慶長十二年(1607)




* * *




「なに――牧が来たと」

 書見をしていた文机より老顔を上げ、襖脇に低頭する家士へ重盛は訊ね返した。

 慶長十二年(1607)。黄金舞う墓所へ暇を告げたあの時より更に八年が経過している。鹿野城の大手門より程近い、広大な筆頭家老屋敷の奥座敷に重盛は目頭を揉んだ。年寄ってこのかた、細かい文字を読むのに苦労して仕方がない。酷使した目より響く鈍痛にこめかみを押さえながら、重盛はこのところ忙しいと聞く末席家老の来訪に首をひねった。

 すでに世は葵の御紋のもとに定まり。本領を安堵された家中一統は、主君に倣ってこの因州鹿野へおとなしく根を下ろし、高三万八千石の外様藩の振る舞いにも慣れつつあった。戦の火種も潰え、股肱の臣が手足の如く飛び回る慌ただしい時代はすでに過ぎ去っている。

(……家老となりてもあの駿足は変わらず、か)

藩主の叔父にして岳父、世嗣の外祖父である多胡信濃守重盛は、家中最多の禄千六百石を頂く永代筆頭家老の重職に在った。足腰も弱ったがそれ以上に、誰かを訪ねるどころかひっきりなしに誰かから訪ねてこられる日々が続き、執政会議で城にのぼる時くらいしか外出の機を失った。今やすっかり、日がな屋内へうずくまるだけの漬物石と化している。

老職として藩の重石たる事を望まれて、本当に石のごとく振る舞うとは思わなかった。

とはいえ重盛の長男たる勘解由は藩主の側近くに仕えており、いずれこの筆頭家老職を継ぐ身である。すでに老人が出しゃばる時節ではない、むずかる足はそう戒めている。

 きょうも城へ出仕している息子のことに気を取られ、牧の来訪の理由について考えるのが遅れた。その間にもう、案内される足音は奥座敷の前まで達している。

「多胡さま――いえ、信濃どの。こたびは伺いも立てず急な訪い、どうかお許し下され」

 開いた襖の先には膝を揃えた牧の座礼がある。二軒隣の屋敷の主に重盛は苦笑を返した。

「よせ。隣近所へ気を遣うものでない。とは申せ、久しいな……三月前の月番評定以来か」

「はい。――」

 奥座敷へ入りながら何か言いたげな沈黙を湛える牧に、ふと重盛はその顔を見上げた。曖昧な笑顔には、もう見慣れた『すっかり爺さんになったな』との失言が大書されている。

重盛も躊躇いなく渋面を向け『年を取ったのはお互い様であろうが』と無言の矢を返す。

しばし見つめ合ったのち二人同時に噴き出して、そうしてこの勝負は引き分けと相成った。

「御変わりなき様で。――何よりでございます」

「うむ。お互いな」

 裃の肩を下げ、いくぶん寛いだ様子で対面に座す牧。装いからは城帰りとも見えたが、もう四十半ばを過ぎた面には隠せぬ疲労と汗が滲み、どこか遠出をしてきた様子でもある。

「――朱印は肥州へ無事還ったと聞いたが。くだんの荷受けで、何か問題でもあったか」

 重盛が訊ねたのは暹羅(シャム)(タイ)へ送った貿易船の事である。程なく戻ると聞いていた。

「いえ、そちらは万事恙なく。肥州での荷改め、各藩領の通行許し、共に済んでおります」

 牧は帰ってきた朱印船の荷受け及び見分・鹿野への移送の総奉行職に任じられ、船の帰着した肥州から因州まで忙しく行き来する日々を送っていた。仕入れた荷の確認、長期航海や取引で生じた収支一切の決算、長崎役人の荷改めへの立会、渡海船の領内帰還に際し各藩近海通過の申請、朱印状発行に対する礼物の取り分けなど、その業務は多岐に渡り、藩執政に似合わず草履をすり減らす毎日である。本来は番頭あたりが任じられて然るべき奉行職であったが、藩主はおのれの庶子のひとりを肥州へ送りこの貿易を監督させたため、御役目に見合う重鎮として比較的若手の牧がこうして奔走する羽目になっている。そして同時に、この朱印船貿易へかける藩主の熱意も並々ならぬものと知れた。

 船へ託された殿の書付にございます、と見せられた数枚の紙に、重盛は目を凝らした。

相変わらず字が小さい。

『しらいと きいとのねをも、よく約束可仕候』

『塩消 水牛之角 薬入 しやかう くろきさいの角』

『万事無油断情を可被入候 よく見候てかひ可申候』

『ねこ十計可被買候、女ねこをかひ可申候、尾みちかく ほそき うつくしきを可被買候』

 そこまで読んで、思わず重盛は天井を見上げた。手蹟は見慣れた藩主のものである。

 猫は市井においても鼠害を防ぐ益獣として珍重されていたが、大名公家間では贈答品としての価値も有していた。藩主からの仕入れ指示に並ぶ品々はいずれも贈答品たり得る品ばかりで、将軍家からの仕入れ希望をも反映しており、むろん、猫もまた、姿美しきものこそ贈答の価値が出るものではあるが……この猫の外見へのこだわりはやたらと細かくて、ただの藩主個人の好みのような気がしないでもない。

 というか尾は短い方がよかったのか。てっきり長い尾が好みだとばかり思っていた。

 尾が短く細身の美しい暹羅の雌猫か、と重盛は異国の猫を思い浮かべた。その脳裏へは、あの墨面やその仔や孫のような、まるで鼻や足先をかまどへ突っ込み悪さを働いたような妙な模様が思い出されてくる。と、そこまで考えて、ふと重盛は疑問に気づいた。

 大陸まで墨面を連れていったのは故郷へ帰すためではなかったが。異国へ貿易の朱印船を送ったのもまた、墨面の仔らを帰すためではなかった。むしろその逆、異国の猫の仲間を連れて来て、増やそうとしているのか。雌猫ばかり買い求めるのはそういう意図だろう。

 藩主は一体何を考えているのか。いつもの如く判らない。首を振って重盛は紙を返した。

 鹿野へ帰るのもほんの数日、またすぐ肥州へ戻るのだと語る牧に、肩を聳やかす。

「――忙しいことだ。渡海船の荷受けとはかくも手のかかるものか。それこそ、こうして近所の老人の顔を見るなど、寄り道している暇もあるまい」

「いえ。実はその事でひとつ、ご報告があり……信濃どのと、磯江どのの処へ参りました」

 意外な名を聞き、重盛は目をまるくした。

 磯江が亡くなったのはもう四、五年も前のことになる。年寄って体を悪くした磯江は、鹿野近くの湯場へと頻繁に通うようになり、たまに道で行き会うと必ず熱心に湯治の効能を説いて聞かされ、いたく辟易したものである。田湯と呼ばれていたその湯場を磯江はたい、たいと呼んでいたため「たい」とは何かと訊ねると、「台」であると皺くちゃの笑顔で答えた。『藩主が故郷に帰れぬ臣らを憐れみ、せめて得ようとした保養地が琉球・台州である』との自説をかたくなに曲げぬ磯江は、敢えておのれらへ与えられた領内に湧く温泉にその名を付けることで「藩主の深情けはあまねく藩士らへと行き届いた」とどうしても結論付けたい様子だった。嬉しそうな老人に、その説は藩主本人が否定したと思い出させるのも気が引け、また磯江の近況を耳にした藩主もただ苦笑を浮かべるのみであったため、遮る者もなく上機嫌のまま磯江は死んだ。まあ幸せな末期ではあったように思う。

 墓参りの残滓か。牧の面に浮かぶ疲労に、家士を呼びいま一杯の茶を申し付ける。

「なんだ――磯江の墓へ参った帰りか」

 なぜ誘わなんだか、とむずむずする足を押さえ訊き返すと、牧は曖昧な微笑を浮かべた。その眼差しが向いているのは重盛の曲がった背中である。両の脚もすっかりと細くなった。

磯江の墓所は例の湯場を見下ろす峠にある。老体に容易く辿れる道ではなかった。

 美味そうに茶を飲み干し、家士の足音が十分遠ざかってから、ようやく牧は話し出した。

「磯江どのの墓前には、すでに報告して参りましたが。――さて。遠い昔のことなれば、果たして信濃どのは、覚えておいででしょうか……」

 そのまま昔日を思い出す瞳に沈む牧へ、重盛はかるく息を抜いた。

「ふむ。お主が磯江とわしに話があるというあたりで、おおかた、三人でよくつるんで居った頃の話であろうなとは思ったが。……いや、四人か」

 さらに言えば。内密の話かと思い奥座敷まで招いたが、入ってきて襖を閉める様子もなく話し始めた以上、秘匿すべき内容の話でもあるまい。しかしながら、家士が離れるのを待って話し出すあたりは人の耳を憚るようでもあり、牧の態度はどこかちぐはぐだった。

 重盛の言葉に、牧は我が意を得たりとばかりに膝を打つ。戦働きの頃の話で正解らしい。

「――その昔。殿が『……』を――」

「うん?」

「――殿が、『天下』を口にしたことが。かつて一度だけございました」

 なぜかやや顔を赤らめる牧は、その言葉だけ小声で呟く。訊き返してみて、重盛は羞恥の理由に思い当たった。

 世が定まって久しい。天下を望んだ数多の有力諸侯も、みな世襲地方領主の位置付けに収まり、平坦な世で『天下』を口にするは若干の気恥ずかしさを伴うようになっていた。

 皺をあつめた筆頭家老は唇をへの字に曲げ、左右の袖を順にさばき腕を組む。

「むろん、覚えている。……とはいえ――そういう事もあろう?」

「は?」

「殿とて群雄の一人であったのだ。それこそ一度くらいは、上様やかつての太閤のごとく。頂きへ飛躍することを望んだとて――」

「ああ。いえ、そうではありません」

 掌をいそがしく扇いで顔から羞恥を追い払い、牧は口元に笑みを刻んだ。

「あの殿にも若気の至りが、と思い出話をしたかったわけではないのです」

 意図の読めない微笑を見つめ、重盛は記憶から大昔の光景を引っ張り出す。

あれは確か――二十数年前、備州でのこと。織田右府が横死し、京へ引き返し叛徒明智を討たんとする直前。出雲の代わりに琉球を賜ったと御墨付をかざす主君は、故郷奪還の望みを絶たれ憤る将士らに、「必ずや天下をつくる」と宣言した。

 その言葉の意味は当時わからなかったし、二十数年経った今もわからぬままだ。しかし、他者にもたらされた天下のもと、重盛ら家中は数多の戦場働きに見合うだけの侍たる地位を回復し、こうして奥座敷へ安らう事も出来ている。かつて藩主が口にした大言に恥じぬ程度の厚遇は、すでに禄米のごとく支給されている。そのように重盛は評していた。

「あのとき――磯江どのが、殿に向かって一体何と言い募ったか。覚えておいでですか」

 眉を曲げて考える重盛の脳裏に、磯江の血を吐くがごとき面が蘇る。

『天下。それが在れば――故郷を取り戻し。昔日を取り戻し。草叢に伏す走狗ではなく、侍であった日々へと還り。再びこの胸に誇りを抱いて、悔いなく生きることができると。……そう仰せられるのか』

 不満を抱く老臣らを背に、磯江は確かそう言い放ったのだ。そのわがままを耳にした時、いつも老人は望み得ぬものばかり望む、と顔をしかめたことを思い出す。

「うむ。そして確か、殿は――『そうだ』」

「『それをつくる』……と、お答えになりました」

 言葉を継ぐ牧は、返答を耳にした際の驚きを思い返すかのように、しばし無言でいた。

 その顔に貼り付いたままの半端な笑みに、重盛は首をかしげる。

「確かに覚えている。が――それが一体、どうしたというのだ?」

 大昔の話である。すでに世は改まり、新たに定められた身分のうちに時折かつての労苦を顧み、頭をよぎる過景でしかない。今更何の意味をも持ちようのない誓約のはずだった。

「それが……あったのです」

 逡巡するように目をあちこちに彷徨わせたのち、牧はようやくそれだけを口にする。

「あった? 何があったというのだ?」

 まっすぐ見返す目は、若年の頃より変わらぬ知性を宿しているように見えた。

「……殿の仰られた『天下』は。間違う方なく――確かに、存在しておりました」




 鳥の声が縁外の石庭をゆっくり横切っていった。

 しばし見つめ合ったのち、ふと柔和な表情を作ると、重盛は硯の乗る文机を引き寄せた。

「異国からともなれば、流石に荷も重過ぎたか。安心せよ、誰ぞ手空きの番頭へ役を――」

「――お待ち下され。この牧図書、至って正気にございます。……ご安心を」

 早々に役替え願いをしたためようとする重盛を遮り、牧はどこか懐かしい顔をしている。

 懐かしさの正体に思い至り、重盛も唇を曲げた。この眼差しは、他でもないおのれらが、何を言っているのかわからない主君に対してしばしば向けたものであった。

 だがしかし、まさか牧に対してその眼差しを突き刺す日が来ようとは思わなかった。

「牧よ。己が何を申しておるかはっきり判っているというならば――まずは仔細を申せ」

 取り上げた筆尻でこめかみをつつき、とりあえず相手の話すに任せてみる。

「――はい。二十年程前に殿の『天下』を耳にした折は、あり得ぬ夢物語にも聞こえた為。某もまた、家中の不平を前に口が滑ったもの、と気にも留めずにおりました」

 同意を求めるようなその口調に頷きを返す。ここまでは重盛の見立てと変わらぬ。

「――そのまま二十年もの時が移り。こたび、有難くも朱印奉行の大任を拝命致しました」

急に話が飛ぶ。天下とやらと朱印船貿易には、何の関係もあるようには見えない。

「――御役目のため、因州と肥州をいそがしく行き来するうち……気づいたのです」

 気づいたとは何にだ、と視線で問う重盛を、まっすぐ見返し牧は答えた。

「――『天下』に」

 そのまま口をつぐむ牧。どうやら説明はこれで終わりのようだった。

 まるで藩主のごとき説明不足の話し方は、いつしか主より感染したものか。

 再び痛み出した目頭を揉みつつ、うつむく重盛は嘆息混じりの反論を吐き出した。

「牧よ。仔細を申せと言うたであろう。……それでは仔細が伝わらぬではないか」

 こまかいところまで説明せよ、と視線で促す重盛に、しかし牧は無言のままでいる。

「――」

 引き結ばれた唇の上の瞳には、わずかな逡巡が見えた。それで、藩主のごとく「少ない説明でも相手へ伝わるだろう」と勝手な見込みで話しているのではない事だけは知れた。

「……」

 何も伝えまいとする沈黙は、むしろ逆に、何かを伝えんとしている様にも見えてくる。

「――磯江の墓前でも。お主はその『天下』について、詳らかに語ることはせなんだか?」

 故人を引き合いに出し、事細かに説明してやらぬは哀れであろうが、と責めてみる。

「……いえ」

 意外にも、牧は首を横に振った。ということは『天下』は語り得ぬものではない。

 しかし語らぬという事は。重盛は深々と溜息をつき、相手の拒絶の表情を見つめた。

「そうか――つまり。磯江はともかく儂にだけは、その仔細を話せぬということか」

「……話せぬ、のではござりませぬ」

 何やら小声で反論しているのは捨て置いて、筆を置き重盛は背筋を伸ばす。

「ひとつ、整理しよう。二十数年前のあの折、磯江平内が申したは――

『天下。それが在れば――故郷を取り戻し。昔日を取り戻し。草叢に伏す走狗ではなく、侍であった日々へと還り。再びこの胸に誇りを抱いて、悔いなく生きることができると。……そう仰せられるのか』

 ――確か、このような言葉であったはずだな?」

 大真面目な顔でうなずく牧に、くしゃりと、まるでふざけたような渋面を返してみせる。

「『天下』は在った、とお主は言うが……これこの通り。故郷は、取り戻せておらぬ」

 広げた両手の先に覗くのは、故郷よりもやや赤み掛かった因幡の林野である。出雲でも石見でもない。その言葉を聞く牧は、庭の向こうを黙って見つめている。

「『天下』が在らば、と磯江は言ったが……これこの通り。昔日もまた、取り戻せておらぬ」

 追腹を切って死に損ない、傷跡を抱えて生き続けた老臣も、とうに世を去って久しい。そもそも昔日など何をどうしたところで還らぬ。かつての安らぎの日々に回帰したならば、昔日に還った、と胸を張り言うこともできるのかも知れないが。何もかもが変わり過ぎ、また己自身も多くを知り過ぎた。もはや昔日へ還るは叶わぬ。しかしそれでも、牧は庭外、塀の上へ聳える城山のあたりを見ている。

「草叢に伏す狼ではなく、侍であった日々へ――まあ、還りはしたがな。……今の我らが配された地を考えるなら。草叢に伏す狼と何も変わらぬのだと、牧。お主ならば判ろう?」

 重盛が言及しているのは、鹿野藩三万八千石の内情、そして近隣諸藩との比較である。

掠め取った尼子氏旧領の過半を取り上げられてもなお長門安芸に三十万石を誇る毛利家、その山陰道の抑えとして亀井氏はここ鹿野へ配された。懐かしき旧領は毛利から取り上げられたところで己らの手には帰らず、たとえば大森銀山のような要所は天領として召し上げられ、派遣された銀山奉行のもと幕府の懐を温めている。さしたる旨味もない土地へ封ぜられ、門番役のみ仰せつかった現状は、援軍後詰であちらこちらへ転戦し草枕にねむる因幡衆の頃と何も変わらない。そして筆頭家老の直言を耳にしてなお、牧は城を見ている。

「再びこの胸に誇りを抱いて、悔いなく生きることができる――か。誇り。我らが誇りは……確かにこの胸へ甦れども。それは既に、かつて抱いていた誇りとはひどく異なるものへと変じておろう。果たして、そこに悔いがないか、と問われると……」

 重盛もかつては城持ちの武家の嫡子であった。若かりし頃は父に倣い、尼子旗下にまっすぐな忠を尽くし生きることのみ考えていた。まっすぐに忠を貫いて父が城もろとも散り、

さまざまな旗の下へ寄りさまざまな相手を敵と戦い、戦乱の激動と運命の数奇に翻弄され曲がりくねった活路を進むうち、おのれの一貫性というものに自尊心を抱けなくなっていることに気が付いた。あれだけ捻じ曲がった道を歩んでおきながらなお、志操不変、七生報国などと嘯けるのは、もはや藩主ひとりくらいのものだろう。牧は変わらず塀の向こうの山城を見上げているが、そこに点在している天守、櫓、出丸もまた、仏典から引いた名称だったり異国の地名だったり、それこそ一貫性のまるでない名前を皆つけられている。そこに誇るに足るだけの節操が残されているようにはやはり思えなかった。

 ふと、牧がこちらを向いた。重盛が最後に発した言葉へ深くうなずく。

「さよう――某もまた。深く、悔いております」

 万色の望みを叶え得る『天下』などどこにも在るまい。そういう話をしていた筈だった。

しかし城より引き戻された瞳は本物の後悔を宿していて、何に悔いる、と訊くしかない。

「これほど身近に在りながら。これだけ長い間気付かず居たことに――悔いるばかりです」

 牧が語ったのは『天下』についてだろうが、その物言いにはどこか聞き覚えがあった。

 重盛の脳裏に、一面の黄金へたたずむ尼僧の声が蘇る。

『ええ……その『天下』なるものはきっと。あまりに小さすぎ、多胡さまも見落とされる程に、ごく何気ない。何処にでも在る。――恐らくは、そんなものなのでございましょう』

(――みな、似たようなことを言う)

 まるでかけ離れた立場にある両者が、長く傍にあった経験を通じて、同じ所感を語る。それはまさに『天下』とやらの実在の証左のようにも思えて――と、そこまで考えたところで、おのれに注がれる牧の眼差しへと気づく。その色はごく真剣である。

「信濃どのは――ひどく後悔するはずです」

 確信のあるようなその口調に、いったい何に後悔するのだ、とふたたび訊ねてしまう。

「おのれで気付くこと能わず。さらに加えて、人より種明かしをされてしまうならば――きっと誰よりも深く、後悔されるのではないかと思われます」

 真剣な瞳にはたしかに心配する色があって、重盛としては一笑に付すこともできない。

「ですから――信濃どの。殿よりの下されものには、せめてご自身で気付かれますよう」

 奇妙な懇願をすると、牧は『天下』のよすがにと数枚の紙を押し付け、帰っていった。




 天下。

(いまさら――)

 潮風に白髭をなぶらせ、重盛は久方ぶりの海に目を細めた。彼方の水平はいつも眩しい。

数日考えて答えは出ず。きょうは牧が頻繁に行き来していたはずの港まで足を伸ばした。足腰も弱ったとはいえ、濠端にある抜堤川を一里半もくだれば最寄りの港、酒津へ着く。小ぶりな入り江が海岸線から突き出すよう両肢を伸ばす港へは、間もなく、異国の財宝を積んだ船が帰ってくるはずであった。

 そういえば、と思い出す。桃太郎は鬼退治ののち金銀財宝を得て家へ帰るのであった。

かくして鬼退治は終わるのやも知れぬ、と重盛は思う。あるいは、考えの読めぬ藩主は、鬼退治の物語にこうやって幕を閉じるため、異国へ貿易船を送ったのかもしれなかった。

(……わかるわけがない)

 かつて甥と呼んだ幼子は、長じて命を託す主君となり、今や仕える藩主となった。その程度の先も読めぬ追従者に、道なき道を切り拓く先駆者の考えなど察し得るはずもない。

(そもそも。今になって天下、と言われても――)

 昼下がりの漁港は、葵の御紋によってもたらされた、凪のごとき停滞に微睡んでいる。

そこに万色の夢を叶えるような、『天下』の影が差し込んでいるようには思えなかった。

戦の機はとうに過ぎ去り、平和を担保する武威の紋は葵、と世の人々の認識は揺るがぬ。

(だが。それでもなお、牧は――)

 重盛は頭を巡らせ、ここまで辿ってきた谷間へ頭を覗かせる、鹿野城の天守を見やる。

 おのれが天下とやらを否定する間、牧がずっと見上げていたのが、この城であった。

(……王舎城)

 藩主がつけたその名は、仏典の中、遠く印度において王者の住まう地の呼び名らしい。

居城をそんな名で呼び始めた頃はひやひやしたものだが、江戸の上様は因幡の外様藩主の変わった趣味には関心もないらしく、これまで特に不遜を咎められることもなかった。

 さらには、囲む山は鷲峰山、城下は鹿野苑、ここまで下ってきた川は抜堤川と、いずれも仏典に出てくる印度各地の地名と等しい名が付けられている。

 となれば。藩都鹿野は印度の国を模してつくられている、とでも言えそうなものだが。ところが城内には、さらに異なる国の名をつけられた構造物も存在しているのである。

(ヲランダ櫓に、朝セン櫓……)

 脳裏に浮かぶ城郭全体図では、城下より見上げて城山右へ位置する阿蘭陀櫓と、そして城山中央に位置する朝鮮櫓の二つが、緑の斜面より頭を突き出していた。

 阿蘭陀櫓、朝鮮櫓と名付けられているものの、どちらも何の変哲もない普通の櫓である。

南蛮人によると主水米利などと言うらしいがそういう西洋式の櫓が築かれるわけでもなし、また、唐入りで見かけたような城郭一体型の櫓がそこへ再現されているわけでもなかった。

 では、貿易や鹵獲で手に入れた異国の品をその櫓へ保管するのか――と思えば、特にそのような使われ方もしていない。山頂の天守と麓の本丸とを結ぶ、ただの中継拠点である。

 櫓の呼称が変えられた時、家中はみな首を傾げたが、藩主の奇行にも慣れていたため、これまで名の由来を考える事もしなかった。殿は海外がお好きだな、くらいの反応である。

 うっすら霞む一里半先の藩城は、この港からでは天守の背くらいしか見えない。

(――これを見た方がわかりやすいか)

 牧が去り際に押し付けていった紙の一枚を取り出せば、そこに書かれているのは『王者城図』と題した城の見取り図である。勝手知ったる藩城の地図など、重盛も牧も必要とせぬもののはずだが、なぜかあの時、牧はそんなものを携えていた。

 城山天辺に王舎城天守、中腹中央に朝鮮櫓、中腹右側に阿蘭陀櫓、麓正面に王舎城本丸。

 やはり、図中の城はいたずらに、遠地の名を混ぜこぜに配したようにしか見えなかった。

 近年では。有事に要害たり得ぬものの、しかし平時の政務には向いている、平地に建つ平城を居城とさだめる藩も増えたと聞く。大名の持ち城数を極限する「一国一城之令」が施行されて以降はとみにその傾向も強くなった。鹿野藩の場合も、もしも海のそばで港近く、山陰街道筋へと城を構えたならば利便性は相当に増すはずであるが。しかし藩主は鹿野城を主城と決め、移ることはしなかった。苦闘の果てに拝領した思い入れのある城だからだろう、とこれまで考えていたが――そこには何か、異なる理由も介在したのか。

 そも、重盛が弱った足腰に鞭打ち一里半離れた港までやって来たのは、牧が発した言葉に手がかりを求めてのことである。

御役目のため因州と肥州を忙しく行き来するうちに気がついた、と牧は言った。

これほど身近に在りながら、これまで長い間気付かず居た事に悔いる、と牧は言った。

 となれば。牧がこれまであまり目にする機会の少なかったもの、そして、こたびの御役目上で頻繁に目にしていたもの。そこにこそ、牧が胸中に秘す答えがあると思ったのだ。

 牧図書は尼子再興軍以来の功臣にして藩執政の一隅を占める重鎮。禄も六百石を食み、家格も申し分ない。筆頭家老の重職に在る重盛同様、これまで鹿野を離れるような役目に就く機会も少なかった。その牧が長年に亘り触れる機に乏しく、しかし近年になって頻繁に目にするようになった、ごく身近なものというと……やはり、この最寄り港に関わる何かではなかろうか。そのように重盛は当たりをつけていた。

 しかし鄙びた港にはこれといって目につくような何物も見当たらず。さらには、牧が意味深に押し付けていった城内見取り図もまた、何の役にも立ちそうになかった。

 で、あるならば。重盛は漁師らが忙しく立ち働く港、その先へ広がる海に目を向ける。牧が気づいたというなにものかは、きっとこの海の先にこそ在るはずなのだ。

 海――と呟くその脳裏には、幾度も越えてきた青海原が次々と蘇る。抜け殻の甥を伴い、応仁島へ渡るおだやかな内海。唐入りを命ぜられ、船手勢を仕立てて通り過ぎた故郷の海。その船上、琉球を陥とさんと誓って見据えた南の海。唐入り五番勢として肥前名護屋より出陣し、高波をかき分け進んだ荒ぶる外海。

 かつて琉球や朝鮮を視野に入れ、多くの商人や手練れの水主を引見するうちに、渡海は常に命がけのものであると知るに至った。実際に兵を率い渡海してみて、海が実に様々な表情を見せることも知った。板子一枚の上に揺らぐ頼りなき命から見れば、沈むことなき大地へ堂々たる城郭を構える藩都鹿野は、さながら生を謳歌する楽土に見えるやも知れぬ。

 いや、と重盛は首を振った。これでは、船酔いした者にとっては揺れない陸が天国、と表現するのと何も変わらない。わざわざ『天下』という強い言葉を使うからには、そこにはもっと、大きな意味合いがあるような気がする。

 並んで座り網を直す漁師らに姿を重ねて。幾度も海を渡ったと語る、潮焼けした水主達の顔を思い出す。節くれだった指で広げてみせる海図はぼろぼろに擦り切れ、持ち主ともども長年の酷使に耐えると見えた。それらの古い海図はことごとく、実際の航海には必要ないはずの広い範囲まで描かれていて、一度、なぜなのか、と訊ねてみたことがあった。

 そういえば。牧はもう一枚、見慣れぬ海図まで押し付けていったのだった。思い出した重盛が別の古紙を取り出すと、そこに描かれているのは果たして、今まで見たこともないほど広大な範囲までが描かれた海図であった。唐入りで海図を見慣れた重盛の眼にさえ、あまりに広域を表現するために陸が小さく描かれて、むしろわかりにくい印象を与える。牧から受け取ったそれは、この国が比較的中央へ位置しているという海図であった。おもに明国あたりで使われるものなのだという。実際に、暹羅への往復航路でも用いられ、朱印船帰還の道標ともなった品らしい。

 この国と暹羅とを結ぶ海路は、大陸へ渡り沿岸をずっと南下してゆくという片道数千里、航海数月にも及ぶ長大な交易路であるはずなのだが。この海図で見るかぎりは、どちらの国も図中央付近に位置し、指でたどる交易路もまたごく短かった。琉球にしても朝鮮にしても、この国の近海の海図しか見ていなかった重盛の眼にはいささか奇異な図に映る。

海図というよりもこれでは陸図だな、と重盛は思う。海が広過ぎる上に陸が狭過ぎて、それゆえ、海よりも面積の少ない陸が無地の海上へ描かれただけの図に過ぎない。

 牧の話によると、これよりも大きい海図はもう無いらしい。無いというのは、これよりもっと大きな紙に書いた海図が無いとかこれよりもさらに小さく細かく描き込んだ海図が無いとかいう意味ではなく、南蛮人いわく、この世はこれで全てである、との事らしい。

 全てとはどういうことか、と疑問に感じた牧もまた、通詞に訳させて訊ねたらしいが。

曰く、西へ西へと進んでいったはずの探検船が数年後に東の地を経由し戻ってきたとかで、この世は丸い、という事が証明されたらしい。海図の端へ進むと反対側の端へ出るそうだ。

 しかし。この世は丸い、といきなり言われても、それこそ己が足元の地面は見渡す限りどこまでも平らであるし、まるで実感が湧かぬ。それに、ずっと西へ行けば東へ出るとか、この海図の端へ進んだら反対側の端へ出る、というのもまた、何やらまやかしや手妻のようでどうも俄には信じがたい。

 異人の解説を初めて耳にした折こそ、何やら狐につままれるような話と感じたものの。かつて。遠洋へと航海に出る水主が、みな必要以上に大きな海図を持つ、その理由は――船が進む先を間違えたり、難破漂流した折に備えるためであるのだ、と教えてもらった。

ということはつまり。仮に、この海図の端あたりで己が船の現在位置を見失った水主が居たとしたら、その者は自身が、あるいは反対側の端に居るのかも知れない――と考え、海図を左右にいそがしく眺め回すことになるのであろう。どうにも想像しづらいが。

 そも、この世が丸いという割にそれを示す海図はこうして平たい紙へ描かれているのだ。

では。世そのものを表すというこの海図は、いったい如何にして見れば正しいのか。そのように疑問を抱いた重盛は紙を手に、あれこれと試行錯誤を始めた。

まず、丸めて遠眼鏡のごとく覗き込んでみる。だが暗くて字が読めぬ。そこで逆に、表を上にして丸めてみるが、しかしこれでは東西しかつながらぬという事に気づいた。一方向だけではなく南北もまたつながらねば丸いとは言えぬ。となれば、海図の表を外へ向け、まるで風呂敷包みのごとく裏で四つ角を合わせてみれば良いのではないか、と考え試してみるが、しかしこれは単に菱形の海図ができただけだった。それならば、かくなる上は、何か丸い形のものをこの紙でくるめばよいのだ、と道端に転がる手ごろな丸石を手に取ったところで――咳払いの音にふと我に返る。

 辺りへ目をやると、遠巻きにしているのはここまで随従してきた家士のみではなかった。

 通りすがりの民らが、手にした紙で奇行の数々を繰り広げる老爺に足を止め、いったいなんだこの呆け老人は、という顔で眺めている。うち幾人かは、重盛の供の家士へ向け、物言いたげな眼差しをちらちら送っている。

たまの他行すら目立つ身の上である為、質素な袴に脇差一本差したきり、どこぞの隠居めいた恰好で出てきていた。警固を務める家士らにも目立たぬ格好をさせてある。

 咳払いをしたのは年長の家士のようであった。目を逸らしつつもその顔は赤い。

 老耄の武家の奇行を面白そうに見ているもの、その連れらしき若い者へはやく止めておあげなさいと御節介な視線を投げてよこすもの。重盛もまた、顔が赤くなるのを感じた。

 周囲を見回し、くわっと歯を剥き出しにしてみせる。深い皺の間にもようやく幾多の傷跡が覗いたか、民らは素知らぬ顔でそそくさと散っていった。残されたのは気まずそうな警固役のみである。

 年長の家士より無言で放射される「目立つ真似はおやめ下さい」との懇願を肩で受け、

重盛は手に取った石を捨てた。瞑目し、頭の中のみで考えてみることにする。

(この世が丸いという事は……朝鮮の西ではなく、東に阿蘭陀がある、と言う事もできる)

 城山中腹の櫓の配置を思い返しながら重盛は考えた。屋敷のある城下より見上げれば、正面中腹に朝鮮櫓、そして東側中腹に阿蘭陀櫓が見えるはずである。阿蘭陀商人の船は、朝鮮よりもはるか遠く、西の果てより旅をしてやってくる。手元の海図では端に位置する西洋諸国と、通り道にあたる印度や暹羅、支那あたりは、交易路として古くから用いられてきたゆえか、その他の地域よりもずいぶんと精密に描かれていた。

ただ、本当にこの世が丸いのであれば。この国からでも、測量や描図が不十分なためか曖昧に描かれた東の海や大陸を無事抜け、阿蘭陀へと辿り着くことはかなうはずである。

 であれば。王舎城におけるそれぞれの櫓位置は海図通り、と言えそうでもあるが――

(――しかしそれでは。朝鮮より阿蘭陀までが、遠くなりすぎる)

 広大な東の海、そして巨大な大陸、さらにもう一つ大海を抜けてようやく対岸の阿蘭陀まで辿り着くような長い道筋を考えると、両櫓の位置関係は近すぎるようにも感じた。

 現に、西洋の商船が交易に用いているのは西廻り、陸伝いのより安全な航路である。

南大陸を大回りし、印度を伝い、暹羅の群島を抜け、朝鮮へ渡り、そしてこの国へ――

(……うん?)

 海図をなぞり、頭へ思い描いたひどく遠回りの航路は、どこか見覚えがある気がした。重盛もよく知っているなんらかの道と、非常に似通っているように思えたのだった。

(まさか――いやしかし、これでは逆……)

 唐突に。曲がる背を戻し、腰骨の鳴る音と掠れた悲鳴を響かせつつも無理やり背筋を反り返らせる老人に、遠ざかる民らは再び足を停め、供の家士達は制止すべきか迷う。

 重盛は痛みに耐え限界まで背を反らしたものの、視界に広がるのは蒼天ばかりである。目当てのものは見えなかった。

 ならば、と勢いよく背筋を戻すと腰にすさまじい痛みが爆発したが、気にせず重盛は手元の紙を開いた。やや迷ってから王舎城図の方を掴み、そして――回転させる。

 逆さに広げた城図には。櫓と天守とを各々結ぶ山道が、谷を形作るように描かれている。中腹の阿蘭陀櫓より、山頂の王舎城天守へと通じ、そこからまた中腹の朝鮮櫓へと至る連絡路の、形状と道のりが――つい先ほど海図をなぞった、西洋商人の交易路と重なる。

 阿蘭陀を出、印度を廻り、そして朝鮮へと辿り着く。

(これが――、だというのか)

 役目柄、交易用の海図を携え、沖より帰る城を見た牧はきっとそこで気づいたのだろう。

山間に霞む藩城の背を、重盛は驚きの表情で振り返る。

(これが――『天下』だというのか)

 各所に奇妙な名を冠す城は、異国好きの藩主が単に、城内へ異人の交易路をなぞらせた、それだけに留まるものではなかった。

山に囲まれた僅かな平地、その中央に目立つように突き出す丸山。そこに築かれし山城、平時の政務に不向きながらも移される事のない居城、それこそが鹿野城である。

 また、真球に上下など無いように、丸いものならば上下逆さであってもおかしくはない。

 そして。

(『この世は丸い』。それが真実であるのなら――)


 鹿野城は、この世――そのものを模してつくられているのではあるまいか。


 重盛の脳裏に、かつて主が不平顔の家臣らへ向かい、誓った言葉の数々が蘇る。

『国を得たならば必ずや。天下を、つくる』

 天下を創る、ではなく、天下を造る。

『天下とは――この浮世。みなそれぞれに異なる望みが、ひとつの漏れもなく向かう先よ』

 幾多の敗北を経て寄せ集めの烏合と化した亀井勢には、もはや共通の悲願すら見出せぬ。

 しかし。望みはひとりひとり違えど、向かう先は等しくこの世の内に在る、とも言える。

 重盛は思い出す。かつて、豊臣太閤いまだ存命の頃。飼っていた鶴を家臣が逃がしてしまった折、太閤は「国中がおのれの庭よ」と笑って不問に付した事があったという。

『……それを創る。天下さえ創らば即ち、ここに居る皆の望みも余さず叶うことになる』

 あるいは、両者は同じ考えに基づいて行動していたに過ぎぬのかも知れなかった。

 己の大言を現実とすべく、死の際まで果て無く拡大膨張を続けた怪物こそが太閤であり。

 そして、己が成し得る範囲に限り、言葉通りの現実を『造った』のが、主であったのか。

 重盛は瞑目する。

 戻れぬ故郷。還らぬ日々。喪いし栄光。見果てぬ夢。尽きせぬ無念。どこまでも続く欲。

 無数の望みへは大き過ぎる報償、世を模してつくる『天下』を与え、全ての忠に報いる。

(……こんな。こんな、約定の果たし方で――)

 いったい誰が納得するのか、と呆れつつも、口をつくのは開けっ広げな笑い声である。

 唐突に笑い出した老爺の姿に、民は気味悪げな視線を向け、家士らは対応に困っている。

 これか、この眼差しか、と重盛はようやく理解した。先程から繰り返した奇行に、今やおのれへと向けられているこの眼差しこそが。理解できぬ道をひとり歩む主がずっと浴び続けてきた、そして、主の行いを理解できぬ他でもない己ら自身がずっと投げかけてきた、無理解の澱とでも言うべきものなのだ。

 覆い包む澱は光を曲げ、きちんと見えるはずの真実すら容易く歪ませてしまう。

 今こそ正しく真実を見るべき刻である。皺に埋もれた瞼をこすり、重盛が双眸を大きく見開いたその先では。ふいに漁民らの歓声が上がり、見ればちょうど入り江の内へ、見慣れぬ黒木造りの船がその巨体を差し入れんとしていた。

 穏やかな近海を航行する間に荷降ろしの準備も済ませたか、すでにその甲板には種々の異国の文物が山と積み上げられ、さながら宝船のごとく陽光を跳ね返している。

 そうか、朱印船が還るは今日か、と悟ると同時に、いまひとつの主の思惑をも理解する。

 この世を模した城を造り、望みのそれぞれ異なる寄せ集めの家臣へ、これぞ「天下」と――誰にとっても十分過ぎるであろう報償として下賜するにしても。ただそれだけでは、遺物や化石をくれてやるのとなんら変わらぬ。

 より多くの者から望まれる『天下』であるべきなら。そこには様々な土地の文物が溢れ、様々な土地の人々が安らう場でなければならぬ。あたたかい血の通う、生きた「天下」でなければ、その名に相応しいだけの多種多様な土地の息吹を感じられはしないだろう。

 『天下』を名乗るからには、すべてが集い、そして行き交う場でなければならぬ。

 着岸した朱印船から頭を巡らせ、重盛は山間に覗く天守を見やる。

 その城へはもう間もなく、はるばる異国より求めた品々が運び込まれ、そして幾つもの海を渡る水主達が安堵とともに足を踏み入れる筈であった。

(――だが。殿……新十郎は果たしていつ、そのような城影を描くに至ったものか)

 一体何が切欠となって思いついたか、と考える重盛の脛を、ふと柔らかい感触が洗う。

 驚いて足元を見下ろせば、そこには腰を添え立ち止まる猫の背中がある。

振返りもせず喉を鳴らすその猫もまた、耳や足先のみ黒く、墨面の孫か曾孫と思われた。

 上機嫌な猫の視線が港へ帰る大船へ注がれるのを見て、ようやくに重盛は理解した。

 かつて主が拾った、見かけぬ柄の仔猫。その猫をあちこちへ連れ回しながらも、しかし異国へ帰すことを選ばなかったのは、まさしくこれこそが理由であったのだ。

 毛皮の柄こそ国内で見かけぬ珍しいものであっても。異国より流れ着き、年月を経て代を重ねてしまった暹羅猫の帰るべき故郷は、すでに異国ではない。

 しかし、だからといって、国内に在ってその毛色の物珍しさが変わるわけではない。

なら。何処の風景にもそぐわぬ、何処にも落ち着けぬ猫は、一体何処へ行けばよいのか。

 おそらくその答えが、主にとっては『天下』であったのだろう。全てを内包するが故に、何処でもあり何処でもない場所。様々な土地から来る人や物が特に目立ちもせぬ場所。

そんな、いっそ気宇壮大なまでの恩賞を臣下へ用意してみせたのは。ただの一人も不満を漏らす者が出ぬよう、望みから外れる者が現れぬよう、との配慮ゆえとも思えたが――

 いや。本当は、違うのだろう。重盛は首を振る。

 脳裏へは、傷だらけの将士へ保養地を与えんとする主君の優しさを物語る、老顔が蘇る。

(――磯江は、馬鹿だ)

 戦に傷つかぬ者などなく。それゆえ殿は、皆が養生できる土地を賜らんとしたのだ――そんな間違った解釈こそが、磯江が死すまで頑固に貫いた、戦国絵巻の結びであった。

(――我らは。もっと価値あるものを賜っていたのだ)

 いつしか掠れ消えた笑い声の代わりに、両の瞼よりとめどなく涙が溢れ出す。

 主君はきっと、故郷をつくってやろうとしたのだ。

 旧主と義兄を失い帰る家を喪った己に。父ごと城を燃やされ死に場所をなくした叔父に。

一門格にして筆頭家老職という重き名のみ残されし亀井姉妹に。かつて八ヶ国の守護職を務めた誇りしか留め得ぬ尼子牢人衆に。そして、異国より流れ着き代を重ねた混血の猫に。

 それらすべての故郷を、二度と取り返せぬ故郷を。臣下の望みを汲む主君として、己が手で造ってやろうとするならば。

 それこそ。この広大な浮世の写し身ひとつ丸ごと造らねば、望みに足りぬというものだ。

(……新十郎)

 かつて掬い上げたちっぽけな種子は、打ち寄せる艱難にも枯れる事なく、植えた者の丈さえ超える大楠の巨樹へ生長し、寄る人々を風雨より護る緑の天蓋を築いた。

(『七生報国』――志半ばで死した義兄に代わり。よくぞ、成し遂げた)

 敗北や挫折にたとえ幾度斃るるとも、不死のごとく樹は蘇り、天までその枝を届かせる。

 不屈の主が貫いた情けの深さにふたたび涙する重盛へ、そのとき誰かが声を放った。

「――父上? 何故こちらへ? 今日は屋敷に居られる筈では……」

 顔を上げると、目の前に立ち尽くしているのは嫡子の勘解由である。城へ上がって藩主の側仕えをしているはずの息子の姿に、重盛も問い返した。

「……其方こそ。城に在って殿の近侍を務める者が、なぜかような場に居るか」

 当惑の眼差しは初めて見る父の泣き顔へ注がれており、重盛は目元を拭う。

「それは無論、殿の御供にて――城外まで罷り来しましたゆえ」

下ってきた斜面を示してみせるその手の先には、一体いつから見下ろしていたものか。頭上の高台には馬廻に囲まれる豪奢な駕籠が見え、今まさに、両手を腰の後ろに組む藩主亀井武蔵守茲矩が歩み出、眼下の港を眺望しているところであった。

 大船の荷降ろしより視線が戻され、見上げる老臣の眼とぶつかる。重盛は低頭した。

 伏せた視界へはいまだ尻尾を立て佇む猫の背が映り、どうやらこやつも御供であったか、と重盛は理解する。城に登るほか外に出ぬ筆頭家老へ懐く猫など、それこそ城に飼われる猫以外居らぬ。猫が寄ってきた時点で殿が近くまで来ていると気づくべきであった。

 藩主は駕籠から出ていっただろう猫とそれを追う近侍を捜し、そうしてたまたま、そこに居た重盛と目が合っただけと見えた。だが。

 めずらしくも涙に洗われる老将の面に、藩主は不可解極まる顔で片眉を上げ、わずかに心配そうな色を滲ませたのち――やがてその手に持つものが、逆さにした城図と見て取る。

どうやらたったそれだけで、頭の回転の速い藩主はすべてを察したようであった。

 表情に困る様にめまぐるしく顔色を変えた後、なぜか、照れたような表情を返してくる。

 照れるのか。照れることなど何もあるまい、と重盛は力を籠めた眼差しを送る。

 天下人ならぬ身の主が用意できたものは、辻褄合わせにまみれた『天下』だけだった。

 その考えの柔軟さや適応力は我に学んだ、と猫の背は訴えている。確かにそうだろう。

 しかしそれが真に多くの者を思いやった結果であるならば、一体何を恥じる事があろう。

 その身は天下人ならねども、為した行いの雄大さは、天下人にも引けを取らぬ。

 強すぎる賞賛の視線を眩しげにやり過ごし、藩主はいつものあの、真っ先に気づいたか、流石は名の重き重盛よ、と言わんばかりの眼差しを送ってきた。

 重盛もまたいつも通り、誤解にございます、との視線を返す。

扇を広げ満足げに笑う藩主へは、また本日も、きちんと伝わっていない様子であった。


 不意に。傍らの勘解由が辺りを見回す。気づけば足元に寄り添う感触は既に消えていて、駆け去る猫の背だけが見えた。

 墨面によく似た猫はまっすぐ港の大船めがけ走り寄ってゆく。が、船上ではちょうど、動物を収める檻でも壊したか騒ぎが起きていて、わあわあ五月蠅い叫喚の中、日に焼けた男達が抱き留めんとする腕を次々かいくぐり、いま一匹の猫が舷側へ飛び乗った。

 やっと着いた異国を睥睨するのは、やはり顔と耳先足先のみ黒い、細く美しい猫である。

周囲より飛んだ制止の声に身構えるや、素早く渡し板へ飛び移り、陸へ渡って逃げ去る――はずが。異国の猫はなぜか板上へ棒立ちとなり、下から登ってくるなにかを待つ。

 先程までの勢いは何処へやら、渡し板をおずおず登ってゆくのは、墨面の孫猫であった。

 這うような低姿勢に耳まで寝かせ、ごく慎重に、恐る恐る相手との間を詰めてゆく孫猫。

 迎える異国の猫は泰然。周囲を圧するが如くゆるりと構え、牢破りとはとても思えぬ、大物然とした佇まいである。

 よく似た模様の猫二匹の鼻がゆっくり近づき、そして、ついに触れ合った。

 孫猫はそのまま父や祖父のぶんの孤独まで埋めるように、おのれの血脈と等しい香りを嗅ぎまわり、胸一杯に堪能すると見えた。落ち着かぬ様子ながらも、異国の雌猫は黙って相手の望むままにさせていたが――やがて突然前足を上げ、その横っ面をひっぱたいた。

 いきなり叩かれこちらを向く孫猫の情けない顔に、忠臣はほがらかに笑った。



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楠公侍(にゃんこざむらい) 修羅院平太 @shrinehater

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