天正十年(1582)
* * *
裏切りである。そう、重盛ははっきりと非難した。
主君の外戚にして最古参の重盛は立場上、同胞衆の前ではあまり強い言葉を使えない。言えばそのまま上意であると受け取られてしまう。主君のいない場であれば猶更だった。
その重盛がこれだけはっきりと、主君よりもさらに上を批判しているのである。
陣中に居並ぶ将士が、すわ寝返りか、と顔色を白くするのも仕方のない話であった。
天正十年(1582)。猫の気に入った寝床たる鹿野を拝領して後、ようやく手にした封地へ安らう暇もないまま毛利領を蚕食し続け、さらに二年が経過していた。
備中高松の攻城陣へ急に撤退の命が下ったかと思えば、籠城の毛利勢とは既に和議を結んだと聞かされ、驚愕と怒りに眦をつり上げながら羽柴筑前守の待つ姫路まで戻ってきた。着陣早々、亀井新十郎茲矩のみ本営へ呼び出された。残されたのは怒れる兵達である。
「出雲半国。……他でもない、その恩賞を約と恃めばこそ――我らはこの、織田木瓜の旗を背負うもやむなしと受け入れたはずだ」
亀井勢の本陣へかけられた織田の紋旗を小突き、重盛は詰めかけた将士へと強弁する。
旧尼子氏たる将兵らの激憤は、突如結ばれた仇敵との全面和議、京への転進命令、そして何よりそれら決定がもたらす『出雲半国』という恩賞約束の撤回にこそ向けられている。
陣幕の外では物を運ぶ音が絶え間なく響き、転進の準備は滞りなく進んでいると知れた。
「然りながら。因幡を抜き今まさに出雲へ雪崩れ込まんとするこの刻に至って。不倶戴天の仇敵たる毛利と和議を結び、敵に背を向け京へ帰らんとは――如何なる変節か!」
拳を叩きつけた板机は大きな音を立て揺れたが、向こう端に座る猫はうるさいぞと言わんばかりに細く目を開けただけだった。一方、磯江が見開く双眸は怒気に満ちている。
「しかり。――すべてはひとえに、故国を取り戻さんが為。血泥にまみれ、縁もゆかりもなき木瓜の槍先をつとめた数多の戦は……一体何であったと申すつもりか!」
そうだ、と怒兵らの呼応が続く。己よりずっと腹を立てている磯江が、続く言葉を引き取って悲憤のまま怒鳴り散らす様は、見守る内にかえって頭が冷えてゆくのを感じた。
(おそらく。――出雲半国だけでも領し、われらが故郷へ安らう未来はすでに潰えた)
熱を失いゆく頭で、重盛は判じた結末を受け入れた。故郷奪回の望みが潰える絶望も、別にこれが初めてというわけではない。かつては独力、尼子遺臣のみで故国を取り戻さんとしていた。敗北を重ね、現実を思い知り、様々な周辺勢力に与しても毛利領を窺い続け、そうして遂には、尾張より成り上がった織田木瓜の田舎旗なぞを借りてまで四度目の戦いへ身を投じただけだった。その上でまたしても、毛利の強大な兵力の前に抗せず逃げ帰るだけの話に過ぎない。絶望も四度目となれば、流石にいささかの慣れも禁じ得ぬ。老兵らがことさらに怒り嘆く振舞いを見せているのは、慣れた己に気づきたくない所為でもある。また恩賞の約を違える主家を責めるというのは、一見もっともらしい悲憤に見えるものの、しかし独力で事を成せぬからこそ中央の権威・強大な軍兵を後光のごとく背負い戦う事を選んだのであって、その軽い立場というものは、先方の都合次第であちこちへ転戦させられるこの現状こそがよく示しているのだった。事前に聞かされた話と違う。約を違えられた。事が思い通りに運ばぬ。だからといっていちいち悲劇の演者の如く憤ってみせるのは……なんというか。重盛には、己に与えられた猶予を消費しあえて幼子のごとく暴れ騒ぐ、元服前の甘ったれた男児どもにも見えてくる。
掌を返された怒りと故地奪還の夢破れし絶望とを共通言語として、年季の入った男児達は目の前で怒声を思うさま吐き散らしている。その様は、まるで行き場のない嵐が、狭い本陣内へ居座るようにも見えた。事実、陣幕一枚外はもう安らげぬ他人の家である。
陣幕の隙間よりちらちら刺さる視線は、怒れる亀井勢を野火のごとく眺め通り過ぎる他勢の将士だけではなく、不平分子らの去就を窺う軍監や目付のものも含まれているだろう。
内心の怒りと嘆きを失って、怒声の嵐より外れひそかに辺りを見回せば、同様に仲間外れとなっている連中というものもぽつぽつ見えてくる。
牧が視線に気づいた。「そうだ」「然り」などと要所要所にて怒声を合わせつつも、周囲に見えぬよう退屈そうな表情を浮かべていた牧は、重盛からの注視に気づくとしばらくその顔を眺めたのち、やがて困ったように片頬を歪めてみせた。器用なことである。
見れば、本陣の中央に気炎を上げるのは老齢や中年の将士ばかりであり、すでに手勢の大半を占める若者らはその外側を取り巻くように立ち、同意の態度以外示しておらぬ。
牧とて出雲へ源流を持つ旧い家の出であったはずだが。戦国以前の世を知る年経た武士にとっての戦いと、生まれてより戦国の世しか知らぬ若い者らにとっての戦いとは、すでにまるで違う意味を持つものなのかも知れなかった。
重盛は輪の中心より離れた位置へ立つ、若い兵らの面を眺めやる。疲れをまとわぬ瑞々しい顔貌がその内へ秘めるのは、年長者の発奮に付き合わねばならぬ退屈であり、また年寄りに対するいつもの呆れであり、そして何よりも、両の瞳へ星空を撒くが如く広がる、次の戦場こそ立身出世の狩場として栄進する己の成功譚である。
他方、輪の中心へ詰めかけた老兵らが口々にこぼす悲憤の大元にあるものは里心である。これは、己が苗字を冠した封土に生まれ、数百年も揺るがぬ支配体制の歴史に守られ安泰に暮らしていた平和よりいきなり放り出され、放浪の風雪に絶え間なく悲鳴を上げ、失われた日々への復帰のみをただただ願う望郷心でしかない以上、現実との乖離も著しい。
現実的だが経験と世知が足りぬ者。世慣れていても現実を見ようとせぬ者。一体どちらをして夢見がちと言うべきであろうか。
どちらも大して変わらぬと言わんばかりに、猫が尻尾をひと振りした。
(封地の約を反故にするからには。恐らく、代わりの所領があてがわれるのだろうが――)
すでに怒れる兵達の議題もそちらに移っている。これまで旧尼子勢にとって、拝領して二年になる因州鹿野はあくまでも仮の所領、暫定の恩賞として捉えられていた。これは出雲半国という大きな先約がある以上当然のことであったし、また、旧尼子勢が組み込まれた因幡衆も当たり前だが因幡出身の将士ばかりで構成されていた。拝領した因州鹿野は旧尼子勢には縁薄い土地であっても、かれら因幡衆にとっては故郷とも言える。預かったのは気多郡一万三千八百石のみで、因幡国全体からすればごく一部でしかないと言えど、そもそも故郷を失陥した悲しみを等しく抱くのが因幡衆である以上、あまり根を張りたい土地ではなかった。今も故郷を闊歩する毛利の侍どもと同じ所業に手を染めるわけにゆかぬ。
さて。そこへ来て急に、出雲半国は与えられぬとの掌返しである。憎き毛利ともいつの間にか和議を締結し、これより全軍で京へ帰還するとの御下知である。こうなると、出雲を指し一心に槍働きしていた旧尼子勢は立つ瀬がないのを通り越し、もはや行き場がない。
だからこそ、主君が一人だけで呼び出されたのである。我らが直面するだろう大きな落胆と嘆きを見越して、それに見合うだけの恩賞約束が新たに提示されるのだと思われたが、
(……和議の成立も早すぎ。撤収も、やけに急いでいる)
兵らは新たな恩賞が何処と示されるかを論じているが、重盛はそちらの方が気にかかる。
陣幕をめくり外を窺うが、物を運ぶ人足はいても、武装した兵の姿は見られない。
毛利勢の夜襲を警戒しているようには見えなかった。それどころか、ここより京まで長駆撤退しようというにも関わらず、殿軍の編成すら進めているようには見えなかった。
これが算を乱しての潰走でないのなら、よほど急ぐ行軍を予期しているとしか思えぬ。
(――そしてこの。何よりも急いでいるはずの陣中にてはじめる、足元固めよ)
羽柴藤吉郎秀吉はなるほど、人の機微に敏く、配下の扱いに長けた将ではあるだろう。離反しかねない掌返しをしてみせた手勢の一つへ、またいつものあの、おどけたような巫戯化た調子にて鋭鋒をなだめ、機嫌を取り、うまいこと再び忠を誓わせるくらいは苦も無くやってのけるだろう。しかしこれだけ京への転進を急いでおきながら、真っ先に部下の慰撫懐柔へ取り掛かるというのは、普段の用兵と異なり、らしくない振舞いにも見えた。
そう。普段の秀吉ならば、急いでいる折に発生した不満分子などは上手く言いくるめてその場へ捨て置き、去就に迷い動けぬのを利用して殿軍働きをさせたり、あるいは距離を置き頭が冷えた頃合に後詰を命じたりと、放置してうまく使い倒すのが常である。
(おそらく――主だった大身の何者かが。その足元を、脅かされた)
読みはどうしてもそこへ行き着く。誰かは知らぬが。おそらくは京師近辺にて、その謀叛の急報を掴んだからこそ。変わり身も素早き和議締結、京への全面撤兵、そして配下手勢の慰撫掌握とが、このように並行して行われているのであろう。
(同じ轍を踏むのは避けて十全に足元を固め。かつ、急ぎ転進するという事は……)
迫る事態は、ここで急げばまだ、いま一度ひっくり返し得るものなのかも知れなかった。
いや。あるいは既に――と考えかけて、重盛は思考を追い出すよう首を振る。
その先はどう考えた処で誰も幸せにならぬ話でしかなかった。
ふいに猫が両耳を立てる。ゆるりと振り向ける頭の先より、耳慣れた足音が響いてくる。
最後列の将士がどよめき脇へ退くと、生じた小広場へ陣幕をくぐり、若侍が歩み出た。
莞爾とした笑みを浮かべ皆を見回すは、本営より帰ってきた主君そのひとである。
帰還に気づき論議をやめ口を噤む将士らは、窺うような無言の視線を返すばかりだった。火薬めいた空気のなか主君へ向けられる視線は、実にさまざまな訴えを内包している。
ふと。主君は重盛へ、視線を留めた。
場にそぐわぬ笑顔のまま、この空気は何か、とあくまでも形式的にたずねている。
(お察しの通り。みな、約定破棄に激怒しております。……どうされるおつもりですか)
訊かなくても判ろう、と重盛は、困惑におのれの非難も上乗せした表情を返してみせる。
果たしてその返答をどう受け取ったものか。主君は変わらぬ笑顔のまま、ひとつ頷いた。
その顔はまるで、心配するな、何も案ずる事などない、と安堵させんとするかのようで。重盛としては内心、そんなわけがあるか、と反論せずにはいられない。
この場へ集った不平組の全員が、先程まで散々に不満を喚いていたその口を一斉に閉じ、帰陣した主の口より出る回答を待っている。不平も落胆も度合いはさまざま、望みに至ってはひとりひとり異なる。この重苦しい無言の問いに対し、主君は相当に慎重な答え方をせねば、怒り狂って陣を棄て野へ下る将士が大勢現れるやもしれぬ。まさに正念場である。
食い入るような目で主君の笑顔を見ていた磯江がちら、と視線を投げてよこした。本当にそのような、皆を納得させられる玉虫色の答えなど存在するのか、と疑う色である。
そんなものあるわけがない、と重盛は軽く顎を引いて返す。もっとも気勢を上げていた磯江は、怒れる将士の代表格として、主君の持ち帰ってきた答えに少しでも不満あらば、躊躇なくそれを表明せねばならぬ立場にある。
叔父の頷きを肯定と見たか。年若い甥が、心強い味方を得たような表情を浮かべた。
「皆の者。もはや出雲は帰せずと聞き、さぞ気を揉んだであろう。が――安心するがよい」
待て、誤解ぞと止める間もなく、主君は顔を引き締め滑らかに喋り出す。
「急な和議に転進、既に察する者も居るだろうが――京表にて明智日向守が謀叛。御館様、御世嗣様ともに身罷られた」
ざわ、と将士が波打つように揺らぐ。日向守謀叛、右府父子の訃報も十分な驚きではあったが、それ以上に重盛は慌てた。一大事の報をあえて伏せず、今ここで兵へ告げるとは。
「出雲の伐り取りどころではなくなった。ゆえ遠からぬ先、必ずや代わりの地を与えると慰留の約定を頂いたが。儂はこう答えた。――今逆賊を討ち滅ぼし給わば、必ずや天下を統一し給うべし。されば皇國の内へ望むべき地なし。願わくば、琉球を賜らば攻め取らん」
筑前守へ天下取りを奨めた、とあっさり語る主君を迎えるは引きつり笑いの面々である。
「ふたたび約定を反故にはせじと――これこの通り、天下の御墨付きを頂き申した」
主君は懐より光るなにかを取り出し、皆の目に見えるよう掲げてみせた。
『羽柴筑前守 六月八日 秀吉 亀井琉求守殿』
頭上に輝く黄金の団扇へ大書されているそれは、しかし実在せぬ官職名でもある。
空手形で御墨付き、と重盛は呆れるが、将士は具体的な恩賞に秀吉の本気を見たらしい。
天下、という言葉に将士の波がますます揺らぐ。重盛はひそかに若い兵らを見回した。主君の告白に驚く風体ながらその面には、獲物を狙う獣の目玉が二つ、炯々と輝いている。
御家の変事において野心を燃やすはなにも、謀叛を起こす側だけではなかった。机の上へ起き上がり、走る前の準備とばかりに伸びをはじめる猫を見やる。これまで織田右府は、虎視眈々と機を窺う駆虎どもを束ね、草深い田舎へ伏す狼を次々と丸呑みにさせてきた。
腕利きの猛獣遣いとて隙を見せれば、己があやつる獣の牙へかかるは必定の理でもある。
が。示された雄飛の機会より、老年の将士には見過ごせぬひとつの決断があったらしい。
「……琉球……。縁もゆかりもなき琉球国など得て。一体この場の誰が喜ぶとお思いか」
血を吐くような磯江からの問いに、唖然としていた中年以上の兵らが大きく頷く。
それもそうだ、と重盛も面を向ける。奇抜な提案でうまく筑前守の猜疑を切り抜けても、破られた約定は二度と果たされず、割を食うのも故地奪還の為戦い続けてきた将士たちだ。
怒りに震える掠れ声に、主君はまっすぐ磯江を見返した。その顔貌はどこまでも静かで、しかし唇からは何の弁解も紡がれることはない。
すぐ眼前でぶつかり合う両者の沈黙は、否応なく重盛の脳裏へ「われらが受け入れるべき大人の理屈」といったものを矢継ぎ早に突き付けてくる。
(一見、突飛な申し出にも見えるが――全軍で急ぎ京へ返す折にひとり「話が違う」と抵抗すれば、足手纏いと切り捨てられる。それがわからぬ新十郎ではない。ゆえ、謀叛の報に己が野心を思い起こす配下を恐れし筑前守の思惑を読み、国内に望む地なし、と先手を打ち。かつ望みなしと言えば怪しまれるゆえ、制外の琉球が欲しい、などと傾いてみせたのだ。忠義者だが変わり者、約定は反故としたものの謀叛の疑いなし、と、あの猜疑心の強い筑前守相手に身の潔白を証明してみせたのだろう。ここは黙って従うべきである)
抑えきれぬ無念を双眸より垂れ流し己が主君を責める老臣を、重盛は制止しようとした。
しかし先んじて、落ち着いた表情のまま口を開いたのは主君である。
「――天下をつくる」
主君が口にするのはきっと、頑迷な老臣へ突きつける現実であるのだろうと思っていた。
「……国を得たならば必ずや。天下を、つくる」
が。老い先短い忠臣に真正面から返したのは、先程の問いへの答えのようである。
皺口がまるで嘲笑うように、てんか、とその大望をなぞる。
「つい先ほど筑前守へ天下を奨めたその口で。……己が天下を握る、と仰るのか」
咎める口調に主君は、見当違いと言わんばかりの苦笑を浮かべた。
「磯江。それは天下を取る、というものだ。――儂は『天下をつくる』と言った」
動かぬ磯江の傍らで、重盛らは首を傾げる。一体何が違うというのか。
「では……誰も欲しがらぬ、遠地に所領を得。約を反故にされぬ天下を楽しめ、と仰せか」
磯江の言葉には隠せぬ口惜しさが滲んでいたが、主君はまたもやあっさりと首を振った。
「そちらは天下を分ける、というものだな。……磯江よ。天下をつくる、だ」
この場の誰一人として主君の言いたいことを理解できず、ゆえに誰も口を開かない。
「重ねてお尋ねする。天下をつくる――とは、はたして如何なるものか」
執拗な問いに、主君は面白げな表情で黙る。さてどこから説明したものか、という顔だ。
「我ら全員が浮沈のかかる、重大事なれば……曲げて。お答え願いたい」
答えぬつもりと見たか食い下がる磯江の言葉はすでに他人行儀で、主に対するものではなくなっている。気長に待てぬ老人へ、若い主は短慮な小児をなだめる視線を注いでいた。
「天下とは――この浮世。みなそれぞれに異なる望みが、ひとつの漏れもなく向かう先よ」
当たり前の事を言う主君に、言葉遊びを始めたかと疑うも、その語気はやや趣が異なる。
「……それを創る。天下さえ創らば即ち、ここに居る皆の望みも余さず叶うことになる」
意味がわからない。大風呂敷を広げるにしても現実味が無さ過ぎる。まるで悟ったような事をいう。坊主の大悟か、と重盛は呆れた。元服頃より禅に凝っていた主君は、もしや心の持ち様について言及しているのか。だとすれば――この状況下では悪手に過ぎた。
てんか、と再び繰り返す磯江の口端には明白な嘲笑が刻まれている。
「天下。それが在れば――故郷を取り戻し。昔日を取り戻し。草叢に伏す走狗ではなく、侍であった日々へと還り。再びこの胸に誇りを抱いて、悔いなく生きることができると。……そう仰せられるのか」
滅茶苦茶な要求に重盛は眉を寄せる。老兵らが望むのはいつも、望み得ぬものばかりだ。
「そうだ」
しかし、主君は迷いなく頷いた。
「――それをつくる」
まさかの全肯定という回答を得、本陣は水を打ったように静まり返った。しかしそれは、将の語る大言壮語に心うたれての沈黙ではなかった。語られた夢が到底信じられぬが故の、不信の沈黙ともいうべきものが、水面下へさざ波のごとく広がっているだけであった。
不意に響き渡る哄笑。顔を戻せば、天を仰ぎ愉快そうに笑っているのは当の磯江である。
「ご主君。お考えにつきましてはこの磯江、しかと理解しましたぞ。――ご主君は我らを憐れんでおいでだ」
何を言い出すのかと固まる一同へ、磯江は一転、皺顔を悲痛な色に染める。
「故地へ結ぶ夢は破られ。戦えば必ず敗北し。奪還の約定は反故にされ。先主勝久公をむざと敵中へ捨て殺しにされながらも、非情なる織田木瓜へ変わらず頭を下げ続け、空しくおのが命ひとつを繋いできた我らを。……ご主君はいたく、憐れまれておいでなのだ」
磯江、ちがうぞ、と静かに否定する主君の声は届かない。
「叶わぬ夢などすべて捨て去り、何もかもを忘れ、暖かい南国で傷を癒し暮らせばよいと。――そう、情けをかけておいでなのだ」
そう言い切り、磯江は深く息を吸い込んだ。重盛は次に来るだろう大喝に身を固くする。
しかし。馬鹿にするな、と叫ぶであろうと考えていた磯江は、突如顔を覆い泣き始めた。
「――なさけない。何よりも、儂はおのれが情けない。孫ほどの齢の己が主より、孫にすらかけられた方なき深情けを賜り。なお望みを果たし得ぬ、おのれで立てぬこの足が憎い」
おのれの太腿をしきりに拳で殴りつける磯江の姿に、取り囲む年嵩の将士らが傷ついたような表情を浮かべた。
みっともなく落涙で顔を濡らす磯江は、胴丸の懐より掴み出したなにかを地へばらまく。
「ここまで労って頂きながら。されど我が望みは叶わじ、と背く事がどうして出来よう。どうして、どうしてご主君の成す業を見届けず、いさぎよく死ぬ事が出来ようか」
泥土を吸い茶に染まる短冊類は、肌身離さず持ち歩いていた辞世の句のようであった。
「ご主君。この磯江、もはや何も言う事はございませぬ。――存分に縦横なされい」
指呼を待つ忠犬のごとく動きを止めた磯江に、周囲より磯江様、と悲痛な叫びがあがる。
不満反論の代弁者たる磯江が沈黙してしまえば、かれら中老年の将士に反駁の術はない。
残るは、年を取り過ぎたおのれの身一つを処し、離反の意を表明するのみである。
中央に陣取っていた皺頭達が無言のまま、ひとり、またひとりと背を向け、本陣より退出してゆく。去り行く背中を見送る主君の表情は、ここからでは窺い知れぬ。
やがて。不自然に中央に空洞のあいた本陣の、その中心へ。主君がひとり歩み出てゆく。
傍らに侍す老臣はもはや、頭を垂れる磯江のみである。
遠巻きにする牧ら若い兵からは、ぎらぎらとした視線が注がれている。
「――これより儂は琉球守を名乗る。亀井琉球守が忠良なる臣よ。撤退の準備にかかれ」
猫はすでに荷駄の上へと移り、寝息を立てていた。
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