天正二十年(1592)




* * *




「うむ――戦よ」

 にわかに身辺へ集まってきた矢弾が甲板を穿つのを眺め、主君は呑気な感想を漏らした。

重盛としては気が気でない。沿岸は冷え込むゆえ草摺の上へつけていた蓑を外し、躊躇いなく傍らの主君へ覆い被せる。陣羽織一枚を引っかけるまま抱く猫で暖をとっていた主君と猫のその両方が、突如訪れた暗闇に揃って驚きと不平の声をあげる。が、その文句も終わらぬうち被せた蓑へ一筋の火矢が突き立ち、重盛は素手で燃える矢を抜き舷側へ捨てた。

 蓑を持ち上げ外の様子を覗く主君は、ようやくに現状を理解したようだった。

 唐浦と言うらしい港へ、御座船ほか僅か二十隻ばかり引き連れて補給のため停泊した。すると、湾を覆う岬の端より雨雲のごとく一群の船団が沸き、するすると近づいてくる。

敵勢の奇襲である。おそらくどこぞの島陰より、港へ入る船を見張っていたのだろう。

殺到する船団の背後、狭い湾口にも幾つかの船影が留まり、一隻も逃がさぬ構えと見えた。

錨を投げ伝馬船を下ろしていた兵らが応じるより早く、火矢や弾丸が雨あられと降り注ぎ、

甲板へ出てきたばかりの主君と重盛を襲ったのである。

無論、通り雨では済まぬ。岬を背にした朱の夕空へさらに幾筋もの火線がのぼり、そして山なりの軌道を描くと、ふたたび船へ襲い掛からんとしている。重盛は無用な渡し板を一枚引っ掴むと、赤く存在を誇示しつつのろのろ襲い来る火矢を二筋まとめて打ち払った。

「――遠矢じゃ。恐れまいぞ」

がらがら声でそう鼓舞するまでもなく、甲板に突き立った火矢へは素早く海水や砂がぶちまけられ、矢弾を受けた兵も竹束の陰へ引きずり込まれてゆく。主君を蓑から二本の足を生やす置物としたまま、重盛は舷側へ駆け寄り真下を覗き込んだ。降ろしたばかりの伝馬船は、甲板より伸びる縄梯子を垂らすまま、未だそこへ留まっている。重盛は首を曲げ後方の主君を見た。

停泊準備中に奇襲を受けた以上、動きの取れぬ船は捨ていったん陸まで退くべきである。が、遠浅の港では大型船は座礁を恐れ、桟橋よりかなり離れた場所へ投錨していた。ゆえ水深は深く、小さな伝馬船へ主君を乗せ港まで退こうにも、船上の兵の大半は置き捨てにせねばならぬ。だがこうしている間にも矢の雨が降る。躊躇する間は無かった。

 覚悟を決め主君を呼び寄せようと口を開くと、先んじて蓑の置物が命じた。

「――帆を下ろせ」

 一体なにを、と疑問に思う間にも、下知を受けた兵らは速やかに帆柱へ取り付き、畳み上げたばかりの帆を再び下ろす。夕陽を浴び紅に膨らむ帆へ、見る間に幾筋もの火矢が突き立ち、燃え始める。燃える帆が風を受けて船まで動き出し、重盛はたたらを踏んだ。

 矢を防ぐためとっさに帆を張れと命じたかに見えたが、襲い来る矢は防げても帆は燃え、また日の入り前の陸風を受けて船も浅瀬めがけ突っ込んでゆく。悪手にしか見えなかった。

 帆をまわせ、いや、未だ緩む錨鎖を巻き上げよ、と指示に迷う間に足へと重い振動が伝わり、甲板上の荷のことごとくが震える。座礁である。錨の鎖をしっかりと巻き上げぬうち、帆に風を受けた船が陸へ流され、船底が浅瀬へ乗り上げた。こうなるともう船を動かすのは難しくなる。別の船へ太綱を渡して沖へ曳かせ、離礁せぬ限りは船として使えぬ。

 故国よりの座乗船を、一体なぜ、と思う間に舳先より悲鳴があがる。尾を引き遠ざかる声に水音が続き、重盛が舷側より身を乗り出すと、座礁の衝撃で船縁より落ちたらしい兵がひとり、海より身を起こすところだった。しかし水はせいぜい肩までの高さしかない。

 使う必要のなくなった伝馬船は船の元居たあたり、離れた海面でひとり揺れている。

 重盛が振り返ると、蓑の間から見返す主君はこれでよいのだろう、という顔をしていた。

 なるべく多くの兵を救うその機智に感謝しながら、あの者へ続け、舳先より海へ飛び込め、徒歩で林まで逃れよ、水練の不得手な者は具足を捨てよ、と矢継ぎ早に指示を飛ばしてゆく。戦慣れした兵らは躊躇わず空中へ身を躍らせた。いくつもの水柱があがる。

 心利いた者、目端の利く者は抜け目なく、先程まで矢弾を防ぐ盾に使っていた竹束を抱えるまま海面へ飛び降りてゆく。追加で指示を出す前に船上より竹束が根こそぎ消えそうになり、重盛はあわてて二つだけ確保した。

 ふと僚船の居るあたりを見れば。土居得能の両紋を掲げた船が巧みに帆を操り、船首を返して敵船団へと突入してゆく。同行していた来島勢の将、得居宮内大輔通年はおそらく、帆を掲げた亀井勢が迎撃にうつると見て呼応したものであろう。来島水軍の海賊働きにて鍛えられた兵らは浅瀬近くでの反転など苦も無くこなし、すぐさま手慣れた斬り込み接弦にかかるべく突っ込んでいったのだろうが、大船は見る間に矢達磨火達磨と化してゆく。多勢に無勢、あれでは勇猛な来島水軍もひとたまりもあるまい。

 燃える御味方の船、焼け落ちる紋旗を見て、いま夢が終わるところだ、と重盛は思う。

 猿のひきいる鬼ヶ島遠征はかくして失敗に終わり、亀井台州守の野望も潰え、台州を領するは夢と消えた。海を越えての挙国外征が撤退となれば当然、いくら太閤様の御墨付きを貰っていようとも琉球守、琉球を領することさえ絵空事と化すであろう。失った。またすべて失った。しかしそれでもなお、七生報国を掲げ再び立ち上がり、どこまでも夢の続きへしがみつき走り続ける事ができるのだろうか。もう一度そうするだけの十分な理由が、己が主君の内にはまだ残っているのであろうか。

 彼方では、もはや一塊の火の玉と化した軍船が将兵らの断末魔を引きずりながら、それでも敵船団へと突っ込んでゆくところだった。船首を返し躱そうとする敵船どもは密集しすぎてうまく動けず、ついに一隻の横腹へ火船がばりばりと音を立て食い込む。

 生きながら炙られる兵らの絶叫が鬨の声へと変わった。炎上する軍船の砕けた舳先から、幾つもの人影が走り出る。その赤く輝く塊はひとりの例外もなく燃えており、断末魔の絶叫を引きながら逃げ惑う敵兵へ抱き着き、焦熱地獄を感染された相手の新たな絶叫を聞き届けるとそのまま動かなくなる。来島炮烙が道連れの恐ろしさよ、と重盛は震えた。

 ともあれ、心胆寒からしめるような殿軍働きにより、亀井勢が退くだけの刻は作られた。

重盛は主君を見る。大勢の兵らを火にくべて、贄として。何ひとつ成せる事もないまま、己の命ひとつを繋ぐのみ。背後にはどこまでも、亡骸で敷き詰めた道が続くだけだった。そして今また、もう一度、同じ愚挙を繰り返さんとしている。愚行に愚行を重ね積み上げ、這い登ってでも辿り着く行末とは、ただ生き汚い者のみ残る、腐り果てた世ではないのか。

 おのれを見つめる叔父の顔を見てか、主君は蓑を外しなにかを言おうと口を開いた。

 刹那、音もなく飛来した一筋の矢が主君の頭をかすめ、甲板上へと突き刺さる。

 血のしぶく頬を押さえんと主君が伸ばした腕より、黄金に輝く何かが水平に飛んだ。

 その胸元を蹴って。矢に驚いた猫は素早く反対方向へ飛び出し、甲板上を逃げてゆく。

 流血を押さえる主君の首が左右に振れ、踏み出す足はさまよう。その足元へさらに遠矢が突き立つ。迷えば死ぬ、と重盛は手元の竹束を持ち上げ、己と主君の周囲だけは護った。

 足音に振り向けば、せっかく掲げた矢盾の陰より、主君が駆け出してゆくところである。

向かう先にあるのは――逃げてゆく灰猫の尻尾であった。

 何と、そちらか、と重盛は驚愕とともに主君が選ばなかった方を振り仰いだ。落とした黄金の団扇は無人の甲板へ転がり、むなしい輝きを敗軍の船上へ留めている。

 舳先で行き止まる猫をどうにか捕まえ、抱き留めた主君は安堵の表情を浮かべている。

 御墨付きよりも選んだ猫は、失った故地へ帰すため異国まで連れてきたはずだった。

 異国で一敗地に塗れ、敗走に付合わせず、そのまま猫を逃がしてやれば良かったはずだ。

 しかしそれでも猫を離さぬのか。或いは、戦場へ伴ったのは帰すためではなかったのか。

 そこまで大切に守り奉じて。主君は一体、あの猫をどのように捉えているのか。

 重盛が立ち尽くす間にも矢弾はぶすぶすと竹束を穿ち、主君の周囲にも降り注いでゆく。空いた片手で足元のもう一つの竹束を拾い、放り投げる。舷側を越え消えた竹束は、遠く、落ちた海面にごく軽い音を立てた。

 振り返る主君へ声を放つ。

「――竹束をさして。飛び降りなされい」

 主君の眼が海面へ浮かぶ竹束を捉えるのを見て、重盛も舷側へ足を掛けた。

 掲げたままの竹束を探り、きつく結ぶ荒縄の隙間へ、力任せに手甲をねじ込んでゆく。巨大な佩盾のごとく二の腕と一体化した竹束が外れぬことを改めてから、重盛もまた舷側を蹴った。具足をつけたままの重い体は、きわめて不格好な姿勢で海面めがけ落ちてゆく。

 流れる視界へほんの刹那、夕空を背景に宙へ飛び出すひとりの男の姿が映った。

 猫をしっかと抱きかかえつつも目は落ちてゆく先、海面に浮かぶ竹束を見据えている。

 その横顔へ綺麗に、二本足の蹴りが決まった。

 白い足に黒灰色の足袋を履いたようなその柄は、紛れもなく抱いていた愛猫のもので、おとなしく抱えられたまま落ちるをよしとせぬ墨面は、どうやら自ら落ちる場所を見定め、これまで世話をしてくれた主君を足場代わりに蹴って飛んだようであった。

 蹴られた主君はまさかの裏切りに驚く顔で宙に傾き、そのまま体をねじり落ちてゆく。

 下剋上よ、と重盛が苦笑を浮かべかけた時に衝撃が来た。歪めかけた唇へ塩辛い水がぶち込まれ、濁った海中の景色が広がるのも一瞬のこと、頭は被っている兜ごと海底へ打ち付けられ、一瞬気が遠くなる。そのまま、重い具足を身に着けた身は底へ底へと押されるように沈んでゆくが、己の意思に反し右腕だけが持ち上げられる。上に上に、海面さして引かれる右腕を支えにし、片膝だけ立てて無理やり足をまっすぐ伸ばせば、それだけで兜が竹束を突きのけ、顔は海面より飛び出した。塩水を吐き捨てながら右腕を見れば、固定された竹束の向こうへ幾つもの兵の頭が覗いている。下命通りさっさと逃げず、主君を待っていたのか。

 そうだ主君は、と重盛は兜の内より盛大に海水を流しつつ見廻すが、浮かぶ竹束の一つに踏ん張っている猫の姿は見えたものの、主君の姿はどこにもなかった。竹束をめがけ飛び降りられよとの進言は、どうやら猫の方がより速やかに聞き入れたらしく、その煽りをくった主君はどうも目指す処へ落ち損ねたようであった。

 そのとき。水の中より勢いよく、三つ並んだ人影が立ち上がった。両脇、竹束に掴まりながらいま一人を水中から助け起こす両名は磯江と牧であり、そして中央、その二人より水底から助け起こされたのは他でもない、主君その人であった。

たんまり飲み込んだらしい水を噴出したかと思うと、主君はいきなり大声で笑い出す。両脇の二人が若干身を引いた。水に続いて口から溢れ出したのは空けっ広げな哄笑であったが、その目はまるで笑っていない。視線の先には波に揺れる一つの竹束、乾いた毛並みを改める猫の姿がある。やけくそめいた笑い声を放ちながら、小柄な主君は水中を跳ねるように歩いてゆき、猫の取り付いた竹束をむんずと掴んだ。

着水を失敗させられた復讐でもする気か、と見守っていると、主君は猫の乗った竹束を頭上へ掲げ、浜をさして進み始めた。にわか雨のごとく周囲の海面へ矢弾が届き始めるが、主君が頭上に掲げる竹束はむしろ斜め前へ向けられており、矢弾の来る方向とはまるで逆である。前傾する竹束の縄へ爪を立て、猫が不平の声を上げている。降り注ぐ矢弾から猫を護っているのか、と重盛が理解したその時、頭も背も庇わず進む主君を見かねてか、磯江と牧の二人がそれぞれ竹束を掲げ追いつき、主君の竹束へぶつけて一つの大きな竹屋根をつくった。主君は驚きつつ増えた担ぎ手へ感謝する。衝撃に落ちかけた猫がさらに怒る。

 水をかき分けて重盛も駆け寄り、頭上に持ち上げる己が竹束をそこへ加えた。振り向いた主君が叔父の合力を認め、より笑みが深くなる。やまぬ激震に猫の怒りが頂点に達する。

(――まるで祭りのような)

 水を跳ね散らかし進む主従の姿は、重盛にひとつの記憶を思い起こさせる。

あれは父と居城が炎に消え、しばらく流浪していた頃のことだったか。焼け跡の灰のごとく風に吹かれうろつくある日、街道筋をひた走る祭りの一団を見かけた。戦の世が始まってこの方、途絶されぬ祭りも珍しければ、そもそも焼けずに残った神輿も珍しかった。

輝く神輿はそのまま川へ突っ込んでゆき、流れをかき分け川向うに渡っていった。

 飽かず眺めていた理由は特になかったが、今の主従はそのときの一団を思わせた。

(そう、神輿よ)

 押しては引く波をかき分け、男衆みなで竹の輿を担ぎ上げ、人輿一体に突き進むこれは、かつて故地石見でも見た神輿渡御を思い起こさせる。

 しかしその輿へ担がれているのは神にあらずして。ただの、毛のすり切れた老猫である。

 重盛は、粗末な輿を掲げ走る主君の見据える先へ目をやった。勢いよく走る背は一心に、浜をめざし、港をめざし、その先に聳える防風松の丘さえ越えてゆくつもりにも見えた。

 だがこの敗走の行く手にはもはや、琉球も台州も存在せぬ。輝く約定は既に失われた。

 目指す未来が掻き消え、しかしそれでもなお、猫を担ぎどこへ走ってゆこうというのか。

 あるいは。裸一貫に猫だけ引っ掴んで、今から向かおうとしている場所こそが、かつて主君が口にした『天下』というものなのかも知れぬ、と重盛は思った。

 悉く希望を失い、猫のみ携え辿り着く先が『天下』など。理解できようはずもなかった。

 振り切れぬ名残惜しさにひとりだけ、ちらと後方を顧みた目を、眩い光が焼く。

 遥か後方。無事な姿を留めるかつての座乗船上にはすでに大勢の敵兵が蠢き、そして、拾った黄金の団扇をこちらへ掲げる、異国の将らしき人影が見えた。

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