慶長四年(1599)
* * *
寺の高台より続く急な石段は、黄金の隧道を貫き、大銀杏の根元を丸く切り取っている。
慶長四年(1599)。石段より見下ろす広い背は、黒羽織、白袴に身を包む重盛である。唐入りの敗走より生還してのち六年もの月日が流れていた。こうして似合わぬ格好に身を包み、ひとり京の黒谷に在るのは、主君一族の法事参席の名代を命ぜられた所為である。
法事も滞りなく済めば名代としての務めも終え、客のことごとくを見送って、いざ帰らんとしたところで草履がふと迷った。喪主へいま一度挨拶をすべきか考えたのである。
遠い墓前へ未だ佇む尼僧姿は、既に落飾して久しいながら主君の正室にあたる。この、たった今終わったばかりの法事――入り婿である新十郎とは異なり亀井家の正統なる血脈を継ぐ、かつて嫡子と定めていた長男の十回忌――に主君は出席すらせず。ただ一人の名代を寄越すのみに留めた。だが無論として、その名代は相応の振舞いをせねばならぬ。
しかしながら。先嫡亡き後の次なる嫡子として定められているのは他でもない、主君の従妹にして側室たる重盛の娘が産んだ次子・大力丸なのであって、つまり縁戚であり同時に外戚の岳父でもある重盛は、亀井氏の正統な血脈を継ぐ正室に対し、とても顔向けできぬ立場にあった。亡くした嫡子の法事出席など面当てに近い。そもそもなぜ岳父となったおのれが名代に選ばれたかすら判らぬ。主君の考えが読めぬのはいつもの事であった。
亡児の父へ用意された上席に代座し、居丈高に取られぬよう小腰を屈め、親族衆へ頭を下げて回るのは戦場働きよりはるかに疲れる。こういうのは磯江の方がうまくやる、と思うものの、唐入りより戻ってすぐ磯江は体調を崩し、このところずっと寝込んでいた。
気を遣うのも疲れるが、遣われるのはもっと疲れる。新たな嫡子の母方の祖父として、前嫡子の十回忌の席では、腫物に触るような扱いを受けずっと辟易していた重盛は正直なところ一刻も早く帰りたかったが、おのれの意ごときで礼を失するのも主家の恥である。
相手はただ一人の児を亡くしてのち、何も言わず身を引いて京へ隠棲する主君正室である。せめて辞去する前にいま一度挨拶くらいしようと、観念して重盛は墓前へ歩み寄った。
黙祷を捧げる小柄な尼僧は根が生えたように動かぬが、重盛の控えめな足音が近づくとさりげない仕草で振り返り、ごく上品な笑みを口元に湛えた。そこに、相手を気遣わせぬことに熟達してしまった日陰花の振る舞いを見るようで、寵妃の父の喉は少し絡む。
いや。あれが寵妃などという柄か、と娘の野暮さを思い返し、重盛は首を振った。
そんな重盛を観察してか尼僧は楽しそうに微笑んでいる。
「――多胡さまはほんとうに。御変わりありませんね」
は、いえ、とへどもど答えるくらいしか傷面の武辺には出来ぬ。その返答も予想通りだったのか、尼僧は袖を添え笑み崩れる口元を隠した。
「おなつかしい……」
刹那、墓石を振り仰いだその眼差しは、愛児が存命の頃を思い返しているのだと知れた。重盛も墓石を見下ろす。かつて。短いながらも、みなが欠ける事無く揃って賑やかだった時代が確かにあった。今はもうそれぞれの脳裏にしか存在せぬ、そんな過ぎ去りし日々に、母親は沈まぬ陽を見ているのかも知れなかった。
目の前の人物が奥方様と呼ばれ、そして墓石の主が小さな屋敷の庭を駆け回っていたその頃の記憶には、しかし不自然なほど父親の姿が出てこない。
尼子氏一門格にして筆頭家老家の亀井氏を継ぐ待望の男児の誕生に、甥の反応はおどろくほど冷ややかだった。第一子でもあったため随分と気を揉み、産まれる前から期待をかけ、楽しみにしている様子であったのは覚えている。しかし無事出産を経て、ようやくこの手に抱く事が叶った後嗣へ奇妙な名をつけると、それきり主君はわが子の事を忘れた。
屋敷へ戻らなくなった父を、子を抱く母はどこか悟るような顔で待ち続けると見えた。理由の見いだせない放擲にさすがに哀れを感じた重盛は、何くれとなく二人の元を訪ね、閑かな孤庵を騒がせてきたつもりだった。無論そのころはまだ、重盛の娘が主君へ嫁いでもいなければ、別の男児を産むという事態も無かったからこそ、出来た振る舞いでもある。
しかし父の縁薄い哀れな子は、わずか数え七つで病にかかり、そのままあっけなく死んだ。
万石余の大身の嫡子にしては簡素すぎる弔いが済むと、正室はそのまま暇を乞い、ひとりきりの我が子の眠るこの、京の黒谷へまだ艶やかな御髪を落とした。
正室の悲しみは計り知れない。が、主君の変節の理由も、結局は窺い知れなかった。
他の墓と比べ背の低い石塔墓には、俗名ではなく戒名が刻まれている。
(――『魁玄智雄禅童子』か。随分と奮発してくれたものよ)
人も招かず行われた、寂しい弔いを思い出す。まだ大人の眼鼻もつかぬ、たった七つの子にしては過分なほど立派な戒名を禅寺がつけてくれたのは、やはり父たる主君の存在が大きかった。もう幾らかの命運さえ備わらば、父に倣い大勢の兵を指揮する一手の将となるべき男子であった。落胆いかばかりか、と慰める禅僧の気遣いがそこには見える。
重盛は傍らの墓誌を見た。そちらには、享年と並び亡児の俗名も記されている。
(……鬼太郎)
主君が初めての己が子を一目見るなり付けた名だというそれは。主君自身の幼名でもなければ、また、どちらかの家に代々伝わる名乗りでもなかった。しかしながら、子につけられる幼名としては稀に見かけるものではあった。
その幼名が珍しい理由は――
「奥方様。これまで、一度たりとてお尋ねする事も御座いませんでしたが……鬼太郎様は。やはり、お生まれの頃すでに、歯が生えておいででしたか」
家風に沿わぬ異端児をそう呼ぶこともあるが。産まれた時すでに歯が一本生えている赤子のことを、鬼子と呼ぶことがあった。そんな子供の幼名には鬼の字が入る事が多い。
唐突な問いに尼僧は戸惑うような表情を浮かべたが、やがて、ゆるりと首を横に振った。
穏やかな瞳は、かつて幾度も同じ問いを向けられ、そして否定してきた事を示している。
「……。では、鬼太郎様はなぜ――」
「――ええ。鬼太郎は、新十郎様――あの御方に。ほんとうに、よく似ておりました」
問いを柔らかく引き取った尼僧の面には、かつてどこかでも見たような、悟りと諦めの表情が張り付いている。
重盛は瞑目する。なぜ主君が嫡子へ鬼太郎と名付け冷遇したか、はっきり判る気がした。
桃太郎と犬が死んでもなお、猿に率いられるまま鬼退治の旅を続けていた。そうして、いつしか敵は鬼ではなくなっても、むしろ鬼が味方に回っても、それでも目の前の相手を鬼と思い込み戦い続けた。例え幾度倒れようともその度毎に立ち上がり、戦い続けてきた。
続く戦に汚れた羽を引きずり、束の間、雉はようやく己が元に授けられたわが子をその腕に抱いたのだろう。親によく似てと笑顔で語られる赤子の顔を覗き込み、主君はそこに鏡を見たのではあるまいか。戦場で悪鬼羅刹と化さねば生き残れなかった重盛には判る。
いとけない赤子の面影に己と生き写しの鬼を見て、見失って久しかった倒すべき鬼の姿をよりにもよって己が写し身に見出し。そうして主君は掌を返すように、鬼太郎と名付けたこの嫡子を捨てたのではあるまいか。
主家の仇たる鬼どもは降参して御味方に回り、とっくの昔に手出し無用となっている。しかしそれでも復仇を諦めきれず、目の前に配された相手を鬼とみなし戦い続けるような、戦場にしか生きられぬ武者など、いずれ太平の世の妨げと立ちはだかる災いに他ならぬ。倒すべき鬼はすでに己自身となっている。
だが。そんな事実を認められる侍ならば、今なお戦場に生き残ってなど居れぬのだ。
眼前の微笑は、わが子へぶつけるしかなかったそんな無念を見透かし、受け容れる選択をした女のものに見えた。ゆえ正室の立場より身を引き、墓前の供花となったのであろう。
女の口元からはおよそ似つかわしくもない、自虐めいた笑いがこぼれる。
「――鬼退治は終わりましたか」
愛しいわが子を犠牲にしてまで、と声にならぬ響きが耳の奥を叩いた。
そして猿も死んだ、と重盛は思う。二度目の唐入りが突然の全軍撤退という結末を迎えたのは、国許で豊臣太閤が身罷った為であった。老いた猿は国内に屈服させる相手がいなくなった後も、渡海してまで外征、伐り取りをそれこそ死ぬまで繰り返していた。一体なにを目指していたか、どこまで巨大な怪物に育つつもりだったのか。もはや誰にも判らぬ。
鬼退治を率いていた猿は死に、鬼退治の仲間もまた一人喪われた。
しかしそれでもまだ鬼退治は終わらない。重盛の脳裏には残された連中の顔が浮かぶ。
猿の遺した幼子と、それを支える猿の弟子ども。死ぬまで続けた版図の拡大と、死とともに終わった外征の失敗へ、責を求める不平組は今や国中の至る処に燻っている。
今の表向きの平穏は、ただ誰が音頭を務めるか、互いに探り合うだけの沈黙に過ぎぬ。程なく、不満が戦となって顕れ――大きな大きな鬼退治が、いま一度始まるはずだった。肩を並べ戦った御味方のうちに鬼を見いだす末世の戦が、とうとう始まろうとしていた。
(――だが)
出雲半国も琉球も台州も、求めた地はひとつも得られず。約を交わした太閤の死により旧封の鹿野へ捨て置かれるままとされた亀井武蔵守茲矩は。とくに不平そうな顔もせず、さらなる野心も見せることなく、城下に王舎城だの鹿野苑だの妙な名をつけ親しんでいる。近頃では港の再開削に熱心だった。六十万斤級の大船の乗り入れを目指すのだという。
押し付けられた不平不満より雄飛すべく、鬼退治へ熱意を燃やす気はもうないと見えた。
いやむしろ。戦の影も見えぬうちからひそかに武具や糧穀の取引が繰り返され、値上がりという明白な結果となって顕れる事で、皆が大戦の訪れを否応なく予期しているなかで。主君ひとりだけが未来を無視して、全力で別の方角へ突き進んでいる気がしなくもない。
しかしでは一体、何処へ向かって進んでいるのかと問うならば――
(――それこそが『天下』だというのか)
そして。もし仮に、その独断専行を、先導しているものがまだ在るとするならば――
「――それは……」
にあ、とか細い声が足元より上がり、重盛は視線を落とす。そこには顔が焦げたような柄の痩せ猫が寄り添っている。そのまま、長い尻尾を絡ませるように通り過ぎ、僧衣の裾へ額を押し付ける猫を、尼僧は慣れた手つきで抱き上げ微笑んだ。
「かつて『同じ柄のものが、また産まれた』と。仔の一匹を、贈ってくだすったのです」
そういえば、と重盛は思い出す。かつての正室へ、墨面はよく懐いていた。しかし常に主君と共に在った墨面は、当然ながらやがて正室の顔を見る事もなくなっていった。無表情な猫は、まるで正室が居た事など忘れたようにその後の年月を過ごしていた。だが薄情な猫と異なり、正室は温もりを忘れ難かったのだろう。ただ一人の子を亡くした後となれば猶更である。墓脇の寂庵を慰める賑やかしに、主君はせめて墨面の仔を贈ったのか。
「……」
無言のまま重盛は抱かれる猫を見る。理解できぬ奇策を奉じ、理解できぬ生存を運び来る主君を不可知な存在とし続けているのは、神輿に担がれしこの獣なのかも知れなかった。
長い話を聞き終えて、尼僧の唇はまずその三文字を繰り返した。
「『てんか』……」
かつての正室へ訊ねたのは、いつか主君が口にしたその言葉の意味である。
若き日の主君は言った。天下を作る、と。そしてそれは、「天下を取る」とも、「天下を分ける」とも、意味の異なるものらしい。
もちろん亀井武蔵守茲矩が天下人を狙える位置に在った事など一度もない。恐らくこの先もないだろう。となれば、天下を作るとは「天下人となる」という意味とも違うらしい。
だが、天下を目指さずして。いったい如何様にして「天下を作る」などと言おうものか。
さらに、長年に渡り求めてきた所領を得られることもなく、家中らの望みさえ満たせず。
繋いだ家名を継ぐべき血筋の子も亡くし、次代以降での復権に望みを託すもままならぬ。
頭の固い重盛としてはどうしてもそこで想像の壁へ突き当たる。けれど主君をよく知るかつての正室であれば、言葉の意味が思い当たるやも知れぬ、と訊ねてみたのであった。
「……」
うつむき黙考する尼僧を見上げ、腕の中の猫は物の煮えるような音を立てている。その頭には親猫と等しく耳や顔を焦がしたような模様がある。しかし墨面のそれと比べ、随分と薄い模様であることに重盛は気づいた。尻尾も心なしか短い。珍しき柄を持つ異国の猫も、代を重ね血が薄まり、土着の猫と変わらぬ容姿へ変化しつつあるのかも知れなかった。
「――女の身なれば。武士として立つ処へは、あまり想いも至りませぬが……」
顔を上げる尼僧は、そう慎重に前置きをしてみせるが。この夫人とて、尼子氏滅亡後に親を失い姉妹で尼子再興軍へ身を寄せ、一門格亀井家の再起に賭け、姉妹二人とも婿取りをする事でこうして家名を保たせている。考え方は他の武家とも遜色ないはずであった。
「――亀井。さまは……」
捨てた名を、もう血の繋がらぬ他人のものとなった名を。いとおしそうに呼んでから。
「……たとえば。子や孫の代へと託すような、そんなお気の長い夢は。とうてい持ち得ない御方のように――私には思えます」
若き日の主君の性急さでも思い出したのか。尼僧は衣の袖で微笑を覆った。
一方、首を捻る重盛の印象は真逆である。おおよそ気が長くなければ、敗北撤退ばかりのこの戦場遍歴をとても生き抜いては来れなかったのではないか。そう考えている。
唐突に抱かれる猫が一鳴きし、二人の注意は墨染衣の腕の中へ向けられた。猫は集まった視線に満足げな顔をし、再び喉を鳴らしている。
構って欲しかっただけか、と重盛は視線を外すも、尼僧は腕の中の猫へ微笑みを返し、まるで今の鳴き声が何かの返答であったかのように頷いてみせた。
「ええ……その『天下』なるものはきっと。あまりに小さすぎ、多胡さまも見落とされる程に、ごく何気ない。何処にでも在る。――恐らくは、そんなものなのでございましょう」
随分はっきりとした口調で、しかし捉えどころのない答えを寄越す相手の丸頭巾を重盛は見つめた。禅に凝る主君といい、出家した正室といい、仏典をかじる者は皆こうなのか。
雲のごとき答えを返しながらも、ずっと尼僧の指が撫で続けているのは猫の顎である。重盛は猫を見つめた。――小さすぎ、見落とす程に。ごく何気ない、何処にでも在る。
指を猫から唇へ戻し、尼僧がくすくすと笑った。
「いいえ――猫のことではございませんよ」
天下とは猫のことに相違あるまい、と顔に出ていた重盛はいたく赤面する。
多胡さまはおやさしい、と独言めいた呟きが未だ赤き唇から零れ、それは昔、沈みがちな母子の前で殊更に不器用さを見せつけた武骨者への礼と知り、ますます赤面する。
「ですが――それを教えてくれたのは、きっと。……この仔でした」
視線を戻せば、慈愛に満ちた眼差しは墓石ではなく、腕の中の猫へと注がれていた。
猫は答えそのものではないが答えを教えてくれるもの。ますます禅問答めいてきて、こういった事に頭を使うのが苦手な重盛はとうとう隠しもせず太眉を寄せた。
顔を腕の中の猫へ埋め、震える尼僧は大笑を堪えている様子だった。
いつまでも見つめていても失礼にしかならぬ。思い直した重盛は丁重に暇を告げると、落葉が黄金の輝きをとどめる墓前へ背を向けた。大股で歩き出す。
主君もその正室も、笑顔を取戻したならそれで良しと、これまで深く考えもしなかった。
だが果たして。どれほどのものを失い、そして何を得て、また笑えるようになったのか。
そこに思いを馳せる事すらせぬのは、ある意味、残酷なまでの不忠なのかも知れなかった。
ふたたび石段の際へ立った重盛は長い参道を見下ろす。銀杏並木の包む黄金の隧道が、山肌を斜めに貫き、出口にだけぽっかりと丸く、ありふれた麓の家並みを映し出している。
ここを通りて現世へ帰るのだ、と念じて重盛は石段を下る。
喪われた黄金の道を抜け辿り着くここは、すでに現世ではなく常世であり。黄金の絨毯に墓石と佇むあの尼僧は、あるいは過ぎ去りし記憶のうちにしか生きられぬ、残影の如きものなのかも知れなかった。
どうあれ。失ったものが途方もなく大きなものと悟れば、もはや立ち続ける事は叶わぬ。苦い思いを振り切り、萎える足を叱咤するように、重盛は歩みを速めた。
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