので精一杯だった。幸せだった。また明日も会おうと言った。バイトが毎日なければいいのにと話した記憶もある。


 そしてそれが僕の見た彼女の最後になった。



実験番号 ASY89008

 次の週、僕は喫茶店で勉強をしたが、彼女には会えなかった。

 結果、その週は通らなかった。 

 一週間でも会えないと苦しい。まるで永遠に会えないのではないかというふうにさえ思ってしまう。

 彼女はバイトを増やしたのだろうか。せっかく僕は想いを伝えたというのに。

 もしかして、それがいけなかったのだろうか。突然あんなことを言われたのが。

 僕は、彼女の家も知らないし連絡の方法もない。この喫茶店が唯一の方法だった。僕は連絡先を聞いてもいなかったことを後悔した。

 会っているその時はまた会えると思うものだ。しかし会えなくなると、どうしてこんなに不安になるのか。僕はやはり、昨夜が何かの影響を与えてしまった気がして後悔をした。しかしあの時彼女は

「ありがとう」

と朗らかに言った。今日にもまたあの笑顔で僕の勉強している目の前に現れると思っていた。しかし一週間がすぎ、二週間がたっても会えなかった。

 僕は不安になった。

 どこでアルバイトしているのかも知らないのを悔やんだ。どう考えても、連絡の手段を計算して聞いておけば良かった。バイトをして金を貯めて卒業旅行に行くと言っていたから、途中で辞めるとは思えない。




実験番号 ASY90045


 二週間が経っても、彼女は現れなかった。

 直感で、暴走族の奴らが関わっていると思えた。

 河川敷にいたスクーターの奴らを思い出した。僕は高校の生活科の担当の人に会いにいき、教えてもらった。直感は正しい可能性があった。暴走族の犯罪は凄まじかった。報道されていないものでも相当なものがあった。受験勉強をして深夜に塾から帰る高校生が意味もなく襲撃されることもあった。ただ、男性の被害はそうでもない。女性が問題だった。襲撃には誘拐や、強姦事件がいくつかあったのだ。

「こんなことが、許されるのですか?」

「警察もずっと放置気味だったが流石にまずいと言っているようです。」

「そうなのですか」

「ほら今、警察も大変でしょう。」

「大変?」

「まあ、警備する場所が沢山あるから。綾瀬あたりが一番良くないみたいですね。」

僕はぞっとした。

「綾瀬でなにが?」

「暴走族のグループで一番大きなものが綾瀬なんですよ。本部があるんです。」

「本部?」

僕は、山田の言っていた、ブルーというグループ名を思い出した。僕は居ても立っても居られず動き始めた。綾瀬の駅に山田を探しに行った。山田はそこが根城になってるのだという風情でゲームセンターの前に立っていた。

「どうしたんだよ、かわちゃん。」

「ちょっとね。」

僕は彼女のことは言わなかった。勿論最初は山田のことも信じてはいなかったからだ。

「ちょっと興味あるんだ」

「ブルーに?進学校で?本気で言ってるのかい?」

「学校は関係ないだろう」

近くの喫茶店に入ると、僕は暴走族がどういうものがあり、どういう場所で行動しているのか?などを質問した。山田は、そんな質問をされるのが嬉しいのか、少し居丈高に答えた

「ブルーが一番最強だよ。レッドとかブラックとかあるんだけどね。」

山田は、今の自分の生活にさほど満足はしていないにもかかわらず、暴走族の群れに入ったことや、自分がブルーにいることが一応は自慢のようだった。

「結構でかい組織だから。」

「どれくらい?か。」

「まあ三百はいるぜ」

「三百人?」

ほとんど学校単位で暴走族だということになる。

「若い奴は中学から。上はまあ、二十歳でブルーは引退。」

「引退なんてあるのか。」

「序列があるんだよ。」

「序列?」

「喧嘩の強さとか、頭の良さとかで、リーダーになれるやつが選ばれて、それで上に上がっていくんだ。まあ、部活みたいなものさ。新人は草むしり。キャプテンが一番偉い。」

「部活か」

僕はぼんやり聞いていた。部活はそんなに楽じゃないぞと思ったが言わなかった。綾瀬の駅前の南口は喫茶店やゲームセンターが鬱蒼としていて、この南口前でカツアゲをしてる奴は実は暴走族では末端だった。末端でも金をあつめたりすると「出世」するらしい。くだらないというか、話を聞いているだけで気分が悪かった。そして一度でもそれを恐れもした自分を情けなく思った。

「ほかには?」

「他って金の他に出世する方法かい?」

「ああ」

「あるよ。」

「……。」

「女だよ。女を手配すると評価はかなり上がる」

僕は背筋が凍りついた。

「で、かわちゃんも入りたいのか?」

「…まあ、そんなとこだな。」

僕は会話の中ですでに覚悟していた。すると、山田は、

「まずは、その格好から変えないとだな。いかにも進学校っぽい。」

僕は少なくとも持っている洋服で一番ふさわしそうなものを着ていたつもりだったが、それでもダメらしい。

「そういう店を紹介してもいいぜ。またコーヒーご馳走になるけどな。」

「わかった。来週用事が終わるからその後に頼む」

「なんだよ用事って」

「まあ、またいうよ」

僕はそれが大学入試センター試験だとは言わなかった。



実験番号  TFU43245



 行方不明という定義は難しいのを僕は知った。純粋な家出を大騒ぎしていたり、また家庭の環境によって家を出ている人間もいる、というのが表向きな理由だった。誘拐や監禁は曖昧にそこに混ざっていた。捜索願いは、曖昧に処理される。警察は事件になってからでないと動かないのだと、やがて僕は知るに至る。行方不明は事件ではないのだ。犯罪による誘拐だといっても本人の意思による家出であることが圧倒的に多い。だから動けない、というのだ。

 進学校の三年の冬は高校は午前で終わりになるため、午後の最初に交番や警察署に行くことにした。最初は埼玉県警だった。僕はこの時警察というものが恐ろしい地域主義になっていることも知るに至る。そのせいで何も進まない。世の中は、元素配列のような明快な論理はなく、恐ろしい矛盾論理で動いていた。何を話しても恐ろしく非論理で馬鹿げていた。相手にならなかった。挙句、都内の事件を埼玉で扱うのは難しいと言った。県境で誘拐された時などどっちが捜査するかなどは、正しく無責任の極みだった。結果、都内の警視庁の警察に行った。ただそこでも似たようなものだった。

 警察署の後、僕はいつもの喫茶店に戻り勉強をした。彼女がいつかここに来るだろうということを信じて、僕は黙々と勉強した。数学や物理の難しい問題に集中していれば、気が付かないうちにまた彼女が目の前に立っている。そう信じて勉学に集中させた。勿論、

「大学に行ったら、一緒に。」

という彼女の言葉が、その勉強の時間にどんなに支えになったかはわからない。

 しかしいつになっても、彼女は来なかった。

 警察は動かないままだった。

 僕はその後幾度も相談したが、立場論でしか対応しない警察を信じられなくなった。

 だから、彼女を取り戻すためにブルーに潜入すると決めた。

 大学入試センター試験が終わり次は東大の二次試験だった。詰め込み型のセンター試験が課題だった僕は少し楽になった。自己採点の結果は悪くなかった。合格をして、彼女に報告する夢が束の間の現実の色をした。

 ただ肝心の彼女については変わらず行方不明のままだった。僕は山田の紹介の店で服装を揃え、強い整髪料で髪型を変えて綾瀬駅のゲームセンターの奥に屯しているブルーの仲間に入った。背が高く、スポーツをずっとしていたため僕にはだいぶ筋力があった。体は強かった。この世界ではそういう部分は加点のようだった。

 二次試験の問題集をカバンの奥底に隠したまま、毎日一番早く綾瀬駅の屯所に顔を出した。進学校は午前で授業は終わりだったから学校を中退したという嘘はバレなかった。午前に学校で勉強して勉強の集中力のちょうど切れる午後の最初をブルーへの初期潜入に当てた。勉強の息抜きだった。夕方三時前には、バイトだと言い訳をしてすぐに彼女を待つ喫茶店に向かった。勉強に集中できなかったり、彼女のことが頭に消えない時、週に二回くらい夜遅くにまたゲームセンターに戻ったりもした。それもブルーの屯所に顔を出すためだけ。まず一週間はそうやって顔を出すことだけに努めた。山田はいろいろな紹介をしてくれて、ブルーの中の顔見知りだけは増えた。

 僕はその時は、彼女がどこかの暴走族構成員の家に監禁されていると思っていた。奴らの会話を注意深く聞いていると、そういう噂話はあったのだ。というのも、若者が部活も勉強もせずに集まって話すのは、過去の喧嘩の話と、女の子の話くらいしかなかったから。殆どがそういう、悪事の噂とそれを行うブルーの権力についての自慢話の伝聞だった。それをふかした煙草で繰り返すくらいだった。

 もちろん、最初は暴走族がどんな組織なのか気になった。だが誰も暴走行為をするわけでもない。オートバイの金額が無理なのでスクーターを使っている人間が多い。一部の金持ちの人間や高校中退で働いているような人間がバイクを買って、人に自慢をすることもあったが、基本は屯するだけである。学校に行っても勉強しない人間が休み時間に集まるのと基本は似ていた。

 とにかく、彼らは何もしないというより、することがないのだ。夜になってカツアゲと女探しをしにいく。それらはブルーという名前を出して行う。その看板を使う雰囲気は、僕には人間として耐えがたかった。弱虫が看板で強くなるわけがないけども、人間にはそういう看板効果があるらしい。

 ブルーの人間全員が好きになれなかったせいで、逆に開き直って誠実な芝居を続けることができた。話をして仲良くしようとか相手を友達にしようという意識がない場合、むしろその人間関係で強く交流ができるのかもしれない。ただ情報をとる目的のためだけの、命懸けのスパイのような気持ちだった。

 ある日、

「川田木はバイトばっかだな。」

幹部、といってもカツアゲ高値を上納金にするのが上手なだけのHがそう言った。上層部が気にしてる、みたいなことを言っていた。よく聞くととある抗争があるから参加してほしいらしい。

「二十六日で終わりますんで。急に辞められなくて。」

「そこからは毎日いられるのか。」

「はい。喧嘩でもカツアゲでもなんでも大丈夫です。やりますよ、なんでも。」

ぼくは山田より上背もあり、そういう言葉には強い芝居ができた。その芝居のほとんどは僕は強く最初から命懸けだったから逆に迫力があったのだと思う。Hという幹部は頷いた。

「二十六日からが楽しみだな」

二十六日は東大の二次試験の日程だった。この日を終えれば、もう勉強の必要は無くなるので、彼女の捜索に全ての時間をかけられると思った。探してあげること、見つけてあげることが叶わず、かつ勉強の片手間になっていることに焦りがあった。が、警察もだめ、どこの大人を頼っても誰も役に立たない。一日かけても呆然としているだけになる。ブルーの人間の信頼を得て、監禁の場所の情報を引き出すのが先決だった。焦ってはいけない。ここで焦れば、彼らは言葉を選び始めるというのもわかっていた。



実験番号  TES43212


「かわちゃんAGは知ってるよね」

「AG?」

「暗号だよ」

「?」

「知らないとモグリか新参者に舐められるから早く覚えたほうがいいぜ。」

「AGは綾瀬のゲーセン集合って意味だよ。」

「何故アルファベットに?」

「わからない。なんで英語にするのかは。英語の方が頭がいいように見えるからじゃないかな」

「英語ではない。アルファベットだろ」

「わからないんだけど、英語で幹部は」

「他に何がある?」

「沢山あるよ。覚えきれないくらい」

英語ではありません。ただ、くだらないことを全部省略言葉にし、それをアルファベットの頭文字にするだけの身内の符牒でした。金町はKM。警察はKS。少年院に入るのはSNH。組織はそういう言葉を

「全部教えてくれ。舐められたくない。」

 山田はいろいろな暗号僕に教えた。僕はその全部受験勉強のように全て一瞬で覚えようとした。

「知ってるのはそれが全部かな」

「ありがとう」

「あ、あと。」

「なんだい?」

「よくわからないのも、幾つかあるんだ。」

「例えば?」

「AX2っていうのは聞いちゃいけない話だって言われた事がある。」

「X2?」

「アジトの二階に集合という意味らしい」

「なんで聞いちゃいけないんだ?」

「わからない。」

「他には?」

「うーん。これは暗号英語なのかは、わからないけど」

「よくわからない?」

「ああ。」

「みんな、絶対に言ってはいけない、という秘密がある」

「絶対に言ってはいけない?どうしてさ」

「わからないよ。でも英語暗号の中に、絶対に口にしてはいけないっていうのがあるんだ。これは俺が言ったとは言わないでくれよ。」

「何故?」

「言ったら消されるという噂もあるんだ」

「消される?」

「ああ。絶対に頼む。」

「もちろんだ」

山田は辺りを見回してから、僕の耳元でそれまでにない小さな声でそのアルファベットを言った。


 CW?




実験番号  TFU43212


 僕はようやく二次試験が終わったところで本格的にブルーへ合流した。

 誘拐の恐怖を思いつつも、まだ僕は彼女に命の危険があるとまでは思わなかった。むしろ、どこかで攫われて彼女の夜が奪われていることを想像した。そのことを思うと毎晩苦しく、眠れなかった。ただ、ブルーのような暴力で女性を攫ったりするような人間であるかぎり、僕は何があっても取り戻すべきだと義憤していた。男として存在する意味がそこにある。無論ここで戦わねば一生後悔するかもしれない。ただ、これを安易に聴き回れば、情報は閉ざされてしまうのもわかっていた。僕はとにかく芝居を続けた。たった一人ででも、取り返す。そういう決意を胸に秘めた。

 二十六日以降はあっという間だった。

 東大試験の翌日、僕はすでによくわからない遠征で抗争に参加した。誰よりも前面に出て勇気を見せた。相手はナイフのようなものを振り翳していたが、正直彼女のことを思うと、少しも怖くなかった。こういう場所で武勇を少しでも上げる事で、情報が取りやすくなるのは明確だったからだ。

「すげえな、かわちゃん」

山田はそう言った。物怖じしない僕を尊敬の目で見るのがわかった。

 僕はある意味誰よりも暴走族の中で上り詰めるのが早かった。せいぜい二、三年しか所属しない暴走族の中においては、武勇伝で一気に状況は変わる、というのは予想の通りだった。

「幹部のHさんは褒めていたよ。」

そんな言葉がすぐにやってきた。勿論僕は少しも嬉しくなかった。組織の中で立場を登らせるのは嘘が一番判り易い。こいつらは嘘ばかりなのだ。でも僕には明確に急ぐ目的があったから、嘘も嫉妬も何も気にせず無心にそういう作業をした。

 武勇の噂のお陰で、どんどんブルーの中に入っていく事になる。中心部に近づくと会話する相手も情報も格段に変化する。結果、彼らのやっていることが次々と明らかになった。恐ろしい組織だ。駅でカツアゲをしているのは一部のことでしかない。東京中で女子に声をかけている。無理やり車に乗せることもある。それを自分なのか上層部なのかの家に連れていく。一緒に酒を飲ませる。女性の方は嫌がっているし、怖がっている。それでも関係がないのだ。そういう会合にも駆り出された。

 女性によっては暴走族に憧れがあるという種類もあった。そういう場合は見て見ぬ振りもした。女を連れてこいと言われれば、僕は割り切ってそういう女性を街で探した。実際に幹部の彼女になることをまんざらでもないと思う女性もいたのだろう。

 ただ、正直三回目でもう耐えられなかった。吐き気で眩暈がするほどだった。こうやって彼女を誘拐したのかと思うだけで、頭が割れるようだった。まだ、抗争でナイフ相手の人間とやり合う方が気が楽だった。


 そうして幹部の人間と顔を合わせることも増えた。

 バックについているという暴力団だとかいう人間とも会った。喧嘩の方法や過去の喧嘩の自慢を大人が酒を飲んで語って教える。この暴力団の構成員だという人物が、立派な風を吹かしている。部活でいう、監督か何かのようだった。

 目的が強くある僕は、そういう人たちに必死に、媚びるのを厭わなかった。もう受験勉強は終わった。時間はある。だからとにかく誰が、関係する情報を持っているかを見極めるまでは我慢して相手をするしかなかった。見極めた後、戦って事実を吐かせようと思っていた。正体を明かすのは最後でいい。苦しい努力だが、これは頭脳ゲームなのだ。

  

 それにしても、話せば話すほど、暴走族の勇気は、僕は想像と違ったことがあった。そもそも勇気はないのだ。

 ただ姑息な計算があるだけだ。彼らは何か強いものと戦いはしない。弱い戦わない人間を相手に選んでいるのだった。いや上に行くと立派な人がいるという体裁を取っていたけどもそんなものは嘘だ。方針は全くぶれない。勝てる相手、つまり弱い女性のほうにいく。それだけだ。何か映画で見た記憶がある戦後の貧困の中で弱者を守る代表などではない。思いやりがあるなら、罪のない女の子を漁るのを許さないはずだ。むしろ、親のスネを齧り、金も普通より持っている、勇気も才覚もない人間が看板を使って弱者を傷つけている。それが暴走族であり、暴力団だった。彼らは共通して山田のように自分の認められた場所がない気持ちを拾い、お前は負け犬ではないと自意識を鼓舞する。犯罪を犯しても助けるという空気をつくる。家出してきても居場所があるぞとそうやって不良少年を集める。

 そうして驚くことにその暴力団は言う。

「俺らは警察も繋がってるからよ」

この言葉は宗教神のような迫力をもたらしていた。それがあるから、道行く女性に声をかけられる。誘拐が出来る。幹部のために女性を殴ってでも家に連れて行く。こいつらは弱いものを守るのではない。人間としてなんと愚かな奴等なんだ。

「基本は捕まんねえから安心しろよ」

「お前ら、ネンショー(少年院)行って心と体を鍛えた方がいいぞ。武勇伝をつくらないとだ。伝説ともいう。」

 僕は許せなくなった。何が勇気だ。何が心と体を鍛えるるふざけるな。卑怯者が。

「何しても大丈夫だ。上と上で話がつくんだよ。警察も、暴力とは裏表なんだよ。」

僕には耐えられない言葉たちだった。警察と、このくだらない人間たちの上層部が連絡をしている。少なくともその連絡があると言っている。つまり、いま、僕のいる世の中には「弱いもの」を守るものはないのだ。弱い女性を誘拐したりする奴らに対し、守る人間は誰もいない、大人はみんな空気を読み、警察官もひとりひとりは気の毒だという顔をしても、実際には上層部に決定された癒着に従っている。







実験番号  TES432144 


 僕は覚悟を決めて情報を大胆に取り始めた。

 すでに、抗争の喧嘩の場面で上層部を助けたりもしたこともある。一度心を開くと、少しずつブルーの幹部も僕と会話をするようになっていった。

 急いでいる。大学入試試験終了や合格発表もそれどころではなく、ほとんど毎日、暴走族の集会に通った。やはり毎日通うことはすごく大事だった。同じ居場所にいることで言葉が増える。僕は一日に一度だけ誘拐や女性に関わる質問を誰かにすることにした。それ以外はくだらない話につきあい、無駄に質問は避けた。不審が広がれば全てが止まる。

 綾瀬のゲームセンターと、商店街の喫茶店がいくつか、後は、先輩の家と言うのが大体の集まる場所だ。

 二週間もするとだいぶ打ち解けた。

 いくつかの自慢話の伝聞を聞くようになった

 殆どリーダーや、地区のチーフなどの伝聞だ。

 どうやら上に行くこと人間は彼女がいる。そのうち、よくわからない、ローマ字での彼らは英語だという暗号を使う。山田の言っていた通りだった。


実験番号  TEE432144




 CWについての質問は危険だった。何故そんなことを聞くんだ、という空気もあった。人によっては、やばい話らしいね、と言いつつ、本当のところそこまでしか知らないという幹部も多かった。

 あまり聞き回りすぎると良くない予感もあったが、そんなことを言ってられない。

 時間がない。





実験番号  NFBI43212



 ある幹部が、知っていることを大胆に教えてくれた。奴らは一枚岩ではない。心の底では嫌い合っていたりする。だから情報は漏れる。

「CWの件はかなりまずいらしいんだ。触れないほうがいいぞ」

「どうして?」

「まあやばい」

「教えてくれ。少し事情があってね。いそぐんだ」

「いそぐ?」

「ああ」

「とにかくCWはやばいらしい。」

「CWってなんなんですか」

「Cはコンクリートだとおもう」

「コンクリート?どういういみですか。」

「いや、おれもわからない。」

「Wは?」

「ごめん。それは全く知らない。」

「やばいというのは」

「人の命に関わってるらしいんだ。俺も詳しくは知らない。でもとびきりの美人で十二月頃、有名だった。綾瀬の昔あったアジトにいたはずだ。」

「昔あった?」

「今はもう使っていないらしいんだ。それまでブルーの幹部や上の人間が出入りしていた場所だ。俺は場所も知らないんだが。AX2っていうんだ。二階のアジトのことらしい。多分その部屋が関係してるんではないかな。」



実験番号 TEE432144


 おぞましいことだった。

 僕は頭がおかしくなっていた。

 命の話に突然なり気が狂いそうになった。最悪の場合でも監禁、軟禁のようにどこかで生活させられているだけだとおもっていた。それでさえ最悪で夜も眠れなかったのだ。しかし、そうではないかもしれない、命、という言葉に、血の気が凍りつくようだった。

 なぜ殺すまでする必要があるのだ?女性をさらって殺す?コンクリート?なぜコンクリートっていう言葉が出てくるのか?コンクリートの部屋にいるのか?どういうことなのか。


実験番号 NFBI43234


 命に関わる。

 ブルーの中にその事実と極秘事項は存在した。

 ただ、彼女がそれだということが決まったわけではない。ただその可能性は十二分にある。

 僕は必死に毎日人を追った。AGにも夜遅くまでいた。

 高校を中退してブルーに入って北綾瀬支部の副長になっているというSという人間が、確か最後だった。

「Cはコンクリートですよね」

「……。」

「Wをご存知ですか」

「しらんよ」

「いや、でもおしえてください」

「おまえ、身内か何かなのか?」

「いや、違います。」

「……。」

「教えてください。」

「Wは若洲かもな。」

「わかす?」

「埋立地だよ、夢の島の先にある。ゴミの匂いで問題になってただろう。誰も行かない海の先だ。」

「どうしてそんなとこに」

「だから極秘でやばいから、そういう場所を探したんだろな」

「……。」

僕は気が狂いそうだった。CWについては若洲という埋立地のことを指す。Cはコンクリート。なんのことかわからない。ただ、命に関わっている。ある女が監禁されている中で死んでしまって、それを埋めた秘密の言葉だという人間もいる。絶対見つからない場所に埋めたとかいう嘘のような情報をいう人間がいる。

 僕は信じられなかった。だが、一刻を争うことは確かだった。

「その女性って、杉山今日子ですか」

「……。」

その時の副長の顔が忘れられない。それは何かを知らないと言い切ることが難しい、明らかに事実を隠そうとする人間特有の表情だった。




実験番号 NFBI43222


 ぼくは覚悟を決めた。

 作戦を開始した。

 その作戦については関係者もいるので割愛する。


実験番号 NFBI3222


 すでに作戦を開始した僕は開き直って誰彼構わず明確に問いただした。

 ブルーの人間を呼び倒しては、力ずくで時には殴り合って話を聞き出すこともした。対人一名であればさほど問題はなかった。しかし噂は漏れた。ブルーの中で警戒は始まった。僕のことを怪しむ人間が増えてきて、呼び出すことも楽でなくなった。だがそれは想定していた。僕は既にほとんどの情報を手に入れた。それは悍ましく、真実とは到底認めたくはないものであった。いや、まだこの目で確かめない限り、信じることはしないままだった。

 僕は彼らを金町の川近くに呼び出した。犯罪者だと睨んでいるブルーの関係者やその周辺を中心に、警察に情報を漏らすことを脅しながら呼び出した。もちろん、警察と彼らの間で取引があることも想定していくつかのことを作戦には織り交ぜた。

 もちろんこの時点では、結果のことは想定などしていない。

 

 

 

実験番号 BSC98665


尾嵜という人間はヘラヘラと笑っていた。

「知ってたらどうするんだよ。」

「彼女に今会わせろ。」

「会えねえかもな」

「いや、なんとしても会わせろ。」

「そんなことより、お前、サツみたいにあちこちで調べ回ってるらしいな?」

「だとしたらどうする?」

「ははは。バカじゃねえの?お前、殺されるぞ?」

「そんなことしたらすまないぞ」

「それが済むんだよ。俺たちは」

「どうかな」

「警察だって守ってくれるからな。」

「馬鹿みたいな迷信をを信じてるだけだろ。」

「なんだと?」

「もしお前らが罪を犯していれば、地獄の底までも許されない。少年院からすぐ出たとかで許されると思うなよ。」

「なんだよてめえ。ふざけんな。」

「なにもふざけていない。説明しているだけだ。」

そんな言葉のやり合いのあと、実際に喧嘩が始まった。

 やはり彼らは、一人一人に覚悟がなかった。

 僕は素手で力を込めて何人かを殴った。僕は当初かなり善戦をした。

 そうしてふとしたときに、彼らの何人かが、ナイフや鉄パイプを出した。

 それでも僕は勇気を持っていた。

 彼女のことを聞き出す。こいつら全員を倒して、なんとしても、今すぐ、彼女を助けにいく。

 僕はナイフさえ気にせずに彼らを殴り返した。

 だいぶ長い時間だった。相手は二十人くらいだった。最初殴った人間が回復して鉄パイプを持ってやり返してくる。自分は一人だった。

 ふとしたとき、何者かに後頭部を殴られた。

 少しずつ体の動きが悪くなった。

 そうしてもう一度、今度はかなり強く頭を殴られたはずだ。

 そのあとの痛みはない。

 自分の体が動かず、意識が遠くなっていくことだけは覚えている。



実験番号 BSC9454


 僕は本当に心の全てに彼女に恋をしたのだ。

 そうして約束までしたから、勉強もすることができた。

(約束だよ)

 という言葉がいつでも僕を応援してくれた。

 今も、その声が木霊する。

 人間において、学業や何があるかもしれないけども、人が人を思うというこの、純潔なる精神に優るものはないと、僕は信じる。そうしてその精神の目標に存在した、僕の最愛のひとを、誇りに思う。

 そのあとのことは、もう潔く諦めた。それでいい。もし彼女が生きていて、僕に会いにきてくれたとしたら申し訳ないことだし、こんな体では迷惑だろう。

 僕は覚悟をし、勇気を決めたわけだから、その判断を後悔はしない。むしろあの判断をせず、あの悪人たちに向かわずに泣き寝入りしたままで彼女を失い、過去を誤魔化して大人になって行くことの方が怖かった。永遠に夢でも彼女に合わせる顔がなかったことを思うと、そのことの方がゾッとする。だからこれで良い。

 家族には、とりわけ母には申し訳ないことをした。ここまで育ててくれ愛してくれたのに、体を大切にしきれなかった。でも、くだらない勇気もない男として生きるくらいならば、愛する人間も守れもせずに恥ずかしい人生を生きるくらいなら、僕の決断は間違っていたとは思わない。奴らは許されない犯罪なのだ。罪なのだ。罪に目を閉じて、思考を停止し、長いものに同調だけして、本当に大切なものを守りもせず目を背けて狡猾に生き長らえる人間に、僕はなりたくはない。


実験番号 BSC1 454


 毎朝、彼女が僕におはようと言う。

 春には桜を見に行く。夏には花火だ。浴衣を着た彼女と祭りの縁日を歩く。秋は一緒に本を読む。喫茶店と河川敷の間を散歩する。なぜか冬は訪れない。

 夏祭りの記憶は永遠の映画のように、くるくると回り続けてくれる。しかも、そのどれもが新しい朝の空気を吸い込みまた違う彼女を僕に見せてくれる。一度たりとも同じ映画はない。本当の名作はいつ何度見ても全く違う感動を与えると本を読んだ事がある。僕はそういうふうにいつも思っている。

 今日も花火がある。

 僕らはほかに誰もいない、二人きりだ。

 花火は美しく空を輝かせ、しかし僕には、輝く花火の火を受けて、色彩を幾重にも変える彼女の横顔を、見任せにする。

「綺麗だね」

僕は毎日そうやって彼女との時間を過ごしながら生きていく。


実験番号 HSC2 008


 ある日僕は夢を見た。

 夢の中の夢のようなどこからかが現実か分かりずらい種類のものだ。

 高校の卒業式。

 僕らは同い年で、小学校では会話もしたことはないけれども、中学校を経て高校の三年の夏に再会した。お互いの卒業式の日に、初めて話したあの喫茶店で、もう一度待ち合わせたのだ。

 お互い黒い筒に卒業証書を入れて、春が今そこに来ていた。

 誰にでも平凡に当然のように訪れていいはずの、高校の卒業式だった。 

 輝く未来を前にして、青春の最後になるかもしれない、その日。

 僕は約束通り、大学に合格し、彼女はアルバイトで貯めたお金で卒業旅行にいく。

 僕たちが結ばれる、春。


 その日、彼女は少し憂鬱な顔をしていた。

 僕と会った時に、そんなことは一度だけだ。

 たった一度だけだった。

「どうしたの?」

「ううん。」

「……。」

「天国って、あるのかな。」

「天国?」

「私、天国に行けるのかな。」

「どうして?」

 彼女がそう言ってからしばらく沈黙があった。

 春の陽射しが早咲きの桜の下だった。喫茶店から河川敷に向かう木々が桜なのだと僕は初めて知った。

 しばらく沈黙が続いたのでぼくは、苦しくなってひといきで、

「どうしてそんな風にいうの?」

「川田木くん。今までありがとう。」

「なぜ?そんな言葉はいらないよ。」

「ごめんね。」

僕は言葉というものが、一度声になって終(しま)えば自分の体に戻らない永遠のエントロピーであることをなぜかその時に思った。

「諦めないでくれて、ありがとう」

と言った。

「どうして?何を」

「だって、一人で怖かったよね?痛かったよね?」

「そんなことない。怖いおもいをさせたのは僕の方だ。男として守れなかった。本当にすまない。僕はもっと早くから立ち向かうべきだったんだ。」

彼女は初めて僕に胸を預け泣いていた。肩が揺れる。彼女の高校の制服と、僕の学生服とが重なる。彼女の白く美しい手の先にさっき卒業したばかりの卒業証書の筒があった。

 こんなに小さく愛おしい肩だったのかと心が震えた。そこには一人の弱い人間の一人があった。頬を伝う彼女の涙を知った。透明で冷たい、彼女が見てきた苦しい何かを洗うように流れた。土に落ちるまでの時間の止まったような悲しみを見ていた。

「ありがとう。川田木くん」

「ありがとうは僕の方だ」

「ごめんね。こんな風にせっかく大学も受かったのに」

「そんなことはないよ。僕は僕の好きな気持ちで今こうなってるだけだ。むしろ何も後悔なんかないんだ。」

「本当にごめんね」

「謝ったりしないで大丈夫だよ。卒業式ができてよかった。おめでとう。」

「うん」

彼女はその時僕を見つめた。そして、ふと

「わたし、天国に行けるかな?」

その言葉は、僕の胸を破るほど強く、言葉の最大の重みで響いた。

「天国にいけるかな。」

「もちろんだよ。行けるに決まってる。」

「天国で会っても、許してくれる?」

「許すなんて。僕こそもっと早くできていれば、また別の未来があったはずなのに。ああ、それだけは後悔だ。でも前を向いて、生きるしかないんだ。うん」

僕は全身で泣いていた。

「天国に行けたら、川田木君と会いたいな。いろんなお話をしたい。これまでゆっくりと話せなかったことをたくさん。まいにち、ひとつずつでもいいから。」

 その会話を彼女とした日から、同じ場面を繰り返すうちにそれは、ほとんど現実となり、まるで今の僕の人生の一つになっている。

「大丈夫だよ。絶対に。天国に行っても毎日会えるから大丈夫だよ。」

「本当?」

「もちろんだ。心の中でいつもいてくれてる。ありがとう。僕が今生きて呼吸をしているすべての理由が、あなただから。」

僕がそういうと、彼女はまた沈黙を長くした。それは永久に声を失ってしまったかのような時間だった。そうして何日も何年も過ぎたかのような沈黙の後に、僕の世界で最も美しく優しいあの声で、

「ありがとう。」

とという言葉が聞こえた。

 僕は、透明な涙が落ちたばかりの彼女の頬を見ていた。






「天国編」終





 







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パラダイム 北沢龍二 @shimokitazawa5

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