天正二十年(1592)




* * *




 異国の城市の最奥、城郭部分の一角へしつらえた亀井紋の本陣幕を重盛がくぐると、中からは言い合いのような声が響いてきた。

 そもそも本陣直衛のはずの牧が立ち番に見えず、その牧はまたぞろ、部屋の奥で誰かと取っ組み合いをしている。

 またか、と肩を落としつつ重盛が近づいてゆくと、今度の相手は早合点の磯江ではなく、主君その人であった。さらには主君に組み付き押し留めようとしているのも牧ひとりではなく、磯江の姿までもが見える。もつれ合う三人へ重盛は声をかけた。

「外まで聞こえているが――いったい何の騒ぎだ」

 主君の腰へ取り付いていた牧が顔を上げた。

「信濃どの、信濃どのも殿をお止め下さい」

 その必死な声色に何が起きているのか改めて見直すが、やはり、軽装の主君がどこかへ出かけんとするのを重臣二人が止めている風にしか見えぬ。

 と、その主君の手に種子島が握られているのを認め重盛はぎょっとする。銃を手に出かけようとする主君を重臣らが必死に止めるなど、おおよそろくでもない事情に違いない。

「種子島など引っ提げて、一体何処へ行かれるのですか」

「――琉球と呼べ」

 携えた火縄銃を示しそう告げる琉球守に、重盛はげんなりとした顔になった。かつて槍の新十郎と呼ばれし名手も、近頃は戦場で専らこの銃ばかり用いていた。それも別に技が衰えたからではなく、種子島は琉球に近いゆえ、という理由である。験担ぎであった。

「……その琉球で何をされるおつもりですか」

「濃州、それがな――」

 主君の背へ貼り付いていた磯江が肩越しに何か言いかけたが、唐突に主君が笑顔になる。

「――今。重盛は、非常に良い事を申した」

 動きを止め両掌を打ち合わせた主君に、あ、と何かの始まりを察した三人が距離を取る。

 主の満面の笑みはいつもの教説開始の合図である。頭を酷使する時間の始まりであった。

「今重盛はこう申した。――種子島など引っ提げて、一体何処へ行かれるのですか、と」

 すでに何かを諦めたような捨目になる二人へ、重盛は諦めるな、と視線を送る。

「そして儂はこう答えた。――琉球と呼べ、と」

しかし二人より返ってくるのは、誰かが余計な事を言うから、という非難の視線である。

「そして重盛はこうも言った。――その琉球で何をされるおつもりですか、と」

 これ以上の言質を与えないよう、口を固く閉じたまま重盛は主君へと振り向いた。

「……わかるな?」

 してやったりという満足顔の主君であるが、いつも通り三人にはまるでわからない。

 だが誰もわからないとなれば次に飛んでくる質問はおおよそ予想がつくのだった。

「重盛。――琉球国には何がある?」

 いつもながらの曖昧で茫漠とした問いかけだが、その答えは用意していたため、重盛はすぐに答える事ができた。

「荻(おうぎ)ですかな」

「おうぎ?」

 顔を見合わせる二人のみならず、主君まで意外そうな顔をしている。答えを誤ったか。

「……琉球には沢山生えると聞き及びます。黍によく似た野草で、噛めば甘いとか」

 へえ、と三人は初めて聞いたような反応を示した。てっきりこの話を持ち出してくると考えて選んだ答えなのに、主君まで素直に感心しているのが重盛には若干腹立たしい。

 琉球を欲して琉球守を名乗るのに琉球のことを存外知らぬのはどういうわけか。

「で。その荻が何なのだ?」

 意図がわからないらしく何故か楽しげに尋ねてくる主君に、重盛はちらりと傍らの二人へ目をやった後、顔を戻して何かをこねるような手つきをして見せた。

 回転の速い主君はそれだけで得心が行ったらしく、ああ、と笑って手を打ち合わせる。

 もうかれこれ十五年も鬼退治を続けている。未だにそう考えているのはもはや、重盛と主君くらいしか居なかった。だから主君が唐突に縁もゆかりもなき琉球国など欲したのは、成果のあがらない長年の鬼退治も、珍しき甘い黍団子でもばら撒いてみせればきっと仲間も増え、目的地への長い長い迂回路を多少は早く駆け抜ける事ができると考えたからだろう。そのように重盛は主君の奇行を無理やり結論づけていた。考えを放棄したとも言う。

 が。今や主君の頭の中にあるのは、甘い黍団子を猫は欲するか否か、それだけであろう。

猫に魅入られて先導されし鬼退治はずっと、見当違いの処ばかりを旅していた。そうして寒いところが大嫌いな猫はついに暖かい国へ一行を誘おうとしている。重盛としては一刻も早く主君に目を醒まして貰いたいと願うばかりだが、しかし仮に目を醒ましたところで、主君の眼前へと戻ってくるのは、先君と義兄をいちどきに亡くしたあの暗闇だけだった。

 古傷を隠す磯江の胴丸へ視線を落とすと、老臣は怪訝そうに白髪眉を上げる。

 内面の傷など感じさせぬ笑みを浮かべる主君は、腰兵糧のあたりを叩いて言った。

「まあ、甘味も好みではあるがな。――琉球にはもっと、大きなものがあろう?」

 大きなもの、とは何だろう。三人はいつもの難題に首を傾げる。

 そもそも主君がこの異国まで猫を伴ってきたのも。もともとは、唐入りとの号令のもと命の通りに大規模な船手勢を仕立て、肥前名護屋にて諸将と大陸を睨む豊臣太閤のもとへ立ち寄り「かねてよりのお墨付き通り、しからば我らは琉球を陥として参ります」と挨拶だけして去ろうとしたところ「まあ待て」と引き留められ、本来の計画通りの第六陣船手勢へ組み込まれた為であった。侵攻の陣立てを組む太閤幕下の吏僚からしてみれば至極当然の対応であるのだが、引き留めがなければそのまま琉球へ乗り込んでいただろう。

 であれば本来、主君は琉球へ猫を伴うつもりだった。見た事のない柄を持つ猫、墨面を、その故郷である異国へと連れてゆくため船にまで乗せていたという事になる。となると。

「猫。――つまり、山猫ですか」

「一体何を言っておるのだ重盛は」

 主君のみならず他の二人まで、こいつ何を言っているのか、といった顔である。どうやら見当違いも甚だしい回答のようだった。重盛は羞恥に顔を背ける。

「――船。でしょうか」

「惜しい」

 主君の好みそうなものを答えた牧に、主君はむず痒そうな表情で振り向く。

「船にはもっと。大きなものが乗っていよう?」

 助け舟のつもりで主君は口にしたのだろうが、三人の謎はより一層深まるばかりである。

 磯江がこちらを見ている。船には当然ながら荷が乗っているがそれを素直に口にすればさきほどの誰かのように馬鹿にされる、とその顔には書いてある。重盛は渋面を返した。

「……朝鮮国、という事ですか」

「ううむ――向きは合っている」

 お、と二人で期待の眼差しを若手へと向ける。船に乗って手に入れに行くもの、という方向で牧は考え直したらしいが、主君の表情を見る限り、それでも答えへは遠そうだった。

「いや、よい。――儂の訊き方が悪かった」

 手を振る主君へは、訊き方が良かった事など逆にあったか、という視線が刺さっている。

「……おそらく。種子島を足掛かりに、手に入れるのが琉球であるのだろう」

 両島の位置関係的にも、事前の侵攻計画においても、まあ確かにそうなってはいた。

「すなわち。種子島に手を掛けて欲せんとするものこそが琉球、と言う事もできよう」

 手に持つ火縄銃の筒先をくいと上げ、そう得意げに種明かしをする主君ではあったが、その言わんとする処が判らない三人にとってはまったく種明かしになっていなかった。

「まあよい。百聞は一見に如かずだ。――ついて参れ」

 ついて参れと言われても。それを臣下達が止めていたのではなかったか。と重盛が思う間に、固まっていた二人が再び動き出し主君を止めにかかる。

「ご主君。出陣諸侯数あれど、そのような理由で虎狩りへ出る大将はまず居られませんぞ」

 背を取る磯江の制止に、虎狩り、と重盛は目を丸くする。それで銃を持っていたのか。

「先だっての、中川侯が鷹狩りを。もうお忘れになったか」

 中川右衛門大夫は出陣のさなか鷹狩りに興じ、野中に残兵の襲撃を受け討ち取られたとわざわざ御触れが回ってきた。今後は油断の討死に家督相続は認めぬとの注意付きである。

「――なに、加藤侯だか黒田侯だか忘れたが、あれも無事帰ってきておるであろう」

 黒田甲斐守が虎狩りに出たという噂も伝わってはいたが、あれは虎狩りというよりも虎退治という話であって、住民の陳情に応じた野獣駆除の趣が強かった。狩りとは異なる。

「これもまた、猛獣の跳梁に苦しむ民が為の義挙ぞ。そのやかましい口を閉じ供をせよ」

 それとも老いて臆したか磯江、と主君がいたずらっぽい笑みを浮かべると、磯江は盛大にどもりつつその皺顔を赤く染める。

 こうなるとおおよそ殿の背中についてゆくしかない、と、重盛は投了めいた視線を牧と交わした。そも、住民鎮撫という建前を出されて臣下に否やがあろうはずもない。

 しかし建前はさておき、急に虎狩りを思い立つ主君の真意は果たして奈辺にあるのか。重盛は後方、いつもの本陣机の上へ伸び広がる猫へ目をやった。猫はいつも通り、退屈そうな顔で寝るばかりである。そもそも重盛の憶測が正しければ、主君はこの灰猫の仲間を探すべく異国侵攻の陣中までわざわざ伴ってきたはずであった。確かに同じ模様の猫を大陸で見かける事は無かったが、探す手を止めていきなり虎狩りを始める目的は何なのか。

 種子島を担ぐ主君の背はひどく上機嫌そうに、重盛の知らぬ道を歩んでゆく。




 とうとう鬼退治ですらなくなった、と重盛は馬上の人となった主君の背を見て考えた。虎退治である。

 鹿狩りのごとく大勢の勢子を催して虎を追い立てる考えかと思いきや、主君は特に兵もあつめず馬廻も帰して四人連れのまま城門へと向かっていた。重盛としては肝が冷える。

 門そばの馬房に寄った主君は兵へ命じ、もっとも足の遅い馬一頭と、もっとも足の速い馬四頭を引き出させた。一行よりも馬の数が多い意図も判らぬ。重盛としては肝が冷える。

 そして、重盛ら三人の臣下へは足の速い馬への騎乗を命じながら、主君自身はなぜか足の遅い馬を騎馬と定めた。得意げな顔で堂々と乗っている。重盛としては大層肝が冷える。

 後方を追走しながら視線による戦いを繰り広げた結果、また重盛が進言する事になった。

「――殿。恐れながら、足の遅い馬ではいざという時逃げ切れませぬ。どうか御乗換えを」

「うむ。乗り換えよう。――だがそれは今ではない」

 何やら確信のあるような主君の力強い頷きに、重盛は冷汗を流すばかりである。早くも息切れする老馬は走るのさえやっとで、重盛らの駆る駿馬では簡単に追い抜きそうになる。

 両脇を振り仰げば、騎馬で追従する二人もすでに決死の覚悟を固めた顔となっている。

 牧が斜めに背負う長槍、鞘も着けぬ穂先は、馬の歩みに合わせ午後の陽光を跳ね返す。

乗馬の達者な牧は片手で駒を操りつつ、もう片手で空荷の駒の手綱も引いている。器用な芸当だがその顔に得意気な色はなく、猛虎を相手にこの一槍で果たしてどこまで主君の身を守り切れるか判じかねていると知れた。

 一方の磯江がぎこちなく胸へ抱えるのは御筒薬籠である。中に入っているのは火縄銃用の装薬であるが、例えばあまりにも暑い日などには勝手に弾け飛んだりする事もあって、主君が持筒をあやつる際に傍らへ侍す持薬役には細心の注意が求められるのが常だった。慣れぬ役を押付けられた磯江は、極力薬籠を揺らさぬよう馬上にひょこひょこ動いている。

 そして重盛が背負うのは主君と同じ火縄銃である。ただし主君の「琉球」とやらよりも一回り大きい、いわゆる大鉄砲と呼ばれるものを、結局用いなかった攻城用武具の山から選び持ってきていた。本来は地面へ据え使うものだが、重盛の膂力と体躯であれば無理やり立ったまま撃つ事も出来そうだ。だが馬上で使おうものならまず落馬は免れず、騎馬から撃つのはさすがに無理であろう。虎は異国にしか居らぬため書物でしか知らぬが、身動きはきわめて俊敏、人を恐れずその爪牙に掛ける害獣であると聞く。しかし獣である以上は大きな音や光、衝撃には驚いて逃げ散るはずと考え、重盛はこの殆ど大筒に近い大鉄砲を持ち出してきていた。臣下にとっては虎狩りの成功より主君の身の安全の方が大切なのは言うまでもない。

「――何か! 勇壮な調べでも、欲しいところだの!」

 四騎の疾走が奏でる鼓音に負けぬ大声を張りあげ、振り向く主君の口端には笑みが走る。

 きっと主君の脳内では異国の地にて虎狩りに興ずるおのれの姿が、さながら絵巻物の一景のごとく描かれているのだろう。であれば物語る法師と琵琶も欲しいところか、と重盛は呆れた。ひょっとすると遠い異国には狩りのさなかに楽を奏する流儀も在るのかも知れないが、こんなに派手に音を立てて走りながら狩りでもあるまい。獲物が逃げてしまう。

それとも主君は書物でしか知らぬような獣相手に、何か腹案でもあるのだろうか、と重盛が考えた時にそれは見えた。

 黄色くまばらな草原の彼方、ほの暗い竹林の合間。岩の上へ怠惰に座す、巨大な猫のごとき獣影が見えた。立てた耳は真っ直ぐにこちらを向き、裂けた瞳は薄闇の奥に爛と輝いている。街道からほぼ見えるようなこの場所へ野獣の跋扈する現状に、重盛は驚愕した。

危険な獣の接近をここまで放置するなど、いったい為政者はこれまで何をしていたのか。いや。もはや大胆な虎にとっては餌を見繕う感覚で、こうして街道そばへ出てきては道を見張っているのやも知れぬ。重盛は改めて、竹林に潜む虎の様子を窺った。

 岩の上という少し高いところから物見をする辺りはいかにも猫らしい。また、見にくい物陰へ潜むも猫の行いに等しい。ただしこれらは狩人の習いでもある。また、竹林の奥に身を隠せば弓矢鉄砲は撃ちかけにくく、加えて敵手が近づく前に遁走するも容易であった。

逆に、標的へ襲い掛かる際には林立する竹など障害にもならず、さながら鰻や猫のごとく柔軟に青竹の間を抜け、速やかに襲い掛かるのであろう。攻守に優れた陣地と言えた。

 賢い虎はこうして安全な城から物見し、餌を襲い、そして狩人から逃れてきたのだろう。

 重盛の目には虎が難攻不落の城で前足を垂らすようにしか見えなかった。だが、躊躇いなく虎の餌場へ馬首を向ける主君には、またしても異なる活路が見えている様子だった。

 虎が後腰を高く上げる。獲物へ躍りかかる猫の構えと同じである。牧の操る馬達が行く手の捕食者に気づいたか、悲痛な声と共に首を振り速度を殺した。ここまでか、と重盛は馬上で無理やりに大鉄砲を構える。馬の恐怖はほどなく伝染し、足を止め棒立ちとなる四騎めがけて、疾風のごとく虎が襲い掛かってくるはずである。

 その時、不意に主君が鞍から飛んだ。馬の尻を突き飛ばすように鞍から外れ、落下した主君はあやうく転びかけながらもそのまま大地を駆ける。身体の均衡を取るように広げた両腕へ制止され、後続の三騎は慌てて手綱を引いた。不平のいななきを漏らし立ち止まる馬達の眼前、主君の乗っていた馬だけが乗り手もないまま前へ走り続けてゆく。まさか虎に気づいておらぬのか、と重盛が目を見張れば、馬の目にはいつしか薄布が巻かれていた。

 竹林の奥、岩の上より虎の雄姿が消える。藪を抜ける音だけが響き、次の刹那には黄と黒の縞模様が青竹の隙間より飛び出し、無言のまま宙を駆け馬の喉笛へ食らいついた。

 驚愕と悲鳴も一瞬のこと、急所を噛み裂かれた老馬は一度体を硬直させたのち、力なく大地へその身を投げ出す。溢れ出す血潮に三色目の彩りを加えながら、馬の首に嚙みついたままの虎は油断なく前方の重盛らへ目をやり、そして遠雷のごとき唸り声を立てた。そのまま身を沈め、ゆっくりと後ずさりしてゆく。無論、馬の巨体は引きずったままだ。

 猛虎の前へ矮躯を晒す一将を、槍を構えた牧が背で庇い、続いて下馬した磯江が持筒薬籠を膝上に傍らへ滑り込む。が、主君は鋭く片手を挙げ動きを封じた。虎は一瞬びくりとしたものの、どうにか獲物を棄て逃げるには至らずに済んだ。虎の大きな瞳は眼前の人間達よりもむしろその手に持つ火縄銃へ注がれており、狩人の持つ銃の威力はよく承知している様子だったが、口中に広がる好餌の味にはどうにも勝てぬものらしい。

 血の轍を大地へ描き、一行を睨みつけながら馬体を引きずる虎の尾が竹林へと入った。そのまま尻が入り、胴が入り、しかし主君は手にした種子島を持ち上げようともしない。このまま逃げられてしまうのか、と重盛が危惧する間に、頭まで青竹の合間へ退いた虎のくわえる馬の巨体が、林立する竹に引っかかって止まった。当然、獲物をくわえる虎も、どれだけ力を込めて引っ張ろうとこれ以上は退がれなくなる。

 誰からともなく、見つめる一同の間より失笑が漏れた。狩猟に似合わぬ弛緩した空気が辺りへ漂う。いかにも獣の知恵、猫知恵よ、と重盛も口元に笑みが浮かぶのを禁じ得ない。目の前の獣が虎ではなく大きな猫に見えてくる。さてこの大きな猫は獲物を持って帰れないとなると如何にするのか。にやにや見守る一同の物見の先で、獣にも羞恥の感情があるのか、虎はより一層高い唸り声を上げ始めた。馬の首を千切って持って帰ろうとするも上手くいかず、やはり思い直して胴体ごと持って帰ろうと再度試みるも当然上手くいかず、困った虎は唸り声を立てるまま、目前で観察する一同を上目遣いで睨みつけるまま、なんとその場にて馬を食べ始めた。あまりの図太さ、大胆さに重盛はつい天を仰いでしまう。呆れたような牧の笑い声が聞こえてくる。磯江の深い溜息もそれに続く。最早三人からしてみれば、気を張るべき陣中にてもう見慣れてしまった、呑気な猫の所作そのものである。

 突如傍らより轟音が響いて、重盛は飛び上がった。主君を振り返ればちょうど、硝煙漂う銃口を下げるところである。その貌には戦場でよく見る無表情だけが張り付いており、重盛は己が死地に在った事をようやく思い出した。おこぼれに預かろうと竹林の奥から近づいていた他の虎達がぱっと逃げ散り、そして大きな何かが馬の亡骸へもたれかかる。

 顔を引き戻す重盛の眼前にあったのは、眉間へ大穴を穿ち倒れ伏す虎の姿であった。

四肢を痙攣させる獣より再び主君へ視線を戻すが、行動が唐突過ぎて理解が追いつかない。

磯江も牧もただ口を噤んでいる。駑馬を餌に虎を竹林より釣り出したのはわかる。猫を大きくしたような虎が、仕留めた馬を咥えて去ろうとし、竹に引っかかるのもまあわかる。そして運べないとわかった御馳走を前に、大胆で怠惰な虎が、何もしてこない人間を警戒しながらその場で食事を始めるというのも読めなくはない。だが。先程確かに、主君は重盛らと一緒になって虎を笑っていた。鋭い牙と爪を持つ優れた狩人でありながら、軽率で緊張の足りぬその振舞いを、陣中に飽く飼猫の姿に重ねて笑っていたはずだった。

 必ず見せるであろうその隙を待ち、必中の距離で虎を仕留めたのはわかる。

 だが知悉する猫の姿に重ねた相手の眉間を、好機と躊躇いなく撃ち抜けるものだろうか。

 急に距離が広がったように感じる傍らの甥を、重盛は遠い目で眺めやる。

(種子島を手に、躊躇なく仕留めるものこそ琉球であると言うのか)

 理由も知らぬまま渇望する琉球は、主君の中でどんな色彩を放ち魅了し続けているのか。物言わぬ虎は鮮やかな黄と黒を薄緑の大地へ重ね、今なお朱の血を流している。

 主君がこちらを見た。引き金を引く折の無表情ではなく、狩りの成果を誇る自慢顔でもなく、どこまでも真顔である。

「――重盛」

 重盛は弾かれたように銃を構え直すと、未だ全身を震わせる虎の頭蓋めがけ、止めの一発を撃ち込んだ。




 大陸へ渡ってこのかた墨面と同じような柄の猫をずっと探していた主君が猫探しをやめ、いきなり虎狩りを始めた理由はやがて知れた。出来上がってきた虎の敷物を、主君は墨面の縄張りたる本陣へと運び込み、その眼前で喜々として広げてみせたからである。

 異国の猫もどきなら親類の如し。絶対に気に入るであろう――そう考えていたらしい飼主の確信はしかし、全身の毛を逆立て敷物を威嚇する猫の怒声の前に脆くも砕け散った。

 落胆した主君はすぐ威嚇対象を片付け、やがて陣中にもその敷物を見かけなくなったものの、しばらくすると肥前名護屋の太閤より珍品献上への礼状が届いた。いわく、いつの間にか太閤へ献上されていたあの虎は、京都へ送られ、天覧の栄誉にまで浴したらしい。

 主君は種子島を手に狩りへと出たが、その猟果は琉球であるという。猫に仲間を見つけてやれる地を琉球と呼ぶのか、はたまた猿の野心歓心を満たし続けて辿り着く地を琉球と呼ぶのか。鬼退治の行列へ付き従うだけの重盛には、もはや想像できようはずもなかった。

 重盛の記憶が正しければ。主君が槍働きで手に入れんとするものについて語ったのは、十年前のあの時、ただ一度だけであった。

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